視えない私のめぐる春夏秋冬

「不細工で太ったあたしを見る目はいつだって冷ややかで冷たかった。頑張って痩せようとしたって、上手くいかなかった。整形する勇気も沸かなかった。不遇な扱いをされるのはあたしのせいじゃない、悪口を叩く奴らのせいだ。産んだ親を恨んでも仕方ないからそう思ってあたしは生きてきた。

 日本は特に外見で人を判断する国だ。あたしのような人間には誰も興味を示さない、郁恵は誰からも優しくされているから気付かないかもしれない。でもあたしはそこにいるだけで邪魔者扱いだった。

 運動神経も悪くて根暗で人の足を引っ張ることも多くて泣き虫で、生身のあたしに接してくれて、話し相手になってくれる人なんていなかった。
 いつも無視されるか可哀想な目で見られる、惨めなあたしだった。

 でも、郁恵なら、目の見えない郁恵ならあたしの傍にいてくれると思った。

 ねぇ……分かったでしょう?
 あたしは醜いアヒルの子、誰にも愛されることない呪われた子なの」

 外見を揶揄(やゆ)され、これまで多くの不遇な境遇を受け、差別されてきたと話す恵美ちゃん。
 だからといって身体を許していい理由にはならないが、私にはそれが悲しい告白に聞こえた。

「そんなことないよ……恵美ちゃんは優しくていい人だよ!」

 私は大切なことに気付いて欲しくて懸命に声を上げる。
 嘆いているばかりでは前は見えない。ずっと暗闇に閉ざされてしまう。
 だから、私は友達になってくれた恵美ちゃんに訴えかける。
 出来る限りの想いを込めて。

「そんなのは……郁恵に近づくための演技だよ。ただ好かれるためにいい人を演じてきただけ。本当のあたしは醜くて欲深い、モテる女を恨んでならない穢れた女なのよ」

「好きな人のために良い印象を持たれたいのは悪いことじゃないよ。
 外見だって関係ない。
 あなたはあなた自身の魅力で人と付き合っていけばいいんだよ。
 私だって……私だって、人に見せないだけで今まで辛いことはたくさんあった。
 でも、恵美ちゃんにも出会えた。優しくしてもらえた。
 それは、とても嬉しいことだったよ。
 友達だったら相手が傷つくようなことはしない、恵美ちゃんだって分かってるはずだよ!」

「あたし……嫉妬してたよ。
 ミスコン委員会の人が話しかけてきた時。
 あの人たちはずっと郁恵を見てた。あたしのことなんて眼中にない感じで。
 酷い扱いの違いだって思った。
 郁恵のことを汚してやりたいって思った。
 だって郁恵は自分の魅力に気付いていないんだから。
 あたしにはない魅力を全部持っていて、本当に嫌になるよ……」

 本音を曝け出す恵美ちゃん。
 そこにはこんな自分は嫌だという気持ちもはっきりと込められていた。

 段々と力を抜いて、体重を掛けていた身体を起こしてくれる恵美ちゃん。
 興奮していた感情は収まり、脱力しているようだった。
 
 私は何とかまともに呼吸が出来るようになり、身体を起こして恵美ちゃんがすぐそばにいることを感じながらベッドに座った。

 身体に染みついた不快感は残っていても。
 もう……恵美ちゃんの気持ちを十分に知った私からは恐怖心が無くなっていた。
 
「ごめんね……私は自分に自信なんて持てない。
 私の目は自分を見ることも出来ないから。
 だから、恵美ちゃんがそんな風に思っていたことなんて気付かなかった。
 でもね、恵美ちゃんがいてくれること、いつも感謝してるのは本当なんだ。
 それだけは信じて欲しいよ……」

「あたしもそうよ。郁恵がいてくれて感謝してる。
 毎日大学に行くのだって郁恵が話し相手になってくれて隣にいてくれるからよ。
 目の見えない相手と話せるのはあたしにとって安心できる存在だった。
 だって、あたしは醜い自分を見られたくないからさ……。
 だから感謝してるよ、郁恵……」

「うん、ありがとう……。
 大丈夫だよ、あたしの気持ちは変わらないよ。
 だから、いつも通りの私達でいよう。
 自分を責めないでいいから……」

 目に映らなくても、心は繋がっていると私は信じたくて、最後まで言葉を尽くした。
 
 正気に戻った恵美ちゃんが私から離れていく。
 玄関が開き、すぐに閉まる音が聞こえて、恵美ちゃんがこの寮室を出て行ってしまったのだと分かった。

 先程まで賑やかだった分、誰もいなくなった部屋は異様なくらいに静かだ。
 心を乱されたが、貞操を守ることの出来た私は布団に潜り、慣れない経験に涙で枕を濡らした。

 父はある時、最初から悪意を持った人間はいないと教えてくれた。
 悪意を抱いてしまうのは世界が歪んでいるせいだと。
 だけど、こうも言った。
 世界が歪んでいることを憎んではならないと。

 私は今日、その言葉の意味が少し分かった気がした。

 明日からはまた、明るい自分に戻ろう。
 それが私にできる最善であり、誠意であって、正しい選択のはずだから。

 長い一日の最後に、私はそう思った。
 ゴールデンウイーク明け、私は変わることなく慶誠大学に来ていた。
 フェロッソを連れて昼休みまで一人で講義を受けていると静江さんが食堂へ向かう途中に声を掛けてくれた。

「郁恵さん、大丈夫だった?って……それを聞くのは卑怯だよね。
 私は知ってたから、あの子がそういうことしようとして二人きりになろうとしてたって。
 本当は私も一緒にいるか恵美さんを連れて一緒に帰るべきだったのに。
 だから謝るわね、本当にごめんなさい!」

「静江さん……私は気にしてないよ。
 それより知ってたんですね、あの後のこと」

 バツの悪い焦った様子で謝る静江さん。
 あの日から数日過ぎたが、静江さんのところに恵美ちゃんから連絡があったそうだ。
 酷いことをしてしまったからあたしの代わりに郁恵のことを慰めておいて欲しいと。

