吸血鬼に恋をした三人

「式のドレスを選ぼう」
自分が何かをしたのかを全く話そうとせずプロポーズをし、ドレス選びに誘ったシセル。
こんな身勝手でひどくて怖いのに、アムは自然と何も迷うことを知らずに頷いた。
「うん、分かった」
シセルが三日我慢したなら、私もそれに応えないとシセルはきっと落ち込んで私から離れる。
きっとそれが嫌だから、私は頷いた。
シセルが頷かせた。
そういう力を持っているんだ。
吸血鬼からのプロポーズ。
人間でさえもされなかったことを吸血鬼のシセルが叶えてくれる。
人間にはできない、吸血鬼が簡単に叶えてくれる。
アムはそれに気づいてしまい、ケーキのように甘くドロドロに溶けて沼に沈む。
「どうだ? 何にするんだ?」
誰の血かも分からない真っ赤な口で怪しげに笑い誘惑するシセル。
アムはそれに応えるように手を握って優しく微笑んだ。
「ふふっ、じゃあ、水色がいい」
雪の結晶みたいで綺麗だから。
本気でシセルと結婚すると心に決めたアム。
すると。
「アム様、お菓子の用意ができました」
満面の笑みで次は焼き菓子をたくさん持ってきてくれたサミール。
血に染まった真っ赤な恐怖を身体全体に纏うシセルの姿を見ても、何も動じずにただ笑っている。
「アム様、早く食べないと私が食べてしまいますよ」
少しからかうように楽しそうに笑いながら言うサミール。
だが。
「おい、そこのメイド。俺たちが話しているのが分からないのか?」
二人の会話を邪魔されたことに心の底から腹を立てたシセルがサミールを睨む。
大切な話で二人の未来に関わる話。
それを邪魔されて腹を立てない者はいないだろう。
けど。
「アム様、どうしますか? 食べますよね?」
完全にシセルを無視してお菓子をテーブルに並べていくサミールに、アムは笑顔で喜び頷いた。
「うん、食べる」
テーブルに置かれた焼き菓子がおいしそうすぎて我慢できなくなったアムはシセルから離れて椅子に座りお菓子を食べていく。
「ん、ふふっ、おいしい!」
焼き色も綺麗で焦げてなくてちょうどいい甘さ。
きっとこのお城の料理人は腕がめちゃくちゃ高いんだ。
いくらでも食べられる!
どんどん手を動かして口に運んでよく噛んで味わって。
紅茶も飲んで。
「ふふっ、サミール、ありがとう。おいしかった」
満面の笑みでお礼を伝えたアムに、サミールもとても嬉しそうに笑った。
「いいえ、私はメイドとして当然のことをしただけです」
アム様の笑顔は私も好きなので、見られて嬉しいです。
アムとサミールがとても楽しそうに笑い合っている姿を見て、シセルは大切な物をどうでもいいサミールに奪われてしまうと思い込み、胸が苦しくなって無理やり力強くアムの手を握り、サミールを睨む。
「おい、メイド。こいつは俺の物だ、勝手なことはするな。そんなことも分からないのか?」
メイドなのに、第一王子の俺を無視して許されるはずがないだろ。
そう、シセルはこの世界の第一王子。
一応。
第一王子のシセルを無視してアムに声をかけたメイドのサミール。
実は二人は。
「お前の主人は俺だろ。なぜ俺の言うことを聞かないんだ?」
そう、サミールの主人はシセル。
幼い頃からサミールはシセルに仕えていて、付き合いも長い。
でも。
「私はあなたを主人と思ったことは一度もありませんし、思うこともありません」
冷たく低い声ではっきりと主人のシセルに対して反抗し始めたサミール。
さっきまで笑顔だったのに、シセルと話す時はいつも無表情で感情がない、まるで人形のようだ。
「私の今の主人はアム様です。あなたではありません」
この方は私に何をしたのか全く覚えていないようですね。
自分勝手で荒くて冷たい。
この方が本当に第一王子とは思えませんね。
ただの野生ですよ。
「ふふっ」
シセルがサミールにしたことは本当に最悪だった。
思い出すだけで吐き気がするほど・・・。
サミールの初めて見る顔に少し不安になったアムがそっと優しく手を握って顔を近づける。
「サミール、どうしたの? 具合悪いの?」
元気がないように見えたのは私だけ?
