「わあっ! たくさん咲いていますね!」
 
 ヴァージルがヴィクトリアを最後に案内したのは、一面白い花の咲く場所だった。

「……すごく綺麗」

 白い薔薇の花。
 それはリラ・ノアールの赤薔薇よりずっと、それはヴィクトリアの瞳には美しく映った。

「気に入ったか?」
「はい」

 赤ではなく白であるところが、特に。
 ヴィクトリアの返答の後、ヴァージルは何故か、ヴィクトリアの髪に触れた。

「え?」

 するりと紙紐をほどかれる。
 ヴァージルは、ヴィクトリアの髪にそっと手を差し込んだ。
 編み込まれた髪がほどけて、ルゥが髪に挿してくれた白い花は、ぽとぽとと地面に落ちていく。
 
(ど、どうしよう……)

 癖がついてゆるくウエーブのかかった髪が、頬に当たって少しくすぐったい。
 ヴィクトリアが困惑していると、ヴァージルは白い小さな花の代わりに、大輪の白い薔薇の花をヴィクトリアの髪に挿した。

「やはり君には、白が似合う」

「……っ!」

 ヴァージルはあまり、多く話さない性質《たち》のようにヴィクトリアには見えた。表情も、普段はそう変えない人だろう。
 だが自分を見る彼の瞳は、日に日に優しくなるばかりで――ヴィクトリアはそんなヴァージルに、少しずつ絆されてしまっている自分に気がついた。

(白が似合う、なんて)

 『ヴィンセント』の世界はいつも黒と赤で染まっていて、そんな優しい色は存在していなかった。
 
(……私、つい『嬉しい』って、思っちゃった)

 少しだけ赤く染まった顔を隠すため、ヴィクトリアはヴァージルに背を向けた。

「この花、誰が育てたんですか?」
「これは、私が育てたものだ」

 背後から静かに声が返ってくる。その声が、ヴィクトリアは嫌いではなかった。
 ――……ただ。

「『ヴィンセント』」

 突然昔の名前を呼ばれて、ヴィクトリアは思わずぴたりと体の動きを止めた。

「…………えっ?」
「それが――この花の名前だ」

 ヴィクトリアは振り返ってヴァージルの瞳を見た。
 心の中で、何かがひっかかる。
 彼にそう呼ばれるのは初めてのはずなのに、ヴィクトリアは妙な既視感に襲われた。

「……どうしてその名前を?」

 声が震えないように、ヴィクトリアは精一杯、低い声でヴァージルに尋ねた。

「……それは」

 すると、ヴァージルは答えを口にしない代わりに、どこか寂しそうに目を細めて、ヴィクトリアを見つめた。
 
(どうして……。どうして貴方は、そんな目で私を見るの?)

 ヴィクトリアは胸をおさえた。
 吸血鬼ならば、『ヴィンセント』に敵意を出してもおかしくはないはずなのに。
 わからない。
 その目を見るたびに、何故か胸がざわつく理由も。

「わっ」
 
 その時だった。
 急に風が吹いて、ヴィクトリアの長い髪はふわりと宙に舞うと、薔薇の茨に引っかかった。

「いたっ!」

 髪が引っ張られ、ヴィクトリアが乱暴に髪を外そうとすると、ヴァージルはすぐに彼女のそばに駆け寄って、その手に自身の手を重ねた。

「私がやろう。今、ほどいてやる」

 白くて大きな手が、再び髪に触れる。その時首筋に指が掠めて、ヴィクトリアは目をきゅっとつぶった。

(て、手が……っ)

「ヴィクトリア?」

 ヴィクトリアが体を強張らせると、不思議そうにヴァージルに名を呼ばれ、ヴィクトリアは瞼を押し上げた。

(うっ)

