「郁恵の食べたいものは何だ?」
リードから手を離して席に着いた郁恵に俺は聞いた。
隣の席には身体の大きな友人がいて、サポートスタッフの女性は席に着くことなく、そういう性分なのか忙しなく手伝おうと手を差し伸べている。
「うーん、ウインナーが欲しい。それとトウモロコシ!」
「分かったよ、焼いてやるから待ってろ」
俺は何があるかを伝えず、何を食べたいかを聞いた。
その方がレパートリーの多い今日のバーベキューには合っていると思った。
次々に食材を網の上に並べ、賑やかな調子のままバーベキューは続く。
郁恵よりも隣に座る友人の方が明らかに食べていたが、郁恵はそんなことは気にせず、幸せそうに焼きたての食材を堪能していた。
「郁恵もカルビ食べなよ? 美味しいよ?」
「恵美ちゃんペース早いよ~! そんなにたくさんお皿に載せられてもすぐに食べられないから」
網の周りに集まり、調理する担当が三人に対して、座って食べ続けるのは二人。
明らかに供給過多の状況になり、郁恵は餌付けをされているとしか思えない光景になった。
段々と落ち着いてきたところで俺も席に座ることになり、郁恵の正面に腰を下ろす。
風に吹かれて郁恵の長い髪が揺れる。
その直後に紙コップが倒れ、ジュースが零れた。
「あぁ! 郁恵、オレンジジュース零れちゃったよ!!」
隣の友人が一際大きな声を上げて慌て始めた。
1リットルのオレンジジュースが入った容器のパッケージを見ていたからそれが俺にはオレンジジュースだと分かっていたが、テーブルに広がっていくオレンジジュースはライトグレーの色をしていた。
「今拭いてやるから、動かないでいいぞ」
郁恵の洋服が汚れないよう、先に声を掛けた。
その場で立ち上がり、俺はタオルを手に取りテーブルを拭く。
滲んだテーブルの色が白く戻っていく。
郁恵は申し訳なさそうな顔を浮かべていた。
「ありがとう……往人さん……」
「気にすんなよ」
俺の言葉を聞いて頬を赤らめる小さな顔をした郁恵。
何かまた目立ってしまっている気がして、俺は居心地の悪さを感じた。
「皆さん御機嫌よう。なるほど、もうすっかり楽しんでいるようだね。
遅れてすまないよ」
タイミングを見計らったように、よく見覚えのある白いスーツ姿をした師匠がやって来た。
師匠は紳士のつもりなのだろうが、どうにも茶化しに来ているように見えてならなかった。
「もう、待ってたんですよ、神崎さんったらっ!」
「いやはや……ついつい目の前に咲き誇るしだれ桜に夢中になってしまって、絵描きの性だね。我ながら足が止まってしまっていたよ」
ジョークにしか聞こえない言い訳を言って、歳の近い美桜さんの隣に座る師匠。
俺や郁恵からは少し遠い席を選んで座って眺めようとするその様はこの状況を楽しんでいるように見えた。
師匠と美桜さん、二人の仲を象徴するような光景につい邪推を持って見てしまう。
二人はもしかして、俺と郁恵の関係をネタに親交を深めているのではないか。
確かに歳も近く見た目にはお似合いな二人。
美桜さんはスタイルが良く、年齢を感じさせない魅力があり、師匠も同様だ。想像に過ぎないが、未だ未婚である二人が気付かぬうちに逢瀬に向かったとしても何ら不思議に感じないのは実に恐ろしいものだ。
「あの……神崎さんって、もしかして往人さんのお師匠さんですか?」
郁恵は顔を上げて、遅れて気が付いたのか前を向いて遠慮がちに声を掛けてきた。
「あぁ、そうだよ。そういえば……これが初対面だったな」
俺はもちろん初対面であることを知っていたが、慌てさせないよう話を合わせた。
「あわあわ……ご、ご挨拶をさせていただいて、よろしいですか…!」
急に立ち上がって、声が裏返ってしまっている郁恵。
勢いでテーブルに置かれたお皿を倒しそうになっていて、俺の方がヒヤヒヤさせられた。
そこまで緊張するような相手ではないが、郁恵にとっては緊張する類いの相手のようだ。
「郁恵さん、そんなに緊張しなくても大丈夫よ。
取って食べたりしないから、神崎さんは」
どういう安心のさせ方なんだと思ってしまうが、師匠は美桜さんと一緒に立ち上がって郁恵の席に向かっていく。
「私の不在の間にアトリエにお邪魔しているようだね。前田郁恵さん」
また変な誤解を与えるような言い方をして、師匠が先に挨拶をする。
俺が郁恵の隣に立つ前に、すでに美桜さんが隣に立っていて、二人を向かい合わせてくれていた。
「す、すみません……挨拶もせずに、勝手お邪魔をしてしまい……」
申し訳なさそうな様子の郁恵。そんなに構えるような相手ではないと言ってやりたいが、随分と年も違う相手だ。身構えてしまうのも無理はなかった。
「師匠っ!!」
郁恵のことを思って、つい釣られてしまい衝動的に大きな声を上げてしまう。
だが、動じることなく落ち着いた様子の師匠は言葉を続けた。
「分かっているさ往人。少し意地悪をしてしまったね。
私は神崎倫太郎。そんなに脅えなくていい。
往人が世話になっているね、君のおかげで彼は変わり始めている。
私は心から感謝しているよ」
一人称を私にしている師匠はどうも胡散臭い雰囲気がしてしまうが、親切さをアピールして郁恵に弁解した。
「そんな……私の方がいつも助けられてばかりです……」
師匠が優しく涙ぐんでしまっている郁恵の手を取り、その両手を包み込むように両手を合わせる。
どういうつもりか分からないが、師匠は実に紳士的に振舞い緊張をほぐすような態度で、手の感触を楽しんでいた。
「君の魅力は君以上にこの場にいる人間が感じている。
自分に自信を持つといい。私には君はもっと自由になれるように見えるよ」
緊張を解きほぐすようにさらに言葉を綴る師匠。
「自由に……ですか?」
握られた手の方向を見つめ、郁恵は真面目にその言葉を受け取っているようだった。
「あぁ、望みを持ち続ければ願いは叶う。
それだけ、周りの人間は君のことを理解しているということだ。
それは当たり前のことじゃない、君の魅力が成せる業だよ」
「はい……そうだとすれば、それは本当にありがたいことです。
お師匠さんが優しい方で安心しました」
「私が悪い人だったら、許せないかい?
