物心つく前から遊びに行っていた彼の部屋には、今も変わらずに一台のアコースティックピアノが置いてある。

「男なのにピアノってやばいよな」

 彼との記憶が、私の中で甦る。
 彼が本格的にピアノを習いはじめたのは、小学三年の初春。
 習い始めたその日に彼はやばいなんて言っていたが、私はそんなことを一切思わなくて首を横に振った。男性でもピアノを弾いている人は、世の中にたくさんいると思ったからだ。
 ピアノの隣には勉強机がある。その上には小学生と思えないほどの丁寧に書かれた楽譜が十枚ほど置いてあったと記憶している。
 彼はその時、芯のある瞳をむけて私にこう言った。

「俺ね……将来シンガーソングライターになるんだ」

 小学三年の二村樹(ふたむらいつき)の顔が、六時間目の授業終わりにふと頭の中に浮かんだ。

「……何故、今?」

 自分でも不思議だ。

菜穂(なほ)ー、帰るぞー」

 少し離れた席で、制服を着た、現在高校一年の二村樹が私を呼んでいる。

「うん」

 私は横にかけていた鞄を持つ。

「菜穂、今日カラオケどう?」

 後ろの席にいる私の親友、水無月小絵(みなづきさえ)の声がして振り向く。

「ごめん、今から樹と帰る」

「何だ、ラブラブか?」

 冷やかされ、首を振る。

「あれは幼馴染みです。もし好きなら譲ります」

 と言うと、

「譲ってもらいたいけど、向こうが興味ないわ」

と小絵に笑われた。ちなみに小絵の発言(これ)は、樹に特別な感情を抱いている訳ではない。この冗談は私と小絵の間でよくあることだった。

「帰っちゃうのか。菜穂の歌声聞きたかったなー」

「何故?」

 にこにこと笑う小絵とは対照的に、私は眉間に皺を寄せる。

「だって綺麗な声だよ」

 小絵は一点の曇りもなく言う。普通だったら褒め言葉に聞こえるところだが、残念ながら私にはそう聞こえない。

「綺麗か。小さい頃から歌うたびに樹に音程を直されて喧嘩したあげくにできた声だけど……嫌いになったもん、樹のこと」

 昔の記憶を、私はしみじみと思い返した。

「その嫌いになった相手といつも帰るのは何故?」

「入ったら意外に遠いんだもんこの高校。最寄り駅から三十分歩くし。樹が漕いでくれる自転車の後ろは楽なんだ」

「やっぱ見せつけてる? これだから澤田(さわだ)と二村は」

「違うよ! それに何その言い方」

 小絵に突っ込むと、また樹に名前を呼ばれた。

「菜穂ー?」

「今行く! じゃあね小絵」

「うん、じゃあね!」

 小絵に手を振って樹の所に向かう。その時一瞬だけ小絵が寂しそうな顔をしたのは…… 多分気のせいだろうと思って、私は樹と教室を出た。