吸血鬼に恋をした三人

「あなたは誰?」
スラとほぼ同じの銀髪の青年。
だが、口調はとても荒く冷たい。
「何をボーッとしている! 早くこっちに来い!」
無理やり手を掴まれ骨が折れそうなほどに力強い。
「い、痛い! 離して!」
何、この吸血鬼?
スラじゃないなら誰?
どうして私がここにいることを知っていたの?
どんなに考えても何も全く分からないこの危険な状況。
もう夜で誰も大人は、人間はほとんどいない。
「うっ」
もし私がここで助けを呼んだら今も吸血鬼がいることを知られてスラはきっと殺される。
私のせいで誰かを巻き込むのは嫌!
私には家族がいない、いるのはスラだけ。
吸血鬼でもそばにいてくれる存在を私が自分で失うのも嫌!
助けも呼ぶことができないアム。
だから。
「はあっ!」
足を蹴って今すぐ逃げて体力が限界でも走り続けてお城に向かって行くアム。
しかし。
「おい! 俺から逃げるとはどういうことだ!」
真っ黒な夜の中で大声を上げてアムに追いついた青年。
アムはまた手を掴まれることを怖がって息を精一杯吸いながら何としてでも走って走って力を失って倒れた。
「は、は、はあっ」
終わった、私の人生。
こんな簡単に終わってしまうのは仕方ないこと。
結局私は誰にも愛されないまま、夢を持てないまま終わった。



数時間後、アムは少しずつ意識がなくなって目を閉じて死んだと思っていたら
「大丈夫か?」
と、誰かの声が聞こえてきてゆっくり目を開けたアムはその正体を見て恐怖で顔が青ざめた。
なぜなら。
「どうして、あなたがここにいるの?」
そう、さっきまだ追いかけてきた銀髪の青年が優しい笑顔と落ち着いた声でアムの手を握ってくれていた。
だが。
怖い、怖い。
どうしてここに? というか、ここはお城で私の部屋。
「はっ」
じゃあ、スラがいるはず!
小さな期待で笑顔で起き上がったアムを、青年は首を横に振ってなぜか睨んだ。
「どこに行く気だ?」
「えっ、夫のところに」
「夫だと? こんな小さい子供に夫がいるとは思えない。嘘はやめろ、恥ずかしくないのか?」
自分に夫がいることを知らない青年を、アムは心の底から腹が立って同じように睨んだ。
「ちゃんと私にも夫がいる。あなたよりも私を大切に守ってくれる存在」
真剣に素直な眼差しでどこも恥ずかしさなど見せない強い気持ち。
けど。
「ほう、なら会わせてもらおうか。君の自慢の夫を」
まだアムが嘘をついていることを本気で考えている青年の言葉に負けないようにアムははっきり大きく頷いた。
「分かった。見せたらさっさと帰って、あなたの顔なんて一生見たくない」
最後の
「あなたの顔なんて一生見たくない」
という言葉を何も迷うことなく思ったままに言ってしまったアム。
そして、その言葉を後悔するのは一瞬だった。
「兄上、そこで何をしているのですか!」
ずっとアムを探していたかもしれないスラが「兄上」と言った青年の肩をバシッと力強く叩いて怒った。
「アムは俺の物です。今すぐ離れてください」
だが、スラの怒りの声に全く驚かない青年は。
「はっ、何を言ったのか聞こえなかった。お前の声は俺の耳には全く入らない、響かない。一番弱い生き物だ」
スラの怒りをめちゃくちゃバカにして鼻で笑った青年を、スラは何も遠慮せずに襟を掴んで睨む。
「俺の物を奪わないでください。兄として恥ずかしくないのですか?」
負けずにケンカを売るスラの姿に、アムは言葉が出ずに無言のまま。
「・・・・・・」
今、何が起きているの?
スラが来てくれたことは良かったけど、この吸血鬼がスラのお兄さんだったなんて全く知らなかった。
知っていたらこんな失礼な態度は取らなかった。
どうしよう、私、ここから追い出されてしまう。
それは嫌!
メリマ家の家族は六人。
両親に子供が四人。
次男のスラに三男のセス、長女のソリー。
そして長男の。
「この俺シセルに反抗するのは弟としてどうかと思うが?」
長男のシセルが揃って家族である。
けど。
「アムがお前の妻など俺は絶対に信じない。お前には似合わない」
「なっ! 何を言うのですか、あなたにそんなこと言われたくありま」
「言わせてるのはお前だろ。それに結婚しているということはちゃんと契約を結んで指輪をつけているはずなのに、アムの手にはそれがない」
「あっ」
「お前はただ結婚しただけで契約は結んでいない。なら、俺がアムをもらっておく」
「そ、そんなこと」
「あってもいいだろ。ただ結婚しただけで夫になって浮かれて野生になったようなお前がアムを幸せにはできない。する資格などない」
「・・・・・・」
「はっ、もう何も言えないだろ。お前はその程度だった、だから俺がアムを」
「ちょっと待ってください!」
兄弟ゲンカを無言で見ているのが耐えられなくなったアムが立ち上がって二人の間に立つ。
「これ以上スラを責めないでください。兄なら、弟のスラの気持ちを考えてくださ」
「考える必要などない」
「え」
「こいつの考えていることなどただ一つ。それが何か分かるか?」
怪しげに美しく微笑んで首を傾げて質問してきたシセルに、アムはビクッと肩が震えて自然と後ろに一歩下がって首を横に振った。
「わ、分かりません」
予想通りの言葉を聞いたシセルはとても嬉しそうに夫のスラの目の前でアムの頭を撫でた。
「ははっ、なら教えてやる。こいつが考えているのは『血』のことだけだ」
「えっ、嘘」
「嘘ではない、事実だ。こいつは毎日毎日腹を空かせて両親に黙って夜は人間の血を吸いに街に降りる。君と出会うまでは」
初めて知った事実を知ってしまったアムは暗く床を見つめるスラに怯えてとっさにシセルの後ろに隠れた。
「あっ・・・」
知りたくなかった、違う。
「聞きたくなかった」
何となく分かっていた。
スラは人間の血が大好きで私と結婚した後も常に私のそばにいて血を吸って離れようとしなかった。
でも、さっきシセル様はこう言っていた。
「契約を結んでいるなら指輪をつけているはず」って。
それは知らなかった、というか、結婚指輪じゃなくて契約の指輪をつけるなんてスラはそんなこと一言も言わなかった。
教えてくれなかった。
本当に、だらしない吸血鬼。
大切なことは言わずに自分のためにアムの血を吸っていたスラ。
見た目がカッコ良くても中身はカッコ悪くてだらしない。
シセルはそんな弟のスラをめちゃくちゃ嫌っている。
「こんなダメな吸血鬼の弟がいることが一番の恥だ」
シセルは見た目も中身も全てが完璧?
ちょっと危ういけれど、使用人はシセルを見る度に心惹かれてドキドキしている。
メリマ家はみんな顔がいい。
カッコよくて可愛くて綺麗で美しい。
しかし、シセルは誰とも契約や結婚はしていない。
する理由がなかった。
家族はみんな金髪で自分だけが銀髪。
家族なのにどこか遠くて距離を感じて一人ぼっちにも感じてしまう少し変わった存在。
人間に恋をすることもない吸血鬼。
自分に似合う血を見つけなければ早く死んでしまう。
当然シセルも分かっている。
分かっているのに行動しない。
けど。
「アム、スラをやめて俺と契約を結ばないか?」
アムがお城に来た日、シセルは一瞬で心惹かれた。
庶民なのに、ボロボロなのに、姿は綺麗で遠くからでも匂いも良くて。
まさに一番必要な人間だと確信していた。
だから、アムが一人で街に出かけた日、こっそり後を追いかけて夜になった瞬間を狙って二人でどこかへ逃げようと考えていた。
「俺ならこいつと違って君を一人にしない。する気はな」
「やっぱり兄弟だと同じことを言うんですね」
ため息と少し呆れたように軽い笑顔を見せるアム。
その態度にシセルは不思議な感じで首を傾げた。
「は?」
「スラにも言われました。『君はもう一人じゃない、俺がいる』って」
「そ、それは違うだろ」
「いいえ、違いません。同じことです」
「言い方が違うだけだ」
「同じです」
血の繋がりのある家族はみんな同じことを言う。
父親がこうしたから母親があれをしたから子供は真似して大人になってもそれを続ける。
それが正しいと思い込む。
結婚しても自分の家族がしていたことをそのまま相手にしてしまったらきっと相手は嫌って距離を置いて別れる・・・。
アムはそれらをよーく知って、周りの大人たちを見て感じた。
「ああ、みんな家族の言うことだけを信じている」
別にそれが悪いと言うわけではない。
やり方が違えば意見も変わる。
大切に育ててくれた家族のことを一番に信頼し愛された子供たちはみんな立派になって幸せになる、はずがない。
みんながみんなを幸せにしてくれると思ってはいけない。
現実がそう言っている。
夢の中で生きてきた子供たちが大人になって仕事をして現実を知った時、子供たちは何を思うのか。
それは昔から決まっている。
「全部夢だったらいいのに」
幼い頃に夢を見ていた子供たちが大人になっても夢を見てしまうのは仕方ないことかもしれない。
夢は理想と違って叶えるのがちょっと簡単になってしまう。
みんながよく言う「夢」は大人になってから叶えられる物だと信じている。
それが当たり前だと思っている。
しかし、アムは違う。
夢がない、夢とはどういう物なのかを知らない悲しい少女。
そんなアムが夢より先に恋を求めるのか、どっちなのか。
「シセル様、結局あなたもスラと同じなんですよ」
暗く寂しい顔をするアムに、シセルはちょっとだけイラッとし、つい肩を掴んでしまう。
「同じじゃない! 俺は君を食のために契約を結ぶわけじゃない。それだけは分かって」
「だから、全てが同じなんですよ!」
とうとう腹を立てたアムは掴まれたシセルの手を力強く退かして水色のワンピースの寝巻きのまま部屋を飛び出して行った。
「どうして、何も分からないの?」
吸血鬼はみーんな同じことを言う、同じ言い訳をする。
結局吸血鬼は結婚というより人間の血が欲しくて自分の餌として契約を結んで閉じ込める。
なんて最低なの?
こんなことして何が嬉しいの?
私には全く分からない。
分かりたくもない。
「あっ」
アムは気づいた。
「私、スラと結婚したけど、まだ契約は結んでいない。結んでいたら自由に外に出ていない・・・」
そう、吸血鬼と契約を結んだ人間は一生お城の外からは出られない。
誰も許さない。
それが契約。
契約は一方的ではあるが、現実的で絶対に必要。
吸血鬼には。
その事実に気づいたアムは誰にも見つからないようにこっそり庭に出て周りを見ながら門の前に立つ。
「ふー、大丈夫。私はもうここには帰らない」
私は私の夢を探す。
何でもいい、私にも夢があれば全てが変わる。
変わって頑張って、いつか叶えられるようにしたい。
だから。
昨日とは全く違う死んでも追いかけられそうな恐怖に負けずにアムは深呼吸を何度も繰り返しながら門を精一杯の力で開けて前に足を進めて何とか開いたと思ったら
「逃げるな、まだ話は終わっていない」
と、いつのまにかシセルに追いつかれてしまった!
門は人一人が出られる隙間までは開いている。
逃げるのは簡単にできるが、アムの足は恐怖を感じて震えて全く体が動かない。
「どう、して・・・」
もう目の前は外なのに、目の前にいるのに。
どうして、私の体は言うことを聞いてくれないの?
アムは自分の弱さを心の底から大粒の涙を流すほどに悔しがってしゃがみ込んだ。
「う、ふっ、ああ」
突然アムが泣き出したことに、シセルは戸惑って手を伸ばそうとするが。
「やめて! 近づかないで!」
完全に警戒されて手を引っ込めたシセル。
今は夜で月も出ていて美しいはずなのに、アムとシセルがいるこの空間は泥のように汚れて美しさなど全く見えない。
「う、ふ、ふっ」
「・・・・・・」
いつまでも泣いて泣いて、自分の弱さを悔しがるアム。
逃げたいのに、足が全く動かなくてどうしようもない。
私、どうすればいいの?
このまま外に出たらきっとシセル様は追いかけて私をお城に連れて行って無理やり契約を結ばせる。
それを考えただけで恐ろしい。
私にはもう自由な・・・そうだ、私の夢、分かった気がする。
ようやくここで自分の夢が見つかったアム。
それは。
「私の夢は自由になること。簡単そうで難しい夢。ふふっ」
アムがようやく見つけた夢の名前は「自由」だ。
全てから解放されて自由に自分らしく生きていく素敵な夢・・・。
それに気づいたアムの顔はとても嬉しそうに笑っているのと同時に怪しげに可愛らしく微笑んでシセルの手を握った。
「いいですよ。私と契約を結んでも」
その言葉を聞いたシセルはさっきまで泣いていたアムの姿が一瞬で変わったことに驚いて口が大きく開いたまま。
けど。
「いいのか? 本当に?」
「はい、もちろんいいですよ」
「後悔しても遅いからな」
「はい、覚悟はもうあります。早くしてください」
「わ、分かった。じゃあ、行こう」
そう言って、アムとシセルは手を握り合いながらお城の中へ戻って行った。
目の前にある自由から距離を置いてアムは全てから目を逸らし、シセルと契約を結ぶ契約書にサインした。
「これで俺と君の契約は結ばれた」
予想外で意外と簡単で結ばれたことに、アムは不思議で首を傾げた。
「本当に、これだけでいいんですか?」
「ああ、この紙には俺の血が刻まれているから破っても契約は途切れない。そして」
いくつもの小さな銀の鍵がかけられている小さな箱をテーブルに置いたシセルの顔はとても嬉しそうに楽しそうに明るく微笑んだ。
「ははっ、今日から君と俺は夫婦になる。一生離れない理想的な夫婦に」
そう言って、シセルは全ての鍵を解いて解いて中身を開けていく。
その中身は。
「え、これをつけるんですか・・・」
内側に小さな十本の針が付いている銀色の指輪。
これを見たアムは一瞬で死んでしまうのではないかという心の底から恐怖を感じて椅子から立ち上がってカーテンの裏に隠れた。
あんな危険な物をつけて何の意味があるの?
きっとあれは一生外せない傷になりそう。
吸血鬼と契約を結んだ人間が必ずあの指輪をつけて夫婦として生きているんだとしたら、私もそれに従う必要がある。
・・・怖いけど、みーんな乗り越えてこのお城で安定した幸せな生活を送っている。
働かなくてもお金はもらえるし、おいしい物はたくさん食べられる。
そう考えたら、ちょっと怖くなくなってきた。
自分の未来を約束されたと思えれば何も怖がる必要なんてない。
ただ吸血鬼に血を吸われるだけでそれ以外は自分の思うままにすればいい。
アムはそれに気づいてゆっくりカーテンから離れてもう一度椅子に座り直して左手薬指を自ら差し出す。
「お願いします」
まだ恐怖が少し残ってはいるが、アムはできるだけ美しく微笑んで誤魔化した。
その姿に、シセルは。
「分かった。痛みは一瞬だから緊張するな」
ゆっくり丁寧に指輪をそっと近づけてアムの指にはめていくシセル。
すると。
「ああああああああああっ!」
突然激しすぎる痛みがアムに襲いかかって横に倒れた。
「痛い、痛い!」
想像以上に痛い!
十本の針が全て同時に指から大量の血が流れては痛みが増えてゴロゴロと床に転がって痛みを和らげようとするアム。
涙が溢れて呼吸が荒くなって。
そんなアムの苦しい姿を見たシセルはすぐに抱きしめて落ち着かせる。
「大丈夫だ。今血を拭き取るから暴れるな」
痛みを和らげる薬が塗られた真っ白な布で血を拭き取っていくシセル。
アムは少しずつ痛みが引いて深呼吸を一回して落ち着いた。
「ふー」
死んだって思った。
でも、私は生きている、ちゃんと。
でも。
「ひどい」
「えっ?」
「あなたたち吸血鬼だけ楽をしているなんて・・・」
心の底から憎しみを抱くようにシセルを睨むアム。
だが。
「そうだ。俺たち吸血鬼は楽をするために存在している。それの何が悪い?」
当然のことを言ってムカつくカッコいい笑顔を見せるシセル。
今契約を結んだばかりなのに、お互いを睨んでいる二人。
このまま結婚して本当に大丈夫なのか。


「シセル、シセルはどこにいるの?」
契約を結んでから三日経った夜、突然シセルを探してお城の中を歩き回るアム。
その理由は。
『仕事が忙しいからしばらくは会わない』
せっかく契約を結んで幸せな未来が待っているとお互い分かっていたのに、シセルは突然アムから離れてお城のどこかへ消えて行った。
一人ぼっちにされたアムは毎日のんびりした生活を送って何も困ってはいないけれど、ただ寂しくて指輪を見つめる時間が多くなっていた。
「はあっ」
やっぱり吸血鬼はずるい生き物。
契約を結んだ人間のことなんてどうでも良かった。
当然私のこともどうでもいいって思っている。
けど。
「残業しないならまだマシ。今の生活を楽しむこともきっと大切」
しかし、シセルは契約を結んだはずなのに、一度もアムの血を吸わなかった。
その気がないように見えた。
スラから奪っておいて、契約を結んでおいて。
黙ってアムの前から消えてそばにいようとしない。
本当に仕事という理由でアムを一人ぼっちにしているのなら納得はできるかもしれないが、もしそうではなかったら大きな問題に変わってしまうのは事実。
と思っても、二人はまだ結婚はしていない。
契約を結んだだけで夫婦にはなっていない。
別に忘れているとかそういうことではない。
ただシセルがその気がなかったようにしか見えない。
自分勝手でアムのことなんて気にもしない。
本当に最低な吸血鬼。
「スラと全く同じ。血の繋がりがあるって、本当に嫌。みーんな同じで言うことも行動することも同じで嫌。少しは私のことを考えて、考える努力をして」
毎日毎日鏡の前に立ってそこにシセルがいることを想像して文句を言うアム。
使用人たちはみんな優しい吸血鬼で思いやりが強くある。
一人ぼっちの人間のアムをいつも気にかけて一緒に本を読んだり勉強を教えてもらったり。
シセルがいなくても十分楽しいけど、やっぱり私はどこにいても同じ。
人間の世界でも吸血鬼の世界でも。
家族がいない私はどこにいても一人になる。
そういう物。
「はああっ、ダメダメ。こんなこと考えても何も意味ないから、とりあえず部屋から出て何か食べよう」
嫌なことがあったらすぐに食べて満足させる。
それがアムの気分転換。
おいしい物を食べて食べて笑顔になって寝る。
この三日間毎日毎日そうして自分の機嫌を良くしている。
人間のアムにも優しくしてくれる吸血鬼の使用人たち。
特にアムが気に入っているのは。
「サミール、こっちに来て」
満面の笑みで呼んだアム。
すると。
「はい、何でしょうか?」
ササッと一瞬で優しい風みたいに現れたメイドのサミール。
サミールはメイドの中でも一番優秀で行動も早く全てを丁寧にこなすまさに完璧すぎる存在。
アムと少し似た真っ白な髪に海のような青色の瞳。
真っ赤な瞳が特徴の吸血鬼とはだいぶかけ離れてはいるが、一応吸血鬼としてこお城で雇われている。
性格は穏やかでいつも笑顔で可愛い。
そんな優しいサミールにアムは可愛さに惹かれてすぐに気に入り、嫌なことがあればすぐにサミールを呼んで一緒に気分転換をする。
「サミール、今日は庭でお菓子を食べたいから用意して」
「はい。すぐに用意します」
突然なことでもサミールは笑顔で受け入れてササッと部屋を出て一瞬で戻ってきた。
「用意ができましたので、ご案内します」
「ありがとう」
サミールは本当にいい吸血鬼。
私の言うことを全て答えてくれる。
こんなにいい吸血鬼がこのお城にいたなんて信じられない。
シセルとスラがあんな性格だから使用人もみーんな同じだと思っていたけど、それは間違いだった。
使用人の吸血鬼たちはシセルたちと違って優しいし性格もいいし、まさに私の理想的な存在。
でも、サミールも吸血鬼。
当然人間の血を吸っている。
分かっていて、私は全てを含めて気に入っている。
丁寧に庭までアムを案内してくれるサミール。
彼女も吸血鬼である。
しかし、彼女にはある大きな秘密が隠されている。
それもアムが知るべき大きな秘密が。
「今日はアム様の機嫌があまり良くないようなので、アム様が大好きなケーキを用意しました」
案内されたテーブルにはたくさんの種類が豊富なおいしそうなケーキ。
ショートケーキにチョコレート、季節巡りのフルーツタルト。
それを見たアムは瞳をキラキラと宝石よりも眩しいほどに輝かせてとても嬉しそう。
「サミール、これ全部私が食べていいの?」
「はい、全てアム様の物です」
「ありがとう! ふふっ、何から食べよう」
やっぱりサミールはいい吸血鬼。
サミールが男だったらきっと私はサミールを選んでいた。
シセルは私から逃げて今はどこにいるか分からない。
スラは私を失ったショックでもう三日部屋に閉じこもったまま。
「はああっ」
どうして男は、吸血鬼は難しい生き物なの?
まあでも、人間でもきっと同じだった。
私は恋愛経験は全くないから二人のことなんて今は考えない。
今はもうこんなにおいしそうなケーキが目の前にあるんだから、全部食べて寝る。
「ふふっ」
満面の笑みでまずはフルーツタルトから食べ始めていくアム。
「わあっ、おいしい! これ、誰が作ったの?」
瞳をキラキラと輝かせながら期待して質問してきたアムに、サミールは一瞬目を逸らして曖昧に答える。
「えっと、そう、ですね。私が、作りました」
「へー、サミールの手作り。たくさん作ってくれてありがとう!」
空の暖かい日差しのような眩しい笑顔を見せるアムに、サミールはまた目を逸らした。
「い、いえ、メイドとして当然のことをしただけです」
めちゃくちゃ遠慮してほんのちょっとだけ暗い表情を浮かべたサミール。
本当はこれを作ったのは私ではない。
料理長ですよ。
当然。
しかし。
「おいしい、本当においしい! 何個でも食べられる!」
どんどんケーキを食べて食べて頰が膨らむほどに豪快に食べたアム。
「次は何を作ってくれるの?」
「えっ!」
何十個もあったケーキを食べても満腹にはならなかったアムに、サミールは驚きで口が開いたままでいたが、いつもの笑顔で
「分かりました。すぐに用意します」
と、完璧なメイドの役を演じて次のお菓子を持ってくるために一度アムから離れた。
アム様はあんなに小さい体なのによく食べられる方。
最初も今もアム様には驚いてばかりで私は全く慣れない。
それでも、私はメイドとして、アム様を守れる存在として、一生そばにいなければならない。
「私はそういうふうに作られたのだから」
サミールはアムのそばにいるために作られた仮の存在。
メイドとしての知識をたった一ヶ月で取得させられた心が欠けた吸血鬼。
人間のアムには興味は正直あるかは分からないが、アムと一緒にいるサミールはどこか嬉しそうで幸せに見える。
人間でもアムの喜ぶ顔を見るのが純粋に好きでいつも一生懸命働いている。
けど。
「ふふっ、次のお菓子は何だろう? 焼き菓子?」
次のお菓子に期待して笑顔が止まらないアムは満月を見てサミールを待ち続けた。
「ああっ、サミール、まだかな?」
そう独り言を呟いた時、
「久しぶりだな」
と、誰かが後ろからアムを抱きしめた!
「え!」
誰?
急に何をして。
「おい、契約者の声を忘れるとはいい度胸だな」
その冷たく荒い口調でアムは一瞬で気づいた。
「そんな言い方をしないで、シセル」
そう、落ち着いたスラとは全く違う強い口調をするのはこのお城ではたった一人、シセルだ。
しかし、後ろを振り向いたアムは瞳が激しく震えるほどに動揺した。
なぜなら。
「ど、どうしたの、その口」
シセルの口元は誰の血か分からない物が地面に垂れて気持ちが悪いほどに恐ろしくて、まるで。
「人間を食べたの?」
よく見たら全身が真っ赤に染まっていて怪我をしたようには思えないほど、何かに狂ったように不気味すぎるように笑うシセル。
「はは、はははははっ! どうした、なぜ手を握らないんだ、抱きしめないんだ?」
「・・・・・・」
おかしい。
こんなシセル初めて見た。
違う、私が初めてでも、きっとシセルにとってはこれが日常かもしれない。
だったら、私と契約を結んでいる意味なんてどこにもない!
精一杯の力を込めてアムはスッと離れてシセルから距離を取る。
だが。
「なぜ逃げる? 俺がいなくて寂しくなかったのか?」
笑いながらゆっくりこっちに歩いて来るシセルに、アムははっきり首を横に振って否定した。
「寂しいとは思っていない。むしろ、あなたなんて消えてくれればいいのにって思っていた」
嘘をついて思っていないことをしっかり言ってしまったアム。
そして、シセルは。
「俺と君は契約を結んだ。それなのに君は俺に消えてくれと思っていたのか・・・」
深く落ち込んだように暗い表情を浮かべて足を止めたシセルを、アムはさすがにまずいと思ったのか、ちょっとずつ前に出てもう一度首を横に振って否定した。
「違う、本当は違うの。本当は寂しかった、会いたかった。消えて欲しいなんて思っていない。そんなこと信じないで」
さっきとは全く違う優しく素直な態度を取ったアムに、シセルは心の底から嬉しそうに明るい表情を浮かべて遠慮なく抱きしめる。
「なら、それでいい。じゃあ、式のドレスはどれにするか一緒に考えよう」
「え? ドレス?」
何を言っているの?
「この三日君と会わなかったのは俺が君の血を吸うのを我慢する必要があったんだ」
「え」
「人間と契約を結んだ吸血鬼は三日距離を取って他の人間の血を吸わない訓練が必要だった」
「あっ、じゃあ」
「俺はその訓練に耐えて今ようやく君に会えた。だから、こんな姿で言うのも良くないが、俺と、結婚してくれ」
まだその血が誰の物かも言わずにプロポーズをしたシセル。
アムはまだ怖く思いながらも「自由」という夢に近づくためにほんのちょっとだけ頷いた。
「私を必ず幸せにして、お願い」






