『次は霞原、霞原です……』
 駅への到着を告げる車内アナウンスで麗奈は目を覚ました。
 首に掛けた水晶のペンダントが窓からの光を反射して揺れる。
 適度に効いた暖房と規則的な電車の振動に眠りを誘われて深く眠り込んでしまい、危うく乗り過ごすところだった。長旅のときに目的地の駅が終点でないというのは少し危険だ。絶対に眠らないと決めていたのに、やはり乗車から一時間くらいであっさり寝落ちてしまった。

 網棚からボストンバッグを降ろして電車を降りる仕度をしながら、次第に速度を落としてきた車両の窓から外の景色を眺める。萩山の最寄駅を出発したときは窓いっぱいに森や田んぼなど長閑な田園風景が広がっていたのに、今見える景色は初めとは打って変わってマンションや一軒家、住宅地ばかりだ。景色が移り変わっていく様子を見ていたら面白かったかもしれないなと少しだけ後悔した。

 目的の霞原町は萩山から、市電と特急を乗り継いでおよそ四時間の場所にある。麗奈が以前住んでいた町とは、萩山を挟んで正反対の方向だ。運良くこの町には学生向けの下宿を経営している母親の知人が住んでいたため、転がり込むことにしたのだ。高校生の下宿を快くOKしてくれた主人には頭が上がらない。

 この辺りは公立私立合わせて通学圏内に高校が多く、受験先の選択肢が豊富だ。住むのに便利そうな商店街や駅とも近く、先週下見に来たときは下宿先の主人もとても親切にしてくれた。色々調べ家族とも相談した結果、麗奈はこの町に住む事に決めたのだ。

 さまざまな手続きを終え、準備を終えて村を発った麗奈は、ようやく特急での長旅を終えて町に到着したところだった。
 駅の改札口を出て、辺りを見回した。時刻は午後三時。平日にもかかわらず、駅前の商店街は賑やかだ。麗奈が以前住んでいた田舎の住宅地と比べれば倍以上の人が行き交っている。
 プリントアウトした地図をポケットから取り出し、目的の家を探す。駅からその家までは、徒歩三十分ほど。少しだけ交通の便の悪いところがこの町の欠点かもしれない。駅から離れると住宅街があまりに入り組みすぎて、道にも迷いやすい。麗奈は慎重に地図を見ながら、下宿先を目指した。

 下宿先の近くの住宅街に入って暫く歩いたときだった。
「ワン、ワン」
「グルルル」
「ギャン!」
 近くで動物の声が聞こえた。犬が喧嘩しているのだろうか。声から察するに、複数いるようだ。

 動物好きではあるが喧嘩の最中に巻き込まれたくないなあと思いながら歩いていくと、突然、目の前に声の主達が飛び出してきた。
「うわ、何!?」
 間一髪、大きく跳んで避ける。声の主たちはもみくちゃになりながら狭い道を横切って反対側にあるコンクリート製のゴミ捨て場に勢いよく突っ込んでいった。
 とばっちりを食らわないうちに立ち去ろうと歩き出すが、気になって足を止めた。

 激しい唸り声を上げながらごみ捨て場でもみ合っているのは、三頭の獣。どうも二対一で争っているらしい。襲っている側の二頭はどちらも中型犬くらいの、三角形の耳とくるりと巻いた尾を持つ真っ黒な犬だ。毛の薄汚れた、見るからに野犬といった様相。
 一方追い詰められている方は身体が一回り小さく、飼われているのか綺麗な毛並をしていた。焦げ茶色の三角形の耳を低く伏せ、黄金色の毛並みを逆立てて牙を剥いているが、身体のあちこちに血が滲んでいて、劣勢なのは明らかだ。

「……あれ?」
 じっくり観察してみると、小さい方になんだか既視感を覚える。犬にしては尾が太い。犬というよりは――。
「もしかして……キツネ?」
 狐を道端で見かける事なんて有り得るのだろうか。近くの山から下りてきてしまったのだろうか。野生にしては綺麗な毛並みだ。近くの動物園から脱走でもしたのだろうか。

 しかし今はそんなことよりも、どうやって彼(彼女?)を助け出すかということのほうが先決だった。
 下手に手を出すと噛まれるかもしれない。しかし二対一は可哀想だよなぁ、などと考えながら、恐る恐るゴミ捨て場を覗き込んだ。

 彼らはまるで麗奈など見えていないかのようで、気にも留めない。狭いゴミ捨て場の中で牙を剝き合いながら一塊になっているため、追い詰められている狐を助け出す事もできない。
 どうしたものかと思案していると、その狐が二頭の野犬の間を潜り抜けて再び道へ飛び出してきた。すかさず犬の片割れが追い、飛び掛かる。
「ギャン!」
 黒犬の牙は見事に狐の左前足を捕え、狐は悲鳴を上げてひっくり返った。
「あっ! ……ああもう何やってんの、近所迷惑だから!」
 麗奈は周囲に人がいないことを確認して、持っていたボストンバッグを二頭の間に無理やりねじ込んだ。やっと麗奈の存在に気づいたらしい三頭が、一瞬動きを止めて麗奈を見る。
「こら、やめなさい。保健所呼ぶよ」
 言葉が通じるとは端から思っていないが、麗奈の言葉を無視して二頭は噛み付き合いの喧嘩を再開し、もう一頭の黒犬が応戦するかのように飛び掛かった。
「だめだってば! いい加減にしなさい!」
 駆け寄ってきた黒犬を咄嗟に横から捕まえ、無理矢理持ち上げる。するとその犬は急に、まるで飼い犬でもあるかのように大人しく抱かれてしまった。数秒経っても逃げようとしない。まさかこの暴れ犬を手で捕まえられるなんて思ってもみなかった麗奈は拍子抜けした。
 噛んだり暴れたりしないところを見ると、どうやら人には馴れているようだ。ということは野犬ではなく人を知っている野良犬、なのだろうか。
 これならいけると判断して、抱き上げた犬を脇に抱え、空いた手を組み合っている二頭の間に大胆にも突っ込み、大きな犬のほうを抱え上げる。
「お、重い……ほら早く、今のうちにお逃げ」
 麗奈が攻撃側の二頭を確保すると、怪我をした狐は道の端に寄って蹲った。前足を引きずっている。先程噛まれたときに深く傷ついてしまったのだろうか。

 両腕の荷物を下ろしたいが、下ろしたところでまた喧嘩が再開されるだろうことは予想できる。
「まったく……道端でこんなことして、保健所に連れて行かれちゃっても知らないよ」
 少々手間だが、麗奈は二頭の犬を狐から遠いところへ連れて行き地面に下ろすことにした。
 犬達は落ち着いたのか、もうゴミ捨て場の方へ戻ろうとはしない。興味深そうに麗奈の顔をじっと見上げて首を傾げている。麗奈はほっとして、二頭の頭を撫でた。野犬かと思ったのは気のせいだったらしい。人によく慣れている。
「そうだ。パン食べる?」
 昼食のためにと駅で買ったパンが一つ余っていたので、動物の体に良くない具が入っていないことを確認し、半分に割って二頭に見せる。すると彼らは同時に齧り付いた。
 野良犬に餌をやったらいけないという話は知っているし、そんなことをすると後を付いてきてしまうという話もよく聞いていたので、麗奈はどうやって彼らを撒こうかと考えていたのだが、二頭は食べ終わるとさっさと立ち去ってしまった。
「恩知らず……」
 今までどうやって撒こうか考えていたのに、見向きもせずにおいていかれるとそれはそれで少し腹が立つ。

 先程の場所へ戻ると、狐はまだ道端に蹲っていた。怪我した左前足から血が止まらないのか、ずっと傷を舐めている。
 逃げるだろうなと思いながらも、静かに近付いてみる。どこかで飼われているのだろうか、野生動物かと思っていたのにこちらも逃げようとはせず、顔をあげて金色の瞳を麗奈に向けた。
 傷が深いのか、舐めるのをやめた前足からは血がぽたりぽたりと地面に垂れている。麗奈が手を差し出すと、狐は少し警戒するように匂いを嗅いで、再びこちらの顔を見上げた。試しに頭にそっと触れて、そのまま背中、肩へと手をスライドさせ、怪我した前足を握って持ち上げる。狐は麗奈の手を目で追っただけだった。どこかで飼育されているのだろうか、人馴れしているらしい。足に触れても嫌がらないのを確かめて、麗奈は鞄から取り出した自分のハンカチで狐の足を縛ってやった。
「おうちに帰ったらちゃんと消毒してもらうんだよ」
 軽くぽんと頭を撫でて、麗奈は再び目的の下宿先に向けて歩き出す。
 狐はゆっくり立ち上がり、ハンカチを巻かれた左の前足を浮かせたままでぴょこぴょこ跳ねるようにして、麗奈とは反対方向へ走っていった。

*****


「……やっと着いた」
 道に散々迷った挙句、一時間かけてなんとか下宿先に辿り着いた麗奈は、表札を確かめて門の横についたインターホンを押した。
 待つこと数秒。
 ばん、と勢いよくドアが開かれて、この家の中年女性が飛び出してきた。
「麗奈ちゃん! やっと来てくれたのね、ずっと待っていたのよ! まさか迷っちゃったの?」
「はあ、まあ……」
 そのまさかである。
 狐を見つけて寄り道したせいで、あの後自分のいる位置が解らなくなってしまったのだ。
 曖昧に笑ってごまかすと、女性はそれどころではなかったと呟いて、麗奈を招き入れた。
「あのね、今ちょっと大変な事になっちゃってて」
 麗奈を玄関に入れるなり、女性が切り出した。
 家の中は服や鞄などが散らかっていて、片付ける暇もないほど忙しかった事が伺える。
「さっき、うちの旦那が倒れちゃったのよ。すぐに大きな手術をしなきゃならないらしくて。だから急遽、下宿してる人たちには申し訳ないんだけど、別のところに移ってもらう事になったの」
「えっ?」
「本当に急な事で、電話もできなくてごめんね。旦那がすぐにまた働けるようになるとは限らないし、手術やら入院やらに費用もかかるから、学生さん達の面倒みてあげるだけ暇もお金もないのよ……。だから、何時間もかけてきてくれたのにごめんなさい。一度家に帰って、別の下宿先を探してもらえるかしら?」
 あまりに突然のことに、理解が遅れる。数時間かけてここまで来たというのに。
「……そういうことなら仕方ないです……よね。忙しいのにすみませんでした、旦那さんにお大事に伝えてください」
 フル回転させた頭でなんとかそれだけ返す。
「本当にごめんなさいね。落ち着いたら、また連絡するから。その時は良かったらうちにいらっしゃい」
「はい、分かりました」
 本当に申し訳ないと何度も繰り返す彼女の手を煩わせるのは申し訳なくて、麗奈は女性に頭を下げて玄関を出た。
 ドアが閉まる瞬間にふと振り返ると、女性がバタバタと部屋の奥まで走っていくのが見えた。
(大変だな……)
 麗奈は溜め息を吐いて、親に連絡するために鞄から携帯電話を出し、――画面に映った文字を見て絶句した。
『充電してください』
「げっ」
 これでは連絡ができない。
 目の前に元下宿先の家はあるが、だからといって忙しいところを再び邪魔して電話を借りるわけにもいかない。
 とりあえず駅まで戻るか、と結論を出して歩き始めたとき、
「もしかして今日からここに泊まるっていってた子かな?」
 背後から声をかけられた。
 麗奈が振り返ると、後ろに立っていたのは麗奈より幾つか年上と思われる青年だった。小さなトランクを引いている。
「そうですけど……」
「ああ、オレ、今までここに泊まってた者です。急に親父さん倒れちゃって、追い出されちゃって……もう聞いたかな?」
「ああ、はい。だから今、とりあえず駅に戻ろうと思って」
「……駅? 駅はそっちじゃないけど」
「はい?」
「方向が反対だ。あっち」
「えっ、でも今こっちから来たんですけど」
「てことは、君は恐ろしく遠回りをしたんじゃねーかな」
「……そうですか……ですよね」
 散々さまよったのだ。自分がどの方角からどのルートで来たかなど覚えているはずもない。少年は顔を赤くした麗奈を見て苦笑した。
「一人なんだろ、気をつけなよ。最近物騒だから、暗くなる前に帰ったほうがいい。駅はこの道まっすぐ行けば、案内板があるからすぐ解る。間違えないようにね」
「はい。ありがとうございました」
「じゃあ気をつけて」
 麗奈が去った後もしばらく、少年はその場で麗奈の後ろ姿を見送っていた。そしてポツリと呟く、その声は麗奈の耳には届かなかった。
「あの子だな……」

 親切に駅の方向を教えてくれた青年と別れて、麗奈は駅へ向かった。言われた道を行くと、行きの半分以下の時間で駅に着いた。やはり、かなり遠回りしていたらしい。案内板と自分が頼っていた地図を比較してみると、どうやら手元にあった地図は数年前のものらしい。今とは道が変わっていたことが判った。
「……こんなの迷わないわけないじゃん」
 今どきGPS付きの地図アプリがあるんだから、そっちを使えばよかった。電池ないけど。
 自分は一度あの家に行っているという事実を忘れて、麗奈はぼやいた。
 駅員に尋ねて公衆電話を見つけ、久しぶりに使うテレホンカードを差し込んで、番号を押すことが少ないので忘れかけていた母の実家へ電話をかける。
『もしもし、お母さん?』
『あら、麗奈? これ公衆電話よね。どうしたの、携帯は?』
『電池切れちゃって。あのね……』
 麗奈は先程の、下宿先での話を掻い摘んで伝えた。母はふぅんと考え込んで、軽い調子で尋ねてくる。
『一旦帰ってくる?』
『そうしたいけど……切符買うお金が』
 霞原から萩山までの長距離切符は高額だ。今はまだ手元にそんなに現金を持っていなかった。銀行で下ろせば用意できなくはないが、ただでさえ霞原に来たばかりだというのに、無意味に往復払うのもなんだか癪だ。
『そうね。じゃあ、どこか他に泊まるところを探しなさい。後のことはそれから考えればいいし』
『探しなさいって……そんなに簡単に見つかるかな』
『その辺り、私立高校も大学もあるから、学生街でしょ。ビジネスホテルや小さな民宿もあるし、下宿やってるところ結構たくさんあるから大丈夫よ。……あ、そうそう、お祖母ちゃんが麗奈に、暫くの間は人通りの少ないところをあまり一人で出歩かないようにって』
『え? 何で?』
『別に大した事じゃないわよ。最近物騒だから』
『そう……? カードがなくなりそうだから、一旦電話切るね』
『何かあったらまた電話しなさい。それじゃあ』

 電話を切った後、麗奈はふと首を傾げた。
「最近物騒だから」
――先程も、同じことを下宿先の前で言われたような気がする。
(あたし、そんなに心配されるほど可愛かったかなぁ?)
 斜め上の誤解が生まれた。

*****

 その頃、萩山神社。
 若者と初老の女性が楽し気に立ち話をしていた。アルバイトの萩と、麗奈の祖母である。
 その途中で、萩が階段を上がってくる気配に気づき、祖母に視線で知らせる。
「あら。咸子」
「お母さん、やっぱりここにいた。今麗奈から電話があったところよ」
「どうかしたの?」
「サッちゃんとこの下宿、急遽ダメになっちゃったんだって。旦那さん倒れたとかで……」
と、咸子は娘からの話を母に伝えた。

