世の中にも、学校にも、クラスにも、倫理はほとんど存在しないことを私はあらためて実感している。
 電車はいつもの大きな川を渡っていて、水面は夏の朝日で白くキラキラと輝いている。

 もともと、部活なんてやってないけど、こういう状況になってから、少しでも自分を学校の中で保つために、私は6時27分発のアルミ色の電車に乗り、学校近くに早く着くようにしている。
 まだ、人が少ない車内だけど、私は席に座らず、ドアにもたれながら、ガラスにわずかに映る私服の自分とそんな川の景色をぼんやりと眺めていた。

 この一年、私にとって、散々だった。
 憧れの私服校に入ったのに、結局、服の自由さと引き換えに私にとって、合わない人間関係の世界を選んでしまった。

 とにかく、毎日、疲れは癒えないし、早く、SJKなんて終わっちまえばいい。

 それだけ、私にとって、高二の夏は憂鬱でしかなかった。
 六月が終われば、七月になり、夏休みになる。そして、夏フェスの時期になり、多くの人は、山や海へフェスを楽しみにいく。

 友達を失った今の私には、それはハードルが高いんだと思う。
 というか、もう、私は混雑自体、耐えられる体質じゃなくなったんだ。

 いつも思う。
 この状況になったのは、きっと私が青くて未熟な所為なのかもしれない。

 轟音が途切れて、また低重音が一定の音で車内に鳴り響いている。
 今日も私は憂鬱な気持ちで、カフェへ向かうことにした。




 ☆

 駅前のカフェに入り、いつも通り、アイスのカフェオレを頼んだ。
 いつものように窓側の席に座り、リュックから学校の図書館で借りた、『ナイン・ストーリーズ』を取り出した。そして、紙の栞を挟めたままだった『バナナフィッシュにうってつけの日』の途中から読みはじめた。

 まだ、序盤のところだけど、私にとって、この話はすでに重く感じた。シーモアが過ごしているビーチの描写はやけに眩しく、気持ちよさが伝わってくるところが、サリンジャーのすごいところなのかもしれないと思いながら、グラスを手に取り、ストローを咥えて、カフェオレを一口飲んだ。
 
「へえ、サリンジャーね」
「えっ」
 急に左側から声をかけられ、私はストローを咥えたままなのに、思わずその低い声の方を向いてしまった。

 私の席から一つ飛ばした、左の席に、 同じ制服の男子が座っていた。彼は、ニヤニヤとして、右手で私に手を振った。
 ――何こいつ。知ったような口を利いて、なにがしたいの。

「シーモア、バン」
 彼は自分のこめかみに銃の形にした右手をつけて、それを撃つジェスチャーをした。

「だっさ」
「いいよダサくたって」
 彼は勝手に笑い出しながら、テーブルに置いてあった、ブラックコーヒーが入っているグラスを手に取った。そして、席を立ったあと、許可なんかしていないのに、私の向かいに座った。私はすっと息を吐いたあと、読もうとした本を結局、テーブルの上に置いた。

「ねえ」
「なに?」
「私は、あんたのことなんて知らない」
「じゃあ、今から友達になろうよ」
 いや、別に私、あなたと友達になる気なんてないし――。
 それに今は、友達なんて、もうほしくない。

「朝から積極的すぎじゃない?」
 半分断るつもりで、嫌味っぽく自分では言ったつもりだった。だけと、彼はそんな私の心の中なんて、知らないかのように、またニヤニヤした表情をした。

「だって、サリンジャー読んでる子、初めてみた。それに学校だって同じじゃん」
「え、どうして?」
「だって、ここに書いてあるじゃん」
「あっ」
 彼が右手の人差し指で私がテーブルに置いた本を指差していた。本の背表紙には、確かに学校名のスタンプが押されていた。別にどうでもいいことだけど、余計なこと、バレてしまったなってふと思った。
 このカフェにこの時間、私と同じ高校の人間がいるとは思わなかった。だって、私は学校の人たちに会わないようにわざわざ、学校から三つ前の駅に降りて、ここのお店に寄っていたのに、私が恐れていた同じ学校の人と会うということが、今、現実となっている。