往人を任せたくないと思うかい?」
「そんなこと考えなくても信頼していますよ。
だって、二人はずっと一緒に暮らしていらっしゃるじゃないですかっ!」
「ははははっ!! 郁恵君、実に面白いね君は。
そうなんだよ……生活を共にする往人は実に甘えん坊なんだよ。
私が朝帰りをした日なんて……」
「おい師匠! それ以上余計な嘘を口にしたら、晩飯なしだぞ!」
「あぁ……すまんすまん、つい揶揄いたくなって堪らなくってな。
これ以上は控えることにするよ。往人の飯を食えなくなるのはご免だからね」
不快になるくらい愉快な笑い声を上げて、郁恵からやっと手を離す師匠。
つい感情的になってしまったのを俺は後悔しつつ、師匠と郁恵の挨拶は終わった。
それからというもの、師匠が加わって余計に美桜さんがテンションを上げて、宴会ムードに花見会場は変わった。
美桜さんと師匠はお酒を飲み始め、すっかりほろ酔い気分でバーベキューで焼いた食材を口にしている。
二人の空間だけは居酒屋のような光景に変わっているが、それ以外のメンツはすっかり食べ終わり満腹状態になっていた。
「そうだ、往人さん、ボール持ってきたから一緒に遊びませんか?」
居酒屋状態の会場に飽き始めたタイミングで郁恵から俺は誘いを受けた。
「いいぞ、腹もいっぱいになって退屈してきたところだからな」
陽射しに弱いせいでスポーツは得意ではないが、郁恵を相手にするなら無理はしないと思い間髪入れず承諾した。
「よかった……それなら一緒に遊びましょうっ!」
郁恵はサポートスタッフの女性に話しかけ、視覚障害者用ボールを渡してもらい、俺をこっちにおいでと誘った。
それほど人も密集しておらず、十分に遊ぶスペースもある河川敷の会場。
遠く離れることなく、俺と郁恵はボールを地面に置き簡単なブラインドサッカーを始めた。
「行きますよっ! 往人さんっ!」
青春ドラマのワンシーンのように郁恵は勢いをつけてボールを蹴り上げる。
飛沫上げる水流のようにフットサルと同サイズのボールが宙を舞い、灰色の空の上でシャカシャカと鈴の音を上げた。
そして、地面に落下したと同時に響き渡った鈴の音に向かって俺は駆け出した。
「そらっ!」
郁恵に向かって俺は届くと信じて蹴り返した。
ブラインドサッカーはパラリンピックの競技にもなっているスポーツでルールくらいは俺でも知っていた。
この場には試合が出来るほど人数はいないが、専用のボールを使い遊ぶくらいでも、十分楽しむことは出来るだろう。
「わぁ! ピッタリだよ!」
鈴の音を鳴らしながら郁恵の足元に吸い込まれていくボール。
郁恵はボールが真っすぐに届くと満面の笑顔を弾けさせた。
「上手にパスできましたね、それじゃあ今度はこれを着けましょうか?」
そう言ってアイマスクを取り出した郁恵。
迷いなくそのまま着けると郁恵は俺を探し始めた。
「往人さんにも着けてあげますから、そこから動いちゃダメですよ」
舗装されていない土の上を不安定な足取りでこっちに向かってくる郁恵。
元々目の見えていない郁恵がアイマスクを着けて歩いていると、むしろ普通の女性に見えてならなかった。
そんな郁恵はある時、絵の具の匂いを頼りに俺のことを見つけた。
その時を再現するように、俺の身体に郁恵は到達した。
「往人さんを見つけましたよ」
「そんなに嬉しいか?」
「はい、だって往人さんは意地悪だからなかなか居場所を教えてくれませんから。こうして慣れておかないと」
喜びを噛み締めるように胸板に顔を擦り付けてくる。
マーキングするようなその仕草は、愛くるしい動物のようだった。
人前で抱き締め返せるほどの勇気は俺にはないが、不思議と良い匂いが嗅覚をくすぐり身体を離したくない気持ちになった。
「そのまま動いちゃダメですよ、私がアイマスクを着けてあげますからね」
そう言って手探りで俺の耳に触れたところで、ようやく位置を把握してアイマスクを着け始める。あまりにもこそばゆい感触を感じながら、俺は郁恵と同じ視界に染まった。
「よくそんなことをして恥ずかしくないな」
「何を言ってるんです。恥ずかしいに決まっているじゃないですか」
じゃあ何で恥ずかしいことをわざわざしようとするのかと問いたくなったが、俺はグッと我慢してやり過ごした。
「ブラインドサッカーのルール的に郁恵まで着ける必要があるのか?」
「私は光を認識できないですが、全盲でも光を認識できる方はおられるのでみんな着用します。ちなみにライトメーターのアプリにはいつもお世話になっていますよ」
何事もないかのようにそう言葉にする郁恵。
俺にはほぼ縁がないが、明るさを数字で教えてくれるライトメーターのアプリがあれば、パソコンや照明を付けっぱなしにすることもない。郁恵にとっての生活の知恵だ。
同じ世界で生きる中で、郁恵は自分の身体について後ろ向きには捉えない。それがよく分かる言葉だった。
お互いに目隠しをしてパスを俺たちは始めた。
ドッチボールをするよりは怪我もしにくく運動をしている感覚もしっかり持つことが出来た。
途中から盲導犬とフリスビーで遊んでいたサポートスタッフの女性と身体の大きい女性も参戦して、慌ただしくも楽しい時間が続いた。
チームを作って実際にブラインドサッカーを出来たら楽しいだろうと会話をしながら俺も思った。
人は自由になって初めて不自由であったことを知る。
それは家の中でだけ暮らしていて、自分が両親から虐待されていることに気付かない子どもも同じだ。
社会の常識なんて教えられるまで子どもは知ることはない。そして、何が本当の幸福であるかも。
少なくとも俺は親に関しては恵まれていて、こうしていることが自由であると感じることが出来る。