「ルロ! しっかりして!」
意識がなくなったルロは呼吸が不安定で今すぐにでも死んでしまうのではないかという危険な状態になってしまった。
その姿を見てソリーは心の底からルロを失ってしまいそうな不安になり、ルロを失う不安が大きく感情に現れて涙を流す。
「ルロ、起きてよ。私を置いて行かないでよ。うっ、ああ」
ソリーは人間のルロに興味はあった。
いつでも元気で明るくてウザいけれど、一番大切に守ってくれるルロに安心してそばにいられる。
ルロの愛を汚した吸血鬼を、ソリーは自分の力を限界まで拳を握りしめてバッと勢い良く上に上げて下に下ろしたのと同時に吸血鬼の頭を血が流れるまで叩き続けた。
「あんたのせいでルロは倒れた、あんたのせいで全部台無しになった! 絶対に許さない、私があんたを殺す。その覚悟はとっくにあるでしょ、サムール?」
そう質問された吸血鬼は怪しげに美しく微笑みながら血を吸うのをやめて立ち上がった。
「ふふふ、ふふふふふふふっ! なぜ分かったんですか、結構頑張って変装したはずなのに」
偽りの髪と仮面を外したのはソリーのメイド、サムールだ。
真っ白な背中でまで伸ばした髪を後ろでお団子にし汚れのない美しい水色の瞳。
けれど、なぜソリーは気づいてしまったのか。
「あんたはよく兄様たちに相談してたわよね。『自分に似合う血を見つけるにはどうしたいいですか』とね」
「はい、そうですが、何か問題でもありましたか?」
平然といつもどおりのイライラする無駄な感情を表にしない無表情。
ソリーはサムールのその顔が大嫌いで目を逸らした。
「問題だらけでしょ。何で主人の私じゃなくて兄様たちに相談するのよ?」
「その方が分かりやすいので」
「私だってちゃんと聞かれたら真面目に答えるわ。なのに、あんたは主人の私よりも顔がいい兄様たちの方がいいみたいね」
「はい、ソリー様は王女であるはずなのに態度は庶民と変わらない。全く王女ではないことが私は残念に思っています」
「くっ・・・」
イライラする。
サムールを選んだのは私なのに、この子は私よりも兄様たちを選ぶ。
悩みがあるなら主人の私に最初に聞けばいいのに、何でサムールは私を選ぼうとしないの?
私のどこが悪いの?
主人の自分を全く頼りにしないサムールを、ソリーはイライラするが、同時に悲しくてまた泣きそうで怖くなる。
しかし。
「あははっ、いいんですか?」
「何が?」
「このままルロ様を放っておいて」
そう言われたソリーはすぐに横に倒れたルロの足を見て驚いて声を上げる。
「あっ!」
そうだった、ルロが倒れてた。
私、めちゃくちゃ最低じゃん。
夫のルロのことよりもメイドのサムールにイライラして・・・子供じゃん。
これ、どうすればいいの?
私には何もできない、一体何をすればい、いや、ルロがこうなったのは全部!
「サムール! 今すぐルロを治しなさい!」
そう、突然野生に戻って心がない人形みたいに正体を隠してルロを襲ったのは全てサムール。
だが、サムールは。
「嫌ですよ。なぜ私がそのような面倒なことをしなければならないんですか? 私には関係ないことです」
はっきりと自分は「関係」ないと目の前で見ていたソリーの気持ちなど考えずに言ったサムール。
当然ソリーは腹を立てて。
「あんた、メイドのくせに何偉そうに言うの! あんたなんてただこの城で働くために作られた偽物なのに、何で自分は関係ないとはっきり嘘をつけるのか教えてよ!」
静かな夜でお城だけでなく街全体にも響き渡るソリーの叫び。
「私にとってルロは必要な存在、一緒にいたい存在! それをあんたが簡単に壊して嘘をつく・・・本当に、最低な生き物だわ!」
もう何も考えずに思っていることも思っていないことも全部言葉にして叫び続けるソリー。
それでも。
「ソリー様、あなたは何も分かっていません。本当に私には関係ないことですよ」
真剣な眼差しで少しずつ感情を表していくサムール。
その理由は。
「私はルロ様が嫌いです。人間なのに堂々とこのお城で優雅に暮らして好き放題。人間は吸血鬼の餌になるだけのために生まれてきた存在なんですよ。なのに、ルロ様は自分がそういう存在であることよりもソリー様を愛することだけを考えて誰よりも幸せそうに暮らす姿が私は大嫌いなんですよ! 早くこのお城か出て行って欲しい、二度と顔を見せないで欲しい。これが私の本音です」
メイドとは思えないほど、サムールは主人のソリーに自分の本音を全て言い切った。
これはメイドの立場というより、一人の吸血鬼としての純粋な本音であった。
「これ以上、このお城に人間が増えたら私は許しません。もしそうしたら、私は人間にこのお城の秘密を全て教えます」
「は?」
今何て言ったの?
この城の秘密をバラすって言ったの?
そんなの。
「ダメ! 絶対ダメ!」
もしそんなことをしたら、ここにいる百人の吸血鬼は一瞬で人間に消される。
また百年前みたいなことになったら吸血鬼はもう生き残れない。
せっかく私たち家族はあの事件から何とか生き残って今を精一杯生きてるのに、この子は全てを元に戻そうとしてる。
でも。
「あんた、私にそう言っても、お父様に同じことを言えるの?」
「あっ・・・」
ソリーが言った
「お父様」
という言葉を聞いて、一瞬で地面に穴が空いてそこに突き落とされてしまいそうな恐怖で顔が青ざめていくサムール。
これはメイドとしてではなく、一人の吸血鬼として、心の底から恐れている。
恐れない方がおかしい。
サムールの予想通りの反応に、ソリーは不気味な笑みを浮かべる。
「ふふっ、やっぱりそうよね。あんたも結局ただの吸血鬼。それも一番下の下だから、お父様に言ったら一瞬で消される。あーあ、なんて弱い生き物なの? ふふふっ」
ソリーがサムールをからかうのは別に構わないが、今はそんなどうでもいいことよりもルロの心配をした方がいいのに・・・。
「あんたが私に怒っても私はすぐにお父様に報告してあんたを色々な方法で苦しめてあげる。ふっ、楽しみにしていなさい。私はルロを、あっ、ああああっ!」
やっとルロのことを思い出したソリーはもうサムールに構うのをやめて自分よりだいぶ重いルロを横に抱えて、とりあえず部屋に連れてベッドに寝かせる。
「は、はあっ。ルロ」
「・・・・・・」
名前を呼んでも全く返事がないルロに、ソリーはその寂しさで抱きしめる。
「大丈夫、私は絶対にあんたを置いて行ったりしないから、だから、今はゆっくり休んで。医者に見てもらえればすぐに治る」
全く王女とは思えないほどに必死に廊下を走って医者を呼びに行ったソリー。
その間にルロはいつのまにか目を開けて一人の女神が描かれている天井を見上げる。
「あっ、あ」
そう言えば、この絵はソリーが幼い頃から気に入っていた特別な絵画。
僕も好きで今まではよく見ていたけど、最近はその存在を忘れて見ていなかったね。
僕の足は今どうなっているのかな?
力がないから自分で起きられないし、見ることはできないね。
「はあっ、僕、すごくカッコ悪い」
妻の手を借りてしまうなんて夫として最低だよ。
僕はカッコ良くて一番頼りになる存在になりたかった。
そういう愛を持っていた。
でも、僕の愛って結局何だろうね。
確かに僕はソリーを心の底から愛している、本当に。
嘘なんかじゃない。
本当でまっすぐで崩れない。
そしたらもっと僕たちは幸せな夫婦になれると思っていたのに、現実は辛いね。
思っていた以上に辛くて苦しくて涙が出る。
「う、ふっ、ああああっ」
どうしたら僕、本当の愛を知れるのかな?
このままで居続けたらきっとソリーは他の人間に興味を持って僕を捨てるに決まってはっ!
何かに気づいたルロは自分の左手薬指を見て驚いて動揺して瞳が揺れる。
「ない、指輪がない! まさか、あの吸血鬼に血を吸われたから、契約が勝手に解除された?」
そう、吸血鬼と契約を結んでいる人間が他の吸血鬼から血を吸われたら自動的に契約が終わって指輪が消える。
それを知らなかったルロは慌ててソリーの元に行こうとするが、今の力では起き上がることもできずに両手でベッドを叩いてめちゃくちゃ悔しがる。
「どうして、どうして! 僕はまだソリーを愛しているんだよ。もう一度契約を結ばないと僕はもう二度とこのお城に入れない。そんなの嫌」
「うるさいですね」
ルロの大声が気になって睨みながら部屋に入ってきたのはサムールだ。
その姿を見てしまったルロはまた血を吸われてしまうのではないかという恐怖で顔が青ざめて無言になる。
「・・・・・・」
これ、どうすればいいのかな?
今の僕では絶対に逃げられない。
だからって、助けを求めてもここにいるのはみんな吸血鬼。
契約が終わった人間の僕はいつ他の吸血鬼に襲われてもおかしくない。
逃げたいけど、ソリーが医者を呼びに行ってくれているみたいだからここで動いたらきっとソリーは悲しむ。
嫌だ!
ソリーの悲しむ顔なんて見たくない、させたくない!
僕が何とかしてあの吸血鬼から離れる。
「・・・・・・」
ルロはサムールがソリーのメイドであることを知らない、見たことがない。
ルロはこのお城に仕えている吸血鬼に関わることを恐れているため、食事やお風呂以外は部屋から出ることはない。
だから、サムールがソリーのメイドであることを当然知らなかった。
知っていたらこんなに怯えることはない。
自分の存在を知ろうともしなかったただの人間ルロを恨むサムールは少しずつ前に歩いてこっちに動く。
「あなたは今一人です。どうですか、私と契約したいと思いますか?」
怪しげに満月が地上を照らすような美しい影で笑うサムールに、ルロは少しずつ会話を続けてみる。
「僕はソリーを愛している。君を愛する気はない」
「はあっ、その言葉、何度言えば気が済むんですか? 人間は本当に面白くありませんね」
「面白くなくても十分だよ。これが普通なんだからね」
「は? あなたたち人間には『普通』があって吸血鬼の私たちには『普通』がないと言いたいんですか?」
段々と声が低くなって恐怖が増してサムールの水色の瞳がほんの少しだけ吸血鬼らしい真っ赤に輝いた時、ルロは自然と笑った。
「ははっ、そうだよ。君たち吸血鬼に『普通』があるとは思えないね。生きている世界が違うからね」
堂々と自信満々にそう言ってしまったルロ。
当然、その言葉を聞いたサムールはとにかく腹が立って、勢いをつけてどんどん走って両手でルロの首を掴んだ!
「そこまでですよ」
「か、ああっ。何を、す」
「私は何もしていませんよ。そうですね、しているとしたら、ここには必要ないゴミを捨てる、ただそれだけです」
人間を
「ゴミ」
とひどい言葉を言ったサムール。
とても悔しそうに泣いているような笑っているような曖昧な表情を浮かべている。
「ふっ」
やっぱり、人間はこうなのよ。
生きている世界が違うというのは大きな間違いよ。
私たち吸血鬼はあなたたち人間とちゃんと同じ世界で同じ空気を吸って生きている。
生きている歳月が離れていても、穏やかな日々を過ごしたい。
それはあなたたち人間もそう思っているはずよ。
でも、私は百年前のあの事件をまだ一度も許していない。
許すはずがないのよ。
あんなひどいことをしておいて、あなたたち人間だけが何もなかったみたいな顔をして平然と暮らしている。
私が思っていることを全て言えば私は楽になれる。
けれど!
「あなたはソリー様には似合わない人間です」
「えっ」
「ソリー様はこの世界の王女なんですよ。あなたと違って頭もいい、美しく素敵な方です。あなたとは比べ物にならないほど」
「それは違うね」
スッとやっと戻ってきた力でゆっくりサムールの手を離したルロ。
真剣な眼差しで笑顔で否定して。
「君は何も分かっていないよ」
ソリーを一番理解し三年夫婦としてそばに居続けたルロは何十年もそばにいたサムールに満面の笑みで続けて話す。
「ソリーは王女の自分が一番嫌いなんだよ。いつでも礼儀正しく美しい笑顔を見せる苦しい日々を何十年も過ごしていた。それは君も知っているよね?」
「はい、知っています」
「うん、でも、ソリーは僕と出会って全てを変えた。王女ではなくて本当の自分らしさを手に入れてちょっとだらしないけど、僕はソリーのそういうところも全て受け入れて愛している。それは君は知らないよね?」
「はい、そうですね」
さっきから偉そうに言って、何が楽しいのよ?
どんどんソリーについて笑顔で話し続けるルロに、サムールはもう飽きて距離を置いて丁寧にお辞儀をして部屋から出て行った。
すると。
「ちょっと、あんた」
ずっと二人の話を扉越しに聞いていたソリーがとても恥ずかしそうに顔を真っ赤にしながら部屋に入ってきた。
「私の恥ずかしいことばっかり言って、もう」
ルロが思う自分の全てを話したことを聞いたソリーはルロと目が合っただけでドキドキしてしゃがみ込む。
「くっ」
だが。
「君は何も恥ずかしがらないでいいんだよ。僕はそういうところも含めて君を愛し」
「だから、そういうところが恥ずかしいって言ってるのよ! 何で私の気持ち分からないの、まさかあんた、もう他の吸血鬼と契約をして」
「していないよ。ほら」
満面の笑みを見せるルロの左手薬指には指輪はなく、ソリーは心の底から安心してとても嬉しそうに王女らしい美しい微笑みを見せた。
「ふふっ、ならそれでいい。じゃあ」
「うん」
「契約を結び直そう!」
一度終わった契約は何度でも結び直せる。
二人の絆と愛が強くあるなら何度でも契約を結び直してそばにいる。
ルロとソリーもその心はある。
しかし。
「その前に血を取るから動かないで」
「あっ、そ、そうだったね。でも、もう痛くないから大丈」
「良くないでしょ。あんた人間なんだからもう少し自分の心配をしなさい。私よりも弱いんだから」
「う、ん」
ソリーが言った
「人間なんだから」
という言葉はルロにとって、とても重い言葉。
何度も比べてきた吸血鬼のソリーと人間のルロ。
ルロは自分の体調よりもソリーを愛することだけを考えているだいぶ変態な人間。
人間よりも吸血鬼に夢中で絶対に離れる気はない。
離れて欲しくない。
ソリーが部屋から出た時、ルロは毎回こう思った。
「ソリー、僕が嫌いになったのかな」
何も言われていないのに嫌われてしまったのではないかという不安が毎回心の奥底でドロドロな土が口に入り込むみたいな気持ちが悪い感覚に襲われるルロ。
父親のルーラウを殺してから三年が経って少しは楽になったと思っていたのに、ルロはソリーに嫌われるのが怖くて常に明るく居ようと笑顔でいてもそれは本当の愛には思えないだろう。
ルロが思う本当の愛は自分が思っている以上に深く海の中に沈んだように息が苦しくて溶けてしまいそうな感覚。
人間が吸血鬼を愛することは当然簡単ではない、あるはずがない。
そう考えたらルロは自分がどうすればいいか、きっと思考がグルグルと時計みたいにおかしくなってしまうかもしれない。
実際はどうなのか分からないが。
「ルロ、あんた、私を本気で愛しているなら何で私に何もあげてくれないの?」
「え」
突然プレゼントを欲しがるソリー。
その理由は。
「あんた、忘れているでしょ?」
「な、何をかな? はははっ」
完全にソリーが言いたいことを忘れてしまっているルロが苦笑いで誤魔化していることに、ソリーはイライラして力強く襟を掴む!
「私、今日が誕生日なんだけど!」
そう、今日、十二月十日はソリーの誕生日。
けれど、ソリーは自分でもさっき思い出していたほど、ルロの心配をしていつ言えばいいのか分からず、何度もタイミングを逃していた。
だが、今はもうルロが元気になった姿を見て誕生日を言うタイミングが現れたので遠慮せずに堂々と、少し言い方はきつくても言うことができた。
「あんた、いつもだったら毎年あんたから『誕生日おめでとう』って言ってくれたのに、何で今年はあんたが先に言ってくれないの!」
今日の主役なのに、誰も
「おめでとう」
と言われず、忘れられていたソリー。
今までだったら家族がみんなお祝いをしてくれていたが、ルロと結婚してからはルロが一番に起きた瞬間にプレゼントをあげてくれた。
ソリーが大好きなハートの小物を毎年あげて心の底から祝福してくれたのに、ずっと待っていたのに。
「サムールのせいで全部めちゃくちゃに崩れた」
サムールが野生にならなかったら、ルロが怪我をしなかったら。
全部私が考えたとおりに動いていたのに、もう!
誕生日の主役は全て自分が思ったとおりにみんなが思いどおりに動くと考えていることが多い。
別にそれが間違っているわけではない、ただその考えが他人を色々なことに巻き込むことも想像しなければ危険なことに繋がってしまうのも少なくはない。
仕事で遅くなった、知らなかった、忙しかった、忘れていた。
色々な言い訳をして仕方なくお祝いする者も何人かいるはず。
一年に一度の特別な日を一番大切な人からお祝いされる幸せな日。
それをソリーは毎年期待している。
自分を世界で一番愛してくれるルロからお祝いされることが嬉しくて来年も楽しみに待つ。
ソリーはルロが好きではなくても死んでもそばいたいと思っている限り、ソリーは一年に一度の誕生日を心の底から待っている。
ソリーの誕生日を完全に忘れていたルロは
「どうしよう、どうしよう」
と、めちゃくちゃ焦って目を泳がせて誤魔化しが始まった。
「うーん、君の誕生日が今日なのはもちろん知っているよ。でも、見てのとおり、僕は動けないから今すぐには何もできないかな、はははっ」
本当はそうじゃない。
本当に僕はソリーの誕生日を忘れていた。
最低だね。
愛する妻の誕生日を忘れるなんて夫として一番やってはいけないことだよ。
僕はそれをしてソリーを傷つけた。
なんて最低すぎるんだよ、僕は!
愛する妻の誕生日を最初に祝えなかった自分を心の底から憎み、恨み、腹を立てる。
「・・・・・っ」
今からでも間に合うかな、ソリーはそれでも喜んでくれるかな?
分からない。
分からないけど、する価値は何十倍もある。
よし、しよう!
最初にお祝いできなくても、愛する妻の喜ぶ顔を見るためにルロは満面の笑みでソリーを抱きしめてこう言った。
「誕生日おめでとう。これからも、僕の愛を受け取ってね」
お祝いと告白が混ざった素敵な言葉。
これを聞いたソリーは顔を真っ赤にして照れて可愛い。
「もう・・・」
ルロはすぐに恥ずかしいことを言う。
その度に私はドキドキして戸惑って逃げてしまう。
吸血鬼は恋を知らない、しようとも思わない。
そういうふうに作られてしまったんだから。
吸血鬼は人間よりも強い力を持っているが、その代わりに「恋」というものがどういうものなのかを知らない。
一生持てない特別な力を人間は持っている。
それが「恋」というもの。
人間のルロがどんなに吸血鬼のソリーを愛していても、ソリーはその愛に応えることはできない。
と言っても、吸血鬼はどんどん増えていく。
恋をしなくても、後を受け継がせるために数を増やすためにお互いを利用し合って家族になる。
吸血鬼はそういう生き物。
性格が悪くて自分勝手でわがまま。
最低な組み合わせしか持っていない生き物だからこそ、強くて美しくて一生叶わない。
だが、一度だけ叶ったことがあった。
吸血鬼が恐れた一番の大事件。
でも、今の吸血鬼はきっと違うだろう。
特に、ルロとソリーのような愛に染まった微笑ましい関係が一つでもあるなら、他の吸血鬼も同じように人間と契約し、人間にとっても吸血鬼にとっても。
お互いを尊敬し合える穏やかな暮らしを願って。
「さっ、ソリー、僕はもう大丈夫だから何か欲しい物があったら教えてね。今から買いに痛っ」
起き上がった瞬間に少しまだ少し血が流れて痛みがきたルロを、ソリーがそっと布で拭いて薬を塗ってあげる。
「もう、まだあんたは休みなさい。そうね、私が欲しいのは指輪、よ」
とても心の底から欲しそうに血みたいな真っ赤な瞳が満月に美しく照らされたような綺麗に眩しいほどに輝かせるソリー。
ルロはその姿を見て頷いた。
「うん、分かったよ! じゃあ、僕が買いに行くよ」
「ダメ! あんたは私と契約を結んでいあっ!」
ソリーは何かに気づいた、同時にルロの体を恐れて体が震える。
「ルロ、あんた、もしかして私じゃない他の吸血鬼と契約したの?」
そう、ソリーが医者を呼んで、いや、医者がいなかったのでとりあえず薬をもらいに行っている間にルロが他の吸血鬼と契約を結んでしまったのではないかという不安と焦りが身体中の奥底からドロドロな土が口の中から湧き上がっていく感覚。
だが。
「はっはは。何度言われても大丈夫だよ、僕は君以外の吸血鬼に興味は全くない。あるはずがないよ。ははっ」
ソリーの暗い感情を一気に暖かい毛布で包むようにもう一度抱きしめてあげたルロ。
その言葉に、ソリーも笑って頷いた。
「そうよね。あんたは私以外に興味はなかったわね。ごめんなさい、変なこと聞いて」
「いいよ。君の不安は全て僕がやっつけるからね!」
幼い子供みたいに元気にめちゃくちゃ明るく笑うルロに、ソリーは涙が溢れるほどに面白おかしく笑った。
「ふふふふふっ、あはははは! あんたもう二十歳を超えたんだから、もっと大人らしくいなさい。カッコ悪いでしょ?」
久しぶりに大声で笑ったソリーを、ルロはとても微笑ましく思い、そっと丁寧に頭を撫でて綺麗に微笑んで見せる。
「いいんだよ、カッコ悪くても。君が笑ってくれるなら、僕は何にだってなって見せる。それだけが僕の君への愛だよ」
そうだ。
僕の本当の愛はソリーを笑顔にして何度でも抱きしめてあげる。
辛かったり苦しかったりしたら僕が一番最初に君を抱きしめてあげる。
君がどうでもいいとか面倒だと言っても。
僕は一生変わらずこの愛で君を幸せに、守ってあげる。
だって、僕たちは。
「夫婦だからね」
恋を知らない生き物の吸血鬼に一生恋をする人間。
不思議でもおかしくても、この愛が一生続くなら誰も文句は言わない、言わせない。
きっと恋という物はそのために存在しているのかもしれない。
形も姿も分からない。
でも、それがいい。
ルロが一生ソリーを笑顔にして抱きしめる愛を叶え続けていくのなら、きっとそれは死んでも続くだろう。
生きている時だけでなく、死んでもそばにいることを約束した二人だからこそ叶えられる愛が存在する。
「分かったわよ。じゃあ、契約は」
「今すぐするんだよね?」
もう一度契約を結べることを心の底から期待して瞳をキラキラと輝かせるルロに、ソリーはなぜか首を横に振った。
「それは帰ってからするわ」
「え? 帰ってから?」
どういう意味なのかな?
全く何も分からずに首を傾げるルロを、ソリーはどこか嬉しそうに楽しそうに満面の笑みを見せた。
「ふふっ、今からデートに行くわよ!」
突然デートに行くと言い出したソリー。
今は午後二十時。
お店も閉まっていく時間。
それでも。
「ルロ、今日の主役は私なんだから、一緒に来てくれるわよね?」
こんなに美しい笑顔をたった一日で見せてくれるソリーに、ルロは喜んで大きく頷いた。
「もちろんだよ! 君の欲しい物は全て買ってあげるよ!」
今日だけでもいい。
ソリーのたくさんの笑顔が見れるなら、僕は何だってしてあげるよ。
夫だからね。
妻を愛する気持ち、感情を強く持ち続けているルロ。
本当の愛を知ってから、自然と体がどんどん軽くなって足の痛みなんて全く感じずに立ち上がった。
「ソリー、行こう」
人生初のデートにルロは興奮して鼻血が出そうなくいらいの感覚になってしまっている。
はあああっ、デート、デート。
契約を結んで結婚をしてから一度も僕はこの城から出たことはなかった。
出たいと思っても契約と結婚があるが限り、とっくに諦めていた。
でも、今日は違う。
ソリーからデートを誘ってくれた、許してくれた。
今の僕は何もない人間だからこそ、愛する妻と二人で外に出られる幸福。
このチャンスは何があっても逃しはしないよ。
「ははっ」
一人でニヤニヤと怪しい表情をするルロにソリーは一瞬ゾッとしたが、今日は誕生日ということで全てを気にしないように自分から手を握って横に立つ。
「ほら、着替えて行くわよ」
「うん!」
人生初のデート。
二人共楽しみすぎて笑顔だらけで少し恐ろしいけれど、二人が楽しそうなら何でもいい。
人生初のデートなのだから。


「くっ、あの人間を殺すためには何が必要ですか? どうしたら消えてくれますか?」
メイドの着替え部屋でただ一人ルロを恨んでフォークで床をギシッと嫌な音を立てて線を描くサムール。
その質問には誰も答えることはない。
だって、彼女は一番下の下である一番弱い存在として作られてしまったのだから。
誰の声も聞こえない、誰も信じてくれない。
このお城に仕えてもう何十年も経っているのに、誰も彼女の言うことを聞いてくれない。
聞こうともしない。
だから、時々野生になってしまう。
このお城にいる人間は三人。
それ以外はみんな吸血鬼。
使用人は人間の血を吸うにはお金が絶対必要。
血を吸わなければ死んでしまう。
そのためにはお金が必要で失いたくない大切な物。
しかし。
「あんたみたいな一番下の下がいようがいないが私には関係ないわ」
唯一大切にしてくれたソリーがルロと出会わなければ全てが元通りに動いていたのに・・・。






「ここがあなたの家?」
家から歩いて二十分。
外は誰もいない真夜中。
そして、お城に着いてしまった。
二度と外に出られない恐怖のお城に。
「んっ」
雰囲気は悪くないわね。
綺麗でちゃんと花も管理して、それから・・・。
「ずっとそこにいてもつまらないから早く中に入って」
こんな汚れた家をじっと見られている僕のことちゃんと考えてくれないと困る。
まっ、こいつと契約を結べば僕は一生食には困らない。
吸血鬼を好きになるのが希望とか、そんなのどうでもいいし引くし。
別に僕はこいつに好かれたいとは思わない、全然。
お互い何かを真剣に考えて、門の前に立ち止まった状態でいた時。
「セス様! セス様はどこにおられるのですか!」
真夜中の静かな時にセスを探す謎の人物がたった一人で門を開けてきた!
そして、セスを見つけたその人物は安心して腰が抜けてしゃがんだ。
「ふう、ここにおられましたか」
紫色の肩まで短い髪に薄紫色の瞳に丸メガネ。
それはセスのためだけに雇われている特別な執事。
主人のセスを大切に守り続けてもう何年経ったのかは分からない。
今の吸血鬼は何歳なのか明かされていない。
知っていたらきっと人間は遠慮なく吸血鬼を殺しに来る。
自分たちよりも完全に弱すぎる人間たちがどう殺しに来るのか、それもまだ分からない。
年齢が思ったよりも若いと知ったら人間はニヤニヤと怪しげに微笑みからかって、殺す。
そうならないために、吸血鬼はあえて年齢を隠し、自由に生きている途中。
だが。
「サロール、そこ退いて。僕、お腹空いて気持ち悪くなってきたんだけど?」
食欲が限界に達してサロールを睨むセス。
その姿に、ナイは。
「ちょっとセス。その言い方はダメよ」
「は?」
「そんなきつい言い方をしたらサロールさんはあなたを嫌いになってしまうわよ?」
冷静な大人の落ち着いた声。
しかし。
「お前には関係ない。こいつが大声で僕の名前を叫んだ、食事も用意していなかった。これで怒らない吸血鬼は存在しない。だから」
「それでも、あなたはまだ若いんだから、大人の言うことはしっかり聞くべきよ。ほらサロールさんに謝って」
「嫌だ。どうして主人の僕が執事のこいつに謝らないといけない? 普通は逆だろ、お前が謝れ」
全く大人の言うことを聞かない反抗期のセス。
これから契約を結ぶ大切なナイにも反抗する面倒な吸血鬼を、ナイはため息を吐いて頭を抱える。
これ、どうすればいいのよ?
いきなり門が開いて執事のサロールさんが来て食欲が限界になったセスが怒って反抗している・・・こういう年頃の子は本当に難しいわ。
本当に、反抗期がなかったムイを見習っ、そうだったわ。ムイはもういない、私が捨てた。
両親がいなかったから私が姉として弟のムイのために頑張って働いていたけど、もうそれをしなくていい。
もう、全て消えたから。
大切だった弟を捨てた姉。
いつかの未来でもずっと一緒にいられると思っていたのに、もうそれは二度と叶えられなくなった。
自分でそれを裏切って捨てた。
ゴミのように。
でも、今はそんなことよりも。
「寒いわ。寒いから早く中に入れて」
十二月中旬の今、雪も降って積もってめちゃくちゃ寒いのにまだ中に入れないナイが着ているコートに縮こまって自分の体温で息を吐いているナイをの姿を見たセスは。
「ふん。この程度の寒さにやられるなんて、やっぱり人間は弱いな」
上から目線で他人のことなんて全く考えようとしない。
同じ寒さを味わっているのに、セスは薄着で全く寒がらない。
この差は何なのか?
若いからなのか?
いや、今はそれは関係ないだろう。
さすがのセスでも自分に似合う血を持っているナイを死なせることはきっとない。
「はあっ、もういい。ほら早く中に入るよ」
言い方をちょっと優しめにしてくれたセスに、ナイは満面の笑みで頷いた。
「ええ、ありがとう!」
ナイの笑顔は本当に美しい。
見ているだけでこっちまで嬉しくなる。
きっとセスも同じなはず・・・。
「ここがお二人のお部屋になります」
サロールに案内された部屋は二人部屋とは思えないくらいに広くて美しくて圧がある。
赤い薔薇が五百本以上部屋の隅々まで飾られていて薔薇の香りがすごく強い。
でも。
「わああ、この部屋、本当に私も使っていいのかしら?」
今までの自分の部屋とは三倍の大きな部屋に興奮してよだれが垂れてきそうなナイの少し変わった姿に、セスは少し距離を置いたが、ほんの少しだけ笑って頷いた。
「そうだな。二人部屋としてはまあまあ広い。これからよろしくな、ナイ」
敬語ではなくても、王子らしく気品ある挨拶で握手を求めたセス。
その表情はとてもカッコ良くてドキドキしてまうほどに目が離せなくなるのを我慢して、ナイは満面の笑みでその手を握った。
「ええ、これからよろしくお願いします。セス」
本当にこの二人が結婚して夫婦になれるのか少し怪しけれど、そのうち慣れてきたら少しずつ仲良くなっていくはず。


