三時間目の休み時間になった。私は席に座って欠伸をしていた。

「菜穂、次移動だよ」

「あ、ごめん」

 私は少し目を擦る。

「徹夜でもしたの?」

「ううん。待って、今、教科書探す」

 私は机の中の教科書を探した。小絵は教科書を持ち立ち上がる。

「あ、二村」

 私は小絵の方に少し振り返った後、すぐに前を見た。樹が教科書を持って私の前に立っていた。移動の時、いつもは青山と一緒に先に行くのに今日は違った。

「菜穂、体調悪い?」

 小絵がそれを聞き、驚いていた。
 私はすぐに首を横に振った。
 樹は私の額に手を当てる。

「熱はないみたいだな」

「もう、大袈裟だよ」

 樹は私の横に来て腕を取り、軽く引っ張った。疑問に思いながらも立ち上がると、足に力が入らずに視界が揺れて再び椅子に座った。それに私は内心驚いた。
 小絵も驚いて、声が大きくなった。

「菜穂、大丈夫!?」

 私は平常心を装い、頷いた。

「少しバランス崩しただけだよ」

 もう一度立ち上がる。今度はふらつかなかった。樹が心配そうにこっちを見ている。

「菜穂、保健室に行ったほうがいい」

「大丈夫だよ」

「大丈夫じゃない」

「熱もないのに保健室行けない」

「でもふらついてただろ」

 樹の顔が曇っているが、私は首を横に振った。

「たまたまだよ」

 教科書を抱えて立つ私を見つめる樹の後ろには、青山が教科書を持って立っていた。小絵は心配そうに私の背中を見て、ちらっと青山を見た。青山も心配そうな顔をしていたが、小絵と目が合うと軽く頷き、私に話しかけた。

「菜穂ちゃん次の授業行く? 音楽室、別館で離れてるけど大丈夫?」

「……行く」

「そっか、じゃあ」

 青山は樹の腕をつかみ、引っ張った。

「ちょ……何?」

「樹、ここに移動して」

 一番前の席と教壇の間のスペースに樹を立たせて、今度は私の腕をとり、軽く引っ張る。

「菜穂ちゃんはここ。小絵ちゃんここ来て」

 樹の隣に私を立たせて小絵を手招きで呼ぶ。小絵は青山の指示で樹とは反対の私の横に立つ。

「で、俺がここ」

 青山は私の後ろに立った。私は振り返り、青山を見た。

「フォーメーションをとった。もし倒れるようなことがあってもみんなで支えるからまあ任せとけ。な、小絵ちゃん?」

「え? ……うん。そうだね」

 青山と小絵は頷いて、私を見た。そして青山はこう付け足した。

「あ、でもね、菜穂ちゃん。もし、本当に無理なら早めに言いなよ? 俺の子分は菜穂ちゃんのことになると、もーそれは凄く心配性になるんだからね?」

「……ごめんね」

「何で謝るの? さ、行くよ」

 青山は私の背中を優しく叩いた。前を見てみんなで歩き出すと樹は振り向いて、青山を見る。

「……ありがとな」

 青山は樹を見て、軽く首を横に振った。その時、小絵は視線を横にやる。教室の後ろの方でクラスメートの四人グループがこちらを睨んでいるのに気がついた。
 何だと思いながらも、小絵はすぐ視線を彼女たちからそらした。

 ーー

 一階の渡り廊下を歩くと、本館と音楽室のある別館を繋ぐ景色が見渡せる。適度な緑があり特に目立ったものはない。別館に到着し音楽室に入ると、個別練習室や、楽器教室、声楽教室などが三階まで続いている。
 向かう音楽室は一階で、大きなグランドピアノが教壇付近に一台置いてある。席は自由席で、青山、樹、私、小絵で並んで座った。

「今日何やるのかな?」

 そう言い、小絵が私を見た。

「何だろうな」

 樹と青山も私をじっと見ている。

「……もしかして、まだ心配してくれてる?」

 私が言うと

「やばい、俺ら態度に出てるって」

と青山が言う。

「もう! 二村どころかみんな菜穂のことになると心配性すぎない? ダメだよ、こっちが心配すると逆に菜穂が気にするから今は無視だよ。無視、むーし」

「……無視か」

 酷い言われようだとも思ったが、私が気にしないように凄く気にかけてもらってるのが分かってほっとした。

 小絵は青山に向かって手を出す。

「青山、教科書貸して」

「何で?」

「いいじゃん貸すぐらい。減るんじゃないんだから」

「何でか言えよ」

 青山が怪訝な顔で言うと、小絵は指をさす。 

「二村、教科書取って」

 樹は瞬時に青山の教科書を取り、小絵に渡した。

「ちょ、樹!」

「わーい」

 樹から受け取った青山の教科書を両手で持ち、小絵は喜んだ。

「何するんだよ?」

 青山がため息をつくと、小絵はその教科書を机に置き、筆箱からペンを取り出す。教科書を裏側にして、一番下に記入してある青山弘の名前の隣に何かを書いている。私はじっとそれを見ていた。書き終わると、小絵はペンを置いた。