「電話越しだけど、恵美さんはかなりショックで後悔してるみたいだったわ。
 二度と同じ過ちはしたくないって」

 そんなことがあの後にあったのかと私はまず最初に思った。
 怖い経験ではあったが、特に身体を傷つけられて外傷を受けたわけでもない。
 お互い謝って元の関係に戻ってお終いにしたかったのだけど……。
 あの夜のことで恵美ちゃんは相当自責の念に(さいな)まれているようだ。

「そっか……私はもう気にしてないのに」

 私は静江さんに言った。早く元の関係に戻りたいと思っていたから。
 
「そう……でも危ないところだったでしょ?」

 心配な態度に変わりなく静江さんは聞いてきた。
 女性同士でも愛し合うレズビアンは社会的には不思議なことではない。
 でも、それは双方の同意があって成立するもの、私がそれを望むことは恵美ちゃん相手にはない。
 私はあの場でそのことを分かって欲しかった。

「恵美ちゃんはちゃんと話せば分かってくれる、私は信じてたよ。
 静江さんだって本当はそうでしょ? 恵美ちゃんのことを信じようとしたんでしょ?
 だから私達を残して家に帰った」

「だとしても危ないよ……そんなに簡単に人を信用するなんて」

 一言では言えない複雑な心情を抱いているのか、静江さんはそう言い返した。

「違うよ、私はいつもみんなに助けられてる。私、人を見る目はあるんだ。
 静江さんも恵美ちゃんも、この子も、私が危ない橋を渡ろうとしてるって分かったら教えてくれる、時に叱ってくれる。だから私は迷うことなく生きていられるんです。
 私が生きているのは私だけの力じゃない。
 それを知っているから私は私の傍に寄り添ってくれる人を信じるんです。それがいつも私を幸せに導いてくれるから」

 自然と強く手綱を握りながら、私の想いを静江さんに伝えた。

「郁恵さんは相手の顔が見えなくて怖くないの? 見えない事への不安はないの?」

「怖くないよ。だって怖い人かは声を聞いていれば分かるから」

「でも、そんなのわざと演技をして優しくしてるかもしれないじゃない」

「ちゃんと話してみれば分かるよ。それに、たとえ目が見えても、相手の心の中までは見えないよ」

 これまで考えることだけは沢山してきたから、私の回答に迷いはなかった。
 静江さんも私の言葉に圧倒されて納得せざるおえなかったようだ。
 伝えたい気持ちに正直になって思わず感情的になってしまった。 
 でも、静江さんは私の言葉を自分の思考で噛み砕いて、よく分かってくれたようだった。

「はぁ、仕方ないわね……郁恵さんには敵わないわ。
 当たり前のことだけど、私も人の心の内側までは分からない。
 だから、勝手に決めつけることなくお互いに言葉を尽くすことが大切よね。
 分かってるつもりなのに、目の前でこういうことがあると自分でも分からなくなるわね」

 静江さんの中では、恵美ちゃんの悪い部分ばかりが印象付けられて頭の中にあったのかもしれない。
 人は相手を警戒すればするほどそのことを(さと)られないよう平静を装おうとする。それはよくあることで、本人が自ら気付いて直していくべきことで、私が否定することでもない。

「そうかもしれませんね……。
 教えられることより、経験することの方が大事。
 それは今も昔も変わらないんだと思います。
 だから、会いに行きましょう? 
 私を案内してください、恵美ちゃんのいるところまで」

 エスパーではない私には恵美ちゃんの居場所は分からない。
 だから、私は静江さんを頼ることにした。
 もしかしたら、恵美ちゃんの匂いの付いたものでも持ってきていたら、警察犬みたいにフェロッソが探し出してくれるかもしれないけど、フェロッソは盲導犬だ。そういうことに使う気にはなれなかった。

「分かったわ、案内するから行きましょう、郁恵さん」

 納得してくれたのか静江さんは覚悟を決めてそう言うと歩き出し、先導してくれた。
 そして、食堂に入った私達は恵美ちゃんの座る席に辿り着いた。

「恵美ちゃん、一緒に食べよう?」

 恵美ちゃんの前に立ち私は明るく声を掛けた。自分に負けないように、人を恐れないように。

「でも……あたし、二人に会わす顔がないよ」

 落ち込んだ声で、遠慮するような声で、恵美ちゃんは言った。
 昼食時、食堂は今日も賑やかで生徒はたくさんいたが、恵美ちゃんだけはテーブルに一人で座っているようだった。

「そんなことない、私は恵美ちゃんと一緒にいたいよ。
 それに、傷ついてる恵美ちゃんを友達として放ってはおけない。
 私も力になりたいから。してもらうばっかりじゃなくて、一緒に支え合いたいから。
 それが、友達だって思うから」

 今度会ったら伝えようと思っていた気持ちを込めて、自分の言葉で伝える。
 私の言葉に静江さんも続いた。

「私も同じ気持ちよ。
 反省している恵美さんを一人にさせてはサポートスタッフとして失格だから、これも一つの手助け。
 だから、一緒に食事しましょう?
 傷つけることがあっても、仲直りして分かり合うことが出来る。
 それが友情というものでしょう」

 先輩らしく、静江さんがしっかりとした言葉を恵美ちゃんに送る。
 落ち着いていて、感情的にならずに躊躇ったりもしない。
 静江さんはよく出来たお姉さんのようだった。

「ありがとう……二人とも。
 うん、一緒に食べよう。食べる量はなかなか減らせないあたしだけど。
 こんなあたしでよければ」

 まだ固い雰囲気だったが、少しだけ柔らかくなった声色で恵美ちゃんは言った。
 
 ようやく氷が解けたように、安堵して昼食を買いに私は静江さんと向かった。
 私達は恵美ちゃんがカレーライスを食べているから、同じものを一緒に食べた。
 恵美ちゃんが食べているのは大盛りのカツカレーで私は食べ終わった頃には満腹度100%でちょっと苦しかったけど、恵美ちゃんと同じ物が食べられて、嬉しい気持ちの方が大きかった。