「セス、起きなさい」
「んー、まだ寝かせて」
「ダメよ。寝てばかりだと体が悪くなるわよ」
契約を結んでから二日経った。
一緒に寝て一緒に食事を取って一緒にお風呂に入って。
とにかく何でも一緒にいるようにした二人。
それはセスからの提案だった。
『今日から僕から絶対に離れるな』
最初は何を言われているのか分からなかったナイだが、一ミリも離れない生活をして二日。
特に嫌だとは思っていないナイ。
なぜなら。
「おいしいご飯が待っているわよ」
そう、豪華な食事が毎日三食食べられることを知ってから、ナイは毎日眠たがっているセスを連れて食事を取る生活を送っている。
本当に、人間は食事が好きでたくさん食べてお腹を満たす。
「はあああっ、今日もおいしそうね」
今日の朝食は主にパンを作られている。
ナイが甘い物好きであることを教えられた料理人が精一杯心を込めて作ってくれた豪華な朝食。
「朝からこんなにたくさん食べれるなんて、なんて幸せなのかしら。うふふっ」
一人楽しそうに三十歳なのに幼い子供みたいに笑顔で両手を上げてはしゃぐナイ。
それを隣で見ているセスは少し笑って、頭を撫でた。
「そんなに食べることが好きなんだな」
「ええ、そうよ。私の給料だけだったらこんなに豪華な物は食べられない。だから、たくさん食べたいの」
毎食しっかり一つも残さずに食べているナイ。
特に嫌いな物はない。
ただ、おいしい物ならどんどん好きになって食べる。
まだムイが生まれていなかった幼い頃によく両親から教えられていた。
『人間は食べなければ生きていけない。好きじゃなくても喜んで食べなさい』
この言葉を三十歳になっても忘れていないナイはどんな物でも笑顔で食べて今も未来も生きていくつもり。
生きるためなら何だってする。
ナイはそのつもりでこのお城で生活することを心に決めている。
決めなければとっくに逃げている。
逃げて、臆病で、恥ずかしがって。
大人にはなれない。
でも。
「ほら、セスも食べてみなさい。おいしいわよ」
どんな時でも笑ってなるべく誤魔化さないで綺麗な心を持つことも希望だと言う。
ナイの笑顔は本当に綺麗でセスはこの笑顔を見る度にドキッとして顔が真っ赤に染まってしまう。
「わ、分かったから、こっち見るな」
かあっ、何だこれは。
僕は吸血鬼。
こいつに惚れることなんて絶対にあり得ない。
若い僕が三十歳のおばさんを好きになる・・・はっ、もしそうなったら、兄さんたちの笑いの的になるな。
そうならないために、僕は常にからかって、面白がる。
性格が悪い吸血鬼にならないと、兄さんたちと同じ場所には立てない。
立つ資格すらも失う。
きっとこいつの笑顔も嘘でできている。
恋を知らない吸血鬼はたとえ誰かを好きになってもそれが恋だとは気づかない。
そういうふうに作られてしまったから。
けれど。
「お前は僕と一緒にいて楽しい?」
家族の中で二番目に弱いと言われているセス。
その表情はとても暗く、感情など全くこもっていない。
だが。
「うふふっ、もちろん楽しいわよ!」
「えっ」
「前にも言ったはずよ。『私は吸血鬼の恋人になるのが希望』とね」
告白みたいな嬉しい言葉を言われたセスはすごく嬉しそうに涙を流して頷いた。
「うん、そうだよな。僕は吸血鬼、お前が惚れて当然の存在だからな」
「うふふふっ、そうよ。というか、もう私の希望はあなたと出会えた瞬間で叶ったわ」
そっと嫌がられないように、ナイは美しい微笑みを見せながら今度は自分の番というような感じでセスの頭を撫でる。
「あなたの恋人になれて、契約して。私は幸せで満たされている。だから、あなたも自分の幸せを手にれて、それを私に見せて欲しいわ」
大人の魅力なのか、いつもよりナイが美しく見えて全く庶民には感じられない美しさ。
セスはその笑顔と姿にもっとドキドキして耳まで真っ赤に染まってしまい、両手で顔を隠した。
「かあああっ」
何なんだこれは。
こいつはおばさんなんだよ。
歳が離れすぎている僕がこいつを好きになるはずがない、絶対にならない!
意地の悪い性格。
こんなにナイがアピールしているのに、セスは何も知らないかのように目を逸らしてはチラッと覗き見て何とも言えない微妙な空気。
それでも、ナイは。
「わあっ、次はどれを食べようかしら」
置いてあった物全てを食べ終わってまだお腹は半分しか満たされていなくて執事のサロールを呼ぼうと手を上げたナイ。
すると。
「ダメだな」
その手を握って下ろしたセス。
その理由は。
「お前の食事は終わった。次は僕の食事に付き合ってもらうからな」
そう言って、無理やりナイを抱きしめて首を噛んで血を吸うセス。
瞳はどこか戸惑って揺れ動いて全く集中できない。
「んっ」
自分に似合う血を見つけて毎日吸っているはずなのに、日に日にナイが美しく見えすぎていてドキドキが止まらなくて。
感情の乱れが激しすぎて。
おいしいはずなのに、味が分からなくなっていく。
どんなに吸っても舌が悪くなったのか、味が微妙にズレていて少し気分が下がってしまう。
「はあっ、クソ」
全然おいしくない!
何、僕、悪いことした?
自分でも全く理由がはっきりと分かっていないセス。
それすらも分からない自分を少しは受け入れるという考えはないのか。
自分が一番自分を理解しなければ何も意味なんて存在しない。
あってたまるものか。
日に日に血の味が悪くなっていると勘違いしているセスはさっさと離れて口元についたナイの血を手で適当に拭って歩き出す。
「次まずい血を出したら許さないからな」
勝手に文句を言ってさっさと逃げるように走り去ったセスに、ナイは不思議に思い、首を傾げた。
「ん? 私、何かしたかしら?」
別に私はおいしいご飯を食べて血をあげただけなのに、セスは満足しなかったみたいね。
なぜかしら?
二人共お互い理由が分からないまま、セスは布団を被って部屋に引きこもり、ナイは次の食事のメニューに期待した。


そして、夜明けが近づいてきた。
「あーはあ」
大きなあくびをして可愛いテディーベアーの水色のパジャマに着替えて寝る準備をし始めたセス。
だが。
「あいつ、まだ帰ってこないのか?」
お風呂も初めて別々に入ってさすがに寝るのは一緒だと思っていたセスはナイの帰りを何度も舌打ちしながら待ち続ける。
「ちっ、そろそろ朝になるんだけど!」
とうとう怒りが爆発しかける直前、部屋の扉が開いた。
セスはそれがナイだと思い込んで扉に近づいたら。
「まだお眠りになっていなかったのですか?」
と、セスの様子に心配したサロールがゆっくり静かに入ってきた。
「セス様、今日はもうお眠りください。朝になりますよ」
セスの体を一番心配して瞳を揺らすサロールに、セスは。
「そんなことよりも、あいつはどこにいる!」
ナイが帰ってこないことにどんどん腹が立って足でドンドンと音を床で激しく鳴らして怒りを爆発させるセス。
しかし。
「セス様、あなたは吸血鬼なのですよ。人間のことなど気にせず、早くお眠りください」
ナイについて全く触れようとしないサロール。
全く意見が合わない。
「ちっ、分かった。僕が探しに行く」
もうサロールには頼らない。
あいつがどこにいるかすらも教えてくれないやつに構っている暇はないんだ!
朝が来る前にセスは裸足で部屋から出て走って隣の部屋からお気に入りの庭まで隅々までナイを探しに行くが、どこにもいない。
足跡すらも見つからない。
「はあ、はあっ。あいつ、本当にどこに行った?」
吸血鬼の僕を走らせるなんて、見つけたら文句を言ってやる。
でも。
「これだけ探しても見つからないってことは、誰かがあいつを奪ったのか」
その可能性は十分ある。
たとえ契約を結んでいても、他の吸血鬼に血を吸われたら契約は自動的に消される。
当然指輪も。
気づきたくなかった事実に気づいてしまったセスはナイを奪われる恐怖に襲われて瞳が激しく揺れ動き、とにかく走って走って。
心当たりのある食堂、お風呂、そして。
「はあっ、やっぱりここにいた」
直接陽の暖かさを浴びたような眩しいほどに金色に輝く王冠が保管されている保管室。
ナイは初めてこの保管室を見た時からどこか怯えていて、嬉しそうに泣いていた。
セスはそれをはっきりと覚えていて最後に見つけたのがこの保管室。
だが。
「ふっ、は、うう」
ガラスに囲まれている王冠の目の前でしゃがみ込んで泣いているナイ。
その理由は。
「どうして、こんなボロボロになってしまったの?」
ナイが
「ボロボロ」
と、言った言葉を聞いたセスは急いで王冠の目の前に立つ。
しかし。
「どこも傷一つない」
そう、傷もなく全くボロボロにはなっていない。
なのに、ナイの涙は止まらない。
「ああっ、うう、ふ」
こんなにボロボロなの? 
「私の心」
そう言って、ナイは立ち上がってセスの目の前に立ち、力強く肩を掴む。
「ねえ、どうして私の心はボロボロになってしまったのよ! 私、あなたのために大人として精一杯頑張って一緒にいたのに・・・どうして!」
何かに取り憑かれたような全く知らないナイの姿に、セスは驚いてばかりで言葉が出てこない。
「・・・・・・」
一体、どうなっている?
さっきから何を言っているのかも分からない。
王冠を見て嬉しくて泣いていたんじゃないのか。
それとも、別の理由で、誰かから泣かされたとか?
その可能性も十分ある。
一体誰があっ!
心当たりのある人物に気づいたセス。
しかし、それはもう遅かった。
「あっ、ああ」
朝日が昇り、自然とそのまま倒れるように眠ってしまったセス。
その姿を見たナイは我に帰って泣くのをやめてセスを抱きしめた。
「ごめんなさい、ごめんなさい。私、どうかしていたわ。私はただ、あなたを失うのが怖くなってしまったの」
ナイが泣いた理由はセスの思ったとおり、誰かがナイに何かを吹き込んで保管室に無理やり連れ込まされ、その恐怖で泣いていたのだ。
「ごめんなさい」


メリマ家の兄妹はみんな仲が良かった。
『早く来ないと俺が全部食べてしまうぞ』
『シセル兄さん待ってください』
『全部は食べないで』
『私の分は食べないでください』
一番上のシセルはいつも兄妹の中で中心となる明るい存在。
兄妹思いで優しくてたまにからかって。
二番目のスラは遠慮がちでシセルについていくのが精一杯なちょっと弱い存在。
三番目のセスは幼い頃からシセルとスラが大嫌いでよく意地悪するほど今とは全く変わらない性格の悪い存在。
四番目のソリーは兄三人が怖くて逆らうことができずに怯えて心を閉ざしていた悲しい存在。
周りから見たら仲がいいように見えるが、四人の性格を見てしまえば全て嘘。
裏では。
『おい、何度言えば分かるんだ!』
気に入らなかったら大声を上げて物を投げつけるシセル。
『兄上、やめてください』
シセルの機嫌を取り戻すために必死に身体を押さえるスラ。
『ちっ、うるさいな!』
シセルの大声が耳に入ってくるのが心の底から嫌で椅子を足で蹴るセス。
『ううっ、ああ。もうこれ以上物を投げないでください』
シセルの怒りに耐えきれずに大粒の涙を流すソリー。
表では仲良しな兄妹を演じていた四人。
しかし、裏になるとこんなふうに全く別人に変わったように上下関係が厳しい恐怖の光景。
これを見たくない使用人たちはさっさと別の部屋に逃げて自分の身を守る。
一番上のシセルは自分の機嫌を取るのがめちゃくちゃ苦手で、自分の怒りを抑えることはできない。
だから、いつもスラが毎回毎回必死に暴れないように身体を押さえて腕を背中につけさせる。
本来なら使用人がやるべきことを代わりにスラが自ら先にして誰も巻き込まないように本気で必死に誰も傷つかせないように頑張っていた。
物を投げて壊して怪我をする。
これを何十年も繰り返しながら生きてしまっている四人。
それでも、両親は見ないふりをしている。
普通なら両親が止めるべきなのに、わざと見ないふりをして、関係ないふりをして鼻で笑っている。
最低な吸血鬼だった。
『お前らのせいで俺がどれだけ苦労しているか分からないだろ!』
始まった。
全くどうでもいい言い訳。
『俺が長男として毎日王の仕事を八時間手伝って眠る暇もない。俺の気持ちを少しは考えろ、そうではないとお前らを・・・』
お決まりの一言を言ってしまったシセル。
その言葉を聞いた三人は。
『兄上、本気で言ったんですか? 俺たちは兄妹なのに』
ショックで暗い表情を浮かべて頭を抱えたスラ。
『ふん、別にそうなっても構わない』
その言葉を聞いても何も感じずテーブルに足を置いて腕を組むセス。
『あああっ、うう。そんなの、嫌です』
その言葉に激しく動揺して涙が止まらないソリー。
兄妹なら仲良しになればみんな笑顔でいられたら、きっとこんなことにはならなかったのに。
本当に現実とは、全てを壊す強い力だ。
それに勝てる者は今のところ存在しない。
していたらこんなことにはならなかった。
吸血鬼の中で唯一の王族であるメリマ家。
この四人が幸せになれる日が来るのか。
どうしたら幸せになれるのか。
それは・・・。


翌日の夜になり、セスは目覚めた。
「あーは」
またあの夢を見た。
何度も何度もしつこいのに勝手に見せてくるひどい夢。
もう僕はあんなの見たくないし、二度とな。
夢見が悪いセス。
だが、同時にあることを思い出して隣を見る。
「ああ、そうだったな。ここは僕たちの部屋じゃなくて保管室だったな」
そう、部屋に戻る余裕がなくそのまま保管室で眠っていたセス。
「あいつはどこにあっ」
周りを見渡した先には綺麗に姿勢良く座って眠っているナイがいる。
セスはゆっくり立ち上がってナイの目の前に来て、頭を撫でる。
「お前の寝顔は相変わらず、腹立つほどに美しいな」
歳の差は大きすぎるが、セスはナイを選んで正解だと思っているようだ。
「はっ、座ったまま眠るとか、一体どうすればできる?」
小さく静かに起こさないように独り言を呟くセス。
すると。
「んっ」
独り言に気づいたのか、ナイがゆっくり目を開けてセスはパッと手を背中に隠した。
「お、起きたな」
「ええ、おはよう」
「あははっ、ほら、行くよ」
顔を真っ赤に染めないようにセスが一人保管室から出ようとしたら
「待って」
と、ナイが手を握って止めた。
「昨日はごめんなさい。私、どうかしていたわよね」
「べ、別に、そんなこと気にしていない。僕は僕のことしか考えていないからな」
「そうよね、分かったわ、部屋に行きましょう」
そう言って、二人は部屋に戻り、着替えをしていく。
「お前、食べ物以外で何が好き?」
突然好きな物を聞いてきたセスに、ナイは一瞬戸惑ったが、気を取り戻して笑顔で答える。
「そうね。薔薇が好きだわ」
「薔薇か。薔薇なら何色でもいいのか?」
「ええ、何でもいいわ」
「じゃあ、今度買ってくる」
「えっ!」
「薔薇が欲しいみたいだから、今度僕が何か買ってくる」
「いいの?」
「うん、そのために聞いたんだからな」
着替え終わってナイの頬を満面の笑みで撫でるセス。
その姿に、ナイはドキドキして、嬉しくて頷いた。
「ええ、楽しみにしているわ。うふふっ」
セスからのプレゼント。
すごく楽しみだわ。
この部屋に飾られている薔薇よりも美しい物。
どんな物にするんだろう。
誕生日プレゼント以外で何かをもらったことはないわ。
テストで一番になって褒めてもらったり、誰かを助けたり。
他にも色々なことで誰かの力になって家族に褒められたり、友人を笑顔にしたり。
そんな些細なことでも誰かのためになるならと、ナイは今まで一人で頑張ってきたはずなのに。
『これでいいと思っていたら大間違いよ。早くやり直しなさい』
『まだできないの? 本当に何もできないのね』
『こんなことで私たちの足を引っ張ったら、あんたには消えてもらう』
仕事を覚えるのが下手で褒められたことは数少ない。
一度目も二度目も。
たくさんひどいことを言われて距離を置かれて毎日落ち込んでいた日々。
けれど、今は。
「セス、全てあなたのおかげよ」
美しく微笑みかけるナイ。
「は? 何が?」
何を言われているのか全く分からず首を傾げるセス。
それでも、手を握ってあげて。
「あなたと出会えて私は全てから救われたわ。本当に、ありがとう」
心から気持ちを込めてお礼を伝えたナイに、セスは顔が真っ赤に染まってドキドキして、つい抱きしめてしまう。
「もう、お前はずるいな」
「え? 私はただお礼を伝えただけなんだけど」
「それがずるいんだ。僕たちは契約を結んでいるだけで夫婦じゃない。なのに、君は僕を好きになろうとしている。僕はどうしたらいい?」
何かを迷って苦しんで息が荒くなるセスを、ナイはそっと背中を撫でてこう言った。
「私はあなたを好きになりたい。でも、あなたは私を好きになる必要はないわ」
本当の気持ちを隠して嘘をついたナイ。
言い方は優しく丁寧だが、少しだけ低く暗い声にも聞こえていた。
人間の私が吸血鬼のセスを好きになりたいと思うのも本当は良くないのよね。
人間にとって吸血鬼は一番の敵。
人間の血を吸うために人間を襲う危険な生き物。
だから、私は人間の心も半分持ちながら、敵の吸血鬼がどう出るのかを知る必要がある。
もし、百年前と同じ事件が起きてしまったら、きっとセスは私を憎み、恨む。
契約を結んでいても、私たちはまだ結婚していない。
したいけど、セスがそれを希望しない限り、私のもう一つの希望が叶うことはない。
私の最初の希望は叶った。
セスと出会えたこと。
これだけでも満足だったのに、私はそれ以上の希望を持ってしまった。
希望はいくつあっても別に悪くはない。
叶えば次を叶える。
その繰り返し。
人間のナイが吸血鬼のセスを好きになりたいという希望は叶っても叶わなくても。
全てがどうでもいい。
吸血鬼にとっては。
この抱きしめられている暖かく気持ちのいい毛布のように包まれている感覚。
これはセスだからこそ感じられる物。
他の吸血鬼には感じられない特別。
ナイは大切な宝物を捨てて人間の敵である吸血鬼のセスを選んだ。
選んだ限り、後悔は許されない。
許されるはずがない。
このお城に来た人間は命を捧げたことと同じ。
一生出られない世界で一番恐怖の場所。
ここから出られるとは考える方が無駄。
でも。
「お前がもし僕を好きになったら、その時はちゃんと教えて。僕も色々と考えてみるからな」
めちゃくちゃ上から目線な言葉でも、ナイは瞳をキラキラと輝かせて優しい笑顔で頷いた。
「ええ、待ってて。必ずあなたを好きになってみせるわ」
とても幸せな時間、癒しの朝。
夜だが。
起きてからこんなに嬉しいことがたくさん起きて幸せではない方がおかしい。
夫婦にもなっていない、結婚もしていない。
でも。
二人が「幸せ」だとお互いがそう感じ合っているなら誰も文句は言ったりしない。
セスがそれを絶対に許さない。
やっと見つけた自分に似合う血を見つけた限り、ナイを誰かに渡すことは自分自身を裏切ることと同じだから。
「はあっ、そろそろ離してもいい?」
お腹が空いてこの時間に飽きてきたセスが無表情でそう聞くとナイも同じように無表情で頷いた。
「ええ、そうね」
二人共お腹が空いてあと少ししたら気持ち悪くなってしまうほどに空腹になっている。
「ああっ」
こいつの僕に対する気持ちはよく分かった。
こいつは僕に反抗しない、ただ頷くだけ。
まあ、その方が楽だけどな。
「ふう」
お腹が空きすぎて気持ち悪い。
早く何か食べたい。
食堂に行きましょう。
お互い空腹が限界になって目的が一緒ということで自然と離れて手を繋いで部屋を出て行く。
今日のナイのドレス。
黄色のリボンが胸元に大きく飾られている甘く美しい橙色のドレス。
今日のセスの服。
黄色の長袖のシャツに橙色の膝よりも短いモフモフのコート、ズボンは黒のシンプル。
ナイとセスは二人共橙色が超似合う。
コーデはいつもサロールが選んでくれている。
契約を結んだ者同士、同じ色を着るのは当然だと言う。
「うふふっ、今日のドレス、素敵だわ」
「そうだな。よく似合っている」
毎日毎日ナイのコーデに見惚れてしまうセス。
が。
「ナイ、僕の後ろに隠れて!」
突然セスが大声でナイを自分の後ろに隠し、何かに怯えている。
何がどうなっているのか全く分からないナイがそっと顔を上げると、そこには。
「シセル兄さん、何でここにいる!」
そう、セスが一番嫌う吸血鬼であり長男のシセル。
その姿を見てしまったナイは心臓がバクバクと動いて動揺する。
「ねえ、あなた、どこかで会ったわよね?」
「式のドレスを選ぼう」
自分が何かをしたのかを全く話そうとせずプロポーズをし、ドレス選びに誘ったシセル。
こんな身勝手でひどくて怖いのに、アムは自然と何も迷うことを知らずに頷いた。
「うん、分かった」
シセルが三日我慢したなら、私もそれに応えないとシセルはきっと落ち込んで私から離れる。
きっとそれが嫌だから、私は頷いた。
シセルが頷かせた。
そういう力を持っているんだ。
吸血鬼からのプロポーズ。
人間でさえもされなかったことを吸血鬼のシセルが叶えてくれる。
人間にはできない、吸血鬼が簡単に叶えてくれる。
アムはそれに気づいてしまい、ケーキのように甘くドロドロに溶けて沼に沈む。
「どうだ? 何にするんだ?」
誰の血かも分からない真っ赤な口で怪しげに笑い誘惑するシセル。
アムはそれに応えるように手を握って優しく微笑んだ。
「ふふっ、じゃあ、水色がいい」
雪の結晶みたいで綺麗だから。
本気でシセルと結婚すると心に決めたアム。
すると。
「アム様、お菓子の用意ができました」
満面の笑みで次は焼き菓子をたくさん持ってきてくれたサミール。
血に染まった真っ赤な恐怖を身体全体に纏うシセルの姿を見ても、何も動じずにただ笑っている。
「アム様、早く食べないと私が食べてしまいますよ」
少しからかうように楽しそうに笑いながら言うサミール。
だが。
「おい、そこのメイド。俺たちが話しているのが分からないのか?」
二人の会話を邪魔されたことに心の底から腹を立てたシセルがサミールを睨む。
大切な話で二人の未来に関わる話。
それを邪魔されて腹を立てない者はいないだろう。
けど。
「アム様、どうしますか? 食べますよね?」
完全にシセルを無視してお菓子をテーブルに並べていくサミールに、アムは笑顔で喜び頷いた。
「うん、食べる」
テーブルに置かれた焼き菓子がおいしそうすぎて我慢できなくなったアムはシセルから離れて椅子に座りお菓子を食べていく。
「ん、ふふっ、おいしい!」
焼き色も綺麗で焦げてなくてちょうどいい甘さ。
きっとこのお城の料理人は腕がめちゃくちゃ高いんだ。
いくらでも食べられる!
どんどん手を動かして口に運んでよく噛んで味わって。
紅茶も飲んで。
「ふふっ、サミール、ありがとう。おいしかった」
満面の笑みでお礼を伝えたアムに、サミールもとても嬉しそうに笑った。
「いいえ、私はメイドとして当然のことをしただけです」
アム様の笑顔は私も好きなので、見られて嬉しいです。
アムとサミールがとても楽しそうに笑い合っている姿を見て、シセルは大切な物をどうでもいいサミールに奪われてしまうと思い込み、胸が苦しくなって無理やり力強くアムの手を握り、サミールを睨む。
「おい、メイド。こいつは俺の物だ、勝手なことはするな。そんなことも分からないのか?」
メイドなのに、第一王子の俺を無視して許されるはずがないだろ。
そう、シセルはこの世界の第一王子。
一応。
第一王子のシセルを無視してアムに声をかけたメイドのサミール。
実は二人は。
「お前の主人は俺だろ。なぜ俺の言うことを聞かないんだ?」
そう、サミールの主人はシセル。
幼い頃からサミールはシセルに仕えていて、付き合いも長い。
でも。
「私はあなたを主人と思ったことは一度もありませんし、思うこともありません」
冷たく低い声ではっきりと主人のシセルに対して反抗し始めたサミール。
さっきまで笑顔だったのに、シセルと話す時はいつも無表情で感情がない、まるで人形のようだ。
「私の今の主人はアム様です。あなたではありません」
この方は私に何をしたのか全く覚えていないようですね。
自分勝手で荒くて冷たい。
この方が本当に第一王子とは思えませんね。
ただの野生ですよ。
「ふふっ」
シセルがサミールにしたことは本当に最悪だった。
思い出すだけで吐き気がするほど・・・。
サミールの初めて見る顔に少し不安になったアムがそっと優しく手を握って顔を近づける。
「サミール、どうしたの? 具合悪いの?」
元気がないように見えたのは私だけ?
瞳を激しく揺らして心配してくれるアムに、サミールはその手の温もりを心から嬉しそうに満面の笑みを見せる。
「大丈夫です。アム様の顔を見ただけで元気が出ました」
私はこの方よりもアム様を主人にして欲しいです。
「それが私の夢です」
コソッと小さくニッコリ笑って呟いたサミール。
しかし。
「おい、お前、これ以上アムに関わったら許さないぞ」
嫉妬しているのか、シセルは頬を爆発しそうなほどに膨らませてまるで幼い子供のようだ。
「アムは俺の物だ。絶対に渡さない。早くここから消え」
「うるさいですね。勝手にアム様を自分の物にする方が許されないことですよ。それも分からないのですか、第一王子様は」
怪しげに美しく微笑みかけて圧を仕掛けるサミールを、シセルはゾッとして後ろに一歩下がった。
「そうだ、俺は第一王子だ。メイドのお前に負けるはずがないだろ」
力勝負だったら絶対にシセルが勝つ。
けれど、言葉だったら完全にサミールが勝つ。
今もその時。
サミールが笑顔でひどい言葉を言う度にシセルは後ろに一歩下がって一旦休憩と思い込んで力をつけて挑んで来る。
そんな二人のケンカに、アムは見ないふりをして残った紅茶を全て飲む。
「・・・・・・」
サミールのあの顔は初めて見た。
サミールもあんな顔をするんだ。
いつも笑顔だからあんな怖い顔を見せられた私もシセルと同じことをしたと思う。
というか、シセルって、意外と弱いんだ。
違う、サミールにだけ弱い姿をする。
だったら、私は。
「サミール、もしあなたが言ったとおり、私があなたの主人になったら嬉しいの?」
下から顔を覗くように真剣な眼差しでそう質問したアムに、サミールははっきり頷いた。
「はい、もちろん嬉しいです」
アム様がその気であるなら、私は喜んであなたに仕えたいと思っています。
この三人は自分の本音を言うのが下手なようだ。
感情を表現するのがとても下手で中々言えずに我慢する。
遠慮なんてしなくても、本音など簡単に言っても誰も怒らないのに。
内容によるが。
だが。
「アム様、この方との結婚はやめた方がいいですよ。絶対に後悔します」
突然二人の結婚に反対の意見を言ったサミール。
その理由は。
「この方は第一王子ではありますが、吸血鬼としては一番野生に近いです。知らないかもしれませんが、吸血鬼は時々野生に変わることがあるんです」
そう、サミールが言ったとおり、吸血鬼は野生に変わることがある。
「野生になる条件が一つだけあります」
少しずつ吸血鬼について語っていくサミールの真剣な眼差しに、アムも同じような表情で首を傾げた。
「それは何?」
「血です」
「え?」
「吸血鬼は最低でも三日以上血を吸わなければ野生に変わり、暴れて叫んで他の吸血鬼、あるいはそこにいた人間の血を吸い、ひどい時には食べてしまいます」
その言葉を聞いたアムはもう一度シセルの姿を見て心の底から恐怖が芽生えてとっさにサミールの後ろに隠れる。
じゃあ、今は、シセルはやっぱり人間を食べたんだ。
それなら、どうして、私に言ってくれないの?
私に嫌われるのが怖くて言えなかったの?
それとも。
「我慢できなかったんだ」
シセルはこう言っていた。
『契約を結んだ人間の血を吸うためには三日耐えなければいけない』
と。
だが、それは嘘だった。
シセルは嘘をつくのが上手すぎる。
平気で簡単に嘘をついて周りの意見も聞かずに自分の思うままに行動する。
きっとシセルはアムのことを。
「私のことが好きなんて嘘。あなたみたいな冷たい吸血鬼が私を好きになるはずがない」
動揺しているのか、アムの瞳は激しく揺れ動いていて怖がってもいる。
しかし。
「何を言っているんだ? 俺は本気で君を愛している、それに嘘は絶対につかな」
「もうついているの! 私は庶民、あなたみたいなお金持ちが全くつまらない私を好きになるはずがない!」
もう、シセルの言うことは信じない。
平気で嘘をつく最低な生き物。
なんて、こんなことを言ったらきっと私まで食べられてしまうから、とりあえず今は。
アムはシセルの嘘にひどく傷つき、自分のために走って逃げて行く。
「はあっ、は、ああ」
シセルが怖い。
どうして私はシセルと契約を結んでしまったの?
こんなことになるって知っていたら契約は結んでいなかった。
どうして私はいつも選択を間違えてしまうの?
今までもアムは間違っていた。
仕事を選んでいた時、あのパン屋はリストに書いていなかった。
興味もなかった。
でも、お店の広告にこう書かれていた。
『みーんな優しく丁寧。おいしいパンを一緒に作ってみませんか? それがあなたへの夢に繋がる』
アムはそれを見た瞬間で心惹かれてしまい、自分に一番合っていると信じてすぐにあのパン屋で働いてしまった。
「夢」という言葉に釣られて。
そして、アムの夢は見つかった。
「自由になること」
全てから解放され、全てから救われた時に叶う夢。
「ふふっ、早く夢を叶えたい。だから、そのためには」
何かを思いついて、アムは足を止めてゆっくり後ろを振り向いてまた歩き出す。
「シセル、あなたが人間を食べたなら、私はあなたを殺す」
これは私のためじゃない、人間のために。
そう、このお城に吸血鬼が存在していることを人間はまだ知らない。
最初はアムもそうするとも思ってはいなかった。
スラがいたから。
常にアムの血を吸っていたスラを、アムは守りたい、隠したいと思ってしまった。
だから、それを邪魔する物、私が捨てた物をもう一度私の物にするために。
「シセルを殺してスラと契約を結ぶ」
はっきりと目標が決まったアムは満面の笑みでまた走って庭に行ったら
「キャー! 誰か、助けてください!」
と、何かに怯えて声を震わすサミールが右腕を誰かに噛まれて血がどんどん下に垂れて今すぐにでも右腕が引きちぎられてしまいそうだ。
その姿を見たアムは全力で走って左手を握って柱の後ろに一緒に隠れる。
「サミール、どうしたの、その腕?」
「あの方が、シセル様がまた野生に戻って私の右腕を噛み、殺そうとしたんです」
「そんな、どうして、シセル・・・」
「アム様も逃げてください」
「えっ、でも」
「私は平気です。さあ、早く!」
力強くアムの背中を押したサミールは大粒の涙を流してとても悔しそうに寂しそうに。
最後に。
「ありがとう、ございました」
右腕の出血がどんどんひどくなって感覚もなくなり、血を吐いて、サミールは倒れて意識を失った。