それは自然と郁恵と過ごす時間を求め始めていて、俺の心が揺れ動いている証拠でもあった。
「郁恵はいつも楽しそうだな」
「だって、点字ブロックの上以外を安心して歩いて行けるのは、みんなが一緒にいてくれるからだから」
ボールを蹴るのに慣れてきた郁恵は盲導犬のリードを握りながら言った。
それは彼女の心から溢れる感謝の想いなのだと分かる。
そしてたぶんそれは、アイマスクを着けて全色盲であることを今だけでは忘れていられている俺も根本的には同じなんだろう。
体力的に続かないせいでこういう機会を頻繁に作ることは出来ないことは分かっている。
しかし、こうして日々を過ごし、成長していく郁恵の姿を見ながら、俺も一緒に成長していきたいと、願いが明確に芽吹いていった一日だった。
一人では叶えられない願いでも、支援があれば叶えられる。
私は恵まれている。だって、私のそばに寄り添ってくれる人は嫌な顔一つせず、手を差し伸べてくれるから。
それは当たり前ことじゃない、特別なことだって分かってる。
だから私は、この差し伸べてくれる手を無駄にしないために、立派な人にならなければならない。
「少しついておいで、いい物を見せてあげるよ」
往人さんのお師匠さんはそう言って、スポーツを終えて休憩している私を誘った。
声は往人さんに比べて低くてダンディーだから聞き間違えることはない。
私は差し伸べられたお師匠さんの肘を掴んで坂道を登っていった。
そして、辿り着いた場所は桜の木の下だった。
「何が見せてくれるんですか?」
「さっきまでここのしだれ桜を描いたんだ、郁恵君に見て欲しくてね」
「でも……私は……」
「まぁ、騙された思って、絵に触れてみるといい」
そこにあるのに想像することしか出来ないしぐれ桜。
それはキャンバスに閉じ込めたくなるほど、美しいのだろう。
いつにも増して優しい声色でキャンバスを渡してくれる。
キャンバスは重量感があり今日一日で作り上げたと思えないほど立派なものだった。
「えっ……これって、お師匠さんはこれを一日で描き上げたのですか?」
キャンバスには無数の桜の花びら達が貼り付けてあった。
固まった水彩絵の具の凹凸と花びらが私の頭の中で想像の扉を開かせる。
花の甘い香りと一緒にしだれ桜の輪郭が触れている感触で鮮明に伝わって来る。
それは砂絵に触れた時に似た感動だった。
「乾くのに時間もかかるから、ほとんど合流する前に描き上げていたよ。
君たちがボール遊びをしている間にちょっと仕上げをして完成させただけさ。せっかくプレゼントするんだ。しだれ桜もしっかり描き込んでおきたかったからね。
陰ながら君には感謝している。喜んで受け取ってくれるかい?」
何が待っているのかと付いてきたが、あまりにも衝撃的な出来事だった。
絵画というものは見て楽しむだけではない。
それは一つの魔法を掛けられたように、私の心に響いた。
私にも絵画を楽しめることが出来るのだと。
「こんな立派な作品を私に……ありがとうございます」
私は感銘を受けた心境のまま、感謝を伝えた。
きっと時価総額にすると数百万はする作品を手に持っていると思うと手が震えそうになる。
寮室に飾っている、父から貰った砂絵の隣に飾ろうと、私は密かに思い付いた。
「いい表情だ、時間をかけて描いた甲斐があるというものだ。
そうだ、もしよければ君も描いてみないか?
興味本位だが、君がどんな絵を描くのか見てみたいんだ」
それは思わぬ誘いだった。
私は往人さんの気持ちも考えて迷ったが、少しだけ挑戦してみることにした。
そして、往人さんに見つからないよう、少し離れたところに移動してお師匠さんからレクチャーを受けた。
色鉛筆やクレヨンでラクガキ程度に描くくらいなら、画用紙に描いたことは何度もあるが、パレットと筆を手に水彩絵の具を使うのはほぼ初めてのことだった。
触れてみた感触を思い出し、しだれ桜を思い思いに私は描いた。
始めた使った道具で描いた絵だ、酷い出来であることは間違いない。
でも30分ほどしか集中は続かなかったが、完成することが出来た。
納得できるほど美しいしだれ桜には程遠いが私はお師匠さんに渡した。
「ありがとう。今はまだ秘密にしておくが、タイミングを見て往人に見せるとしよう」
「はい、よろしくお願いします」
私は頷いて、往人さんの意見も聞かず取り返しのつかないことをしたかもしれにないと罪の意識を感じて心が揺らいだ。
往人さんは……私の描いた絵に何を感じるのだろう。何を思うのだろう。
お師匠さんも私に感想を言ってくれないのでとても不安になった。
「そんな顔をするな。綺麗な顔が台無しだ」
「すみません……私は往人さんのお母さんの代わりにはなれないって分かってしまって……」
私は天才でも凡人でもない、目の見えない全盲の人間だ。
プロに見せる絵を描くにはあまりにも相応しくない。
それを嫌というほど自分で分かっている。
「誰もそんなことまで期待していない。
目が見えなくても、君は存在するだけで価値がある。
君は私が望んだ通りに描いただけだ。
もし往人のためにならなくても、悔やむことはない」
背中を軽く叩き勇気づけてくれるお師匠さん。
往人さんは色を取り戻したいと話していた。
それがどれだけ達成できているのか私程度には分からない。
これ以上、何をしてあげられるのかも分からなかったのだ。
「それは……私が往人さんを好きだとしても……ですか?」
往人さんにとって私の最大の価値は色が見えること。
そんなことが頭の中を支配していき、私は思わず言うつもりのなかったことを口走っていた。