「できたー!」

 見ると、青山弘の名前の隣に小さく金鯱のサボテンが描かれていた。
 小絵は教科書をまた両手で持ち、描いた金鯱を披露した後

「金鯱同盟の印描いたの。はい」

と教科書を青山に渡す。怪訝な顔をしていた青山も、小絵の描いた金鯱を見て表情が緩んだ。

「小絵ちゃん、俺ちょっと嬉しいかも」

 樹は青山の教科書を見て

「いいな……俺も描いて?」

と小絵の方に目線を移し、自分の教科書を渡す。

「いいよ、そのつもりだったし」

 小絵は樹の教科書を受けとると青山と同じ場所に金鯱を描いて、樹に返した。

「凄いな、小絵ちゃん上手」

 樹は自分の教科書に描かれた金鯱を見て嬉しそうにし、青山も微笑んでいた。私も小絵に描いてもらおうと、静かに待っていた。小絵が笑って

「菜穂はちょっと待っててね」

と言い、自分の教科書に金鯱を描き始めた。

「あの二人の教科書で練習して、私ので練習して、菜穂には一番いい金鯱を描くからね」

 小絵は笑いながらも真剣に取り組んでいた。私は小絵の姿に心が和んだ。

「よし、私の描けた。次が本番。 菜穂、教科書貸して」

 私は自分の教科書を小絵に渡す。小絵は真剣な様子で金鯱を描くと、満足げに私に教科書を返す。隣で見ていたが、改めて小絵の描いた金鯱を確認すると、嬉しくなった。

「凄い! ありがとう小絵」

「いいえー」

 小絵はにっこり笑った。私は教科書をぎゅっと抱き締めた。そこで授業開始のチャイムが鳴った。音楽の授業の先生は二人いる。山内先生と如月先生、二人とも女の先生である。 

「突然ですが、今日はピアノと声楽のテストします」

 教壇に立った山内先生の話で、周りがざわつきはじめる。山内先生は真顔で全く動じないまま

「はい、静かにして」

と手を叩き、みんなが静まったところで話を続ける。如月先生は扉の近くに立っている。

「今日改めて個人の力量をみさせていただきます。ピアノは山内、声楽は如月が呼ぶので、呼ばれたら前に来てください。待っている間はプリントを配るので、それをやるように」

