「絵なんて描いて何になるのよ。どうせ誰も見てくれないし」
「ふうん。じゃあお前は、人からの視点でしか自分の絵を評価できないんだな」
「……っ! だってそうでしょ! 誰も私の絵を見てくれなかった! どれだけ頑張っても誰も……誰も、認めてくれないじゃない!」

 双葉が演じるヒロインの心の叫びに会場全体が息を呑むのが分かった。
 ヒロインが美術部の部室で雄太が演じる主人公と出会う場面。この時点ではまだヒロインの過去の詳細は語られていないけど、双葉の演技は自然と何があったかを想起させる。

「じゃあ、俺が見てやるよ。まあ、自分の作品を愛せないなんて、本当に大したことないんだろうけどな」

 雄太は双葉にさして興味を持っていないように、キャンバスに向かい合ったまま双葉の言葉を受け止める。普段は体育会系っぽい雰囲気の雄太だけど、今はクールで天才肌の美術部員に見えるから、雄太の演技もさすがだった。

「み、見てなさいよ! あんたが泣いて土下座したくなるような作品、描いてみせるから!」

 双葉は雄太に対してばしっと指さすと、パッと身を翻して舞台袖へとはけていく。
 売り言葉に買い言葉といった形だけど、絵をやめてしまおうと思っていたヒロインはこの瞬間、確かにもう一度絵を描くことと向き合った。
 そして、舞台は続いていく。
 ヒロインは美術部に入部し、生まれて初めて絵を描く仲間を見つける。だけど、それは新しい壁との直面でもあった。
 他の部員との実力を間近で見ることとなり、自分の才能に悩み、落ち込んでいく。特に、主人公は中学時代から数々のコンクールで入賞するなど実力はずば抜けていて、入学直後の約束――泣いて土下座させるような絵なんて夢よりも遠かった。
 再び心が折れそうになるヒロインを支えたのは、主人公の言葉だ。
舞台の上では、白紙のキャンバスの前に立ち尽くす双葉の背中に向けて主人公が声をかける。

「絵には人生が宿るって俺は思ってる。だから、お前にしか描けない絵がある」
 
 このシーンは当初の脚本にはなかったシーンだった。花火大会の後に付け加え、雄太や双葉と相談して更に台詞を足した。

「絵の描き方は俺が教える。だから、描いてみせろよ。お前だけの絵を」

 双葉が握ったまま動かせない筆に後ろから手を添える。そのまま筆をキャンバスに当てる。二人が舞台の上で放つ空気に、ビデオを持つ手が震えた。双葉に声をかける雄太だけでなく、一言も発することのない双葉が背中だけでヒロインの感情を、葛藤を全て描き出している。

「見せてくれるんだろ。俺が泣いて土下座したくなるような絵を」

 二人で握る筆が、キャンバスに鮮やかな色を描き出す。
 それをきっかけにヒロインは少しずつ立ち直り、これまでとは少し違った意識で絵と向き合う。自分にしか描けない絵。どこにでも転がっているような言葉は、だけど幼い頃から絵を描くことを否定され、自分の絵に自信を持てないヒロインの心の支えとなっていく。
 その言葉と向き合うように描き続けたヒロインの作品には、少しずつ個性の色が足されていく。孤独で、苛烈で、だけど微かに差し込む光。高い壁に見えた美術部の仲間たちにも支えられ、ヒロインは成長していく。
 そして、主人公とともに自分自身と向き合いながら描いた作品の一つが遂にコンクールで入賞を果たす。自分の作品に自信を持つことができたヒロインは、絵を描くことを否定し続けてきた親とも向き合い、これからも仲間たちと絵を描き続けることを宣言して大団円。

 いよいよ、クライマックス。主人公に呼び出されたヒロインは美術部へと向かう。
 舞台では雄太がキャンバスに向かい合っている。それは二人の出会いのシーンと重なるように配置や構図を工夫している。
 舞台袖から双葉が姿を現し、会場の空気がざわりと揺れた。
 双葉は顔に狐のお面を身に着けている。それはあの花火の日に買ったお面だ。
 
