吸血鬼族は、『魔王の一族』を憎んでいた――。
ルゥから話を聞いたヴィクトリアは、夜、一人寝台の上で考え込んでいた。
(もし私が『ヴィンセント』のお生まれ変わりだと知ったら、ヴァージルさんは私のことを嫌うんだろうか。憎むんだろうか)
少なくとも、好意的な態度は取られないだろうとヴィクトリアは思った。
彼は今、一族からの期待を一身に受けている。
もしその彼が『グレイス』に関わりのある者を支持するなら、彼が後ろ指を差されることになりかねない。
それこそ、圧倒的な力を示して一族をまとめ上げるくらいでなければ、吸血鬼族の中で分断が起きるに違いない――。
(そもそも私を連れ去ったあの日、ヴァージルさんは何のために、あの場所にいたんだろう?)
ダン・モルガンのこともある。
吸血鬼族に対して、魔王として何らかの処置が必要なことは間違いないが、ルゥとヴァージルを引き離すことは、ヴィクトリアは避けたかった。
彼が罰せられる事になり、ルゥがこの場所に一人残されてしまったら、どんな仕打ちを受けるかわからないからだ。
『僕が知っているのは、御主人様がこれまでずっと、花嫁をお選びにならなったということ。そして今、御主人様はルイーズ様ではなく、花嫁様を選ばれたということ。――ただ、それだけです』
ヴィクトリアは、ルゥの言葉を思い出して頭を抱えた。考えるべきことが多すぎる。
「ああもうっ! 頭の中がぐるぐるする……!」
一人声を上げていると、枕の横においていた髪飾りから、落ち着いた声が聞こえた。
『ヴィクトリア』
「――……レイモンド!」
ヴィクトリアは、慌てて髪飾りを手に取った。
『そんなに大きな声を出すな』
すると、呆れたような声が返ってきて、ヴィクトリアは思わず髪飾りを前に頭を下げた。
「ご、ごめん。でも、レイモンドから連絡してくれるなんて珍しいね。あの後から何か分かった?」
『まあな。ただ、ことがことだ。デュアルソレイユの人間に、魔族のせいだと感づかれるわけにもいかないから、慎重に行っている。聞いた話によると、事件が起き始めたのは、ここ2ヶ月くらいのことらしい』
「……私がレイモンドたちと再会した頃、ってこと?」
『いや、それよりは少しあとだな』
ということは、カーライルが(勝手に)ヴィクトリアを魔王にする声明を他種族に送りつけた頃だろうか。
『それで、そっちの様子はどうだ? なにか変わりはあったか?』
「…………ルイーズ・モルガンっていう人に会ったよ」
ヴィクトリアは沈黙の後に口を開いた。
『ああ。例の『許婚』か』
レイモンドは当然のように言った。
「……って。え? なんでレイモンドが知ってるの!?」
『情報収集は俺の仕事一つだ。それに、今回のことが分かる前にも、一応俺の方でも吸血鬼族については調べてはいたんだ。カーライルが手紙を出した中で、認めないと最初に言ってきたのはあいつ等だったからな』
「じゃあ、反乱分子のあぶり出しをしてた、ってこと?」
『まあ、そうなるな』
自分を囲い込むためのカーライルの嫌がらせかと思っていたのだが、それなりに意味はあったらしい。
ただ、やはり同性ということもあり、ヴィクトリアはルイーズのことが気がかりだった。
「ルイーズさん、今日、私が困ってた時に助けてくれたの。でも、私は今は捜査のためとはいえヴァージルさんの『花嫁』って立場だから……」
おそらく、ルイーズはヴィクトリアのことを知らない。もし知っていれば、あの場所から逃がすはずがない。
(前世で、私はずっと誰かの『敵』だった。今回の人生では、できる限り私は、『敵』を作りたくはないのに……)
勿論、悪人には罰を与えるべきだとは思う。
だがルイーズは、言葉こそ悪かったが善人のようにヴィクトリアには見えたのだ。
『それは、アンタが気にすることじゃない』
ヴィクトリアが一人下を向いていると、相変わらずぶっきらぼうな声が、髪がざりから聞こえた。
『そもそも今の状況は、アンタの意思じゃなく、アイツが作り出したことだろ。だとしたら、アンタが責任を感じる必要はない。それに今正体をあかせないのにも、調査のためという理由があるだろう?』
「ごめん。私、昔のせいで、他人に嫌われるのに敏感になっちゃって。……『ヴィンセント』は、やっぱりみんなに嫌われてたよね』
昔のせいでどうしても、悪い方にばかり考えてしまう。ヴィクトリアが卑下すれば、沈黙の後に、真面目なな声が返って来た。
『……俺は』
(うん?)
『俺は――嫌いじゃなかった』
(……へ? え。あ。う、うわー! うわあああっ!?)
「れっ、レイモンドがそういうこと言うの、なんだか珍しいねっ?」
突然のレイモンドの言葉に、思わず顔が火照ってしまう。
ヴィクトリアは思わず、話をそらそうとそう尋ねていた。
『なんだ。俺にも普段から、あいつ等みたいなことを言ってほしいのか?』
「そういうんじゃないけど……」
レイモンドの得意不得意は、ヴィクトリアだってわかってはいるつもりだ。
ただ少し――レイモンドと関わりが薄くなるのが、ヴィクトリアは少し不満だった。
『言葉や態度なら、あいつらで足りているだろ。アンタはまだ敵が多いからな。俺の役目は、今のアンタがこの世界で生きやすいように動くことだ。話をするのが得意というわけでもないしな』
「でも私は、レイモンドとも、もっとちゃんと話をしたいよ」
『…………』
(あれ。なんだか沈黙が長くない!?)
ヴィクトリアは沈黙の中、自分の発言を後悔した。
話すのが苦手なレイモンド相手に、とんでもなく甘えた言葉を吐いた気がする。
「ごめんなさい。レイモンド。今のは気にしない――」
『………わかった』
しかし、長い沈黙の後に返ってきたのは、落ち着いた声だった。
『アンタがそう思うなら、俺はその願いを叶える』
「レイモンド……」
『アンタの魔法は俺には通じないが、それをアンタが心から願うというなら、俺はそれを叶えよう。――……ヴィクトリア』
(……その言い方は、ずるいよ)
いつもとは違う、名前を呼ぶ甘く優しい声。
ヴィクトリアは思わず胸に手を当てた。心臓の鼓動がうるさい。
『無効化』の力。
その力を持つレイモンドだからこその言葉は、静かに、けれど確かに、ヴィクトリアの心に刻まれる。
(レイモンドはやっぱり、言葉は少ないけど、私が喜ぶ言葉を選んでくれてるって感じがする)
それが嬉しくて、胸が高鳴ることは――もしかしたら顔が見えなくても、レイモンドには伝わってしまっているんだろうとヴィクトリアは思った。
(レイモンドは、そういう人だから)
その感覚が恥ずかしいのに、彼が自分のことを理解してくれているように感じて嬉しくなってしまう。
すると、ふ、と微かに笑う声が聞こえて、その後に彼はいつもの調子で言った。
『ルーファスに変わるぞ』
レイモンドの声のすぐ後に、ルーファスの声は響いた。
『陛下!』
いつもより必死な、高めの声。
普段にこやかに笑っているはずの彼が、珍しく焦っているようにヴィクトリアには聞こえた。
『陛下。あの男に、何もされてはいませんか!?』
(なんでだろう。カーライルのときにも感じたけど、やっぱり、ルーファスの様子がいつもと違う気がする)
「る、ルーファス……? どうしたの? 私は大丈夫だよ?」
『…………式の、ドレスを選ばれたと聞きました』
ルーファスは沈黙の後、低い声で言った。
「うん。採寸はしてもらったけど……」
(でも別に、本当に着るつもりはないし)
『花嫁姿の陛下は、きっとおきれいなのでしょうね』
「うーん。それはどうかな……?」
(結婚式までになんとか問題を解決して、とんずらしようとは思ってるけど……)
『陛下は、あの男をお選びになるのですか……?』
「……え?」
感情を押し殺したような声。
どこか暗い、陰のようなものを感じさせるルーファスの声に、ヴィクトリアは何故かぞくりと背筋が冷たくなるのを感じた。
そしてルーファスは、ひやりと冷たい色香を感じさせる声で、ヴィクトリアに尋ねた。
『あの男のほうが私より、陛下のお気に召したのですか……?』
もし『そうだ』と答えたら、まるで薄氷のように壊れてしまいそうな声だった。
でも、ヴィクトリアは『次期魔王』――ルーファス一人のために、行動を制限することはできない。
ルーファスの望む言葉だけを口にすることはできない。
ヴィクトリアは静かに、落ち着いた声で彼に尋ねた。
「……ルーファスは、なんでそんなにヴァージルさんのことが嫌いなの?」
何故ルーファスがこれほどまでにヴァージルを敵視しているかは知らないが、ヴィクトリアは二人には、出来れば和解してほしかった。
金色狼と吸血鬼族の仲が良くないことは知っているが、
ただ、元々リラ・ノアールに集められた子どもたち。だとしたら彼らは、幼馴染と言っても過言ではないはずだから。
「もしかしてヴァージルさんが、『ヴィンセント』の次の魔王候補だったから?」
『違います』
即答だった。
「じゃあどうして?」
ルーファスはその問いに、憎しみを込めた声で答えた。
『今のあの男は、手負いの獣とそう変わりません。それに、だって、だってあの男は――……』
「ヴィクトリア!」
だがルーファスのその声は、突然部屋に乱入してきたヴァージルによってかき消された。
「ヴァージルさん?! なんでこんな時間に――」
「夜分に申し訳ございません! 御主人様がお帰りになったので、今日のことを先程報告して……っ」
ヴァージルの後ろから、ルゥが息を切らしながらかけてくる。
「君は、怪我はしていないか?!」
部屋に入ってくるなり、ヴァージルはヴィクトリアの両腕を掴むと、前のめりになって尋ねた。
「は……はい。私のことは、ルゥくんが守ってくれました」
落ち着いた様子しか見てこなかっただけに、彼の動揺にヴィクトリアは少し驚いた。
(まさかこんな時間、ノック無しに入ってくるとは……)
それほど慌てていたということだろう。
ヴィクトリアの返事を聞いて、ヴァージルは腕を掴んだ手の力を緩めた。
「そうか――……。ルゥ」
はーっと深く息を吐くと、ヴァージルは自分の背後を見つめて尋ねた。
「お前も、怪我はしていないな」
「はい」
「そうか。……無事なら、それでいい」
ヴァージルは安堵の笑みを浮かべると、優しい声音で言った。
「君も、ルゥもだ」
(やっぱりヴァージルさんは、ルゥくんに優しい)
ヴィクトリアはそんな彼が、卑劣な行いをしているとは思えなかったし、思いたくもなかった。
(私、やっぱりちゃんと知りたい。……事件の真相を知るためにも、もっと、ヴァージルさんのこと)
「ヴァージルさん。お願いがあるんです。明日《あした》、私にこの城を案内してくれませんか?」
目と目が合う。
ヴァージルは、ヴィクトリアの真剣な眼差しを見て、静かに頷いた。
「――わかった。城の中をまわりたいなら、明日《あす》、私が案内しよう」
「じゃあ僕は、ここでお留守番していますっ!」
翌日、ルゥはヴィクトリアとヴァージルの背を、満面の笑みで見送った。
ヴィクトリアは、期待に目を輝かせるルゥの視線に、少しだけ気疲れしていた。
『今日はとびきり綺麗にしなくては!』
朝、いつもより早く部屋にやってきたルゥは、張り切ってヴィクトリアの朝支度を始めた。
顔も髪も服も、『初めての御主人様と花嫁様のデート』をもり立てるため、彼の瞳は燃えていた。
『花嫁様、こちらのドレスはいかがでしょうか?』
ズラッと並べられたのは、様々なドレス。
ルゥは突然連れてこられたヴィクトリアのために、夜なべして元々城にあったドレスのサイズを直したり、ヴィクトリアに似合うようにと直していたらしい。
因みに先日式のドレスの採寸を行った際、普段づかいのドレスは別に注文中とのことだった。
(そらにしてもルゥくん、意外と? 胸のでる服をすすめてくるんだよなあ……)
吸血鬼族の服が妖艶な物が多いせいかもしれないが、動きやすさを重視するヴィクトリアからすればなぜそこにこだわるのか理解できなかった。
結局、ヴァージルが用意した部屋の趣味の話をルゥにして、黒を基調にした淑女風のドレスをヴィクトリアは選ぶことになった。
続いては髪である。
髪型については、ルゥは片方に髪を寄せることを譲らず、ヴィクトリアはゆるく髪を編んでから、肩より前に髪を下ろすことになった。因みに髪には、今朝摘んだばかりの小さな花が編み込まれている。ドレスが黒ということもあって、白い花は文字通り花を添えていた。
(ルゥくん……。首筋が出る髪型、狙ってやってることじゃないよね?)