往人さんのことばかり考えすぎたせいだ。
その後のことは頭が真っ白になってよく覚えていない。
でも、それから私は自分の本当の気持ちに気付いていくことになった。
往人さんの力になりたいという気持ちと一緒に、往人さんのことを、誤魔化しきれないほどに男性として興味を抱き、好きになっていたことに。
――めぐる春夏秋冬。
春から夏へ、夏から秋へ、そして秋から冬へと季節は移り行く。
時が過ぎるのは自然な流れのように見えて残酷なことのようで、生きていることの証明でもありました。
慶誠大学二回生の日々は順調に過ぎ去り、二度目の冬を迎えようとしています。
結局、あれから坂倉さんと言葉を交わすことはなく、二年続けてミスコングランプリに出ることはありませんでした。
私はキャンパスライフを送りながら、喫茶さきがけにもよく通いピアノの練習もさせてもらい、充実した日々を送っています。
友人である恵美ちゃんは相変わらず元気な様子でよくカラオケや室内スポーツにも一緒に出掛けています。静江さんは就活と卒業論文の制作で忙しくなり、今が大事な時期とのことで、ほとんど別の方がサポートスタッフの支援をしてくれています。
主に私が支援を受けているのはテキストデータ化サポートとテキスト点字点訳、ガイドヘルプなどですが、フェロッソとキャンパスを歩くのに慣れてきたことで、ガイドヘルプを毎回頼む必要もなくなり、人が大勢いて不安な時や初めて行く教室の時に限られてきました。
視覚障がいを持つ私にとって最も重要なテキストデータ化サポートについては引き続き利用をしています。
パソコンやスマホに付いている音声認識ソフトを使って学習することが一番多いので教科書や資料などをテキストデータにしてもらうのですが、最近はスキャンしたデータを手動で入力してテキストデータ化しなくても、OCR(文字認識)機能を使ってテキスト部分を認識し、文字データに変換する技術が開発されたようです。
これによって時間をかけて入力する手間が省け、便利になったようです。
チラシや手紙などもカメラアプリを使って情報を読み取って書いている文字や絵などを音声再生して教えてくれますから、こうした近年のテクノロジーの進歩は目覚ましいものがありますね。
点字点訳に関してはテキストデータ化したものをパソコンから点字点訳ソフトで読み込み、点字プリンターで印刷すれば点字テキストにしてもらえます。こちらの方は手間がかかるので日々の学習に必要な分だけを印刷してもらっています。
後は点字資料や録音資料に訳されていない情報を読み上げる対面朗読があり、何かと予定が合わないことが多いので、試験前などに何回か利用するに留めています。
何もかもが順調とは言えませんが、教育系の講義も二回生からあり興味深く勉強をしているところです。
そんなところで来年からは保育士試験の勉強もしていきたい所存であるので、なかなか忙しい毎日が続いています。
でも、アルバイトや部活、サークルに所属して頑張っている方も大勢おられますので、私は時間に余裕ある方かもしれませんね。
暑い夏から寒い冬へと、秋を経由して気候が変わってからは早いことに、去年、私が左腕を骨折してしまったため開催できなかったクリスマス演奏会の前日を迎えました。
今年は怪我もなく練習を順調にこなし、華鈴さんに励まされながら準備を続けてきました。一年越しということで楽曲も増やして曲目は豪華になっていくら練習しても時間が足りないという気持ちでいっぱいです。
街にはクリスマスソングが流れ、飾りつけもされています。
喫茶さきがけも演奏会に向けて飾り付けをすることになり、私の身長くらいあるクリスマスツリーを飾り、私が少し背伸びをしててっぺんに星を取り付けました。
厨房の方ではクリスマスメニューもあってなかなかお忙しいようです。
毎年恒例となっている予約者限定のクリスマスケーキは完売して、必死に当日に向けて準備に取り掛かっておられます。
「これでリハーサルも終わりだから、今日は帰りなさい」
「もう少し練習したかったのに……」
早めに喫茶店をCLOSEにしてもらい、リハーサル練習を華鈴さんとしていたが、もう時間になってしまったようだ。
グランドピアノを奏でる両手が温まって来たところで終わりになるのは物足りなさが残る。
まだ疲れが身体に伝わってくる前の段階だったため、私はつい名残惜しくて口をついた。
「陽が落ちるのが早くなってきたから。夜道は気を付けて早めに帰宅した方がいいわ」
「はい……分かりました……」
華鈴さんはこの後も仕事が残っていて、忙しい様子なので私は華鈴さんの言葉を聞き、大人しく早めに帰ることにした。
「自由に練習できなくて、いつも悪いわね。消音ユニットを取り付けてあげられたらよかったのだけど」
「いいえ、お気になさらないでください。それはご負担になると分かっていますから」
お店の扉や窓を閉めれば防音になるが、開店中はお客さんの目もあって安易に練習出来ない。大きくて移動させるのも困難なグランドピアノならではの悩みだが、それを心苦しく思っていてくれているのは、気遣いの出来る華鈴さんらしいところだった。
厨房で忙しそうにしている往人さんに声を掛けて、私はフェロッソを連れて寮へと戻ることにした。
帰り道、リードを握る手が寒さでかじかんでしまう。
身体が冷えないようにマフラーを巻き、防寒着を着ているが、それでも寒波が身体を襲って来る。
凍るような冷たさで辛いが、何とか我慢を続けて足を動かす。
会話相手がいない分、イブの晩は今年一番の寒さを感じた。
「フェロッソ……寒いね、もうすぐだからね」
