物心つく前から遊びに行っていた彼の部屋には、今も変わらずに一台のアコースティックピアノが置いてある。
「男なのにピアノってやばいよな」
彼との記憶が、私の中で甦る。
彼が本格的にピアノを習い始めたのは小学三年の初春。
習い始めた日に彼はやばいなんて言っていたが私は首を振った。
男性でもピアノを弾いている人は世の中にたくさんいると思ったからだ。
ピアノの隣には勉強机がある。机の上には小学生と思えないほどの丁寧に書かれた楽譜が二、三枚ほど置いてあったと記憶している。
「俺ね、将来シンガーソングライターになるんだ」
小学三年の二村樹の顔が、頭の中に浮かんだ。
「……何故、今?」
自分でも不思議だ。
「菜穂、帰るぞ」
少し離れた席で、現在高校一年の二村樹が私を呼んでいる。
私は机の横にかけていた鞄を持つ。
「菜穂、今日カラオケどう?」
後ろの席にいる私の親友、水無月小絵の声がして振り向く。
「ごめん、樹と帰る」
「何だ、ラブラブか?」
冷やかされ、首を振る。
「あれは幼馴染みです。好きなら譲ります」
と言うと、
「譲ってもらいたいけど、向こうが興味ないわ」
と小絵に笑われた。ちなみに小絵の発言は、私と小絵の間でよくある冗談だった。
「菜穂の歌声聞きたかったな」
「何故?」
「だって綺麗な声だよ」
にこにこと笑う小絵とは対照的に、私は眉間に皺を寄せる。
「綺麗か。小さい頃から歌うたびに樹に音程を直されて喧嘩したあげくにできた声だけど。嫌いになったもん、樹のこと」
昔の記憶を、私はしみじみと思い返した。
「嫌いになった相手と帰るのは何故?」
「この高校、最寄り駅から三十分歩くし。樹が漕いでくれる自転車の後ろは楽なんだ」
「やっぱ見せつけてる? これだから澤田と二村は」
「違うよ! それに何その言い方」
小絵に突っ込むと、また樹に名前を呼ばれた。
「菜穂ー?」
「今行く! じゃあね小絵」
「うん、じゃあね」
小絵に手を振って樹の所に向かう。一瞬、小絵が寂しそうな顔をしたのは…… 多分気のせいだろうと思って、私は樹と教室を出た。
--下駄箱で靴を履きかえ外に出ると、温かみを感じる春の匂いがする。
自転車置き場に辿り着くと、樹は鞄から鍵を取り出した。
自転車に乗り、樹は私が後ろに乗ったことを確認すると前を向き、自転車を漕ぎ出す。
「菜穂、相変わらず樹くんとラブラブだねー!」
漕ぎ出したところで、自転車通学の友達に声をかけられた。
「いつでも樹あげますよー」
友達の横を通りすぎ、私は友達に手を振った。
「俺は物扱いか」
樹がため息混じりに言うので
「そうなるね」
と笑って答えると樹が急にジグザグに自転車を進みだしたのではっとして、私は腰の辺りを掴んでいた樹の制服をさらにぎゅっと掴む。
「あ、危ないんだけど!?」
思わず叫ぶと樹は少し振り返り、私の慌てる姿を見て前を向いた。
「菜穂の運命は今俺にかかってるんだからね。逆らうと恐ろしいよ?」
不気味に笑いだした樹を見て、まずいと思った。
「あ、安全にお願いします」
またジグザグに進まれたらたまったものじゃない。ドキドキしながら答えると、前を向いたまま明るく樹は笑っていた。
自転車は真っ直ぐ進む。すると右側に海が見えてくる。
この海が、私が今の高校を選んだ理由だ。
周りが聞いたら驚かれる理由かもしれないが、通学路にこの海を見ることができれば何だか頑張れる気がした。
樹がこの高校を選んだのは、有名なアーティストを輩出している名の知れた音楽学校だから。
中学三年の晩春、学校終わりに樹の部屋に制服姿のまま遊びに行き、机の上で進路希望の紙を『せーの』で見せあった時はまさかのかぶりで笑いあった。