吸血鬼族を前に首筋をさらすなんて、まるで血を飲んでほしいとアピールしているようなものである。
(ある意味、ドレスよりヴァージルさん相手だとこっちのほうが恥ずかしいかもしれない……)
ただ、『御主人様好み』に仕上げたいというルゥの願いを否定する事もできず、ヴィクトリアはルゥにされるがままを受け入れるしかなかった。
そのためか、今のヴィクトリアの装いは、『花嫁』というよりは『貴婦人』という表現のほうが似合っていた。
「その髪と服は、ルゥが準備したのか?」
「はい」
「よく似合っている。綺麗だ」
ふ、と優しくヴァージルは微笑む。
(なんだろう。すっごく照れる…!)
「あ、ありがとうございます……」
(ヴァージルさんの言葉って、不思議と嘘がないって感じがして、心臓に悪い……!)
カーライルは基本嘘吐きである。
レイモンドはヴィクトリアの望む言葉を返し、ルーファスはヴィクトリアであればなんでもいいという考えなので、彼の言葉は実はあまり当てにならない。
そんな三人ばかり見てきただけに、ヴァージルの見目の印象とは違う『素直さ』に、ヴィクトリアは新鮮さすら感じてしまっていた。
「では、行こう」
ヴァージルはそう言うと、ヴィクトリアに自分の腕に手を回すよう合図した。
ヴィクトリアは、気恥ずかしくて視線を一度下に向けてから、彼の腕に手を回した。
薄幸な美形という顔立ちもあって、ヴィクトリアは彼はあまり筋肉はつかないたちなのだろう思っていたが、実際の彼の腕は、ヴィクトリアの想像よりずっと硬かった。
(ヴァージルさん、ルーファスたちとそう年は変わらないんだろうけど、なんだか落ち着いていて『大人』って感じがする)
魔族であるヴァージルの身長は高い。
元々人間の男と比べて、強い力を持つ魔族の男は、体格がいいものが多いのだ。
人間の男や、ダン・モルガン程度ならヴィクトリアも簡単に対抗できるだろうが、流石にヴァージル相手では、魔法を使わなければ逃げられないかもしれないとヴィクトリアは思った。
(しばらく魔力を補給出来てないから、『強化』は使えてあと一回……)
リラ・ノアールにいれば、主にルーファスやカーライルが日常的に魔力補給の名目で手に口付けたりしてくるが、ヴァージルからはそれがないために、貯蓄した魔力は目減りする一方だ。
『ヴィンセント』時代のように、今のヴィクトリアは自分の意思で魔力のコントロール出来ない。
(とはいえ、ヴァージルさんに補給してもらうのは色々問題なんだけど……)
一応、今のこの城での自分の身分は『花嫁』なわけで。
『未来の夫(仮)』にねだる(物理)のは、色んな意味でまずいだろうとヴィクトリアは頭を抱えた。
――それに。
『今のあの男は、手負いの獣とそう変わりません。それに、だって、だってあの男は――……』
(ルーファスのあの言葉、どういう意味だったんだろう?)
ルーファスの言葉も、ヴィクトリアは少し気になっていた。
(ヴァージルさん、すごくまともそうに見えるけど……)
少なくとも、魔王城の魔族の三人と比べると、(連れ去り事件以外は)割と紳士的だ。
服の趣味も幼女趣味ではないし、幼い子ども相手に優しいところも好感が持てる。『花嫁』が傷つけられたと聞いて心配してすぐ駆けつけるところも、他者に対する愛情の深さという点ではいい人だとしか思えない。
勿論だからといって、彼の本物の『花嫁』になるかは別の話だが。
「さっきから黙って、何を考えている?」
「い、いえ! 大丈夫です」
ヴィクトリアは慌てて返事をした。
ヴァージルは、少し心配そうにヴィクトリアを見つめていたが、困ったように嗤う彼女に、それ以上追求はしなかった。
「まずはこの城について説明しよう。この城は、魔王城リラ・ノアールより、古い歴史を持つ建物だ。セレネの建築物の中で、最も古いと言っていい。外壁はすべて、貴重な魔晶石で作られている。この特徴を持つのはセレネで、こことリラ・ノアールだけだ。城には侵入者を排除するため仕掛けがあり、たとえば正しい文様をなぞることで扉が開く場所もある」
ヴァージルは、歩きながら城の説明をした。
「この城は代々、吸血鬼族の当主とその妻、そして使用人たちが暮らしている。使用人たちは、主にコウモリ族だ。先代当主には五人の妻がいたため、彼女たちの世話をするために、以前は侍女として他の吸血鬼族も住んでいた。だが今は、すべて自分の屋敷へと帰らせている」
「……五人の妻?」
ヴィクトリアは思わず聞き返していた。
「ああ。先代は俺と違って、『花嫁』は必要無かったから。血を吸う相手を選べる場合、吸血鬼族は負担を減らすためにも複数の妻を娶る。先代もそうだった」
「……」
「だが――……俺の『花嫁』は、君だけだ」
まるで眩しいものでも見るかのように目を細めて微笑まれ、ヴィクトリアはどきりとした。
(ヴィ、ヴィクトリア。何考えてるの! 今貴方は潜入中なのよ! こんなことで動揺してどうするの!!!)
人間の世界で、『ヴィクトリア』として生きていたときは、妻は一人が原則だったが、セレネの魔族はそうではない。
強い力を持つ者や魔族の体質によっては、複数の伴侶を持つこともよくあることだ。種族の長である場合はなおさら。
元々カーライルは、蜘蛛の一族の『最高傑作』とまで言われていた。それは当主がより強い子孫を作るために、意図的に『配合』した結果とも言える。
(異なる種族の血が混じり合うことで、より強い子どもが生まれることもある。魔族と人間の子どもだった『ヴィンセント』がそうであったように)
ヴァージルだって、本来であれば複数の妻を迎えてもおかしくはないのだ。そして彼ほどの男なら、魔族の女なら喜んで身を差し出すだろう。
それはまさしく、『夜の王』の名に相応しく。
(……妙なことを考えてしまった……)
彼が吸血鬼らしく、女性たちの首筋に牙を突き立てる様を想像して、ヴィクトリアは頬を染めた。
(唇同士の口づけとは違うのに、吸血行為を想像すると恥ずかしくなってしまうのは、自分の弱い場所を晒して、命を握られた状態で血を吸われるからなのかな……)
あとは、相手の唇が自分の肌に触れるからだろうか――なんて考えて、ヴィクトリアは頭を振った。
吸血行為が、首筋への接吻だと思ったら、途端に恥ずかしく思えてくる。
(しかも、この格好だと、それを待ってるみたいなわけで……!)
『花嫁様』と可愛く呼ばれると何でも許したくなってしまうが、ちゃんと拒否すべきだったとヴィクトリアは少し後悔していた。
……真面目そうなヴァージルは、律儀に約束を守って式までは血は吸わないだろうが、ヴィクトリアは落ち着かなくてしょうがなかった。
「ついたぞ」
ヴァージルが最初にヴィクトリアを連れてきたのは、城の図書室だった。
ヴァージルが扉の文様にいくつか触れると、自動的に扉が開いた。
「ここが図書室。吸血鬼族の歴史についての本などもここに収められている。セレネにおける書物の保管は、種族ごとでも行っているが、種族の平均的な寿命や能力、住まいなどの問題もあって、蔵書量としてはそこまで多くない。建物自体には歴史があるが、ここよりあとに作られた、リラ・ノアールの魔王城や、長命種が管理する『時の塔』と呼ばれる建物のほうが蔵書量は多い。まあ、吸血鬼族の系譜については、十分取り揃えてはいる」
魔王城に本が多いのは、主に『ヴィンセント』のせいである。
『時の塔』とは、いわばセレネの歴史の保管庫で、その塔がある場所で争いを起した場合、想い罰が下されるという法がある。
塔の管理は、長い者は五千年ほど生きたとされる長命種によってなされ、彼らが管理する情報は、数千・数億年ものあいだの、空に浮かぶ星の記録にまでにわたるとされる。
つまり、並みの寿命では管理できないのだ。
「ここは宝物庫。ここには、吸血鬼族の宝がおさめられている」
次にヴァージルがヴィクトリアを案内したのは、城の宝物庫だった。
図書室も蔵書の管理のためか少し暗くはあったものの、宝物庫のほうが何故か一層暗く、重々しい空気まで漂っていた。
ヴァージルは宝物を前に、真顔で丁寧にヴィクトリアに説明した。
「これは人を入れて血を絞るために使ったとされる中が空洞の女性の像、これは中に人を入れて火にかけたという雄牛、これは――……」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
ヴィクトリアは慌ててヴァージルの言葉を遮った。
「これが宝物!?」
「ああ。一応、この城での宝物扱いになっているものだ」
ヴァージルは冷静にこたえた。ヴィクトリアは頭痛がした。
(どう考えても悪趣味が過ぎる……。吸血鬼族は、一体何を考えているの?)
「どうした? 下を向いて。君がこの城を案内してほしいといったんだろう?」
「確かに、そうは言いましたけど……」
その言い方は少し意地悪だ、とヴィクトリアは思った。
これではまるで、城の怖さがわかったなら、自分が居ないときに出歩くなと釘を差されたようなものではないか。
「――恐ろしいか?」
「えっ?」
「こんなものを宝物だと言う、吸血鬼族が恐ろしいかと聞いたんだ」
『ヴィンセント』の記憶のあるヴィクトリアからすれば、目の前の拷問器具は特段恐れるほどのものではない。
動く食人化イーズベリーに比べたら、動かないだけまだ可愛げがあるというものだ。
「……ヴァージルさんは、これ、私にも使います……?」
沈黙の後ヴィクトリアが尋ねると、ヴァージルはすぐに首を横に振った。
「いや、それはない。『花嫁』に対して使うはずがない。それに、私は血は好まない」
「『血を好まない』?」
ヴィクトリアは思わず言葉を繰り返していた。
そんな吸血鬼、この世界にいるのだろうか?
「ああ。吸血鬼族はかつて多くの他種族を虐げたが、それは強者の振る舞いではなく蛮族の行為と変わらないと私は考えている。己を律することができず、ひたすら血を求めるのは、それはもう、ただの獣か化け物と同じだ」
「ヴァージルさん……」
ヴィクトリアはつい、ヴァージルの言葉に感激してしまった。何故ならヴァージルの言葉は、ヴィクトリアが願う魔族の姿そのものだったからだ。
強い力を持とうとも、力に溺れず、己を律して生きる。
暴力上等、下剋上上等のセレネで、ヴァージルと同じことを言える力を持つ魔族が、どれだけ存在しているだろうか。
(やっぱりこんな人が、人間を襲うためにデュアルソレイユに行っていたなんて、あんな事件を起こすなんて考えられない。……でも、そしたら余計にわからない。なんでヴァージルさんは、あの日、あの場所に居たんだろう?)