「よかったな。これからも絵、続けられるんだって」

 雄太は筆を置くと立ち上がって振り返り、お面をつけた双葉と向き合う。
 それまでヒロインに対して厳しい態度で接することが多かったけど、雄太の表情は柔らかい。だけど、双葉はそんな雄太から逃げるように一歩後ずさる。

「私の絵、見たでしょ。拒絶、嫉妬、どす黒い感情を全部仮面の内側に隠して私は絵を描いてきた」

 何の変哲もない狐のお面が、今この瞬間は悲痛な叫びをあげているようだった。狐のお面は自分の心を覆い隠してきたヒロインの心象風景を具現化している。

「みんなと笑いながら絵を描いてるときも、私はこんなドロドロとした感情をずっと抱いてた。こんな私に、みんなと絵を描き続ける資格なんて……!」

 双葉が両手で顔を覆いかぶりをふるようにしながらその場にしゃがみ込む。ハッピーエンド目前のヒロインの独白が観客席の空気まで一変させる。それだけの力を持った双葉の演技に脚本を書いた僕の心まで揺さぶられていた。

「全部まとめて、お前の絵だよ」

 雄太が双葉の前にしゃがみ込み、そっと狐のお面に手をかける。

「嫉妬、絶望? 上等だろ。俺たちの中でお前が一番それを上手に描けるんだ。それは、誇っていいことだと俺は思う」

 ヒロインの独白を切り捨て救い上げる雄太の台詞は、双葉のこだわりで最後の最後に付け足したものだった。
 雄太の手でお面がずらされ、双葉の顔が現れる。その表情の仔細まで僕の位置から見えるはずがないのに、双葉の瞳が震えているのがはっきりと見えた気がした。

「だいたいさ、俺はまだ泣いて土下座するほどの絵は見せてもらってねえぞ」
「それ、は」

 はっと顔を上げた双葉に雄太が手を差し出す。

「もし、それでも不安になるなら。いつでも俺が支えるから。だから、お前が描く絵を一番傍で見せてほしい」

 限りなく遠回しな主人公の告白。
 逡巡、葛藤。それから双葉が恐る恐る差し出された手を取る。
 雄太はぐっとその手を引いて双葉を立ち上がらせると、肩を抱くようにその身体を支えた。二人の視線が真っすぐ重なる。視線を通じて、想いが重なる。

「わかった。今に泣いて土下座したくなるような絵、描いてみせるから。だから、これからもずっと見守ってて」

 二人が手を引き合ってその距離が縮まったところで、紡がれてきた物語の幕が下りる。
 一瞬の静寂。どこか呆けたようにパチ、パチと叩かれた手の音が、次の瞬間にはどんっと会場中に広がり、体育館に拍手の音が木霊する。その光景に公演中ずっと力が入っていた肩からようやく力が抜けた。
 椅子に深く座り直して、最後の挨拶を見守る。当然、舞台の中心にいるのは双葉と雄太だ。

――どうしてあそこに並んでるのが僕じゃないんだろう。
 唐突に、そんな考えが頭をよぎった。すぐに首を振って否定する。あそこに並んでいるのは演者だけで、僕に限らず大道具や衣装といったメンバーも並んでいない。
 いや、違う。僕が並びたいのは舞台の上じゃなくて。
 纏まらない思考のまま、僕が見つめているのは双葉と雄太の二人だった。
 ああ、そっか。自分の心の声を見ないふりをしていたのは舞台の上のヒロインだけじゃない。僕もそうやって見ないふりをして、演技だと言い聞かせて、ずっとずっと自分の声を誤魔化してきた。

 今の僕たちにできる最高の舞台だった。双葉は約束を守ってくれた。
 そして、その最高の舞台の余韻が冷めないうちに、きっと雄太は双葉に告白するんだろう。
 ざわざわとささくれだっていく心をどうすることもできない。挨拶が終わり再び鳴り響いた拍手に嬉しさとか悔しさとか涙とかが全部溢れてきて、そんなものが双葉や雄太に見つからないうちに僕は体育館を後にした。