恵太くんは口ずさみながら、少しずつ遠くに離れていく。
「待って恵太くん!」
私は急いで呼び止めた。恵太くんは歌うのをやめて振り向き、少し焦ってる私を見てきょとんとした。
「何ー?」
「あのね!」
やっと声を絞り出したけれど、少し止まってしまう。私の姿を見て驚きながらも、恵太くんは片耳を傾ける。
「ん?」
「あの、今歌った曲の……」
また止まってしまう。
恵太くんはそれでも必死に話す私の目を見て、ちゃんと話を聞いてると言ってるかのように一度頷く。
「恵太くんが今歌った曲の、タイトル知ってる?」
やっとの思いで言い切ると、恵太くんは目を少しぱちぱちさせて口を開く。
「流れ星行進曲」
「え……?」
「タイトルは『流れ星行進曲』だよ」
必死な私を見て、恵太くんは真剣な顔で答えてくれる。
「流れ星……行進曲」
恵太くんは頷く。頷いてから少し笑う。
「菜穂は好きなのか? この歌」
私は頷く。何だか込み上げてくるものがある。
ようやく知れた。
樹が歌っていた、CM曲のタイトルを。
「凄く……好き、なのっ」
感情的になりすぎて恵太くんを困らせないように胸に手を当てて気持ちを押さえ込み、少しだけ笑って答える。
「そうなんだ」
恵太くんは優しく微笑んだ。
「ねえ、聞きたいんだけど……」
「うん」
「恵太くんは何でそんな古い曲知ってるの?」
「え……」
恵太くんは一瞬固まってから、納得したように頷く。
「へぇ古いのか。初めて知った」
「ねえ、流れ星行進曲は……誰が歌ってるか知ってる?」
恵太くんは少し考えてから、ゆっくりと首を振った。
予測できたのに落ち込んでしまう。顔をあげると、恵太くんはじっと黙ったままこっちを見ている。おかしく思われたかなと思っていると、私の元に走って戻ってきた。
「かざみが知ってるんじゃないかな?」
「……かざみ?」
私は俯き、こっちを見上げる恵太くんを見る。
「かざみが流れ星行進曲のCD持ってるから。見ればきっと誰が歌ってるか分かるよ」
「CDあるの!?」
「うん。今日かざみは病院に来てる日なんだ。いつもCDは家から持ってくるから今日もきっと。今から見に行くか?」
恵太くんが少し首を傾けて聞く。かざみさんが誰かはよく分からないけど、私は答えを迷わなかった。
「行く」
恵太くんは笑って私の手をとり、引っ張って歩き出す。
「こっち、すぐそこだよ!」
引っ張る勢いに少し驚きながらも、私は頷き、恵太くんとゆらゆら揺れる風船に導かれるまま歩き出した。
手を引かれるまま歩くとプレイルームにたどり着く。
プレイルームの中は積み木クッションの他にも本棚に入った絵本、ぬいぐるみ、おままごとセットなど、透明ケースの中に入って綺麗に棚の中でおもちゃが整理されている。そしてプレイルームの一番端に蓋の閉じられたピアノがあった。
あのピアノはアコースティックピアノだ。
ぼんやりと見てしまっていると、恵太くんは
「すぐ着いたでしょ?」
と言うので、少しはっとする。
「……人いないね」
「おかしいな? かざみどこいっちゃったのかな」
私の手を離して立ち止まったまま恵太くんは辺りをきょろきょろと見回している。
右側は病院の受付みたいだが、そこにも人は見当たらない。
視線を受付から恵太君に戻すと、恵太くんの後ろにいつの間にか誰かいた。恵太くんと同じくらいの年齢で、恵太くんと同じ服を着ている。
彼は見た目で男の子だと分かる。
北欧系の顔立ちをしていた。
ぱっと見では気づかなかったけど、彼の目は少し青い。
恵太くんはその気配に気づき振り向いて、声をあげた。