デュアルソレイユで事件が起き始めたのは、ヴィクトリアを魔王にすると、カーライルが手紙を出してから。
だとするとそこに、彼が禁を犯した理由はあるのかもしれない。
「ヴァージルさん。貴方はこの世界の、魔王になりたいとお考えですか?」
ヴィクトリアの問いに、ヴァージルは目を瞬かせた。
「? ……君は、ルゥから何か聞いたのか?」
「はい。ヴァージルさんが次期魔王候補で、貴方を魔王にするために、本当はルイーズさんを花嫁にする予定だったと」
「そうか」
「ヴァージルさんはルイーズさんのこと、ずっと、どう思っていたんですか?」
ヴィクトリアのその問いに、ヴァージルは珍しく返事に時間をかけた。
「……彼女では、駄目なんだ。それに、誰が魔王になろうと、今のセレネでは衝突は避けられない」
「『衝突』?」
「これまでのセレネは、誰もがグレイスの血を引くものが王になると考えて疑わなかった。勿論昔から反抗し、反逆を試みる者もいたが、魔王の血筋を尊ぶ輩も多かった。だがその存在が失われた今、誰が魔王になるか――五〇〇年の空位を埋めることのできる存在を決めるのは、容易なことではない。まあ正確に言えば、それに相応しいはずの男が、王になろうとしなかったせいでの混乱ともいえるが」
ヴァージルのいう男は、間違いなくカーライルのことだろう。ヴィクトリアは黙って、ヴァージルの話に耳を傾けた。
「だがその男が、最近一人の魔族を魔王に据えると言い出した。種族、年齢、性別、名前一切不明。だが『古龍』を倒したというから、その実力は本物だろう」
ヴィクトリアが古龍に手をかけたのは大切な人を守るためであって、実力を示すためではなかった。
だが確かに、『魔王候補』の実力を示すために、これほど相応しい話はないだろう。
「私が魔王に名乗りを上げようと上げまいと、初代様の血を引かない者が魔王となるというなら、他種族から我こそはと名乗りを上げるものも出てくることは容易に想像できる。そうなれば、『衝突』は避けられない」
「その『魔王候補』に、戦う意志がなくても?」
「本人の意思は関係ない。戦う理由は、戦いを挑む側にあるのだから。そうなればセレネにまた、混乱の世が来るかもしれない。もしその魔王候補に、事態をおさめるだけの力がなければ」
「……」
「セレネにおいて魔王は、強者でなくてはならないのだ。誰よりも強い者が、王でなくてはならない。そうでなければ、より多くの血が流れる。……だから私は、そのためなら――……」
その続きを、ヴァージルは言わなかった。
ただヴィクトリアには、なんとなく彼が言いたいことはわかってしまった。
ヴァージルはセレネに血が流れることを望んでいない。彼自身に、魔王になりたいという意志はない。ただ争いを止めるためなら、彼は自分が魔王になるということも、選択の一つにするのだろう。
――でも。
「私は、争いは嫌いです。私を育ててくれた人の中には、戦争で亡くなってしまった人もいます。私は血が嫌いです。傷つけ合うことが嫌いです。私はもう二度と、誰も失いたくはない。……それに」
『ヴィクトリア』としての人生の中で見たこと。
それは支配する側ではなく、支配される側にとっての戦いだった。
「最初に傷つくのは貴方ではなく、きっと、他の弱い誰かなんです。そして争いの末、強者が頂点に君臨できたとしても、その周りにいる者たちは、常にその命を狙われることになる」
『白色コウモリ』であるルゥは、ヴァージルが魔王になった時、彼の弱点になることは目に見えている。
そうなれば、ヴァージルに敵意を持つものによって、ルゥどんな目に合うかわからない。
そしてルゥの身に危険が及べば、ヴァージルの心がどうなるかはヴィクトリアには少し予測できてしまった。
『ディー・クロウ』を失ったときの心の痛みを、今でもヴィクトリアは覚えていた。
(多分魔王には、魔王の大切な人を守れるだけの力を持つ者たちが――魔王には及ばずとも、それに匹敵するだけの力を持つ側近が必要なんだ)
その条件を、今のヴァージルは満たしていない。
『先祖返り』が一人だけの吸血鬼族は、カーライルたちを味方に持ち、なおかつ『ヴィンセント・グレイス』の力を使えるヴィクトリアに勝ち目はないのだ。
(ルゥくんのこともある。私だって、ヴァージルさんと争いたくはない)
ヴィクトリアは黙って、ぎゅっと拳を握りしめた。
そんな彼女の様子を見て、ヴァージルは静かに目を伏せてると、再び優しく微笑んで、彼女にてを差し出した。
「最後にもう一箇所だけ、君に見せたい場所がある」
「わあっ! たくさん咲いていますね!」
ヴァージルがヴィクトリアを最後に案内したのは、一面白い花の咲く場所だった。
「……すごく綺麗」
白い薔薇の花。
それはリラ・ノアールの赤薔薇よりずっと、それはヴィクトリアの瞳には美しく映った。
「気に入ったか?」
「はい」
赤ではなく白であるところが、特に。
ヴィクトリアの返答の後、ヴァージルは何故か、ヴィクトリアの髪に触れた。
「え?」
するりと紙紐をほどかれる。
ヴァージルは、ヴィクトリアの髪にそっと手を差し込んだ。
編み込まれた髪がほどけて、ルゥが髪に挿してくれた白い花は、ぽとぽとと地面に落ちていく。
(ど、どうしよう……)
癖がついてゆるくウエーブのかかった髪が、頬に当たって少しくすぐったい。
ヴィクトリアが困惑していると、ヴァージルは白い小さな花の代わりに、大輪の白い薔薇の花をヴィクトリアの髪に挿した。
「やはり君には、白が似合う」
「……っ!」
ヴァージルはあまり、多く話さない性質《たち》のようにヴィクトリアには見えた。表情も、普段はそう変えない人だろう。
だが自分を見る彼の瞳は、日に日に優しくなるばかりで――ヴィクトリアはそんなヴァージルに、少しずつ絆されてしまっている自分に気がついた。
(白が似合う、なんて)
『ヴィンセント』の世界はいつも黒と赤で染まっていて、そんな優しい色は存在していなかった。
(……私、つい『嬉しい』って、思っちゃった)
少しだけ赤く染まった顔を隠すため、ヴィクトリアはヴァージルに背を向けた。
「この花、誰が育てたんですか?」
「これは、私が育てたものだ」
背後から静かに声が返ってくる。その声が、ヴィクトリアは嫌いではなかった。
――……ただ。
「『ヴィンセント』」
突然昔の名前を呼ばれて、ヴィクトリアは思わずぴたりと体の動きを止めた。
「…………えっ?」
「それが――この花の名前だ」
ヴィクトリアは振り返ってヴァージルの瞳を見た。
心の中で、何かがひっかかる。
彼にそう呼ばれるのは初めてのはずなのに、ヴィクトリアは妙な既視感に襲われた。
「……どうしてその名前を?」
声が震えないように、ヴィクトリアは精一杯、低い声でヴァージルに尋ねた。
「……それは」
すると、ヴァージルは答えを口にしない代わりに、どこか寂しそうに目を細めて、ヴィクトリアを見つめた。
(どうして……。どうして貴方は、そんな目で私を見るの?)
ヴィクトリアは胸をおさえた。
吸血鬼ならば、『ヴィンセント』に敵意を出してもおかしくはないはずなのに。
わからない。
その目を見るたびに、何故か胸がざわつく理由も。
「わっ」
その時だった。
急に風が吹いて、ヴィクトリアの長い髪はふわりと宙に舞うと、薔薇の茨に引っかかった。
「いたっ!」
髪が引っ張られ、ヴィクトリアが乱暴に髪を外そうとすると、ヴァージルはすぐに彼女のそばに駆け寄って、その手に自身の手を重ねた。
「私がやろう。今、ほどいてやる」
白くて大きな手が、再び髪に触れる。その時首筋に指が掠めて、ヴィクトリアは目をきゅっとつぶった。
(て、手が……っ)
「ヴィクトリア?」
ヴィクトリアが体を強張らせると、不思議そうにヴァージルに名を呼ばれ、ヴィクトリアは瞼を押し上げた。
(うっ)
視線が交差する。
黒曜石のような瞳に映る自分の姿は、『魔王』ではなく、まるでただのか弱い少女のようだった。
「あ、ありがとうございます。あとは自分でやります」
そんな自分に慣れなくて、ヴィクトリアは自分の髪へと手を伸ばした。
だがその瞬間、彼女は鈍い痛みに襲われた。
「痛っ」
薔薇の棘が、指に刺さって血が滲んだ。
するとヴァージルはいきなり強い力で、ヴィクトリアの手首を掴んだ。
「ゔぁ、ゔぁーじる、さん……?」
ヴィクトリアは驚いた。
痛みを感じるほどの力を彼に与えられなんて、想像もしていなかったからだ。
だが自分の手を掴んだ男の、その瞳の色を見て、ヴィクトリアは大きく目を見開いた。
(瞳が、金色に光ってる……?)
長い黒髪に金眼。漆黒の闇と月。
それは『夜の王』と吸血鬼族が呼ばれていた遠い昔、頂点に立っていたとされる男の姿とよく似ていた。
(『先祖返り』って、こういうことだったの……?)
てっきり、黒髪というだけでそう呼ばれているのかとヴィクトリアは考えていた。
金の瞳を輝かせる今のヴァージルは、まるで違う男のようにヴィクトリアには見えた。
(もしかして、今の彼は自分の行動を律することができていないの? ……こんなの、私の知ってるヴァージルさんじゃない!)
ヴィクトリアはヴァージルから離れようと腕に力を込めた。しかし強い力で掴まれた腕は、ピクリとも体は動かなかった。
ヴィクトリアを見つめるヴァージルの瞳は、被食者を見つけた獣のように輝いていた。
(違う。こんなの違う!)
静かに、穏やかに笑う人。ルゥを見つめる優しいヴァージルの瞳を頭に思い浮かべて、ヴィクトリアは再び抵抗を試みた。
だがヴィクトリアの意思に反して、ヴァージルはもう片方の手をヴィクトリアの腰に手を回すと、ぐいっと彼女の体を引き寄せた。
そしてヴァージルは、クッと抵抗できないヴィクトリア嘲笑うよな笑みを浮かべると、ヴィクトリアの首筋に唇を近付けた。
熱い吐息が首筋にかかる。
獣じみた声が、耳のすぐそばから聞こえる。
「……や、やだっ!! ヴァージルさん、ヴァージルさん!!!」
『今』のヴィクトリアでは、ヴァージルに抵抗できない。
ヴィクトリアは仕方なく、最後の『強化』の魔法を使い、彼の体を強く押した。
その瞬間、ヴィクトリアの髪に挿した花が地面に落ちた。
「? 俺は、今――……」
ヴィクトリアに突き飛ばされ、我に返ったヴァージルは、頭を抑えながらよろめいた。
そして地面に落ちた『何か』を踏んだ彼は、その正体を見下ろして、大きく目を見開いた。
白く美しかった大輪の花は、今は潰れて土がついていた。
「…………ッ!」
地面を確認した後、すぐに顔を上げたヴァージルは、自分を怯えた様子で見つめるヴィクトリアを見て、さっと青褪めさせた。
瞳を隠すように片手で覆うと、彼は何故か、泣きそうな声で言った。
「……すまない」
ヴァージルはヴィクトリアから顔を背けると、いつもと同じ落ち着いた声で、自分を慕う子どもを呼んだ。
「ルゥ。そこにいるのだろう?」
「は、はいっ!」
すると、そばの草むらから、ルゥがぴょこっと顔を出した。
「私はこれから部屋に戻る。……彼女は、お前が部屋まで送ってくれ」
ヴァージルはルゥに命じると、再びヴィクトリアを見ることなく背を向けた。
「それでは、行きましょう。花嫁様」
「うん……」
ルゥはにっこり笑って、ヴィクトリアの手を引いた。
部屋に戻る途中、ヴィクトリアは、一人部屋とは反対の方向へと向かうヴァージルの姿を頭に浮かべて、何故かルーファスの言葉を思い出していた。
『今のあの男は、手負いの獣と変わりません』
昨日までは晴れていたはずなのに、今日は生憎の雨だった。
「それでは、花嫁様。こちら置いておきますので、今日はお部屋でお過ごしください」
「うん。ありがとう」
図書室から本を運んだルゥを、ヴィクトリアは見送った。
「よいしょっと。いろいろ借りてきたし、今日は一日これを読むとしよう」
積み上げられた本を手にソファに座る。
『花嫁』という立場を利用するのは正直心苦しいが、これも全てセレネとデュアルソレイユの平和のためだ。
(ヴァージルさんの金色の瞳のこととかも、やっぱり気になるし)
『吸血鬼の花嫁』
『月と太陽』
『血の克服とその配合』
『血の系譜』
……などなど。