 こうして元の関係に戻った私達。
 
 まだキャンパスライフは始まったばかりなのに、様々な経験をしている。
 
 日本に来てからというもの、新鮮な事ばかりで驚かされる。

 そういえば、大学入試の日も大変な事件に巻き込まれたことを思い出し、私はあの日助けてくれた男性の絵の具の匂いに思いを馳せて、午後の講義に向かった。
 五月下旬、梅雨の時期に入り、外を歩くと雨風にさらされることも増えてきた。
 折り畳まれた白杖(はくじょう)を携帯しながら、傘を差して手綱を握る日もある。
 そういう機会も増え、私はロングレインブーツを履き、滑らないように気を付けながらキャンパスを歩いている。
 
 そんなある休日、私は天気予報で通り雨があるかもしれないという予報を知りながらも、フェロッソと散歩に出かけることにした。
 栗のようなぷくりハットを頭に被り、水玉ドットが入った白黒のワンピースを着て寮を出ると、私は駅前から商店街方向に向かって歩いていった。

 近頃は気温が30℃を超える日もあり、強い湿気でジメジメとした日が続いている。
 今年の夏は危険な暑さになるとニュースキャスターが話しているのを聞くたび、一段と日本の夏の恐ろしさを感じてしまう。

 私は軽やかなシースルー五分袖のワンピースを着て、少しでも暑さを和らげようと気分だけでも変えて歩いていた。

 途中までは晴れていたが、あいにくの雨が降ってきたところで私は屋根の付いた商店街に入ることにした。雨を凌ぐことが出来て安堵したところでタオルを取り出しフェロッソの身体を拭く。直射日光を浴びるよりは健康にいいが、フェロッソが雨で降れるのも可哀想だ。

 地図アプリ(アイナビ)を開いたまま再びゆっくりと商店街の中を歩いて行く。
 現在地が分かるナビがある以上、地下迷宮や秘境にでも踏み入らなければ一人で歩いていたとしても迷子になることはない。いざという時はSOSを出すことも出来る。
 しかし、ガイドヘルパーがいないと軒下にどんなお店が並んでいるのか分からない。人にぶつからないよう気を付けながら商店街をただ歩いているだけというのは物足りない気分だった。
 
 普段なら公園で一休みするところだけどそれも今は出来ないので、休憩したい気持ちを我慢して歩く。すると、前方からピアノの音色が耳に届いてきた。

 レコードでも……CDでも……ラジオでもない……紛れもなくそれは”生演奏”されているものだった。
 思わず手綱を強く握り、繊細な旋律に導かれて足が音のする方を向いて行く。
 頭の中で両手の指の動きを想像しながら聞き入ってしまう。
 私の家にもなかったグランドピアノの音。鮮明なまでに力強いその一音一音が私を魅了し、引き付けてしまう。

 ―――『()()()()()()()』だ。
 
 雨風を引き裂くように響き渡る旋律。
 どこかの家の中から聞えてくるものだとしても、聞き間違いようがない。

 オーストラリアで暮らすようになってから、ピアノを習うようになった私はクラシック音楽をよく聞くようになったのですぐに曲名が頭に浮かんだ。

 突然の予想だにしない演奏に聞き入る耳が心躍り、あっという間に演奏者の虜にされる。素人なりに自分でもピアノを弾くからこそ、これが相当な実力者のものだとはっきり分かる。

 信じられないことに……これは収録されたものではなく、今、リアルタイムで演奏しているのだ。

 私は胸の高鳴りを必死に抑え、ピアノの音色に導かれて距離を近づけていく。

 玄関扉の前にマットが敷いてあり、この建物の中から演奏されていることが分かると、私は立ち塞がった扉を反射的に開いた。大きくてアンティークなドアハンドルをしているので住宅扉ではないと予想できた。

「あら? 今は演奏中よ。ご入店かしら?」
「はい。あの……盲導犬を連れているんですが、入ってもよろしいですか?」
「もちろん。ここは喫茶店よ、遠慮することはないわ」

 ストリートピアノでもなく、建物の中で演奏していたのだ。
 想像以上に鮮明な音色で店内に大音量で生演奏が繰り広げられている。
 軽快に話しかけてきた店の入り口付近にいたウェイトレスの女性と挨拶を交わし、私は小さく”thank you”と感謝の言葉を伝え、そのまま導かれるように独りでに店内へと進んでいく。

 香り高い焙煎された珈琲の香りと木造家屋独特の芳醇な香りが店内に足を踏み入れると漂ってきた。
 ヒノキやスギの香りだろうか。ピアノの演奏と合わさって高いリラックス効果を感じた。
 
 店の奥の方まで歩き、目の前で鍵盤を叩く打鍵音が聞えてきたところで足が止まる。
 フランツ・リスト、パガニーニ大練習曲集 第3曲 「ラ・カンパネラ」、初版に比べ、こちらの方が高音域を駆使し、同音反復(どうおんはんぷく)を効果的に使用したより煌びやかな音楽になっている。
 
 高い技法を必要とするこのピアノ独奏曲は長く演奏家達によって愛され続けているが、習得するのは高難度で知られている。
 
 それを目の前の演奏家はミス一つなく、ピッチが乱れることなく華麗に演奏している。信じられない、これを目の当たりに出来るとは何という幸運なことだろう。
 
 ハンガリー生まれのフランツ・リストはパガニーニというバイオリニストに影響を強く受けた作曲家でパガニーニの曲を何度もピアノ独奏用に編曲してきた。その一つがこの『ラ・カンパネラ』なのだ。

 美しいメロディーにゆったりと浸る間もなく約五分間の演奏が終わり、息が詰まるような空気が解け拍手が送られる。
 だが、その拍手の数は聴衆が少ないせいか、演奏者の実力に見合うようなものではなく、物足りない小規模なものだった。
 私は素晴らしい演奏が終わり、呆然としてしまったが遅れて拍手をした。