 背中を向けて手を動かしてはいるが、萩も聞き耳を立てているのは明らかだった。話し始めてから、持っている箒が同じ一メートル四方内を延々と往復し続けているからだ。そこだけ砂利がなくなって、下の地面が露出し始めている。
「やっぱり迎えに行くべきかな?」
「その必要はないわ。連絡があったら迎えに行けばいい」
「……本当に大丈夫かしら?」
「心配性ねー」
「だって……気になるものは気になるわよ、娘のことだもの」
「僕も」
 突然萩が口を挟み、二人の視線が集中する。深刻な顔をする彼に、咸子が声を掛けた。
「どうかした?」
「僕まだ麗奈には何も話して聞かせてない。だから麗奈は何も知らない……」
「もう、大丈夫大丈夫!」
 孫の心配などしていないかのように、けらけらと祖母は笑った。
「親バカ二人とも、揃って心配性なんだから。私が平気だと言うのだから平気よ」
 根拠の出処が分からない自信に少し不安になりつつ、しかし彼女の言葉を信用して、萩と咸子は視線を交わし、苦笑した。
 人生、そう上手くはいかないものだ。

 本屋でホテルを調べて片っ端から電話をかけてみたり、タクシーの運転手に尋ねてみたり、挙句の果てには道行く人々を捕まえて尋ねてみても、近くに空いている宿はなかなか見付からなかった。
 ホテル自体あるにはあるらしいのだが、全て部屋が埋まっているという。
 他に探せばまだあるのかもしれないが、もともと麗奈が行く予定だった下宿の事を言う人ですら少なかったから、おそらく小さな民宿や下宿などは、知らない人の方が多いのかもしれない。

「はぁ……どうしろって言うのよー」
 麗奈は商店街のベンチに腰掛けて空を見上げた。
 来た頃は綺麗に晴れていた空は、今では黒い雲に覆われてどんよりと曇っている。親に迷惑を掛けないと宣言したものだから、電話をかけて助けを請うのはプライドが許さなかった。
 時刻は午後六時過ぎ、宿を探し始めてから一時間以上が経過している。
(バスか何かで隣町辺りにでも行ってみるかな……でもそんな事して、道に迷っても困るし)
 考え込んでいるうちに雲行きは怪しくなり、辺りは薄暗くなる。雨が降らないうちに駅に戻ろうと立ち上がったが、その瞬間、雷鳴が轟いた。
「きゃあ! ……びっくりした」
 始めは霧のようだった雨は次第に強さを増し、駅に駆け込む頃には土砂降りになっていた。麗奈は傘を持っていなかったので、全身濡れ鼠だ。
 濡れたシャツをぎゅっと絞りながら、麗奈はふと下宿先に着いたときの会話を思い出した。
『下宿してる人たちには、別のところに移ってもらう事になった』
 別のところ。
 下宿しているのは学生で、皆この近くの学校に通っているはずだ。だとすれば、別の下宿先に移ったとしてもあまり学校から離れるはずがない。
――と、いうことは。
「やっぱり、近くにまだあるんだ!」
 小さな宿だったら、人通りの少ない住宅地にあってもおかしくはない。それならばまだ探していない住宅地に行ってみる価値はある。
 日が完全に暮れる前に何としても泊まるところを見つけなければと、少し雨足が弱くなったのを見計らって、麗奈は駅を出た。
 小学・中学と公立だった麗奈は交通機関での通学をしたことがなく、高校生や大学生は学校から離れた所に下宿しても電車で通学できるのだという事には残念ながら気が付かなかったのだった。

 道に迷うこと覚悟で、麗奈は先程とは違う道に入ってみることにした。
「一軒あるんだから、少なくともあと二軒はあるはずよね……」
 まるで害虫か何かのように考えながら、迷路のような住宅街を適当に歩く。そろそろ止むだろうと思っていた雨はまた強くなり、麗奈は駅のコンビニで傘を買わなかった事をひどく後悔した。大雨の降る中駅に辿り着いて、傘を買わずに再出発する馬鹿がどこにいるだろうという話だが。
「百円の壊れやすいビニール傘買うより、あとでもっと頑丈なの買った方がいいもん」
 言い訳じみた独り言を呟き、ずぶ濡れのまま住宅街を歩き続ける。辺りはもう薄暗く、知らない人が今の麗奈を見たら変質者、もしくは幽霊か何かだと思ったかもしれない。
「っくしゅん!」
 雨に濡れて冷えたのか、くしゃみが出た。
「……やば、これ風邪引くかも……もう戻ろうかなあ」
 そして辺りを見回し、数秒間考える。さあここはどこでしょう。
 道に迷うこと覚悟で住宅街に入ったが、案の定迷っていた。持っていた地図を取り出し、それがほとんど役に立たない事を思い出す。
 あとは、無いに等しい勘に頼るしかない。
「今日ってほんとについてないな……占いはいい方だったのに」
 牡羊座は四位である。
 何もせずに止まっている訳にはいかないので歩き出し、五回目の角を曲がった時だった。数件先の家の玄関が開き、人が出てくる。
 住宅街に入ってからほとんど人影を見ていなかったから何となくほっとして、その家の前を通り過ぎようとした。
(ん?)
 玄関から出てきたのは恐らく麗奈と近い年頃の、ジャンパーのフードを深く被った少年。傘を差さずに出てきたと思ったら、ゴミ袋を両手に一つずつ持って雨の中走っていった。
 しかし麗奈が気にかかったのはその事ではない。
 少年が出て行った家、その入り口の門の横、腰の高さ程の塀に、小さな看板が掛かっている。
 雨で視界が悪くてよく見えなかったので、麗奈は少し近づいてその文字を読む。
『民宿 狐荘』
 普通なら名前が書かれているはずの所に、小さくこれだけ書いてあった。
(変なの……この家どう見たって周りと同じただの民家だし。表札だって、こんなんじゃ誰も宿だなんて思うわけ……)
 宿?
 もう一度表札を確認する。確かに『民宿』の二文字が書かれている。
 これこそ麗奈の捜し求めていたものだった。

 バシャバシャと雨の中を駆け戻ってくる音がして、麗奈は振り返った。さっきの少年だ。彼はチラリと麗奈に視線をやると、不審そうな顔をして門を開け、中に入ろうとした。
「あの……」
「はい?」
 少年が振り返る。
 その顔が驚くほど整っていたので、麗奈は一瞬何を尋ねようとしていたのか忘れてしまい、相手に怪訝な顔をされてしまった。
 民宿という人名は恐らく無いから、あの表札は確かにこの家の役割を表しているはず。大丈夫、もし違っていたらそのまま立ち去ればいい。躊躇いつつ、恐る恐る尋ねた。
「その……ここって、民宿なんですか?」
「はあ……そうですけど。そこに書いてません?」
 小馬鹿にしたような物言いに、ややカチンとくる。あんなのですぐに分かるかと言い返したいのを抑え、再び尋ねた。
「今、お部屋空いてませんか? その、もしかして、要予約だったり」
「もしかして、客?」
 同じ単語を繰り返して、逆に尋ねられる。
 それにしてもこの少年、敬語を使うのに慣れていないのだろうか。初対面の人に対して、あまりに態度が悪い。麗奈は少しむっとして、
「泊めてくれるなら」
と、強気に言い返す。
 しかし少年はそんな事は気にも留めず、何故か「あぁ」と納得したように頷いた。
「泊まるんだったらどーぞ、こちらに。あ、床濡らすなよ」
「わかってるから!」
 いきなり喧嘩腰になりながら、麗奈は少年に連れられて建物の中に入った。玄関に入ると、ぱたぱたとスリッパの足音がして、正面の階段から青年が降りてくる。
「ユウ! 傘も差さずに……濡れませんでしたか」
「濡れないわけないだろ。ゴミ捨てに行けって言ったのお前じゃないか」
「またそうやって人のせいに……あれ、お友達ですか?」
 青年が麗奈を見つけて目を丸くする。ユウと呼ばれた少年は呆れたように首を振った。
「いや。客」
 それだけ言って、少年は雨避けの為に被っていたジャンパーのフードを下ろす。麗奈は何となく少年を見上げ、思わず息を呑んだ。
 フードのお陰で濡れずに済んだ彼の髪は、驚くほど綺麗な金髪だった。外国人のような薄い金色ではなく、薬で染めたようなくすんだ金色でもない。実際には薄茶色なのだが、光の当たり具合によっては金色に見える、そんな色だ。形の整った眉も、少し長い睫毛も同じ色で、これが本物であることを示していた。
 隣に立って初めて気付いたが、少年の身長は麗奈とそれほど変わらない。視線の高さも同じくらいだ。同じ年頃の男の子としては身長が低い方だろうと思う。
 彼は麗奈の視線には気づかず、客と聞いて驚いた顔をした青年に指示を出した。
「コウ、タオル持って来い。このままだと風邪引く。それから部屋、すぐに」
「はい……ああ、ちょっと待った! その濡れた足で上がらないでくださいよ。今あなたの分も持ってきますから」
 コウと呼ばれた青年が慌てて奥へ走っていく。その背中が見えなくなってから、少年は言いつけを破って濡れた足で家に上がり、ペタペタと歩き出した。床を濡らすなって自分が言ってたくせに……と麗奈は心の中で毒づく。
 しかし数歩歩いたところでタオルを抱えた青年がすぐさま走ってきて、彼を玄関に押し戻した。
「ユウ!」
「うるせーな」
 少年はバスタオルを一枚取り上げて、ばさりと麗奈の頭に被せた。
「風邪引く」
「あ、はい……ありがとう、ござい、ます……」
 頭を下げた麗奈は、そのまま数歩よろめいた。急に頭を下に向けたからか、眩暈がしたのだ。なんだか頭痛もするような気がする。
 少年が不思議そうに麗奈の顔を覗き込んだ。
「どうした?」
「いや、ちょっと……頭がぼんやりして」
「……手遅れだったな。コウ、部屋に布団も敷いとけ。毛布はこの間干したのがあるだろ」
「はい。すぐに用意できます」
「それと、寝巻きも新しいのを下ろせ。それから、……あー、あんた名前は」
「……高沢」
「とりあえず、これに名前だけでいいから書いて」
 彼は麗奈を座らせて紙を渡し、自分はタオルで濡れた手足を拭きながらてきぱきと青年に指示を出していった。
 まるで何かの司令官みたいだ、と麗奈はぼんやり思った。

*****

 この大雨で、荷物はほぼ全滅だった。
 下着だけはビニール袋に入れていたので濡れなかったが、あとは服も本も全て水を吸って大惨事だ。その無事だった下着と出してもらったパジャマを着て、麗奈は和室に敷かれた布団に入っていた。

「失礼します」
 さっきの青年が、盆を持って入ってきた。麗奈はあわてて起き上がり、頭を下げる。
「あの……すみません、いきなり来たのに色々としてもらっちゃって」
「いいえ、お気になさらず」
 彼は笑って、麗奈の枕元に盆を置く。そこには水の入ったグラスと、テレビコマーシャルでよく見る青い箱の風邪薬が載っていた。
「この薬、飲んでください。熱が高くなる前に」
「え、あの……」
「ああ、大丈夫ですよ。これは今買ってきたものですし、まだ開封していませんから」
 躊躇った麗奈を気遣うように、青年はビニール包装された薬の箱を見せて微笑んだ。箱には駅前にあった薬局のシールが貼ってある。
「え、もしかしてわざわざ買いに? そんな事まで……すみません」
「買いに走ったのは私ではなくユウですが」
「ユウ、ってさっきの……また雨の中行ってくれたんですよね。どうしよう、そんなにしてもらっちゃって……」
「ですから本当に、気にしないでください。久しぶりのお客さんなんです。ユウも珍しく張り切っていましたから。……熱が上がらないうちに、これを」

 麗奈は青年に小箱とグラスを手渡され、封を開けて薬を呑んだ。麗奈がグラスと薬を盆に戻すと、青年は麗奈を寝かせて布団を肩まで引き上げた。
「今日は疲れているでしょう。ゆっくりお休みください」
「本当に有難うございます」
 青年が出て行くのを見送って、麗奈は溜め息をついた。
 どうにか今夜は泊まるところを見つけることができた。しかしこの先どうすればいいのだろう。
 早く学生の下宿をやっている家を探さなくてはいけない。
「それはまぁ……何とかなるか」

 薬が効いてきたのか、少し眠気がしてきた。これからのことは明日考えればいい。麗奈は暖かい布団の中で目を閉じた。

 太陽の光が顔に当たり、眩しさで麗奈は目を覚ました。あと五分寝ようと布団の中に潜り込み、あれっと思う。
 布団がいつも自分が着ているものではない。
 数秒間考えて、がばりと起き上がった。
(ここ、あたしの家じゃなかった!)
 確か昨日、雨の中さまよい歩いて民宿に辿り着き、熱を出して寝込んでいたのではなかったか。
 時計を見るために慌てて枕元にあった携帯を手に取り、電池がなかった事を思い出す。充電器を使おうと、鞄を探して部屋を見回すと、鞄の中にあった荷物が丁寧に新聞紙の上に広げて、部屋の隅で乾かしてあった。
 濡れたはずの洋服は、全て乾いて綺麗に畳んである。夜の間に洗って干してくれたのかもしれない。
「……ここまでしなくてもいいのに……」
 取り敢えず着ていたパジャマを脱いで着替えると、荷物の中から充電器を探し、部屋の隅にあったコンセントにプラグを差し込んで携帯を繋ぐ。電源を入れると、なんと二十通ものメールが届いていた。
「新着メール二十通……えーと、母、華奈、母、母、父、華奈、母、父、華奈……家族ばっかり」
 それだけ心配を掛けてしまったという事だろう。メールの内容も、麗奈の居場所を尋ねるものばかりだった。
 早く無事を知らせようと、麗奈は母の携帯に電話を掛けた。
『もしもし! 麗奈!?』
「あ、お母さん」
 電話を取った母の声は、前日に公衆電話越しに聞いた時とは裏腹にひどく焦っていた。
「ごめん、電話するの忘れてた」
『忘れてたじゃないでしょ、どれだけ心配したと思ってんの! 昨日は大丈夫だった? 泊まるところはあった?』
「うん、一応。連絡できなくてごめんなさい」
『できなかったの?』
「うーん、風邪引いちゃって」
『えぇ、大丈夫なの!?』
「薬貰ったし、もう元気だから」
『そう……』
 そこで母は一旦黙った。何かを考えているようだ。
『昨日からそのあたりの下宿先調べてるんだけど、これがなかなかなくてね』
「うん。あたしも昨日探してみたけど、全く。民宿があって助かった」
『ほんとに。……ねえ、その民宿、宿泊費いくら?』
「え……そういえばまだ聞いてない」
 ぼったくられたりしないか、やや不安になった。
『まあいいわ、いざとなったら私が出すから。ちょっとお願いがあるんだけど、二、三日そこに泊まっててくれないかしら』
「え?」
『だって、往復したら交通費が勿体無いじゃない。その間に、その辺に他の下宿先無いか探せるでしょ? 私も探しとくから』
「……宿泊費は勿体無くない?」
『全然! だって麗奈が親元離れて泊まるっていう、貴重な経験をする為のお金だもの』
 あっけらかんと笑う。何を言っても通用しない気がして、麗奈は素直に了承した。
「……分かった」
『それじゃ、また電話するから』
 ガチャ、と一方的に切られる。