題名《タイトル》がいささか不穏なものも混じっている気もするが、気にしないこととする。
ヴィクトリアは、早速本を読むことにした。
本には、このようなことが書かれていた。
【吸血鬼の一族は、月の世界セレネで、『夜の王』と呼ばれていた。吸血鬼の一族は『花嫁』を選び、その血を飲むことで能力を強化することができた。】
この話は、ヴィクトリアも知っているものだった。
【夜光歴二十二年。ルチア・グレイスは、『五家』のうち四家の庇護を受け『魔王』として即位した。蜘蛛族『グレイル家』・龍族『ロン家』・金色狼族『アンフィニ家』・黒烏《こくう》族『レイヴン家』をはじめとした力ある一族は、王配として彼女を支えた。】
『夜光歴』――現在もセレネの歴史は、ルチア・グレイスの誕生から数えられる。
リラ・ノアールにも残る記録によれば、ルチア・グレイスには四人の夫がいたとされる。
当時、魔界セレネには、五人の大きな力を持つ種族とその当主が居り、吸血鬼の一族にコウモリ族が従属するように、強い力を持たない魔族の多くは、彼らに忠誠を誓う代わりに、庇護を受ける関係にあった。
広いセレネの中で彼らは別々に暮しており、それぞれの『当主』たちは、『中立』・『友好』、もしくは『敵対』の関係にあった。
そんな彼らをまとめ上げ、中心にいたのが『ルチア・グレイス』だったとされる。
彼女は吸血鬼の一族を除く四人の当主たちの求婚を受け、全ての当主を平等にあつかうことを約束した上で、セレネの魔王となった。
ルチア・グレイスは、当時のセレネにおいて唯一『同種』を持たない存在であり、『彼女の血を引く者がセレネを統べる』とまで言われていたとされていたため、彼女の即位と結婚は、セレネを混乱させないための処置でもあった。
【『五家』のうち、吸血鬼族『ヴァレンタイン家』のみが、ルチア・グレイスとの婚姻を結ばなかった。当時、ヴァレンタイン家の当主はすでに『花嫁』を迎えており、また種族の中で反対の意見も多かったためだ。これによりセレネは、二つに分断された。そして彼女の血を引く子どもたちは、『フォン』の名を名乗り、四家の力はより強固なものとなった。】
カーライル・フォン・グレイル。
ルーファス・フォン・アンフィニ。
二人が今セレネでも強い力を持っているのは、その影響だともいえる。
【古来、セレネには月しか存在せず、世界はぼんやりと明るいだけだった。ルチア・グレイスが即位した当時、月の世界セレネでは、魔素中毒による死亡者が増えていた。この状況を憂いた初代魔王ルチア・グレイスは、己の命をかけて、月の世界セレネに、仮初の太陽が誕生させた。】
本には、穏やかな表情をした美しい女性が、『太陽』を掲げる絵が描かれていた。
【しかしその魔法によって、ルチア・グレイスは斃れた。そして、彼女の血を継ぐ者のうち、家系魔法を引きつかず、ルチア・グレイスと同じ固有の魔法を持った唯一の姫が、次のセレネの王となった。】
挿絵には、まだ大人に抱かれた赤子を前に、三人の少年が頭を垂れる姿あった。
【セレネに浮かんだ『太陽《ソレイユ》』により、魔素によって亡くなる魔族は減り、多様性の時代が訪れた。だが同時に、この太陽《ソレイユ》により、吸血鬼族は『夜の王』という地位を奪われた。初代魔王ルチア・グレイスによりこの世界にもたらされた光は、光を弱点とする吸血鬼の一族を弱体化へと導いた。吸血鬼族当主、ヴァージル・ド・ラ・ヴァレンタインは、光属性に対する耐性をつけるために、『花嫁』を他種族から求めることを奨励し、また、過去の行いにより他種族からの攻撃を防ぐため、ルチア・グレイスの娘である新魔王に恭順の意を示した。】
つまり吸血鬼の一族は、 『夜の王』と呼ばれた誇りによってルチアを拒絶し、その後彼女の魔法によって、セレネでの地位を更に落としたことになる。
【当初、ヴァージル・ド・ラ・ヴァレンタインの考えに反発する者も居たが、彼の実験は功を為し、吸血鬼族は、ルチア・グレイスが生み出した『太陽』の下でも外を出歩くことのできる能力を獲得した。彼らはこれまでの吸血鬼族とは異なり、一人きりの『花嫁』からだけ血を吸うことができ、複数の相手を自身を強化するための『贄』とする事ができた。】
ヴィクトリアはこの記述を見て頷いた。
『今の吸血鬼』は、『花嫁』を必要としない――自分の記憶は、やはり正しかったらしい。
ヴィンセント時代、吸血鬼の一族が、伴侶を『花嫁』と表現していた記憶は無い。彼らは血を吸う相手のことを、『贄』、もしくは『妻』としか言っていなかったはずだ。
(それはたぶん、彼らにとって『花嫁』が特別な意味を持っていたから)
実際、借りてきた本をいくつか読んで分かった。
どの本においても、『吸血鬼の花嫁』は金色狼が『つがい』に見せる執着のように、強い愛情を持ったことが描かれていた。
【それは吸血鬼族にとって『血と光の克服』であると同時に、崩壊の始まりでもあった。同族以外から『贄』を迎えるようになった吸血鬼族の力は徐々に衰え、黒髪や銀の髪、金色の瞳といった強い力を持った吸血鬼の数は減り、やがて『灰色の子どもたち』が生まれるようになった。】
ヴィクトリアは、ダン・モルガンの姿を思いだした。
(彼の髪は、確か灰色だった気がする)
【やがて、セレネに『太陽』が誕生する前、吸血鬼族の中で劣るとされていた灰色が、逆に最も強い者の色となった。かつて『夜の王』とまで呼ばれた吸血鬼族の力は、ルチア・グレイスの血を引くフォンの名を継ぐ者たちには、遠く及ばなくなっていた。】
ある意味、最も力を持ち横暴だった一族が衰退したことで、セレネには平穏が訪れたとも言える。
だが、かつて権力を誇っていた種族が、その現状に満足するはずはない。
【長い時を経て、事態を重く見た吸血鬼族は、再び同族の中での婚姻を繰り返すようになった。力を持つ者が当主となり、当主は多くの妻を迎える。特に強い力を持つ者同士の結婚を繰り返すことで、かつて栄華を誇っていた時代の始祖を、この世界に再び誕生させるために。そうして我らはついに得た。艷やかな黒い髪。生まれながらにしてこの世の王となるべき子を!】
本に書かれた筆跡は、その部分だけ、まるで興奮を抑えられないとでも言うように乱れていた。
ヴィクトリアは嫌な予感がした。
【我らはその子に、尊き始祖の名を与えることにした。黒髪に金の瞳。空を覆うほどの黒い大翼を持った、魔王ルチア・グレイスより、遥かに古い歴史を持つ『夜の王』の名を。】
その名前は――。
「……」
続きを読むのが怖くなったヴィクトリアは、立ち上がった表紙に机にぶつかり、積み上げていた本の一冊を床に落とした。
その拍子に本が開いて、ヴィクトリアは予想していなかった現象に声を上げた。
「わっ!?」
本から木が生え、天井に向かいどんどん伸びていく。
「これは……系統樹《けいとうじゅ》?」
ヴィクトリアは目を瞬かせて木を見上げた。
枝分かれした木には、沢山の名前が書かれていた。
そこにはヴァージル、ダン、そしてルイーズの名前もあった。
先代の五人の妻は、多くの子どもを産んでいた。
ダンは、先代当主にできた最初の子ども。それから生まれた子どもたちは、能力が低かったのか、すでに亡くなっているようだった。名前は、生きていそうな者の名前のみ光っていた。
(魔族の寿命は、基本その能力に依存するから――。きっと彼らは、黒でも、銀でも、灰色でもなかったんだろう)
名前の下には、おそらく生まれた年であろう夜行歴が書かれていた。
ダンは、ヴァージルより十年ほど早く生まれていた。ヴァージルが生まれてから十年後、生まれたのがルイーズ。
このことを考えると、吸血鬼族は、まずダンを当主に据えようとしたはずだ。だがその後、『先祖返り』のヴァージルが生まれたとしたら、その瞬間ダンの当主就任の話は、たちきえたに違いない。そして、その後生まれた妹は、銀色を持って生まれ、ヴァージルの許婚になったとすると――……。
(捻くれるのも仕方ない、のかな)
勿論、限度はあるとはヴィクトリアも思う。ただヴィクトリアは、少しだけダンを不憫に思った。
(……あれ? でも待って。じゃあルイーズさんは、ヴァージルさんの異母妹ってこと?)
当主となる者のみがヴァレンタインの名を名乗り、その他の当主の子は母方の姓を名乗る。どうやらそういう仕組みらしいが――。
いくらなんでも、それは血が近すぎるのではないかとヴィクトリアは思った。
天井に伸びた系統樹は、やがて最後にきらきらと光り輝く粒子をちらしながら、その姿を消した。
(驚いた。……けど、とても綺麗だった)
初めて見る魔法だったが、一体誰の魔法だろうか。ヴィクトリアが気になって本の奥付のページを開くと、そこには妙な文字が書かれていた。
「『ーーーーーーーから、ヴァージル・ド・ラ・ヴァレンタイン』へ?」
前半の箇所は、何故か黒く塗りつぶされていた。
(血の系譜って、大事なものだと思うのに、一体誰の仕業だろう?)
本を愛するヴィクトリアとしても、見逃せない行いだ。
本を手に、ヴィクトリアが少し腹を立てていると、髪飾りから断続的な声が聞こえてきた。
『ヴィク……トリア、様』
ざざ、ざざ。
髪飾りから聞こえる声は、今日は少し乱れていた。
「ルーファス?」
『は……い』
「ごめんなさい。少し、音が悪いみたい。雨が降っているせいかも。悪いけど、そのまま話してくれる?」
『そう……です……か』
ヴィクトリアがそう言うと、長い沈黙の後、ルーファスの低い声が聞こえた。
『…………申し訳、ございませんでした』
「え?」
『あんなことを、言ってしまって……』
(もしかして、反省してる?)
クゥン、と、今にも悲しそうな鳴き声が聞こえてきそうな声だった。
『陛下が、他の誰を思われても構いません。だから、どうかこれからも、私をおそばにおいてください。私のことを、お捨てにならないでください』
(なんだか捨てられた犬みたいな言い方だ……)
そんな声で言われたら、こちらがまるで悪人になったような気持ちになる。ヴィクトリアは、はあと短く息を吐いた。
「捨てないよ。私はルーファスのこと、大事に思ってるし。そうじゃなきゃ、命がけで貴方を守ろうとはしない」
そもそも『ヴィンセント』の力を再び使ったのは、ルーファスのためだった。
「それに、『捨てる』だなんて、そんな言葉使わないで。ルーファスから言われると、私、悲しくなるよ」
『はい。……はい。陛下』
ルーファスは、噛みしめるようにゆっくり頷いた。
『陛下』
「うん」
それから少しだけ明るい声で、ルーファスはヴィクトリアを呼んだ。
『ずっと……お慕いしております』
「……うん?」
プチッ。
「あれ? 切れた」
回線が切れたような音がして、ヴィクトリアは少しの間呆然とした。
(……ルーファスに甘い言葉を囁かれるのは大分慣れたつもりだったけど、でも、あんな声でいわれると……)
時間差で、じわじわと恥ずかしくなってくる。
「ルーファス、これを言うためだけに連絡してきたのかな……?」
調査に対する報告ではないただの秘密の連絡は、まるで恋人同士の密会にも似ていた。
(昨日のこともあって少し疲れたし、ちょっとだけ横になろう……)
ヴィクトリアは本を机に戻すと、ソファに横になって目を閉じた。
◇◆◇
『ヴィンセント。ヴィンセント、眠っているの? 敵がうろちょろしてるこんな場所で、安心して眠るなんて、君は相変わらず不用心だな』
うとうととヴィクトリアがまどろみの中にいると、誰かの声が聞こえてヴィクトリアはぼんやりと覚醒した。
(誰かの、声がする?)
誰かの手が、自分の頭に触れる。その感覚は確かにあるのに、ヴィクトリアは体を動かすことが出来なかった。
(もしかしてこれが噂に聞く『金縛り』ってやつ?)
『ああ。そう。君は、彼のことが知りたいんだね』
声の主は、楽しそうに笑う。
(なんて、リアルな夢。……まるで本当に、誰かがそばにいるみたい)
ヴィクトリアの髪を優しく手で梳いていた手は、瞼を押し上げようとしたヴィクトリアの唇に、ちょん、と軽く触れた。
『目を開けたら駄目。これは夢だから。それに目が覚めたら君は、全て忘れる』
(わす、れる……?)