ピアノの練習で遅くまで残る時は往人さんが寮まで送ってくれるのが、今日は仕事がまだあるので一人だ。
心細く感じるが、明日のために今日は我慢するしかない。
寮に到着して一息ついてお風呂に入る。
肩まで湯船に浸かると、一日の疲れがそのまま温かいお湯に流れていくようだった。
お風呂から上がり、パジャマ姿に着替えベッドで横になるものの、明日への興奮でなかなか寝付けず目が冴えてしまう。私はイヤホンを着けて明日演奏する曲を聞いて眠くなるのを待つことにした。
「往人さん……喜んでくれるかな……」
机の上には恵美ちゃんに見守ってもらいながら編んだ白い手編みのマフラーが置かれている。制作期間は二ヶ月、地道に平日も休日も使ってコツコツと編んできた。
慣れるまでは苦労ばかりしていた私なりに頑張って編み込んだ努力の結晶だ。
「告白……上手に出来るかな……」
今日はクリスマスイブで明日はクリスマス。そして明後日は往人さんのお誕生日を迎える。
私は明日の帰りに告白をして、明後日は往人さんとデートに出掛けようと計画している。
未来のことなんて分からないから、私の告白が成功するかは今のところ分からないけど、既に予定は空けてもらっている。
お師匠さんの神崎倫太郎さんはお忙しい方で明日の午後にパリに仕事で出掛けるらしい。国際的に活躍をしている画家さんは海外にも頻繁に用事があって出掛けるようで雲の上の世界のようだ。
そういうわけで、お師匠さん不在のため私はお誕生日を祝う役目も兼任している。
私なんかでいいのかと最初は思ったが、お師匠さんから退屈してるだろうから一緒に過ごしてやってくれと言われてしまった。
喫茶さきがけではクリスマスが繁亡期で特に忙しい分、クリスマスの翌日は休日が与えられていて、往人さんは他の友人と会う約束もないらしい。
恵美ちゃんを誘ってみたけど、”チャンスじゃない! 二人きりで幸せな時間を過ごしなさい”って説教するような口調で言われてしまった。
確かに三人でお出掛けしたりパーティーをしたら、恵美ちゃんは置いてけぼりを食らって不機嫌になってしまうだろう……往人さんと恵美ちゃんは特に仲が良いわけでもないから……。
結局のところ、渡りに船、前向きに考えれば私にとって好都合にも二人きりになれる機会に恵まれたのだ。
「はぁ……往人さんに断られちゃったらどうしよう……気まずいなぁ……」
演奏を聴いてもらった後に告白すると決めた手前、意識すればするほど緊張が襲ってくる。
普段はネガティブなことは考えないように努めているのに、こういう時だけ異常なほど不安が襲ってくる。人間の心理というものは何と面倒なのか。
もしも……告白を断られてしまったら、明後日は気まずい気持ちで往人さんと過ごすことになる。
往人さんに寂しい思いをさせるわけにはいかないから、逃げるわけにも行かない。
一世一代の告白をすると決めたのに、気持ちが晴れない憂鬱な気分だった。
「いやぁ……そんなことを考えてちゃダメっ! 絶対この気持ちを届けるっ!
絶対、私のこと好きって言ってくれるもんっ!
私……もう逃げたくないから……往人さんを離したくないから」
初めて好きになったかけがえのない人。
たくさん助けてくれて、隣のいると安心できる人。
もっと甘えて、手を繋いだり、抱き締めて欲しい。
誰かに取られてしまうのも、微妙な距離感のまま、いつまでもいるのも耐えられない。
「私……頑張るから、明日は楽しみにしていてね、往人さん」
ぺんぎんのぬいぐるみをギュッと抱き締めながら、ようやく睡魔が襲ってくると、私はスマホを拾い上げ音楽を消して、身体から力を抜いて睡眠に入った。
明日は今年一番の楽しい一日になる、そう願いを込めながら。
――2025年12月25日。
朝食の片づけを終えて、部屋に戻ろうとするところで俺は珍しくスーツ姿をしている師匠に呼び止められた。
明日から始まる絵画展のために今日、関西国際空港からパリまで向かう予定だと話していた忙しい師匠が、何の用だろうと俺は思った。
「往人、午後になったら出掛けるからな、先にプレゼントを渡しておこう。
これは、クリスマスプレゼントかそれとも誕生日プレゼントか……」
「どっちでもいいって。毎年同じやり取りするのはやめろって」
去年にも聞いた言い回しでプレゼントを渡そうとする師匠。
俺は毎年用意していないのに、こういうところは律儀な人だった。
「そうか、ならとりあえず受け取っておけ。
本当は今日を迎える前に渡すべきだったのだろうが、俺もどうにも決心がつかなくてな。先送りにしていたものだ」
「引っ掛かる言い方だな。決心って……一体なんだよ……」
訳が分からないまま新聞紙に包まれた物体を受け取る。
両手で受け取った瞬間、その中身が額縁に入れられた絵画であることはすぐに分かった。
師匠がわざわざこんなタイミングで渡したい絵……。
まるで見当が付かないまま、俺は早速答えに辿り着こうと中身を開いた。
「まさかこれって……」
白黒に見えてしまうのは致し方ないが、デッサン力まで含めて決して芸術として優れているとは言えないが、どこか柔らかい線で描かれているのが印象的だ。
これを描き上げた人物の姿が頭に浮かび、驚きのあまり手が止まってしまう。
いや、何故師匠がこんなものを持っているのか。
恐らくだが、しだれ桜を描いたであろう水彩画を目の前に、その疑問が最初に浮かんだ。
じっと見つめていると、師匠が自分の口から答えを教えてくれた。
「あぁ、見ての通りだ。これは花見をしたあの日に彼女が描いたものだよ。
お前はずっと、チャンスを伺っていたのに彼女に描いてもらっていなかっただろう?