 麗奈が携帯を置いて立ち上がり、宿の人に昨日の礼を言いに行こうと振り返ったとき。
「うわぁびっくりした!!」
 昨日の少年――ユウが入り口に立っていた。
「失礼だな。そんな驚く事ねーだろ」
「だって気配もなく立ってるから……ていうか勝手に開けないでください」
「一応ノックはしたんだが。電話中だったか」
「うん……あ、昨日は有難うございました」
「いーえ。もう昼飯だけど、食う?」
「あ、じゃあ頂きま……って、昼飯!? 今何時」
「十一時半。おそよーさん」
「……っ」
 揶揄うように言われて、なんだかひどく悔しかった。

「あ、おはようございます」
 ダイニングへ行くと、テーブルで新聞を読んでいた昨日の青年――コウが顔を上げた。
「昨日は有難うございました」
「気にしないでください、熱も下がったみたいで良かったです。お食事召し上がりますか?」
「い、頂きます」
 麗奈は勧められた椅子に座り、部屋を見渡した。
(ここ、本当に民宿……?)
 この宿に来た者は誰もこう思わずにはいられないだろう。それくらい、麗奈のイメージする「民宿」像とはかけ離れていたのだ。
 先程の泊まっていた部屋を出ると狭い廊下が右に広がり、襖があと二つあった。どうやら客室はあと二部屋あるらしい。廊下の向かい側のドアを開けると昨日見た玄関前の廊下だ。
 そこまではまだ良いのだが、その廊下を突っ切って反対側のドアを開けると、そこにあったのはダイニングルームだった。
 どこからどう見ても普通のダイニングだ。一般民家に泊まっているような気分になった。
 昨日見た建物の外観がもし古めかしい和風建築等であれば、まだ民宿の人達の居住スペースも兼ねているのだろうと考えることもできたのだが、外観はどうみても築数年以内のコンクリート住宅で、しかも周囲には似たような家が立ち並んでいた筈だった。
 民宿というより、お泊まりというかホームステイというか。

「はい、どうぞ」
 青年が盆に載った白飯と味噌汁、焼き魚を持ってくる。
「わ、美味しそう」
「有難うございます。召し上がってください」
 そう言って彼はあと二人分を麗奈の向かい側に置き、少年と二人並んで座った。
「頂きます」
 麗奈が箸を持つと、青年はにこにこして麗奈が味噌汁を飲むのを見ていた。
「どうですか? お口に合います?」
「はい。美味しいです!」
「良かったです」
 本当に嬉しそうに笑う。それを見て、隣の少年は呆れたような顔をした。
「自信ない飯を出したのか?」
「そんなものありませんよ、いつも食べるのは私たちだけなんですから。それにユウは、ちょっとやそっと分量を間違えても気付きませんからね」
「……そうかよ」
 麗奈は魚にも箸を伸ばしながら、目の前に座っている二人の顔を盗み見た。昨日は彼等の顔をまともに見ていなかった事を思い出したのだ。

 ユウといった少年の方は見た目十五、六歳くらいで、恐らく麗奈と同じ年頃だ。昨日も見ていたが、やはり髪は金茶色。瞳も髪と同じく金色に近い色をしている。コンタクトでもしているのだろうか。
 そして顔はというと、なかなか整った顔立ちをしていた。切れ長の目に少し長い睫毛、整った眉にすっと通った鼻。世間の若者の目から見れば、イケメンに分類されるだろう。麗奈はもともとそういうのに疎いので、ときめいたりはしなかったのだが。
 そして何故か、頬には名刺ほどの大きさの絆創膏が貼られていた。これで学ランを着崩したりしていたら、金髪と相まって不良にしか見えないだろう。
 一方コウと呼ばれた青年の方は見た目二十代くらい、特に目立った特徴はなく、優しげな瞳が印象的なお兄さん、といったところだ。ただ、髪も目も少しだけ色が薄くグレーがかって見えた。こちらもやはり顔立ちは綺麗なほうで、少年とは違うものの、大人っぽいイケメン人種である。

 この民宿には、この二人以外には人がいないようだった。会話の話題にも出ないし、料理もここにいる三人分しか用意されていない。
「あの……失礼ですけど、お二人はご家族ですか?」
 少し気になって尋ねてみると、青年は困ったような顔をし、少年は逆に尋ね返した。
「どう見える?」
 意地悪な質問だ。
「え? ……お友達、とか……親戚?」
 親子にしては歳が近すぎるし、兄弟にしては全然似ていない。
「まあ似たようなもんだ」
「はあ」
「それより、あんたいつまで泊まる?」
 話を逸らされたような気がした。
「え? 何で」
「だって、さっき電話で何か……二、三日泊まるとか言ってなかったか?」
「あたし、言ったっけ?」
「……受話器の向こうから聞こえた。声がでかい」
「……耳良いんだね。そうそう、下宿先探しててね。家族で田舎の村に引っ越したんだけど、あたしは一人で出て来て」
「ふーん」
 二人が少し興味深そうにしたので、麗奈は村を出てこの民宿に辿り着くまでの経緯を簡単に話すことにした。

「下宿先が見つからなくて住宅街を彷徨っていた」くだりを話したとき、不意に少年が麗奈の話を遮った。
「あんたが探してる“下宿”の条件って、何?」
「は? 条件?」
「そう。駅が近いとか、学校が近いとか、宿泊費はいくらだとか」
「特にない。強いて言えば、安いとこ。あ、でもバイト先が見つかればそこに近いところかなぁ」
「……そっか」
 それだけ言って少年はふと黙り込み、少し考えてから顔を上げた。
「あんた暫くここに泊まれば? 通う学校が決まったら他のところに移動しても良いけど、今だけ取り敢えず」
「えっ……良いの?」
「うん」
 泊めて貰えることにほっとしたが、一つの不安が浮き上がる。
「宿泊費は……?」
「三食の飯付きで、ズバリ一泊一万円也」
………………。
「ええぇぇっ!?」
 麗奈の声と青年の声が、見事に重なった。
「一万って、観光地でもないのに高校生相手に高すぎませんかそれ、ぼったくりじゃないですか! うちは今までそんなに高くはなかった筈です!」
 麗奈の変わりに、何故かこの宿の経営者であるはずの青年が反論する。
「なんだと、ケチ付けんのか」
「そうじゃなくてですね……」
 青年は少年に睨まれ、もどかしそうに口を閉じた。
「そういえば、この民宿二人で切り盛りしてるから家事とか片付けとか、いろいろ大変なんだよな」
 少年は青年の言葉を無視して、少し芝居がかったように呟いた。
「そこでだ。あんたここで暫くアルバイトしないか? どうせバイト先もこれから探すんだろ」
「へっ――バイト?」
「そう。時給は千円、一日十時間働けば宿泊費はチャラ。どうだ?」
「……それって労働基準法に背いてない?」
 確か雇用者は、労働者を一日八時間以上働かせてはいけなかったのでは。
「深いことは気にすんな。十時間ぶっ続けでこき使ったりしねぇよ」
 要するに、お手伝いさんとしてタダで泊めてやる、と言っているのだ。
「え……本当にいいの? あたしお金払わないってことでしょ?」
「良くなかったら提案したりするかよ。で、どうすんだ?」
「そんな急に言われても」
 お金も絡むし、親と話してみないことには何とも言えないし――と、ここまで考えて、自分はお金を出す必要がないことに気付いた。よくよく考えてみると、こんないい話はない。
 ひとまずは学校が決まるまでという事で、若干の不安はあるがとりあえず承諾する事にした。
「じゃあ……よろしくお願いします」
 麗奈が頭を下げると、少年は満足そうに頷いた。
「よし、じゃあ改めて。俺の名前はユウ。裕福の“裕”な。で、こっちがコウ。ひろしって書いて“宏”だ」
「……よろしくお願いします」
 宏が挨拶を返したが、その笑顔がなんだか明るくなかったので麗奈は少し不安になった。そういえば裕は、彼の意見を全く聞いていない。彼はもしかしたら、麗奈がバイトとして居座る事にあまり賛成していないのではないだろうか。優しいから口に出せないだけで。
 それにはお構いなしに、裕が食器を持って立ち上がる。
「じゃあお前、食い終わったら部屋を二階に移すぞ」
「えっ?」
「だって取り敢えず従業員側に回ったわけだから。食べ終わったら荷物をまとめて上に来い」
「あー……そっか。うん、じゃあそうします」
 裕は自分の食器を下げてリビングを出て行った。
 麗奈は食事を続けながら、宏の顔を覗き見る。しかし彼はまた静かに新聞を読み始めていた為、その表情を窺う事は出来なかった。

 食事を終えた麗奈は泊まっていた部屋に戻り、乾かしてあった荷物を全て鞄にまとめた。それを持って部屋を出ると、ちょうど裕が階段から降りてきたところだった。麗奈に向かって手招きし、再び二階へ上がっていく。来い、と言っているらしい。
 玄関の正面にある階段は右に半回転し、一階の民宿にあたる部分の真上の廊下に繋がっていた。一階と同じく廊下には扉が三つ並んでいる。
「こっちだ」
 裕に案内されて二階の最奥、道路側の部屋に入った。
「うわ……綺麗」
 中に入ると下の階とは違ってその部屋は洋室で、新築の家のようにピカピカだった。
「俺が今掃除したから。埃だらけだったし」
「凄い、ピカピカだね」
「倉庫に使ってない家具があるから、取りに行くぞ」
「え? 今?」
「遅くなったら面倒だ」
 裕が麗奈を待たずにスタスタ歩いて行ってしまったので、麗奈は部屋の隅に鞄を置いて慌てて後を追った。
 玄関から出て裏庭に回ると、家の裏側に倉庫の入り口があった。倉庫は家に備え付けのようだが、入り口が裏庭側にしかないらしい。中はかなり広く、中にはベッドや机のほかに箪笥やら自転車やら色々な物があった。
「使わない物がこんなにあるなら、売っちゃえばいいのに」
「……二部屋しか使ってなかったから、後一部屋分が残ってるんだ」
「あ、予備か」
「そう」
 裕は、ビニールで包まれた箪笥を斜めに倒して片方を支えた。
「ほら。そっち持て」
「あ、はい」
 二人で箪笥を抱えて二階へ上がるのは重労働だった。中身は入っていないから少し軽いものの、階段のカーブではかなり時間が掛かってしまう。
 箪笥を置いた後、分解されたベッドや机、椅子などを全て運び入れ終わった時には、準備を始めてから既に二時間が経過していた。

「取り敢えず終わったな」
「有難う」
 麗奈が礼を言うと裕は一瞬キョトンとして、それからふいと目を逸らした。
「別に」
(……無愛想)
 思えば、会ってから一度も彼が笑うところを見ていない。人見知りなのか、こういう性格なのかは分からないが、ニコリともしないのだ。客に対してくらい、もう少し愛想良くしてくれてもいいような気がする。
(あ、もう客じゃないのか)
 住ませてもらえる事になったのなら尚更だ。何でもいいから話題を見つけようと思って、窓を開けて外を見ていた裕に声を掛けた。
「ねえ」
「ん」
「その……、髪の色、綺麗だね。本物?」
「……それは、ズレるかどうかって訊いてんのか?」
「は? 違う違う! そうじゃなくて、染めてるのかなーと」
「これは地毛。目も本物」
「そうなの? ふーん……でもハーフっぽくないし……そういう血筋?」
「……まぁね」
 不思議な事もあるものだ。
 そして、再び沈黙。会話が続かない。
「あの……、顔のそれ、どうしたの? 怪我」
「喧嘩した」
「喧嘩したんだ……」
「向こうが売ってきたんだ。だから買った」
「あー、そう」
 顔が綺麗なんだから、あまり傷つけないほうがいいんじゃない。……とは流石に言えない。麗奈が次の話題を探していると、裕は窓から離れてドアに向かった。
「荷物、片付けとけよ。俺は下に降りるから」
「うん……あ、はい」
 裕が部屋を出て行ったので、麗奈は鞄から荷物を出し、置かれたばかりの箪笥や机の引き出しに入れていく。あまり多くもないので、数十分もしないうちに全て片付け終えてしまった。

 さっき裕が外を見ていた窓から外を見ると、住宅街の向こうに麗奈が電車を降りた霞原駅が見える。その更に遠くには、山がある。
 長閑な町だな、と思った。都会から離れていて、随分静かだ。
 麗奈は歓喜のために窓を全て開け放して部屋を出た。階段を降りて一階に足を付いた時、ダイニングのドアの向こうから裕と宏の話し声が聞こえ、麗奈は思わず足を止めた。
「……だから、どうして」
「何べんも言ってるだろ。何となく」
「何となく、ではないでしょう。今までこんな事は無かったのに……」
「今まで無かったらこれからも無いのか? 大体、従業員が増えるのがどうして悪いんだ。家事の手間が減るし、給料も払わなくていいし、十分じゃないか」
「確かにそれはいいかもしれませんが」
「だったらいいだろ」
「そうではありません! どうして、にん――」
「片付けは終わったのか?」
 裕が急にドアの外に向かって声を掛けてきたので、麗奈は飛び上がった。立ち聞きするつもりはなかったのだが、まさかあちらが気づいていたとは思わなかったのだ。
「う……うん、終わったよ」
「そうか」
 リビングに入ると、ダイニングテーブルの上には救急箱が広げられていて、宏が裕の左腕に巻かれた包帯を解いているところだった。
 喧嘩をしたという時に付けられた傷だろうか。顔だけでなくあちこちにある。包帯の下の傷はかなり深くて目も当てられないほどだ。
 にもかかわらず宏はピンセットで消毒液の染み込んだ脱脂綿を取って、バチンと音がするほど勢い良く傷口に叩きつける。
「痛ってえ!!」
 裕が悲鳴を上げた。
「我慢」
「今絶対わざとやっただろ!」
「喧嘩したのが悪いんです」
「……お仕置きかよ」
「そういう訳ではありませんが。ほら動かないで、消毒しないと化膿してしまいますから」
 宏が裕の左手首をがっちり固定して消毒を続け、裕は歯を食いしばって耐えている。暇を持て余した麗奈は、空いた椅子に座ってその様子を眺める。
 やがて、治療が終わって絆創膏や包帯の全てが取り替えられた。宏が救急箱を持って席を立った後、麗奈は立ち上がって裕に声をかけた。
「あの……ちょっと出掛けても良いかな?」
「は? 別に許可なんて取らなくても。何処か行きたいのか?」
「町の探検。駅前とか、お店が色々あったから見て回りたいなと思って」
「ご自由に。迷うなよ」
「う……気を付ける」
 麗奈は二階に上がって携帯と財布を鞄に入れ、民宿を出た。駅まではほぼ一直線とのことだったが、迷わないように何度も振り返って元来た道を確かめながら進む。傍から見れば挙動不審の怪しい人物に見えたかもしれないが、そうでもしないとまた昨日のように迷ってしまうから仕方ない。