ぼんやりとした意識の中で、ヴィクトリアはその言葉を繰り返した。
『でも、そうだね。君が願うなら、君には特別に見せてあげよう。――彼らの、記憶の欠片を』
『声』が、そう告げた瞬間。
ヴィクトリアはまるで、自分の体がぐっと小さく箱の中に押し込まれるような感覚に襲われた。
そしてその感覚の後に、彼女は、やけにリアルな光景を目にした。
今にも雨が降りそうな、土の匂いがした。
ヴィクトリアが瞼を押し上げると、そこには見覚えのある、しかしどこか今とは違う風景が広がっていた。
魔王城リラ・ノアール。
その庭に『ヴィンセント』が植えた木の前で、二人の男が言い争っていた。
『どうしてあの方を守らなかった。お前なら、わかっていはずだ。あの方が、どういうお方だったのか!』
『ヴィンセント』が命を落とした頃――今よりまだ幼い顔をしたルーファスを、『誰か』が胸ぐらを掴んで叫ぶ。
長い黒髪を乱して、『彼』は声を荒げていた。
『あの方は、あの方は……っ!』
『――ふざけるな』
だがその『彼』の手を強い力で振り払ったルーファスは、ぎっと相手を憎しみの籠もった瞳で睨み付けた。
『そばにいることすらしなかったお前に、なにがわかる。……お前だって、わかっていたはずだ。お前は、俺と同じなんだから!』
『彼』に――ヴァージルに向かって、ルーファスは言った。
『先祖返りのお前なら分かったはずだ。陛下の魂の形を知りながら、何故あの方の元を離れた!? なぜあの方の、お力になろうとしなかった?』
今の吸血鬼族は、『花嫁』を必要としなくなり、光を恐れることはない。
だから遠い昔の、力を持っていた頃の吸血鬼たちが、どのようにして『花嫁』を選んでいたかをヴィクトリアは知らない。
吸血鬼の一族は、ルチア・グレイスの手を取らなかったから。
『俺を批判できるほど、お前があの方のために何をした!? ……何も。何もしなかったくせに。そんなお前に、俺達の気持ちのなにがわかる』
ルーファスのその姿は、ヴィクトリアを前にしたいつもの彼とは、あまりにも様子が異なっていた。
『先祖返りであるお前が、もっと早く花嫁を選んでさえいれば、あの方を守れたかもしれないのに』
『しかし私は――たった一人しか選べない』
ヴァージルの返答を聞いて、ルーファスは一瞬ピタリと動きを止めると、ハッと馬鹿にするように息を吐いた。
『それが……お前が人生を共にする相手こそがあのお方だと? ……ふざけるな。ふざけるな!』
拳を握るルーファスの手は、自分の爪が食い込んで、地面には血が垂れていた。
ルーファスはヴァージルを殴ろうと手を上げたが、少しも避けようとしない彼に気付くと、動きを止めて振り上げた腕をおろした。
『お前の顔なんて、二度と見たくない。……二度と、俺の前に姿を表すな』
ルーファスはそう言うと、ヴァージルに背を向けて去って行った。
『貴方が、こんなことを命じられるはずがない』
一人残されたヴァージルは、ずっとその場所を動かなかった。
やがて雨が降ってきて、彼の体を冷たく濡らした。
地面に落ちた血は、時を経て雨に流される。一人それを見下ろしていた彼は、雨雲に隠れた月を見上げるかのように、彼は空を見上げ、消え入りそうな声で呟いた。
『……貴方は。貴方なら…………』
彼の頬を伝う雫が雨なのかそれ以外なのかは、ヴィクトリアにはわからない。
(――頭が、痛い)
ヴィクトリアは頭痛がした。
頭の中がはっきりしない。ヴィクトリアが痛みに目を細めると、ヴァージルの姿は、まるで雨の中硝子越しにみる景色のように、徐々に遠く薄れていった。
――パキン。
その時、何かが、頭の中に覆いかぶさっていた薄い膜が割れるような感覚があって、ヴィクトリアはそれから、何故かずっと忘れていたことを思い出した。
『どうして、こんなところに一人でいる? 他の者たちに混ざらないのか?』
魔王『ヴィンセント・グレイス』は、リラ・ノアールの庭で一人蹲る少年に声をかけた。
『……私は、彼らとは違います』
黒髪の少年は、震える声で言った。
『私は……私の体には、ルチア様の血は流れていない』
『ヴィンセント』に背を向けたまま、子どもはぎゅっと自分の体を抱きしめて言った。
『一族の悲願、なんて。そんなことのために、どうして私の人生を、勝手に決められなくてはならないんだ。……何故。どうして。どうして私だったんだ…!』
『涙を拭きなさい。目が腫れる。……何があった?』
『……父に、許嫁を決めたと言われました』
『許嫁? それは――』
おめでとう、と告げようとしたヴィンセントの服の袖を、震える小さな手が掴む。
『……ヴィンセント、様』
縋るような、涙混じりの声だった。
『お願いします。――……貴方が私の、花嫁になってください!』
カーライルはかつて、ヴィクトリアのために子供を城に集めた。
大人たちとは違い、まだ悪意に染まっていないであろう子ども達を。
そしてそれは、『ヴィンセント』のときも同じように。
ルーファスは城に集めた。
『ヴィンセント』に敵意を持たぬ者たちを――初代魔王ルチア・グレイスの血を引く者と、彼女の娘に忠誠を誓ったかつてのこの世界の『夜の王』の子を。
『先祖返り』であり、吸血鬼の一族の『最高傑作』。
それは一種の監視であり、人質でもあった。
だが、その子どもは。その子どもがこの世界に生まれて、初めて心を動かされたのは――……。
(頭が痛い。……何で私、今まで忘れてたんだろう)
棘の抜かれた一輪の白い薔薇を差し出す少年。
『ヴィンセント』に花を渡そうとしたのは、ルーファスではなかった。
あの日々の中、忘れようとした記憶の中で、自分を見上げた子どもはもう一人居た。
魔王『ヴィンセント』は男として生きていた。
当時の魔王の一族と吸血鬼の一族とはいわば『停戦状態』――友好的な関係とは言えなかった。
だからその子どもの涙ながらの申し出を、『ヴィンセント』は断った。
そしてその日引かれた一線は、やがて魔王が勇者に殺される日まで、その後の二人の距離となった。
ヴィクトリアは、かつて少年だった彼の名を呟いた。
「……『ヴァージル・ド・ラ・ヴァレンタイン』」
(ヴァージルさんは何を考えて、これまで生きてきたんだろう?)
過去のことを夢で見た翌朝、ヴィクトリアは目が冷めてからずっと、ヴァージルのことを考えていた。
正直なところ『ヴィンセント』時代、ヴィクトリアは彼のことをそういう目で見たことはなかった。
ただ、『ヴィクトリア』として接する中で見えてきた彼の人柄を、彼女は嫌いにはなれなかった。
(だから、ルーファスはあんなこと……)
喧嘩別れしたかつての幼馴染なら、ルーファスの態度にも納得がいった。
『ヴィンセント』が死んだあとのルーファスのことを、ヴィクトリアは知らない。
知っているのは、『ヴィクトリア』として再会して以降の彼だけだ。
ヴィクトリアと再会した日、ルーファスは心の底から幸せそうに微笑んだ。
『陛下! ああ、陛下!! ここにいらっしゃったのですね……!』
『――私は、貴方の剣。この五〇〇年、ずっと貴方を探していました』
『――ヴィンセント様』
(ルーファスとヴァージルさんって、もしかしたらよく似てるのかな?)
『魂』を見分け、自分と再会したあと、セレネに誘拐するあたりは特に。
二人の相違点は、ヴァージルが初代魔王ルチアの血を引いておらず、吸血したあとの彼は、おそらくルーファスより強い力を持つ、という点だろう。
(かつての吸血鬼族の力を思えば、その可能性はある)
初代魔王ルチア・グレイスの時代、当時の吸血鬼族は当主ただ一人で、魔王とその夫たちと、互角ともいえる立場を守った。最後は一族を守るために頭を垂れたとしても、その能力や人柄は、特別優れていたはずだ。
(勿論、レイモンドみたいに基本的に有事の際以外は無関心、みたいな人もいたかもしれないけれど……)
レイモンドはそもそも戦うことを好んでいる、というわけでもない。
『赤のルーファス』と呼ばれていたルーファスの方が、血の気が多いということをヴィクトリアは知っている。
(そういえば、これまでは、『花嫁』という立場を利用して潜入することばかり考えてきたけど、実際私が『花嫁』になった場合の利点についてはあまり考えてなかった……。)
『魔王』として、ヴィクトリアは冷静に考えてみた。
『先祖返り』のヴァージルの『花嫁』になるということは、ヴァージルとの繋がりができる、ということになる。
カーライルからはヴィクトリアに、吸血鬼の一族を手中に収めるよう言った。
ヴィクトリアが真実を――自分がカーライルたちから推されている新魔王であることを告げなければ、彼がヴィクトリアの血を吸った瞬間に、『花嫁』に依存するしかないヴァージルを、精神的にも能力的にも縛りつけることは可能だろう。
そしてヴァージルの『花嫁』になれば、ヴィクトリアは彼の力の一部を引き継ぐことが出来る可能性は高い。
そうなれば、ヴィクトリアは今より魔法を使うことが容易になるはずだ。
そして、本当に『花嫁』となれば、彼を利用しようとしている者たちを阻止することも容易になる。
(でも、それで本当にいいんだろうか? 彼は『ヴィンセント』を、私のことをずっと信じてくれていた人かもしれないのに――)
現状、『花嫁』としての立場を利用して潜入しているのヴィクトリアだが、自分が『ヴィンセント』の生まれ変わりであり、新魔王として名乗りを上げていることをヴァージルに告げずに彼の『花嫁』になること――これは、超えてはいけない境界線であるように思えた。
(私が本当のことを言ったら、ヴァージルさんはどんな顔をするのかな)
『……ヴィンセント、様』
朝の、少しけだるげなヴァージルの姿を思いだして、ヴィクトリアは頭を振った。
今の彼は、あの時のような幼い少年ではない。
今の彼の、少し掠れた低い声で、こちらが切なくなるような声で『お願い』されたら、断れる女性はそういないのではないかとヴィクトリアは思った。
(でも私がヴァージルさんと出会ったのはデュアルソレイユだったから、何故彼があの場所にいたのか理由が分かるまでは、私の正体は明かせない……)
今のヴィクトリアは、先日の件もあって魔法が使えないのだ。
魔法が使えなくてもそれなりに戦える自信はあるが、流石に複数人に束になってこられては対抗できない。
「出来れば、平和的に解決したい」
それはヴィクトリアの本心だった。
ヴァージルはかつて『衝突』について話したが、『新魔王』となるヴィクトリアがヴァージルの『花嫁』となれば、余計な衝突は避けられる可能性があるとも言えた。
ルチアの時代の吸血鬼の一族の当主は、ルチアが死ぬまで彼女の手は取らなかったが、ヴィクトリアがヴァージルの『花嫁』となるのなら、二人は決して切れない絆で結ばれることになる。
だが――。
(でも少し、気になる記述も見つけたんだよね)
これはいくつか吸血鬼の一族に伝わる本で読んでわかったことだが、古い時代存在していた『吸血鬼の花嫁』は、自分の血を吸った吸血鬼の命令に逆らえなくなったと書かれていた。
つまりヴィクトリアがヴァージルに血を吸われた場合、ヴァージルの命を握ることも可能だが、同時に彼に自分自身を支配される可能性もあるのだ。
(ルーファスはなんやかんや可愛いと思うし、レイモンドは私のことを考えてくれていると思うし、カーライルは――……私に対していじわるだとは思うけど、今は別に嫌いじゃない)
ヴィクトリアは、下唇を軽くかんで拳を握った。
(ヴァージルさんが私相手に使うとは思わないけど……。もし私にも同じことが起きてしまったら、私は、ヴァージルさんの命令に逆らえなくなってしまう。そうなったら私自身が、カーライル達と戦わなきゃいけなくなるかもしれない)
ヴィクトリアは、カーライルたちとは戦いたくはなかった。
そして『ヴィンセント』を今も想っているのかもしれない、ヴァージルとも。
(ヴァージルさんはいい人だとは思うけど、デュアルソレイユの件もあるし……! ああ駄目だ! 前世が魔王だった時の癖で、ついメリットとデメリットについて冷静に考えてしまう……!)
ヴィクトリアは考えがまとまらず、ベッドの上で頭を抑えた。
その時、つきりと頭痛がした。
(…………でも私、こんな大事なこと、なんでずっと忘れてたんだろう?)
頭痛のおかげで、少しだけ冷静になる。
『ヴィンセント・グレイス』の時の記憶は、もしかしたら一部欠落しているのかもしれない――ヴィクトリアは、今回のことでそう思った。
生き物としての防衛本能で記憶を忘れることがあることを、ヴィクトリアは以前本で読んだことがあった。
(私、他にも忘れてることってあるのかな? 私の記憶の欠落が、今後また問題にならないといいんだけれど……)
だが、今それを悩んでもどうにもならない。
「とりあえず、ヴァージルさんと話をしよう」
ヴィクトリアは明るく決意を口にすると、気持ちを新たに立ち上がった。
その時扉を叩く音が響いて、ルゥが部屋に入ってきた。
「花嫁様、おはようございます。昨日は良くおやすみになれましたか?」
「うん。ありがとう。おはよう。ルゥくん」
今日も可愛らしく自分に微笑むルゥに、ヴィクトリアは優しい声音で尋ねた。
「ルゥくん。今日のヴァージルさんの予定ってわかる?」
だがその日、ヴィクトリアはヴァージルと話せなかった。
(これは……あからさまにヴァージルさんに避けられている!)
ルゥにヴァージルの予定を聞いて待ち伏せしていたら、ことごとく待ちぼうけを食らったヴィクトリアは、徐々に苛立ちを蓄積していた。
(吸血鬼の衝動とはいえ、先に手を出したのはむこうなのに! 自分だけ傷ついたみたいな顔して驚くし、これは私、少しは怒ってもいいよね?)
ヴィクトリアの頭の中には、ミニチュア版のヴァージルが、真っ暗な舞台の上でスポットライトを浴びながら、悲劇のヒロインのようにメソメソする姿が浮かんでいた。
『こんなつもりじゃなかったんです。この五〇〇年、ずっと我慢していて。そのせいで、吸血鬼の衝動を抑えられなくて。この体は……私の意思に反した行動をしてしまうのです! ああなんて、呪われた体なのか!』
ヴィクトリアは、自分の脳内で感傷に浸るヴァージル(仮)を、問答無用で指で弾き飛ばした。
(私だって怖かったし驚いたのに! でも、それでも私から歩み寄ろうってしてるって、絶対わかってるはずなのに! 自分だけずっと被害者モードに入って、私を避けるのは違うでしょ!?)
ヴィクトリアはぷるぷる震えた。
(こんなこと言いたくないけど……言いたくないけど……!)
そして、ぷちんと堪忍袋の緒が切れた。
(ヴァージルさん、少し女々しくない!?)