なぜこうなったのか。
理由は簡単だった。
シセルがサミールを嫌っていたから。
『おい、早くお茶を出せ』
常に王でもないのに常に偉そうに腕を組んで吸血鬼扱いがひどすぎたシセルを、サミールはなるべく笑顔で全てに応えていた。
『はい、かしこまりました』
シセルは機嫌の悪さが激しい。
ちょっとでも嫌なことがあったらすぐに物を投げて壊して暴れる。
本当に扱い方が分からなくて兄妹だけでなく、使用人もみんな困っていた。
距離を置いていた。
近づいたら噛み殺される。
文句を言われて水をかけられる。
睨まれて近づきたくない。
みんなシセルに対しては全く同じ気持ちで良い印象は全くなかった。
あるはずもなかった。
こんな最低な吸血鬼が存在していることが恥。
一緒の空気を吸うのも嫌。
目を合わせたくない。
「早く消えてくれれば良かったのに」
シセルは吸血鬼の中で二番目に野生に変わりやすい。
シセルはあまり人間の血を吸っていなかった。
高い物にしか興味がなかったせいであんなふうに暴れて自我を失って生き物を喰らう。
今までは兄妹が止めていたが、今はもう兄妹は自分のことだけを考えてシセルのことなんてどうでも良くなっている。
気にしたくない。
兄妹とは、家族とは思っていない。
だが。
「あああああああっ、血、血、血を与えてくれ!」
何度も叫んで庭に咲いているナイのお気に入りの赤色の薔薇をトゲなど気にせず潰して折って顔に切り傷ができても、花びらを全てちぎって全てを壊した!
「ああああああっ、ああああああああああああああっ!」
野生に変わった吸血鬼は自分の意思では元に戻らない。
誰かが止めなければ二度と元には戻らない。
それか、人間を食べないと元に戻る方法はない。
誰もシセルを止めたりしない。
もう、どうでもいい。
勝手に消えてくれる方がいい。
それでも。
「兄上、やめてください!」
三日部屋に閉じこもっていたスラが野生に変わって血だけを求めて壊れるどうしようもない姿を見て顔が青ざめていながらも、シセルの叫び声を聞いてわざわざ裸足で走って庭に来てくれた。
「兄上、これ以上暴れたらあなたは死んでしまうのですよ! それでもいいのですか!」
「ああああああっ、わああああああっ!」
「ダメだ」
ここまで兄上が野生になるのは初めてだ。
原因が分かれば対処できるのに、兄上本人がこんな状態では聞くことすらもできない。
そして、この血が誰なのか、それも教えてもらわなければきっと兄上は父上に殺される。
それも悪くはないが、今はとにかく兄上をどうにかしなければ、これ以上他人を傷つけさせない!
自分のために、家族のために。
スラは自分が殺される覚悟で自ら立ち向かってシセルを地面に押し付けて腕を押さえる。
「兄上」
「あああっ、あああっ、あああああああ」
言葉を失い、ただ叫ぶしか頭にないシセル。
それは苦しんでいるのとはだいぶ違う。
野生になった自分から元の自分に戻るために必死に頑張っているというわけではなく、ただ人間の血が欲しいという欲が満たされていないのが原因で自我を完全に失い、こうなってしまったのだ。
「ああああっ、ああああああ」
「・・・兄上」
最低で最悪でどこもいいところなんて一つもないのに、なぜかスラは自然と体が動いて幼い頃と同じように何かが怖くてシセルを今までも今も生かし続けてきた。
何も意味なんてない、ただ何かに利用できるならと考えていたのかもしれない。
「・・・・・・」
俺は兄上を好きになったことは一度もない。
なりたいとも思っていない。
だって、兄上は俺たちの大切な物を簡単に奪い壊してきたから。
俺たちがどんなに苦しくても、兄上は面白がって笑って殴る。
こんな兄妹が存在していることすらが元々おかしい。
「どうしてくれるのですか、兄上!」
自分勝手で嘘つき。
見た目が良くても中身が悪ければ意味がない。
必要か不必要か。
それすらも考えられない吸血鬼自体が存在してしまっているのが家族の恥だ。
弟も妹も二人は今とても幸せな日々を過ごしている。
だから、ここは次男の俺が何とかして止めるんだ!
テーブルに置いてあった食用のナイフを手に取って、スラはシセルの顔から首まで縦に切り美しい瞳が細かくちぎれて形がなくても大量の血が流れても、笑って受け流した。
「ははっ、これでいい。今は」
今はとりあえずこの辺にしてあとは誰でもいいから任せて適当に捨ててもらおう。
大切な物を全て奪ったシセルを、三人が許したことは一度もない、これからもきっとない。
こうなって当然の存在だと、三人はそう思っていたから。
「さっ、久しぶりに外に出たんだ、アムに会いに行こう」
契約を結んだ吸血鬼が吸血鬼に殺された場合でも契約は自然と解かれる。
指輪も当然消える。
アムの左手薬指からも砂のようにサラッと消えて行った。
「あれ? 指輪が消えている。もしかして、誰かがシセルを…」
部屋のカーテンの中に隠れていたアム。
すると。
「アム!」
誰かの叫ぶ声が聞こえてカーテンの中から出てきたアムは大粒の涙を流しながら走ってその正体を抱きしめた。
「うう、スラ、会いたかった!」
そう、三日会えずに寂しい思いをさせてしまっていたスラに会えて、アムはシセルからの愛情から離れてもう一度契約を結びたいとこの瞬間から強く感じた。
「スラ、もう一度私と契約を結んで! お願い!」
私にはもうスラしかいないの。
お願い、断らないで。
心の底から本気でもう一度スラと契約を結びたいと願うアム。
それはスラも同じで頷いた。
「ああ、もちろんだ。今すぐ結ぼう」
そう言って、スラは珍しく満面の笑みを見せて棚から契約書とペンを出してそれをアムに渡した。
「やり方は兄上と同じだ。ここに名前を書いて指輪を俺がつけてあげる。それだけだ」
「うん、分かっている」
ペンを手に持ち、アムは名前の欄に自分の名前を書いてスラに渡したら。
「君、これが君の名前か?」
何かを知ってしまったスラが驚きと動揺で瞳を激しく揺らしている。
信じられない。
アムという名前は愛称だったのか。
契約書に書かれた名前は『アム』ではなく『アミナム』だった。
だが。
「スラ、どうしてそんなに驚いているの? もしかして、私の名前に何か不満でもあるの?」
大切な両親からつけられた大切な名前。
誰も知らない名前。
しかし、スラは気になったことがある。
「兄上と契約を結んだ時にもこの名前を書いたのか?」
前にシセルと契約を結んだ時、アムは。
「ううん、書いていない。書く理由がなかったから」
この名前はアムが一生かけて隠したいと思っていた一番特別な名前。
けど。
「私の名前は、本当は誰にも言ったらダメなの」
「えっ! じゃあ、なぜ今ここに書いたんだ?」
「あなたに知ってもらいたいから」
「何をだ?」
「私の過去を」


アミナムは庶民の中でも一番美しく純粋で素直な女の子だった。
『お母さん、私、今日外でお花をたくさん使って冠を作ったの。見てみて』
自信満々に幼く可愛らしい笑顔で色鮮やかな花たちを綺麗に編んで冠を作ったアミナム。
母親は毎日それを見る度にアミナムの頭を撫でてくれた。
『まあ、上手にできたわね。今日もお母さんにくれるの?』
『うん! だって、お母さんのために作ったんだから』
母親が一番大好きだったアミナム。
父親も妹二人も嫉妬するほどアミナムは母親を一番好きで居続けた。
五人仲良く死ぬまで一緒に暮らしていけると思っていたアミナムだが、四人が消える前の夜、突然家の玄関の扉を叩いて来たのだ。
『おい、そこにいるのは分かってるんだぞ! 早く開けろ!』
力強く、声も口調も荒く。
声の主は男で、何かに追われているようで何度も扉を開けようとしていた。
『みんな、奥の部屋に隠れていなさい。父さんが何とかする。それまでは絶対にここから出ないように』
『お父さん、嫌だよ。私も行く』
『一人にしないで』
父親が大好きだった妹二人が寂しそうに涙を流して両手で拭いながら抱きつく。
しかし。
『早く開けろ! 俺を殺す気か!』
段々男の声が近づいてきているように感じた父親はもう我慢できずに自ら動いて玄関の扉を開けた。心配になった母親と妹二人が後を追うように部屋から飛び出し、アミナムも一緒に行こうとしたが、突然頭が切られるような激しい謎の頭痛に襲われて倒れた。
そして、朝になって目を覚ました時にはもう四人はどこかに消えていて、男もどこに行ったのか分からなくなった。


その事実を知ったスラは自分が思っていた以上に怖くて身体が震えてしゃがみ込んだ。
「知らなかった…」
いや、知るべきではなかった。
だが、一つ気になったことがある。
「なぜアムになったんだ?」
恐る恐る冷や汗をかいて聞いてきたスラにアムは少し怪しげに笑った。
「ふふっ、アムの間にあるミナは母親の名前だから」
「えっ?」
「お母さんは自分の名前が好きで、子供にも愛情として私の名前に入れたの。でも、お母さんが消えてから私はお母さんの名前を使うのが怖くて、最初のアと最後のムを選んでアムにした。それだけだよ」
最後の一言は少し大人っぽく幼い感じを残しながら可愛らしい笑みを見せたアム。
「私は今の名前を気に入っている。でも、あなたには伝えておいた方がいいと思って、ここに書いた。私の夢のためにも」
スラはシセルと違って、落ち着いていて、安心する。
だから、私はあなたのためにも知って欲しかった。
あなたを好きになれるように、愛せるように。
私の全てを受け入れて欲しい。
そう思うのはおかしい?
ううん、おかしくても別にいい。
私の偶然の相手はスラだけだから。
アムは「運命」があまり好きではない。
スラとの出会いも全て偶然。
全てが偶然で完成されている。
そういう生き方をしてきたのだから。
全てを仕方ないと思い、ここに生きる資格を持つ自分。
アムは本当に幸せな人間の一人だ。
「スラ、私と契約を」
「ダメだ」
「えっ?」
ダメって、何?
なぜかアムとの契約を悔し涙を流しながら拒んだスラ。
その理由は。
「君は俺がいなくても生きていける。俺の夢は君と未来も幸せな暮らしをしたかった。でも、もうそれはどうでもいい。全て偽りでできている君と契約など絶対にしない」
スラの夢はとても純粋でしっかりしている。
シセルと全て違って。
何でもシセルと比べればスラは上に立つことは不可能ではない。
今はもういない兄のことなど思い出すだけでも吐き気がするのだから。
しかし。
「どうして? あなたに似合う血は私でしょ、今までみたいに私の血を求めればいいのに、どうして、そんなこと、言うの・・・うっ」
また私は一人になるの?
一人にして、また給料もまともにもらえない仕事をするの?
嫌!
そんなに嫌だったの? 
私の過去を聞いて何がそんなに嫌だったの?
寂しさから一気に憎しみに変わって、アムはスラを床に押し倒し、服の襟を力強く掴む。
「私はもう一人になりたくない! 私を一人にして何が楽しいの!」
唇を強く噛んで血が出ても何も気にせず、アムの腕の力はどんどん限界まで達するまでに強くなって、やめて、離れて。
「分かった。私、ここから出て行く」
前髪で表情を隠して冷たくとても低い声でそう言ってしまったアム。
その姿に、スラは見ないふりをして、頷いた。
「ああ、出て行ってくれ。もう君の顔など二度と見たくない」
お互い自分を偽って嘘をついて。
アムは部屋から出て行き、スラはベッドに寝転がって、二人は二度と顔を合わせることはない? はずだった。



「はあっ」
どうすればいいの?
部屋から出て行ったアムは門の前に立ったが、さっき腕の力を限界まで使ってしまったため、足で押しても門が開くことはない。
もう一時間以上経っているのに、アムは門の前でずっと頭を悩ませてばかり・・・。
そして。
「どうしたんだ? 出て行くはずではなかったのか?」
じっと隣でアムの無駄な時間を見続けているスラがずっとニヤニヤと笑いながらからかっている。
「俺の力を貸してあげてもいいぞ」
「いらない。あなたの力なんてゴミよりも軽いんだから」
「なっ!」
はっきりとスラの力をゴミと言ったアム。
その表情は心の底から勝ち誇っていて満面の笑みを見せている。
「ふふふっ」
どう?
私もやる時はやる人間。
いつまでも弱いところを見せてばかりの人間じゃない。
さっきまで偽って嫌っていた? はずの二人が今も二人で同じ時間を過ごしている。
こんなことがあっていいのか?
「俺の力をゴミと言ったのなら、君の力は当然岩よりも強いのだろう?」
俺は吸血鬼だ。
人間の君が敵う相手ではない。
さっさと諦めれば身のためだぞ。
完全に人間のアムをバカにしているスラ。
すると。
「もちろん、私はあなたよりも強い。絶対に」
足の力だけでほんのちょっとだけ門が開いた。
それを見たスラは驚いて口が大きく開いたまま。
本当に、反応が満点すぎるほどに。
「嘘、だろ・・・」
こんなに小さい体で、それも木の棒のような細い足で門が開くとは・・・一体どうすれば開くんだ?
このお城の門は人間は絶対に開けない、吸血鬼でも三人は必要。
だが、アムは二度もたった一人でこの門を開けた。
十五歳の少女が大人の力を借りずに、吸血鬼の力を借りずに開けたことは本当に歴史に名を残すほどとてもすごいこと。
隣で見ていたスラもさすがに何も言えず、動揺して、後ろに下がって行く。
「・・・・・・」
あり得ない。
吸血鬼の俺でさえも一人でこの門を開いたことは一度もないのに、アムは、彼女はたった一人で開けてしまった。
本当に、一人なら何でもできるんだな。
「俺も見習わないとな」
さっきまでからかっていた自分が今では後悔していて、スラはアムの頭を優しく撫でてあげた。
「良くできた。すごいぞ」
これは本音だ、嘘ではない。
「・・・ありがとう」
スラに褒められるなんて思っていなかった。
本当に、さっきまでの氷よりも冷たい空気が今になってこうも暖炉のように暖かい物に変わってしまうのは「愛」という物なのか。
どうなのか。
「もういいでしょ。早く離れて」
撫でられているのがすぐに嫌になったアムがバシッとスラの手を退かして睨んだ。
だが。
「いいだろ。もう少し撫でさせてくれ」
「嫌! 私と契約を結ぶ気がないなら放っておいて!」
本音と意地で大声でそう言ったアム。
すると。
「へえー、ここにも人間がいたなんて、すごく嬉しいね」
アムの大声に気づいた謎の人物がクスクスッと笑いながらゆっくりこっちに歩いて来ている。
「え、誰・・・」
このお城に人間がいるのは私だけじゃないの?
そう、このお城に暮らす人間はアムだけではない。
同じように吸血鬼と契約を結び結婚し夫婦になった幸せなもう一人の人間。
それは、ルロという男。
「やあ、君が新しくここに来た人間だね。僕はルロ。これから一緒にお茶でもどうかな?」
突然来て突然お茶に誘われたアムは心臓がバクバクとうるさいほどに耳元で鳴り響いて全く体が動かない。
でも。
「あなたは私の気持ちを分かってくれますか」
もう一人の人間の存在を知ったアムはこれからルロと行動を共にする。
「ソリー、次はどこに行くのかな?」
人生初のデートにやる気満々のルロ。
「そうね。あそこのお菓子屋に行きたい」
今日が誕生日ということでお金をたくさん使ってたくさんの袋をルロに持たせるとても楽しそうに笑うソリー。
二人共街に出かけるのは数年ぶりで建物も人間も変わっていて全く慣れることがないが、それでも、ソリーが楽しそうに笑っているのを見てしまえばルロは心の底から喜び満足している。
「ははっ」
今日が誕生日で本当に良かったよ。
あのままだったらケンカどころか、城から追い出されることになっていたかもしれないから、ソリーの誕生日があって僕はまた君のそばにいられる。
それに、こんなに可愛いソリーの笑顔はもう二度と見られないかもしれないから、記念にちょっと写真でも撮ろうかな。
こっそり、バレないようにね。
ルロはソリーを心の底から愛している。
愛しすぎて少し気持ち悪いほど「愛」してしまっている。
ソリーにバレないようにこっそりコートのポケットの中に入れていた小型の古いカメラで少し距離を置いて遠くからソリーの姿を捉え、パシャッと一枚写真を撮った。
「おおおっ、中々いいね」
写真に写るソリーは満面の笑みで夜空に手を伸ばして真っ赤な瞳が星よりもキラキラと輝いている一生に一度の素敵な一枚。
その一枚を撮れただけでルロはとても満足している。
なぜなら。
「ソリーは写真が嫌いだから、中々撮らせてもらえない。でも、こうやってこっそり撮れば何も問題は」
「あるわよ」
「え」
ルロの怪しい視線に気づいたソリーが力強く限界でま力を込めてルロの左手薬指を握りしめている。
「あんた、私が写真嫌いなの知っているでしょ?」
「うん、だから、こっそり撮れば大丈夫かなって」
「正面から撮られるよりもこっそり撮られる方が私は大嫌いよ。もう二度としないで、次同じことやったらあんたと契約は結ばないからね」
「ええー! そんな、そんなこと言わないでよ。僕はただ君の可愛い笑顔を写真に残しかっただけ」
「私はもう可愛いって言われる年齢じゃないわ。一応私が上だってあんたも知っているはずよ。忘れたの?」
「忘れていないよ。むしろ、そっちの方がいいと思っているくらいだよ」
「ふーん」
「僕は二十一歳。まだ大人になったばかりの新人。その新人を受け入れてくれるのは僕よりもだいぶ歳が離れている者で結婚したいと思っている、君と出会えて結婚できて僕は幸せ者だよ」
堂々と街中で愛の告白を珍しく真剣な眼差しで言ったルロ。
しかし、ソリーは自分の年齢が気にいらないようで。
「はあっ、確かに私ははるか宇宙よりも年上。それも五十年以上も離れているわ」
「うん、知っているよ。君がおばさんでもおばあちゃんでも、僕の愛は変わらず続けていく。君にはその覚悟を持って欲しいかな。ははっ」
嘘でも偽りでもない純粋な瞳で世界で一番愛する妻のソリーを見つめる夫のルロ。
ソリーはその瞳を見る度に一瞬ドキッとして顔が真っ赤になって照れて、目を逸らした。
「もう、あんたはどこにいても恥ずかしいことを言うんだから・・・」
まあ、それも嬉しいけど。
「そうかな? 結構僕真剣に言ったつもりだったんだけどね」
ソリーを愛せるのはこの世界では僕だけだからね。
この二人がお互いを愛し合える日が来たらいいのに、それを壊す日が近づいてくるのも事実。
その事実を変えられるなら、夫婦の力で変えて見せてくれるだろう。
本気で吸血鬼を愛しているルロという人間が生きている限りは。
「ほら、早くお店に入るわよ。これ以上恥ずかしい言葉は言われたくない」
「はははっ! うん、そうだね。君のためにも、今はここまでにしておくよ。ああ、夜の街は静かで居心地が最高だね」
「そうね。私も全然街には行かないから意外と楽しいわね」
「はっはは。ソリーがそう言ってくれて僕は嬉しいよ」
いつまでもこの時間が止まってくれればいいのにね。
お店に入ってから早速ソリーが目にしたのはチョコレートのロールケーキ。
少し苦く甘味が少ない大人向けのケーキにしては少し渋い。
だが、ソリーはそのケーキに心惹かれて瞳をキラキラと輝かせて店員さんにこう言った。
「この渦巻きケーキを三つください!」
ロールケーキを渦巻きケーキと大声で注文したソリー。
周りはちょっと距離を引いてコソコソと怪しげに笑っている。
「あの子、ロールケーキを渦巻きだなんて、一体どこから来たのかしら?」
「ただの知識不足でしょ」
「見た目はただの子供だから」
完全に吸血鬼のソリーをバカにしたようなコソコソと一番聞きたくない話をされたルロは心の中で怒ったものの、ソリーのために隣に立って頭を撫でた。
「ははっ、ソリー、僕がお金を払うから、もっと好きな物を選んでね」
他人の噂話をする人間がいる方が最低だよ。
それも、僕の愛する妻を汚い口で文句を言ったこと、いつか絶対に後悔させてあげるからね。
「はっ」
ルロは今でも人間が嫌いだ。
自分のことよりも他人に目をつけて悪い噂とからかって泣かせる。
そういう世界にもなってしまっているのだから。
「ルロ、このケーキはどう?」
キラキラと虹みたいに綺麗に瞳を輝かせるソリーが指差したのは焼き菓子のクッキー。
「これ初めて見たわ。おいしいの?」
「うん、おいしいよ。味も種類も豊富だから、きっとソリーも気にいるよ」
「へー、そうなのね。じゃあ、これも買って次は」
「はいはい。何にするのかな?」
ソリーがお菓子に興味があるのはあまり知らなかった。
普段は僕の血を吸っていて、食事に興味なんてない。
でも、お菓子なら食べてくれる・・・なら。
「じゃあ、僕も作ってみようかな」
お菓子は料理と違ってちゃんとしたレシピもあるし、作り方もしっかりある。
レシピ通りに作れば、ソリーはきっと僕に惹かれてそのまま甘い結婚生活を送れる・・・はあっ、想像しただけで幸せだよ。
自分にできることなら何でもして、愛する妻のために全てを尽くす夫。
普通は逆のはずだが、今はそれは関係ないとして、ソリーは。
「あんた料理も作れないのにお菓子を作れるはずがないでしょ。勝手なこと言わないで」
はっきりとできないことを理解されたソリーの冷たく寒い口調に、ルロはしょんぼりして仕方なく頷いた。
「そ、そうだね。君の言うとおりだよ」
やっぱり、僕には何もできないのかな?
夫が妻に尽くすのは間違っているのかな?
でも、僕の愛はソリーを笑顔にして一緒に笑い合うこと。
愛情たっぷりのハチミツのようなドロドロした甘い生活を望んだら、ソリーは僕を捨てて他のゴミのような人間と契約をしてしまう。
それは嫌だね。
今僕が城から出られているのは全部ソリーのおかげ。
僕たちはまだ契約を結んでいない、でも夫婦なのは変わらない。
夫婦なのに、自由に散歩もできない。
だから、今のソリーのこの笑顔が見続けられるように、今はソリーのやりたいようにさせてあげる。
それでソリーが喜んでいるなら、僕の望みなんて願いなんてどうでもいい。
僕の全部はソリーのためにあるんだからね。
「はっ」
自分の全てを吸血鬼に捧げる人間。
おかしなことをしているのはルロもよく分かっている。
分かっているからこそ止められない。
もっと愛を捧げたい。
そういうふうに作られてしまったのだから。
人間も吸血鬼も何でも、天からの命令で作られた人形。
争いが起きても天は何もしない。
ただ見ているだけの自由な存在。
顔も姿も現すことなく平和に生きている。
それがこの世界を作ってしまったのだ。
「ねえ、ルロ。あんたが私のためにお菓子を作りたいなら、毎日作りなさい」
満面の笑みで嬉しそうに喜んで言ったソリーに、ルロは嘘ではないかと少し疑いながら真剣な眼差しで恐る恐る聞く。
「えっ、でも、いいの?」
嘘ではなく本音で頷いたソリーはルロの肩を撫でる。
「いいわよ。その代わり、まずかったら私はあんたをここで捨てる。その覚悟でおいしいお菓子をたくさん作りなさい」
私を愛しているなら当然おいしいお菓子を作れると期待してもあげるわ。
まあ、あんたにそんな覚悟はとっくにあることはよく知っているわ。
でも。
「分かったよ」
「ふっ」
「君の満足がいくような最高なお菓子を作ってあげるよ。ここに並べられている小さなお菓子よりもね」
ここがこの世界で一番有名なお菓子屋であるのに、ルロはそれを完全に忘れてソリーだけを見て周りの目など気にせず言ってしまった。
その言葉を聞いたソリーは一人だけ周りの怪しい視線を感じて顔を真っ赤に染めてルロの背中を力強すぎるほど叩いた。
「ちょっとあんた、ここがどこかちゃんと考えて物を言いなさい。それを言われる私の身になりなさいよ、このバカ」
ルロは元貴族。
お城に来てからは礼儀作法をすっかりサボって言葉遣いも丁寧にはしていない。
というか、ルロは普段部屋にいるので他の吸血鬼に会うことがないので必要ないかもしれない。
けれど、ここは有名店。
さすがにその常識や空気を読めて当然の立派な大人なのに、ルロはソリーといる時は全くそんなことは考えていない。
むしろ、ただ忘れている本当にバカだ。
「僕は何も悪いことは言っていないよ。君のために言っただ」
「それが恥ずかしいのよ。今はデート中でも、ここには人間しかいないのよ。つまり私を守れるのはあんただけ。本音を言えば全然頼りないけど、こういう時にあんたがみんなの注目を浴びるようなことを言ったら私がどうなるのかもちゃんと考えなさい。あんたも大人なんだから、もっとしっかりしなさい。以上」
そう言って、誰にも聞かれないように小声で説教をしたソリー。
当然ルロを睨んでいて表情も怖くていつもどおり。
「はあっ」
僕、何か間違っていたかな?
それとも、ソリーがやっと僕を好きになってくれたとか、そういうの?
全く違う。
ルロの考えていることは全てソリーのことばかり。
本当に愛が重くて思いやりも強くてできれば関わりたくない存在。
しかし、ソリーはそんなことはなるべく気にしないようにしている。
気にした方が負けな気がしているから。
「ふう」
少しは反省したわよね。
何を考えているか知りたくないけど、次の手を考えているなら何でもいい。
ルロは私だけを見ていればいいのよ。
まあ、これもただの言い訳ね。
私は言い訳しか言わない。
それはルロも同じはずでしょ?
「うーん」
ソリーが気にしているのは多分周りにいるゴミたち。
別にソリーはこんなゴミたちのことなんて気にすることはないのに、どうしてかな?
君は王女様なんだよ。
何でも手に入れられる特別な存在・・・と言えば何とてでもなるけど、ソリーはそんな自分が大嫌いだったね。
僕って、本当に周りのことを考えなさすぎているね。
ソリーのことしか頭にない、それ以外なんて命を捨ててでもどうでもいい。
だって、僕以外の人間はみんなゴミ、なんだからね。
自分も人間なのに、完全に他の人間を「ゴミ」として汚い生き物として思い込んでしまったルロ。
その思いがいつか必ず変えられることを知るのはそう遠くもなかった。


