五月下旬、梅雨の時期に入り、外を歩くと雨風にさらされることも増えてきた。
 折り畳まれた白杖(はくじょう)を携帯しながら、傘を差して手綱を握る日もある。
 そういう機会も増え、私はロングレインブーツを履き、滑らないように気を付けながらキャンパスを歩いている。
 
 そんなある休日、私は天気予報で通り雨があるかもしれないという予報を知りながらも、フェロッソと散歩に出かけることにした。
 栗のようなぷくりハットを頭に被り、水玉ドットが入った白黒のワンピースを着て寮を出ると、私は駅前から商店街方向に向かって歩いていった。

 近頃は気温が30℃を超える日もあり、強い湿気でジメジメとした日が続いている。
 今年の夏は危険な暑さになるとニュースキャスターが話しているのを聞くたび、一段と日本の夏の恐ろしさを感じてしまう。

 私は軽やかなシースルー五分袖のワンピースを着て、少しでも暑さを和らげようと気分だけでも変えて歩いていた。

 途中までは晴れていたが、あいにくの雨が降ってきたところで私は屋根の付いた商店街に入ることにした。雨を凌ぐことが出来て安堵したところでタオルを取り出しフェロッソの身体を拭く。直射日光を浴びるよりは健康にいいが、フェロッソが雨で降れるのも可哀想だ。

 地図アプリ(アイナビ)を開いたまま再びゆっくりと商店街の中を歩いて行く。
 現在地が分かるナビがある以上、地下迷宮や秘境にでも踏み入らなければ一人で歩いていたとしても迷子になることはない。いざという時はSOSを出すことも出来る。
 しかし、ガイドヘルパーがいないと軒下にどんなお店が並んでいるのか分からない。人にぶつからないよう気を付けながら商店街をただ歩いているだけというのは物足りない気分だった。
 
 普段なら公園で一休みするところだけどそれも今は出来ないので、休憩したい気持ちを我慢して歩く。すると、前方からピアノの音色が耳に届いてきた。

 レコードでも……CDでも……ラジオでもない……紛れもなくそれは”生演奏”されているものだった。
 思わず手綱を強く握り、繊細な旋律に導かれて足が音のする方を向いて行く。
 頭の中で両手の指の動きを想像しながら聞き入ってしまう。
 私の家にもなかったグランドピアノの音。鮮明なまでに力強いその一音一音が私を魅了し、引き付けてしまう。

 ―――『()()()()()()()』だ。
 
 雨風を引き裂くように響き渡る旋律。
 どこかの家の中から聞えてくるものだとしても、聞き間違いようがない。

 オーストラリアで暮らすようになってから、ピアノを習うようになった私はクラシック音楽をよく聞くようになったのですぐに曲名が頭に浮かんだ。

 突然の予想だにしない演奏に聞き入る耳が心躍り、あっという間に演奏者の虜にされる。素人なりに自分でもピアノを弾くからこそ、これが相当な実力者のものだとはっきり分かる。

 信じられないことに……これは収録されたものではなく、今、リアルタイムで演奏しているのだ。

 私は胸の高鳴りを必死に抑え、ピアノの音色に導かれて距離を近づけていく。

 玄関扉の前にマットが敷いてあり、この建物の中から演奏されていることが分かると、私は立ち塞がった扉を反射的に開いた。大きくてアンティークなドアハンドルをしているので住宅扉ではないと予想できた。

「あら? 今は演奏中よ。ご入店かしら?」
「はい。あの……盲導犬を連れているんですが、入ってもよろしいですか?」
「もちろん。ここは喫茶店よ、遠慮することはないわ」

 ストリートピアノでもなく、建物の中で演奏していたのだ。
 想像以上に鮮明な音色で店内に大音量で生演奏が繰り広げられている。
 軽快に話しかけてきた店の入り口付近にいたウェイトレスの女性と挨拶を交わし、私は小さく”thank you”と感謝の言葉を伝え、そのまま導かれるように独りでに店内へと進んでいく。

 香り高い焙煎された珈琲の香りと木造家屋独特の芳醇な香りが店内に足を踏み入れると漂ってきた。
 ヒノキやスギの香りだろうか。ピアノの演奏と合わさって高いリラックス効果を感じた。
 
 店の奥の方まで歩き、目の前で鍵盤を叩く打鍵音が聞えてきたところで足が止まる。
 フランツ・リスト、パガニーニ大練習曲集 第3曲 「ラ・カンパネラ」、初版に比べ、こちらの方が高音域を駆使し、同音反復(どうおんはんぷく)を効果的に使用したより煌びやかな音楽になっている。
 
 高い技法を必要とするこのピアノ独奏曲は長く演奏家達によって愛され続けているが、習得するのは高難度で知られている。
 
 それを目の前の演奏家はミス一つなく、ピッチが乱れることなく華麗に演奏している。信じられない、これを目の当たりに出来るとは何という幸運なことだろう。
 
 ハンガリー生まれのフランツ・リストはパガニーニというバイオリニストに影響を強く受けた作曲家でパガニーニの曲を何度もピアノ独奏用に編曲してきた。その一つがこの『ラ・カンパネラ』なのだ。

 美しいメロディーにゆったりと浸る間もなく約五分間の演奏が終わり、息が詰まるような空気が解け拍手が送られる。
 だが、その拍手の数は聴衆が少ないせいか、演奏者の実力に見合うようなものではなく、物足りない小規模なものだった。
 私は素晴らしい演奏が終わり、呆然としてしまったが遅れて拍手をした。

 圧倒的な美しさで聞く者を魅了する演奏に聞き入ってしまって、ピアノの前で立ち尽くしたままでいると、拍手が鳴り止んだところで女性が話しかけてきた。