 圧倒的な美しさで聞く者を魅了する演奏に聞き入ってしまって、ピアノの前で立ち尽くしたままでいると、拍手が鳴り止んだところで女性が話しかけてきた。
「へぇ……あなたピアノに興味があるんだ。それじゃあ、ここで一曲弾いてみないかしら?」

 聞くことに集中していて気付かなかったが、随分と私は前のめりになって最前列に立っていたようだ。話しかけてきた女性は聞き取りやすい明るい声色をしていて透き通った声をしている。演奏者ではなく先程店に入った時に会話したウェイトレスのようだった。

「え……でも……」

 まだ興奮を抑えられない中、思わぬお誘いを受けて驚きのあまりぴくりと身体が反応してしまう。
 動揺が走り、すぐに返答できないでいると、演奏者とウェイトレスとの会話が始まった。
 
「今ので演奏は終わりだから。遠慮しなくていいわよね? 彼女に譲ってあげてもいいでしょう?」
「ええいいわよ、とても可愛いレディーね。演奏経験はあるのかしら?」

 私はようやく演奏者の声を聞いた。ウェイトレスの女性と同じく大人の女性の声質をしている。
 品があって色気も備えた凛とした雰囲気。演奏の実力といい、生きている世界の違いを感じてしまう。

「一応……オーストラリアにいた頃はハイスクールにあるピアノで練習していました」

 恐れ多いと思いながら私は返事をした。

「そう、じゃあ遠慮しないで。私は料理が出来るまでの間の待ち時間にグランドピアノを借りて演奏させてもらっただけだから。ちょっと調子に乗って派手なのをやっちゃったけど。まぁ、そこは大目に見てくれる?」

「そんな……めちゃくちゃ凄かったです。無料で聞くのは申し訳ない、しっかりお代を払ってホールで聞きたいくらいの演奏です……!」

 私は茶目っ気のある堂々とした調子で話す演奏者の女性に何とか返事をする。
 話しぶりを聞くと、この演奏者の女性はたまたま立ち寄って演奏したような雰囲気だ。これだけの実力があれば演奏してもらうだけで高いギャラが必要になるはずだ。
 まだ混乱気味の頭で考えてみたが、聞く限りでは、ウェイトレスの女性と親しい様子でもあり、見知った間柄なのだろう。

「だってさ、晶子(あきこ)。お褒めの言葉を頂いてよかったわね」
「嬉しいわね、私のことはいいから聞かせて頂戴。私は大人しく席で料理を食べているからね」

 感動を覚える演奏をしてくれた演奏者の前で理由もなく断るわけにはい行かない。私は恐れ多かったが、恐縮しながら頷いた。

 演奏者の女性がピアノから離れていき、緊張してしまっている私は胸に手を当てた。
 
「緊張するわよね、ごめんなさいね……彼女にもノリで演奏してもらったから。固く考えなくていいわ、ここは喫茶店でお客さんも少ないから気楽に演奏して頂戴。ほら、席までエスコートするから」

「はい、ありがとうございます……」

 私は身体の震えを抑えながらフェロッソをお座りさせて手綱を放すと、手を差し出して女性の手を握り返す。
 思ったよりも指は細く長い。適度な柔らかさをした包容感のある手にエスコートされて、私は観念してピアノ椅子に着席した。

 大きく息を吸って深呼吸して、胸に手を置いて大丈夫だよと心の中で声を掛けると、私はドキドキした気持ちのまま鍵盤の位置を確かめた。

 寮内にはピアノはなく、オーストラリアを旅立って日本に来てからは演奏もしていなければピアノに触れてもいない。
 どれだけのブランクがあるのか想定するのは難しい。
 
 私はそうしたことも考えて選曲を決め、曲のリズムを思い出す。

 目が見えなくてもプロの演奏家をしている立派な人もいるが、決して簡単なことではない。
 類まれなる才能と不屈な信念を持って取り組む努力が必要になる。

 目が見えないからこそ、不自由なことがあるからこそ、一つのことに集中できるという特性もあるが、それは意志の強い気持ちの整理が出来ている人にのみ成し遂げられる境地だ。

 私程度の練習量では到達できる場所ではない。
 何か一つに集中して身を犠牲に努力し続けている人とは根本的に異なるのだ。

 息を整え、視線を感じてはいたが、ほとんど話し声も聞こえない中、軽快なリズムで演奏を開始するのだった。

 ――ピアノソナタ第11番第3楽章『トルコ行進曲(こうしんきょく)』、モーツァルトの作品においてもっともポピュラーなピアノ独奏曲であるこの楽曲を私は選んだ。

 親しみやすい曲調でリズムは取りやすく、一度しっかり覚えれば自然と指が期待に応えてくれるが、テンポ取りが重要で、調子に乗って早いテンポで弾き過ぎないように注意しなければならない。

 最初にイメージした通りに慌てることなく、心にゆとりを持って指を動かしていく。
 ブランクのせいで指を吊りそうになるが、そこをグッと堪えて集中力を乱さずに弾き鳴らす。

 繰り返しが多い楽曲のため、序盤を乗り越えれば心地良い空気のまま演奏できるが油断は出来ない。

 私は期待に応えられるだけの演奏をするため、出来る限りミスのないよう激しい指の動きに食らい付いていく。

 そして、終盤に差し掛かりイ長調部分を再現した後、コーダに入り華々しいラストまでを駆け上がり、四分近い楽曲を閉じた。

 先程の演奏者の女性と同じく、私にも観客から拍手が送られる。
 私はグッと込み上げて来る感動そのままにピアノ椅子から立ち上がると、晴れやかな気持ちでお辞儀をした。

「皆さん、ありがとうございます!!」

 拍手に応えて精一杯に声を張り上げる。自然とやり遂げた達成感が込み上げてくる。
 
「急なお誘いだったのにありがとう、素敵なものを聴かせてもらったわ」
「そうね、懐かしい青春の日々を思い起こさせる、若さ溢れる素敵な演奏だったわ」
 
 先程の演奏者の女性もウェイトレスの女性も駆け寄って来てくれて手放しで演奏を褒めてくれる。
 私は身体を支えられながら丸テーブル席の下でお座りしていたフェロッソの下へと案内してもらう。