「ふう、結構買ったわね」
「そうだね。でも、本当にこれだけでいいの? 君にとっては多くても、僕にとっては少ない方だと思うけどね・・・」
「いいのよ。今日の主役が満足しているなら何でもいいのよ。ほら、あと少ししたら朝になるから、その前にさっき買ったケーキを食べるわよ」
「そうだね。おいしいうちに食べておかないとゴミが増えるからね」
さっきの有名店のお菓子屋でルロは「ゴミ」という言葉を心の底から気になってしまい、何でも「ゴミ」と言えば気分が軽くなってしまっている。
それに気づかないソリーは特に何も思うことなくさっさと二人のお気に入りの庭のテーブルにたくさん買った味も種類も豊富なケーキを並べていく。
「はああっ、おいしそう!」
七色の虹よりも綺麗に真っ赤な瞳を眩しい天のような優しい輝きを見せるソリーに、ルロも嬉しそうに明るく笑ってそっと頭を撫でた。
「ははっ、さっ、食べよう。どれから食べてもいいよ。全部君の物だからね、遠慮しないで」
「ええ、じゃあまずは渦巻きケーキにするわ。しっとり生地に生クリームが中に入っている初めて見るお菓子。きっとおいしいはずよ」
そう言って、食べ方を知らずにそのままロールケーキを両手で持ってモグモグと無言で食べていくソリー。
「んっ! おいしい、おいしいわ! 初めて食べたけど、こんなにおいしいのね。ああっ、三つだけじゃなくて五つ買えば良かったわ」
「ははっ、三つだけでも十分だと思うけどね・・・」
「そう? ほら、あんたもどれか好きなの食べなさい」
「あ、うん」
本当に、ソリーは可愛いね。
僕のような空っぽな人間にでも語りかけてくれる。
それも含めて僕は君を愛している。
愛した物は一生かけて守り抜く力が必要になる。
それができなければ捨てられる。
僕もそうなった時はどうしようかな・・・。
「ルロ、あんた、さっきから何考えているのよ? ちょっと気持ち悪いわよ」
ルロが考え事をしている時の顔は不気味に何か魂を食べたように瞳が真っ黒に輝いている。
それをソリーは心の底から
「気持ち悪い」
と、めちゃくちゃ引いて距離を置く。
しかし。
「大丈夫だよ。僕が考えているのは半分君のことだからね、ソリー」
不気味な笑みから明るく元気な笑みを浮かべたルロに、ソリーもできるだけ笑って頷いた。
「そうね。私はあんたの妻なんだから、夫のあんたが考えているのは全て私よ。それだけは忘れないで」
「もちろんだよ。いつでも僕は君を一番に考えてる。他のことなんてゴミみたいにどうでもいいからね」
また「ゴミ」という言葉を使ったルロ。
本当に大丈夫なのだろうか?
「まあいいわ。あんたお菓子なら何が好きなの?」
「別に嫌いな物はないよ。うーん、そうだね。じゃあ、ソリーを食べようかな」
「は? あんた何言って」
「え、ダメ? 生クリームがついたその唇に触れて舐めて溶かしてめちゃくちゃにする。これって、結構楽しいことだ思うよ。はははっ」
サラッと恥ずかしい言葉を言われ顔だけでなく腕も足も真っ赤に染まったソリー。
「ああああっ」
何よ、何でそんなこと言うのよ?
つまりそれって私を食べたいっているのと同じでしょ。
全く、ルロには敵わないわね。
私が吸血鬼でも年上でも、たまにルロが私よりも大人に見えてかっこよく見える。
きっと、それはルロが何かを変えたのが原因ね。
出会った時のルロは今のイメージと全く違っていた。
憎い父親が早く消えてくれることを願い、心を閉ざして一人ぼっち。
私は最初何も思わなった。
興味なんてなかった。
大体、吸血鬼が人間に興味を持つ方がおかしいわ。
吸血鬼のソリーがルロを愛さなくても、ルロはしつこいほどに愛して愛してそばにいる。
周りから見れば微妙な関係と思われてしまう。
誰かを愛する気持ちはその者にしか分からない。
相手に自分の気持ちを全て伝えたところで何の意味があるのかも分からない。
意味を求めたいのなら、知りたいのなら。
自分か積極的に相手に近づいて距離を縮めてそっと抱きしめる。
それが一番相手を理解できる便利な方法。
「ソリー、僕の愛はちゃんと君に届いているかな? もっと注いだ方がソリーは喜んでくれるかな?」
「・・・・・・」
「あっ! もしかして、もっと愛して欲しいとかそういう感じかな? ははっはは、なら、じゃあ君に」
「もういいわよ! 十分届いているからこれ以上何も言わないで!」
これ以上聞きたくない。
聞いたら私の体はそのうちに熱に溶かされて死んでしまいそうになるわ。
「ん・・・」
ソリー、さっきから変だね。
僕の愛がちゃんと届いていないと思って愛の言葉をたくさん伝えているつもりなのに、それがダメだったのかな?
何も分かっていないルロ。
いや、分かろうとしていないかもしれない。
一方的な愛を相手にどんどん近づいて伝えるのはあまり良いとは言えない。
時々それがルロの思っているとおりダメだったり傷つかせてしまうことだって十分あり得る。
だから。
「分かったよ」
自分の中で何かに納得したルロは満面の笑みでソリーを抱きしめた。
「何が?」
まだまだ恥ずかしさで体温が燃える炎みたいに熱いソリーは不思議に思い首を傾げた。
だが、その時。
「ずいぶん楽しそうですね」
ズリズリと何かを引きずりながら誰かが二人の元に歩いて来ている。
「ソリー様には私が必要なのに、私よりもこんなクズを選ぶなんて・・・そんなの絶対に許しません。早く捨ててください」
強く荒く寒さが一気に増したように冷たい声、この口調の正体。
「あんた、次はルロに何をしようとしているの? 主人の私に反抗したらどうなるか分かっているなら、尚更あんたをお父様のところに連れて行くわよ。サムール」
そう、数年間ソリーに仕えているメイドのサムール。
彼女はルロを一番嫌い、ソリーを取られたことに心の底から腹を立てて憎しみと恨みで引きずっていた斧《おの》を大きく空に両手を上げて勢いよく下ろした瞬間を狙って、ソリーがルロの手を握って走って避けた。
しかし。
「あははははははっ! 待ってください、私はあなたのために今まで努力してきたんですよ。苦手な掃除も面倒な雑用も全部ソリー様が喜んでくれると信じてすごく頑張ってきたのに、何でこいつなんですか? こいつのような生き物のクズを夫にするなんてどうかしていますよ!」
怪しげに大声で笑いながら後ろから追いかけてくるサムールに、ルロはショックで暗い表情を浮かべて立ち止まった。
「そっか、そうだよね・・・うん」
他の吸血鬼からしたら僕は邪魔だよね。
突然やってきて結婚して幸せになって。
ずっと一緒にいたのに、突然それを簡単に壊されて離れて元には戻れない。
それがサムールちゃんなんだね。
「はあっ、ふー」
こんなに憎まれたり恨まれたりされたことは何年ぶりだろう。
僕は貴族の中でも結構上の方だった。
勉学も運動も全て完璧にこなさなければお父様に怒られて物を投げられて傷が増える・・・。
今もその時かもしれないね。
でも、僕にも譲れない物があるんだよ。
サムールが後ろから全力で走って追いつかれたルロは握られているソリーの手をそっと離して、ソリーを少し雑になってしまうが肩を押して草の中に隠す。
「ごめんね、ソリー。僕、君といつまでも一緒にいるために僕が何とかする。何とかして、それで、生き残れたら、また僕と契約を結んでくれるかな?」
表情が全く見えず、ルロが何をしようとしているのか分からないソリーは瞳を揺らしながら恐る恐る手を伸ばして答える。
「あんた、今そんなこと言わないで。そんなこと言った生き物はみんなこの世界から消える。形もなくね!」
ルロと離れるのが心の底から怖いソリーは伸ばした手をドンっとルロの背中を叩こうとした時。
「こんな時でも油断するとはやはり人間は甘いですね、本当に!」
サムールが思い切り斧《おの》をグルグルと回して投げた先にはちょうどルロの足が。
「ダメ!」
足に落ちる直前、ソリーがルロの服の襟を掴んで後ろに引いて代わりに前に立ち、斧《おの》を掴んだ。
「私はもうあんたのことなんてどうでもいい。存在自体がいらないのよ!」
そう言って、ソリーは本気で正しい道を歩むためにルロと幸せになるために。
血まみれになった両手で斧《おの》を空に上げてお返しにサムールの左腕をバシッと横に切った。
「ああああああああああああああっ! 痛い、痛い、なんてことをするんですか、ソリー!」
痛みに耐えきれずに静かな真夜中に無駄な叫び声を上げるサムール。
そんなどうでもいい姿に、ソリーは。
「私にはルロがいる。あんた一人がいなくてもどうでもいい。これはお父様に報告するわ」
「えっ」
「当然でしょ。王女の私の夫を傷つけようとしたのよ。これを見逃すはずがないでしょ、絶対に!」
心の底から本気でルロを傷つけようとしたことに腹が立ったソリーから力強い言葉を言われたサムールは心の底から悲しくて寂しくて身体が震える。
「は、そ、そそ、そんな、それだけはやめてください。私はただ、ソリー様のために、喜んでもらうためにしただ」
「はあ? 私のためって本気で言っているの?」
「そうですよ。私はいつだってソリー様のために行動していたんですよ。それを裏切られた私の気持ちを考えたことはありますか? ないですよね?」
自分の存在を消されることに強い抵抗感を抱くサムールは恐怖で涙が溢れてまた声を上げる。
「いやあああああああああああっ! やめてください、やめてください! 私はまだ消えたくありません、私の代わりなんて誰もいません。お願いします、王にだけは言わないでください。何でもしますから!」
これが人生の最後を迎える生き物の恐怖。
特にサムールはこのお城に仕えているうちの一人。
王やその家族のために必死に働くために作られた使い捨ての人形にすぎない。
感情など必要ない。
必要なのは仕事。
仕事だけをしてお金を稼いで赤いジュースを飲んで生きる。
自分に似合うを血を見つけるのは王族ですらも十年以上かけてやっと見つけられる貴重な物。
どんな性格でも人柄でも、自分に似合う血を見つけた吸血鬼は一番幸せ者。
何にも縛られずに自由を手に入れられる。
でも。
「私はあんたと違って力がある。あんたが一生超えられない力をね」
「ああああっ、いや、いや、いやああああああああっ!」
「あんたは私のせいで感情を持ってしまったのよね。悪いわね」
「ああっ、いや、いや、ああああああああっ」
「どんなに叫んでも誰も助けに来ないわ。来たとしても、先に助けるのは私たちよ。残念ね」
「・・・・・・」
ソリー、君はやっぱり僕のことが好きなんだよ。
前に本で読んだんだよ。
吸血鬼は恋を知らない、思うこともできない。
悲しい生き物だよ。
確かに吸血鬼は人間よりもはるかに強い。
強いけど、感情を持たない吸血鬼がほとんど。
ソリーが言ったようにサムールちゃんも最初は感情がなかった。
ただ働くために作られた人形。
でも、サムールちゃんはたまに見せるソリーの笑顔に惹かれて感情を持ってしまった。
そして僕がここに来たことで嫉妬や憎しみ、恨みという暗い感情も手に入れて僕を殺そうとした。
「僕は嫌われ者だね」
今までの自分を振り返り、サムールのことを考えて身体によく染みついた真っ黒な水を被ったルロ。
だから。
「ソリー、お父様に報告はしないでくれるかな?」
「え」
「は?」
突然ソリーが言ったことを否定はしないが、サムールを庇うルロ。
その理由は。
「ソリーもサムールちゃんのことを考えてみてよ。僕は考えて思った。このままお父様に報告しても何も面白くない。むしろ、この子を利用して適当なゴミを拾わせる。それでどうかな?」
ルロが言った
「ゴミ」
というのは人間のこと。
ルロは今日街に出かけて自分も人間なのにソリーを怪しい目で見た人間を心の底から気に入らなくて、自分も人間だと思われたくなくて。
こんなにひどいことを提案してしまったのだ。
「ははっ、利用できる物は何でも使わないとまた僕たちは他人になる。そんなの嫌だよ、僕はね」
全く似合わない怪しげに本気で笑ってそう言ったルロ。
その姿を見たソリーはあまり見たことがないルロを少しだけ怖くなって目を逸らした。
「・・・あっ」
ルロが私だけを考えてくれているのは正直嬉しい。
嬉しいけど、言い方や態度が変わればそれが嘘みたいに怖くなって怯えてしまう。
私と出会った時も同じように笑っていた、笑って吸血鬼の私を妻にした。
何度考えても恐ろしい。
血の繋がった父親を殺して私を選んだルロ・・・。
でも、私はそこに惹かれた。
どんな私でもルロだけは喜んで笑顔で受け入れてくれる。
お兄様たちと違ってルロは優しい、笑いかけてくれる。
そう考えたら、今ルロが言ったことは正しい。
私もルロのことだけを考えて生きていきたい。
だから。
「そうね、あんたがそうするなら私も手伝うわ。私たちは夫婦なんだから」
同じように怪しげに美しく満月のように笑い、同じ吸血鬼のサムールに心までもを苦しめるように血みたいな真っ赤な瞳で身体中を震えさせるソリー。
その可愛らしい姿に、ルロは心の底から嬉しそうに笑って頷いた。
「そうだよ! それでこそ僕たちだよ。はっははは、嬉しいね、ソリーが僕と同じ気持ちになってくれて」
「当然よ。私たちは結婚した仲なんだから同じ考えを持つのは自然なことでしょ?」
「うんうん。じゃあ、何かいい物を持ってくるから、ここで待っててね」
「はあっ、さっさとしなさいよ、私もこの子も待つのは苦手なんだから」
「分かっているよ」
そう言って、ルロは今から自分が何をしようとしているのかを全く重く考えずにスキップをしながら庭を通り抜けてある人物が目に止まって立ち止まった。
「ん? あの子は」
見たことがない、可愛い。
歳はまだ十代後半? くらいでとても吸血鬼には見えない。
むしろ、僕と同じ・・・そうだよ、あれは人間で間違いない。
だって、瞳の色が真っ赤じゃない。
「もしかして、あの子も吸血鬼と契約をしているのかな?」
その可能性は十分高い。
ちょっと近づいてみよう。
ゆっくり慎重に音を立てずに歩いて行くと。
「あの男、吸血鬼だね。でも、様子がおかしい。どうして、門の前に女の子がいるの? 逃げたいの?」
そう、このお城にいる人間は合わせて三人。
そのうちの一人は次男のスラともう一度契約を結ぼうとして失敗した十五歳の少女アム。
ルロはアムの姿を見て一瞬で違う意味で好きになり、満面の笑みでどんどん歩いて声をかける。
「やあ、君も人間だよね。僕と仲良くしようよ」
出会ってしまってはいけない二人、いや。
「あなたたちも人間なの?」
三人が揃ってしまった事実は真っ黒な闇で希望を全て失う・・・。
「シセル兄さん、なぜここにいる!」
力強く激しく憎しみが詰まった荒い口調。
セスはシセルを心の底から嫌い、嫌って当然だという。
しかし。
「ははははははっ! 別にいいだろ、俺は第一王子だぞ、お前のような邪魔者はさっさと消えろ」
血の繋がりのある弟に
「消えろ」
という信じられない言葉を面白おかしく笑い、堂々と腕を組んで言ったシセル。
本当に、性格の悪さというのはこのことだろう。
でも。
「僕は消えない。お前が消えて、兄さん」
シセルの態度が気に食わずに真っ赤な瞳を怪しげに綺麗に輝かせて笑うセス。
その二人の様子をじっとセスの後ろで見ていたナイはシセルとの記憶を思い出している途中のようだ。
「んー」
シセル。
私、この吸血鬼とどこかで会った気がするのよね、どこかしら?
頭の中で過去の出来事を歯車のようにグルグルと回して思い出そうとした時。
「君、セスと契約を結んだ人間か?」
セスの怒りなど気にせず通り抜けてナイの目の前に立ったシセル。
その真っ赤な瞳と目が合った瞬間、ナイの体に異変が起き始めてしまう。
「あ、かあっ」
何よ、これ?
口から血が出てきているの?
そう、シセルはナイのお腹を力強く押して壁に突き放してその衝動で血が出てしまった。
「あ、かああ、くる、苦しい」
せっかくセスが褒めてくれたドレスが汚れてしまったわ。
嫌よ!
私、このまま死んでしまうの?
まだセスを好きになっていないのにこんなどうでもいいシセルに殺されて死んでしまうのではないかという強い不安と焦りが襲いかかったナイ。
こんな簡単なことで自分の人生が終わってしまうのではないかという不安もナイの心を乱して瞳が激しく揺れ動いて。
「ダメよ」
「は?」
「私が死ぬのはセスに殺される時よ。あなたなんかに殺されるなんて絶対に許さないわ!」
ナイは自分の人生の終わりは全てセスに任せると言った。
それは信頼しているのか、それとも他の何かなのか。
理由は一体。
「私はセスを好きになる希望を持ったの。他人のあなたに私の希望を汚させないわ。あなたが今すぐここで消えなさい!」
もうすでに言いたいことを言うだけ言って後悔などせずに堂々と真剣な眼差しで三十歳の大人らしくシセルに立ち向かうナイ。
すると。
「君、もしかしてナイーアか?」
「あっ、そんな・・・」
突然知らない名前を言ったシセル。
セスは何が起きているのかが状況理解ができずに固まって、ナイは動揺してやっと何かを思い出したようだ。
嘘だわ。
だって、その名前は私の本名。
もしかしてこの吸血鬼はあの時私を助けてくれた命の恩人?
確かにそれはあり得るわね。
あの時の私は十九歳。
二度目に働いていたパン屋によく私が作ったパンを買いにきてくれていた優しい男。
『すいません、このパンは彼女が作った物ですか?』
ガラス越しに見える厨房でパンを作り毎日残業しながら働いているナイーアを毎日閉店間近にやってきて慌てて買いにきてくれていたシセル。
姿は真っ黒なローブで隠して顔はメガネをかけて頼りないただ優しい人間にも見えていた。
シセルがナイーアという名前を知ったのは店長にこう言ったからだった。
『あの、彼女の名前を教えてくれませんか? 僕、恋人で彼女の名前を全く知らなくて中々教えてくれなくて』
全くの嘘をついたシセル。
それを店長はイケメンの頼みならとナイの本名「ナイーア」を教えてしまったのだ。
「ナイーア、まさかここで再会できるとは思っていなかった」
「・・・そうね。でも、私はあなたと話したことは一度もないけど」
「はははっ、確かにそうだ。でも、俺はあの時から君が気になっていたんだ。あんなに真面目に一生懸命に働いているのはあまり見たことがなかったからな」
「いつも閉店間近に来ていたのは吸血鬼だったからなのね」
「そうだ。店が閉まるのは十八時。俺はすぐに起きて走って店に通って君が作ったパンを食べていた」
「それは嬉しいけど、どうしてさっき私を殴ったのよ? おかしいわよね」
「・・・君がセスと契約を結んだことが憎かったからだ」
嫉妬深い吸血鬼の一人シセルは実はナイにだいぶ昔から興味があったようで何度もこっそりナイが働いていたレストランにパン屋、お菓子屋に来ていたようだ。
「俺、僕は君をずっと見ていた。そして、結婚したいという強い希望を抱いていた」
「シセル」
「だから、その希望を壊したセスが、君が許せなくて君に当たった」
「・・・・・・」
シセルは私と結婚したいという希望を持っていたのね。
けど、私はそうは思っていないわ。
というか、まだお腹が痛くて自分では立てそうにないわ。
予想以上にシセルの力が強すぎてナイは立ち上がることも向かい合うこともできずに悔しがって涙を流す。
「は、うううっ、は」
悔しい。
私が好きならどうしてこんなひどいことをするのよ?
私もう三十歳だから体力も若い頃と比べれば半分はなくなっているわ。
「はあっ」
見た目は私と同じくらいなのに、やっぱり女の私は男のシセルには勝てそうにないわね。
それに、セスは。
「・・・・・・」
初めて知った。
ナイの名前がナイーアだなんて、全然教えてくれなかった。
ていうか、契約書にサインした時にはその名前じゃなかった。
嘘をついた。
僕に遠慮していたとかそういうことじゃないはず。
何か別の理由がある。
うん、なら納得できる。
「あははっ」
ナイの本名を知れたことだし、僕はナイに信頼されていることと変わりない。
じゃあ、安心してシセル兄さんには消えてもらおう。
「僕たちの契約を邪魔する吸血鬼はみんな殺す」
そう言って、セスはシセルの両手を握って骨が折れるまで後ろに伸ばして伸ばしてどんどん血が床に流れていく。
「ああああああっ、セス、お前、何を」
「あはははっ、別にいいでしょ。兄さんが一番悪い。僕だけじゃなくて兄さんの物も妹の物にも傷をつける。そんなの許されるはずがないよ」
兄さんのせいでみんな傷つくんだよ。
兄さんがいるからみんな泣くんだよ。
何で分からない?
「少しは他の者の気持ちを考える努力をしてよ! 兄さんは本当に頭が悪い、自分勝手でわがままな吸血鬼!」
言いたいことを好きなだけ言ってセスがシセルを床に押し付けて足で蹴ろうとした時。
「セス、やめなさい」
もう見ていられないと思ったナイが大粒の涙を流しながらセスの手を握って動きが止まった。
「お前、シセル兄さんがお前に何をしたのか忘れたのか?」
「忘れていないわ。忘れていないからやめて欲しいのよ」
「それは理由にはなっていない。もっとちゃんとした理由を言ってくれたらお前の言うとおりにしても構わな」
「じゃあ、私があなたを消してあげるわ」
「は? お前、自分が何を言っているのか分かっている? 僕たちは契約を結んだ、一生離れることのない契約をな!」
契約を結んでから二人は一瞬でも離れずに行動している。
食事もお風呂も寝るのも全て一緒。
いつどこでナイが襲われるか分からない恐怖をセスは心の底から恐れてそれをされないように自ら希望してやっている。
それはナイも理解している。
理解した上で、好きになりたいという希望を持って笑顔でセスのそばにいる。
しかし、今のナイはどこか何かに惑わされて本音を隠して似合わない苦笑いを見せている。
「ふ、ふふっ、私はシセルを許して欲しいと思っているわ。たとえあなたに嫌われても、私が言っていることは信じて欲しい」
シセルには色々と聞きたいことがあるの。
本当に私と結婚したいと思っているのか、私をどうするのか。
シセルには色々と気になることが多いわ。
この世界の第一王子で四兄妹の長男。
セスの態度からするとシセルは過去に下の三人に何かひどいことをしたのは確かね。
こんなに乱暴で自分勝手でわがまま。
最悪な組み合わせしか持っていない最低な男に暗い感情を持つのは仕方のないこと。
ナイがシセルに深い興味を持っているのは単なる運命なのだろうか?
それとも、セスを捨ててアムと同じようにシセルを選ぶのか?
アムもそうだが、なぜここに来た女はみんなシセルに魅了されてしまうのか、シセルのどこがいいのか?
全く分からない。
人間が思う理想のタイプというものは案外思っていたよりも単純で簡単で魂の少ない人形みたいに弱い生き物。
吸血鬼が人間を襲う理由もこうなってくると分かってしまう、理解してしまう。
しかし。
「僕は許さない! こんなクズ、誰も許したりしない!」
セスの怒りは真っ赤に燃える炎のように爆発して煙が出て焦げ臭い・・・というような想像がついてしまう怖さ十倍。
「兄さんが僕たちにしたことは絶対に許さない! 何で兄さんを庇う、何で僕から離れる?」
「セス、落ち着い」
「嫌だな! こんな時に落ち着いてどうする、僕がこうなったのは全部お前が悪い!」
次はシセルだけでなく契約者のナイを責めてドレスの裾をちぎれるくらいに握りしめるセス。
その行動に、ナイはパシッとセスの頬を叩いた!
「いい加減にしなさい! どうして私のことを信じないのよ、どうしてそんなに一人で抱え込もうとするのよ?」
とうとうナイも腹を立ててまだ日もそんなに立っていない、好きになりたいという希望を持つセスに怒りを見せた。
「・・・・・・」
こいつも、怒る時があるのか。
僕は別にこいつを怒らせるために怒ったわけじゃない。
ただ、僕は、憎いシセル兄さんにこいつを奪われたくなくてつい怒ってしまった。
こいつは、ナイは、僕の一番大切な宝物だ。
誰にも渡さないって怒るのはダメなのか?
セスはナイの笑顔にいつも心惹かれて目が離せない。
これが「好き」という気持ちに繋がるなら、こんなに無駄な怒りを感じずに済んだはずなのに。
まだまだ子供という証がセスには深く錆びた鉄のようにこびりついて離れない。
「僕はお前が大切なんだ。大切で、誰にも渡したくなくて、それから」
「ははははっ! セス、結局お前は子供だ。何も変わっていないな」
折れた腕からは血が流れて足だけで起き上がることなんて不可能なのに、無理なのに。
この男はどんな手段でも気に入った物は絶対に逃さない。
逃して後悔したら物に当たる。
そのせいで傷ついた三人の気持ちなど無視して自分の物にしようとひどいことを何度でも繰り返す恐怖の生き物。
こんな生き物がこの世界に存在していいのか、天はどう感じているのか。
適当に作っておいてあとはどうでもいい。
なんていうのもひどいことに含まれるだろう。
全てを作った者にしか全てを分かる資格はない。
それを利用して抵抗するのも天に暮らす者の導。
なのに。
「セス、ナイーアを渡してくれるならお前にはもう一生何もしないと約束してやる」
「・・・は?」
「どうだ? お前にとっては最高な条件だろ?」
「・・・・・・」
「はっ、何も言う気力もないようだな。所詮その程度の吸血鬼だ」
「何度言えば分かる? お前に渡す物はこの世界には何一つも存在しない。そうだな、唯一渡せる物ならゴミ、くらいだな」
どんな状況でも兄に抗う三男のセス。
この世界で一番嫌われている吸血鬼のシセルを弟のセスがどうしようが別に他人からしたらどうでもいいこと。
どうでも良くて、すぐに忘れるほど、ゴミみたいにボロボロに消えていく。
シセルもそれは分かっているはず。
「お前、兄の俺にゴミと言ったな?」
「ああ、言ったさ」
「くっ、調子に乗るのもいい加減にしろ。最後はお前もゴミになるんだ」
「ならない。兄さんと同じじゃないんだ、僕は」
「同じだろ、血が繋がっているからな」
「はっ!」
今、何て言った?
兄さんからその言葉は一生聞きたくなかった、その事実を受け入れたくなかった。
本当に、兄さんは。
「消える価値が高いな」
そう言って、セスはこっそり柱に隠れていたサロールに瞬きを二回し、サロールが左手を上げた一瞬でシセルの身体がプシューと空気が抜けるような音と共に姿を消した。
それを見たセスは心の底から嬉しそうに喜んで満面の笑みをサロールに見せる。
「助かったよ、サロール」
「いえ、私はセス様の言うとおりに動いただけです。褒められるようなことはしておりません」
何を見ても全く動じずに平然と執事らしく常に姿勢を整えるサロールは特に笑顔を見せることはない。
そんなことを知っているセスは目を逸らして夜空を見上げる。
「別に、褒めてはいない。ただ計画が成功したことに喜んでいるだけだ」
「はい、そうですね」
「じゃあ、食事を作り直してくれるか? きっと冷めているだろうからな」
兄さんのせいでナイのお腹は僕が想像している以上に空いているだろうからな。
「早くして、こいつが死んだら僕も死んでしまうからな」
「はい、かしこまりました」
セス様は結局自分のために行動されている。
それがいいのです。
吸血鬼が人間を優先するなどあってはならないことです。
セス様はシセル様を強く憎んでいた。
ご自分が大切にされていた数々の宝物を壊し奪われた憎しみを抱くのは当然と言えるでしょう。
私は執事として、何があってもセス様のおそばにおります。
サロールはセスを尊敬し愛情を注いできた。
何十年も歳が離れていようと、サロールはセスを一番大切に尽くして離れようとしなかった。
だが、ナイがお城に来てから少し態度が変わった。
「セス、今日のご飯は何にするのかしら?」
食べることが大好きなナイの楽しそうな笑顔がサロールには気に入らない。
自分が一番セスのそばにいたのに、突然やってきた三十歳のおばさんのナイを受け入れることができないサロール。
まだまだ幼い子供のセスとおばさんのナイが釣り合うはずがない、上手くいかない。
だから、サロールはセスに対しては何も変わらず優しく丁寧に語りかけ、ナイにはちょっと冷たく適当。
今まで大切にしていたセスを糸がブスッと途切れるみたいに簡単に奪い取って自分の物にする。
それをサロールは許せないのだ。
なぜ人間がこのお城に来る必要があるのか、なぜ自分の元には来てくれないのか。
色々な感情がゴチャゴチャにまだまだ塊が残っている生クリームみたいに甘くはならずに柔らかくもない。
一体、どうすればみんな幸せな未来が待ち受けてくれるのか。
どんなに悩んでも分からないことはそのまま分からずに頭を抱えて顔を上げたらそこには自分そっくりの人形が一生戻ることのない危険な道に誘おうとしてその手を握ってしまう。
きっとサロールもそうなのだろう。
今は自分だけで考えられるが、それが他の吸血鬼に迷惑をかけてしまえば大事故に発展してしまうのも事実。
「私はセス様が生きてくださる今を大切にするしか方法はありませんね」
そう、それがいい。
未来よりも今を大切にする。
それが一番良い方法で間違いない。
やはり生きてきた歳月が大きく差があるほど、どんなに悩んだとしても最後には冷静に大人らしく適切な判断を探し見つける。
「ふ」
さっさと料理人に作り直してもらいましょう。
ナイのためではなくセスのために静かにゆっくり歩いて厨房へ向かって行くサロールの姿に、セスは不思議に首を傾げた。
「ん? 何だ、少し違和感がある」
サロールはいつだって僕を優先してくれる。
それが普通だと今でも僕はそう思っている。
そう思う方が正しいからな。
でも、今はそんなことよりも。
「ナイ、お前、薔薇以外に何が欲しい?」
「えっ」
欲しい物・・・別に特にはないわ。
私はセスのそばにいられる、それだけで十分、と言ったら引かれてしまうからやめておきましょう。
大人らしく振る舞いたいのに、セスは言いたいことをちゃんと素直に言えることもすごいことだとナイを見ていたらそう思うのも普通であるはず・・・実際のところはナイにしか分からない。
他人が勝手に口出すことは良くない。
他人に振り回されて後悔するよりも思っていることをちゃんと相手に分かりやすくはっきりと伝えることで関係も良くなることだっていくつかある。
相手には相手の意見が自分には自分の大切な気持ちをお互いが受け入れてくれるだけで少しでも二人の関係は良い方へと傾く。
逆に受け入れられなかったら、その時に考えればいい。
事前に考えても正直意味などない。
言ってから、その立場になったらその時に考えて良い判断を見つける。
大体がそうなっているのだから深く考える必要はない。
むしろ、その立場になった時を楽しめばいい。
楽しんで面白おかしく笑って受け流す。
それもありだと思うだろう、大体の生き物は。
「ほら言えよ」
「ん」
言えって言われても本当に欲しい物が見つからない。
言ってくれたのはすごく嬉しいけど、タイミングがもうちょっと後だったら見つかったはずなのに・・・まあ、せっかくセスが言ってくれたんだから、とりえず何か言いましょう。
欲しい物がないなら正直に言ってもいいのに、ナイはセスの思いやりにどうしても応えたくて動揺しているのか、瞬きを何度も繰り返してどこか逃げているように見えるのは気のせいなのだろうか?
「はああっ」
気持ちを整理するために一旦深呼吸をし、ナイは満面の笑みをセスに見せてこう言った。
「じゃあ、セスをもらっていいかしら」
「・・・は?」
今、僕が欲しいって言った?
どういう理由でそうなった?
からかっている?
愛の告白みたいに恥ずかしく照れてしまう言葉を言われたセスは顔を真っ赤にしてめちゃくちゃ恥ずかしそうに胸がドキドキしてナイから目を逸らすことができない。
「かあああっ」
何だ、これは。
何度僕に告白すれば気が済む?
僕はそんなに甘くはない。
甘くないのに、こいつの言葉はケーキよりも二倍以上甘すぎて生クリームみたいに溶けてなくなってしまう気がしてある意味怖い。
恥ずかしさと怖さとが混ざり合ってナイの瞳に映るセスは両手で真っ赤になった顔を隠してめちゃくちゃ可愛く見えてしまう。
「ふふっ」
セスは本当に可愛い子ね。
あなたが私より年上でも、私はあなたを嫌いになったりしないわ。
それよりも、私はあなたよりも先に私があなたを必ず好きになる。
十年前から希望を持っていた吸血鬼との恋。
誰に反対されても私は必ずセスを選ぶわ。
大人だから多めに見てあげているのもいいけど、少しは子供っぽくわがままを言って私のことをもっと知って欲しい。
これは、おかしい、かしら?
思っていることを中々言えずに心の中で自分と会話をしているような感覚。
弟のムイがいた時はほとんどムイの言うとおりに行動していたナイ。
姉として、たった一人の家族として。
大切に傷つけることなく守り続けた・・・。
でも、今はもう守る必要はない。
今は守られる側にいるのだから。
「ふふっ、セス。私は必ずあなたを好きになって見せるわ」
「そう・・」
「だから、あなたは私を好きにならないで欲しい」
「は?」
「吸血鬼が人間を好きになる必要はないわ。ただあなたは私を、私だけを見て欲しいの。私の希望を叶えられるのはあなただけなんだから」
本気で言っているのは確かだ。
ナイは恋愛経験はほとんどない。
ずっと仕事で恋愛なんて考える余裕もなかった過去。
けれど、十年前、街の本屋で百年前に消えた吸血鬼の伝説の本を見つけて立ち読みして一瞬でこう思った。
『この世界で私の希望を叶えられるのは吸血鬼だけ。ふふっ、決まったわ。私の第一の希望は吸血鬼を好きになること。それを叶えられるまでは生きる!』
ただの伝説、過去の話を自分の思うままに「希望」と心美しく微笑んで心の中で決めてしまったナイ。
それから十年経ってようやくその日が来てセスと契約を結んだ。
これ以上にない希望がどこにあるのだろうか?
ナイはそう明るく捉えても、セスはどう思っているのか?
「・・・はああああっ」
こいつは恥ずかしい言葉を笑顔で堂々と僕本人に伝えて全く、人間ていうのは予想外で意外と魅力がある。
僕がこいつに好かれているのは別に嫌じゃない。
嫌じゃないから困るんだ!
どんなに胸が苦しくなっても、ドキドキしても。
吸血鬼は「恋」を知らない。
知っていたらきっと百年前の事件は起こらなかった。
誰も傷つけることはなかった。
でも、三人は違う。
三人は吸血鬼を嫌ったりしない。
好きでも愛してもいる。
興味があって契約を結んでいる人間も二人? いた。
きっとナイもその二人に会ったら考え方も変わるだろう。
変わらなければおかしい。
人間には人間の事情が。
吸血鬼には吸血鬼の事情が。
お互いの意見が違えばケンカは起きる。
そして、仲良くなることはない。
人間が吸血鬼を許していたら、吸血鬼が人間の存在を認めてくれたら。
きっと仲良し計画はどこかであったはず。
でも、現実はそんなに甘くはない。
「・・・ナイ」
こいつが僕を好きになりたいっていう気持ちはとっくに知っている。
知っているからこそ、こいつは遠慮なく僕にアピールする。
告白して、恥ずかしくさせて、おかしくさせる。
本当に、ナイには一生敵わないな。
僕たち兄妹は吸血鬼。
それも王族の特別な生き物。
誰も反対しない、反対させない力を持っている。
だけど、それは今は関係ない。
今僕の目の前にいるのはナイだけだ。
ナイがいつまでも僕を見てくれている、好きになってくれる。
こんな出会いはもう二度と訪れない。
僕は正直誰でもいいって思っていた。
血がおいしければ誰でもいい。
誰でも良かったのに、こいつと出会って契約を結んで離れることを心の底から拒んでいる。
それくらい大切で手放したくなくて・・・。
「セス」
じっと床を見つめて何か重いことを考えてボッーっと疲れているように見えたナイがそっとセスの頬を撫で、それに気づいたセスはどこか寂しそうに嬉しそうに曖昧な笑みでナイに抱きついた。
「はあっ、お前はずるい、ずるすぎる!」
「えっ、何のことかしら?」
私、何かセスの気に入らないこと言ったかしら?
全く理由が分からないナイがとりあえず落ち着かせようと頭を撫でてみる。
だが。
「撫でるな! これ以上僕をドキドキさせるな!」
本音で叫んだセスに、ナイはどんどん分からなくなって首を傾げて質問を変えてみる。
「セス、あなたが嫌な言葉は何かしら?」
「は?」
何を聞かれているのか全く理解できないセスも首を傾げて同じ姿勢を保っている。
「私が何かあなたの気に触るようなことを言ったならすぐに謝るわ」
「・・・いや、違う」
「違う、の?」
じゃあ、何がダメだったのかしら?
三十歳のおばさんが歳が離れているまだまだ若そうなセスの気持ちはまだまだ理解できていないようだ。
「セス、はっきり言って。あなたに嫌なことを言ったなら私が悪かったから、謝って欲しいなら遠慮なく言って。ちゃんと直すか」
「だから違うんだよ!」
「えっ」
「お前は何も悪いことは言っていない。ただ、恥ずかしいことを言って僕が照れているだけだ。僕はすぐに照れるからちょっとしたことでも顔が赤くなる、それだけなんだよ」
セスはナイに自分の気持ちを伝えるのに全く慣れていないようだ。
契約を結んで常に一緒にいても別にセスは何も遠慮はしていないが、少しだけナイに嫌われることが怖くて伝える勇気がまだまだ足りないようでもある。
「別に僕はお前が嫌いとかそういうことじゃない。お前は僕よりも大人で子供じゃなくて綺麗で目が離せない。僕は多分、悔しいんだな。大人のお前が隣にいるのにいつまでもわがままを言ってお前の言うことをあまり聞いていないから、僕は僕にイライラしているんだな。うん、そう・・・」
王族なのに言葉遣いは全く正しくないが、セスは何も教わることなく今まで生きてきたおかげで言葉遣いも礼儀もあまり身に付いていない。
長男のシセルがあんなクズな性格であれば仕方のないことだとも思えてしまう。
シセルが機嫌が悪い時はなるべく怯えないように堂々と負けずに文句を言い続けてシセルには絶対に負けないように強い態度をとってきた。
両親は全く四兄妹のことなど気にせず今はどこにいるのかも分からない。
自分たちの一番大切な場所を捨てて幼い四兄妹を見捨てて遠くへ逃げて行った。
なんて最低なのだろう、なんてこの世界はひどく悲しい世界になってしまったのだろう。
一体この世界を作った天で暮らす者たちは何も思わないのか、感じないのか。
人間と吸血鬼がお互いを認め合って仲良く生きられる世界を誰も考えたことはない。
過去も今も未来も、それは叶うことはないのだろうか?
恋を知らない吸血鬼、それに触れようとしない人間。
だが、それを変えられる人間はこの世界に三人存在する。
それは。
「君も人間だよね?」
「うん、そうです」
「じゃあ、僕と仲良くしてくれるかな?」
「・・・どうして」
「えっ、だって、君も僕と同じ人間だから仲良くしたいと思うのは当然だよ」
「・・・そう、ですね」
「うん、ねえ、君の名前は何かな? 僕はルロ、二十一歳だよ」
「・・・アミナム、アムです。そう呼んでください」
二人の人間の声を聞いてしまったナイ。
「ごめんなさい、セス。私、少し行ってくるわ」
「はあ? まだ話を終わっていないよ。僕はまだお前と、ナイと離れるなんてそんなの嫌だ」
「ごめんなさい。少しだけだから、ここで待ってて」
そう言って、ナイは好きになるはずのセスから離れてドレスを着ていても気にせず全力で走ってアムとルロを見つけてしまった。
「あなたたちも人間、なのね」
「はい」
「そうだよ」
このお城で暮らす人間の三人が出会ったこの瞬間、ナイはあることを提案した。
「私たちで人間を滅ぼし、吸血鬼を救いましょう」