ヴィクトリアだって昔のことを考えると鬱屈した気持ちにはなるが、今は前に進もうと努力している。
だからこそ今のヴァージルは、五〇〇年という時間を生きてきたはずの大の男の行動としては、意気地がないとしか思えなかった。
(女は度胸って言葉があるけど、男も度胸があってこそでしょう!? まどろっこしい!)
「今日はここで、ヴァージルさんを待ち伏せします」
「まち……ぶせ? ここでですか?」
ついに我慢できなくなったヴィクトリアは、ルゥを連れて、三階の部屋の窓の近くで待ち伏せすることにした。
ここなら、道を通るヴァージルも気付かないはずだ。
「ルゥくん。ヴァージルさんは、このあとこの下の道を通るんだよね?」
ヴィクトリアはにっこり笑って、窓の下の道を指差した。
「はい。そのはずですが――……」
ルゥはヴィクトリアの質問の意図が分からず首を傾げた。
ヴァージルに会いたいなら、庭に降りるべきだとルゥは考えていたわけだが――ヴィクトリアにルゥの『常識』など通用しなかった。
(来た!)
ヴァージルの姿を視界にとらえると、ヴィクトリアは窓に手をかけた。
「よっと」
「は、花嫁様!?」
初対面での驚きの行動再び。
ルゥは慌てて声を上げた。しかし、ヴィクトリアはルゥの制止など聞かず、そのまま窓の外へと体を投げ出した。
「危ないです! 駄目です。花嫁様! あ。わああああああああああ!!!」
ルゥの声に、ヴァージルが顔を上げる。
「あ」
(立ち止まった上にこっちを向かないで!)
ドスン!!!!!
着地失敗。
持ち前の運動神経で華麗に着地するはずが、ヴィクトリアはヴァージルを下敷きにしてしまった。
「ご、ごめんなさい!」
(意図せずして押し倒しちゃった!?)
「……」
ヴァージルは、ヴィクトリアの下で頭をおさえていた。
(どうしよう。避けられていたのを怒るはずが、自分から攻撃しちゃったせいで怒れない……)
「すいません。怪我はされていませんか?」
「私は大丈夫だ。それより、私の上から降りてくれ」
「ご、ごめんなさい!!!」
ヴィクトリアは、慌ててヴァージルの上から降りた。
「とりあえず、危ないことはするな。君は、ただの人間なのだから」
『大丈夫です。普段は熊とも戦ってたので(魔法なし)』という言葉が口から出かけて、ヴィクトリアはなんとか言いとどまった。
ヴァージルは立ち上がり静かに目を伏せると、ヴィクトリアのすぐそばを歩いて行く。
(……って、このままで終わらせられない!)
「ヴァージルさん、待ってください!」
ヴィクトリアは、自分から去って行くヴァージルの腕を掴んで叫んだ。
「私、貴方と二人で話がしたいんです。話してくれないなら私、実家に帰らせていただきます!!!」
この言葉に、本来効力など無い。
ヴィクトリアはデュアルソレイユの実家では一人暮らしで、そもそも『ただの人間(※ヴァージルの認識)』であるヴィクトリアに、自力で安全にデュアルソレイユに変える方法など無いのだから。
だがその、ある意味『花嫁』らしいヴィクトリアの言葉に、ヴァージルはピタリと動きを止めた。
「……ルゥ」
「はい!」
ヴィクトリアの落下後、階段を使ってようやく庭に降りてきたルゥは、元気よく返事をした。
「お茶の用意をしてくれ」
「かしこまりました!」
◇◆◇
二日ぶりだと言うのに妙によそよそしい。
庭に設けられたガゼボの下で、太陽を避けながらティータイム、といえば聞こえは良いが、二人の間には重々しい空気が漂っていた。
先に沈黙を破ったのはヴィクトリアだった。
「あの、なんでそんなに私から距離を取るんですか?」
「……君を、傷つけてしまったから」
ヴァージルは、小さな声で言った。
「あの時、怯えていただろう。……すまなかった。あんなこと、するつもりはなかった。ただ、あの時――頭の中が真っ白になって……」
(どうせそんなことだろうかと思ってたけど!)
「君も……私が怖いだろう?」
どこか不安そうに、ヴァージルはヴィクトリアに尋ねた。
「……」
幼い頃の姿を思い出すと、ヴィクトリアの中からヴァージルへの恐怖という感情は消えてしまった。
ヴィクトリアが腕組みして、はああと深い溜め息をつくと、ヴァージルは大きな体をビクッとはねさせた。
(どう言えばいいんだろう。今の私は――『ヴィクトリア』としての私は)
「ヴァージルさん。私はあのくらいで、貴方を恐れたり、嫌いになったりしません。貴方にはお話していませんでしたが、私、デュアルソレイユでは一人暮らしをしていて、野生の生物を狩って暮らしていました。だから多少の危険は、私にとっては慣れたことなんです。さっきも、本当ならちゃんと着地できるはずでした。……下敷きにしてしまいましたけど」
ヴァージルは、ヴィクトリアの言葉の意味が一瞬理解できなかったのが、きょとんとした顔をした。
その後、『花嫁』が危険な暮らしをしていたという事実に気付いて、彼は明らかに顔を青ざめさせた。
そういう表情をするヴァージルは、ヴィクトリアには少し幼く見えた。
「それにもし――私が本当に恐れることというのなら……それは、大切に思う人を失うことです」
「大切……?」
「はい。私には、デュアルソレイユに大切な人がいます。その人達が危険にさらされるなら、私はこの命を賭けてでも戦おうとするでしょう。でもそれは、今は貴方も同じです。私は……貴方を失いたくありません」
(私は、ヴァージルさんと戦いたくない。彼が昔から、そう望んでいたのならなおさら)
「――それは、私のことが『大切』だから?」
「えっ?」
ヴィクトリアは、一瞬ヴァージルの発言の意味が分からず首を傾げた。
(違う! 私にとってまず大事なのはアルフェリアたちで! ヴァージルさんとは争いたくなくて……。これは、敵になって戦いたくないって意味で……! 失いたくないっていうのはこう、積極的な意思と言うより消極的な――ああもう! 上手く言えない!)
「こ、これは、その――」
ヴィクトリアが一人慌てていると、百面相する彼女を見下ろして、ヴァージルはクスッと笑った。
その後、ヴァージルは穏やかな笑みを浮かべると、まるで心の中で、何度も言葉を繰り返して噛みしめるように頷いた。
「そうか。……そうか。ありがとう。――私の花嫁」
それからヴァージルはヴィクトリアの手を取ると、その指先に口付けを落とした。
「!?!?!?」
ヴィクトリアはすぐさま手を引っ込めると、ヴァージルを警戒するように後退った。
(やっぱりヴァージルさん心臓に悪い!)
ヴァージルは、自分を見て顔を真っ赤にするヴィクトリアを見て、今度は珍しく声を上げて笑った。
和解の後の和やかな雰囲気の中、ティータイムの準備を終えたルゥが、元気よく笑顔で宣言した。
「お茶とお菓子をお持ちしました!」
光を浴びてキラキラと輝く透明なそれは、スプーンの上でぷるんと揺れた。
胸を高鳴らせながら頬張ったヴィクトリアは、口の中で柔らかく崩れる新食感に思わず声を上げた。
「美味しい!」
ヴァージルとの仲直りも兼ね、用意された茶会には、皿の上で揺れる透明な物体が並べられた。
薄っすらと明るい黄色や赤で色づけられた食べ物の中には、ヴィクトリアもよく知る果物が入っていた。
(こんなことしてる場合じゃないかもしれないけれど、これは本当に美味しい……!)
甘味には目がないヴィクトリアが思わずもう一口とスプーンを伸ばすと、そばで見ていたヴァージルがくすっと笑った。
「気に入ったか? それは、私が果物ゼリイとよんでいるものだ」
「くだものぜりい?」
聞き覚えのない名前に、ヴィクトリアは思わず聞き返す。
「ルゥが作った。『ゼゼリウム』の可食部だけを取り出して、加熱すると形が崩れるらしい。程よく熱が冷めたら、果汁と果物を加えて混ぜる。後は器に注いで冷やしたら、このように綺麗に固まるそうだ」
「!」
(え!? これがあの『ゼゼリウム』なの……?!)
魔素の影響で、セレネの植物は魔物のような形をしていることがある。
イーズベリーがその代表だが、他にも、目玉のような物が身の中に詰まっているものもあったりする。
『ゼゼリウム』とよばれるその果物は、目玉部分の、ニュルッとしたところが意外と甘くて美味しいのだが、核であり種である目の部分はいささか問題を抱えている。
一般的に、セレネでの『ゼゼリウム』の食べ方は、目玉をグラスの中に落とし込み、果物を添えたあとに冷たい果実の搾り汁を注ぐというものなのだが、それだとどうしても見た目が悪い。
食べる時に、ぎょろりとした目と目が合ってしまうのだ。
しかも、果汁が目に入って『しみる』のか、グラスの中の目玉はぎゅるぎゅると動き続けるのである……。
その時の奇っ怪さとグロテスクさといったらない。
まあある意味、セレネらしいといえばらしいのだが――。
(目玉を貪り喰らうデザートなんだよね……)
だが今回用意された『果物ゼリイ』は、見事にその気持ち悪さを克服していた。
(核を先に取り外してるから暴れることもないし、食べやすい! 疲れたときにはぴったり! 自然な甘さでとても美味しい!!)
素晴らしい発見だ!
ルーファスは基本何でもできる男だが、獣の性分か、こういう細やかな気遣いという点ではルゥに劣るのかもしれない――ヴィクトリアはそう思った。
「……すまない。君は知らない話だったな。『ゼゼリウム』というのは、セレネにしかない果物なんだが、味はいいんだが見た目が最悪でな。実を割ると、中に大量の目玉が入っているんだ。種を覆うように透明なものが纏っていて、これはその透明な可食部を利用した歌詞だ」
ヴィクトリアもゼゼリウムの形は把握している。
だが、彼女をただの人間だと考えているヴァージルは、丁寧に説明をした。
ルゥの真面目さや丁寧さは、主人譲りのようだ。
「美味しくはあるんだが、あの目玉はどうにも受け付けなくて……。私が躊躇していたら、ルゥがこの方法を考案した」
(ルゥくん、なんてできた子なの……! 可愛い上に賢い!)
「ルゥくん、本当に手先が器用だしいい子ですよね。すぐにいろんなことに気がついてくれるし」
ルゥは献身的だ。
その体の小ささもあいまって、彼の努力は際立って見える。
(白色コウモリでさえなければ、きっと彼は、いろんな人に愛されただろう……)
セレネで生きる限り、ルゥに後ろ指をさす者がいることは間違いなかった。
でもそれは人間としての価値観で、魔界セレネでは彼のような性分は利用されるだけに終わる確率のほうが高いことは、ヴィクトリアも理解していた。
弱肉強食のこの世界で、彼の善性は他者に付け入る隙を生む。
美しいその外見も、献身的なその性格も、自身に従属させるに相応しいと――。
「そうだな。生まれや姿がどうあれ、ルゥの称賛すべき点だろう。だがそもそも色なんて、勝手に他人が分類しているに過ぎない」
ヴィクトリアがルゥを思って胸を痛めていると、ヴァージルが果物ゼリイを食べながら当然のように言い切った。
ヴィクトリアは、目を瞬かせた。
まさか――そんなことを言う魔族が、このセレネに存在しているなんて。
(やっぱりヴァージルさんの考え方、私の理想に近いんだよね)
ヴィクトリアは、胸が熱くなるのを感じた。
彼が自分と、同じ景色を見つめてくれているように感じて。
セレネの常識ではなく、ヴァージルは自分の考えを一番大事にしている。ヴィクトリアは、それが嬉しかった。
勿論そのせいで、余計な軋轢《あつれき》を生む可能性はあるのだが――。
「……ヴァージルさんはルゥくんのこと、どう思っているんですか?」
(ヴァージルさんが私と同じ考えなら、今の吸血鬼族が返り咲くことは、ルゥくんにとって良くないとわかっているはず)
「大切に思っている。……だが」
ヴァージルはスプーンを置くと、静かに目を伏せた。
「どうにも、上手く気遣ってやれない」
少し自信なさげに、自嘲気味に笑みを浮かべたヴァージルに、ヴィクトリアの胸はつきりと傷んだ。
「そんなことありません。ルゥくんは、きっとヴァージルさんのこと大好きだと思います」
出会ったばかりの自分に母になって欲しいと言ったルゥを思い出して、ヴィクトリアはまっすぐヴァージルの目を見て言った。
あれはそもそも、ヴィクトリアがヴァージルの花嫁だからこそ出た言葉だと、彼女は考えていた。
「引き取ったのが貴方だったから、ルゥくんは今、笑っているんだと思います」
「……君は、ルゥのことをどう思う?」
「私ですか?」
何故、そんなことを聞くのだろう? ヴィクトリアは疑問に思いながらも微笑んで、心からの言葉を口にした。
「可愛いと、思います」
ヴァージルは、ヴィクトリアの返事を聞いて、安堵したかのようにほっと息を吐いた。
「ヴィクトリア。君が私の花嫁になったら、その時は――」
だが、その時だった。
ヴァージルの体はがくりと前に倒れて、ヴィクトリアは慌てて彼に手を差し伸べた。
スプーンの落ちる金属音が響く。
「ヴァージルさん!」
「すまない。……目眩、が、して。君に迷惑を……」
見るからに、ヴァージルの顔色は悪かった。
(もしかして長く血を吸ってないせいで、貧血だとか……?)