入学して一週間がたっていた。
「菜穂」
「ん?」
「もうすぐ自転車の法律が改正されて、二人乗りができなくなるらしいよ」
「え……」
樹の自転車に乗せてもらえる期間が定められたことに、私はがっかりする。
「嫌だな」
樹は突然始めた話をさらっと流した。そして歌い始める。
『遠くまでいける靴を履いて
あの流れ星を見に行こう』
「樹はその曲本当好きだね」
「好き」
小学三年の頃に初めて聞いた、今でも私の一番好きな曲。
歌う樹の声は男性だけど少し高音で、人を優しく力強くふわりと安心させてくれる不思議な力がある。
樹はいつかたくさんの人を魅了するシンガーソングライターになる。
樹の夢は、私の夢でもあった。
「今度オーディションあるんでしょ?」
「あるな」
樹は三ヶ月前、株式会社 Civilization Music という大手の音楽会社にエントリーシートと音源を郵送していた。書類選考が無事に通り、来月オーディションを控えている。
「受かればとうとう夢が叶うね」
「そうだな」
「叶ったら、夢の道のりまで練習につきあった私に感謝してよね」
なんて口にして、樹の背中を軽く叩くと
「……感謝してるよ、今も」
と真面目に返されたので拍子抜けした。うるさいなって言われると思ったのに。
「菜穂はさ、夢決まった?」
自転車が住宅街の緩い坂道に差し掛かる時に、樹は私に夢を聞いた。
夢は決まっている。樹がシンガーソングライターになることだ。
でも言おうとしてやめた。
その夢はきっと周りから見たら私の夢にならないから。でも樹の言葉に返答しなくてはいけない。
私はいつもの手を使うことにした。
「私の夢はテストで学年一位をとることかな」
「まだそれか」
「一位とれば安定した職につけそうだし」
「中学から変わらないな」
嘘と本当の半々を持った夢を語り、緩やかな坂を下りきった自転車はまた真っ直ぐ進む。
「俺とバンドやる? 期間限定でもいいよ?」
「興味ない」
「さっき小絵ちゃんに褒められてなかった? 歌声綺麗だって」
「聞いてたの?」
樹は前を向いたまま嬉しそうに頷いた。
「俺が曲作るから、菜穂歌えば?」
「恥さらしだよ」
ため息をついた時、
「フラれたー!」
樹の声に反応して周りの人が一斉に振り向いた。こちらを見る視線が恥ずかしくて、私はすぐに樹の背中に顔を隠した。周りの人の横を通りすぎるとほっとして顔を上げ、私は樹の背中を睨んだ。
「ちょっとその件は散々フラれてるじゃん! 今さら何故叫ぶ?」
樹はまた少し振り向いてまた前を向き、自転車を漕ぎながら笑っていた。
その後で
「……フラれてるんだよな、俺」
何故か少し寂しげに、そう呟いた。
樹が意味不明なことを言い始めたので、もう知らないと私はほっておくことにした。
自転車は住宅街を真っ直ぐ走る。道の少し先を見て、私ははっとして樹の背中を軽く叩く。
「あ、青山がいるよ」
前方に同じクラスの樹の親友、青山弘を見つけると声を張り上げる。
「青山!」
樹の声で振り返ると、青山は立ち止まって手を軽くあげた。
「すげー、早く学校出たけど追いつかれた」
青山は子供じみた笑顔を浮かべている。
「青山どこいくの? 家の最寄り駅より手前だよね?」
私と樹は辺りを見回す。
「買い物に行くんだよ」
「……こんな住宅街で?」
お店が全然見当たらないのに、青山の言葉が謎だった。
「あるんだよ、秘密の場所が!」
青山は嬉しそうにしている。
「あ、ギター教室に部品を買いに行くの?」
私ははっとして青山を指差す。青山が最近ギターにはまっていることを教えてもらった。ギター教室なら個人で経営してる住宅街に溶け込んでいてもおかしくない。けど。