「うわ! なんだいたの!?」
「なんだじゃない。どこいってたんだ?」
彼は流暢な日本語を話している。声は恵太くんと正反対で、かなり落ち着いていた。
「受付を右に曲がって、四階の廊下を隅から隅まで回ってた。運動がてら三週くらい」
恵太くんが人差し指をだして渦をまいている。
「うろちょろするな」
彼は静かな剣幕で怒っている。
「何で?」
「何でもだ」
また睨まれているが、恵太くんは気にする様子もなく、てへへと笑ってる。彼はそんな恵太くんを見た後、そのまま鋭い目線で私を横目に見て、もう一度恵太くんに視線を戻した。
「で、恵太。誰なのこの人」
「菜穂だよ、俺の友達ー」
あっさり言ったその一言に少し目を丸くしてしまったけど、ちょっと笑ってしまう。けど、彼に目線を合わせるとやっぱり睨み付けられたままだ。
「菜穂お姉さん」
「はい」
急に名前を呼ばれて、しかもお姉さんなんて言われて、睨まれて、内心ドキドキしていると
「……ごめんね」
顔を少し歪めて、彼は謝った。
私は何だか拍子抜けする。
「え?」
彼の気迫に怒られると思ったが、そうではなかった。彼の視線はまたも恵太君に向く。
「おい、恵太。また少し話しただけの人連れてきて友達とか言ってるんだろ」
「少し話せば、みんな友達だろ?」
恵太君は目を丸くして、彼を見ている。
「お前の感性は人と違うんだ」
「えー!?」
「えーじゃない。相手だって忙しい時があるんだぞ。なのに恵太がいつも誰でも彼でも『行こう』『遊ぼう』なんてここまで連れてきちゃうから、相手は時間を割いて恵太にかまってやらなきゃならなくなるんだ。学生とか大人は都合ってものがあるんだ」
「つごー? 俺、みんなと遊びたいもん。ついてきてくれるってことはいいよってことだろ?」
「そうなんだけど、そうじゃない時があるんだ」
「えー!? もうちょっと話がよくわっかんないや!」
「わかれ」
めんどくさそうして、恵太くんは視線を彼からそらした。このままでは喧嘩になると割って入る。
「あ、違うの。私がね、恵太君に連れてってお願いしたんだ」
「え?」
彼はこっちを見る。
「恵太くん、この子がその……かざみ、くん?」
そう聞いてみると、恵太くんは私を見る。
「あ、違うよ。この子はフラン」
「フランくん?」
「フラン・はこになるよーん、だ」
「はこになるよーん?」
恵太くんの話を聞き、どういうことかとフランくんに視線を合わせると
「フラン・ハーコナルソンって言うの、僕の名前」
と静かに言って、私は納得した。恵太くんは少しはっとして笑顔を浮かべている。
「フランの名字難しいんだよな。菜穂も覚えられなかったら、箱になるよーんで覚えればいいよ」
「いつも言ってるけどそれで覚えても間違ってるぞ。意味もよく分からないし」
「えへへ。フランにも漢字あれば、俺だってすぐ覚えるのになー」
あははと笑う恵太くんを無視して、フランくんは
「恵太とは保育園でクラスが一緒なんだ。六歳のリスぐみで」
とやっぱり睨み付けるように私に言った。そこで気づく。フランくんは睨んでる訳じゃなくてこれが普通なのだ。見ていると、最初は怖かったのに、恵太くんとはまた違って、二人の会話を聞いた後だからか、ちょっとずつ可愛く思えてきた。
「菜穂お姉さんは、かざみの知り合い?」
「え?」
「だってかざみの名前言ってたから、そうなのかなって」
「その……かざみさんとは知り合いじゃないんだけど、恵太くんに聞いてCDを借りに来たんだ」
何とか言葉を繋げると、フラン君は首を捻る。