「私は大丈夫です。ヴァージルさんは大丈夫ですか? 私が支えますから――立てますか?」
「ああ。ありがとう――。うっ」
「え?」
だがその時、ヴァージルの体はヴィクトリアの方へと倒れた。
本日二度目の押し倒し事件。だが、今回はヴァージルが上だ。
(絵面が! 絵面がとてもまずい! こんなところ他人に見られたら、絶対誤解される!!!)
「う゛ぁ、う゛ぁーじるさんっ!」
ヴィクトリアは懸命にヴァージルの体を押した。だが、今のヴィクトリアが強化魔法を使えないことと、ヴァージル自身の体の大きさや力もあって、彼の体をどかすことは、今のヴィクトリアには出来なかった。
そしてヴィクトリアには不運なことに、そんな二人の前に、気遣いのできる優秀な白色コウモリ、ルゥがやってきた。
「御主人様、花嫁様! お茶のおかわりはいかがですか?」
ルゥは、『御主人様に押し倒される花嫁様(のように見える)』を見てぴたりと固まり――それから、そっと後ろに下がってにっこり笑った。
ルゥは御主人様と花嫁様の幸せを願う、気が利く良い子なのだ。
「…………どうぞ、そのままお続けください」
(そんな気遣いいらないよ!? ルゥくん!?)
「待ってルゥくん! これは、そういうんじゃないから!」
ヴィクトリアは、慌ててルゥを引き止めた。
◇◆◇
ルイーズ・モルガンは、一人屋敷の中を走っていた。
一族が決めた『許婚』の城で、初めて見たヴァージルの笑顔を思い出して、彼女は胸を抑えた。
「お嬢様!? お城に行かれたのではなかったのですか!?」
モルガン邸に仕えるコウモリ族の少女は、髪を振り乱して廊下を走る『お嬢様』の姿を見て尋ねた。
『お嬢様』は、許嫁である吸血鬼の当主に会いに行ったはずなのに、あまりにも帰りが早すぎる。
「一人にして!」
ルイーズは自分の部屋に入ると、壁に背中をつけてずるずると
「……嘘。嘘よ! ……嘘にきまっているわ……!」
頭の整理が追いつかない。
カーテンで閉じられた暗い部屋には、彼女の嗚咽だけが響く。
「ルイーズ。戻ったのか?」
「おにい、さま……?」
「開けるぞ」
ダンは、目に涙を浮かべる妹を見つけて、すぐに膝を折って彼女と視線を会わせた。
「……何があった?」
「あの方が……あの方が、私ではなくあの少女を自分の花嫁にすると――」
ルイーズは、ぽろぽろと涙をこぼしながら言った。
「あの方が、私以外の者を『花嫁』に選んだら私は……! お父様は、きっと私をお許しにはなりませんわ……!」
「落ち着けルイーズ。あの女とは誰のことだ? ヴァージルが、お前以外を選んだというのか?」
ルイーズは、こくりと頷いてこたえた。
「そうです。コウモリ族の少年といた、あの少女です」
「……ヴァージルめ。ふぬけのうえに、一族の決断に逆らうのか」
ダンの声は低かった。
そして彼は、傷付いた妹を気遣うように、膝を折ってそっと彼女の涙を拭った。
「可哀想に。お前だけが、この世界で唯一ヴァージルの妻になるべき女だというのに。大丈夫だ。お前の献身を知れば、必ず奴もお前に振り向くはずだ」
「でも、彼女はどうすれば……?」
「どうせ名もなき種族の女だろう? そんな邪魔な女など、消してしまえば良い」
涙を流していたルイーズは、兄の言葉にぴたりと泣くのをやめて、信じられないものを見るかのような表情をして兄を見上げた。
ダンは視線に気づくと、自分を見つめる妹に優しげに微笑んで、残酷な言葉を口にした。
「それは……彼女を手にかける、ということですか?」
ルイーズの声は震えていた。
「下賤の者が、尊き吸血鬼の一族のために死ねるのだ。本望というものだろう?」
◆
時を同じくして、リラ・ノアールでは例の事件についての話が行われていた。
「事件についてだが――目撃証言が出てきた。事件現場から立ち去る者を見かけたそうだ。女が逃げていくのを見たらしい」
「女……? 黒髪の男ではなく?」
レイモンドの報告を聞いて、カーライルは目を瞬かせた。
「ああ、そうだ。月の光で、銀色に光っていたらしい」
灰・銀・黒――今の吸血鬼の一族には、奇しくもその色を持った魔族が揃っている。
そして吸血の一族の中に銀色の髪を持つ女性は、今は一人しかいない。
カーライルは少し嫌な予感がして、表情を険しくした。
「仔細《しさい》はまだわからない、ということですか。これは、一度ヴィクトリアにも、報告しておくべきかもしれませんね」
「ない! ……ない! やっぱりない!!!」
翌朝、髪留めがなくなっていることに気付いたヴィクトリアは、慌てて部屋の中を探し回っていた。
(まずい。ただの人間の少女が、魔法のかかった髪留めを持っているなんて怪しすぎる!)
髪飾りへの細工は、ヴィクトリアも最初は気付けなかったこともあり、そうそうバレることはないのだろうが――ルーファスの気配を感じ取ったヴァージルがうっかり拾って、気付かないとは限らない。
「もうお部屋にはなさそうですね。花嫁様、昨夜眠られる前に、髪留めがあるか確認されましたか?」
一緒に探していたルゥに尋ねられ、ヴィクトリアはうーんと腕組みして昨夜のことを思い出してみた。
「昨日の夜は――……」
ヴァージルとお茶会をして、ルゥの美味しいデザートを食べて――ちょっと事件があったから………………髪飾りは、夜にはすでになかったような気もした。
「……もしかしたら、夜からなかったかもしれない」
「では、昨日どこかで落とされたのかもしれませんね。飛び降りたりもされていましたし……」
「…………」
心当たりが多すぎる。
ヴィクトリアが頭を抱えていると、悩みの種である当の本人が部屋の中に入ってきた。
「何があった?」
「御主人様!」
ヴァージルの姿を見て、ルゥの表情がぱっと明るくなる。
「声が廊下まで響いていた。何故、部屋がこんなに荒れている?」
ヴァージルは、髪飾りを探すために荒らされた室内を見て眉を顰めた。
「花嫁様がこちらにいらしたときからつけていらっしゃった、髪飾りが見当たらないそうなのです。どうやらどこかに落とされたみたいで」
「あっ。ルゥくん……っ」
時すでに遅し。
ヴィクトリアが止める前に、ルゥはヴァージルに話してしまった。
(言わないで欲しかったのに!!!!)
ヴィクトリアの考えなどつゆ知らず、名前を呼ばれたルゥはこてんと可愛らしく首を傾げていた。
(可愛いけど……可愛いけども……っ!)
ルゥが純粋な良い子すぎて手綱が取れない。
これがルーファスなら、『陛下の秘密は私が守ります』とにっこり微笑んでくれるところなのだが……。
「すいません。お騒がせしてしまって――」
ヴィクトリアは、その場をごまかすことにした。
――だが。
「……そうか。なら、私も共に探そう」
「えっ?」
意外な言葉をヴァージルが口にして、ヴィクトリアは思わず口をぽかんと開けた。
「だっ大丈夫です! ヴァージルさんの手を煩わせるようなことじゃないです!」
「だが、これほど慌てるということは、大切なものなのだろう? なら、それを私が共に探すのは、当然のことだ」
ヴィクトリアは、ヴァージルの発言に目を瞬かせた。
「意外そうな顔をしているな。私が代わりに新しいのを用意すると言うと思ったのか?」
「……いえ」
ヴィクトリアは、静かに視線を逸らした。
これは他の三人にも言えることだが、ヴィクトリアの周りの魔族たちは皆、彼女が望むものを与えることなんて簡単なのだ。
幼馴染の人間がくれた髪飾りなんて、無くしたとしても気に留める必要なんてない。
――でも。
(どうしよう。『嬉しい』って、思ってしまった)
彼の言葉に、胸が熱くなる。ヴィクトリアは、胸の前でぎゅっと拳を握りしめた。
「確かに昔の私なら、君にそう言ったかもしれない。……ただ、今は。本当に大切なものだったら、決して無くしてはならないと、そう思うのだ。そうでければ何十年何百年……ずっと、思いを引きずることになる」
ヴァージルはそう言うと、少しだけ唇を噛んだ。
「ヴァージルさん……」
それは――『ヴィンセント』のことを言っているんだろうか。
ヴィクトリアには、彼が感傷的になる理由を訊くことができなかった。ただ彼の真剣な声と眼差しに、ヴィクトリアは胸が締め付けられた。
(なんで、私――……)
「…………ヴィクトリア?」
ヴィクトリアが下を向いて黙っていると、ヴァージルは気遣うように手を伸ばした。
まるで彼女を慰める心優しい男のように――……だが。
「そうだ。あの時、落とされたのかもしれません! 御主人様が花嫁様を押し倒されたときです!」
その時、ムードをぶち壊す大声が、部屋の中に響いた。
ヴィクトリアに触れようとしていたヴァージルは、すぐさま手を引っ込める。
ヴィクトリアは安堵と共に頭痛がした。
(ルゥくん……! それは、本人の前では元気に言わないでほしいかな!?)
ルゥの中では、あの押し倒し事件は『キラキラな出来事』だったのかもしれないが、当人(ヴィクトリア)がそう認識しているとは限らない。
「僕、外を探してきます!」
ルゥはそう言うと、さっそうと部屋を出ていった。
引き留める隙もない。
ヴィクトリアは、呆然と立ちすくむしかなかった。
「行っちゃった……」
そうして、二人きりになった室内で、ヴァージルがポツリ呟いた。
「押し倒した、か……」
ヴィクトリアはびくっと肩をはねさせた。
(な……なんで、二人になってから蒸し返すの!?)
「君は、私にああされるのは嫌だったか?」
ルゥがいなくなったためか、ヴァージルはヴィクトリアとの距離を詰めた。
手を取られて微笑まれると、ヴィクトリアはヴァージルを直視できなかった。
(この人、絶対自分の顔の良さわかってやってるでしょう!?)
転生してからは人間界で過ごしていたこともあって、魔族の彫刻のような顔の造形は久しく見ていなかったのだ。しかも、ヴァージルは自分のよく知る三人とは方向性が違うためまだ慣れていない。
(……でも、私だって負けないんだから! キラキラオーラに当てられてなるものか!)
ヴィクトリアは、じっとヴァージルを見つめ返した。
すると、彼の顔が近づいてきたのがわかって、ヴィクトリアはヴァージルの胸を押して彼から離れた。
「……い……」
「い?」
「いっ許婚さんには、私のことは話されているんですかっ!?」
婚約者がいるのに、不倫、ダメ絶対!
その気持ちは、ヴィクトリアの本心だった。
『新魔王』としては、『吸血鬼の花嫁』という立場は確かに様々な問題が解決できるから魅力的ではある。
だが、ヴィクトリアはルイーズを傷つけたいわけではないのだ。
それに――もしルイーズがなにも聞かされておらず自分の存在を知ってしまった場合、それこそ『衝突』が起きる可能性がある。
(そのあたりのこと、どう思っているんだろう?)
ヴィクトリアが上目遣いでヴァージルを見上げていると、彼はあっけらかんとして答えた。
「いや、まだ言っていない。だがそもそもあれは、周囲が勝手に決めたことだ。彼女は『魔王の妃』として育てられてきた。だが私は、魔王になるつもりはもとよりなかった」
「『魔王の妃』……?」
「ああ。だから、そもそも私と彼女は、そういう関係にはなり得ない。彼女が、周囲の傀儡である限り」
(傀儡……?)
その言葉が、何故か妙に引っかかった。
ヴィクトリアが考え込んでいると、ヴァージルはその隙に、彼女の髪を一房とった。
「……君さえ側にいてくれたら、私はそれでいい」
そして、髪に口付ける。
ヴィクトリアは驚きが隠せなかった。一瞬固まって――それから、何が起きたか理解して、一気に顔が赤くなる。
(もはや吸血さえしなければいいと思ってない!?)
ヴァージルは、そんなヴィクトリアの反応にくすっと笑うと、今度は腰に手を回して、彼女の体を引き寄せた。
今度は――本当に、唇が口元に降りてくる。
(き、キスされる……!?)