「菜穂ちゃん不正解」
「えー」
青山に指でバツを作られて、私はがっかりした。
「結局何なの?」
樹が尋ねると、青山ははっとして
「お前らも面白いから来る?」
と言う。
「どこに?」
「俺の後ろについてきてよ、近いから!」
青山が嬉しそうに歩き出したので樹は首を傾げて振り返り、私も首を傾げる。
「……行くか」
樹は自転車を漕ぎだす。ついていくことに反対する理由はなかったので、私は樹の自転車の後ろに大人しく座っていた。
--
十分後。
「だまされた」
私と樹は同時に言葉を漏らす。
「弘くん、今日はどのサボテンにする?」
今年六十五歳になる石井さんの家に到着してから青山の目はきらきらしていて、呆然と立ち尽くす私たちに向かって勢いよく振り向く。
「なぁ、どれがいいと思う!?」
私は返す言葉がなさすぎて
「……そうだなぁ」
と愛想笑いでごまかす。青山はまたサボテンのほうを見た。
「何で青山あんなに楽しそうなの?」
私は口元に手を当てて、樹に小声で話しかける。
「青山ってサボテン好きだったんだな」
樹も私にこそっと話す。
「ここって何なの?」
「秘密のサボテン館とか?」
「どうしよう……何の興味もないんだけど」
「だな。サボテンなんてじっくり見ようと思わないし」
「か、かえろっか?」
来て早々に帰るなんて失礼なのは分かっている、でもしどろもどろに提案すると
「あ、いいね」
樹は案外あっさりと答えを決めた。
「青山、俺たちさ……」
樹が声を張り上げたところで、テンションが上がったまま青山はまたこちらに振り向いた。
「なぁ、石井さんが二人は初めてここに来てくれたってことでサボテンくれるって! 良かったな!」
私はどうしようかと樹を見る。
「しょうがない。菜穂、腹をくくろう」
「腹を、くくる?」
じわりと込み上げてきた笑いを堪える。サボテン一つに代償の大きい答えな気がした。
「せっかくだし見てみよう」
樹はサボテンに近づく。
「あ、ちょっと樹」
私は慌てて樹の後を追った。
「おすすめはウチワサボテンだよ」
「ウチワ……何?」
「ウチワサボテンだよ!」
青山は勢いよく振り向いた。
「ほ、ほぅ……」
青山の雰囲気に飲み込まれ、私は思わず何度か頷く。
「樹、気に入った?」
青山は鉢に入ったウチワサボテンを手に取り、樹の目の前で見せている。
「うーん……」
樹は先ほどと違い、他のサボテンとも見比べ始めている。
私はこう思っていた。
まじかよ、樹。
「なぁ、青山」
樹はあるサボテンの前に立ち止まった。
「俺たちこれにする」
「なるほど」
青山は樹の言う『これ』が分かっているようだ。石井さんも微笑んでいる。
……私だけ取り残されたと思うと、少し寂しい。
「菜穂、はい」
樹はあるサボテンの鉢を両手ですくうような形で手に取り、私に渡してくれた。
これだったのかと私はようやく理解した。
丸くて小さいけど、金色のトゲがびっしりと立派に生えている。
「可愛い、かも」
鉢の中のサボテンを見つめながら言うと、青山は微笑みながら
「金鯱って言うんだよ、結構レアだよ」
と言った。
可愛い見た目からかけ離れた意外に格好いいサボテンの名前を聞き、私は少し驚く。
「レアなら育てるの難しいの?」
「育てるなら日当たりと風通しのよいところに置くんだよ。あと雨にぬれないところ」
青山の話を聞き、私はもう一度金鯱のサボテンを見る。
何故か、名前を聞いただけでなかった興味が沸き上がる。
「でも、石井さんの大切なサボテンだよね?」
石井さんを見ると、石井さんは穏やかに微笑み
「大切にしてくれるなら」
と言ってくれた。