 演奏を終えた途端、緊張していたためどっと疲れが押し寄せる。フェロッソを抱き締め、軽く撫でてあげたところで私はようやく安心感と一緒に落ち着きを取り戻した。

「すみません……覚えるのが苦手で、短い曲しか聴かせられる演奏が出来なくて」

 無事に演奏をやり遂げた後の安堵と心地よさ、私は久々にピアノを演奏出来た嬉しい気持ちに満たされ言葉を伝えた。
 私が盲導犬を連れて目が見えないことを知った上で、手を差し伸べてピアノに誘ってくれた。それが私にとって、何よりも嬉しいことだった。

「驚いたわ、譜面の内容を全て暗記できているのね。
 地道な努力が伝わってくる演奏をありがとう。素敵な演奏のお礼に料理を奢ってあげるわ。何か食べたいものはあるかしら?
 純喫茶風のお店だけど、洋風メニューも用意しているわよ」

 長い時間をかけて耳コピしているに過ぎなくて、技術はまだまだだがウェイトレスの女性は喜んでくれた。

「それじゃあ……オムライスはメニューにございますか?」

 私はお昼時でもあることを思い出して、昼食にとオムライスを頼んだ。

「もちろんOKよ。ハヤシライスソースのオムライスプレートを御馳走するわ。
 うちご自慢の若い男のシェフが調理するから、ちょ――っとだけ待っていてね」

 人当たりの良い軽やかな調子で注文を受けて、店の奥へと向かっていく。
 私はようやく席に付いて身体を楽にした。
「若いピアニストさん、どうぞお待たせしました」
「あっ……ありがとうございます、ピアニストではなくてただの大学生なんですよ」
 
 明るい接客で料理を持ってきてくれたウェイトレスの女性。
 私はついつい苦笑いを浮かべ感謝を伝えたが、空腹のあまりお腹がすでに鳴ってしまいそうだった。

「グラスは右側、おしぼりは手前に置いておくわね」

 そう言って、オムライスプレートを私の目の前に置き、プレート内の配置を口頭で教えてくれる。香り立つハヤシライスソースと食欲をそそる湯気が立つ。

 とんでもなく見事な演奏を披露してくれた謎の女性は帰ってしまったが、私はサラダが一緒に載ったオムライスプレートに舌鼓を打った。

 私的に嬉しいポイントはシャキシャキとした触感のレタスを主としたドレッシングのかかった新鮮な生野菜サラダとポテトサラダが両方載っていたことだ。私はポテトサラダが好きでついつい嬉しくなって最初に食べて完食してしまった。

 ハヤシライスソースのオムライスはマッシュルームと牛肉が煮詰まってしっかりと味が染みていて美味しく、バターライスのオムライスとも合っていて、口の中が幸せでいっぱいになるほど美味であった。

 大満足で店内をゆっくり過ごし、ランチのピークを過ぎた頃に先ほどのウェイトレスの女性からこのお店のことを私は聞いた。

 ここは”喫茶さきがけ”という店名の商店街の一角にある喫茶店だそうだ。
 店内フロアは読み見掛ける普通の喫茶店に比べて広く、二階席もあるという。
 グランドピアノを置いておけるのもその広さがあってのことだろう。
 一度建て直しをして五年ほど前から改装開店したそうで、そのおかげで木造建築の良い香りがするのも納得いくところだ。

 お店はウエイターをしている美桜華鈴(みさくらかりん)さんと店長の美桜雄二(みさくらゆうじ)さん親子が仕切って経営していて、今厨房で働いている人たちも含めて、後はアルバイトだそうだ。

 先程まで気さくに話しかけてくれたのが華鈴さんでかれこれこのお店のウェイターを十五年以上勤めているという……確かに仕事慣れしていて接客が上手だと思ったが……。
 声も若々しくて私のような人間にも理解があって、優しく接してくれたのでもっとお若いのかと思ってしまった。いや、実年齢を聞いたわけではないが恐らく三十代後半だろうと推測は出来ていた。

「そんなところかしらね……喜んでもらえた?
 いつもピアニストが来店して演奏を披露してくれるわけじゃないから、そこは期待しないでいてくれると、お店的には助かるわね」

「いえいえ、お料理も美味しくて居心地の良い場所です。
 それに、グランドピアノがあるなんて贅沢です。オーストラリアで暮らしていた私の家には小さい年代物の電子ピアノしか置いていなかったので」

 店長が淹れてくれたカフェラテを飲みながら華鈴さんとの談笑を楽しむ。
 とても飲みやすいのに、深みのある珈琲は挽き立ての香ばしい香りとコクがあって美味しく、珈琲に詳しくない私でもインスタントでは味わえない愛着を持つ味わいだった。

「なるほどね。気候の良いオーストラリアでピアノを学んでここまで上手になったの。楽しそうに演奏していて、クラシック音楽もお好きなのね」

「そうですね、日本に戻って来てからは寮暮らしなのでピアノに触れないので、今日は久しぶりに楽しませていただきました」

 オーストラリアでは目の見えない私のために、ピアノ講師を父が探してくれた。
 最初の頃は曲をまともに通しで弾くところまで行けなくて苦労をしたが、先生と二人三脚で頑張ることでここまで成長することが出来た。
 保育士になる夢と一緒にピアノを上手くなりたいという私の願いは少しずつ現実のものへと向かって、進むことが出来ている。

「あらまぁ……好きなピアノに触れられないのは辛いわね……。
 そうね、時々でよかったらここで弾いてみないかしら?
 営業中でなくても、弾かせてあげられることは出来るから。
 練習も兼ねて前向きに検討しておいて」

「いいんですか……? 立派なグランドピアノなのに」

 思わぬ提案を持ち掛けられて私は驚いた。
 華鈴さんは親切してくれたから感じるが、思い付きで言ったとしても嘘は言わない人だ。
 私のために本当にピアノを触らせてくれることだろう。