「どのCD? かざみはいつも家から十枚くらい持ってくるから。毎回違うやつ」
「そうなんだ? その……流れ星行進曲はある?」
フランくんはその曲知ってるのかなと恐る恐る聞くと、私の想像とは違ってフランくんはすぐにピンときていた。
「あるはず。一ヶ月前にたまたま持ってきてくれた以降、恵太と僕がよく聞くから、あの曲だけはいつも持ってきてくれる」
「そうなんだ」
私が小さな頃から耳にしていたあの曲が、こんなにも長く愛される曲だったとは。何だかとても嬉しい。
「かざみどこ行ったんだ?」
恵太くんがそう聞くと、フランくんは受付を指差した。
「かざみは……あ、戻ってきた」
フランくんの指差す方を見ると目があった。
私が想像していた人と全然印象が違っていた。
短髪でメガネをかけていて、その男性は私と同じ年くらいの学生に見えた。首からかけるタイプのシンプルな紺色のエプロンを着て、本を四、五冊抱えている。エプロンの左側の少し大きなポケットに、布製で手作りと思われる真四角の名札に『かざみ』とついている。
「あ、かざみー」
恵太くんが手を振ってかけていった時、かざみさんは手を振り返そうとして抱えていた本を全て廊下に落とした。
「あ、いけない!」
慌てて本を拾っている。散らばったのは全て絵本のようだ。
「あ、何やってんだよかざみー」
恵太くんは、風船をゆらゆらさせて、散らばった絵本を一冊拾う。かざみさんも残りの落ちた絵本を拾う。
「ごめんね。恵太くんありがとう」
「あ、これは!」
拾った絵本の表紙を見て、嬉しそうに恵太くんは振り返り、フラン君を見る。
「ねえフラン。タヌキの絵本だよ!」
フランくんは、恵太くんの隣までいって絵本を指差す。
「あ、それ前にここに入院してた子に見せてもらった絵本だ。恵太はその絵本を注文してもらってたんだ」
「うん。色んなシリーズあるけど、前に見せてもらったのと同じ、橋作る回のやつにした」
「僕も見たい」
「いいよ」
恵太くんは今だに絵本の表紙を見ながら、嬉しそうにしていた。
「受付行くとは言ってたけど、かざみは注文してた絵本取りに行ってたのか」
「二人が欲しがってた本、病院で買ってもらって届いたって看護士さんに聞いてたの忘れてたから、思い出して貰ってきた」
「ありがとう、かざみ。フラン、一緒に読もう! 菜穂の隣で」
恵太くんはにこりとする。かざみさんは視線をそらし、私を見てきょとんとした。今ようやく、私の存在に気づいたようだ。立ち上がり、移動しようとした恵太くんを呼び止める。
「ねえ恵太くん。彼女は誰かな?」
恵太くんは振り向き、かざみさんに視線を合わせてから私を見て
「あ、菜穂だよ。漢字は、菜っ葉の菜に稲穂の穂」
と言う。
「菜穂さん?」
「菜穂。この人がかざみだよー。漢字は風に見るで風見」
恵太くんは風見さんを指差す。風見さんはそっと立ち上がった。
「菜穂さん、こんにちは」
「こんにちは」
「菜穂はね、今さっきそこで会って友達になったの」
そう話す恵太くんに、風見さんは少し驚いたが、すぐに
「そっか」
と微笑んだ。
「いつものパターンだ。かざみ」
フラン君がそう言うと、風見さんはほんの少し笑いを堪えながら頷いていた。
「本当恵太くんはコミュニケーション上手いな。僕には真似できない」
「えへへ」
恵太くんはにこにこしているが
「かざみ、褒めちゃだめだ。調子のるから」
フランくんは、風見さんに静かに怒る。
「……はい」
風見さんは、フランくんにそう返事しながらもやはり微笑んだままだ。
「菜穂お姉さん。かざみはね、保育士ボランティアで、病院に週一で遊びに来てくれてるんだ」