 予定よりも少々時間は掛かったものの、無事に駅まで辿り着くことは出来た。
 駅前の商店街には服や雑貨などの店が色々あって、近くの学生らしき若者たちや、子連れの母親たちが楽しそうにおしゃべりしながら歩いていた。中高生がぶらぶらするのには持って来いの場所だ。
 今はまだあまり金を使う訳にはいかないので今日は見て回るだけにしたが、そうこうしているうちに気付けば一時間を軽く越していた。気になる店をいくつか見つけたので、また今度来ようと決めて携帯にメモを保存した。
 町の向こうに、小高い森のようなものがある。商店街の案内所でもらったパンフレットによればそこは隣町との境にある大きな自然公園で、町民達の憩いの場となっているらしい。
 駅前からその公園が見えたので、麗奈は少し興味を持ってそちらに足を進めた。
「……誰もいない」
 公園には、見事に人っ子一人いなかった。初め疑問に思ったが、すぐに気が付く。今日は平日だ。
 誰もいない公園を歩くというのも、貸し切っているようでなんだか楽しくなる。遊具も売店も無く芝生と小さな森だけの自然公園を、麗奈は独り占めしたような気分で歩いていた。その時、
――キィン!
 突然、硬い金属を打ち合わせたような甲高く微かな音が公園内に響いた。
「え? 何の音……」
 辺りを見回すが、何も変化は無い。
 気のせいかと麗奈が首を傾げたその時、刀が空を裂くような音が耳元を掠め、続いて胸元でパキンと何かが割れる音がした。
 驚いて見下ろすと、首から提げていたはずの水晶のペンダントの紐が切れ、石が砕けて足下に落ちている。は萩山を出る時に、誕生日プレゼントとして萩に貰ったものだ。
「嘘……なんで?」
 拾ってよく見ると、紐はまるで刃物で切ったかのように断面が綺麗だった。劣化で千切れてしまったのではない。何者かが切ったのだ。ずっと身に着けていたはずのこれを、誰が、どうやって。
「いつの間に……」
「よくやった、リュウ」
 突然背後から、若い男の声が聞こえた。
「任しとけって言ったろ!」
 今度はもっと明るい、別の男の声。
 驚いて振り返ると、今の今まで誰もいなかったそこに、黒いロングコートを着た二人の男が立っていた。フードを深く被っていて、顔がよく見えない。
そして二人のうち片方、先に聞こえたほうの声が、麗奈に話しかけてきた。
「……高沢、麗奈さんですね?」
「違います」
 見知らぬ人間に名を呼ばれ、気味が悪くなる。麗奈は即座に否定して、立ち去ろうとした。しかし男は早足で先回りして行く先を阻み、再び同じ質問をする。
「高沢麗奈さんですよね。萩山神社の跡取りの」
「……すみませんが、どなたですか」
 名を聞く前に名乗るのがマナーだ。得体のしれない不安を拭い去って負けじと尋ね返すと、男は勝利を確信したかのように薄く笑った。麗奈の背中を嫌な予感が駆け抜ける。
「ああ、よかった。やはり人違いではなかったようだ」
「人違いです。そんな人知りません」
 麗奈が強く言って方向転換すると、男は麗奈の言葉は気にも留めないように、麗奈の腕を掴んで引き留めた。
「我々とご同行願います」
 ヤバイ、と直感した。ただ事ではない。これはもしや、世間一般で言う誘拐、若しくは拉致ではないか。
「ちょっと……離して! 何なんですか!」
 麗奈は男の手を振り払い、数歩後退る。
「何してんだリョウ、早くしねえと彼奴等来ちまうだろ」
「解ってる」
 手持無沙汰に見ていた男が焦れたように急かして、リョウと呼ばれた方が頷いた。
「少々手荒くなりますが」
「! 何する気!?」
 再び男がこちらへ伸ばした手をかわし、麗奈は駆け出した。しかし数歩走ったところで突然足に何かが引っかかり、前につんのめって転びそうになる。
「危な……何、これ」
 地面から伸び出した植物の蔓が右足首にぐるりと巻きついている。てっきり草の根に足を引っかけただけかと思ったのに、引っ張っても外れない。普通には有り得ない現象だった。
「ちょっと待って、何これ!?」
 二人組が黙って歩いてきて、抵抗する麗奈の両手を素早く掴んで背中に回し、拘束した。
「痛い、放して!」
「別に命まで奪ったりしませんからご安心を」
「少しだけ血を頂くよ」
「あぁそうですか……って、血!? もしかしてあんた達、悪徳献血業者の……いや吸血鬼が、輸血を……病院で、あれ?」
 混乱してきた麗奈を見て、男は不思議そうに尋ねてくる。
「ひょっとして、ご自身の立場をご存じないのですか?」
「無自覚だったのか……だからこんな町で無防備に一人歩きしてたって訳か、あんな小さな結界だけで。こちらとしては大変好都合だったが」
「何の話、意味分かんないんだけど!」
 麗奈は恐怖と焦りで泣きそうになる。すると二人は、麗奈がすでに抵抗できない状態になっているためか、わざわざ説明してくれた。
「貴女は代々神社に仕える一族の娘でしょう。だから生まれつき、強い妖力を持っているのですよ」
「強い妖力を持つ人間を食えば、強い妖力が手に入る。今までは萩神の強い護りがあったから誰も近づけなかったみたいだが……あんたがこの街に出てきてくれたお陰で俺達にも手を出すことが出来るようになったって訳だ。まぁ、昨日はあの狐んとこにいたからちょっと手は出せなかったけどな」
「そして、さっき貴女に掛かっていた守護は、あの小さなペンダントだけ。アレを壊せば貴女は完全に無防備で、どんな雑魚でも手を出せる」
「はぁ……? 何を言ってるのか、さっぱり」
「要するに、俺達からしてみればあんた格好の獲物だって事さ」
「……えもの」
 獲物。つまり、獲られるモノ。
 食物連鎖でいえば食われるモノ。
 それって……。
「た、食べられるの!?」
「俺たちはそんな野蛮じゃないから、いくら何でも食いはしねぇよ。血だけ少しくれればすぐに放してやるさ。今の時代、肉まで食うのはよっぽどの物好きだけだ」
「あぁ、でも……」
 男の片方が、にぃっと不敵な笑みを浮かべた。唇から覗いた犬歯がやけに鋭く見えて、思わずぞっとする。
「ほら、貴女が泊まっている宿、あの二人はどうだか分かりませんよ。もしかしたら、肉まで食べるのかも。そのつもりで家に置いているのかもしれませんしね」
「何の話……? 変な事言わないで」
 眉をひそめる麗奈を見て、二人はくすくす笑った。面白がられている。でも、何を言われているのか分からない。得体の知れない恐怖に、麗奈はただ二人を睨み付けるしか出来ない。
 足に巻きついていた蔦がじわじわと伸びて、腰の高さまで巻きついてくる。背中で拘束されていた両手も、一緒に巻き取られる。
 動けない。
 食べられる、と思った。普通に人間生活をしていてこんな感覚を覚えることなどほとんどないのだろうけれど、比喩ではなく、本当に食べられると思った。人間にこんな本能があったなんて、と頭のどこかで感心しながら、しかし声に出すことも出来ず、身動きも取れずに、ただただ途方に暮れていた。
「では。ご同行願います」
「嫌っ――放して! ちょっと、誰か!!」
 全身巻き取られてそのまま連れていかれそうになったところで我に返り、咄嗟に大声で助けを呼んだ。白昼堂々人さらいをしようとしているのだ、誰か一人くらい気付いてくれてもいいものなのに誰も気付いてくれない。麗奈の考えを察したかのように、フードの男の片割れがにやりと笑った。
「助けを求めても無駄ですよ。この公園には強力な結界を張りましたから。外には貴女の声は届きません」
「そうそう。たとえあの狐と言えど、入っては来れ……」
その時。
――パン!
 ガラスが砕け散るような音がした。
「……何?」
 二人組が振り返る。麗奈も恐る恐る振り返ると、そこにいたのは。
 民宿の、若いほうの彼だった。
「おい! 無事か」
「裕くん?」
「……ゆうくんて呼ぶな、気持ち悪い。裕でいい」
「えっ? あ、はい……っていうかそんな場合では……た、助けて」
 何故か鬱陶しそうに呼び方を訂正され、麗奈は訳も分からぬまま取り敢えず助けを求める。裕はそれには答えずに黒いフードの二人組を見据えた。
「さあ続きをどーぞ。“たとえあの狐と言えど、入っては来れ”?」
「入っては来れ……たり、したかもしれないなぁ……」
 片割れが、へらへらと情けない笑みを浮かべて後退る。もう一方が焦ったように責め立てた。
「リュウ! 結界はしっかり張れってあんなに言ったじゃないか!」
「えぇ……いや張ったんだけどよ、なんつーかこう……俺じゃ力不足でした? みたいな? はは」
「妖術じゃ彼奴には敵わないんだぞ!」
「解ってるけどよぉ」
 二人が言い争う間に、裕は欠伸でもしそうなくらい平然としてこちらにすたすた歩いてきた。それに気付いた二人が、麗奈を後ろにして裕と向き合う。
「横取りはさせねぇぞ!」
「はぁ? どっちが横取りだ」
「……やはり独り占めするつもりでしたか」
「いや、誤解を招く言い方すんなって。大体俺は全くそんなつもりはさらさら無ぇし、ただバイト先探すって言ったから泊まらせただけだし」
「つまらん嘘を! どうせ獲物を閉じ込めておくつもりだったのだろう」
「誰が獲物だ誰が。大体、勝手な想像で話を進めんな妄想族め。こんな街中で人間捕まえてんじゃねえよ。もし他の人間に見られたら大騒ぎだろうが」
 そこまで言ったところで、裕は右手を顔の左で構えた。
「なっ……なんだ、やる気か! やれるもんなら――」
「よせリュウ、挑発するな!」
「別にてめーらなんぞの挑発に乗るつもりは無い。……おいそこの簀巻きのお前、動くなよ」
 スマキ。麗奈は自分の体を見下ろした。肩の辺りまで完全にグルグル巻きにされている。簀巻きだ。
「動くなって言われても動けないもん」
「……分かったよ、じっとしてろ」
「だから、動けないからじっとせざるを得ないん……」
「いいから黙ってろ」
 裕は右手を左から右へ、空を切るように素早くスライドさせた。それと同時に、麗奈の体を束縛していた蔓がバサリと地面に落ちる。まるで見えない刃物が飛んで来たみたいだった。
「えっ……切れた?」
「あぁっ!」
 男二人が呆気に取られている隙に裕が駆け寄ってきて麗奈の腕を掴む。そのまま腕を引いて彼等から素早く距離を取った。
「大丈夫か? 怪我はないな」
「だ、大丈夫……ねえ、今、何したの?」
「いや、まあちょっとな。……怖かったか?」
「少し……っていうか、そもそもあの人達、何者? 血を飲むって何? 裕く……裕は知ってる人?」
「知ってるかどうかと言えば、知ってることに……」
 そこで裕は言葉を切り、ハッとして顔を上げた。直後、ボールか何かが飛んでくるような音が、ひゅん、とこちらに向かってきた。
 裕が麗奈の前に出て、それを左腕で受ける。ばしん、と確かに何かがぶつかった音がした。
「っつ!」
 右手で左腕を押さえて、裕がしゃがみ込む。飛んできた何か、はどこにもない。が、裕の腕に当たったのは確かだった。まるで空気の塊のような。
「……いってぇー」
「大丈夫!? ……あ、そこ、もしかして」
 左腕は、確か包帯を巻いていた。あの目も当てられないほどの深い傷があったのは、左腕の筈だ。
 裕が左手の袖を捲り上げると、包帯に血が滲んでいる。それを見て裕が舌打ちした。
「ああ、そこは確か……?」
「そうだよてめーらにやられたとこだよ!」
 惚けたように首を傾げる二人組に、裕が怒鳴りつけた。
「くそ、せっかく血止まったのに……また宏に痛い消毒される」
「喧嘩した相手って、この人達だったんだ」
「あー、まぁな。……宏! いるんだろ」
 麗奈の呟きを軽く流して、突然裕がどこかへ強く呼びかける。直後、傍の茂みから素早く飛び出した影が、裕と麗奈の前に背中を向けて立ちはだかった。
 ジャケットの後ろ姿には見覚えがある。
「えっ……こ、宏さん!?」
「宏、彼奴等とっ捕まえろ」
 裕が一言、まるで命じるようにそう言う。宏は不服そうに眉を寄せて振り返った。
「……それは裕の仕事ではないのですか?」
「何で俺が」
「私なんかより、断然裕の方がお強いですし」
「嫌だ、面倒臭い。それに俺は彼奴等が気に入らねえんだ」
「はぁ……分かりました」
 宏は一瞬麗奈の存在を気にするようにチラリと視線を遣り、しかしすぐに逸らして、二人組と対峙した。
「申し訳ありませんが、ここ一帯は裕のテリトリーです。出て行っていただけますか」
「その人間を渡してくだされば考えます」
「雑魚が口出しすんな」
 宏の言葉に二人組が返す。返事を聞いた宏の顔が、ピリッと引き攣った。
「ざ……雑魚……」
「おーいおい乗せられてんぞ。そんなあっさり挑発に乗るんじゃない」
 裕に諭されて、宏がハッと我に返る。
「……そうでした」
 二人組のうち、口の悪い方がニヤニヤしながら前に進み出た。
「じゃあお前倒したら、出てってやる代わりにその人間寄越せよ」
「おお、いいぞ」
「裕!?」
 宏が答えるより先に、何故か背後から裕の返答が飛んだ。焦った宏の声は裏返る。
「そんな無責任なこと言って」
「負けると思うから負けるんだ。勝つと思えば勝てる、さあ行け相棒」
「誰が相ぼ……わっ」
 突如宏の足下の土が盛り上がり、まるで小さな爆弾でも仕掛けたかのように音を立てて芝生が吹き飛んだ。宏は咄嗟に飛び退いたが、着地したその場所からも土が次々に吹き上がってくる。
 軽いステップでヒラリヒラリと全てをかわし、宏は二人組と間合いを取る。そしてすかさず彼が右手を突き出すと、今度は見えない手に突き飛ばされるように、二人組が数メートル吹き飛んで地面に転がった。

 あれはいったい何合戦だろうか。今度は攻撃を仕掛けている立場に立ったらしい宏を見ながら、半ば呆然として麗奈は裕に尋ねた。
「ねえ……あの人達って、何なの? あれ何してんの?」
 未だに何が起こっているのか理解出来ない。先程と同じような質問だ。裕は暫く考え込むように口を噤んだ後、呟いた。
「山に住む……妖だな」
「アヤカシ?」
「妖怪」
「ようかい……って、はぁ!? 妖怪ってあの、ろくろっ首とか塗り壁とか一反木綿とか?」
「……まあ、そーゆーのもだけど、あいつらは、……長く生きて妖力を持って、化けたり妖術を操ったりする獣、って言ったら解りやすいか? 化ける狸とか狐とか、猫叉とか。あの二人は山犬だな」
「いや……まさか。そういう非現実的な話じゃ……ない、でしょ?」
 否定して欲しくて裕を見るが、裕は何も言わない。
「……まさか本気?」
 混乱しながら恐る恐る問うと、裕はゆっくりとこちらを向いて、ぽつりと付け加えた。
「……俺も宏も、そうだって言ったら?」
「へぇ……って、ええ? はぁ、うっそぉ!?」
「いや、さすがにあんな光景まで見せちまったら、今更誤魔化しようがねぇし……本当」
「……本当……?」
「うん」
 俄には信じられない。
 だが、信じられないのと同時に、麗奈は頭の何処かで納得もしていた。
 蔓が伸びて巻き付いたり、触れずに物を切断したりという不可思議な現象は、全て妖怪の仕業だったから起こり得たのだ。
 麗奈がどう反応して良いか分からずに裕の目を見ると、目を逸らされてしまった。唇を噛んでじっと地面を見つめる表情からすると、あながち嘘とも思えない。この表情が、笑いを堪えている表情だとするなら話は別だが。