石井さんに段ボール製の小さな白い箱にサボテンを入れてもらいお礼を言って家を出る。
樹は自転車のかごにサボテンの箱をそっと入れ自転車に乗った。
「一人一つじゃなくてよかったのか?」
青山に聞かれ
「いいよ。レアなもの貰ったし」
と樹が笑う。
「そう。俺まだ石井さんとサボテンについて談笑する。お前らは気を付けてな」
青山は軽く手をあげる。
私は樹の自転車の後ろに乗った。
私と樹は、青山に手を振る。
「青山じゃあな」
「青山またね」
「じゃあな!」
青山は笑って手を振り返してくれた。
自転車は住宅街を真っ直ぐ進む。
自転車の速度が石井さんの家に到着する前よりも遅くになったのは、サボテンを傷つけないようにするためなのだろうと思っていた。
「案外面白かったな」
『まじかよ、樹』と言いそうになったが、私はすぐに考えを訂正する。
楽しかった気がする。
ほんの少しではあるけど。
「サボテンは俺が持って帰るから心配するな」
前を見ながら樹が言ったので
「え……」
と思わず声が出た。
「ん?」
一瞬だけ樹が振り返り、私の顔を見る。
「いや、あの……そうだね」
少し俯きながら私が答えると
「あれ、まさか菜穂サボテン気に入った?」
と樹は笑った。
「気に入ったというか、何というか……」
「そうなんだ! じゃあ菜穂持って帰りなよ」
口ごもる私に対して、樹は明るく言う。
「でもさ、樹が選んだサボテンなのに……」
「俺はただ青山を切り抜けるために選んだだけだよ」
私はすぐに納得できた。
「それもそうか」
「うん。菜穂がサボテン持っていくなら、俺はそれでいいかな」
樹がそう言うので
「それなら、もらう」
と私は呟くように返事をした。
「俺ね、そのサボテン菜穂っぽいなぁと思って選んだよ」
「……私っぽいとは?」
「小さいけどトゲだらけ」
「悪口だ!」
「あぁ、そうかも」
「ちょっと!」
むっとして樹の服をちょこちょこ引っ張る。樹はくすくす笑ってこちらに振り向こうとしない。でも振り向かなくても、あまりにも樹がさらっと口にするので、私も少し笑ってしまっていた。
「でもさ、菜穂」
「ん?」
「可愛いと思うよ、そのサボテンは」
私は少し黙ってしまった。
「……せっかくだし育ててみるよ」
緩やかな風に揺られながら、私は言葉を返した。
二人で他愛もない話をしていると家の前に着く。
私は樹の自転車から降りた。
「菜穂、はい」
「ありがとう」
自転車のかごに入っていたサボテンの箱を受けとると、樹が頷いた。
「また明日な」
樹は自転車を押して私の隣にある家に入っていった。
私は二軒の似た二階建ての一軒家を見つめた。
赤色の屋根が私、青色の屋根が樹の家。
樹の姿が見えなくなったので、私も家の門を開けて中に入った。
「ただいま」
靴を脱いで一階のリビングに行くと、私のお母さん、澤田真理子《さわだまりこ》がソファーで寝ていた。
近くには畳んだ洗濯物がある。
可愛い寝顔にくすりとして、私はブランケットをお母さんにかけ、足音を立てずに二階の部屋に向かう。
部屋に入り、ポールハンガーに鞄をかけイスに座り勉強机に頬杖をついて、目の前にあるサボテンを眺めた。
「……初めて育てる植物がサボテンとは思いもしなかったな」
"可愛いと思うよ、そのサボテンは"
樹の言葉が私の中で優しく響く。
「……ありがとう、樹」
呟いたら胸が少し苦しくなり、サボテンから目を離す。
分かっていた。樹の遠回しな言い方も気づかないふりをした。
樹はきっと私を大切に思ってくれている。
けど樹がどれだけ私を思ってくれようとも、私がどれだけ樹を思おうとも、絶対にこの恋は成功させてはいけない。