「どういう、ことなの?」
私の他に人間がいたなんて・・・それも男。
こんなこと、信じられない。
もっと早く知っていればきっと私は今までの無駄なことはしなかったはず。
「もっと早く」
アムはこのお城で暮らす人間は自分だけだと思っていた。
いや、そうだと思うしかなかった。
このお城は真っ黒で灯りが少なくて血の匂いがする。
こんな場所で人間が暮らすのは当然無理がある。
綺麗好きの人間がただ人間の血を欲するまま生きている吸血鬼と暮らしたいと思う人間がどこに存在する?
それくらい危険で最悪で汚れている。
でも、アムの他に人間がいたという事実をここで知ってしまえばアムが考えている夢は大きく変わる。
ルロという男がなぜ笑顔でここにいるのか、なぜそんなにも幸せそうに指輪を見つめているのか。
アムの考えは全てこの男によって壊されていく。
「・・・・・・」
この男、歳は私よりも年上なのは分かる。
背が高くて体は少し細いけど、十五歳の私と違って大人の余裕を見せつけられる美しい微笑み。
もっと早くこの男と出会っていたら私がスラと契約を結んでいたら、何か大きな変化があったかもしれない。
スラと契約を結んで結婚して家族が増えて幸せになるか。
それともこのお城から出て行ってあのパン屋で働いて孤独になるか。
ううん、それはきっとない。
私はもうここから出て行っても何も意味なんてない。
あるのは孤独だけ。
アムはもうこのお城から出て行くことをルロと出会った瞬間に諦めた。
十五歳の自分に今できることをルロから探るためであった。
「あの、ルロさんも吸血鬼と契約を結んでいるんですか?」
同じ人間でも年上のルロに対してあのパン屋の店長以上に緊張と焦りで瞳が激しく揺れているアムに、ルロは。
「ははっ、いいね。いいこと聞いてくれるね!」
さらに幸せそうに左手を大きく空に上げて満面の笑みで喜んだルロ。
「あっ、はは」
ルロの幸せアピールが悔しくて苦笑いを浮かべるアム。
こんな調子で二人は一体お互いをどう感じるのか?
「ルロ、さん」
「呼び捨てでいいよ」
「えっ、でも」
「いいんだよ。僕、『さん』とか『様』って嫌いなんだよね」
「あっ、分かりました。ルロ」
「うん! それでいいんだよ、今からよろしくね!」
親しみを込めてというのか、ルロはアムに対してとても優しすぎて怪しいほどに明るすぎて無理やり握手をされて苦笑いで嫌な気持ちを抑えるアム。
「あ、ははっ、はい、こちらこそ、よろしくお願いします」
めちゃくちゃ悔しくてその笑顔を見たくない。
はあっ。
人間が吸血鬼と契約を結び結婚して幸せになる。
吸血鬼と契約を結んだ人間はその命が尽きるまで契約を結んだ吸血鬼に自分の血を与えなければいけない。
そうやって吸血鬼は自分に似合う人間の血を吸い生き延びる。
何年も何百年も。
同じことを繰り返して終わりを目指さない。
何があってもどんなことが起きても絶対に生きて全てを支配する。
吸血鬼という生き物は人間の想像を遥かに超える最強で一番関わりたくない存在。
「ふっ」
アムとルロ、出会ってはいけない二人の会話にじっとアムの後ろから黙って怪しげに笑っていたスラがそっとアムを抱きしめてルロにこう言った。
「お前には渡さない。人間が俺たち吸血鬼に勝てると思うな」
血みたいに真っ赤な瞳は吸血鬼の証を示す。
その瞳から睨まれたら人間は恐怖を感じて少しずつ後ろに一歩一歩下がって逃げて行く、はずが。
「はははははっ、本当に面白い吸血鬼ですね! さすがです、お兄様」
吸血鬼のスラから睨まれて怖がるはずが、ルロは大声を上げて笑い、さらに「お兄様」と親しく丁寧に返した。
この反応を見たアムは違和感を感じずにはいられなかった。
なぜなら。
「どうして、笑っていられるの? 吸血鬼が怖くないの?」
そう、普通なら吸血鬼から睨まれたら怖がって怯えて逃げる。
ルロの今の反応は明らかにおかしすぎる。
いや、ルロにとってはこれが普通ならおかしいことではない。
「普通」というのは物によっては異なるため、どれが正しいとかは特に決まっていない。
ほとんど本人が決めることになるのも事実になってしまうから。
ルロの嫌な反応で抱きしめているアムの体が少しずつ震えていることでスラはさらにルロを睨みつけて深いため息を吐いた。
「はああっ、お前は本当に変な人間だ。妹の結婚は俺は許した覚えはないぞ」
「えっ?」
妹?
スラに妹がいるの?
そんなこと一回も言ってなかった。
分からなくなってきた。
このお城にいる吸血鬼って・・・。
アムはまだ何も知らない。
聞かされていない。
いや、もう今変わっている。
ルロの言うこと全てがアムの考えを壊し吸血鬼という生き物の本当の正体を解かしていく。
「いやですねー、お兄様。僕はソリーとちゃんと仲良くやっていますよ。お兄様が心配しなくても、僕はソリーの全てを受け止めています。もう無駄なことは考えないで、アムちゃんと結婚したらどうですか?」
スッと右手の人差し指でアムを指したルロ。
すると。
「あなたも人間なら、私の気持ち、分かってくれますよね?」
スラをからかうつもりが、まさかのアムが予想を遥かに超えすぎる真面目な質問を返されてしまったルロ。
けど。
「はっははははは! うんうん、そうだね。僕と君は同じ人間。僕にもちゃんと人間の心があるからアムちゃんの気持ちなんてとっくに分かってい」
「じゃあ私が今何を考えているか当ててください」
そう言ったアムの表情はルロに自分の気持ちをちゃんと分かってほしくて受け入れてほしくて涙を堪えて願っている。
その姿を見たルロはさすがに笑えなくて固まって一旦冷静になって下を向いた。
「・・・・・・」
たとえ同じ人間であっても、皆が皆同じ考えを持っているわけではない。
それは「絶対」だと言い切れるだろう。
皆性格も個性も異なっていて全く同じではない。
皆、自分の思うままに生きたいと夢見ている。
アムの「自由になる」という夢と同じように、きっとルロにも心の底から譲れない願いがある。
アムはそれを分かっていなかった。
ルロにだけでも分かってもらえると思うのも少し間違っている。
初めて出会った者に突然自分の考えていることを当ててもらえるはずがない。
あるわけがない。
だから、今のルロの反応はほとんど正しいと言えるだろう。
「・・・ごめんね」
突然謝ってアムから目を逸らして瞳を震わすルロに、アムは不思議に思って首を傾げる。
「えっ? どうして、謝るんですか?」
「ごめんね」
「は?」
「僕は君の考えていることは何も分からない。分かるはずがないよ、それが当然、だからね」
珍しく正直に呟きゆっくり頭を下げたルロを、アムは意味が分からなくてスラに抱きしめられている腕から離れて一歩前に出てルロの肩を軽く叩いた。
「・・・どうして、あなたは人間じゃないんですか? どうして私の考えていることが分からないんですか?」
おかしい。
ルロは人間なのに、私の考えていることが分からないなら人間じゃないかもしれない。
「は」
アムは段々と何がどうなっているのか状況を理解することが難しくなっていってしまった。
じっとアムが自分を見ているのに気づいたルロは冷静に落ち着いて真剣な眼差しでこう言った。
「ごめんね、僕は人間の心が分かる力は持っていないんだよね」
そう、この世界では魔法も術も人間には使えない。
それに、ルロは妻のソリーのことだけで頭がいっぱいで他人のアムのことは正直興味が薄いようだ。
「僕は僕と同じ人間の君がいたことが嬉しくて声をかけただけだよ。君が期待していることは僕には絶対にできない。それだけは分かってほしいかな」
二十一歳という少し大人な言葉遣いと人間の力の弱さを知った大人の美しい微笑みを見せるルロ。
その心の中は一体どうなっているのか。
アムの瞳に映るルロの姿は少し違うように見えてしまった。
「・・・・・・」
ルロが私よりも大人なのはよく分かった。
子供だったらこんなに美しく微笑んで余裕なんて見せない。
「はあああっ」
私がバカだった。
私の他に人間がいたことが嬉しくて、私の夢が少し近づいた気がして嬉しかった。
でも、私の夢はルロのせいで壊れた。
他に人間がいたなら、このお城から出られる方法を知っているはず。
私と同じようにここから出て行きたいはずだと思っていた。
けど。
「あなたはどうしてそんなにも幸せなの? このお城で幸せに暮らして何が楽しいの?」
ついに出てしまった本音と腹立ち。
「吸血鬼と結婚しても何も意味なんてない。あるのは絶望だけ。どうして、それが分からないの?」
その言葉を聞いたルロは自分の幸せを否定された気がして胸が痛んでとっさにアムの右手を力強く握りしめてこう言った。
「僕の幸せは僕だけの物じゃない。ソリーが、妻がいるから全てが成り立っているんだよ。だから、僕たちの幸せを否定する者は同じ人間であっても許さない」
本気で本心で、ルロはソリーとの二人だけの幸せを否定されることが心の底から腹が立ち傷つき、相手がどんなに大きくても小さくても関係ない。
自分の幸せを否定されて傷つかない者はどこにも存在しないだろう。
特に、ルロの場合は。
「はあっ、少し言いすぎたね。今日はこのくらいにしてあげるよ、そろそろ戻らないとソリーに怒られてしまうからね」
そう言って、ルロはスッと握りしめていたアムの手を離してさっきとは全く違って満面の笑みで愛するソリーの元へと帰って行った。
アムはその後ろ姿を見てようやくルロを傷つけていたことに気づいてひどいことを言ってしまったことに後悔して怖くなって、足に力が抜けて横に倒れた!
「はっ、はあっ、わ、私」
他人でも、ルロの幸せは否定したらダメ。
私とルロは同じ人間。
同じ生き物。
結婚した相手が人間でも吸血鬼でも関係ない。
ルロにはルロの幸せがある。
「私、最低だ・・・」
言ってしまった言葉はもう二度と取り消せない。
それが相手に伝わってしまったら全てが壊れる。
関係も、立場も、何もかもが。
でも。
「君は悪くない。悪いのはあいつだ、勝手に俺たちのところに来て、勝手に怒って帰って。はっ、あいつの方が最低だ」
ルロをよく知っているスラは落ち着いていて、悔しくてもそれをわざわざ本人にはぶつけない憧れと言える存在・・・に誰もが見えて瞳をキラキラと輝かせて納得する?
「さっきあいつに言われてしまったな。君と結婚したらいいってな」
そう、スラはアムの本名「アミナム」を知ってアムの過去を受け入れる勇気がなくて契約を結ぶことを拒み、扉を開けようとしたアムをからかっていた。
でも、ルロが現れたことで何か考えを変えたようだ。
「アム、君と契約を結んで結婚したら俺はどうなるか分からない。君を知って俺は変わり、何が正しいのかを忘れるかもしれない。それでもいいなら俺と」
「そんなのどうでもいい!」
スラが少しずつプロポーズみたいな嬉しい言葉を分かりやすく伝えてくれていたのに、突然アムがさっきのルロの幸せを否定したようにその言葉を全て拒もうとなぜか涙を流しながら続けて話す。
「私はずっとスラと契約を結びいたいの! 他でもないあなたとずっと一緒にいたい、私だけを見ててほしい! 私のことなんてこれ以上知らなくていい、スラが変わっても私はスラのそばにいる。お願い、もう私を見捨てないで!」
泣いて叫んで足に力が入らなくても精一杯手を伸ばしてスラを抱きしめるアム。
これは全て本当のこと。
アムはスラ以外の吸血鬼とは永遠に合うことはないだろう。
一度シセルと契約を結んだが、シセルの野生化にお気に入りのメイドサミールを傷つけられてもうスラ以外の吸血鬼を信用できなくなってしまったアム。
このお城にいる限り、誰を信用しようが関係ない。
アムはまだ十五歳で二十歳を過ぎていない。
まだまだ子供で考えも甘すぎる。
不安も焦りも迷いも常に頭の中で泥みたいにぐちゃぐちゃに混ざり込んで離れない。
そういう期間の途中で止まっているアム。
色々な物と出会って見て学んで触れて、何がどうするべきかをはっきりと見極めきれない。
けど。
「私は多分スラが好きなんだと思う」
「えっ」
「私にはスラしかいないの」
「あっ」
「お願い、スラ。私と幸せになって、お願いだから」
涙は止まって少しずつ顔を上げて唇と唇が重なる一瞬、スラが珍しく顔を真っ赤に染めて何かを期待するように目を閉じた。
「・・・ん」
こんなこと、今まで初めてだ。
俺は吸血鬼だ、血が欲しい。
アムは俺に一番似合う血を持っている。
一回目の契約は俺はアムの血を吸い続けた。
アムの体の心配などせずにただ俺は俺の欲のままに吸い続けてアムは一度俺のそばから離れて・・・正直、寂しかった。
「寂しい」という感情は俺にとって嫌なことだ。
俺たちはシセル兄さんのせいで皆距離を取ってもう何年も話していない。
全部、シセル兄さんのせいにしたかった。
だから、もう何も。
「分かった。もうこれで最後にする」
目を開いたスラは全てを捨てて新しく生まれ変わったような今まで見たことのない王族らしい気品と優雅な微笑みを見せている。
けど。
「最後? 何を言っているの?」
アムには何が「最後」なのかがよく分かっていない。
むしろ、不安が心の底から湧き出て心臓の音が耳の中でうるさく響いて気持ち悪い。
「うっ・・・どうして」
スラは一体何を最後にするの?
私とはもう二度と関わらない、二度と顔を見せるなっていう決意?
分からない。
早く教えて、その顔、私は見たくない。
スラの心が読めたなら、もっと早く抱きしめていたなら。
スラはその微笑みをせずに済んだのかもしれない。
いや、それは関係ない。
アムが思っている以上にスラは賢くて強くて何より・・・美しい。
「ふっ、もう俺は君と契約を結ぶのを今で最後にする。そして、君と幸せになる、永遠に」
そう言って、スラはアムと唇を重ねて優しく頭を撫でてあげる。
アムはそれがとても嬉しくて心臓の音が静かになって落ち着いて安心して満面の笑みになった。
「ふふっ」
なんだ、そういうことだったんだ。
今を最後に私はスラと契約を結んで結婚して永遠の幸せを手に入れられる。
「ふふふっ」
ルロには感謝しないと。
スラが私と契約を結ぶ気になったのは全てじゃないけど、ほとんどルロのおかげだと思う。
ルロも契約を結んで結婚して幸せみたいだから、私も同じような幸せをスラと見てみたい。
やっぱり私には。
「スラが必要。絶対に」
人間が自ら危険な生き物の代表と言える吸血鬼と契約を結び結婚して幸せになるという信じられないことをする。
こんなことがあっていいはずがないのに、アムは、ルロは、自分に似合う血を求めてくれるスラとソリーを心から好きになって愛する。
これがお城の外に情報が渡ってしまったら、吸血鬼だけのせいにはできないだろう。
それに関わったアムとルロにも責任がある。
もうこれ以上、足を進めてしまったらその先に待っているのは平穏ではなく絶望。
どんなに苦しいことがあっても、どんなに痛くても。
絶望への道が開かれた限り、後には戻れない。
でも。
「今から結婚式が楽しみだな」
「ふっ、うん。綺麗なドレスが着たい、スラが選んで」
心からお互いを好きになるなら、愛を分け合うなら。
誰に何を言われてもバカにされても、アムがスラを選んだことは正しく真剣であればアムの夢はほんの少しずつ叶えられる・・・そう信じていれば。
「じゃあ、式を挙げよう」