フランくんは、私に振り返りそう言った。
「そうなんだ?」
「かざみは高校生なんだよ!」
恵太くんは明るくそう言った。
「高校生、なるほど」
私と同じくらいという読みは当たっていたようだ。だけど恵太くんの横でフランくんは首を振る。
「違うだろ、かざみは大人だ。今年三十一才の」
「え!?」
全然その歳に見えないかざみさんを見て、私は思わず声に出して驚いてしまい、すぐに頭を下げた。
「ごめんなさい!」
「あ、よく幼く見られるんだ。大丈夫だよ?」
風見さんは側にきて、私の顔を少しのぞきこんだ。穏やかな目をしていた。フランくんは風見さんの服を引っ張る。
「かざみ。菜穂お姉さんは流れ星行進曲のCD借りにきたんだって」
それを聞いて、そうだったと言わんばかりに恵太くんははっとして、風見さんを見た。
「そう、菜穂聞きたいんだって」
「流れ星行進曲? ああごめん。今日は持ってないな」
「え!? いつも持ってるのに」
「ごめんね。昨日CD聞いて、そのまま家に置いてきちゃった」
恵太くんはそれを聞き、ゆっくりと私を見る。
「……菜穂ごめんね」
「いいよ。仕方ないよ」
私は少し微笑んで頷く。ショックだが、恵太くんが悪いわけではないし、たまたま持っていなかった風見さんを責めるつもりはない。
風見さんも申し訳なさそうに、こっちを見る。
「ごめんなさい、菜穂さん」
……完全に、突然お邪魔した私が悪い。
「いえ……こちらこそ」
そう言いながらも、内心少しショックを受けてしまっていると
「歌詞カードはあるけど」
「……え?」
「ケースはあって、その中に歌詞カードはあるけど……でもそんなこと言ってもダメだよね?」
風見さんがそう聞くので、私ははっとする。
「い、いえ、それで十分です。……見せてもらえますか?」
無意識の間に、風見さんに向かって出してしまった手を、私は慌てて引っ込める。必死だなと自分の行動を客観視して、少し恥ずかしくなった。風見さんは、ほっとして微笑み
「良かった。待ってて、鞄にあるから」
と言って歩きだす。プレイルーム内の隅にある棚の上に、ベージュ色のリュックサックが置いてあるのには、今気づいた。
風見さんはリュックサックの中から、CDケースを取り出す。ゆっくりとスライドさせて歌詞カードを抜き取り、私に差し出してくれた。
「はい」
そっと両手で受け取った歌詞カードの表紙は、真っ暗な夜空にキラキラと輝く無数の星の写真がついている。少しどきどきしながら、ゆっくりと開けると、今度はその空から少しアングルを離したかのように、その空と一緒に、夜に染まった草原と、左の隅にある一本の木が現れる。
『流れ星行進曲』……その写真の中に分かりやすいようにタイトルと歌詞は書かれていた。
遠くまでいける靴を履いて
あの流れ星を見に行こう
歌詞を辿っていくと、凄い……本当に……あの曲だ……と思う。
「菜穂さん?」
風見さんはきょとんとしている。私は微笑んでしまう。
嬉しい。何だか凄く。
恵太くんとフランくんも私を見て、不思議そうな顔をしていた。
そんな二人に私は口を開く。
「あのね……」
「ん?」
フランくんが少し首を傾ける。
「……ちょっと歌ってみてもいいかな?」
「え?」
恵太くんは、驚いて口を開けたままだ。
私は風見さんを見る。きょとんとする風見さんに軽く頭を下げた。
私はもう一度、頭の歌詞に目線を戻す。そして、目を閉じて少し息を吸い込む。
目を開いて、ゆっくりと口を開き、その歌詞をたどる。
この曲をしっかりと歌うのは、久々だ。