 急に青山は目をつぶり胸の前で手を合わせて、必死に何かを祈り始めた。

「何やってんだ」

 樹は笑って青山を見ている。

「ピアノの最初は嫌なんだ。あいうえお順で呼ばれませんように!」

 青山はそう呟いた。しかし、

「青山弘ー」

 山内先生に呼ばれ、青山は祈っていた姿勢からゆっくり机に向かって崩れていった。

「青山ー」

 山内先生は真顔のまま、青山をキョロキョロ探している。

「はいー」

 青山が返事をして力なく立ち上がる。

「すぐ返事をしなさい」

 山内先生と目が合い冷たく言われて、青山はため息をつく。

「青山頑張れ」

 小声で樹が話しかけると、山内先生の視線は樹に移った。

「二村……?」

 樹は名前を呼ばれ、きょとんとして山内先生をみた。

「このクラスか、二村がいるの」

 山内先生がそう呟き、樹は目をぱちぱちさせている。すると山内先生が樹に話しかける。

「二村は、一年生歓迎会でピアノ弾いた生徒よね?」

「はい」

「二村のピアノ、先に聞いてみたいかも」

 山内先生がそう呟いたその時に、青山はすとんとイスに座った。そして

「先にしましょう! 二村は準備できています!」

と叫ぶので

「は!?」

と樹がばっと青山を見た。青山は前を向いたまま、樹と目を合わせない。

「二村ピーンチ!」

 小絵がそれを見て笑っている。私はまた青山の無茶振りが始まったと、山内先生と樹を交互に見て少しドキドキしていた。

「じゃあ、二村樹からで」

 山内先生はあっさりと順番を変えた。樹はがっくりと肩を落とした。

「やっぱ、山内先生分かってるわ」

 青山はほっと息をつき、机に頬杖をつき、余裕たっぷりの表情になった。

「菜穂、青山どうにかして」

「青山、樹が先でも次の順番はすぐ回ってくるよ」

 うなだれる樹の声にすぐ私が反応すると

「え、嫌だー!」

と青山はまたため息をついた。私と樹と小絵はそれを見て笑う。私はふと視線に気づき、目を向けるとクラスメート全員がみんな樹を見ていた。

「樹くんのピアノ聞きたい!」

「二村、俺も聞きたいー」

 声が上がり期待が高まっているようだ。私は立ち上がっている樹を見上げて声をかけた。

「頑張れ、樹」

「なぁ菜穂」

「ん?」

「俺が今ピアノ頑張ったら、俺は菜穂を元気づけること出来る?」

「え……?」

 思わぬ言葉に私は黙りこんだ。でも思う。樹を見ている今日の私はだめだなぁと。いつもなら、元気あるよと強がっているところだが今はできそうにない。どこか弱っているのか、甘えたくなる。

「うん」

 私がそっと笑い頷くと、樹もそっと微笑んで私を見たまま頷いた。
 樹は教壇近くのピアノに向かう。
 隣で小絵は私を見て言った。

「いいなぁ」

 小絵が言い、反応に困った私は小絵をまっすぐ見れなかった。

「なあ。俺空いてるよ」

 青山は何気なくそう言い

「嫌」

と目線を合わせることなく小絵は即答で返事をした。

「左様ですか」

 青山はくすりとした。

「菜穂。私たちは始まりもせず終わったわ」

 小絵があっさりした口調で言うから、私も笑ってしまう。他の人から見たら違うのかもしれないが、二人のこのやりとりは冗談だと分かった。

「二村が座ったよ、始まるかな」

 小絵がそう言う。樹はピアノの前に座り、譜面台に置いてある楽譜を山内先生と見ながら何かを話している。それが終わると、樹は鍵飯の上にそっと、少し丸めた両手を置いた。
 樹の表情は変わっていた。
 ピアノを弾こうとする直前の冷静できりっとしどこか人を寄せないような雰囲気に。
 音が、心に響いた。
 序盤からテンポの早い曲だった。
 最初はその早さに圧倒される。
 スピード感のあるメロディーのはずなのに、樹の動かす十本の指は丁寧で、それが優しく柔らかく温かく伝わる。
 聞き入るうちに、そのスピード感がさらに心地よくなり、私はその音色に耳を傾けて、ぼんやりしていた。
 綺麗なピアノの音の中で、このまま目を閉じて聞いていたいような、ピアノを弾く樹をずっとみていたいような気持ちが生まれる。でも目を閉じてしまうのは何だかもったいない気がしたので、樹の弾く優しいピアノの世界観に浸りながら、私は目を閉じずに樹を見ていることにした。
 クラスメートは誰一人として、口を開かない。みんなも樹のピアノの音色に浸っているようだった。
 その曲を終えると樹は少し息ついて山内先生を見た。樹の隣にいた真顔の山内先生の表情は何の変化もないままだったが、喝采を送る。

「素晴らしい。問題なし」

 合格をもらい樹は少し笑った。すると今度はクラスメートからの拍手が鳴り響く。

「樹くん!」

「二村やっぱすげー!」

 樹を見て、感動するクラスメートを見て、私は嬉しくなった。両手で口を押えながら笑顔をこぼして、ふと樹を見ると、樹は私を見て微笑んでくれた。そして山内先生に促され、席を立ち樹はこちらに戻ってきている。

「はい。次、青山ー」

 拍手の中で山内先生に名前を呼ばれた青山が眉を寄せる。

「うっわ。俺、この雰囲気の中やんの……」

「青山ー!」

「はいー」

「頑張れ、ボス」

 小絵に言われ

「はいー」

 同じような返事を繰り返して青山は力なく立ち上がり、ピアノに向かう。そこで青山は樹とすれ違い、樹が席に戻ってきた。

「お疲れ様、樹。良かったね!」

 私が声をかける。樹は頷いた。

「良かったよ、菜穂が笑ってくれて」

 樹は私を見ながら席についた。私は笑顔のまま樹を見た。小絵は私たちを見て黙ったままそっと微笑んでいた。
 青山が少し張り詰めた様子でピアノの前に座る。山内先生は青山をじっと見つめている。その時、如月先生がはっとして、扉近くから離れた。

「いけない、つい聞き入っちゃって」

 そう言って如月先生はプリントを配り始める。ピアノの前で青山は少しほっとしていた。プリントが配られたことによって、青山に注目する視線が減るからだ。そして如月先生はこう続けた。