瞳を激しく揺らして心配してくれるアムに、サミールはその手の温もりを心から嬉しそうに満面の笑みを見せる。
「大丈夫です。アム様の顔を見ただけで元気が出ました」
私はこの方よりもアム様を主人にして欲しいです。
「それが私の夢です」
コソッと小さくニッコリ笑って呟いたサミール。
しかし。
「おい、お前、これ以上アムに関わったら許さないぞ」
嫉妬しているのか、シセルは頬を爆発しそうなほどに膨らませてまるで幼い子供のようだ。
「アムは俺の物だ。絶対に渡さない。早くここから消え」
「うるさいですね。勝手にアム様を自分の物にする方が許されないことですよ。それも分からないのですか、第一王子様は」
怪しげに美しく微笑みかけて圧を仕掛けるサミールを、シセルはゾッとして後ろに一歩下がった。
「そうだ、俺は第一王子だ。メイドのお前に負けるはずがないだろ」
力勝負だったら絶対にシセルが勝つ。
けれど、言葉だったら完全にサミールが勝つ。
今もその時。
サミールが笑顔でひどい言葉を言う度にシセルは後ろに一歩下がって一旦休憩と思い込んで力をつけて挑んで来る。
そんな二人のケンカに、アムは見ないふりをして残った紅茶を全て飲む。
「・・・・・・」
サミールのあの顔は初めて見た。
サミールもあんな顔をするんだ。
いつも笑顔だからあんな怖い顔を見せられた私もシセルと同じことをしたと思う。
というか、シセルって、意外と弱いんだ。
違う、サミールにだけ弱い姿をする。
だったら、私は。
「サミール、もしあなたが言ったとおり、私があなたの主人になったら嬉しいの?」
下から顔を覗くように真剣な眼差しでそう質問したアムに、サミールははっきり頷いた。
「はい、もちろん嬉しいです」
アム様がその気であるなら、私は喜んであなたに仕えたいと思っています。
この三人は自分の本音を言うのが下手なようだ。
感情を表現するのがとても下手で中々言えずに我慢する。
遠慮なんてしなくても、本音など簡単に言っても誰も怒らないのに。
内容によるが。
だが。
「アム様、この方との結婚はやめた方がいいですよ。絶対に後悔します」
突然二人の結婚に反対の意見を言ったサミール。
その理由は。
「この方は第一王子ではありますが、吸血鬼としては一番野生に近いです。知らないかもしれませんが、吸血鬼は時々野生に変わることがあるんです」
そう、サミールが言ったとおり、吸血鬼は野生に変わることがある。
「野生になる条件が一つだけあります」
少しずつ吸血鬼について語っていくサミールの真剣な眼差しに、アムも同じような表情で首を傾げた。
「それは何?」
「血です」
「え?」
「吸血鬼は最低でも三日以上血を吸わなければ野生に変わり、暴れて叫んで他の吸血鬼、あるいはそこにいた人間の血を吸い、ひどい時には食べてしまいます」
その言葉を聞いたアムはもう一度シセルの姿を見て心の底から恐怖が芽生えてとっさにサミールの後ろに隠れる。
じゃあ、今は、シセルはやっぱり人間を食べたんだ。
それなら、どうして、私に言ってくれないの?
私に嫌われるのが怖くて言えなかったの?
それとも。
「我慢できなかったんだ」
シセルはこう言っていた。
『契約を結んだ人間の血を吸うためには三日耐えなければいけない』
と。
だが、それは嘘だった。
シセルは嘘をつくのが上手すぎる。
平気で簡単に嘘をついて周りの意見も聞かずに自分の思うままに行動する。
きっとシセルはアムのことを。
「私のことが好きなんて嘘。あなたみたいな冷たい吸血鬼が私を好きになるはずがない」
動揺しているのか、アムの瞳は激しく揺れ動いていて怖がってもいる。
しかし。
「何を言っているんだ? 俺は本気で君を愛している、それに嘘は絶対につかな」
「もうついているの! 私は庶民、あなたみたいなお金持ちが全くつまらない私を好きになるはずがない!」
もう、シセルの言うことは信じない。
平気で嘘をつく最低な生き物。
なんて、こんなことを言ったらきっと私まで食べられてしまうから、とりあえず今は。
アムはシセルの嘘にひどく傷つき、自分のために走って逃げて行く。
「はあっ、は、ああ」
シセルが怖い。
どうして私はシセルと契約を結んでしまったの?
こんなことになるって知っていたら契約は結んでいなかった。
どうして私はいつも選択を間違えてしまうの?