幼い頃からずっと、思っていた。
それでも思いが溢れそうになると私は目を閉じ、樹歌っていた何かのCMソングの出だしを口ずさんだ。
『遠くまで行ける靴を履いて
あの流れ星を見に行こう』
口ずさんだら気持ちがおさまって、ゆっくりと目を開けた。
「この曲、本当にタイトル何だろう?」
タイトルは高校生になった今でも、携帯で歌詞を入力して検索をかけたって出てこない。
「樹も知らないって言うし……」
タイトルを知りたい気持ちはある。でも、樹の声を思い出せたらそれでいい。
「樹から離れなきゃ……」
サボテンを見ながら、私はため息をついた。
次の日の朝。
太陽の匂いが心地よかった。
「菜穂、今日自転車持ってきたの?」
学校へ行くのに珍しく自分の自転車を持ってきた私を見て、樹は驚いていた。
「もうすぐ二人乗り禁止になるし、いつまでも樹に甘えてられないから」
「唐突だな」
樹は目をぱちぱちさせていた。
「唐突だね」
私が笑うと樹は何かを考えたようだったが、すぐに笑って
「行くか」
と自分の自転車を学校の進行方向に向けて進みだす。
「うん」
久々の自転車を私もゆっくりと漕ぎ出した。
ーーその、三十分後。
「ぬぉぉ……!」
「凄い声出てるぞ」
坂道を上りきった先、平然とした様子の樹を見て私は情けない気持ちになる。
今の私は気合いを入れるように声を出さなければ坂道を上れなかった。
「樹は毎日自転車の後ろに私を乗せて大変だったんだね」
「実感した?」
「実感したし、大いに感謝した」
ハンドルから起き上がり私が頷くと、樹は笑っていた。
「学校までもう少しだから、頑張れ」
「うん」
疲れたまま私は樹の言葉に頷き、また自転車を漕ぐ。
樹の背中が見える。
その時、いつも乗せてもらっている自転車の後ろが見えた。
「あ、青山だ」
樹がそう言った時に私ははっとして自転車のブレーキをかける。ぼーっとしていて前を見ていなかったことに内心ドキドキしたが、すぐに気持ちを持ち直した。自転車は前にいた青山に追いつく。
「青山、おはよう」
樹が声をかけると、青山は振り向いて軽く手を上げて
「よぉ、おはよう」
と笑顔を浮かべたが
「え!?」
とすぐに表情が曇った。
「おはよう、青山」
私も樹と同様に声をかける。
「……おう」
「どうしたの?」
明らかに挙動不審な青山を見ていると、青山はいきなり私に向かって人差し指をつきつけた。
「菜穂ちゃん、自転車どうしたの!?」
「……家から乗ってきたんだけど?」
「何で自分の自転車に乗ってるの?」
「え?」
「樹と喧嘩したの?」
不安そうな青山の言葉を聞き
「何故そうなるの?」
呆れていると、青山はきょとんとした。
「へ? だっていつも二人乗りして登校するし、違うの?」
「喧嘩してないし。もうすぐ自転車の二人乗り禁止になるって聞いたからさ、私も自分で学校通えるようにしようと思って」
私の言葉を聞くと、青山は息を吐いた。
「なんだ」
「なんだ、ってこっちが驚くよ、青山」
「そうだよな、ごめん」
青山は笑っていた。
「あー、なら俺ラッキーかも」
青山は樹の自転車のかごにひょいと自分の鞄を入れ、躊躇なく樹の自転車の後ろに乗った。
「おい」
樹が眉を寄せて振り返り、青山を見る。
「駅から学校までの道って三十分くらいあるし、歩くのしんどいんだよね」
「で?」
「乗せてくれ!」
「えー……」
「お願いします、樹! ほら今日はここ空いてるし!」
「空いてるけどさ……」
「じゃあいいよな!」
青山が笑うと樹はため息をついたが、すぐに笑って
「しょうがないな、今日だけな」
と言って前を向き自転車を漕ぎ出す。青山は満面の笑みを浮かべ
「やった、俺はついてるー!」