色の使い方まで俺が手塩にかけて丁寧に教えた。まぁ、時間にすれば30分程度の短時間だが。
間違ってはいないはず、これは切にお前が欲しかったものだ。
どうだ? 喜んで受け取ってくれるかか、往人?」
師匠の話しを聞き、必死に心を静めようと深呼吸をする。
水彩画を選んだのは、アクリル絵の具に比べて服や顔に付着しても汚れが取れやすいから。
油絵具にしなかったのは匂いもきつく、完成させるには時間もかかり短時間で教えるには労力がかかりすぎるから。
それは分かる……しかし、考えている間にも身体の方が異常をきたしていくのが嫌というほど分かった。
「いや……これは。そういうことか……」
……俺の視界に映っているモノ。
それは、水彩絵の具で描かれた白黒のウサギのような形状をした不安定な姿をしているしだれ桜とキャンバス左上に付着している真っ赤な色をしている何かだった。
いや、大体のコントラストで分かる、正確にはしだれ桜は薄ピンク色をしていて、真っ赤な色をしているのは絵の具ではなく、郁恵の血痕なのだろう。
指を切って付着したくらいの小さな血の痕だが、俺にとってそれは唯一色を帯びて身体が見える郁恵のものであるという証明だった。
「おい、どうした?!」
キャンバスを握る手が震え始め、眩暈を起こし始めた俺を見ている師匠は大きく声を荒げた。
「ダメなんだ師匠……覚えているか……あの時、貧血を起こした理由を……」
段々と意識が薄れていく中で、遠ざかっていく声を聞きながら、俺は師匠に過去の記憶を思い出してもらうため訴えかけた。
「くっ……あの時と同じだっていうのか、往人……」
身体から血の気が抜けていき、そのまま師匠の身体にもたれかかる。
見てはいけないものを見てしまった俺は、そこで意識を失った。
*
目を覚ますと、そこはベッドの上ですぐそばに師匠の顔があった。
「起きたか、具合はどうだ?」
言葉を掛けてくれる師匠の心配そうな声が耳元にまで響いた。
時間にすれば数時間、まだ正午を迎えたばかり。
時計を確認した限り、意識を失っていたのはそれほど長い時間ではなかったようだ。
「目覚めは最悪だな……しかし、どうだろうな……少しずつ楽になっている気がするが、まだ意識が朦朧とする感じだ。
なかなか力が入らないが、単なる貧血だからすぐに動けるようになると思う」
指は動かせるが、身体は重く、足はまだ痺れが残っているようだ。
身体を少し起こして、ペットボトルの水を少量口に含む。
このくそ寒い時期に汗は搔いているが、吐き気がするほどの身体の不調ではなかった。
「そうか、無理する必要はない。
仕事に行きたいだろうが、今日は大人しくここで休んでいろ。
事情は店の人に伝えておく。
四年前のようなことをぶり返しては困るからな……」
母が亡くなった直後の体調不良は長引いたが今はそれほどの不調ではない。
しばらくすれば体調は戻るだろう。
「あれはよっぽどなことがあったからだよ。
でも、少し怖いな……赤い血を見るのは苦手だ」
俺は正直に弱音を吐いた。認めたくないが、そういう気分だった。
「一応、確認しておくが、彼女の描いた絵に色はなかったのか」
きっと、師匠は確かめたかったのだろう。
郁恵に俺の母親のような魔性じみた絵描きとしての才能があるのか。
そしてもう一つ、俺が郁恵の描いた絵を見た時、母の絵のように色が宿っているのか。
「あぁ、なかったよ。色があったのはあいつの血液だけだ。
馬鹿みたいだ……あんな少量の赤い血を見ただけで貧血を起こすなんてな。
久々に真っ赤な血を見たから、身体が過敏に反応したらしい」
情けなさでいっぱいになって嫌気が差し、俺は投げやりな感情に師匠に言った。
師匠は何とも複雑な表情を浮かべ、今よりも身体が弱かった昔のことを思い出している様子に見えた。
「そうか、それは残念なことだな。
だが致し方ない。四年ぶりのことだが再発したことを受け入れて乗り越えていくしかないだろうな。
前田郁恵と離れたくはないだろう?」
返事をせずに横を向いて、俺は顔を見られないよう隠した。
俺がそっぽを向くと、師匠は事情が分かったからか、それ以上の言葉はなく部屋からいなくなった。
クリスマス演奏会が喫茶さきがけでは待っているというのに、情けない気持ちでいっぱいになった。
「郁恵君、少し話をしないか? 聞いてもらいたいことがあるんだ」
イヤホンを着けて本番で演奏する曲を聴いていると唐突に私は話しかけられた。私を”君呼び”する人は一人しか思い浮かばない。
クリスマス当日、喫茶さきがけに私は午前中から来ていた。
少しだけクリスマスケーキの販売の手伝いをサンタ衣装に着替えてしていたが今は着替えを済ませて休憩中だ。
今日はランチからお客さんが多いので比較的空いている二階席でイヤホンを着けて演奏会本番のイメージトレーニングをしているところだった。
「お師匠さんですか?! こんな時間にどうしたんですか?」
「あぁ、神崎だよ。往人が来れなくなったことは聞いているだろう。
その件で少しばかり、話しておきたいことがある」
往人さんが体調不良になり、お仕事を休むことは先ほど聞かされた。
それは残念なことだけど、身体を治してもらうのが一番。
私は本番の演奏が終わるまであまり考えないようにして二階席で静かにしていた。
いつになく真剣な口調で私に話しかけて来るお師匠さん。込み入った話であることを想像して肩の力が入った。
わざわざ私のところまで話しかけてくれたのも驚きだが、パリに行くため関空に行かなければならない時刻が迫っているはずなのに、一体どうしたのかと思った。
「お時間は大丈夫なのでしょうか?」
「心配はいらんよ、長話をするつもりはない。予定通り飛行機には間に合わせるさ」
「分かりました、ここで大丈夫ですか?」
「もちろんだ、まぁ……気負わず聞いてくれ」
それからお師匠さんは先ほど家であった出来事を教えてくれた。
「そんなことを試していたのですね……。
私の絵に色が宿るかもしれないと、でもそうじゃなかった」
お師匠さんの気持ちは何となく分かる。弟子である往人さんのことを思ってのことだろう。私も力になりたいと話していたからすぐに納得できた。
「そういうことだ。試して悪かった、こんなタイミングで往人に渡したこともな」
「いえ……それは気にしてません……。
ただ、私は体調を崩した往人さんのことが心配なだけですから」