今までもアムは間違っていた。
仕事を選んでいた時、あのパン屋はリストに書いていなかった。
興味もなかった。
でも、お店の広告にこう書かれていた。
『みーんな優しく丁寧。おいしいパンを一緒に作ってみませんか? それがあなたへの夢に繋がる』
アムはそれを見た瞬間で心惹かれてしまい、自分に一番合っていると信じてすぐにあのパン屋で働いてしまった。
「夢」という言葉に釣られて。
そして、アムの夢は見つかった。
「自由になること」
全てから解放され、全てから救われた時に叶う夢。
「ふふっ、早く夢を叶えたい。だから、そのためには」
何かを思いついて、アムは足を止めてゆっくり後ろを振り向いてまた歩き出す。
「シセル、あなたが人間を食べたなら、私はあなたを殺す」
これは私のためじゃない、人間のために。
そう、このお城に吸血鬼が存在していることを人間はまだ知らない。
最初はアムもそうするとも思ってはいなかった。
スラがいたから。
常にアムの血を吸っていたスラを、アムは守りたい、隠したいと思ってしまった。
だから、それを邪魔する物、私が捨てた物をもう一度私の物にするために。
「シセルを殺してスラと契約を結ぶ」
はっきりと目標が決まったアムは満面の笑みでまた走って庭に行ったら
「キャー! 誰か、助けてください!」
と、何かに怯えて声を震わすサミールが右腕を誰かに噛まれて血がどんどん下に垂れて今すぐにでも右腕が引きちぎられてしまいそうだ。
その姿を見たアムは全力で走って左手を握って柱の後ろに一緒に隠れる。
「サミール、どうしたの、その腕?」
「あの方が、シセル様がまた野生に戻って私の右腕を噛み、殺そうとしたんです」
「そんな、どうして、シセル・・・」
「アム様も逃げてください」
「えっ、でも」
「私は平気です。さあ、早く!」
力強くアムの背中を押したサミールは大粒の涙を流してとても悔しそうに寂しそうに。
最後に。
「ありがとう、ございました」
右腕の出血がどんどんひどくなって感覚もなくなり、血を吐いて、サミールは倒れて意識を失った。


なぜこうなったのか。
理由は簡単だった。
シセルがサミールを嫌っていたから。
『おい、早くお茶を出せ』
常に王でもないのに常に偉そうに腕を組んで吸血鬼扱いがひどすぎたシセルを、サミールはなるべく笑顔で全てに応えていた。
『はい、かしこまりました』
シセルは機嫌の悪さが激しい。
ちょっとでも嫌なことがあったらすぐに物を投げて壊して暴れる。
本当に扱い方が分からなくて兄妹だけでなく、使用人もみんな困っていた。
距離を置いていた。
近づいたら噛み殺される。
文句を言われて水をかけられる。
睨まれて近づきたくない。
みんなシセルに対しては全く同じ気持ちで良い印象は全くなかった。
あるはずもなかった。
こんな最低な吸血鬼が存在していることが恥。
一緒の空気を吸うのも嫌。
目を合わせたくない。
「早く消えてくれれば良かったのに」
シセルは吸血鬼の中で二番目に野生に変わりやすい。
シセルはあまり人間の血を吸っていなかった。
高い物にしか興味がなかったせいであんなふうに暴れて自我を失って生き物を喰らう。
今までは兄妹が止めていたが、今はもう兄妹は自分のことだけを考えてシセルのことなんてどうでも良くなっている。
気にしたくない。
兄妹とは、家族とは思っていない。
だが。
「あああああああっ、血、血、血を与えてくれ!」
何度も叫んで庭に咲いているナイのお気に入りの赤色の薔薇をトゲなど気にせず潰して折って顔に切り傷ができても、花びらを全てちぎって全てを壊した!
「ああああああっ、ああああああああああああああっ!」
野生に変わった吸血鬼は自分の意思では元に戻らない。
誰かが止めなければ二度と元には戻らない。
それか、人間を食べないと元に戻る方法はない。
誰もシセルを止めたりしない。
もう、どうでもいい。
勝手に消えてくれる方がいい。
それでも。
「兄上、やめてください!」
三日部屋に閉じこもっていたスラが野生に変わって血だけを求めて壊れるどうしようもない姿を見て顔が青ざめていながらも、シセルの叫び声を聞いてわざわざ裸足で走って庭に来てくれた。
「兄上、これ以上暴れたらあなたは死んでしまうのですよ! それでもいいのですか!」
「ああああああっ、わああああああっ!」
「ダメだ」
ここまで兄上が野生になるのは初めてだ。
原因が分かれば対処できるのに、兄上本人がこんな状態では聞くことすらもできない。
そして、この血が誰なのか、それも教えてもらわなければきっと兄上は父上に殺される。
それも悪くはないが、今はとにかく兄上をどうにかしなければ、これ以上他人を傷つけさせない!