 その時、裕が息を呑んで顔を上げ、鋭く叫んだ。
「宏、後ろ!」
「え――ぅあっ」
 宏の後ろの地面から飛び出した蔓が、素早く宏の体に巻きついたのだ。蔓はあっという間に首にまで達し、息が詰まった宏は苦しげに咳き込む。
「……かはッ!」
「あの馬鹿、何してんだよ……トロいにも程があんだろ」
 宏が蔓を振り解こうとしてもがくが、効果は無い。裕が舌打ちし、大声で叫んだ。
「もういい、宏! 戻っていい、戻れ!」
「あ、もう終わりか? つまんねぇな、やっぱ雑魚だ」
 ニヤリと笑った黒い男を、裕が睨みつける。
「違ぇよ、その戻れじゃねぇんだよ。……宏、早く原身に戻って抜け出せ、窒息したいのか!」
 裕が叫んだ直後、蔓に巻きつかれていた宏の姿がふっと消えた。同時に、ゴウ、と音を立てて炎が立ち、蔓が激しく燃え上がる。
 そしてその炎の中から、一頭の獣が落下して地面に着地した。
 舌を出して苦しげに息をするその動物は、麗奈も見たことがある。
――狐だ。
 しかしそれは普通の狐ではなく、鈍く光る銀の毛皮を持つ、銀狐だった。
「大丈夫か」
 ポカンとする麗奈に構わず裕が呼びかけると、その狐は振り返って頷いた。
「……なんとか」
(喋った……!?)
 麗奈はぎょっとして言葉を失う。
「背後には気をつけろって、いつも言ってるだろ」
「すみません、失念していて」
「馬鹿野郎、そんなんじゃいつか死ぬぞ」
「すみません」
「てめーらいつまで遊んでるつもりだ!」
 二人組の片割れが叫び、銀狐――宏が向き直る。麗奈は、振り返りざまに彼が再び麗奈に視線を向けたのに気が付いた。宏は、先程から麗奈の存在をずっと気にしているのだ。まるで、麗奈がいることに何か不都合があるとでもいうように。
「……麗奈」
 裕が呟いた。
「分かったろ? あれが宏の本当の姿……原身の、狐だよ」
「……さっき言ってたのって……」
「そう。……この事だ。あの二人組も……、俺も宏も、人間じゃない」
 麗奈は暫く呆然として、裕の金茶の瞳を見つめ返した。

「人間じゃないって……?」
「言葉通りだ。お前等人間から見れば、俺もあの二人も全く同じ、バケモノだってこと」
 少し間をおいて、麗奈は呟いた。
「あたしは……思わないけど」
「思わない?」
 裕が顔を上げて少し目を見開く。
「全く同じだとは、思わない。その……例えば悪役と正義の味方くらいの違いはあると思うし。裕く……裕は、助けてくれた訳だし。それとも、あの人達が言ったみたいに、肉まであたしを食べるつもりだった?」
 麗奈が言うと、裕は思い切り顔をしかめた。
「……はぁ? 彼奴等そんな事言ったのか? 悪趣味だな」
 やはり、あれはただの脅しだったようだ。少しだけほっとする。
「うん。いくら何でも、そんな馬鹿な話は信じなかったけど」
「ならいい……けど」
 裕はそう言ってふと視線を逸らし、自分の足元を見つめた。
「……お前……、怖がらないのな」
「え?」
 首を傾げると、裕は母親に言い訳する子供みたいに、目を伏せてボソボソと呟いた。
「その……だって嫌だろ、妖怪だぞ? 人間じゃねえんだぞ? 普通怖いとか気持ち悪いとか思うだろ……」
「……もしかして裕は、自分が妖怪で人間じゃないのが怖くて気持ち悪い?」
「いや、さすがにソレはないけど」
「びっくりはしたよ、初めて見たから」
 麗奈はそう言って、少し考え込んだ。非現実的だとは思う。不思議だとも思う。あり得ない、とも思ったかもしれない。けれどそれよりもっと別の感情。うまい言葉が見つからない。
「なんていうか……草が巻き付いてきたり、血をくれって言われたりしたことより……知らない人に連れていかれそうになったってことの方が怖かった。裕と宏さんもそう。二人が人間じゃないってことよりも、助けて貰ったってことの方が大きいから、……怖くはなかった。だから、さ」
 麗奈は裕の金茶の瞳を見る。
「裕は、……裕だよ」
「……そんな事言う人間、初めて見た」
 裕は半ば呆然としたように呟く。
「そう? じゃああたし、裕が初めて見るタイプの人間第一号だね」
「変な奴……」
 笑ってそう言うと、裕は麗奈を見慣れない生物でも観察するようにじっと見つめた。
 と、その時。
「キャン!」
 突然甲高い獣の悲鳴が上がった。狐の鳴き声だ。
 敵の攻撃に弾き飛ばされた宏が地面を滑り、数回バウンドして裕の足下に転がる。
「宏! 何やってる」
「痛た……すみませんっ」
 慌てて立ち上がろうとする宏の前に出て、裕が右の掌を二人組に向けた。
「要領悪いな。一人ずつ相手にするからもう一方の攻撃喰らうんだろが。よく見てろ」
 油断していた二人組は、裕が一歩前に出たのに気付くのがワンテンポ遅れた。
「いいか宏、もっと豪快にだな、こう」
 突き出した右手を、ひゅっと上に向ける。するとその手の動きに従うように、二人組の足下から突然巨大な水柱が勢い良く吹き上げ、二人は数メートル弾き飛ばされて地面に叩きつけられた。追い討ちをかけるように、吹き上がった数百リットルの大量の水が降り注ぐ。
「ぶわっ」
「ぎゃあ!」
「これで済むと思うなよ。この間の仕返しだからな」
 再び裕が手を上げると、慌てて逃げようとする二人組に今度は見えない空気の塊がぶち当たり、弾き飛ばされて転がった。
「他人の土地に侵入して許可無くうろついた挙げ句、ちょっと声掛けただけで暴力たぁ、ただのチンピラじゃねぇか」
 もう一発。またもや吹き飛ばされて、二人が地面に転がる。相手にはもはやこちらに構う余裕はなさそうだ。麗奈はその隙に、足下に座り込む宏に声を掛けた。
「……怪我は、大丈夫ですか?」
「……傷はありません」
 麗奈と目を合わせず、淡々とした口調で答える。無表情なのは、狐の顔だからというだけではなさそうだ。
 しかしよくよく見ると、手――というか前足が、細かく震えているのが見えた。三角形の耳が、低く伏せられている。宏の素っ気ない態度は、怯えている動物のそれだった。
「別に何もしませんよ……怖がらなくても。それにあたし、狐大好きですから」
「怖がるだなんて、別にそんなこと」
「ちょっと……手? 触らせてください」
「……はぁ?」
 突然の頼みに不思議そうな声を出し、宏は前足をそろりと差し出した。断られるだろうと思っていた麗奈は、素直に宏が前足を差し出したことに驚く。握られるのは嫌だろうと思って、人間で言う手首の辺りを人差し指で軽く撫でた。
「やっぱりふわふわなんですねー。……いや、違うな、さらさら?」
「……怖くないんですか?」
 宏が裕と全く同じ事を訊いてきた。
「宏さんは宏さんですから」
 麗奈は苦笑して、裕に言ったのと同じように答えてやる。
 宏は態度を変えたりはしなかったが、それでも少し空気が和らいだ気がした。

 ふと裕の方を見やると、彼は足に巻きつく蔓から逃げようともがく二人組を冷たく見下ろして(というよりは見下して)いるところだった。
「わあぁ、もう勘弁して!」
「悪かったって、出て行きゃあいいんだろ!」
「はあ? なーに訳の分からん事を」
 なんだか別人の様だ。かなり頭に来ているらしい。
 再び裕が右手を高く上げて振り下ろすと、どこからか現れた大量の水が再び二人組に直撃した。
「まぁ、こんなもんか」
 やがて、やけにすっきりした顔で裕が呟く。水が引くと、そこにはあの二人組の姿はなく、二枚の黒いコートだけが残されていた。
――否、コートの中で何かが動いていた。
「麗奈! ちょっと来い」
 手招きされて麗奈と宏が近づくと、裕はそのコートを拾って脇に投げた。
 そこには、ずぶ濡れになって気を失った真っ黒な犬が二頭。
「い……犬だったんだ」
「見覚えは?」
 訊かれて、麗奈は首を傾げた。
「さあ……犬なんて飼ってないし……犬の知り合いもいないけど?」
「本当に?」
「えー? 見覚えなんて……、いや……あるかも……?」
 よくよく思い返すと、彼等を何処かで見たような気がする。この町に来て最初、下宿先を探して道に迷っていた時――。
「あ……、あぁー! 道端で喧嘩してた……パン食って逃げた恩知らず!」
「ご名答。おいコラ、起きろバカ犬ども」
 裕が爪先で二頭を突付くと、片方がハッと目を開けて自分を見下ろす二人と一頭に気が付き、ヒッと小さく声を上げて隣の片割れをぐいぐい押した。
「りょっ……リョウ! おい起きろ! 起きろ寝ぼすけ、遅刻するぞ、起きろ早く起きろー!」
「リュウ……? ……あ、うゎ」
リョウと呼ばれた方がガバッと身を起こし、しかし二頭は胴の位置で縛られていたためバランスを崩してぺしゃりと地面に倒れこむ。
「ざまあみやがれ。お前等が俺に挑んで勝てるわけがなかったんだよ」
 勝ち誇ったように見下ろす裕を、半眼で見上げる二頭の犬。
「……ふーん? じゃあその、左手の傷は?」
「……お前等が妖術でもって俺に勝てるわけがなかったんだよ!」
 言い直した。
「お前等、パンくれた恩人に対して何ちゅー仕打ちだ? 恩知らずにも程があるだろ。それに大体、霊力の強い人間食えば霊力が手に入るなんて古い迷信、まだ信じてる奴がいたのか?」
裕の言葉に、二頭は目を見開く。
「め……迷信!?」
 尋ね返した二頭に、裕は呆れかえった視線を向けた。
「そ、迷信。だってよく考えてみろ、植物食って光合成出来るようになるわけでも、魚食ってエラ呼吸できるようになるわけでもないだろ?」
「嘘だ……」
「迷信……」
「可哀そうになあ、一体誰にそんなこと吹き込まれたんだか」
 二頭はポカンとして裕の目を見つめ続けていたが、突然ハッと我に返って同時に麗奈のほうを向き、声を揃えた。
「申し訳ありません!!」
「え?」
 深々と頭を下げられて、麗奈は戸惑う。
「何……」
「貴女は我々にパンをくださったというのに、欲に目がくらんで何という無礼な事を……」
「迷信を信じ込んで危うく大変な過ちを犯すところでしたっ」
「お詫びは致します!」
「どうぞ何なりとお申し付けください!」
 頭を下げる二頭を見つめ、麗奈は少し迷った後に両手で頭をポンポンと軽く叩いた。
「たかがパン一個で、そんな大袈裟な。……ていうかもういいよ、反省してるなら」
「え ……いえ、ですがそんな訳にも」
「お詫びとかいいよ、いらない。……じゃ、その代わり、もうこんな事しないって約束してよ」
「……本当にいいのか? 金でも物でも欲しいもん手に入れるなら今だぞ」
 裕が不満気に口を挟む。麗奈は苦笑を浮かべた。
「それじゃ、あたしが悪者みたいじゃん。ね、この縄……蔓? もう取ってあげて」
 麗奈がそう言うと、裕は渋々と手を上げ、それに従って二頭に絡み付いていた植物の蔓は地面に吸い込まれるように消え失せた。

「ねぇ。ところでどうしてあたしの血が欲しかったの?」
 麗奈が尋ねると、二頭は顔を見合わせて少し考える素振りを見せ、リョウがぽつりと口を開いた。
「……根城の山が、人間に伐り拓かれてしまいまして。新しい住処を手に入れるには、他の妖と戦う必要があるでしょう」
「俺等じゃ勝てねーもん……」
「……だからドーピングして勝とうってか? 自分が弱いと思うなら、他の妖が少ない土地を探せばいいんだ。それが嫌なら、努力して鍛えろ」
「……はい」
 裕の言葉に、二頭はシュンと耳を萎れさせた。
「……もういいから。ごめんね、助けになれなくて」
 気の毒に思った麗奈が何となく謝ると、二頭はぶんぶんと首を振った。
「とんでもない! 自分達の力不足なんですから、自分達で何とかします。……それから、我々をお許しいただいた、この御恩は絶対に忘れません」
 二頭の犬は再び深く頭を下げた。
 ブルブルと体を振って水を飛ばすと、リョウの方だけが人間の姿に変化した。
 コートを拾って着直すと、ポケットから財布を取り出し、麗奈に小銭を渡す。
「あの……これを」
「お金? 何で……百五十円?」
「私達が頂いたあのパン、駅前のカスミベーカリーで百五十円で売ってる“霞アンパン”でしょう? 一日三十個限定の」
「え、何で判ったの?」
「我々、あれが大好物なんです。いつも買っていたのですが、最近はお金が無いので買えなくて……我々は人間ではないから、まぁそれが当たり前なのですが。……だからとても有り難く頂きました。お金だけでもお返しします」
 麗奈の手に小銭を押し付け、ぺこりと頭を下げると再び犬の姿に戻る。そして、自分のコートをくわえて先に行っていたリュウと合流し、何度も振り返って会釈しながら二頭で駆け去っていった。

「なんかいい人だったかもね」
 麗奈が言うと、裕はぎょっとして振り返った。
「あれがいい人!? 命を狙われておいて?」
「なんか律儀だったし。百五十円返してくれたし」
「あ、そ……でもホント彼奴等馬鹿で良かったな、あんな嘘簡単に信じてくれて」
「は? 嘘って?」
 今度は麗奈が驚いて聞き返す。
「そう、嘘。迷信だとか言ったのは嘘。確かにお前の血を飲めば妖力は強くなる」
「騙したの!?」
「だってそうでも言わなきゃ、痛めつけて逃がしたってすぐにまた執念深く追われるだろ? ま、彼奴等あそこまで言ったんだから、嘘だとバレてももうお前を襲ったりはしないだろうけどな。……第一」
 裕が屈んで、足下に落ちていた麗奈のペンダントの欠片を拾った。
「“妖力の強い人間を食えば妖力が手に入る”ってのが迷信なら、誰だか知らないけどこんなモノ持たせないだろ。これ、弱い妖なら寄せ付けない結界を作るまじないが掛けてある。俺には通用しないけどな」
「それ、そんな凄い物だったの……ってまさか裕、あんたまで!」
「まさか、俺には人間を食う勇気は無いから安心しろ。第一そこまで妖力を欲するほど弱くねえし。それに人を襲うのはよっぽどでかい獣か野生の猛獣だけだ」
「そう? ならいいけど」

