(2)
瞬間、目の前の微笑みが、貼りついて見えた。
「もしも好きなら、その人を悪く言うのはやめた方がいいと思うよ。だって、好きなんだから」
よせばいいのに口に出た。いつもの自分なら、真正面からやり合うなんて馬鹿なことは絶対しないのに。
つい、頭に血が上った。
その時だった。ノックもなく、唐突に小屋の扉が開けられる。
扉に軽く手をかけていた芽吹が、ぐらりと体勢を崩した。
「きゃ」
「あ、っぶね……!」
誰かの温もりにぶつかり、体の傾きが収まった。確認した「誰か」の姿に、素早くたたずまいを整える。
「すみません、安達先輩」
「おー、こっちも急に開けてごめんな」
一瞬、安達の視線が、すぐそばにいる百合を素早くなぞった。
「へえ、マネージャー2人でいるなんて珍しいよな。いつも仕事に追われてお互い走り回ってんのに」
「まあ、そうですね」
その通りだと思ったので肯定すると、安達の唇がすっと芽吹の耳元に寄せられた。
「なあ、倉重、ずっとここにいたか」
小声の質問。百合には聞かれたくないらしい。咄嗟に判断し、「そうですね」とだけ返す。「そうか」
「なあ、倉重」
「え」
「ごめんな」
急に話し相手が移り変わり、芽吹も百合も一瞬反応が遅れてしまう。正しくやり取りを理解できた時には、安達はすでに小屋を後にしていた。
「……克哉さん、どうしたんだろ。あんなふうに人に謝るなんて、珍しいなあ」
「……そうだね」
中途半端な戸惑いを残したまま、2人のマネージャーは仕事を再開した。
謝罪の意味は、部活後には明らかになった。
「やっぱり、倉重じゃねーな、って。俺への嫌がらせ相手がさ」
頭の後ろに手を組み、夜空をぼんやり眺める。
部活後の家路をともに歩きながら、安達は静かに話し始めた。
「ペンケースの中にカッターの刃を入れられた。補講までの間以外考えられない。百合がずっとお前と小屋にいたなら、やっぱりあいつは犯人じゃない」
「カッターの刃って」
「あ、平気平気。あれってただ放り込まれただけで、すぐ気づいたからさ」
そういう問題じゃない。
万が一そのまま指先を怪我していたら、考えるだけでぞっとする。ピッチャーにとって、指は命じゃないか。
「少し、ほっとした」
しかし、安達の口から出たのは意外な言葉だった。
「野球部内に犯人がいる可能性が、かなり減った。正直、それが1番精神的にきてたからさ」
あくまで軽い調子を崩さないように言う安達に、胸がつきんと痛む。
嘘だ、と芽吹は思った。
「無理、しないでください」
「ああ。ありがと」
どれほど伝わっているんだろう。気休めしか言えない自分がもどかしい。
ふがいなさを感じていたからだろうか、そっと包まれた手の温もりに、気づくのが遅れた。
「……何ですか、この手は」
「いやー、2人きりで下校する男女ときたら、手を繋ぐくらいが自然かなーと思ってさ」
「必要ないです」
ぺっとつながれた手をはがし、安達を一瞥する。心底心配した自分が馬鹿みたいだ。
「あの写真の件で、しばらく下手に手出ししないって言ってましたよね?」
「でもさ、こうして一緒に帰ってる時点でアウトじゃね?」
確かにそうだ。
はたと思い至り、素早く距離をとろうとする芽吹に、安達は再び手を取った。
「大丈夫だって。周りにはまだちらほら人目がある」
だからダメなんだろ、と突っ込む前に安達は言葉を続ける。
「要は、一緒に帰ってるところをちゃんと誰かに目撃されてりゃいいわけだろ。そうすりゃ、あんなでっちあげ写真も作れない」
「だからって別に、手をつなぐ必要はないでしょ」
「あれ、芽吹ちゃん、もしかして緊張しちゃう?」
「放っといてください」
覗き込まれた顔は、指摘されるまでもなく熱く火照っている。
驚きに見開かれた安達の瞳を、芽吹は恨めしく睨み返した。
「仕方ないでしょ。男の人とこんなことするなんて、今までないですし」
「……そうなんだ」
「まあ、百戦錬磨の安達先輩なら、経験値0の私なんて不思議な存在なんでしょうね」
何故か皮肉が混ざった言葉になる。野球部小屋で、百合に投げかけられた台詞のせいだ。
――克哉さんも罪作りだよねえ。来宮さんみたいな慣れない子をからかうんだもん。
――正直ね、あっちのことでも、克哉さんのお願いに付き合わされて、体が辛いこともあったし……。
「……すみません。少し、頭冷やした方がいいのかも」
「芽吹」
「本当にすみません。気をつけて帰ってくださいね」
芽吹は早口で言い残すと、安達を残して家路を急ぐ。
胸の中がぐちゃぐちゃだった。自分が怒っているのか、悲しんでいるのか、わからない。
うん。今はとにかく、頭を冷やそう。
ゆっくり自分に言い聞かせ、芽吹は深く息を吐いた。
下駄箱に安達からのメモが入っていたのは、その翌日だった。