「調律とか、維持費がかかる割にあまり使ってないものだから。
 遠慮は無しよ、ピアノも喜んでくれるから。
 時々でもこの場で演奏を披露してくれたら問題ないわ。
 ちなみにどんな曲を練習しているのかしら?」

 明るく華鈴さんが言う。確かに立派なグランドピアノがあるのに演奏者がいないのであれば勿体ない。

「そうですよね……維持費……馬鹿にならないですよね。
 オーストラリアに来る前はチャイコフスキーを勉強していました。
 ピアノ協奏曲第一番を弾けるようになりたくて。
 華鈴さんは弾かないんですか?」

「あら素敵ね。チャイコフスキーはロシア演奏家として名曲が多くていいわよね。くるみ割り人形なんかも私は好きだわ。
 私はピアノは上手に弾けないわね。珈琲を淹れてるお父さんの方がまだ上手なんじゃないかしら。私はね、実はフルート奏者なのよ。一応、さっきのピアニストと一緒にオーケストラで演奏をしたこともあるのよ」

「ええっ?! 凄いじゃないですか! 今度、聞かせてください!
 華鈴さんのフルート、とっても聞きたいです!」

 軽く打ち明けてきたが、私は大袈裟なくらい驚いてしまった。女性でフルートが弾けるのは美しさの極みだ。オーケストラの中でもフルートは華があってクラシック音楽を引き立たせる。私は華鈴さんの生演奏が聞きたくなった。

「あらやだ、そう言ってくれると嬉しいわね。お姉さん張り切っちゃおうかしら。仕事が忙しくてなかなか練習出来てないから、ご期待に沿えるように準備をしておくわね」
 
 謙遜しながらも承諾してくれる華鈴さん。
 華鈴さんと組んでピアノとフルートのデュオをするのも夢ではないかもしれない。チャイコフスキーを一緒に演奏出来たら素晴らしい思い出になることだろう。
 上品な雰囲気に合って、とても素敵な演奏を披露してくれるんじゃないかとつい期待を膨らませてしまう。

 今後もグランドピアノをここで弾くことが出来ることといい、楽しみがいっぱい増えた一日になった。

 様々な話を聞き長居してしまったので、ご馳走様とお礼を言って、私はフェロッソを連れて喫茶さきがけを後にした。

 またピアノを演奏させてくれることといい、どうしてここまで私に興味を持って、親切にしてくれたのか。不思議ではあったが、私は新しい出会いに感謝してフェロッソと一緒に意気揚々と学生寮へ帰るのだった。
 週が明けて次の土曜日、講義が午前中までだった私は日頃お世話になっている歩行訓練士の資格を持つガイドヘルパーの川崎翠(かわさきみどり)さんを連れて外出に出掛けることにした。

 喫茶さきがけで晶子(あきこ)さんと呼ばれていた天才的なピアニストの不思議な女性。
 その方に紹介されて、ピアノの演奏会もあるとのことで、障がい者の方々の芸術活動を応援する年に一回のノーマライゼーション絵画展にやってきたのだ。

 現地で一緒に同行してくれることになった静江さんとも合流を果たして私達は三人でピアノの演奏を聞くことになり講堂へと入っていく。

「へぇ……郁恵さんもピアノ演奏が出来るんだ。目が見えないと演奏するのは難しいって聞いているのに、頑張ってるのね」

 三人で並んで座り、演奏が始まるのを楽しみにしている中、静江さんは尊敬の眼差しを感じられるニュアンスで言ってくれた。静江さんには気を許しているので、多少はピアノが弾けることも抵抗なく話すことが出来た。

「それはまぁ……保育士を目指していますので。
 人並みに難しいことにも挑戦したいなって思ってオーストラリアにいた頃に頑張りました。
 ありがたいことに子ども達の前で演奏する機会も与えて下さって、その時にみんなとても喜んでくれたので、見えない私でも音楽で繋がることが出来るのは大きな経験になりました」

 二人の前で懐かしい思い出話を披露する。
 オーストラリアで過ごした四年間はまさに異文化交流が詰まった四年間そのもので、新鮮な経験を多く得て生きる力と勇気をくれた。
 だから、これからは少しでも自分が出来ることで恩返しがしたいと私は思っている。

 それから演奏会が始まると、車椅子を利用している方や私のように視覚障がいを持った方が次々に素敵な演奏を披露してくれた。
 クラシック音楽ばかりではないが、私の好きなチャイコフスキーもあり、ショパンやベートーヴェンの定番曲も聞くことが出来て、退屈することのない充実した時間を過ごすことが出来た。

 途中、私はお手洗いを我慢できなくなって川崎さんと一緒に席を立った。
 人が密集した講堂から離れていくと、演奏の音も連動して遠ざかっていく。
 お手洗いを済ませ、少し気になって静けさに包まれている絵画展の方に足を向けた。

「少しだけいいですか?」
「絵画展に行きたいの?」
「はい、ちょっと気になって」

 川崎さんにそう断りを入れて絵画展の方に向かって白杖片手に歩いていく。
 私の寮室には砂絵を置いていることもあり、川崎さんは芸術にも関心があるのだと察して疑問を口にすることはなかった。
 
「こんなところで会うとは驚きだね」

 絵画展に入りすぐに声を掛けられ私は足を止めた。そこで再会したのはミスコン委員会のメンバーをしている医学生の坂倉井龍(さかくらいりゅう)さんだった。

 思いがけない場所で思わぬ再会をしてしまい警戒心が高まる。だけど、どうしてかこんなところで再会した偶然に惹かれるものを感じた。

「あなたはここで何をしているのですか?」

「俺は画商の真似事をしていてね、未来の画家に投資をしているんだよ」

「どうして、わざわざここで?」

 ここは障がいを持った人達の作品が展示又は寄贈されている場。
 画商というものが画家の絵画や版画を買って売ることを商売にしている人のことを指していることはもちろん知っているが、坂倉さんがここにいる本当の目的が気になるところだった。