と子どもみたいに喜んだ。
樹の自転車の後ろについて、私は自分の自転車を漕ぐ。
「楽だなー」
樹の自転車の後ろに乗る青山の背中を見ていると、表情は見えないものの、何だか幸せそうに見えた。
「俺は重いんだけど」
「菜穂ちゃんと重さ変わらないでしょ?」
「うーん。青山は細いけど体格も背も菜穂より大きくて違うし、それは無理があるな」
「だめかー」
青山は笑う。二人の何でもない会話に、私もつられて笑ってしまった。
「あ、そうだ樹。一年生歓迎会あるじゃん?」
「一年生歓迎会?」
唐突の青山の話に、自転車を漕ぎながら樹は首を傾げた。
「あ、お前はお知らせの紙を見てないな」
「紙……」
樹は前を向いたまま黙り込んだ。
「菜穂ちゃんは分かるよね?」
青山が振り向く。今の会話を聞き、私は瞬時に思い出した。
「一年の入学のお祝いを二、三年生がしてくれるんだよね?」
「正解!」
「それが何?」
樹が聞くと
「お前それに出るんだよ」
さらっと青山が言った。
「ん?」
「一年生歓迎会会場の体育館で、お前は歌うんだ」
「は? え?」
嬉しそうに話す青山をちらりと見て戸惑いながらも、樹は冷静に話を聞く。
「何で俺が歌うの?」
「樹は歌が上手いだろ?」
「一年生歓迎会だよな?」
「うん」
「俺は今年入学したよな」
「そうだな」
「じゃあ一年の俺は歌わないよな?」
「いや歌う」
「はぁー?」
青山の言葉に、樹はさらに戸惑っていた。
「二、三年生が歓迎会やってくれた後で、一年がお礼として何かやんなきゃいけないんだよ。で、実行委員の俺は思ったわけよ。これは樹が歌えば成立だと」
名案だとばかりに話す青山に、呆れた様子で樹は話を返す。
「何成立させてんだよ」
「あはは」
「あははじゃなくて。てか、実行委員のお前が何かやれ」
「何言ってるんだよ。俺一年だもん」
「俺もだ! しかも俺は実行委員じゃない」
「俺は何もできない」
「青山の家族は音楽一家でだいたいの楽器を一通り弾ける才能がある。てかサボテン語れば? 詳しいんだろ?」
「えー? 無茶言うなよ」
「青山だろ、無茶言ってんのは」
樹が言うと、青山は運転する樹の体を軽く揺すった。
「樹ー。俺は困ってるんだ!」
「俺も困ってる!」
思わず叫ぶ樹は自転車を漕ぎながら少し振り返り、私に向かって叫ぶ。
「菜穂なんとかしてー」
「……青山、フラれてるよ」
樹の声に瞬時に反応して青山に声をかけると、
「いいや。俺はフラれてないし、フラれるつもりもない」
青山は首を横に振った。
「樹、青山強いわ」
「俺はやらない」
樹の気持ちには強く同情できる。
けど少し考え、私は樹に言った。
「やってあげなよ、樹」
樹はため息をついた。
「俺に味方はいないのか」
「青山が言うのは一理あるよ」
「一理?」
「オーディション来月なんでしょ? 練習だと思ってさ」
樹は唸っている。迷っていると言った方が正しいのかもしれない。色々考え、
「俺一人が舞台で歌ったらずるしてるみたいだよ? ……それなら俺にも舞台で歌わせろってクレーム来そう」
と呟くと
「納得するよ」
青山は少し落ち着いた声で言った。
「え?」
「何故樹だけ舞台に立つか、樹の声でみんな納得するよ」
青山の言っている意味がやはり分からずにまた樹は唸り始めた。けどその後で
「……分かった、よ」
と渋々返事をした。
「まじ!?」
「……うん」
「ありがとう、樹!」
「わ、抱きつくな! 運転してるんだぞ!」
ジグザグに進むその自転車を見て、後ろから笑ってしまう。青山は嬉しそうにぎゅっと樹を抱き締めている。
海をゆっくりと通り過ぎ、学校の門をくぐる。