「てかさ、脈絡もなく、急に見知らぬ人が話かけると思う?」
「いや、思わないし、今もうざいと思ってる」
「こうやって話しかけることなんて、本当はしないんだよ。いつもなら。だけど、図書室で誰かが、サリンジャーの『ナイン・ストーリーズ』を借りていることは知っていた」
「それがよくわからないんだけど」
 いつまで、彼の相手をすればいいんだろう――。一人になってゆっくりしようと思っていたのに、それが叶っていない今を少しでも浄化したくて、カフェオレをもう一口飲んだ。

「つまり、僕は君のことを探していたってことだよ。それにクラスで上手く行ってないことも知ってる」
「ねえ。――なんなの」
「違うよ。学校サボろうって、そそのかそうと思ってるだけだよ」
「やり口が悪魔じゃん」
「あー、ちょっとまって。君が想像していることと、違うよ。全部違う。まず、話聞いてくれよ」
「それに、はいそうですかって、ついていくと思う?」
「たまたま、廊下でいじめられてるの見たんだよ。だから、救いたいと思った」
 確かに一ヶ月前、私は、キラキラして宝物だと思っていた仲間から、ゴミ扱いされて、私はそのことを受け入れられずにしばらくの間、玄関で立ち尽くしていた。

「――へえ」
「だから、今日、一緒にさぼろう。僕は君のことを救いたい」
 急に説得力が出た彼に対して、私は気がつくとゆっくりと静かに頷いていた。
 




 そうして、彼とわたしはそれぞれ、学校に体調不良であることを自分で連絡した。そして、お互いにコーヒーとカフェオレを飲み終えた。その流れで、彼の下の名前が蒼也(そうや)だということを知り、私の下の名前を教える流れになって、翠(すい)と返すと、「呼びやすそうだね」とか、よくわからない感想を返された。

 そして、「ついて来てよ」と言って、蒼也が席を立ったから、私は慌てて、テーブルに置いたままだった『ナイン・ストーリーズ』をリュックに戻し、空のグラスを持ち、席を立った。私は彼のうしろを追うような形で、空のグラスを返却台に返した。返却台の横の柱にかけられていた時計を見ると、まだ八時数分だった。

 店を出ると、まだ朝の爽やかな空気が続いていて、もしかしたら、今日一日、涼しいままなのかもしれないと、ふと思ったけど、きっと昼になる前には、夏の熱でこの街も透明に空気が揺れるのだろうとも思った。
 蒼也は店の前に停めている自転車のチェーンロックを外していた。

「地元、このあたりなの?」
「あぁ。いつもこの駅まで自転車で来てる。そして、ここの前もよく通る」
「そうなんだ」
「まだ、二件目には早すぎる時間だから、誰もいない秘密の場所に行こう」
 私の方を振り向いた瞬間、蒼也の前髪が風で揺れた。筋がとおった小ぶりな鼻と、笑顔になると、細くなる両目がやけに印象的に見えた。まだ、朝なのに、少しだけ心臓がドキドキし始めていることに気がついて、いや、気のせいでしょ。って勝手に自分に言い聞かせた。
 謎にドキドキし始めたのは、きっと、さっきまで向かいに座っていた蒼也の顔をしっかり見ていなかっただけかもしれない。そんなことを考えている間に、蒼也は白い自転車を押して、歩き始めた。
 そして、数歩歩いたあと、私の方を振り向いた。