とうとうこの日が来てしまった。
結婚式、二人の幸せが始まる場所。
式場はお城の一番奥にある色鮮やかなガラスの窓が印象的な華やかで少し場所が違うような気もしてくる。
スラはいつもとは全く違う真っ白な服にアムも長袖の真っ白なドレスを着て結婚式に相応しい物をちゃんと着こなしている。
けど。
「私たち以外、誰もいない?」
そう、せっかく大切で結婚する幸せを見守ってほしいところなのに、二人以外に誰も来ていない。
本当に、空っぽで寂しい。
けど。
「まっ、こんなものだ。人間と吸血鬼の結婚式に来る者なんてどこにもいない。大丈夫だ、二人だけでも幸せになろう」
前向きというかこれが現実というのか。
スラは全く寂しそうに暗い顔なんて一つも見せずにどこか嬉しそうに笑っていてすごく幸せそう。
そんなスラの大人な姿を見て、アムもできるだけ明るく微笑んだ。
「ふふっ、そうだね。別に私たちの幸せなんて誰も見なくていい。私たちは私たちだけの幸せを見ればい」
「そんなこと言わないでよー、せっかく来てあげたのにー」
完全に適当すぎる棒読みで現れたのは。
「おい、お前を呼んだ覚えはないぞ」
スラがめちゃくちゃ敵視する人間、そう、ルロである。
だが、一人ではないそうで。
「ちょっとあんた、勝手に一人で行動しないで。何のために私がここにいるのか分かってるの?」
ルロの後ろから隠れるようにこっそり現れて文句を言いながらもアムとスラの目の前に立った瞬間で顔を見せたのは。
「ソリー、なんでお前が」
そう、ルロの妻、スラの妹のソリーである。
久しぶりに会ってしまったのか、スラは心の底から驚いて戸惑って目を逸らしてしまう姿を見たソリーがそっとスラの右手を握った。
「スラお兄様、久しぶりね。もう何十年会っていないかも忘れてしまったわね」
「・・・ああ、そう、だな」
「私とルロの結婚式には顔一つ見せに来なかったのに、自分の結婚式には私が顔を見せに来るなんて予想外でしょ?」
「・・・す、すまない」
「私はシセルお兄様が大大大嫌いだけど、スラお兄様だけは違うのよ。私は兄妹の中で一番信頼しているのはスラお兄様だけなの。それはちゃんと知ってほしかった、理解してもらいたかった。本当に、勝手な吸血鬼ね」
そう言ったソリーは傷ついているというより寂しくて大切にされたかった。
瞳は真っ赤でも、その中には願いがたくさん込められてキラキラと輝かせてスラに期待していた。
本当はもっと早く会いたかった気持ちを抑えて胸に閉じ込めて、スラに会いたいという願いを消しかけていた。
だから、今やっと会えたことで今まで抱えていた感情がどんどん溢れてついにスラの服の襟を力強く握りしめてこう言った。
「ルロの幸せを否定することは許さない。ルロの幸せは私の幸せでもあるの。それをスラお兄様には絶対に否定されたくない・・・兄なら、妹の私の気持ちをちゃんと分かって、お願いだから」
その言葉をスラの隣で聞いていたアムは心が揺さぶられて心臓の音が耳までうるさく響いて瞳も激しく揺れて、とにかくソリーと気が合うことだけは分かっていたようだ。
「あなたなら私の気持ち、分かってくれますよね?」
同じ言葉を話して同じ気持ちを抱えて何度も迷い置いて行かれる、アムはソリーの言葉に心の底から共感してとっさに肩を掴んで瞳をキラキラと輝かせる。
「ソリー、様。私、アミナム、アムです。仲良くなりたいです!」
サミールと仲良くなれた私なら、ソリー様とも仲良くなれるはず。
私の夢「自由になる」夢が叶うなら。
私はどんな吸血鬼とも仲良くしたい。
夫のスラは私と幸せになってくれるけど、それだけじゃ足りない。
もっと他の吸血鬼、シセル以外のスラの兄妹と仲良くなれたら私は絶対に。
「はあ? なんで私がこんな子供と仲良くならないといけないの?」
「えっ」
子供? 
私が?
突然言葉遣いが荒くなったソリー。
すると。
「ソリー、もう少し柔らかく答えてあげてよ。今の君は怖いよ、ね」
ルロにとってはいつものことらしいので全く気にせず優しく言い返らせようとする。
けど、ソリーは全く止めようとしない。
「私はあんたと仲良くしたくない。子供と仲良くするほど私はバカじゃない」
「・・・そんな」
「私はあんたと違って大人なの。それも何十年も年上なのに、こんな何も知らない子供と仲良くする私じゃない。私がここに来たのはスラお兄様に本気で似合うのかを確かめるためよ。ふっ、でも、予想通りだったわ。目つきも顔つきもまだまだ子供。何十年も年上のスラお兄様には絶対に似合わない。早く捨てるべきよ」
そう言って、ソリーがアムのドレスを両手で破って歯で食いちぎってボロボロにさせた。
その様子を見てしまったスラはとうとう腹が立って。
「おい! ソリー、お前、俺たちの幸せを汚しに来たなら自分の部屋に戻れ!」
スラは滅多にソリーを怒ったりしない。
傷つけもしない。
スラは誰よりもソリーを妹として優しく接して本当はソリーの結婚式は参加したかったのに、ルロという何も知らない人間の男が気に食わなくて参加するのをやめた。
でも、それは過去のことで今は違ったはずなのに・・・どうして。
「俺はもう嫌なんだ! 俺にはアムがいる、アムしかいない。アムだけが俺を分かってくれる、必要としてくれる。お前にルロがいるように、俺にはアムがいる。お前も人間と結婚した吸血鬼なら、当然俺の気持ちが分かるはずだろ!」
ソリーが知らない兄の気持ち。
こんなに本気で人間のアムの味方になる吸血鬼は少ない。
それも、格が高い吸血鬼は尚更頭の使い方が遥かに違いすぎて話にもならないほどに。
初めて怒られたソリーは驚きとショックで涙が溢れてしゃがみ込んで雑に両手で涙を拭っても拭いきれないほどに辛そう。
「う、ふっ、うううっ」
今日はアムとスラの結婚式なのに、こんなに予想外すぎる出来事があるのは仕方なくはないだろう。
まさかもう何十年も会っていない妹のソリーが来てしまったことでスラは溢れ出る気持ちを抑えきれずにそのままソリーにぶつけて初めて泣かせた。
「はっ、ああ」
俺は悪くない。
勝手にルロがソリーを連れて来たのが一番悪い。
この二人が来なかったら式は全て予定通り上手くいった。
そうだ、俺は、俺たちは何も悪いことはしていない。
それはアムも分かって・・・えっ。
スラは自分たちは悪くないと言おうしたが、隣で見たのは瞳が真っ白に染まって感情一つも失った人形の姿だった。
「アム?」
「・・・・・・」
「どう、したんだ?」
「・・・・・・」
「君、は、俺たちは何も悪いことはしてない。自信を持つんだ」
「・・・・・・」
何も声も出さず言葉なんて知らないような本当に空っぽになったアム。
スラの呼びかけに反応をするどころか、ただ破られたドレスを見つめて呼吸がどんどん小さくなって生きているのかも分からないほど、全てに絶望している。
「・・・・・・」
アムの絶望はとても大きすぎた。
やっとスラと結婚式を挙げられてドレスを着て幸せになれると思っていたのに・・・人生とは予想外のことだらけで計画も予定も全てが壊れる。
それが今のアムの姿でもある。
ただ一つのことに絶望はしても、誰かの力を借りればいつかは元通りになり、また始まりが生まれる。
その繰り返しから生まれる幸せもある。
どんなに転んでもどんなに失敗しても、必ず成功への道が開かれる。
何かを信じればいいとかそういうことではない。
信じるだけだったら誰にでもできる簡単なことだ。
でも、アムはもう何も信じられない、何を信じて夢を見ればいいのかを見失っている。
せっかく幸せになれるのに、スラが選んでくれたのに、アムはボロボロにされたドレスをじっと見つめたままで動くこともない。
こんな状態が何日も続いてしまったら、きっとどこかで夢を捨ててしまうだろう・・・。
それを分かるのはスラだけ。
「アム、お願いだ、何とか言ってくれ」
何度も呼びかけても無駄なことだ。
いや、何が無駄なのかも分からないほどにアムはどんどん人形化していき、そのうち目を開くこともないだろう。
それでも。
「君が俺に一番似合う血を持っているんだ! 君しかいない、君だけが俺を幸せに、永遠にそばにいてくれる大切な存在なんだ!」
これは心からの叫び、本心。
自分の中で閉じ込めても、相手に伝えれば全てが変わる。
今のスラがそうだ。
一度兄のシセルに取られてしまったが、アムがスラを選び今ここで幸せを誓おうとしている。
その事実だけでも、アムが絶望する理由が崩れるのも事実になる。
本気で誰かを好きになって愛し合って永遠にそばにいる。
「俺は君と最後まで一緒にいる。何があっても、絶対に君のそばから離れない。絶対にだ」
その言葉を聞いたアムがほんのちょっとずつ顔を上げる。
「・・・絶対に?」
スラ、が、私と、さい、最後まで、そ、そばに、いてくれる?
「本当、に?」
少しずつ瞳の色が元の水色に戻っていく。
「私も、スラと、最後まで、い、いい、一緒にいたい!」
そう言ったアムはギュッとスラを抱きしめておでこを頬にくっつける。
「ふふっ、今言ったことは絶対約束して。私はずっと覚えているから」
くっつけられたアムのおでこが柔らかくて心地良くて、スラは美しく微笑んで頷いた。
「ああ、俺も覚えておくぞ」
ボロボロなドレスでも、自分を好きになってくれた吸血鬼がいる幸せはどこにもない。
二人の中にある。
けど。
「はっははははは! へえー、君たち結構面白いね。うんうん、じゃあ、ここで終わりだよ。君たち、僕たち以上の幸せは絶対に手に入れさせない。君たちが僕たちの目の前で幸せになるのは、そんなこと、あっていいはずがないからね」
大声で笑ったルロが愛するソリーを傷つけられたことを心の底から二人を憎み、最悪な結婚式の本番が始まる。






「へえー、面白いね」
僕の他に、それも可愛くて綺麗な人間が二人いたなんて嬉しいね。
でも、何か・・・。
「普通すぎてつまらないね!」
見た目が良くても、中身がソリー以上に愛せれるならって。
「はあ、ダメだね。こんなこと考えたらソリーに怒られてしまうよ!」
一人悩んで失礼なことをサラッと大声で呟いたルロ。
これを見ていたアムとナイは。
「あなた、大人なんですよね? どうしてそんなことが言えるんですか?」
「そうよ。私たちの姿を見て勝手に残念に思うのは大人として恥ずかしくないのかしら?」
二人共腹が立って拳を握りしめて睨んでどんどんルロに近づいて服の襟をお互い力強く掴む。
でも、ルロは特に気にすることなく。
「一応謝っておくよ、ごめんね。ははっ、だけど、僕は君たちと違ってすごく幸せ者なんだよ。君たちがどうしてここにいるのかは少しは知りたいと思ったのに、僕を『大人』っていう決められた役をバカにされたら僕だってそれは許せない」
そう言って、ルロはスッと風のように二人から掴まれていた襟をパンパンと手を叩きながら避けてこう言った。
「無駄な願いは捨ててもっと大きな願いを持った方が君たちのためになる。絶対にね!」
ルロは自分が「大人」であることを分かっていても分かりたくもなさそうだ。
生まれも育ちも貴族。
それなりに気品高く仕上げられて苦しい生き方をしていつのまにか歳を取って「大人」になってしまった。
「ははっ」
別にこれでいい、これでいいんだよ。
だって、そうだよね?
僕と同じ人間がまさか二人、それも女の子がいてくれたなんて・・・本当はすごく嬉しい。
僕以外にも吸血鬼と契約を結んで幸せを感じてくれているって考えるとすごくドキドキして興奮がたまらなくてつい変な笑い方になってしまう。
だから。
「僕の幸せを分かってくれたら、またあの二人に会いに行ってもいいかもしれないね」
めちゃくちゃ上から物を言うルロ。
しかし、その余裕はいつまで持つのだろうか・・・。
「あっ、ソリー! お待たせ!」
大きく右手を上げて手を振りながらソリーとサムールの元に帰ってきたルロ、だが。
「ちょっとあんた! 一体何をしに行っていたのよ!」
何かいい物を持ってくると言っていたのに、ルロは何も持たずに満面の笑みを見せていることに心の底から腹を立てて怒るソリー。
その怒りは誰だってよーく分かるだろう。
そして。
「あははは、やっぱり使えない、人間は使えない! ソリー様、今からでも遅くありません、さっ、私をもう一度メイドとしてお使いください。あなたに一番似合うのはこの私、サムールだけですから!」
さっきまで王に報告されることに恐れて拒んで嫌がって叫びまくっていたのがパサっと枝が折れるかのように心変わりしたサムール。
けれど、ソリーはそんなどうでもいい、くだらないサムールの言葉を聞いてさらに怒りが限界を超えて真っ赤な瞳が薄暗く明かり灯したように本物の吸血鬼の恐ろしさをその瞳で深く味わせていく。
「あんた、本当にバカな子ね! 誰があんたをもう一度やり直させると思っているのよ!」
私とルロの幸せを邪魔したのに、それを無しにしてもう一度私の元で働くなんてそんな都合いい話、あるはずがないでしょ!
他人から自分の幸せを邪魔されて怒らない者など、どこに存在する?
特にルロとソリーの絆は誰にも邪魔させない強力すぎる物。
サムールは本当に何も分かっていない。
いや、分かっているかもしれない。
今まで何十年もソリーの元でメイドとして働いて一番近くでずっと見て学んでいたのに、ルロのせいで全てが壊れて全部台無しにされて。
勝手に契約を結んで結婚して幸せになって、その後もどこかで二人の空間が増えてしまうことをサムールは心の底から嫌がっていた。
主人がどんどん遠くに行っていつか手を伸ばしても一生届くことのない場所に辿り着いてしまう恐怖に包まれることもサムールは怖がっている。
だから!
「私はまだまだメイドとしてソリー様のお役に立てます! 私は、私は、最後までソリー様のおそばにいたいんです! 最初にソリー様を見た時、胸がドキドキしました。こんなに美しい吸血鬼は私は見たことがありませんでした。ソリー様の元で何十年も働いて私は嫌に感じたことは一度もありません! だって、こんなに美しい吸血鬼を毎日見られる喜びは他にありませんから!」
大丈夫。
ここまで私の本気を伝えられたんだから、ソリー様も心変わりしてもう一度私を選んでくれるはずよ。
私はいつでもソリー様を大切に想っている。
それがソリー様に伝わっていたらきっと。
心から期待して出会って時のような幼く可愛らしい瞳を見せるサムールに、ソリーは深いため息を吐いた後、目を合わせてこう言った。
「はあ、そうね。そこまで言われたら断れないわね」
何かを諦めたような雑な言い方にも聞こえてしまうが、サムールにとってはとても嬉しい言葉で涙を流し笑った。
「はい! 私、これからもソリー様の元で一生懸命働きます!」
ソリーの優しさはルロと同じようで少し違う。
誰かの力になりたい、役に立てたらそれでいい。
そんな都合良く自分の優しさに浸ってしまう者こそ、バカとなるだろう。
それでも。
「私はあんたと最後までいられる保証はないの。もちろん、私が先に消えてしまうかもしれないし、あんたが先に消えてしまうかもしれない。私たち吸血鬼はいつどこで消されるか分からない危険な生き物なの。私だって、何十年と過ごしたあんたを捨てたくない」
ほんの少しずつサムールの元に歩き出して手を差し伸べるソリーに、サムールは満面の笑みで頷いた。
「分かっています。ソリー様が消される前に、私がソリー様をお守りします。私はそのために生まれたんですから」
その言葉を聞いたソリーは美しく微笑んで頷いてサムールの両手を握った。
「そうね。あんたたちは私たち王族に仕え守るために作られた人形。良かった、ちゃんとそこは分かっていて」
「はい、私たちは王族の皆様のために存在しているんですから。基本はしっかり身につけているので、安心してください」
幼い頃からずっと仲が良かったソリーとサムール。
特にサムールの場合は主人のソリーを何十年もそばに居続けた大切な存在。
ルロとは違う大切で。
ソリーとサムールの仲直りを微笑ましく明るい笑顔で見ていたルロが二人を大きく両手を広げて抱きしめようとしたが、サムールがまだまだ力強く睨みながらスッと風のように避けられてしまった。
「何をするんですか? 気持ち悪いです」
さっきまでの満面の笑みとは全く違う吸血鬼の赤い瞳を黒く輝かせるサムールを、ルロは苦笑いを浮かべてどこかショックを受けている。
「あ、はははっ、ごめんね。僕も君と仲良くなりたいから、ちょっと触れてみようかと」
「気持ち悪いです。私はメイドです、ソリー様の夫だからって調子に乗らないでください。本当に気持ち悪い」
何度も「気持ち悪い」と真っ赤な瞳で見られてしまったルロは少しずつ一歩一歩後ろに下がって近くの木に隠れて自分が思っていた以上にショックで心が折れていく。
「えー、どうして・・・」
僕、何か間違ったこと言ったかな?
すごく仲直りのいい雰囲気に混ざりたかっただけなのに、それがダメだったのかな?
「うーん、女の子って、難しいね」
僕は一人っ子だったから・・・それに舞踏会とかでも一度も誰とも会話をしたことなんてなかった。
でも。
「ソリーがいるから僕は頑張れる。何にだってなって見せるよ。君が願うことなら僕は何も迷ったりしない」


三日後、ルロは一人で庭へ散歩に出る。
「わあー、昼の空は青くて夜と同じくらい綺麗だね。まあ、今はまだソリーが寝ているからあまり意味はないけどね」
人間の起床時間と吸血鬼の起床時間は全く違う。
今までルロはソリーに合わせて起きて行動してまた一緒に眠る。
それが何ヶ月も続いてしまえば生活習慣も当然人間としてはとても乱れる。
人間は朝に起き昼に働き夜は眠る。
それが人間の普通の習慣。
逆に吸血鬼は夜に起き夜に行動し朝に眠る。
ほとんど夜に行動するため、吸血鬼は昼の空を見たことはない。
見てしまったら一瞬で燃え尽きて消える。
そういう生き物。
だが、なぜ今日ルロが一人で昼に散歩に出たのか、それは。
「やあ、来てくれて嬉しいよ」
満面の笑みで軽く手を振るルロの前に現れたのは。
「何の用ですか? また失礼なことを言うなら帰ります」
「そうよ。あなた、見た限りボロボロで一人で寂しそうで笑ってしまうわ」
三日前に失礼なことを言われたお返しにサラッとひどいことを言ったアムとナイ。
でも、ルロは三日前と同じように全く気にせず鼻歌を歌い少しずつ二人の前に歩き出す。
「ねえ、君たちも吸血鬼と契約を結んでいるんだよね?」
その言葉を聞いたアムとナイは一瞬体がビクッと震えたが、平常心で首を横に振って否定した。
「いいえ、していません。あなたには関係ないことです」
「ええ、私たちが吸血鬼と契約を結んでいることをどうして他人のあなたに教えなければならないのかしら?」
やはり二人はまだ怒っている。
勝手に自分たちの見た目を否定して残念そうに帰って行ったことを怒らない生き物はどこにもいないだろう。
いてもほんの少しの数だけ。
アムとナイが誰と契約を結ぼうがルロには関係ないのも事実になってしまう。
だけど。
「僕は教えてあげるよ。僕はソリーっていうすごく可愛くて優しい女の子の吸血鬼と契約を結んで結婚して今とても幸せな人間。ははっ、これで分かったかな?」
悔しいほどに自慢するその満面の笑みがさらにアムとナイの怒りを爆発させる。
「そうですか。それは良かったですね!」
「ふっ、自分で自分を幸せと言うのは贅沢じゃないかしら。もっと違う言い方があったでしょ!」
さすがに大声で怒られてしまったルロはようやく自分の言い方が悪かったことに反省して少し頭を下げて正しく謝る。
「ごめんなさい。そうだよね、僕、君たちのこと、何も考えていなかった」
って、別にそんなに怒らなくてもいいのに・・・。
まあ、これが普通なら仕方ないね。
何が普通なのかをよく理解してないルロ。
だが、そんなことは今は当然関係なく。
「僕が知りたいのは君たちはどうしてここにいるのかな? 僕みたいに吸血鬼が好きとかそういうの?」
その「吸血鬼が好き」という言葉を聞いた二人は一瞬動揺し瞳を激しく震え立たせてルロから目を逸らし、後ろに下がってしまう。
「・・・どうして、そ、そそんな、こと、聞くんですか?」
吸血鬼のことをあまり知られたくないアム。
「わ、わわ私は、ただ吸血鬼に憧れていただけよ。そ、それの何が悪いのよ・・・」
ナイが言った「憧れ」という言葉を聞いてしまったルロは怪しげな微笑みでシュッとめちゃくちゃ早く走ってつい嬉しくてナイの両手を握った。
「ははははっ、嬉しい、嬉しいね! 良かった、僕の他に吸血鬼に興味があったなんて!」
こんなの奇跡みたいだよ。
ああ、僕、このお城に来て良かった・・・。
自分の選択は自分次第。
それが正しくても間違っても自分が選んだことは最後まで責任を持って行動する。
誰にも頼らず、自分の力だけでやり直せるならそれでも構わないだろう。
他人の力を借りて願いを叶えるよりも、自分の力で叶えるのも悪くはない。
それがどんな方法であっても、自分がそれを正しいと言えるのなら、その後のことは何も考えずに前を向き続ける。
後ろを振り向く隙は与えない。
そんなことをさせるなら捨てるのが一番。
夢も願いも、希望もきっと、そのために・・・。
「ははっ、こんなに笑うなんて思わなかったよ。こんなに嬉しいこともあるなんて、本当に、君たちは、人間は面白いね」
自分も人間なのに、別の生き物のように上から物を言うルロ。
本当に、他人の腹を立たせるのが上手な人間。
吸血鬼と結婚したことを一度も後悔せず、むしろ誰よりも幸せを感じるおかしな人間。
こんなことで笑えるのも本当にバカだと言えるだろう。
でも、そんなルロの姿にアムはあることを言い始める。
「私はスラっていう吸血鬼が気になっています。いや、好きです。好きだから苦しいんです。あなたならこの気持ち、痛いほど分かりますよね? そんなに吸血鬼と幸せになっているなら、あなたも何かに痛いほど苦しい気持ちになったことが絶対にあるはずですよね?」
どんどん近づいてまだまだ動揺しているのか、アムは震える両手でルロの手を握って真剣な眼差しを向ける。
だけど。
「うん、そうだね。君の言うとおりだよ」
静かな声で頷いたルロ。
本気で真剣で真っ直ぐで嘘はない一番正しい姿。
ここまでルロが本気なのは珍しい。
同じ人間でも上から物を言えるバカがただ一人のために本気になれるのは「愛」という絆のせいだろう・・・。
「僕は妻といるとすごく胸が苦しくなる。こう言ったけど、これで合っているかな。そう言ったら傷つくかな。僕は日々こんなことを考えながら今も生きている。他人の君たちからしたらどうでもいいことかもしれないけど、僕本人にとっては命よりも大切で消せない物なんだよ。これでいいかな?」
言いたいことはまだまだたくさんあるけど、それを全部言ったら夜になってしまうから今はここまでにしておこう。
このお城で暮らす人間が僕を含めて三人。
それも僕だけが男。
何かがあった時、この二人を守る必要があるかもしれない。
同じ人間だから、自然と助け合う力はとっくに持っている。
持っていて当たり前。
それが人間なんだからね。
だから。
「僕たちは人間だから、人間なりの力を発揮するために、これから仲良くしてくれないかな?」
そう言って、アムに握られている手をそっと離して両手をアムとナイに差し伸べるルロ。
すると。
「いいですよ。正直、あなたの言うことは聞きたくないけど、仲良くするだけなら構わないです」
「わあ、嬉しい!」
「そうね。同じ人間なんだから、仲良くするのは悪いことじゃないわね。あなたの吸血鬼への愛は私もよく理解できることだから」
少しずつ納得しながらアムとナイはルロの手を握り、ルロは満面の笑みで何度も頷いた。
「ははははははっ、嬉しい、嬉しい! これから長くよろしくね!」
同じ人間ならではの絆、本気。
その気持ちが重ねればどんなことでも立ち向かえる。
だが、その絆がいつ破壊されても文句は言えないだろう。
だって、ここは人間の住処ではない。
吸血鬼の住処だということを忘れたら、永遠に心は吸血鬼の物に変えられてしまう。
この三人が出会えたのはただの偶然でも奇跡であってもどうでもいい。
出会ってしまってはいけない三人だった。
この三人の共通点をお互いが知ってしまったらきっと三人はお互いを殴り合い、全てを奪い合う。
それを知らない今はまだ、仲良くしても問題はない。
特にルロはソリーを一人にはしていけなかった。
もう、奪い合いは始まっている。
いや、気づくことすらもできないほどに浮かれてしまっている三人。
一体、これから仲良し状態はどこまで続くのだろうか?