自分のために、家族のために。
スラは自分が殺される覚悟で自ら立ち向かってシセルを地面に押し付けて腕を押さえる。
「兄上」
「あああっ、あああっ、あああああああ」
言葉を失い、ただ叫ぶしか頭にないシセル。
それは苦しんでいるのとはだいぶ違う。
野生になった自分から元の自分に戻るために必死に頑張っているというわけではなく、ただ人間の血が欲しいという欲が満たされていないのが原因で自我を完全に失い、こうなってしまったのだ。
「ああああっ、ああああああ」
「・・・兄上」
最低で最悪でどこもいいところなんて一つもないのに、なぜかスラは自然と体が動いて幼い頃と同じように何かが怖くてシセルを今までも今も生かし続けてきた。
何も意味なんてない、ただ何かに利用できるならと考えていたのかもしれない。
「・・・・・・」
俺は兄上を好きになったことは一度もない。
なりたいとも思っていない。
だって、兄上は俺たちの大切な物を簡単に奪い壊してきたから。
俺たちがどんなに苦しくても、兄上は面白がって笑って殴る。
こんな兄妹が存在していることすらが元々おかしい。
「どうしてくれるのですか、兄上!」
自分勝手で嘘つき。
見た目が良くても中身が悪ければ意味がない。
必要か不必要か。
それすらも考えられない吸血鬼自体が存在してしまっているのが家族の恥だ。
弟も妹も二人は今とても幸せな日々を過ごしている。
だから、ここは次男の俺が何とかして止めるんだ!
テーブルに置いてあった食用のナイフを手に取って、スラはシセルの顔から首まで縦に切り美しい瞳が細かくちぎれて形がなくても大量の血が流れても、笑って受け流した。
「ははっ、これでいい。今は」
今はとりあえずこの辺にしてあとは誰でもいいから任せて適当に捨ててもらおう。
大切な物を全て奪ったシセルを、三人が許したことは一度もない、これからもきっとない。
こうなって当然の存在だと、三人はそう思っていたから。
「さっ、久しぶりに外に出たんだ、アムに会いに行こう」
契約を結んだ吸血鬼が吸血鬼に殺された場合でも契約は自然と解かれる。
指輪も当然消える。
アムの左手薬指からも砂のようにサラッと消えて行った。
「あれ? 指輪が消えている。もしかして、誰かがシセルを…」
部屋のカーテンの中に隠れていたアム。
すると。
「アム!」
誰かの叫ぶ声が聞こえてカーテンの中から出てきたアムは大粒の涙を流しながら走ってその正体を抱きしめた。
「うう、スラ、会いたかった!」
そう、三日会えずに寂しい思いをさせてしまっていたスラに会えて、アムはシセルからの愛情から離れてもう一度契約を結びたいとこの瞬間から強く感じた。
「スラ、もう一度私と契約を結んで! お願い!」
私にはもうスラしかいないの。
お願い、断らないで。
心の底から本気でもう一度スラと契約を結びたいと願うアム。
それはスラも同じで頷いた。
「ああ、もちろんだ。今すぐ結ぼう」
そう言って、スラは珍しく満面の笑みを見せて棚から契約書とペンを出してそれをアムに渡した。
「やり方は兄上と同じだ。ここに名前を書いて指輪を俺がつけてあげる。それだけだ」
「うん、分かっている」
ペンを手に持ち、アムは名前の欄に自分の名前を書いてスラに渡したら。
「君、これが君の名前か?」
何かを知ってしまったスラが驚きと動揺で瞳を激しく揺らしている。
信じられない。
アムという名前は愛称だったのか。
契約書に書かれた名前は『アム』ではなく『アミナム』だった。
だが。
「スラ、どうしてそんなに驚いているの? もしかして、私の名前に何か不満でもあるの?」
大切な両親からつけられた大切な名前。
誰も知らない名前。
しかし、スラは気になったことがある。
「兄上と契約を結んだ時にもこの名前を書いたのか?」
前にシセルと契約を結んだ時、アムは。
「ううん、書いていない。書く理由がなかったから」
この名前はアムが一生かけて隠したいと思っていた一番特別な名前。
けど。
「私の名前は、本当は誰にも言ったらダメなの」
