(3)
 そこまでの事情を知っているのか。芽吹は黙って頷いた。
「ご両親の遺影とも、選ばれたのはあいつが撮った写真だった」
「遺影……?」
「亡くなる直前に撮ったものだったらしい。母親が3歳、父親が9歳の時。3歳なんてまだ認識はシャッターを切るおもちゃ程度だったろうけどな。偶然あいつが親の写真を撮った直後、予期しない形で亡くなった。父も母も、だ」
 ひゅ、と芽吹の喉が鳴る。
 人が死ぬから──そう呟いた息吹の横顔が脳裏に響く。
「写真を撮ると魂が抜かれるって、聞いたことあるかな」
「でもそんなの、ただの迷信ですよね?」
「ああ、その通りだよ。そうでなければ、モデルなんて職業も成り立たないからね」
 小さく笑う谷の横顔が酷く辛そうで、相づちもままならなかった。
「あいつだって、本当はわかってるんだよ。それでも、両親の死をただの偶然で片付けるには、年端もいかない子どもには無理な話だ」
 いつの間にか前のめりになっていた背中を、そっと背もたれに戻す。喉の奥から上ってくる震えに、きゅっと唇を締めた。
 嗚咽に変わるのを、必死に堪える。
 両親を撮った後、相次いで両親が亡くなった。それに気づいた息吹は、どれほどの恐怖を抱いただろう。
「あいつの親父さんは、業界では有名なカメラマンだった。あいつも小さい頃からカメラと一緒に育ってきた。離れたくても離れられなかったんだろうな」
 言葉の句切りとともに、1枚の写真を手渡される。
 太陽のような明るい笑顔が、写真いっぱいに広がっていた。
 家族写真だろうか。子どもが4人と両親らしき男女が、幸せそうに微笑んでいる。触れているところからも、じんわりと温もりが伝わってくるようだ。
「ここ1年世話になっていた南米の村の家族だよ。子どもたちが特に慕ってくれて、取材や撮影を抜きによくしてもらった」
「すごい……素敵な写真ですね」
「これを撮ったのは、息吹だよ」
「えっ」
「その数日後、この母親が流行病で亡くなった」
 愕然とした。
 今自分が抱く何倍も、息吹が絶望したことを知って。
 どのくらい時間が過ぎただろう。手元の写真に走りすぎた車のテールランプが反射する。隣の谷が、小さく息を吐く気配が届いた。
「慕われた子どもたちに家族写真を頼み込まれて、その度に息吹は断っていた。俺が代わりに撮ると仲裁に入ったりして誤魔化し続けてたけど、いよいよ断り切れなくなった。息吹にも撮って欲しい、俺たち2人の撮る写真が自分たちは好きだからって」
「……」
「それで決意した結果が、母親の死だ。あいつにとどめを刺すには十分すぎた」
 最小限の荷物だけまとめ、息吹は村を出た。
 生まれたときから側にあった父譲りのカメラも、遮二無二駆け抜けてきたカメラマン人生も捨てて。


 長いドライブを終え、赤い外国車は芽吹の自宅近くに停められた。
 運転席の窓が下げた谷が、柔らかな笑みを浮かべる。
「思ったより長話になっちゃった。ごめんね、芽吹ちゃん」
「……いえ。話が聞けて、よかったです」
「浩でいいよ。呼ばれ慣れてるからさ」
「あの、聞いてもいいですか」
 少しの緊張をはらんだ言葉が、夜の空気に凜と響く。
「浩さんは、どうして私にさっきの話を聞かせてくれたんですか」
「……そうだねえ。本当は、どこまで話すべきかもわからないまま、君を車に連れ込んだわけだけど」
 君があいつ以上に、あいつのことを大切にしてくれてるって思ったから、かな。
 そう言いながら差し出されたのは、西洋風の茶色い紙袋だった。
 思いのほかずっしり重いその中には、色鮮やかな野菜を綴じ込んだサンドイッチの山が詰められている。
「夜ご飯に食べて。野菜と肉を食べなくちゃ、人間パワーが出ないでしょ」
「ありがとうございます」
「えーと。それからさ」
 歯切れの悪い言葉の後、谷はばりばりと頭を掻いた。
「浩さん?」
「あいつは……どうかな。その、今の暮らしぶりは」
 不本意を装って投げられた質問だった。
 奥に秘められた温かな感情に触れ、思わず芽吹の口元に笑みが浮かぶ。
「元気ですよ。健康に、いい加減に、好き勝手にやってます」
「そっか。相変わらずか」
「息吹のこと、心配してくれているんですね」
「まあ、一応数年来の付き合いだからね」
「それに」一瞬迷った様子を見せた後、諦めたような溜め息とともに谷が真っ直ぐ芽吹を見据えた。
「カメラマンとしてのあいつには、純粋に惚れてる」
 親しみに浸りかけていた心が、強い瞳に裂かれるのを感じる。
 もちろん谷にその意図があったわけではないだろう。しかし、まだ覚悟が決めきれない芽吹にとって、その眼差しはあまりに強く揺るぎなさ過ぎた。
「それじゃあ、またね」
 浩さんは、息吹を元の場所に連れて帰りたいと思っている。そんなこと、わかりきっていたことなのに。
 はい、そう答えたはずの声は、掠れて下手な咳払いのように消えていった。


「浩と会ったでしょ」
 帰宅後、いの一番に突かれた図星に芽吹は返答を忘れた。
「やっぱり。帰りが遅いから何かあったのかとは思ったけれど」
「ど、どうしてわかったの」
「浩が買ってくる夜食のチョイスは、いつも決まってサンドイッチだ」
 芽吹が携えた茶袋の中身を見るや、息吹が何とも言えない笑みを浮かべた。
 今まで見たことのない色合いの表情に、芽吹の胸がぎゅっと苦しくなる。やきもちだ。自覚した瞬間、恥じらいにかっと頬が火照るのがわかった。
「まあいいや。お腹空いたし、有り難くいただこうか。芽吹、部屋に荷物置いておいでよ」
「あ、うん。そうする」
 荷物──答えながら、芽吹はすっと玄関周りに視線を馳せる。
「浩が言ってた荷物なら、まだ届いてないよ」
「っ、え」
「ほら。いいから早く置いておいで」
 ぽん、と優しく頭を撫でられる。
 その温もりはいつもと何ら変わりない。だからこそ、不思議な焦燥感にかき立てられ、階段を踏みしめた足取りを元に戻した。
「息吹さ。昨日言ってたよね。心配をかけるっていうのは、相手を信頼してるってことだって」
「芽吹?」
「浩さんね、心配してたよ。怒ってもいたけれど、それだって本当は全部、心配していたから。息吹のことが大好きで、大切だから」
 まくし立てるような芽吹の言葉に、息吹は呆気に取られたように目を見開く。その反応は歯痒くて、芽吹はきゅっと唇を噛んだ。
 自分が息吹にどうして欲しいのかさえ、いまだ定まっていないのに。「心配しないで」
「浩はああ言ってたけど、この業界はそんなに甘くない。現地から言い訳すらなく逃げ帰ってきた奴に、戻る席なんてもうないよ」
 静かに告げた息吹が、笑顔でリビングに消えていく。数年来の付き合いがない自分でも、その表情で封をした思いの存在に気づいているのに。
 いくじなし──自分自身に向けた非難に鋭く痛む胸を感じながら、暗い階段を上がっていった。