 その時、いつの間にか人間の姿に変化した宏が、汚れた服の砂を叩きながら二人のもとに歩いてきた。
「そろそろ帰りませんか」
「そうだな。そういやお前、夕飯の準備するんじゃなかったか?」
「はい。ですから」
 宏が麗奈のほうに向き直る。
「お手伝いして頂けますか?」
「あたしがですか?」
「バイト初仕事です」
「バイト……そっか、はい! じゃあお手伝いします」
 その時、裕が少し驚いたように宏を見つめているのに気が付いたが、麗奈は何も言わなかった。
 歩き出した二人の後について歩き、公園の出口まで来たところで麗奈は足を止めた。
「裕、あの……助けてくれて有難う!」
「何が?」
 思い切って言ったのに尋ね返されて、麗奈は一瞬自分が日本語を間違えたのではないかと焦る。
「え?」
「そんなとこ止まってないでさっさと来い」
 裕は振り返らずに行ってしまう。
 宏が歩くペースを緩め、麗奈の隣に来て耳打ちした。
「照れ屋なんです」
「そうなんですか……。あ、宏さんも、有難うございました」
「いいえ」
 照れくさそうに微笑む。
 麗奈はやっと宏にも認められた気がして、少し嬉しくなった。

 三人は民宿へ帰りつき、玄関のドアを開けた。
「……ん?」
 裕と宏が、ふと足を止める。
「……宏」
「……はい」
「何か嫌な臭いがするんだけど」
「ええ……私もです」
「あのさ、お前」
「……すみません」
 宏が言うと同時に、裕は靴を脱ぎ捨ててダイニングへ駆け込んだ。
「宏――っ!! 何べん言ったら解るんだっ、ヤカンを空焚きすんな!!」
「すみませんでした!」
「火事になったらどうすんだよ! あーヤカン真っ黒じゃねーか」
「すみません、緊急だと仰ったので慌てて出て……火を消し忘れてました」
「緊急時でも消火するのは基本だろ! 地震のときはどうしろって教えた!?」
「最初に火を消します!」
「そうだよ!」
 裕にガミガミ怒鳴られて意気消沈しながら、宏は台所に入る。
 麗奈もその手伝いのために台所に入ったが、裕はブツブツいいながら部屋に帰ってしまった。

「宏さん」
 指示されたとおりに野菜を洗いながら麗奈が呼ぶと、包丁を持ったまま宏がこちらを向いた。
「はい」
「気になってたことがあるんですが……ずっと裕と二人暮らしだったんですか?」
「ええ。ここには五年ほど住んでいますが、それよりずっと前からです。……私は、物心付いた時から裕といました」
「へぇー……って、え!? 物心!?」
 驚愕のあまり手に持った野菜を落としそうになった。
 外見から裕は十代くらい、麗奈と同年代だろう。しかし、宏は少なくとも二十は過ぎているように見える。
 物心付いた時と言えば裕はまだ生まれていないか、赤ん坊なのではないだろうか。
 目を白黒させる麗奈に、宏は笑って付け足した。
「あぁ、すみません。私たち妖は、人間とは成長速度が違うんですよ。それに個体ごとにも違うし、一定でもないんです。私が子供の頃から、裕はあんな外見でしたよ」
「え……じゃ、宏さん本当はいくつなんですか? 実は凄く若かったり……?」
 まさか年下ではと思って恐る恐る訊くと、宏は少し首を捻った。
「いえ、私は親がいなかったので実年齢は知りませんが……逆でしょうね。人間の成長は私よりも速いので」
「え? じゃあ裕は」
「裕は私なんかより、ずっと長生きしているんだと思います」
「はぁ……そう……なんですか」
 麗奈はぼんやりと呟いた。なんだかもう、突拍子も無いことを言われても驚かない気がする。
「なんか不思議……てことは裕は、あたしよりも年上ってことかぁ……。じゃ、宏さんにはお兄さんみたいな感じってことですか?」
 尋ねると、宏は野菜を切りながら難しい顔をした。
「お兄さんというか……何て言うんでしょう、裕は裕です。……家族みたいなものでしょうか」
「じゃあ、今朝の質問の答えは“イエス”でいいんですね?」
「質問?」
「『お二人はご家族ですか?』って訊きました」
 宏はきょとんとして、それから少し嬉しそうに答えた。
「そうでしたね。じゃあ、『はい、そうです』」
「ところで今日のメニューは何ですか?」
「カレーですよ」
「あたしカレー大好きです!」
「良かったです! じゃあ頑張って作りましょうか」
「はーい」
 裕のカレーだけに唐辛子を大量投入してみようとか、隠し味にワサビを入れてみようとかいう“裕のカレー激辛作戦”は話し合いだけで終わり、実践には移さないまま、夕飯の時間。
 その頃には裕の機嫌は直っていて、文句は言わずに三人一緒に会話もしながらの夕飯となった。

*****

 食事を終えて入浴も済ませた後、宏が片付けをしている時に麗奈は裕がいないのに気が付いて二階に上がった。
「裕ー? いる?」
 部屋をノックして呼びかけると、部屋の中ではなく後ろの方から返事があった。
「何か用か?」
「へっ?」
 驚いて振り返ると、一階の屋根の上に、裕が寝転がっているのが見えた。二階の廊下の窓から簡単に出ることが出来るのだ。
「いや、何か暇だから話でもしようかなーと……そっち、行ってみてもいい?」
「来れるなら」
 裕が起き上がって少し奥にずれたので、麗奈は慎重に窓枠を乗り越えて屋根の上に出た。
「わ、結構角度急なんだね」
「落ちるなよ?」
「多分大丈夫」
 慎重に歩いて裕の隣に腰を下ろす。
「今日天気いいんだね。星がよく見える……しかも満月!」
「夏はここ、すげー涼しいぞ」
「へー」
 雑談するとは言ってみたものの、特に話したいことがあったわけでもなかったので会話が途切れてしまう。
 何を話そうかと迷っていると、裕の方から切り出した。
「……なぁ、麗奈」
「何? ……って、え、呼び捨て!?」
 驚いて振り返ると、裕は首を傾げた。
「は? さっきからこう呼んでるけど」
「い、いつから」
「忘れた」
「……躊躇いとかないわけ?」
「じゃあ何て呼べばいいんだよ。下働き? 下僕? 手下?」
「……あんたそんなふうにあたしのこと見てたの?」
「冗談。宏が名前で呼ぶから名字が何だったか忘れただけだ」
「高沢、だけど……別に名前でもいいよ。どうせあたしも呼び捨てにしてるし」
 というより、敬称を付けたら気持ち悪いからやめろと言われたのだ。

「で? 用あったんじゃないの?」
「あ、うん。……これ」
 そう言って裕は、何かを麗奈に差し出す。よく見ると、それは麗奈のハンカチだった。
「これが何?」
「……は? いや、何じゃなくて、これ、お前のだろ」
「ん? 貸したっけ。落ちてたとか?」
 疑問に思いながら受け取ると、裕は呆れたような顔をしていた。
「……鈍いな」
「え? 何よ、教えてよ」
 相変わらず首を傾げる麗奈の前に、裕は左手の袖を捲くって包帯を巻いた腕を突きつけた。
「これ見ても分からんか」
「これ? あ、喧嘩したときに怪我したってとこ」
「鈍い、鈍すぎる。……あーもう見せたほうが早い」
 言うや否や、裕が姿勢を変えた。
 かと思うとその直後、彼の姿が一瞬のうちに消え失せる。
 そして、たった今まで彼が座っていたところに、金毛の獣が――何処かで見たような、狐が座っていた。
「あ、あれ……あの、そーいえば……もしかして、まさか?」
「そうだよそのまさかだよ! いちいち面倒臭いことさせんなアホ!」
 確かにソレは、麗奈がこの街に来て最初に見かけたあの狐だ――間違いない。そしてこのハンカチは、傷ついた左の前足に巻いてやったものだった。その狐が、裕の声で喋っている。
「うっそー! もっと早く言ってよー!」
「言えるかぁ!」
「じゃあその怪我って、あの犬に噛まれたとこ?」
「分かりきったこといちいち訊くんじゃねーよ馬鹿!」
 麗奈は何故か急に機嫌を損ねた狐姿の裕を見下ろして、感嘆の息を吐いた。
 ようやくすべてがつながったのだ。町で出会った狐、喧嘩をしていた黒い犬。片腕に怪我をした裕と、襲ってきた黒い二人組。
「あー……そっか、なるほどー、へぇー、すごーい」
「……そんな感心されても」
「いや、やっぱ現実そうなんだなぁと……でも良かった、あたし狐大好きなんだ! 抱き心地良さそうじゃない?」
「良さそうじゃない? とか言われても困るけど」
「あ、そっか」
「うん。……それで、」
 急に裕の声が小さくなった。
「お前を助けたのも別に、礼を言われるようなことじゃないから。当然のことをしただけだ」
「……恩返しとか」
「まあそんな感じ」
 裕は確かに口は悪いしぶっきらぼうだが、結構律儀な男だった。
「けどまさか、お前がうちに来るとは思わなかったな」
「あたしだって行く予定なかったもん。彷徨ってたらたまたま……そうだっ、下宿!」
 裕は麗奈が急に大声を出したのに驚いたのか、耳をピンと立てて顔を上げた。
「何?」
「だってあたし、ここでは暫くバイトするだけってことになってるし……ちゃんとした下宿、探さないと」
「それならいいよ、別に」
 あっさりと言われ、麗奈は目をぱちくりさせた。
「何が?」
「お前さえ良かったら、ここにずっと泊まれば」
「へ?」
「客なんて月に数人来ればいいほうだし。……嫌じゃなかったら」
 暫く裕の言葉を反芻して、麗奈は目を輝かせた。
「本当!? いいの!? それは助かる、やったー……っきゃあ!?」
 喜んで立ち上がり、両手を突き上げその勢いで足が滑った。
 尻餅を突き、滑り台のように滑って危うく屋根から落ちそうになったが、間一髪のところで手首を掴んで引っ張られる。瞬間的に人の姿に戻った裕が、麗奈を引き上げてくれたのだ。
「忙しい奴だな。だから気を付けろって言ったろ」
「ご、ごめ……びっくりした……でも本当嬉しい、ありがとう! だってタダってことでしょ!?」
「どういたしまして。ただしその代わり、じゃんじゃん働いてもらうからな」
「お安い御用! まっかせとい……ぎゃあぁ」
「何回言わせんだよ! そして掴まるな離せ」
 再び滑った麗奈を引き上げた裕は、彼の袖を掴んで離さなくなった麗奈を軽く小突いた。
「こ、怖……だってここ滑るんだもん!」
「そんなこと、最初から……っ、ふ……」
「裕?」
 麗奈が顔を覗き込むと、裕はふいと顔を背けて俯いた。肩が細かく震えている。
「裕……? 何?」
「く、だって、お前……」
「何よ」
「ふ、はは、お前馬鹿……っ」
 何かと思えば、裕は笑っていたのだ。
 麗奈は急に顔が熱くなるのを感じた――照れなどではなく、頭に血が上ったのだ。
「何よっ、人の顔見て!!」
 と、叫ぶと同時に三度目。
「ぎゃぁ! ……危なー……」
「あっはは、お約束! お前リアクション芸人目指せよ」
「失礼な!」
 麗奈は口を尖らせたが、裕の方は笑いが止まらない。笑い続けている。そんな彼を見て、麗奈はふと気が付いた。
「……なんだ、ちゃんと笑えるじゃない」
「あっはは……えぇ?」
 笑いすぎて滲んだ涙を拭きながら、裕が尋ね返す。
「あたしが来てから一回も笑わないから、無愛想な奴だと思ってたけど。ちゃんと笑えるんじゃないの」
 裕は、一瞬不思議そうな顔をしたが、それから思い出したように頷いた。
「あぁ、まぁ、そりゃそうだろ」
「もしかして人見知り? そんなナリして」
「そんなナリって何だ」
 初めて裕の笑顔を見て、気が付けば怒りはおさまっていた。

「じゃあ、改めてこれからよろしくお願いします」
「こっちこそ。……お前、親に早めに連絡しとかないとまた心配かけるぞ?」
「うん、もちろんちゃんと連絡するよ。じゃあおやすみ」
「おう」
 滑らないよう慎重に屋根を伝い、二階に戻る。その時宏とばったり鉢合わせた。
「あれ、麗奈さん? 裕は……」
「裕ならそこにいますよ。おやすみなさい」
「あ、おやすみなさい……」

 麗奈の部屋のドアが閉まった後、宏は麗奈が指差した方を振り返って、ふと動きを止めた。
「裕?」
「ん?」
 屋根の上に仰向けに寝そべった裕が、宏に視線を向ける。
「……麗奈さんと何をお話ししていたのですか?」
「なんで?」
「なんでって……」
 ふ、と笑いが漏れたのは、果たしてどちらか。
「とても嬉しそうな顔をしていらっしゃいますから」
 朝、民宿の三人で朝食を食べている時だった。
――ドンドンドン!
 突然、玄関ではなくダイニングのガラス戸が強く叩かれる音が響いた。カーテンが閉まっているため相手の姿は見えない。
「朝からうるせぇな」
 寝起きで機嫌の悪い裕が文句を言いながら立ち上がり、勢いよくカーテンを引く。しかしその向こうにいる人物を見た途端、コロリと機嫌を直した。
「おぉ、オサム。久しぶり」
「久しぶり、じゃねぇよー。玄関のインターホン壊れてんじゃんか」
 裕が鍵を開けてガラス戸を引き開けると、その隙間から覗き込むようにして裕の友人らしき少年が顔を出す
「悪ぃ。今度修理しとくわ」
「押しても反応ないから何分待ちゃいいのかと思ったよ……っと、今ちょっといいか?」
 少年は口元を手で隠して声を潜め、首を傾げた裕の耳元に顔を近づけた。しかしリビングに他の人間がいることを考慮していなかったのか、あまり小声になりきっていなかった為、麗奈にも会話が筒抜けである。
「……で、その人間を狙った雑魚共がここらに入り込んでるって噂でよ……」
「ふーん?」
「……オレこないだ会ったんだけど、その人間、まだ子供なんだ。十五くらいの女の子で……襲われたらかわいそうだろ。自分のテリトリーはちゃんとパトロールするに越したことはないぜ」
「……なあ」
「ん?」
「その人間ってあいつか?」
 裕が一歩右にずれ、庭先に立っていた少年は家の中を覗き込んであっ、と声を上げる。
「あっれぇ、君こんなとこにいたのか!」
「……あ、あの時の!」
 ようやく相手の姿を認識した麗奈は驚いて目を丸くした。
 その少年は、麗奈が元の下宿先に行った時に駅の方向を教えてくれた彼だったのだ。
「そうそう、この子だ! 本当はオレが同じとこに下宿する予定だったのになぁ。なーんだ、こんなとこ泊まっちまったのか」
「こんなとこ言うな」
「あはは、でもここなら大丈夫だな、安心した」
「……お前って本当に何も知らないのな」
 裕が大袈裟に溜め息を吐く。
「その雑魚共とやらはとっくに俺が追い出したぞ?」
「マジか!?」
「……マジ。用事それだけか? 俺、今飯食ってんだけど」
「そっか。じゃあそろそろ御暇するかな。こーう、お前も元気してっかー?」
「――っ、ふぁい!」
 口に食べ物を入れたまま口を手で押さえて、宏が慌てて返事をする。
「あっはは、相変わらず可愛い奴だな」
「でも最近生意気になってよ」
「宏、だめだぞーちゃんと裕の言う事聞かないと」
「…………はい」
 子供に言うような口調にがっくりと肩を落として、宏が小さく返した。
「んじゃオレ帰るわ。食事の続きをごゆっくり」
「じゃあな」
「おう。……あ」
 裕が戸を閉めようとすると、少年は思い出したようにそれを止めた。
「何だよ」
「お前、何か顔付き変わったな。何かあった?」
「……はぁ?」
「金棒を持った鬼というか、水を得た魚というか。何かいいことあったみたいだな」
「はぁ? ……何だそれ」
「ま、いーか。じゃな」
「あっ、おい!? ……訳分かんねー」
 首を傾げつつ、裕が食卓に戻ってくる。
「お友達?」
 麗奈が尋ねると、裕はコクリと頷いた。
「昔馴染みなんだよ。時折尋ねてきては好きなだけ喋ってさっさと帰る。この辺に住んでんだろうな。……あぁ飯が冷める」
 ブツブツ言いながら朝食を食べている裕を見ながら、さっき『オサム』とあの少年を呼んだ時の裕の顔を、麗奈は思い出した。
(久しぶりって言ってたから……きっと会いに来てくれて嬉しいんだ、本当は)
 裕は照れ屋だと宏が言っていたのを思い出し、一人納得した。