「えっ! じゃあ、なぜ今ここに書いたんだ?」
「あなたに知ってもらいたいから」
「何をだ?」
「私の過去を」


アミナムは庶民の中でも一番美しく純粋で素直な女の子だった。
『お母さん、私、今日外でお花をたくさん使って冠を作ったの。見てみて』
自信満々に幼く可愛らしい笑顔で色鮮やかな花たちを綺麗に編んで冠を作ったアミナム。
母親は毎日それを見る度にアミナムの頭を撫でてくれた。
『まあ、上手にできたわね。今日もお母さんにくれるの?』
『うん! だって、お母さんのために作ったんだから』
母親が一番大好きだったアミナム。
父親も妹二人も嫉妬するほどアミナムは母親を一番好きで居続けた。
五人仲良く死ぬまで一緒に暮らしていけると思っていたアミナムだが、四人が消える前の夜、突然家の玄関の扉を叩いて来たのだ。
『おい、そこにいるのは分かってるんだぞ! 早く開けろ!』
力強く、声も口調も荒く。
声の主は男で、何かに追われているようで何度も扉を開けようとしていた。
『みんな、奥の部屋に隠れていなさい。父さんが何とかする。それまでは絶対にここから出ないように』
『お父さん、嫌だよ。私も行く』
『一人にしないで』
父親が大好きだった妹二人が寂しそうに涙を流して両手で拭いながら抱きつく。
しかし。
『早く開けろ! 俺を殺す気か!』
段々男の声が近づいてきているように感じた父親はもう我慢できずに自ら動いて玄関の扉を開けた。心配になった母親と妹二人が後を追うように部屋から飛び出し、アミナムも一緒に行こうとしたが、突然頭が切られるような激しい謎の頭痛に襲われて倒れた。
そして、朝になって目を覚ました時にはもう四人はどこかに消えていて、男もどこに行ったのか分からなくなった。


その事実を知ったスラは自分が思っていた以上に怖くて身体が震えてしゃがみ込んだ。
「知らなかった…」
いや、知るべきではなかった。
だが、一つ気になったことがある。
「なぜアムになったんだ?」
恐る恐る冷や汗をかいて聞いてきたスラにアムは少し怪しげに笑った。
「ふふっ、アムの間にあるミナは母親の名前だから」
「えっ?」
「お母さんは自分の名前が好きで、子供にも愛情として私の名前に入れたの。でも、お母さんが消えてから私はお母さんの名前を使うのが怖くて、最初のアと最後のムを選んでアムにした。それだけだよ」
最後の一言は少し大人っぽく幼い感じを残しながら可愛らしい笑みを見せたアム。
「私は今の名前を気に入っている。でも、あなたには伝えておいた方がいいと思って、ここに書いた。私の夢のためにも」
スラはシセルと違って、落ち着いていて、安心する。
だから、私はあなたのためにも知って欲しかった。
あなたを好きになれるように、愛せるように。
私の全てを受け入れて欲しい。
そう思うのはおかしい?
ううん、おかしくても別にいい。
私の偶然の相手はスラだけだから。
アムは「運命」があまり好きではない。
スラとの出会いも全て偶然。
全てが偶然で完成されている。
そういう生き方をしてきたのだから。
全てを仕方ないと思い、ここに生きる資格を持つ自分。
アムは本当に幸せな人間の一人だ。
「スラ、私と契約を」
「ダメだ」
「えっ?」
ダメって、何?
なぜかアムとの契約を悔し涙を流しながら拒んだスラ。
その理由は。
「君は俺がいなくても生きていける。俺の夢は君と未来も幸せな暮らしをしたかった。でも、もうそれはどうでもいい。全て偽りでできている君と契約など絶対にしない」
スラの夢はとても純粋でしっかりしている。
シセルと全て違って。
何でもシセルと比べればスラは上に立つことは不可能ではない。
今はもういない兄のことなど思い出すだけでも吐き気がするのだから。
しかし。
「どうして? あなたに似合う血は私でしょ、今までみたいに私の血を求めればいいのに、どうして、そんなこと、言うの・・・うっ」
また私は一人になるの?
一人にして、また給料もまともにもらえない仕事をするの?
嫌!
そんなに嫌だったの? 
私の過去を聞いて何がそんなに嫌だったの?