内密に話がしたい。放課後にグラウンド裏の緑地に来てほしい――と。
今日はもともと部活休みだった。そのことに少し安堵していたのに、と芽吹は思う。昨日の今日で顔を合わせるのはさすがに気まずかった。
「おーい芽吹。今から移動?」
購買の窓から、ひらひらと手を振る息吹と目が合う。連れだっていた奈津美と華に断りを入れ、そちらへ立ち寄った。
「私たちたちは、今から体育。あんたも今日は、真面目にここにいるんだね」
「葵先生ってば、最近特に俺の締め出しが激しいんだよねえ」
「いや、それが普通だから。旧友だからってあんまり甘えるな」
「日当たり良好で好きなんだけどなー、保健室」
安達への気まずさが膨らんだ反作用か、息吹へ抱いていた気まずさは、いつの間にか溶けて無くなっていた。
嫌い――そう淀みなく告げた横顔は、今もたまに脳裏にちらつくけれど。
「そういえば芽吹、2年男子の知り合いって、野球部以外にいる?」
「え、なに急に。いないけど」
「だよねえ」
意味不明な質問を投げっぱなしにするつもりの兄に、胡乱な視線を送る。こういうところが、食えないのだ。自分だけ振り回されている気がして、何だか悔しかった。
「なになに。息吹さんもやっぱり可愛い妹の交友関係は気になるとか、そういうことですかー?」
追求しようと口を開いた芽吹の首もとに、奈津美が後ろから抱き着くようにして割り込んできた。
「まあ、そんなところかな」
「それなら、気を付けたほうがいいですよ。芽吹ってば今、プレイボーイ安達にちょっかい出されまくってますからねえ」
「へえ、プレイボーイなの?」
「そりゃーもう」
「ちょっと、奈津美!」
奈津美の発言に、慌てて封をする。
息吹は特段気にする様子もなく、「プレイボーイかー」といつもの調子で復唱した。
「まあ、どんな男でも選ぶのは芽吹だもんね。俺が口出しすることじゃあないよ」
「あら、意外なご意見」
肩透かしを食らった顔の奈津美に、息吹は至極朗らかに付け加えた。
「お兄ちゃんが活躍するのは、男が芽吹に手を出した時だけだから」
「ねえ?」その無邪気な笑顔に、息をのんだのは芽吹だけじゃなかった。
手を出した時って、どういう意味だろう。以前ストーカー男を一瞬で地面に伸した姿が頭をよぎり、すうっと背筋が冷える。
もしかしたら安達は、すでにアウトかもしれない。
瞬間、目の前の微笑みが、貼りついて見えた。
「もしも好きなら、その人を悪く言うのはやめた方がいいと思うよ。だって、好きなんだから」
よせばいいのに口に出た。いつもの自分なら、真正面からやり合うなんて馬鹿なことは絶対しないのに。
つい、頭に血が上った。
その時だった。ノックもなく、唐突に小屋の扉が開けられる。
扉に軽く手をかけていた芽吹が、ぐらりと体勢を崩した。
「きゃ」
「あ、っぶね……!」
誰かの温もりにぶつかり、体の傾きが収まった。確認した「誰か」の姿に、素早くたたずまいを整える。
「すみません、安達先輩」
「おー、こっちも急に開けてごめんな」
一瞬、安達の視線が、すぐそばにいる百合を素早くなぞった。
「へえ、マネージャー2人でいるなんて珍しいよな。いつも仕事に追われてお互い走り回ってんのに」
「まあ、そうですね」
その通りだと思ったので肯定すると、安達の唇がすっと芽吹の耳元に寄せられた。
「なあ、倉重、ずっとここにいたか」
小声の質問。百合には聞かれたくないらしい。咄嗟に判断し、「そうですね」とだけ返す。「そうか」
「なあ、倉重」
「え」
「ごめんな」
急に話し相手が移り変わり、芽吹も百合も一瞬反応が遅れてしまう。正しくやり取りを理解できた時には、安達はすでに小屋を後にしていた。
「……克哉さん、どうしたんだろ。あんなふうに人に謝るなんて、珍しいなあ」
「……そうだね」
中途半端な戸惑いを残したまま、2人のマネージャーは仕事を再開した。
謝罪の意味は、部活後には明らかになった。
「やっぱり、倉重じゃねーな、って。俺への嫌がらせ相手がさ」
頭の後ろに手を組み、夜空をぼんやり眺める。
部活後の家路をともに歩きながら、安達は静かに話し始めた。
「ペンケースの中にカッターの刃を入れられた。補講までの間以外考えられない。百合がずっとお前と小屋にいたなら、やっぱりあいつは犯人じゃない」
「カッターの刃って」
「あ、平気平気。あれってただ放り込まれただけで、すぐ気づいたからさ」
そういう問題じゃない。
万が一そのまま指先を怪我していたら、考えるだけでぞっとする。ピッチャーにとって、指は命じゃないか。
「少し、ほっとした」
しかし、安達の口から出たのは意外な言葉だった。
「野球部内に犯人がいる可能性が、かなり減った。正直、それが1番精神的にきてたからさ」