 朝食の片付けの後は、特にすることもなく各自で自由時間を過ごしていた。麗奈は部屋で本を読み、裕はお気に入りの屋根の上でうとうとしている。宏はリビングでコーヒーを飲みながら、朝刊に挟まっていたチラシを眺めてお買い得商品に片っ端から印を付けていた。
 読んでいた本を半分ほど読んだところで読書に飽きた麗奈は、何か飲むために一階に降りようと部屋を出た――その時。
 ピ――――――――……
 謎の機械音が、家中に響き渡った。
 麗奈が階段で立ち止まると、裕が慌てたように廊下の窓から飛び込んでくる。
「何の音?」
「ああもうちくしょー、また誰かインターホンぶっ壊しやがったな!」
「インターホン?」
「これ、“ピンポン”の第一音」
 言われてみれば、そう聞こえなくもない。そういえばさっきそんなことを言われていたような。なるほどと納得したはいいが、休みなく鳴り続けるその音は、聞いていると次第に神経に障る嫌な音だ。
「よし、麗奈。初の客だ、出ろ」
 突然裕が、麗奈の肩に手を置いた。
「あたしが?」
「ああ。泊まりたいって言ったら宏に任せろ」
「うん。分かった」
 早く止まないかなこの音……と思いつつ、麗奈は玄関ドアを開けた。
「……はい」
 外を見ると、門の前であたふたしている少年が目に入る。
「あのー……何か御用でしょうか」
 おずおずと呼びかける麗奈に気付いた少年が、こちらに気付いて右手を上げた。
「あっ。やっほー麗奈、久しぶり」
「は?」
 ぎょっとして少年の顔を見つめると、見覚えのある顔がにっこり微笑んだ。
 人懐こい笑みを浮かべる、丸い瞳。
 太陽の光に透けて光る、胡桃色の髪。
 服装は違えど、とてもよく見慣れた顔に麗奈は唖然とした。
「は……萩!?」
「ご名答。元気してたー?」
 にこにこ笑顔で手を振ったのは、萩山神社でバイトをしているはずの萩であった。そんな彼が何故か民宿の前に(インターホン壊して)立っていたのだ。
「何で!? ていうか私服初めて見た! 着物じゃないから分かんなかった!」
「あはは、いくらなんでも着物に袴で街中歩いたりしないよ」
「何でここに……」
 麗奈が言いかけたとき、萩がふと視線を上げて家の中を見た。その視線を追うと、裕が玄関の壁に寄りかかって、何故か不機嫌そうにしている。
 萩の視線を受けた裕は、深く溜め息を吐いて壁から離れ、嫌そうに玄関まで来た。
「……何すか」
「ごめんなさい。インターホン壊しちゃったみたいで……ボタンが引っ込んで出てこないんだよね」
 裕は靴を履いて出てくると、インターホンをガツンと思い切り足で蹴り付けた。なんと行儀の悪い。しかし同時に、不快な音もぷつりと止む。
「おお、凄い」
 萩が感心した声を上げた。
「元々ボタンが固くなってんだ。無理やり押したらこうなる」
「ごめんなさーい」
 悪いとは微塵も思っていなさそうな声で、萩がもう一度謝った。
「で、用は?」
 萩の謝罪には返事をせず、裕が淡々と尋ねる。
「そうよ。何しに来たの?」
 麗奈も尋ねると、萩は少しムッとする。
「麗奈まで? せっかく会いに来たのに、もうちょっと感激してくれても」
「あ、会いに来た? 何で?」
「それは後でね。あ、一応僕、客として来たんですけど、入れてもらえます?」
 萩が言うと、裕はあからさまに嫌そうな顔をして玄関に上がった。
「宏、出て来い」
 呼ばれた宏が、再びダイニングのドアを開けて顔を覗かせ、萩を見て数秒間固まる。
「……裕のお友達ですか?」
「ちょっと待て宏、見た目で歳が近そうだからって誰でも友達だと思うなよ。客だ」
「あぁ、はい……こちらへ」
 宏に案内された萩は、興味深そうにきょろきょろ家の中を見回しながら民宿の方に入っていった。

「知り合いか?」
 萩が部屋に入った後、裕が麗奈に尋ねてくる。
「うん。ほら、あたしの家、代々神社の宮司やってるって言ったよね。そこの神社でバイトしてる人」
「ふーん……バイトねぇ」
 裕が何やら考え込み、麗奈は首を傾げる。その時、焦ったように宏が飛び出してきて台所へ駆け込んだ。
「お茶、お茶を」
「あ、お構いなくー」
 追ってきた萩が台所の宏に呼びかける。
「あ、でも、もう葉っぱ出しちゃいました」
「おー早い。じゃあ折角だからいただきます」
「そちらの椅子をどうぞ」
 宏が萩にダイニングテーブルの椅子を勧めた時、麗奈は微かな声で裕が「何で来んだよ……」と呟いたのを聞いた。どうやら裕は、萩のことが気に入らないらしい。インターホンを壊されたからだろうか。
 麗奈が萩の隣の椅子に座ると、萩にお茶を出した宏も向かい側に腰掛けてチラシの続きを眺め始めた。しかしチラシをめくる速さからして、読んでいないのは明らかだ。
 裕は台所で冷蔵庫をガサガサ漁って、何か食べ物を探しているらしかった。
「ねえ萩、さっきの」
「このお茶美味しいね。淹れる人が上手いからかな」
 麗奈は話を切りだそうとしたが、何故か話を遮られてしまった。
「……萩」
「お茶菓子も美味しいなぁ。何処のだろう」
「萩、さっき後でねって言ってたじゃん」
 どうも話を意図的に逸らされているような気がする。麗奈が声を強くすると、萩は湯呑みを置いて麗奈の目を見た。
「麗奈、家を離れてみてどう? 楽しい?」
「は? うん、まあ」
「困ったこととかはない?」
「別に?」
「ならいいけど。あぁそうだ、僕があげたペンダント、まだ持っててくれてるよね」
 麗奈はぎくりとした。
 あのペンダントは、あの犬の妖怪達に壊されてしまったのだ。
 だが隠す理由は特にないので、ここは素直に言うことにした。
「持ってるけど……ちょっと、壊れちゃって」
「壊されたんだろ」
「……え?」
 一瞬、空気がピリッと凍りつく。
 ジュースを注いだグラスとスナック菓子の袋を持ってリビングを出て行こうとしていた裕が、ドアの前で足を止めた。
「ねえ君達、ちょっと話があるんだけど」
 萩は急に振り返って、裕に話しかけた。ドアノブに手をかけたまま裕は少し顔を強張らせ、やがて渋々というように戻ってきて宏の隣の席に着く。
「……裕?」
 席に着いた裕に、宏が不安そうに呼びかける。恐らく状況を理解していないのは、麗奈と宏だけのようだ。
「いきなりだけど」
 萩が口を開いた。
「昨日、麗奈を危険な目に合わせなかった?」
「は?」
 裕と宏は答えず、麗奈だけが声を上げた。
「ちょっと萩、何それ」
「あのペンダントしてたんだから、麗奈が誰かに守護されてるって事は一目で分かるはずだよね」
 まるで反応を見るように、萩が一旦言葉を切る。裕は何も言わない。
「ずっと見張ってろなんて言わないけど、もうちょっと強力な術を掛けるとか、他の妖に人間食べるのが趣味のヤツがいないか確かめるとか、できたんじゃない? それとも、自分の住む土地で殺人まがいの事が起こってもなんとも思わないの? 妖の中に人間を食べるのがいるんだから仕方ないって?」
「ちょっと待って、萩! 何言ってるの」
「麗奈が昨日妖怪に襲われたことだよ」
 さらりと言ってのけた萩に、麗奈は質問の趣旨が伝わっていない事を知って苛立つ。
「だからそうじゃなくて! 何で知ってるのよ!」
「麗奈にペンダント持たせたよね? あれ、自動的に小さな結界が張られるような術を掛けてあったんだ。結界が無理に壊されたら、術者にもそれが分かるんだよ。落としたり踏んだりして物理的に力を加えたくらいじゃあの石は割れないから、だとすれば妖が風刃や水刃の術を使って破壊したとしか思えないだろ?」
「だろ? とか言われても、意味不明な言語がたくさん出てくるから何言ってんのかさっぱりなんだわ」
 こめかみを押さえながら言った麗奈に苦笑して、萩はゆっくりと噛み砕いて言い直す。
「えーと、簡単に言えば、あれは凄く丈夫なお守り。そう簡単には壊れないくらい丈夫なはずなのに、誰かに壊された。そしたらその犯人は妖怪しかいないよねってこと」
「成程……ってちょっと待った、もう一つ。萩は妖怪の事とか、あたしがどんな人間とか、知ってるの?」
「知ってるよ」
「何で?」
「何でって……」
 萩は視線を一旦裕の方に戻して、少し残念そうに答えた。
「本当は、僕が最初にカミングアウトする予定だったのにな。どこぞの狐サンに先を越されちゃったというかぁ」
 裕が目を細めて萩を睨み返す。
「え……ってことは?」
「ねえ麗奈、君を捕まえた二人組は、麗奈をどうして狙うんだって言った?」
「神社の家系だから妖力がどうのこうのって」
「じゃあ、なんで今まで狙わなかったんだろう」
「なんか強力な守護があった、とか? そんなこと言ってたような……ハギシン? だっけ」
「ああ、そこまで言ったんだ。そうそうよく覚えてたね。萩神っていうのは、萩山神社の神体のことだよ」
「祀られてる神様って事?」
「うん。萩山の“萩”に、神様の“神”で、萩神。訓読みと音読みが続くの、湯桶読みっていって呼び名としてはあんまり好きじゃないんだけど……」
「それがどうかしたの?」
「さっき僕、麗奈に結界のペンダント持たせたって言ったよね。お守りに」
「うん」
「……麗奈が今まで襲われなかったのは、萩神の守護があったからでしょ」
「うん」
「……萩神は自分の元から守護の対象が離れたからといって、守護を止めたりしないと思うよ? 離れるなら離れるで、しかるべき方法で守護を続ける」
「ふーん。で?」
「……うん……? 鈍いなぁ……」
 ちょっと呆れたように萩が呟く。確かこの状況は、昨日にも同じ事があった気がする。話の流れを思い出し、麗奈は漸く答えに辿り着いた。
「あぁ、萩がその“萩神”だってことか!」
「そうそう! やっと分かったかー!」
「へぇー……えええぇ――――!? 神様!? 嘘!?」
 驚きのあまり声を裏返らせながら、麗奈は椅子を勢いよく後ろに引いて仰け反った。
「……やっぱり分かってなかったか」
 額に手を当てて、萩は肩を落とした。

*****

「萩って、神様なの?」
 やっと落ち着きを取り戻した麗奈は、言葉を選びつつ慎重にかつ率直に尋ねた。萩は少し考え込んで、困ったように頬を掻く。
「分かりやすく説明できるか分かんないけど。あのね、神っていっても、神話や物語にあるような天地を作る神様じゃなくて、神無月に出雲に集まるような神様でもなくて、なんて言うか……守り神的な」
「守り神って神様じゃん」
「いや……そうじゃなくて。まあ確かにそういうふうに呼ばれてはいるけど、普通の妖怪と大差はないんだよね」
「でも、神社に祭られてるのは神様でしょ?」
「まぁそうだけどー、んー、パス! なんかうまい言い方ない?」
 萩が裕に話を振った。自分では説明しきれなくなったらしい。話を投げられた裕が突然のことに驚きながら考える。
「俺!? ……えっと、人間でもさ、死んだ後に神社に祀られるのがいるだろ? 菅原道真とか家康とか」
「てことは萩って……死」
「待った、僕まだ生きてるから」
「まぁ、人間が妖を勝手に神と崇めて神社建てたとかだろ。そういうの多い」
「んー、大体そんな感じ。要は、ちょっと霊力は強いけど、神社に住んでるただの妖ですってことで。一件落着」
 あーすっきり! と、勝手に納得させたつもりになった萩が両手をぱちんと合わせた。麗奈が未だ納得行きかねるまま、話はまとめられてしまったらしい。
「じゃあ、結局萩も裕と一緒で人間じゃないってこと?」
「うん」
「分かった」
「分かったんだ……飲み込み早いな」
 麗奈が頷くと、萩は再び裕と宏の方へと目を向ける。
「じゃあ本題に戻って。君達のところに居たのにもかかわらず、麗奈は昨日襲われてるんだ。それは要するに君達の力不足ってことだろ? 僕は怒っているんだよ」
 萩の言い分を聞いて麗奈は驚いた。他者に対する萩の態度が、普段とは違いすぎる。いつも一緒にいたという訳ではないから彼の性格を全て知っているわけではないが、ここまでストレートな文句を言うような人だとは思ってもみなかったのだ。
「……んだと!」
「それが客に対する態度? 感心だね」
 萩を睨みつけた裕に、彼は涼しい顔をして言う。
「萩……いくらなんでもちょっと言い過ぎだよ」
「言い過ぎなんかじゃない。麗奈はまだよく解ってないからそんなこと言えるんだ」
「でも」
「麗奈が死んでからじゃ遅いんだよ!」
 ぴしゃりと強く言われて、麗奈は口を閉じた。萩がここまで腹を立てているのを、初めて見た。此処へ来てからずっと笑顔だったけれど。彼は静かに怒っていたのだ。
「君達は昨日、あんな雑魚から麗奈を守れなかったんだろ。怪我をさせるのは防げたけど、今後もっと強い妖が来ないとは限らない。いつ麗奈が襲われるか分かったものじゃないよ」
「結局何が言いたい?」
 我慢が限界を突破しつつある裕が、怒りを抑えるように静かな声で尋ねた。それに対して、萩はあっさりと答える。
「仕方ないから、これから暫く護衛役として僕も麗奈と一緒にお世話になりますって」
「……」
「……」
「は?」
「よろしく。狐サン」
 先程の態度とは打って変わって、萩がにっこり微笑んだ。