「ほら、翠ちゃん、行くよ。――やっぱり、呼びやすいな」
「いいよ、そういうのは」
 そういうことで精一杯になるくらい、私の心臓は一気に騒がしくなった。





「ほら、誰もいないだろ」
「あの反対岸が私の地元だよ」
「へえ、そうなんだ。近いようで遠い街だな。川の所為で」
 蒼也はそう言いながら、緩やかな段差の護岸ブロックに座った。高校がある蒼也の街と、私の地元の街を結ぶ橋の下は、ひんやりとしていた。住宅街と住宅街を結ぶ小さな橋だからか、車もそんなに走っていないみたいで、思ったより辺りは静かだった。
 護岸ブロックは板チョコみたいな長方形で、私から見て、六列目から先は川の底になっていて、水面がゆらゆらしていた。そして蒼也は、持っていたバッグから、レモンの炭酸水が入ったペットボトルを二つ取り出し、一つを私にくれた。それを受け取ったあと、私は彼の一段下の護岸ブロックに座った。
 
「いや、近いでしょ」
「だね。この川の所為で行政区分が変わってるだけだしな」
「きっと地図で見ると、あの橋脚くらいに点線ありそう」
 左手で少し先にある橋脚を指差すと、蒼也は、
「線なんて、くだらないよな。ボーダーレスだ」とか、意味わからないことを満足そうに言ったあと、ペットボトルを開けた。開けた瞬間に涼しい音が辺りに響いたから、私も同じようにキャップを捻ると、同じように炭酸が漏れる涼しい音がした。

「買ってくれて、ありがとう」
「いいよ、誘ったのは、僕の方だし」
「意外と、男らしい一面あるんだね」
「弱々しく見えるかもしれないけど、一応男だから」と言って、蒼也はレモンの炭酸水を一口飲んだ。別に弱々しさを言ったわけじゃないし、そもそも、弱々しい印象なんて持ってなかったから、そんな返しされると思わなくて、少しだけ私はびくっとした。もしかしたら、また、余計なことを言って、自分で意図せずに勝手に人のことを傷つけてしまったのかもしれない――。

『翠って、何考えてるかわからない。ムカつくから、もう私たちと関わらないで』
 一瞬、あの時、学校の玄関で言われたことを思い出した。それを誤魔化すために、私もレモンの炭酸水を一口飲んだ。わずかな甘酸っぱさと、炭酸の刺激で、少しだけ現実に戻れたような気がした。

「――もしかして、余計なこと言った?」
「えっ? どの辺りが?」
 蒼也と目があった。蒼也はきょとんとした表情をしていたから、どうしようと思った。
「いや、その――」
「気にしすぎだよ。翠ちゃんは」
「ごめんなさい。私、いつもこうなんだ」
「褒めようと思って、裏のこと言っちゃうんだろ。褒めたつもりの言葉が、その場の空気で失言みたいになっちゃって、気まずくなる」
 どうして、そんなことわかるのって、言いたくなったけど、びっくりしすぎて、結局、私は何も言えなかった。はるか上を飛んでいる、ジェット機の轟音が辺りに響き始めた。橋の下に吹き込む、少しだけ冷たい風は、中洲の草をほどよく揺らしていた。

「――あの日、玄関で聞いてたんだ。翠ちゃんがそのあと、すすり泣きしてるところも」
「――そうだったんだ。じゃあ、本当に知ってたんだ」
「だから、助けたいって言っただろ。本当は、君が泣き出した瞬間、どうにかしたかった。だけど、その時はどうすることもできなかった。それで、ずっと気がかりだったんだ。しかも、面識なんてないし」
「今、会ったばかりだからね。私たち」
 私がそう言ったことに対して、蒼也は、ふっと、息を漏らすように弱く笑った。そして、蒼也はもう一口、炭酸水を飲んだあと、ペットボトルを護岸ブロックの上に置いた。そして、バッグから本を取り出した。

「これ、『ナイン・ストーリーズ』の隣に置いてある本だよ」
 蒼也に本を差し出されたから、私はその本を受け取った。本のタイトルは、『大工よ、屋根の梁を高く上げよ シーモア-序章-』と書かれていて、本を持つ右手を返し、背表紙を見ると、『ナイン・ストーリーズ』と同じように学校の名前がスタンプされていた。