「今から声楽のテストをピアノと同時進行でやろうと思います。名前を呼ばれたら順番に来てくださいね」

 その時、前から回ってきたプリントを受け取り、私は自分の筆箱のチャックを開けた。

「澤田さん」

 名前を呼ばれ、はっとする。

「声楽は澤田さんからにします。個室の防音室でやりましょう」

 突然言われ驚いたが

「はい」

と返事をして気持ちを切り替え、私はシャーペンを机に置いた。

「菜穂がんばれ」

「菜穂ファイト」

 二人に励まされ、私は笑って頷き、如月先生の元へ向かった。
 移動している時に青山のピアノが聞こえて、私はそっちをちらりと見た。そしてすぐに視線をそらし、先に移動する如月先生の後をついていく。
 ピアノの音色を聞きながら、私は微笑む。何だかんだ嫌がっていた青山も、音楽一家の血を確実に受け継いでいる。

「どうぞ」

 如月先生が防音室の扉を開けて、私を先にいれようとしてくれる。

「ありがとうございます」

 私が防音室に入ると、如月先生も中に入り、扉を閉めた。その部屋はピアノのスペースと、人一人しか立てるくらいの割と狭い空間だ。如月先生はピアノの前に座る。

「緊張してる?」

と聞くので

「いえ、そんなには」

と少し笑って答えると

「そっか。堂々としていいね」

と如月先生も笑った。
 如月先生は椅子に座り、手の甲で撫でるように軽くピアノを鳴らした。

「テストって言っても今日はちょっと発声練習して澤田さんの音域がどれくらいか見るくらいだから、肩の力は抜いてね」

「はい」

 私は如月先生を見て返事をした。如月先生は、ピアノで滑らかに始めに、ドミソミドと鳴らした。

「この音で、まーまーまーまーまーってピアノに合わせて言える? 音は半音ずつ上がっていくんだけど、澤田さんこれやったことある?」

 聞かれて私は眉間に少し皺を寄せ

「はい」

と返事をした。如月先生はそんな私の顔を見て、ちょっと吹き出して笑っている。

「難しそう?」

「いえ、難しそうというか……ちょっと過去の喧嘩が、一瞬頭をかけめぐりました」

「喧嘩?」

「その発声練習を昔ある人とやった時、一音狂うごとに喧嘩した経験があって」

 如月先生は、目を丸くしながらも笑っている。

「へえ……面白い人がいたのね」

「はい。あ、すみません。今のは忘れていただいて、やりましょう」

「そうなの? うん、やってみよう。声を出してね」

「はい」

 私が笑って頷くと、如月先生はピアノを弾きはじめる。それに合わせて、私は声を出した。
 ピアノの音に合わせて一通り声を出したあと、私はほっとして息をはいた。ピアノを弾くのをやめて、如月先生は私を見る。

「澤田さん疲れた?」

「大丈夫です」

「そう。……澤田さんって凄くいい声してるね」

「え?」

 ピアノの上においてある、紙の挟まったバインダーとペンをとり、何かを記入しながら、如月先生は話を続ける。

「透き通る声してるね。音も一音一音完璧。音域も女の子なのに、低い声も割りと出せて、高い声もいける音域がかなり広い持ち主」

「またまた……」

 いまいちぴんとこないままでいると、如月先生はバインダーとペンを元の位置に戻した。

「澤田さんは歌手になれるよ。それぐらいのレベルがありました。はい、テスト終わり」

 如月先生は、私を見て笑った。

「まさか……」

「澤田さんに歌を教えた人はいい加減な人じゃなくて、かなり音に正確な人だったみたいね」

 如月先生がそう言った時、私は思い浮かんだ。喧嘩したあの頃。小四の彼の顔だ。

「澤田さんから出席番号順にしてるの、次の人呼んできてくれる?」

「……はい。ありがとうございました」

「どういたしまして」

 笑っている如月先生に頭を下げ、戸惑いを隠せないまま、私は防音室を出た。
 防音室を出て、そのまま次の子を席まで呼びに行った後で、私は自分の席に帰る。 
 青山はピアノを終え席に戻ってきていた。
 椅子に座ると小絵に

「菜穂おかえり。どうだった声楽」

と聞かれたので

「発声練習するだけのテストだったよ」

と答えると

「へえー。それは気が軽くなった」

と小絵はにこにこしていた。
 私は樹をじっと見る。
 樹はきょとんとして、私を見た。

「菜穂、何?」

「えっとね……」

「うん」

「……樹のおかげで、褒められた」

 しどろもどろにそう言うと、樹は笑った。

「良かったな。昔喧嘩しただけあっただろ?」

 それを聞き私は頷いた。

「悔しいけど、あった」

 あははと笑う私と樹を、青山と小絵は不思議そうに見ている。

「何だ喧嘩って」

「喧嘩って何?」

 私と樹は、そんな二人をみた後で、顔を見合わせて

「いや、何でも」

と笑って同時に答えると

「教えてー!」

と言う青山と小絵の声も、同時に被った。