私が慣れない自転車に乗ったせいで到着する時間はロスしたが、登校の時間に間に合った。
「そういえば青山、その歓迎会いつあるんだ?」
樹が聞き、私も考える。お知らせの手紙は思い出せても日付までは思い出せなかった。
抱きつく樹からぱっと離れた青山は顔を上げる。
「今日だよ!」
「きょ……!?」
「今日!」
青山のしれっとした返事に、樹と私は同時に叫んだ。
「えー!?」
ホームルーム後、一年生歓迎会のために体育館に人が集まり始めた。
隣にいる小絵は歓迎会を楽しみにしている。
「菜穂どうしたの、 何か慌ててる?」
「別に……」
小絵は首を傾げたが、私は視線をそらした。
歓迎会が始まると二、三年生の実行委員のもとで歌やゲームが続き、時間があっという間に過ぎた。
でも私の意識は正直それどころじゃなかった。
歓迎会が終盤に差し掛かるところで青山が樹を引っ張る。
私は言葉を失って二人を見つめていた。
「どこ行く気なの? あの二人」
小絵は私に聞くが、言葉が出てこない。
「あ……はは」
いたたまれない気持ちになるが、私は何もせずに大人しく座っていようと決めた。でも青山に連れていかれそうになる直前、樹が私の腕をとっさに掴んだ。
「ちょ……!?」
樹が頼むと言った様子で訴え、私はどうしてもその目を避けられずにしぶしぶついていくことにした。
「え、菜穂も行くの? ずるい! 三人だけの秘密!?」
小絵は怒ったが
「楽しくないから待ってて」
と伝えると、小絵はきょとんとしていた。
舞台裏に辿り着くと、歓迎会実行委員の生徒が準備で忙しそうにしていた。邪魔にならない位置で樹は掴んでいた私の腕を離した。
「私を連れてきても何もできないからね!」
「ふーん」
樹がじっと私を見る。誰のせいだと言われてるみたいで私はたじろいでしまう。
「まさか歓迎会が今日だと思わないじゃん!」
強かな目線の樹に反論すると、樹は表情を変えることなく私を見てくる。でも分かっている。今は樹とやり合ってる場合じゃない。樹もきっと同じ気持ちだ。
「どうする?」
私はうろたえ、
「どうしような……」
樹はため息をつく。それをよそに青山は楽しそうである。
「舞台にキーボード置いてあるよ。俺は準備してくる!」
「え、俺はキーボードも弾くの?」
「誰が他にいるんだよ、頼んだぞ!」
青山は行ってしまった。準備も一体何なのか不明である。
「行っちゃったな」
「本当だよ。勝手だなぁ」
青山の行った方向を見ながら何も案が思い付かないまま、私はもう一度樹を見た。
私は内心驚いた。
そこにうろたえた樹はもういなくなっていた。
違う雰囲気で冷静に立っている樹がいる。
「樹?」
「さっきから考えてたんだけどさ、今一番流行ってる歌って何だと思う?」
「一番流行ってる歌?」
「一番って難しいよな。好みも人それぞれで音楽番組でもランキングは変動するしさ」
樹の一番好きな歌ならいつも歌うCM曲と即答できるが、今一番流行っているとなるとすぐに出てこない。それでも何とか考えていると、昨日見た音楽番組が頭の中に過った。
「私も一番流行ってる曲は分からないけど、でも昨日の音楽番組は確か、昨日の一位は……」
昨日の音楽番組で一位になった歌のタイトルを思い出し、伝えると
「それいいかも。ありがとう」
樹は頷いた。
もう一人の樹がいる、と思った。
表情も立ち振る舞い方もさっきまでの優しく穏やかな雰囲気が一変する。冷静でキリっとし、どこか人を寄せないような雰囲気は、不思議と冷たくは映らない。
それは私が幼い頃から見てきた……大好きな樹の姿だった。
「……やるか」
シンガーソングライターを目指す樹に、今スイッチが入った。