「シーモアって」
「そう、『バナナフィッシュにうってつけの日』の別の話だよ。シーモアの弟が主人公で、幸せそうに見えたシーモアがどうして絶望してしまったのかを、シーモアとの手紙で解き明かすって感じの話だったな。それはおいておいて、同じ学校で、同じ話を読んでいる人のこと、気になってたんだ」
「それって――」
「そうだよ、自分でも、勝手にシンパシー感じているだけだって思ってるよ。だけど、昨日の朝、翠ちゃんがさっきのカフェでそれを読んでいるのが見えたんだ。しかも、翠ちゃんは、あの時、玄関で泣いていた女子だった。そんなの声かけるに決まってるじゃん」
 ものすごく私が、蒼也から気にされていたことだけは、わかった。私は息を大きく吐いたあと、私の心は今のところ、揺れているのか、自分自身に聞いてみた。だけど、心の中は静かなままで、何も答えなんて浮かばなかった。

「君は一人じゃない」
 急に言い切られて、また、私はカフェを出た時と同じくらい、胸がドキドキし始めた。そして、急に顔が熱くなるのを感じた。別に告白されているわけでもないし、何かが始まっているわけでもない。ただ、まだ七月が始まった世界の爽やかな朝が続いているだけなんだ。
 別に私は一人だっていい。
 私は別に――。

「――ねえ。私を助けるって、ただ、私を待ち伏せして、話しかけるってことだったの?」
「いや、違う」
「じゃあ、どういうこと?」
「――間接的だけど、気にかける人間はいたってことを伝えたかっただけだよ」
 蒼也を見ると、蒼也の頬がだんだんと、赤くなっているように見えた。

「ごめん。客観的に考えたら、結構、変なことしてるし、変なこと言ってる自覚あるな。余計なことするなよって感じだよな。翠ちゃんにしたら」
「――私のことばっかり知ってて、ずるいよ」
「だよな。勝手に僕が思い上がってただけだったな」
「――いや、違うよ」
「えっ」
 蒼也が驚いた表情をしたから、蒼也をじっと見つめたあと、

「もう、一人じゃない証明をして」
 そう返したら、蒼也はゆっくりと私のことを抱きしめてくれた。





 あの日から、四年近く経った。
 今、私は電車で地元へ帰っている。一人きりだった、あのときと同じようにドアにもたれて、流れる車窓を眺めていた。電車は大きな川に差し掛かった。見慣れた景色だけど、昼間に見るのは新鮮に思えた。
 
 二十歳になった私は、もう、あの高2の夏からは、かなり遠ざかってしまったように思う。確かにあのとき、蒼也が私の前に現れたおかげで、私は救われた。
 そのあとから、日々のつらさは軽減されて、世界はモノクロからピンク主体のカラフルになったのは事実だった。それは全部、蒼也のおかげだった。蒼也と付き合った日々は、本当に楽しかった。

 だけど、もう、私の隣には、蒼也はいない。

 それはお互いにただ、あのときの青さから抜けて、価値観が変わってしまったからなのかも知れない。
 たまたま、あのとき読んだ本で、一瞬だけ、私の青さと、蒼也の青さが、うまく混ざっただけなんだと思う。

 お互いに別の大学に行き、別の世界を知り、私たちは遠距離を克服することはできなかった。
 新たな日常を過ごすたびに、過去の青さを忘れていった。
 たぶん、それだけのことなんだと思う。
 たまにそのときのことを思い出すときは、だいたい、カフェオレを飲むときで、それを飲んだところで、その尽きない想いは未だに浄化されない。

 『君のことを救いたい』
 あのとき、そう君が言ってくれた気持ちは本当で、確かに私のことを救ってくれたよ。
 だけど、君とは近づけそうで思ったよりも遠かった。ただ、それだけのことなんだと思うよ。

 だから、たまに思い出す君も元気でいてね。
 君はひとりじゃないよ。

 車窓はあっという間に、川の真ん中くらいになった。見えない日常生活にはどうでもいい線をおそらく超えて、私を乗せた電車は私の地元に入った。