「生まれた才能を発掘するのが画商の仕事さ。障がいを持っているか否かは関係ない。ただ俺は気に入った絵画を引き取っているだけさ。

 金に物を言わせて名画と分かっているものを買うのは、只の金持ちの道楽だよ。

 俺がここにある絵を買うことで才を持った若い画家の助けになる。
 将来有名になってくれれば、俺も価値のある名画を持つことになるわけだからな。 
 だからさ、俺にも得があって、この絵画を描いた画家にも得られるものがあるということなのさ」

 饒舌に説明をしてくれる坂倉さん。その声のトーンからするに、彼はここに来るのを楽しんでいるようだった。
「それが……坂倉さんのしていることなんですね……」

「まぁ、目の見えない君に言ってもなかなか理解されない趣味かもしれないがね。買うものがいなければ……評価する者がいなければそれは実力と認められない。非凡の天才と称えられることなく、凡人として名を残すことなく世間から消え去っていく。それが当たり前に存在するのが芸術の世界だ」

 芸術の世界の厳しさがひしひしと感じる言葉。趣味という割には安くない買い物をしている。坂倉さんの家はお金持ちだとは聞いているが、私には想像の出来ない世界だった。

「そうですね……私には坂倉さんと同じものを見ることは出来ませんから。
 ちなみに、興味を持った絵はありましたか?」

 聞く限りにおいて彼の趣味を否定する道理はない。
 白杖片手に絵の具の匂いに釣られて絵画展までやってきたが、どんな作品があるのか分からないままここを出るのも寂しいと思い、私は坂倉さんに思い切って聞いた。

「あぁ、個人的に応援している画家がいてね。名を桜井往人(さくらいゆきと)と言うが、彼の作品を見ていた」

「それは、どんな絵なんですか?」

 私には見えない坂倉さんの視線の先にあるもの。
 心惹かれ、釘付けにするもの。
 それがどんな人のどんな作品であるのか気になった。

「青一色で描かれた青龍を描いた絵画だよ。モノクロ絵画と同様に一色に絞って描かれた絵画自体は珍しくないがね。彼にとっては努力をしているようだが、それほど美しい色彩のコントラストではない。青龍が剣を咥えているというのは良いアイディアだと思うがね」

「青龍刀ですか……?」

「そうかもしれないな。そう思ってみるのが面白いだろう。
 せっかくアトリエで絵の修行をしているのだから、もう少し頑張ってもらいたいものだよ、彼にはな」

「お知り合い……なんですか?」

 当然の疑問が頭に浮かび問い掛ける。推し活という言葉が流行しているが、そういう類いとは違うものを私は感じていた。

「まぁ、こいつは慶誠大学の卒業生だからな。在学中から認識しているよ。
 同い年なんだ。俺は留年しているけどな。
 医学部の俺はまだ三年も通わなければならない、そろそろ楽しみもなくなってきてうんざりしてきた頃だってのに」

「それはご愁傷様です……。でも、お医者さんになれるんですから、当然続けて努力し続ける価値はあるでしょう」

「努力し続ける価値か……自分の親を見ていると、そんな価値があるとは思えないがな」

 声のトーンが下がってポツリと坂倉さんが呟く。難しいことだけど、お金を稼ぐことだけが人生ではないと言いたげな様子だ。

 医者は人の命を預かる責任感を伴う仕事の典型だ。それ故に収入は著しく高額だが、その責任感に押し潰されて病んでしまう人も多い。
 坂倉さんの親がどんなお医者さんかは分からないが、近くで現実を見ているからこそ、憧れよりも感じる葛藤があるのだろう。
 知れば知るほど坂倉さんは不思議な感性を持った雲の上の人に思えた。

「分かってもらえたと思うが誤解されたままでは困るから言っておこう。俺もミスコンのような道楽ばかりに関心を持っているわけではない。

 写真撮影の日付は聞いているな?
 待っているよ、君は自分のことを良く分かっていないようだが、俺は君のことを優れた被写体だと思って勧誘しているよ。

 絵画には描いた作者の魂が宿るが、写真には被写体の魂が宿る。
 一枚の紙に宿った魂の声に一度耳を澄ましてみるのもいいかもしれないな」

 少し感心したところで再びミスコンの勧誘をしてくる坂倉さん。
 ここに来て参加を迷っている自分がいたから、私の心は大きく揺らいだ。
 
「まぁ、ここには絵画ばかりを置いているわけではない。
 ガイドヘルパーを付けてきているのなら、解説してもらいながら粘土細工でも触っていくといいさ。俺は目ぼしい絵画を見学できれば十分だからな」

 小さく足音が鳴り、絵画を物色していた坂倉さんが離れていく。
 画商として目を光らせて見ていたのなら、ただ眺めるだけより色んな感想を胸に秘めているのかもしれない。
 優しいのか疑わしいのか最後まで坂倉さんのことは分からずじまいだった。

 こういった場所には観覧者が触ってもいい工作作品も置いてある。
 粘土細工は子どもの頃好きで作っていたので十分私でも楽しめるだろう。
 そう思い、彼の言われるままに私はガイドヘルパーを連れて粘土細工を触って回った。

 費用がかさんでしまうからか、一つ一つの作品に音声解説は付いていなかったが、川崎さんが同行してくれているおかげで一作ずつ談笑しながら楽しむことが出来た。
 
 馬だと思って触っていたら実は牛だったり、クイズをしているような心地で想定外にも夢中になって絵画展を観覧していたせいで、講堂に戻った頃にはピアノ演奏会は閉会の時を迎えていた。
 私は迷っていたが最終的にミスコン応募のために撮影会へ参加することに決めた。
 当日は静江さんに付いてきてもらい、撮影会場の教室まで向かった。
 ヘアバンドを付けて、自分に大丈夫だからと言い聞かせながら歩いた。
 学祭の準備などで使っている会議室が撮影会場になっていて、隣の教室が控室兼メイク室になっていた。

 どうして参加することに決めたのか、心底不思議そうにしている静江さんと控え室にいると撮影の順番が回ってきて、私は静江さんが代わりに見守っていてくれるのでフェロッソを控え室にお座りさせてスタッフの案内を受けた。