夜になった。
ソリーが起きる前に部屋に戻ったルロ。
「ソリー、朝だよ。起きてー」
愛する妻を起こすのは夫の使命? と、ルロが勝手に妄想している。
これは正しいのか?
でも、ソリーは一回で起き上がってルロに寄りかかる。
「はあ、眠い。ねえ、ルロ」
「何?」
「あんた、私が寝ている間にどこに行っていたの?」
「・・・え?」
突然言ってもいないことを聞かれたルロ。
その瞳は激しく震えてとっさにアムとナイのことを隠すようにソリーから目を逸らしてしまった。
けれど、ソリーは遠慮なく続けて質問する。
「あんた、私以外の女と親しくなったりしていないよね?」
「・・・・・・」
「私、一応、あんたの妻なんだけど?」
「・・・えっと」
「妻の私を捨てて他の女と仲良くしたらどうなっているか分かっているわよね?」
「・・・・・・」
「ちょっと、いい加減何か言ったらどうなの? 別に怒ったりしないから、ほら!」
そう言って、ソリーが力強くルロをベッドに押し倒して無理やりにでも顎を右手で掴んで唇と唇が重なる手前まで顔を近づけて、ようやくルロが口を開く。
「・・・人間に会ったんだよ」
「は?」
「僕の他に二人の人間がいるんだよ、それも女の子」
その事実を知ったソリーは衝撃すぎて頭が追いつかずに黙ったままだが、ルロは続けて話し続ける。
「今日君が寝ている間、庭に二人を呼んで仲良くすることになった」
「・・・そんな、どうして!」
妻の私がいるのに、どうして他の女、それも人間と仲良くする必要があるの?
私だけじゃ満足できなかったって言うの?
私が人間だったら良かったの?
私が人間じゃないのがもう面倒になったの?
理由は何なの!
「くっ」
考えれば考えるほど腹が立っていくソリー。
朝から腹を立たせるルロもすごいが。
「ソリー、聞いて。僕は二人と仲良くしても、絶対に好きにはならない。これだけは分かって、お願いだ」
「嘘は言わないで!」
「え?」
「私はルロに他の女と仲良くしてほしくない! 私だけを見ててほしい、愛してほしい、最後まで!」
そんなお願い聞けるはずがないでしょ!
「どうして私が分からないといけないのよ! 普通は逆でしょ!」
「・・・ソリー、僕は」
「私はルロが好き! 私にはルロしかいないの、ルロがいるから今も生きていけるの! 私を一人にしないで、捨てないで!」
大粒の涙を流しながら本音を全て伝えたソリー。
その本音は絶対に嘘ではなく愛の本気でもある。
「うっ、ふ、あああああああっ!」
朝から泣かせるルロは本当にすごい。
起き上がったばかりの妻に衝撃の言葉をかけて言い方が悪くて腹を立たせ泣かせる。
全く貴族育ちとは思えない最低すぎる生き物だ・・・。
でも。
「ソリー、僕は君を捨てたりしない、永遠に離さない。あの二人よりも、この世界で一番可愛いのはソリーだけだよ。僕が君と結婚したのは君が誰よりも愛らしくて心から永遠に愛したいと思って結婚したんだよ。僕は絶対に君が以外の子を選ばない、選ぶはずがない。だって、僕はもう君の物なんだからね」
大人の美しい微笑みを見せるルロは心の底から妻のソリーを愛する最高の人間の姿。
吸血鬼でも関係ない。
好きになった相手がどんな生き物でも、自分を求め愛してくれる限り、永遠にそばに居続ける。
それがルロの愛の本気。
本気でソリーを愛する人間。
自分の血を吸い喜ぶソリーのためなら、ルロはどんなことだってやってしまうだろう。
誰にも止められない形であっても、愛するソリーのためなら何も迷わない。
「愛」とは色々な意味で恐ろしい。
特にソリーとルロはお互いを愛しすぎて恐ろしいことを頭に浮かばせるほど手を伸ばしてももう時は遅く絶望が待ち構えている。
二人はその世界に入り込んでしまっている。
人間と吸血鬼がここまでお互いを本気で愛し合い、全てを消せる力をも手に入れてしまいそうなくらいに危険な場所に立っている。
それでも、二人が幸せなら誰も止めはしないだろう。
なぜなら、このお城で暮らす人間が四兄妹の一人と結婚し幸せになったのは今までルロだけだった。
現在はどうなのか。
「ソリー、ごめんね」
「どうして、あんたが謝るのよ? 私も色々とひどいこと言ったんだかtらお互い様でしょ」
「そんなことないよ。ソリーが言ったことは僕、結構嬉しいよ。ソリーが僕のことをそんなふうに愛してくれていたことが嬉しくてよだれが垂れてしまうところだったよ」
変な意味で興奮して本当によだれを垂らしてシーツが染みていく姿を、ソリーが自然と体を震わせて一旦距離を取る。
「ひっ、それは汚いからやめて。分かったから、私もルロが言うことは全部嬉しい。全部私のためでルロのためになる。ふふふっ、私たち、本当に仲が良いわね」
「そうだね。そうじゃないとおかしいよ。僕たちは夫婦なんだから、仲が良くて当たり前。もっと自信を持って二人でこれからも幸せに生きていこう!」
「ふふっ、そうね。あんたの言うとおりだわ」
二人だけの世界で一番の幸せな空間。
誰にも邪魔できない「夫婦」だからこその強い愛の絆を持っている。
この絆は誰にも止められない。
ルロとソリーだけの黒い幸せが今、動き出す。



一ヶ月後。
「ソリー、こっちだよ! 早くおいで」
「ちょっと待って! あんた男なんだから、女の私の体力くらい理解しなさいよ。はあっ、はっ、気持ち悪い」
ルロとソリーがお互いを愛していることを改めて確認して一ヶ月が経った今、二人は真夜中のお城の中を走って遊んでいる。
この歳で走り回るなんてどうかしているけど、ルロの誘いなんて私は絶対に断れない。
それに、日頃あまり動いていないから、たまにはこうやって足を動かすことも大事。
「私はルロが笑ってくれるなら何も怖がったりしない」
今までの私だったらあのお兄様たちを毎日毎日無駄な涙を流して怖がっていたけど、今は違う。
今は、これからはルロがいてくれる。
そう考えたら何も怖がったりしない。
私のために生きてくれるルロがいてくれるだけで、私は。
手を伸ばしたらいつもソリーはルロの手を握れる。
それが普通だと思っていた、が。
「はあ、面倒だな」
その一言で、ソリーは一瞬で体中が震え上がって瞳も激しく震えていて足に力が抜けてしゃがみ込んでしまった。
「は、ああっ、はあっ」
この声、何年ぶり?
久しぶりすぎて胸のドキドキが抑えられなくてどんどん怖くなっていく。
どうして?
「ソリー!」
突然しゃがみ込んだソリーを心配するルロがすぐに走ってそばに寄り添うが、ソリーの体の震えは止まることはなく、さらに悪化していくだけだった。
「は、ああっ、はっ」
息が、まともにできない。
ちゃんと深呼吸をしているのに、体が言うことを聞いてくれない。
どうしよう、このままあの吸血鬼が来るまでここで待っていたら、私はまたあの苦しい一年を過ごすことになる。
「はっ、あああっ」
「ソリー」
何度呼びかけても返事をしてくれない、いや、ルロの声が聞こえていないソリー。
それはあの吸血鬼から受けた苦しみをもう一度味わうことを心の底から恐れているからであった。
すると。
「ソリー、お前は本当に面倒な吸血鬼だな。僕よりも先に幸せになるなんて、そんなこと、僕は一度も許した覚えはないけど?」
そう言って、怪しげな微笑みをしながら堂々と腕を組みながら現れたのは四兄妹の三男、セスだ。
「セス、お兄様、私はもうあなたの道具じゃない。私に構わないで!」
まだまだ怖がっているのか、ソリーはセスと目を合わせるのが無理なようだ。
けれど。
「あなた、誰ですか? 僕の愛する妻を傷つけたこと、絶対に許しません」
この吸血鬼、見たことがない。
ソリーが「お兄様」って言ったから、きっと四兄妹の多分、三男のセス様だよ。
きっと、そうに違いない。
でも、今更僕たちに、ソリーに会いに来るなんて、一体何を考えているのかな?
少しずつ何か悪いことを考え出すルロ。
その考えは決して間違いではない。
なぜなら。
「セス、そこで何をしているの?」
そう、セスと契約を結びセスを好きになりたいという希望を胸に抱くナイが現れたことでルロの考えは全て変えられる。
「ナイ、ダメだよ。ここにいたら、君は消されて」
「は? こいつは僕と契約を結んでいる大事な人間、お前みたいなゴミがその名を簡単に口にするな」
そう強くナイの存在を一番大事にするセスがナイをそっと抱きしめている姿を見たルロとソリーは。
「・・・あっ」
嘘、セスお兄様も人間と契約を結んでいたなんて・・・だったら、尚更私のことなんてどうでもいいはずなのに、どうして。
「そんな」
ナイがセス様と契約を結んでいた人間。
じゃあ、ナイは僕の姉になるんだね・・・。
初めて知った事実、衝撃。
それは突然起こること。
誰がどんな予想や想像をしても辿り着けない。
事実なんていうものは誰も考えられない形で巻き起こるような最強な魔法。
現実では難しいけれど、「魔法」という言葉は誰にだって使えてしまうような簡単そうな物。
そして、セスの怒りは止まることはなく。
「はっ、お前たちには消えてもらう、ううん、消えてもらうのは今じゃない。ソリーなら分かる?」
ゆっくりとソリーに近づいてルロとバタッと足で蹴って退かしたセスは不気味な笑みを浮かべながらソリーの肩を両手でバッと限界まで力を込めて掴んだら。
「う、あああっ! やめてください、やめてください、セスお兄様!」
必死に首を横に振って大粒の涙を流しながら拒むソリー。
だけど。
「やめない。お前が消えるまで僕はお前を苦しめる。お前だけ幸せになって、僕がどれだけお前を憎んでいるか、お前は知らなかっただろうな!」
セスの怒りは本気で嘘ではない。
その様子をずっと理解できずにぼーっと見ていたナイが少しずつセスに近づいてこう言った。
「セス、やめなさい。あなたには私がいるでしょ」
その言葉を聞いたセスは冷静になってソリーから距離を置いてナイに寄り添う。
「そうだな。僕にはお前がいる。でも、あいつらの幸せが僕は嫌いなんだ」
「そう、じゃあ、こうしましょ。私も手伝ってあげるわ」
「何を?」
「ふふっ、私とあなたの幸せのための正しい場所へよ!」



「私たちで人間を滅ぼし、吸血鬼を救いましょう」
出会ってはいけない三人がここに集まった。
このお城に隠すはずの大切な餌が顔を見せたことでお互いを理解し助け合う。
そういう存在を知ってしまった以上、もう過去には戻れない。
他人にはなれない。
でも。
「突然何を言われたか分からないでしょ? 私も私が何を言っているのか正直分からないけど、これだけは信じて。私はあなたたちの味方よ、あなたたちがどんな人間でも、私は全てを受け入れるわ」
三十歳になっても恋を経験していないナイ。
やっと手に入れた最高の希望なはずなのに、ナイはその希望を自分で失っていくことをまだ知らない。
知った時のナイはきっと・・・。
十五歳のアム。
二十一歳のルロ。
二人はナイよりも年下でまだまだ大人の経験は浅い。
考え方も想像も甘くてバラバラに溶けてしまうくらいの年齢だからこそ。
「私は、私たちは吸血鬼を好きになれる唯一の人間。普通の人間なら吸血鬼を好きになるなんて絶対に嫌だけど、私たちは違う。私たちは吸血鬼を好きに、愛せる人間よ。これは同じ希望。私たちがここで出会ったのは何かの運命、何も遠慮せず、自信を持って私がさっき言ったことをやってみましょう」
誇り、尊敬、意味。
全てがごちゃごちゃに混ざり合うはずなのに、ナイの美しすぎる大人らしい微笑みがアムとルロを明るく陽よりも眩しいくらいに照らしてくれる。
これがナイのすごいところ。
出会ってそんなに時間が経っていないのに、ナイの微笑みは全ての生き物を明るく照らす笑顔の魔法を持っている。
すると。
「私にもできますか? 私と同じ気持ちがあるなら、あなたを信じたいです」
勇気を出して真剣な眼差しと可愛い微笑みを見せるアム。
「僕も、吸血鬼を愛せる人間の見本として、その提案を受け入れるよ」
愛する妻のために堂々と右手を挙げるルロ。
二人のやる気を待っていたかのように、ナイがさらにあることを提案する。
「じゃあ早速、明日あなたたちが契約を結んでいる吸血鬼と一緒にお茶でもどうかしら?」
その言葉を聞いてしまった一瞬で、アムとルロの表情が暗く沈む。
「それは、ダメな気が、します」
「えっ?」
「僕は別に構わないけど、妻は納得はしないだろうね」
「そう、なのね」
困ったわ。
やっぱり契約を結んでいる吸血鬼の方が大切よね。
私が良くても、セスが嫌がったら意味がないわ。
「はあっ」
もっとちゃんとした言葉をかけるべきだったわ・・・。
大人の私がしっかりしないとダメなのに。
でも、ここで止まるわけにはいかない!
「あなたたちの吸血鬼を私はこの目で見てみたいの。きっと美しくて思いやりのある素敵な吸血鬼だと私は強く希望がある。それに、私はあなたたちよりも大人なんだから、少しくらい私の言うことを聞いてほしいわ」
って、結構上から言ってしまったけど、まあ、少しくらいは年上らしく基本を見せるのも大切なことよ。
私が遠慮してどうするのよ?
それこそ、私も、もっと自信を持ってセスを二人に紹介したい。
私がこの世界で一番好きになりたいセスを、アムとルロに見て欲しい。
「ふふっ」
自分の希望を他人に押し付けるのは良くない。
ナイも当然それは理解している。
理解しながらも、自分が大人らしさをどう伝えるかをはっきりと頭に入れておくことで、さらにナイの笑顔が輝ける。
出会いの形がバラバラな三人。
どんな理由でも、契約を結んだアムとルロが気になるナイ。
すると。
「ナイ、そこで何をしている? 僕を待たせるなんていい度胸だな」
ほんのちょっとでも待つのが大嫌いなセスが不気味な笑みを浮かべながら三人の目の前に現れ自然にナイを抱きしめるセス。
「僕とお前は契約を結んでいる、僕から離れるのは許さない」
起きる時から寝る時までずっと離さないセスの甘える可愛い姿に、ナイはいつも通り優しく頭を撫でて優しく笑った。
「ふふっ、ごめんなさい。そうだったわね、あなたは私のことが好き。私もあなたを好きになる。そういう仲なのに、離れてごめんなさい」
「別に、謝る必要はない。ただ、えっ・・・」
何かの気配を感じたセスがその何かを警戒してとっさにナイを自分の背中に隠す。
ナイは何が起きているのか全く理解できずに首を傾げる。
「セス? どうした」
「黙って」
「えっ?」
「最悪。何でここにいる、絶対に会いたくなかったのに!」
そう言ったセスが睨む方向からゆっくり近づいた正体。
「セス、久しぶりに会うのに、その言い方はないだろう?」
「そうですよ。わ、わわわわわわ私も、本当は会いたくなかった」
そう、アムと契約を結んだ四兄妹の次男スラ。
そして、ルロと契約を結んだ四兄妹の長女ソリー。
ナイがお茶会をしようとしていたところにちょうど来てくれた二人。
ナイは少し嬉しそうに瞳をキラキラと輝かせる。
「へえ、あの二人の吸血鬼がセスの兄妹なのね」
見た目はあまり変わらないのね。
やっぱり家族はどこか似ているのは普通みたいね。
だが、その嬉しい感情は一瞬で壊される。
「セスの後ろに隠れているその女はもう捨てていいんだろう?」
スラが突然ひどいことを言い始めた。
それを聞いてしまったセスは。
「兄さん、今の言葉、ナシにして。そんなことを言える兄さんこそが捨てられるべきだ!」
好きなナイを否定した兄のスラに強すぎる怒りを感じたセスが右手を上に挙げ下ろした瞬間、スラの右手から大量の血が流れる。
「う、ああああああっ! 痛っ、セス、お前何をした!」
見事に自分の思うままにスラの体から血を流させたセスの顔は怪しげに心から嬉しそうに笑っている。
「あははははははははははははははっ! 兄さんが悪い、悪すぎるんだ。僕の好きなナイを捨てるなんて言うからこうなった。あははっ、本当に僕以外の皆は頭が悪い。はあっ、こんなクズな家族に生まれた僕の気持ちを少しは考えてよ。お前もな、ソリー」
まだまだ怒りが止まらずに、次はソリーに目が映ったセスがもう一度右手を挙げ下ろす前にルロがバサッとセスを地面に押し倒した!
「させないよ!」
「くっ、こいつ・・・」
ソリーの夫。
こいつがここに来てから僕はずっと嫌だった、最悪だ。
ここは吸血鬼の住む場所。
餌が一人で来ていい場所じゃない。
なのに、こいつのせいでソリーが僕よりも先に幸せになった。
こんなこと、絶対に許せない!
「僕たちの幸せを邪魔するなら、お前も殺すけど、いいの?」
吸血鬼らしい血みたいに赤い瞳と目が合ったルロだが、愛する妻のソリーと同じだと勘違いしてなぜか明るく微笑んでいる。
「そうだね、その気持ちはよく分かるよ」
「はあ?」
「僕もソリーとの幸せを誰かに邪魔されたら君と同じことをするだろうね」
「だったら、早く」
「だけど、それは子供の話で大人の僕は違う。僕は大人だから、そんなバカなことをしたらソリーは絶対に悲しむし絶望させてしまう。幸せっていうのは、そういうものなんだよ。いくら怒っても、誰かに当たるのは子供がすることだよ。今君がしていることは子供だよ。その自覚があるなら、別に僕たちは構わない。ねえ、どうするのかな?」
自分よりも年下のルロからめちゃくちゃ正しすぎる言葉を言われてしまったセス。
それ以上のことをしたら、本当にルロの言う通りになってしまうが・・・。
「はあっ、分かった。お前とソリーには何もしなきゃいいんだよな?」
「えっ」
「僕とナイは将来結婚する。お前とソリーよりも、誰よりも一番に幸せになるからな!」
そう、僕とナイは結婚する。
幸せになるんだ。
僕にだけ与えられた力をここで使う。
もう後悔はしない。
誰がするか、そんな無駄なこと。
ナイも僕と同じ気持ちだよな。
自信満々に後ろを振り向くと、ナイは大粒の涙を流して両手でそれを見られないように隠している。
「う、ふっ、ああ」
その姿を見てしまったセスは急いでナイを抱きしめて自分の手で涙を拭ってあげる。
「どうした、何で泣いている?」
僕が何かしたか?
それとも!
一番大切なナイを泣かせた理由を知るために、セスは周りをしっかり見渡して理由を探している時。
「お前は幸せにはなれない」
いつのまにか目を離していた一瞬を狙っていたスラがセスを力強く爪をわざと引っ掻かせて押し、ナイの首に食用のナイフを向けた!
「この人間の血はまずいだろう? まずい人間をこの城に住まわせるのは良くない。お前も王族なんだ、もっと質の良い人間を選べ」
シセルとは違う強引で身勝手な言葉。
だが、セスは何も迷うことなくこう言った。
「ナイは僕の宝物。質なんてどうでもいい!」
僕が好きなナイはもう餌じゃない。
人間同士が恋に落ちるみたいに、僕もナイに恋に落ちた。
一生離れられない契約を結んだけど、それはただの紙切れ。
実際はもっと大切な物なんだ。
「スラ兄さんには分からない、分かって欲しくないな。僕とナイの絆はそんなナイフだけでは崩れない。壊せるほどボロボロじゃない。そんなことも分からない? 僕よりも年上なのに、あははっ」
動揺も衝撃も受けない。
一人の人間を好きに、愛する一人の吸血鬼の恋はもう、誰にも止められない。
なぜなら。
「そうよ。セスは私を一生選んでくれるわ。セスの魔法は誰であっても全てを消せる特別な物なんだから」
そう言って、ナイは自分の持てる精一杯の力で首に向けられていたナイフを足で蹴ってそれをスッと左手で握ってお返しにスラの首に傷をつけた。
「なっ、人間のくせに、吸血鬼の俺に傷をつけるとは!」
「スラ! 大丈夫?」
スラに傷がつけられたことを契約を結んでいるアムが心の底から心配して走って走ってスラを抱きしめる。
「ごめんなさい。私がいるのに、嫌、スラが消えたら私・・・」
「大丈夫だ、こんなの大したことじゃない。不安にならなくていい」
その様子を見ていたソリーとルロは。
「ねえ、ソリー」
「何?」
「君は僕が死ぬまで絶対に消えないでね」
「は? 何言っているの、私は、吸血鬼はそんなに簡単に消えたりしない。変なこと考えたらダメよ。私だって、あんたより先に消えたくはないわ」
お互いを思いやる気持ち。
それが好きでも嫌いでもどちらでもなくても関係ない。
この七人が幸せな未来が待っているなら誰だってもう・・・。



朝が来てしまった。
それぞれ部屋に戻っているはずが。
「じゃあ、今からお茶を飲みましょう」
美しく微笑みながらそう呼びかけるナイ。
「あの、どうしてこうなったのか教えてください」
全く今の状況が理解できないアム。
「そうだよ。どうして僕たちが君に付き合わないといけないのかな?」
無理やり付き合わされてさっきから聞き飽きた文句を言うルロ。
だが、この三人だけなら何も問題はなかったのに。
「ちょっと、ルロ、私眠いんだけど?」
「少し休ませてくれ」
「はあああっ、眠くて退屈」
そう、人間なら朝なんて普通に起きていられるが、吸血鬼は当然耐えられない。
それを知った上でナイは庭ではなく広間に来させた。
めちゃくちゃ無理やりで・・・。
「セス、少しは耐えられそうかしら?」
分かっているわ。
吸血鬼が朝になっても起きているなんて大きな問題。
でも、せっかく集まったんだから、もっと皆のことを知りたい。
私の勝手なのは十分知っている。
セスの体調も気にしながら続けたい。
「セス、ごめんな」
「謝らないで。お前が僕に謝ることなんて何もない。それに、僕だって少しくらい人間のお前の生活を体験してみたいからちょうどいい機会だ、ありがとうな」
満面の笑みでまさかお礼を言われるとは予想外だったナイは何度も瞬きを繰り返したが、また微笑んで優しくセスの頭を撫でてあげる。
「ふふっ、セスと契約を結んで正解だわ。本当に、私はあなたを好きになれて良かったわ」
「えっ」
今の「好き」という言葉を聞いたセスは一気に眠気が治ってナイみたいに何度も瞬きを繰り返して現実かどうかを自分の頬を力強く叩き、痛みを感じたことで現実と理解してナイをギュッと可愛らしく抱きしめた。
「あははっ、嬉しい! ナイからその言葉が聞けて僕は幸せだな。うん、僕も大好き、愛してい」
「許さない」
セスの愛の言葉を言いかけて止めたその声は力強くとても低くそれを見た者は心の底から恐怖を感じさせる。
セスはそれが何なのかをよく分かっている。
「嘘、そんな、ことって、あり得ない・・・」
何で、今になってここにいる?
僕たち兄妹を捨てたくせに、よくもここに帰って来られたな!
「一番最悪だな! 僕を、僕たちを置いて逃げたくせに、お前なんていらない、早く消えろ、ササ!」
そう、吸血鬼の四兄妹を過去に捨て遠くに逃げてお城から出て行ったはずのいとこ、髪を伸ばしたまま体も洗わず汚い姿を何十年も見てきたササが三十年ぶりにこのお城に帰って来てしまった。

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