真っすぐに私はお師匠さんに思ったことを言った。
私の心の内が伝わってしまったとしても悔やむことはない。
告白するよりも、往人さんの元気に戻ってくれることの方が大切だ。
「だろうな、顔を見ていれば分かる。
それなら、あいつは話したがらないだろうから、もう一つ教えておいた方がいいだろう。
真っ赤な血を見て貧血を起こしたのは今回が初めてではない。
一番酷かったのは、母親が亡くなった時のことだ」
それを聞いた瞬間、背筋が凍るような思いだった。
簡単にするような話ではないことはすぐに分かる。ショックを受けたであろう往人さんだったらなかなか躊躇ってしまって話すことが出来ないだろう。
往人さんのお母様が四年前に亡くなったことは聞いていたが、詳しいことは耳にしていない。
それは伏せられてしかるべきことだと受け入れていたから。
私は往人さんに秘められた辛い記憶と向き合う覚悟を受け入れようと心を落ち着かせた。
往人から聞いた話も含めて説明するが、あれは暑い夏の日のことだった。
あの日、往人は母親がエプロン姿のまま台所で血塗れになって倒れている凄惨な姿を目撃した。
着ているエプロンに赤黒い血が染み込み、身体のすぐ近くに血の付いた包丁が落ちていたことからそれが腹部に刺さっていたことをすぐに往人は察した。
鍋に入ったスープは長時間煮込んでいたせいで噴き出し安全装置が発動してコンロは止まっていた。母親は料理の最中だったのだ。
侵入者の形跡はなく、自分で刺したとしか思えない状況だが、料理中であることも含め事件性は見えなかった。自殺をする動機も考えられないため、最終的に事故として処理された。
往人は台所に広がっていく血だまりを見て貧血を起こして気絶した。
元々、赤い血を見るのは苦手だったらしい。それが赤い血に見えるのは母親のものだけだがな。
私は往人と連絡が付かないため、慌てて家にやってきたが、往人は気絶したまま、母親は大量出血で息をしておらず既に亡くなっていた。
あまりに突然の出来事に気が動転しかけたが、私は何とか救急車を呼んだ。
往人は病院で目を覚まし、しばらく入院することになった。
母親が倒れている姿を見てしまった精神的ショックと大量の真っ赤な血液を見た衝撃のせいだろうと言われている。
事故当時、あの家には往人とその母親である画家の桜井深愛先生しかおらず、状況から一度は往人の犯行によって母親が殺害された可能性を指摘されたが包丁には母親の指紋しかなく、争った形跡のないことから往人の無実が証明された。
だがな……事故として処理された後でも往人はあの時のことを今でも後悔している。
自分が気絶などせずしっかりしていれば、救急車を一早く呼んでいれば母親は助かった可能性があるからだ。
あくまでこれは可能性でしかないが、往人はそこから立ち直るのにしばらく時間がかかった。
一番大切な母親を亡くしたのだから、当然の結果だがな……。
*
母親を亡くし、世界から色彩が失われていった。
そんなことを往人さんは以前に話してくれたが、その時に受けた精神的ショックは計り知れないものであったことが想像できる。
いつ告白しようかと悩んでいた思考が一瞬にして吹き飛ぶほど、お師匠さんが話してくれた内容は衝撃的なものだった。
今日の演奏会が終わったら、往人さんを励ましに見舞いに行こうと思っていただけに、複雑な思いを私は抱えた。
「タイミングが悪かったな、今はあまり深く考えすぎなくていい。
ただ知って欲しかったのだ、往人の中でもまだ消化しきれていない感情があること。
それと、君が流す赤い血は往人を苦しませる毒になるかもしれないということを」
「はい、ありがとうございます……。
お忙しいのに大切なお話しをしてくださって。
演奏会が終わったら、往人さんに会いに行きます。
自分がいたら迷惑を掛けてしまうかもしれませんが……」
お師匠さんは往人さんを心配する私の気持ちを察して話してくれた。長い間、往人さんと暮らしていたお師匠さんだからこそ知っていることは沢山あり、それを知ることが出来たのは有意義なことだ。
わざわざ時間がない中、来てくれたのにはそれだけ期待してくれているのもあるのかもしれない。
ただ、好きという気持ちだけでは足りないことに気付けたことを私は感謝すべきだろう。
「大丈夫だよ、往人はこの程度のことで君から離れて行ったりしない。
保証しよう、往人は君のことを大切に想っている。必要としてくれているよ。
だから、これからもあいつの幸せを考えてやってくれ」
「お師匠さんがそう言ってくださるのなら、信じます。
不安はいっぱいありますが、会いたいって気持ちが込み上げて来るのは本当ですので」
「本気で好きなんだな……」
「すみません。どうにも、隠すのが苦手みたいでして……」
お師匠さんは私の言葉に納得したのか、大きな手で優しく頭を撫でて席を離れて行った。何でもお見通しなんだろう……それは華鈴さんも同じなんだけど。
取り残された私は一瞬だけ空虚を思いを抱きながら、自分はやっぱりこんなことでは諦めきれないのだと気付いた。
往人さんにとって私の血は赤い色をしている。ただ当たり前のそのことが恐ろしく、そして愛おしく私には思えた。
唯一、私だけが往人さんにとって色のある人間ということ……それが、より一層運命的に感じられた。
「往人さん……お師匠さんも応援してくださっています。
だから、この手を離さないでくださいね」
私は願いを込めて小さく呟いた。
本番の時が迫る、私は雑念を振り払い席から立ちあがった。
もう一時間も経てばクリスマス演奏会が始まり、その後は立食パーティーに流れていく。
その予定を知っている私は喫茶さきがけの奥にある従業員が休憩時間を過ごす事務所兼休憩所へとやって来た。
そこには、本番に向けて精神を研ぎ澄ましているのか、楽器ケースからフルートを取り出して本番前の練習をしている華鈴さんの姿があった。
「……お邪魔でしたか?」
私が部屋に入った途端、演奏が止まってしまったので私は気を遣ってしまったと思い確かめた。
「そんなことないわ。私も不甲斐ない演奏は出来ないなって思ってちょっと固くなってた。でも、郁恵さんの表情を見て分かったわ。
私は郁恵さんとの演奏が楽しみで本気になっていたんだって。
ミスもしてしまうかもしれないけど、その時は許してくれるかしら?