あくまで軽い調子を崩さないように言う安達に、胸がつきんと痛む。
嘘だ、と芽吹は思った。
「無理、しないでください」
「ああ。ありがと」
どれほど伝わっているんだろう。気休めしか言えない自分がもどかしい。
ふがいなさを感じていたからだろうか、そっと包まれた手の温もりに、気づくのが遅れた。
「……何ですか、この手は」
「いやー、2人きりで下校する男女ときたら、手を繋ぐくらいが自然かなーと思ってさ」
「必要ないです」
ぺっとつながれた手をはがし、安達を一瞥する。心底心配した自分が馬鹿みたいだ。
「あの写真の件で、しばらく下手に手出ししないって言ってましたよね?」
「でもさ、こうして一緒に帰ってる時点でアウトじゃね?」
確かにそうだ。
はたと思い至り、素早く距離をとろうとする芽吹に、安達は再び手を取った。
「大丈夫だって。周りにはまだちらほら人目がある」
だからダメなんだろ、と突っ込む前に安達は言葉を続ける。
「要は、一緒に帰ってるところをちゃんと誰かに目撃されてりゃいいわけだろ。そうすりゃ、あんなでっちあげ写真も作れない」
「だからって別に、手をつなぐ必要はないでしょ」
「あれ、芽吹ちゃん、もしかして緊張しちゃう?」
「放っといてください」
覗き込まれた顔は、指摘されるまでもなく熱く火照っている。
驚きに見開かれた安達の瞳を、芽吹は恨めしく睨み返した。
「仕方ないでしょ。男の人とこんなことするなんて、今までないですし」
「……そうなんだ」
「まあ、百戦錬磨の安達先輩なら、経験値0の私なんて不思議な存在なんでしょうね」
何故か皮肉が混ざった言葉になる。野球部小屋で、百合に投げかけられた台詞のせいだ。
――克哉さんも罪作りだよねえ。来宮さんみたいな慣れない子をからかうんだもん。
――正直ね、あっちのことでも、克哉さんのお願いに付き合わされて、体が辛いこともあったし……。
「……すみません。少し、頭冷やした方がいいのかも」
「芽吹」
「本当にすみません。気をつけて帰ってくださいね」
芽吹は早口で言い残すと、安達を残して家路を急ぐ。
胸の中がぐちゃぐちゃだった。自分が怒っているのか、悲しんでいるのか、わからない。
うん。今はとにかく、頭を冷やそう。
ゆっくり自分に言い聞かせ、芽吹は深く息を吐いた。
下駄箱に安達からのメモが入っていたのは、その翌日だった。
内密に話がしたい。放課後にグラウンド裏の緑地に来てほしい――と。
今日はもともと部活休みだった。そのことに少し安堵していたのに、と芽吹は思う。昨日の今日で顔を合わせるのはさすがに気まずかった。
「おーい芽吹。今から移動?」
購買の窓から、ひらひらと手を振る息吹と目が合う。連れだっていた奈津美と華に断りを入れ、そちらへ立ち寄った。
「私たちたちは、今から体育。あんたも今日は、真面目にここにいるんだね」
「葵先生ってば、最近特に俺の締め出しが激しいんだよねえ」
「いや、それが普通だから。旧友だからってあんまり甘えるな」
「日当たり良好で好きなんだけどなー、保健室」
安達への気まずさが膨らんだ反作用か、息吹へ抱いていた気まずさは、いつの間にか溶けて無くなっていた。
嫌い――そう淀みなく告げた横顔は、今もたまに脳裏にちらつくけれど。
「そういえば芽吹、2年男子の知り合いって、野球部以外にいる?」
「え、なに急に。いないけど」
「だよねえ」
意味不明な質問を投げっぱなしにするつもりの兄に、胡乱な視線を送る。こういうところが、食えないのだ。自分だけ振り回されている気がして、何だか悔しかった。
「なになに。息吹さんもやっぱり可愛い妹の交友関係は気になるとか、そういうことですかー?」
追求しようと口を開いた芽吹の首もとに、奈津美が後ろから抱き着くようにして割り込んできた。
「まあ、そんなところかな」
「それなら、気を付けたほうがいいですよ。芽吹ってば今、プレイボーイ安達にちょっかい出されまくってますからねえ」
「へえ、プレイボーイなの?」
「そりゃーもう」
「ちょっと、奈津美!」
奈津美の発言に、慌てて封をする。
息吹は特段気にする様子もなく、「プレイボーイかー」といつもの調子で復唱した。
「まあ、どんな男でも選ぶのは芽吹だもんね。俺が口出しすることじゃあないよ」
「あら、意外なご意見」
肩透かしを食らった顔の奈津美に、息吹は至極朗らかに付け加えた。
「お兄ちゃんが活躍するのは、男が芽吹に手を出した時だけだから」
「ねえ?」その無邪気な笑顔に、息をのんだのは芽吹だけじゃなかった。
手を出した時って、どういう意味だろう。以前ストーカー男を一瞬で地面に伸した姿が頭をよぎり、すうっと背筋が冷える。
もしかしたら安達は、すでにアウトかもしれない。