「だ、だめっ!」
再び強く彼の体を押したヴィクトリアだったが、魔法の使えないヴィクトリアの手を、ヴァージルは軽く掴んでふっと笑った。
「私の花嫁は力が強いな。だが――それも、悪くない」
「~~~~ッ!!」
余裕たっぷりの甘い声で耳元で囁かれると、心臓の鼓動が速くなる。
『花嫁』としてともに過ごす中で、少しずつ彼が大胆な行動を取ってきていることに気付いて、ヴィクトリアは頭が混乱してしまった。
(私に『ヴィンセント』の記憶があるってわかったら、ヴァージルさんもこんなことしないんだろうけど、けど……! やっぱり慣れない!!!)
早く事件を解決させてヴァージルから距離を取らなければ、危ない気がする――ヴィクトリアはそんな予感がして、ドアノブに手をかけた。
「私、ルゥくんを探しに行きます!」
◇◆◇
『ヴィクトリア。きこえますか? ヴィクトリア』
地面に落ちた髪飾りから、カーライルの声が響く。
『先日から少し調子が悪いようです。陛下には聞こえているそうなのですが――』
続いてルーファス。彼の言葉を聞いて、カーライルは頷いた。
『なるほど。では、このまま続けましょう。ヴィクトリア。デュアルソレイユで起きていた事件について、有力な情報がわかりました』
本来なら、装着したものにしか聞こえないはずの魔法。だから、カーライルも油断していた。
まさか、その壊れた髪飾りを、今ヴィクトリアが身に着けていないとも知らずに――。
『事件現場から立ち去ったのは、黒髪の男ではなく、銀髪の女だったそうです。この話が本当なら、この事件の犯人は、彼ではなく――……』
そして、カーライルが最後まで話すより前に、それを聞いていた男は、髪飾りを踏みつけた。
「ははっ! 花嫁ではなく間者じゃないか」
壊れた髪飾りを見下ろして、男――ダン・モルガンは、小馬鹿にするように笑った。
「これでもう、わかっただろう? あの女を、このまま生かし続ける理由はない」
彼の後ろには、下を向く銀髪の少女が立っていた。
「ルイーズ。――取り戻そう。俺たちの『王』を」
「ルゥくん、ルゥくーん!」
ヴァージルから逃げる為に部屋を出たヴィクトリアだったが、髪飾りを探しに出たはずのルゥはどこにもいなかった。
「ルゥ! ルゥ、どこだ! ……全く、どこまで行ったんだ」
ルゥの捜索には、ヴァージルも参加していた。
名前を呼びながら不安げな表情をするヴァージルは、少しだけ慌てているようにヴィクトリアには見えた。
(なんだか、迷子の子どもを探すお父さんみたい)
だからだろうか――いつもより、少しだけ幼く見える。
「何故、私の顔をじっと見ている」
「……いえ」
魔族らしくない――吸血鬼族らしくないヴァージルの姿にヴィクトリアが思わず笑っていると、ヴァージルふと、こんなことを言った。
「こんなことなら、あの魔法をつけておくべきなのかも知れないな」
「あの魔法?」
「ああ。追跡魔法だ」
(……それ、私がつけられてる魔法《やつ》!)
本来子供向けの魔法をつけられていることを思い出し、ヴィクトリアは少し落ち込んだ。
「? 暗い顔をしてどうかしたのか?」
「い、いえ――」
ヴィクトリアが、ヴァージルから目をそらしたその時だった。
「その必要は無い」
ニ人の頭上から、重々しい男の声が響いた。
「ヴァージル。捜し物は『これ』か?」
(――……え?)
二人は顔を上げ――それから、声の主が手にしていた人物を見て、同時に声を上げた。
「ルゥ……!」
「ルゥくん!」
そこにはダン・モルガンとルイーズ・モルガン――そして、傷だらけのルゥがいた。
ルゥの顔色は悪く、ぐったりとした彼は、ダンに右手を掴まれて、ぶらんと空中に吊るされていた。
「ごしゅ、し、ん……さ、ま」
自分を呼ぶヴァージルの声に気付いたのか、ルゥはゆっくりとまぶたをおしあげると、弱々しくヴァージルの名前を呼んだ。
「全くお前がここまでひどい男だったとは思わなかったよ。俺の可愛い妹をずっと待たせたあげく、他の女を選ぶなんて。裏切りも良いところだ」
ダンは嘲るような口調でそう言うと、じろりとヴィクトリアの顔を見た。
「最後のチャンスをやろう。『これ』を助けたいなら、その女を殺せ。この子どものことを、お前は随分大事にしていただろう? 『白色コウモリ』なんて、碌に役にも立たないというのに」
ダンはハッと鼻でわらった。
「その女を殺してルイーズを選ぶなら、一時の火遊びだったと見逃してやる」
「ダン・モルガン……!」
ヴァージルは、ダンを睨み付けた。
「その剣で、さっさと殺せ」
そんなヴァージルに、ダンは短剣を投げて寄越した。
地面を打つ金属音。カーンという高い音とともに、場がしんと静まり返る。
そしてダンの妹であるルイーズは、今日は兄の暴言と悪行を止めることなく、その場に佇んでいた。
ヴァージルは落とされた短剣を広い、ぐっと手に力を込めた。
剣を持つ手は小さく震える。
その時だった。
「花嫁様をお選びください!」
静寂を切り裂いたのは、高い子どもの声だった。
「御主人様に……花嫁様は、必要なお方です。御主人様は花嫁様をずっと、探していらしたはずです」
傷だらけの子どもは、ぽつりぽつりと話を始めた。
「出来損ないの僕を、大事にしてくださった。ご主人様のおそばにお仕えできて、僕は、ずっと幸せでした」
そして子どもは、まるで心から自分の人生に満足したかのように、ヴァージルを見つめて微笑んだ。
――だが。
「……誰がお前に、『喋って良い』と言った?」
ダンは冷たい瞳で子どもを見つめると、その子どもの腹に拳を叩き込んだ。
「……っ!」
「ルゥ!!!」
ルゥの表情が苦痛に歪む。かはっという小さな声と共に、宙吊りにされたルゥの体から力が抜ける。
意識を失った子どもを見上げ、ヴァージルは叫んだ。
ヴィクトリアは、そのやり取りを見て唇を噛んだ。
(昔の私なら、代わりになるとすぐに言えた。でも、今のこの状況で『新魔王《まおう》』がいなくなれば、セレネもデュアルソレイユも、どうなるかわからない)
自分の命にさほど執着がないのは、今も昔も変わらない。
けれど今のヴィクトリアはもう簡単に、『死ぬ』なんて言えないのだ。
ヴィクトリアは眉間の皺を深くした。
今のヴィクトリアに魔法は使えない。カーライルとの連絡も途絶えた今、不用意に動くことは難しかった。
(どうしよう。どうするのが、今の私の最善なの……?)
ヴィクトリアがぎり、と唇を噛んだ時、ダンの後ろに隠れていたルイーズが、唐突に口を開いた。
以前会った時より、どこがくたびれた印象を抱く。彼女は目の下をはらして、静かにこう言った。
「……ヴァージル様は、騙されていらっしゃるのですわ」
(……ルイーズ、さん?)
「彼女に、貴方が守る価値などありません」
「……騙されている、だと?」
ルイーズの言葉に、ヴァージルは顔をしかめた。
「そうだ。これを見ろ」
ダンはニヤリと笑うと、ヴィクトリアの髪飾りを掲げた。
「その女は、お前の花嫁なんかじゃない。お前なら分かるだろう? その女は――カーライル・フォン・グレイルの女だ」
髪飾りの中からは、カーライルの銀の蜘蛛糸が垂れていた。
「もう、おわかりになったでしょう? ヴァージル様。彼女は、私たちにとって邪魔な存在です。この子どもを助けたいなら、彼女を殺して、この血を飲んでください」
ルイーズはそういうと、赤い液体の入っていた瓶をヴァージルに見せた。
「この中には、私の血が入っています。貴方がこれを飲めば、私が貴方の『花嫁』になる。貴方はこれからずっと、私と共に生きるのです」
「それが、君の望みなのか?」
「……皆《みな》が望むことですわ」
わずかな沈黙ののち、ルイーズは答えた。
「ルイーズ・モルガン。私からも一つ質問させてもらおう」
ヴァージルはヴィクトリアを責めることはなかった。代わりに、厳しい声でルイーズに尋ねた。
「何故君は、デュアルソレイユに行った?」
「……人間の血を得るためです」
ルイーズは、静かに言った。まるで感情のこもっていない声だった。
「吸血鬼族は、かつてデュアルソレイユへの侵攻際、その血を得て力を強化した。人間の血は、吸血鬼一族が再興するための、最も有効な手段なのです」
「禁を破ってまで、その血は必要だったのか?」
「戦争のためです。……私たち吸血鬼族が、再びこの魔界《せかい》の覇者となるために。私は――生まれからずっと、『魔王の妃』となるために育てられてきました」
ルイーズは、自分の手を胸に当てた。
「貴方は、選ばれし方なのです。今、貴方が王にならなければ、私たちの一族が、返り咲ける日はきっと二度と来ない。かつて『夜の王』と呼ばれた私たちが、今後ろ指を差されるのは、全て魔王――グレイス家のせいだと、貴方もご存じの筈ですわ」
ルイーズの言葉は正しかった。
ルチア・グレイスの血脈――今のセレネで力を持つ者はその子孫なのだから。
「この血を飲めば、きっと貴方にもわかるはずです。私たち一族の本能が、どんなものなのか。貴方の本能が、本当に求めるものを」
ルイーズの声は、涙混じりで震えていた。
「……そうでしょう? だって、血を好まない吸血鬼なんて、この世にいるはずがないのですから」
「私を王に据えてどうするつもりだ?」
「カーライル・フォン・グレイルを打ち倒し、全ての扉を開き、デュアルソレイユに侵攻します」
ルイーズの言葉に、ヴィクトリアは目を瞬かせた。
そんなこと――絶対に、させるわけにはいかない。
「貴方は、二つの世界の、全ての生き物の王となるです! 貴方ならそれが出来る!」
まるで神を崇める信奉者のように、ルイーズはヴァージルを見つめていた。
だが、平静さを失ったルイーズとは違い、ヴァージルは彼女の言葉を聞いて、左手で顔を覆って、深くため息を吐いた。
「私は、誰も殺さない。それが私の、あの方への思いの証だから。……それでも」
ヴァージルは、ルイーズを見上げて言った。
「ルイーズ・モルガン。私は、君がいつかそれを分かってくれるなら、君を『花嫁』にしてもいいと思っていた。君だけは、ルゥを心から蔑むことはなかったから」
ルイーズはヴァージルの言葉に、ぴたりと動きを止めた。
「だが、あの日君の行いを知って、そんな日は一生来ないのだと分かってしまった。私は、争いは好まない。『花嫁』を得て、強い力を得たとしても、私はルーファスたちと敵対するつもりはなかった。だからあの手紙が届いた時に、君が私の手を取ってくれるなら、それでもいいと思った。もう十分待った。私のわがままで、この世界を乱すことはできない。でも違った。君は私ではなく、君の兄の手を取った。結局君が最後まで愛したのは、課せられた期待にこたえることであって、ずっと私ではなかった」
(ヴァージル、さん……)
一族の悲願と、自分の想い。
ルゥを大切にしてそばに置くヴァージルは、吸血鬼僕の中では異質だ。
ヴァージルは、セレネで生まれ育ちながら、人間のような慈愛の心を持っている。
だが先祖返りである彼は、セレネにおいて争いの火種になる。
だからこそ、『花嫁』を選びたいという自分の思いを犠牲にしてでもセレネの平穏を守ろうとした時に――自分の許婚の少女が兄の言いなりになり、戦争を起こそうとしていたことを知った時。
彼は一人、どんなに悲しみを抱えたのだろう。
ルイーズ・モルガンに――自分の願いを諦めて、信じたいと願った相手に裏切られたのだとしたら。
「――何故。何故今、そんなことを仰るの……!」
ヴァージルの告白を聞いたルイーズは、手を震わせて涙をこぼした。彼女の血の入った瓶が、地面に落ちて割れる。
そしてその瞬間、誰かが舌打ちする音が響いた。
「え?」
その場にいた誰もが、何が起きているのかわからずに、そう口にすることしかできなかった。
なぜならルイーズの体は、巨大な爪によって貫かれていたのだから。
ルイーズは、ごぽっと血を吐いた。心臓に手を当てて、彼女は振り返り、信じられないという表情でその男を見つめていた。
「おにぃ……さ、ま」
途切れ途切れに男を呼んで、ルイーズはその場に崩れ落ちた。
爪の抜かれた体から溢れた血が血溜まりを作っていく。
息も絶え絶えな様子の妹を、ダン・モルガンはまるで足元に這い回る虫でもみるかのような顔をして、冷たくこう吐き捨てた。
「――まったく、女はこれだから」