寂しさから一気に憎しみに変わって、アムはスラを床に押し倒し、服の襟を力強く掴む。
「私はもう一人になりたくない! 私を一人にして何が楽しいの!」
唇を強く噛んで血が出ても何も気にせず、アムの腕の力はどんどん限界まで達するまでに強くなって、やめて、離れて。
「分かった。私、ここから出て行く」
前髪で表情を隠して冷たくとても低い声でそう言ってしまったアム。
その姿に、スラは見ないふりをして、頷いた。
「ああ、出て行ってくれ。もう君の顔など二度と見たくない」
お互い自分を偽って嘘をついて。
アムは部屋から出て行き、スラはベッドに寝転がって、二人は二度と顔を合わせることはない? はずだった。



「はあっ」
どうすればいいの?
部屋から出て行ったアムは門の前に立ったが、さっき腕の力を限界まで使ってしまったため、足で押しても門が開くことはない。
もう一時間以上経っているのに、アムは門の前でずっと頭を悩ませてばかり・・・。
そして。
「どうしたんだ? 出て行くはずではなかったのか?」
じっと隣でアムの無駄な時間を見続けているスラがずっとニヤニヤと笑いながらからかっている。
「俺の力を貸してあげてもいいぞ」
「いらない。あなたの力なんてゴミよりも軽いんだから」
「なっ!」
はっきりとスラの力をゴミと言ったアム。
その表情は心の底から勝ち誇っていて満面の笑みを見せている。
「ふふふっ」
どう?
私もやる時はやる人間。
いつまでも弱いところを見せてばかりの人間じゃない。
さっきまで偽って嫌っていた? はずの二人が今も二人で同じ時間を過ごしている。
こんなことがあっていいのか?
「俺の力をゴミと言ったのなら、君の力は当然岩よりも強いのだろう?」
俺は吸血鬼だ。
人間の君が敵う相手ではない。
さっさと諦めれば身のためだぞ。
完全に人間のアムをバカにしているスラ。
すると。
「もちろん、私はあなたよりも強い。絶対に」
足の力だけでほんのちょっとだけ門が開いた。
それを見たスラは驚いて口が大きく開いたまま。
本当に、反応が満点すぎるほどに。
「嘘、だろ・・・」
こんなに小さい体で、それも木の棒のような細い足で門が開くとは・・・一体どうすれば開くんだ?
このお城の門は人間は絶対に開けない、吸血鬼でも三人は必要。
だが、アムは二度もたった一人でこの門を開けた。
十五歳の少女が大人の力を借りずに、吸血鬼の力を借りずに開けたことは本当に歴史に名を残すほどとてもすごいこと。
隣で見ていたスラもさすがに何も言えず、動揺して、後ろに下がって行く。
「・・・・・・」
あり得ない。
吸血鬼の俺でさえも一人でこの門を開いたことは一度もないのに、アムは、彼女はたった一人で開けてしまった。
本当に、一人なら何でもできるんだな。
「俺も見習わないとな」
さっきまでからかっていた自分が今では後悔していて、スラはアムの頭を優しく撫でてあげた。
「良くできた。すごいぞ」
これは本音だ、嘘ではない。
「・・・ありがとう」
スラに褒められるなんて思っていなかった。
本当に、さっきまでの氷よりも冷たい空気が今になってこうも暖炉のように暖かい物に変わってしまうのは「愛」という物なのか。
どうなのか。
「もういいでしょ。早く離れて」
撫でられているのがすぐに嫌になったアムがバシッとスラの手を退かして睨んだ。
だが。
「いいだろ。もう少し撫でさせてくれ」
「嫌! 私と契約を結ぶ気がないなら放っておいて!」
本音と意地で大声でそう言ったアム。
すると。
「へえー、ここにも人間がいたなんて、すごく嬉しいね」
アムの大声に気づいた謎の人物がクスクスッと笑いながらゆっくりこっちに歩いて来ている。
「え、誰・・・」
このお城に人間がいるのは私だけじゃないの?
そう、このお城に暮らす人間はアムだけではない。
同じように吸血鬼と契約を結び結婚し夫婦になった幸せなもう一人の人間。
それは、ルロという男。
「やあ、君が新しくここに来た人間だね。僕はルロ。これから一緒にお茶でもどうかな?」
突然来て突然お茶に誘われたアムは心臓がバクバクとうるさいほどに耳元で鳴り響いて全く体が動かない。
でも。
「あなたは私の気持ちを分かってくれますか」
もう一人の人間の存在を知ったアムはこれからルロと行動を共にする。