郁恵さんの演奏をしっかり聴きながら、今日の演奏会を楽しみたいから」
「もちろんです! 華鈴さんの音は本当に人の心を魅了するものがあります。
だから、私の方こそそれに合わせられるように、心地いいハーモニーになれるように、精一杯頑張ります!」
華鈴さんの言葉に私も応える。華鈴さんでも緊張するのだと分かると、私は嬉しくなり緊張が少し解れた。
「ありがとう、真っすぐな郁恵さんを見ていると私も心が躍るわ。
年に一度のクリスマス演奏会、観客の皆さんに楽しんでもらいましょう」
華鈴さんが僅かな物音をさせて楽器を置き椅子から立ち上がると、私の肩に手を置いた。
本番前に相応しい気持ちを高め合う会話を交わし、私達は威風堂々と演奏会を待つ客席へと向かった。
「この位置でいいかしらね、それじゃあOKよ!」
「往人さん、聞こえますか? クリスマス演奏会がいよいよ始まりますよ!」
華鈴さんのアイディアで往人さんとビデオ通話を繋ぐことになり、スマートフォンを私達の演奏が見えやすい位置に設定して置いてくれた。
私は少しでも往人さんを励ましたくて、精一杯この声が届くように明るく声を掛ける。
「あぁ、聞こえるよ。二人とも楽しそうだな」
大切な往人さんの声が私の耳に届き、私は踊り出したくなるくらい感情が湧き立った。
「可愛いサンタ衣装でピアノの演奏する郁恵さんを見れないのは残念だろうって思って。一人で家にいるのは寂しいでしょうけど、これで我慢しなさい」
華鈴さんもいつもの気さくな調子で優しく往人さんに声を掛ける。温かみを感じられる瞬間に私は胸が熱くなった。
「はい、今日は行けなくてすみません。僭越ながらここから楽しませてもらいます」
仕事を休んでしまったことを謝罪しつつも往人さんは私達を見てくれている、私は確かな勇気をもらった。
―――それじゃあ、始めましょうか。
上品な口調でそう開始の合図をして、照明を消してくれたようだ。
華鈴さんは言っていた。演奏中は照明を消して窓も閉め切っていて、テーブルにはそれぞれローソクが立ててあると。
それはとてもロマンチックでクリスマス演奏会にぴったりだなんて思いながら、華鈴さんのアイディアを受け取った。
―――今、蝋燭に火を灯しているわ。もうすぐ始まるわよ。
華鈴さんがピアノ椅子に私を案内してくれる最中、そう小声で口にした。
私は席に着き、点字で記された楽譜にそっと触れる。
それは練習を続けてきた日々を思い出すための小さなおまじない。
演奏が始まれば触れるようなタイミングはない。
それでも、練習をしてきた日々を忘れないために、手を貸してくれた全ての方へと感謝を忘れないために、私は譜面に触れた。
―――準備OKです、何時でも行けます。
私は華鈴さんの手をそっと握り、声で伝えた。それで心が通じ合っていると信じることが出来た。
―――それでは、クリスマス演奏会を始めさせていただきます。どうぞごゆっくり、お楽しみください。
これまで何度もここでコンサートを開催してきた華鈴さんが観客に向けてマイクへ声を乗せる。
店内には私の晴れ舞台を見るため静江さんや恵美ちゃんも見に来てくれている。
沢山の拍手が客席の方が鳴り響き、ついに待ちに待った瞬間が訪れる。
グランドピアノから客席までの距離は近く、まるでライブハウスの中にいるみたいに感じられた。
こうして、待ちに待った一年越しのクリスマス演奏会が始まった。
最初の曲目は華鈴さんが好きだと言っていた、私も好きなチャイコフスキーの『くるみ割り人形』を選んだ。
『眠れる森の美女』、『白鳥の湖』とともにチャイコフスキーの三大バレエ作品に数えられ、最後に作曲されたのが本作の元となったバレエ曲であり、クリスマスを舞台にしたものであることも今日にピッタリな、彼の代表的作品の一つだ。
ピアノを中心にして童話の世界を歩くように軽快かつ煌びやかなメロディーを思うままに奏でていく。ところどころでフルートにパートを引き継ぎ、合わせるところでは湧き立つようなハーモニーを強調していく。
あまりに幸福な約20分間の演奏が終わり、大きな拍手が送られる。
私はその店内に響き渡る拍手に応えるようにピアノ椅子から立ち上がり、お辞儀をした。
華鈴さんは熟練しているのが分かる調子で慌てることなくMCをしてくれて、ノリの良いテンポで歓声に答えた。
次に私達はお互いのソロ楽曲を演奏した。
私はオーディオブックを聞きながらでも演奏できるパッヘルベルの『カノン』を自信たっぷりに奏でて、華鈴さんは久石譲作曲の『君をのせて』を恋をしてしまうくらい美しく透明感のある響きで演奏して見せた。
心から切なさが込み上げてくるような完成度の高さに私も観客に合わせて大きな拍手を送った。
それから X’masSongを数曲二人で元気よく披露してクリスマス演奏がいよいよ後半に差し掛かると、特に届けたくて丁寧に練習を重ねてきた松任谷由実の名曲『春よ来い』を演奏した。
印象的なイントロのピアノから始まり、出会いと別れの季節を象徴するようなあまりに切なく透明感のあるメロディーをピアノとフルートで情緒的に演奏していく。
同名のドラマに限らず、卒業ソングとしても有名な時代を超えてもなお愛され続ける名曲。
心が締め付けられるような演奏に観客が息を呑むのが分かった。
私は早く会いたくて愛おしい往人さんのことを想いながら最後まで演奏をやり遂げた。
一切の邪魔の入らないまま感動的な演奏が終わると、数秒の静寂の後で一際大きい拍手が私達に贈られた。
こうして店内の熱量は最高潮に到達した。
私は自然と笑顔が零れて、同時に泣き出しそうになるのをグッと堪えると、立ち上がって丁寧にお辞儀をした。
練習の日々を思い起こす間もなく、あっという間に過ぎ去っていく大切な演奏会。最後は出会った日に私が披露した『トルコ行進曲』を二人で演奏して明るく締めくくった。
気持ちの入った経験のないような割れんばかりの拍手を浴びて、私は涙を滲ませながら、たくさんの人と握手を交わし、互いに感謝の言葉を伝え合った。
不自由な身体を持つ私でも、精一杯練習をして努力を続ければたくさんの人に喜んでもらえる、多くの感動を届けられる。
その実感を得たことは私自身を勇気づけると共に、やり切った幸福感で胸いっぱいに満たされていった。