 視線が交差する。
 黒曜石のような瞳に映る自分の姿は、『魔王』ではなく、まるでただのか弱い少女のようだった。
  
「あ、ありがとうございます。あとは自分でやります」
 
 そんな自分に慣れなくて、ヴィクトリアは自分の髪へと手を伸ばした。
 だがその瞬間、彼女は鈍い痛みに襲われた。

「痛っ」

 薔薇の棘が、指に刺さって血が滲んだ。
 するとヴァージルはいきなり強い力で、ヴィクトリアの手首を掴んだ。

「ゔぁ、ゔぁーじる、さん……?」

 ヴィクトリアは驚いた。
 痛みを感じるほどの力を彼に与えられなんて、想像もしていなかったからだ。
 だが自分の手を掴んだ男の、その瞳の色を見て、ヴィクトリアは大きく目を見開いた。

(瞳が、金色に光ってる……?)

 長い黒髪に金眼。漆黒の闇と月。
 それは『夜の王』と吸血鬼族が呼ばれていた遠い昔、頂点に立っていたとされる男の姿とよく似ていた。

(『先祖返り』って、こういうことだったの……?)

 てっきり、黒髪というだけでそう呼ばれているのかとヴィクトリアは考えていた。
 金の瞳を輝かせる今のヴァージルは、まるで違う男のようにヴィクトリアには見えた。
 
(もしかして、今の彼は自分の行動を律することができていないの? ……こんなの、私の知ってるヴァージルさんじゃない!)

 ヴィクトリアはヴァージルから離れようと腕に力を込めた。しかし強い力で掴まれた腕は、ピクリとも体は動かなかった。
 ヴィクトリアを見つめるヴァージルの瞳は、被食者を見つけた獣のように輝いていた。

(違う。こんなの違う!)

 静かに、穏やかに笑う人。ルゥを見つめる優しいヴァージルの瞳を頭に思い浮かべて、ヴィクトリアは再び抵抗を試みた。
 だがヴィクトリアの意思に反して、ヴァージルはもう片方の手をヴィクトリアの腰に手を回すと、ぐいっと彼女の体を引き寄せた。
 
 そしてヴァージルは、クッと抵抗できないヴィクトリア嘲笑うよな笑みを浮かべると、ヴィクトリアの首筋に唇を近付けた。

 熱い吐息が首筋にかかる。
 獣じみた声が、耳のすぐそばから聞こえる。

「……や、やだっ!! ヴァージルさん、ヴァージルさん!!!」

 『今』のヴィクトリアでは、ヴァージルに抵抗できない。
 ヴィクトリアは仕方なく、最後の『強化』の魔法を使い、彼の体を強く押した。
 その瞬間、ヴィクトリアの髪に挿した花が地面に落ちた。

「? 俺は、今――……」

 ヴィクトリアに突き飛ばされ、我に返ったヴァージルは、頭を抑えながらよろめいた。
 そして地面に落ちた『何か』を踏んだ彼は、その正体を見下ろして、大きく目を見開いた。
 白く美しかった大輪の花は、今は潰れて土がついていた。

「…………ッ!」
 
 地面を確認した後、すぐに顔を上げたヴァージルは、自分を怯えた様子で見つめるヴィクトリアを見て、さっと青褪めさせた。
 瞳を隠すように片手で覆うと、彼は何故か、泣きそうな声で言った。

「……すまない」

 ヴァージルはヴィクトリアから顔を背けると、いつもと同じ落ち着いた声で、自分を慕う子どもを呼んだ。

「ルゥ。そこにいるのだろう?」
「は、はいっ!」  

 すると、そばの草むらから、ルゥがぴょこっと顔を出した。

「私はこれから部屋に戻る。……彼女は、お前が部屋まで送ってくれ」

 ヴァージルはルゥに命じると、再びヴィクトリアを見ることなく背を向けた。

「それでは、行きましょう。花嫁様」
「うん……」

 ルゥはにっこり笑って、ヴィクトリアの手を引いた。

 部屋に戻る途中、ヴィクトリアは、一人部屋とは反対の方向へと向かうヴァージルの姿を頭に浮かべて、何故かルーファスの言葉を思い出していた。


『今のあの男は、手負いの獣と変わりません』