 指定された席まで案内されて着席すると簡単なポージングの指示を受ける。ギラギラとした眩しい照明の熱を感じ、緊張気味のまま座っているとシャッター音が鳴り始める。

 声を聞くだけではどんな感想を抱いているのか分からない。シャッターを切るカメラマンから見て私はどんな風に映っているのだろうか……黙って指示通りに撮影に応じていると疑問ばかりが頭を支配してくる。

「私はここに来ていいような人間なんでしょうか……?」

「坂倉先輩の推薦なんでしょ? 自分に自信を持ちなよ」

 私の本当の気持ちなど考えることなく平然と返事を返すカメラマンの男性。欲しかった回答とはあまりにかけ離れていたので私は押し黙った。 

 坂倉さんや鏡沢さんも同室で見つめる中、撮影は続いて行く。
 参加者は私の予想よりも多く、待っている参加者もいるため、無駄口を交わすことなくテキパキと撮影は続けられた。

「そんなにあなたが惚れ込む器かしら?
 物珍しさで投票する人はいるでしょうけど」

「いいだろう? イレギュラーな被写体がいるのは退屈凌ぎにはちょうどいいじゃないか」

「それにしたって、あなたのその熱視線は気味が悪いわよ」

 間髪入れずに指示とシャッター音がするため、身動きが取れないでいると遠くから二人の声が小さく聞こえた。恐らく教室の端の方で眺めているのだろう。
 二人はどこに行っても変わらず仲が良い。付き合っているのだから当然と言えば当然だが、私は鏡沢さんから嫉妬の目を向けられているようで複雑な心境になった。


 私は昔から外見を褒めてくれるのはお世辞だと思ってた。
 自分のことが見えない私が自分を不細工だなんて思うことはない。その反対に美人だと思うこともない。それは自分で証明しようのないことだからだ。

 だから、私の喜ばせようとしてくれる人は褒めてくれる。それはスキンシップであったりご機嫌取りのようなことだと思っていた。

 でも……そうでないとしたら?

 恵美ちゃんが言うように、私は自分の魅力に気付いていないんだとしたら?
 そんなことは考えないようにして来たけど、自分のことに盲目だったのだとしたら?

 だとしたら私は知らないといけない……客観的に見て、私がどう人々から見えるのか。どう見られているのか。その評価を知らないといけない。

 それは、私がこれからどう振舞って生きていくのかに深く関わって来ることだから。

 もう……私は籠の中の鳥じゃない。
 この世界に飛び立っていくのだから。

 そのために知らないと。知らないフリをやめないと。気づかないフリはやめにしないと。
 そうしないと、私は誰かに傷つけられる度に、その誰かを恨んでしまうから。

 世界に飛び立っていくことを決めた以上、自分に魅力があるのかを知って、必要な分の自衛をしないといけない。

 それが、周りの女性の多くが自然と理解して振舞っている、この世界に生きための振る舞いなのだから。


 時間にして十分(じゅっぷん)もせずに撮影が無事に終わり、私は緊張のあまりフラフラしながら立ち上がった。
 
「よく参加してくれたものだ、感謝するよ」

「全部、自分で決めたことです」

 坂倉さんに手を差し伸べられ抱きかかえられそうになり、私は身体に力を込めて何とか振り払って自分の力で姿勢を正した。

「そうか、結果はフレーバー祭で出る。期待して待っていてくれたまえ」

 毎年盛り上がりを見せるという学園祭に当たるフレーバー祭。期待するようなことは何もないが、私はとりあえずここを早く離れたい一心で頷いて見せた。

「本当にご執心ね。結果はやる前から見えているものだから。後でがっかりするのも悪いから、あまり期待しない方がいいわよ。人間ってあなたが思っている以上に愚かしいものよ」

 隣に立つ鏡沢さんは坂倉さんと反対のことを口にする。
 私の前では本音を口にしているように感じるのは隣に坂倉さんがいるからなのだろう。あまり好意的に見られていないのは複雑な心境だった。

 こうして何事もないまま撮影会は終わり、私は寮室に着いて靴を脱ぐと、そのまますぐに座り込んでフェロッソに抱きついた。

「馬鹿みたいなことに付き合わせてゴメンね……フェロッソ」

 自分で思っていたよりずっと虚勢を張っていて怖かったのだろう。
 もう私もあの場にいた人たちも子どもではない。誰がどんな欲望や邪念を秘めて見つめているか分からない。
 被写体にされ、カメラマンの指示に従って撮影されている間、自分が酷く惨めで無防備な姿でいるように感じられた。
 
 自分のことを知りたいと思う知的好奇心に負けた自分。
 結果が楽しみというより、本当は知るのが怖いという気持ちの方が勝っていた。それでも、抗うことが出来ず坂倉さんの計画に乗せられていた私自身を少し怖く感じた。

 やっぱり……静江さんも心配してくれたけど、私には警戒心が無さすぎるのだろうか? 人を信じすぎているのだろうか……。

 衝動的にギュッとフェロッソを強く抱き締めた。
 私の気持ちが伝わったのか、フェロッソの舌がペロペロと私の頬を撫でた。
 
「私の勝手で始めたことなのに慰めてくれるなんて……いつもありがとうだよ、フェロッソ」
 
 いつも頼れる、私の傍にいてくれる大切な相棒。
 私はフェロッソの傍にいるだけで恐怖という感情を忘れられる。
 一人で暮らしていても、一人で出掛けていても心細くなんてない。
 フェロッソが隣にいてくれるから、私は不安なく外の世界を歩いていられるのだ。

「ずっと一緒だから……一緒に卒業しようね。約束だよ、フェロッソ」

 私は涙声で囁いて、暖かくて大きな背中を撫でた。

 瞳から零れ、頬を伝って流れていく涙。私の身体は小刻みに震えていた。

 これから始まる試験期間が終われば、長い夏休みが始まる。

 その時は、フェロッソを連れてゆっくり父のいるオーストラリアで過ごそうと、私は密かに決めた。

視えない私のめぐる春夏秋冬

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