 やって来て早々、萩は周囲を探検したいと言って民宿を出て行ってしまった。麗奈が自分の部屋に戻ると、先に上に上がっていた裕が部屋の前に立っている。
「裕?」
「おー、麗奈」
「どうかしたの?」
 尋ねると、裕は少し気まずそうに視線を逸らし、彼らしくない小さな声でぼそぼそと呟いた。
「その……ごめん」
「は?」
「昨日。ごめん」
「昨日? ……もしかして、萩の言ったこと気にしてんの?」
「ばっ、違ぇよ! ただ謝ってなかったなぁと思って……」
「悪くないなら謝らなくていいのに」
 明らかに気にしている表情の裕を置いて、麗奈は部屋に入る。気が強そうだと思っていた裕が、穏やかな萩にあんな風に言われただけでここまでへこむとは。案外デリケートなのかもしれない。

 裕の気配が扉の前から消え、隣の部屋に入る音がした。部屋に戻ったようだ。それにほっとした矢先、カツン、と窓の方から別の音が聞こえてくる。
「……何?」
 開いた窓からベランダを見ても、何も無い。
 首を傾げていると、下から何かが飛んできて窓に当たり、再び音を立てた。ベランダに落ちたものを見ると、小さな小石だ。誰かが下から石を投げているのだ。
 外に出て裏庭を見下ろすと、裏庭の真ん中で萩がこちらを見上げていて、麗奈が出てきたことに気付くと軽く手を振った。
「ちょっと下りて来られる?」
「うん、待ってて」
 言われたとおり一階に下りて裏庭へ行くと、萩は申し訳なさそうに両手を合わせて謝った。
「呼びたててごめんね。二階は民宿の人達の部屋だろ? たぶん関係者以外立ち入り禁止かなあと思って」
「ううん、大丈夫だよ。散歩終わったの? 何か用事?」
「うん、まあ、……麗奈に言いたい事があってね」
「何? 言いたい事って」
「やっぱり萩山に帰らない?」
 数秒の間が空いた。
「……え? かえ、るって」
「地元の高校じゃなくても、隣の町にも大きな高校はあったし。そこなら萩山から通えるよ」
「待ってよ、なんでいきなり」
「君をここの狐に任せておくのは危険だと判断したから」
「……さっき言ってた事?」
 萩が頷く。暫く一緒に泊まるとは言ったものの、連れ帰るのが本来の目的だったらしい。だが、いくつか引っかかる事があった。
「なんで? 好きなようにしろって言ってくれたのは萩なのに……」
「下宿先に泊まるんだったらね。でも泊まれなくなったんだろ?」
「あっちなら大丈夫だったってこと?」
「あの辺りは、強い妖のテリトリーだったんだ。麗奈を狙う奴が来たら追い払うようにってお願いできた……麗奈が前まで住んでた町もそうだよ。あの辺を仕切ってる妖に頼んであったんだ」
「だから今まで襲われなかったってこと?」
「そう。だけどここで一番強いのはあいつ――裕って言ったっけ? あの狐なんだ。彼に頼んだって、昨日のザマだろ。狐なんかに麗奈の護衛なんて務まらない。任せてられないよ」
 麗奈が口を噤んだ、次の瞬間。
「狐が弱くて悪かったな!!」
 空から声が降ってきたと思ったら、萩と麗奈の真横に裕が飛び降りてきた。
「てめー黙って聞いてりゃさっきから何だ、俺達が雑魚だって言いたいのか!?」
「立ち聞きは良くないなあ。それに今僕達は話をしてたんだ。邪魔しないでくれる?」
 顔を赤くして怒鳴る裕に、萩がさらりと言ってのけた。裕はますますカッとする。
「窓が開いてたんだ、丸聞こえだ! わざわざ窓の真下で聞こえよがしに悪口ばっか言われて黙ってられるかよっ」
「これだから血の気の多いワン公は困るんだ」
「誰がワン公だっ!!」
 萩の、相手によってコロコロ態度を変える技には麗奈は感心してしまった。お兄ちゃんぶってみたり子供っぽくなったり、かと思えば他人を怒らせることばかり言う。たぶんこれは彼の演技なのだろう。
「萩……裕も、やめなよ」
「やめろ……? こんだけ言われて黙ってろと?」
「僕は別に何も言ってないけど。割り込むなって言っただけじゃないか」
「てめえふざけんな! 狐には任せられないとか何とか言ってたじゃねえかよっ」
「麗奈を連れて帰る為に事実を言っただけだ。もしかして麗奈を連れて帰らないで欲しいの? 危険な目に合わせといて?」
「俺の所為じゃねぇ」
「ここは君の土地なんだろ。人間を襲うような妖はすぐに追い払うのが務めじゃないのか? それに第一、麗奈が出て行こうと行くまいと君には関係ないだろ」
「そいつはここで働くって言った」
「自分が危険に置かれてる事を知らなかったんだから仕方ないよ。……それから」
 萩は、怒りで握り締められた裕の両手に目を遣り、微かに口の端を上げた。
「僕は山生まれ山育ちだから、体力に自信はあるんだ。それに君よりは長生きしてる方だと思うよ。町育ちのワン公に負けるとは思えないかな」
 言葉の端々に、自分の方が強いだろうという自信をちらつかせる。裕の中で、何かが音を立てて切れたような気がした。
「……でもここは俺の土地だ。ここで力を一番上手く使えるのは俺だ!」
 裕が右手を上に突き上げる。つい最近何処かで聞いたような甲高い金属音が響いた。萩が軽く上を見上げて、面白そうに口角を上げた。
「で?」
「なんでもいいから一発食らわしてやる」
 裕が、右の掌をさっと背後の壁についた蛇口へ向けた。水撒き用の外付けの蛇口である。直後、バギッと変な音がして蛇口の先が吹き飛び、壁に空いた穴から水が勢いよく噴出した。噴き出した水は地面に落ちることなく、彼の手の辺りに浮いてぐるぐると集まり、塊となる。
 裕がその手を萩に向けると、水塊はそれに従うように勢いよく萩に向かっていった。
「はぁ……こんなことしに来たんじゃないのに」
 面倒くさそうに、萩が掌を前に向ける。途端、水塊が透明な壁にぶち当たったかのように萩の前で弾けた。
「仕方ないなぁ。そんなに遊んで欲しいなら、相手してやらないこともないけど」
「……てめえが散々馬鹿にした狐の腕ってもんを見せてやろうか?」
 裕はこめかみに青筋浮かべながら不敵に微笑んだ。

 完全に蚊帳の外の麗奈は壁側に寄って、その様子をただ見物しているしかなかった。
 唐突に始まった裕と萩の睨み合いを見物しながら、麗奈はポツリと呟く。
「お腹空いた……」
 もちろん二人は聞いていない。
 裕が右手を、ひしゃげて水が噴出している蛇口に向けた。
「またそれ? ワンパターンだな」
 同時に萩が手を出し、裕の手の上に集まった水塊が弾け飛ぶ。妨害したらしい。
「邪魔すんな」
「邪魔しなかったらやられるから邪魔するんだろ」
「うるさい! 手ぇ出すな」
「会話が成り立たないね。アナタ日本語分カッテマスカ?」
「ざっけんな!!」
 主に低レベルな言い合いばかりしている二人。時折裕が水をぶっかけようと試みているようだが、萩はその邪魔ばかりしているようだ。麗奈の目にはよくわからない攻防が起こっているらしい。ぼんやり眺めていると、頭上から窓を開ける音がした。見上げて一番右の窓だ。
「あ。宏さーん」
「え? 麗奈さ……うわぁあああ!? ななな何やってるんですかぁ!」
 庭を見下ろした宏が悲鳴を上げる。麗奈が答える前にすぐさま室内へ引っ込んで、直後に玄関の方からスリッパのまま走ってきた。
「裕!!」
「何」
「何って……何やってるんですか!」
「喧嘩」
「あー、その辺の不良なんかと一緒にするなよ」
 心外だと言うように、萩が反論する。
「いけません裕、やめてください!」
「ヤなこった。大体、先に喧嘩売ってきたのはあちらさんだっての」
「はぁ? 売った覚えはないけどな。いきなり仕掛けてきたのはそっちだよ」
「何だと! 散々言っておきながら」
 子供の喧嘩みたいだ。麗奈はそう思いながら、ふと空を見上げた。
 カラスが一羽、こちらに向かって飛んで来ていた。
「事実を述べただけじゃないか」
「昨日のザマだとか護衛は務まらないだとか? あれが事実か? 個人的な意見だろうが!」
「ふーん? じゃあ君に、麗奈を守りきれるってこと?」
「余裕」
「昨日のみたいに強くても?」
「昨日のは別に強くなんかなかった。第一、初めて会った奴が『危ないから』とか言って後を付いて来たら、それこそ怪しいに決まってんだろ。無意味に不審者扱いされるのはごめんだ」
「体裁のためってわけか」
「ビビらせないための気遣いと言え!」
 向かって来ていたカラスが、民宿の屋根に止まった。麗奈は何気なくそれを眺めていた。
 二人の会話は耳に入ってくるが、最初から何度も同じことを言い合っているので飽きてしまい、大した興味は湧かない。
 麗奈は庭の小石を拾って手の上で弄んだ。
「だから、たかが人間一人護衛するのなんか余裕だって言ってんだ。頼まれればいくらでもやるさ。それに、『人間を襲うような妖はすぐに追い払うのが務め』って言ったよな? 彼奴等ならとっくに追い出した。お前の言う務めはちゃんと果たしてるぜ? とやかく言われる覚えはないな」
「……ふぅーん? 君そんなに麗奈の事気に入ったの」
「はぁ!?」
「そんなに手元に置いておきたいわけ?」
「違うけど!」
「でもまぁ、それなら……」
――バサバサバサッ!
麗奈が軽く投げた小石が足下に当たったのに驚いて、ギャアというしゃがれ声と共にカラスが羽音を立てて飛び立った。
 その場にいた全員の視線が、気を取られて上を向く。
「うわあぁっ!?」
 そんな中で何故か萩だけは、大袈裟に悲鳴を上げて尻餅を付いた。
「萩? どしたの」
 麗奈が目を丸くして尋ねると萩はハッとして、慌てて首を振った。
「あ、いや何でもない、ちょっとビックリ……ぶはッ」
 突如、萩の頭上から大量の水が降ってくる。裕の仕業だった。
「鳥、怖いんだろ」
「何だよ、人が話してるときに!」
「話を中断したのはカラスだろ? でも分かったぞ、鳥怖いんだろ」
「う、うるさ……ぶあ」
 再び巨大な水塊が顔面に激突する。
「さっきの威厳は何処へやら、だな。鳥怖いんだろ」
「だっ……げほげほ」
 気管に水が入ったのか、萩は背中を丸めて激しく咳き込んだ。
「もう一発いっちゃう? いっちゃいましょうか」
 非常に楽しくて仕方ないという様子の裕に、後ろで見ている宏の顔が青ざめた。再び水塊が落下して水が弾ける。
 だが、そこにずぶ濡れになっている筈の萩の姿は無い。
「……あれ?」
 麗奈が辺りを見回した時、不意に麗奈の背中の後ろから小さな咳が聞こえた。
 振り返ると、壁と背中の僅かな隙間に真っ白で小さな獣――恐らく、イタチ科の動物が蹲っている。
 麗奈を盾にして身を隠しているらしかった。
「萩……は、あ、これ?」
「うん、……これ」
 微かな声で返事をして、また咳き込む。
 そう言えば萩は、神と言われても実際はただの妖怪だと言っていた。だからこれが、萩の本当の姿ということになるのだろうか。
(……鼬って化けるんだっけ?)
 麗奈が首をひねっていると、やっと咳が収まった鼬――萩が、麗奈の後ろから甲高い声で叫んだ。
「だから話最後まで聞けよ! そんなに言うなら麗奈を預けても構わないって言おうとしてるんじゃないか! しつこい奴だな!」
「あ? そうなのか」
 裕が目を丸くする。
 麗奈も驚いていた。だがそれは話の内容ではなく、彼の声を聞いたせいだ。まるで子供みたいに高くなっていたのである。変化すると声まで変わってしまう者もいるということだろうか。体が縮むのだから当然といえば当然だが。
「ったく、だいたい鳥が怖くて何だってんだよ! 鳥嫌いの人いっくらでもいるだろ。それに第一鳥が怖いんじゃないし、ちょっと羽音にびっくりしただけだしぃ」
 萩は麗奈の後ろに隠れたまま憤慨している。また裕に水を掛けられるのを恐れているらしく、出てこようとはしない。
「何がちょっとだ。びびって腰抜かしたくせに」
「だからいちいち五月蝿いよ君は。偉そうな口叩く割に子供だな!」
「誰が子供だ!」
「ほらすぐキレる。そういうところが子供だっていうんだ。もっと牛乳飲んだほうがいいんじゃない? そんな感情的な奴が、いざって時に敵の挑発に乗ってヘマこくんだよ」
「……っく……」
 裕が怒りにわなわなと震えている。萩がフッと息を吐いて真顔(おそらく)に戻った。
「じゃ、もう一回聞くよ。君に麗奈を守りきれる?」
「さっきも言った。余裕」
「本当に?」
「嘘吐くかよ」
「嘘じゃないね?」
「だから何で俺が嘘吐くんだよ」
「うん、良し」
「何がだよ」
 萩が麗奈の後ろから出てくる。一瞬後、同じ場所で元の人間の姿の萩が立ち上がった。訝しげな顔をしている裕には目をくれず、湿った上着の裾を絞りながら、「これ、お下がりなのに」と呟いている。
「良しって、何がだよ」
「だから、さっきも言ったろ。麗奈を任せるって」
 裕が繰り返し尋ねると、萩はけろりとして当然のように答えた。
「まあ、それなりに霊力は強いみたいだし、麗奈がここに居たいって言うなら、君にお願いしようかなと。麗奈はどうしたい?」
「だってあたし、もうバイトするって言っちゃったし……残るよ」
「じゃ、そういうことで」
 萩はさっさと話を進め、まとめてしまった。呆然として事の成り行きを見ていた宏が、はっとして振り返る。
「あっ、蛇口! どちらが壊したのか知りませんが、早く直してくださいよ! 水道代が掛かってるんですから!」
「井戸水じゃなかったのか、これ」
 裕は呟きながら地面に転がった蛇口の先を拾い、ふと萩の方を見た。振り返って目が合って、萩が首を傾げる。先程の挑戦的な態度は何処へやら、何か用かと尋ねるような素朴な表情だ。
「……結局あんたは、試してたのか? わざわざ挑発して」
 裕が眉を寄せつつ問いかけると、萩は軽く微笑んだ。
「まさかあんなすぐに反応が返って来るとは思わなかったけど」
「キレ易くて悪かったな」
「悪いことじゃないよ。お陰で君の力量がすぐ分かったしね」
「……あ、そ」
 裕が話を続けないのを見て、萩は振り返って麗奈を促し、玄関の方へ歩き始めた。壊した蛇口を取り付けようと裕が背中を向けた時、少し離れた所で誰に向けるでもなく萩が呟く。
「確かに挑発はしたけど、あれは全部本音だから」
 ピタリと裕の動きが止まる。
 そして静かに振り返り、思い切り振りかぶって。
――ゴワン!
「ぎゃあ!」
 歩き出した萩の後頭部に、蛇口の先が勢いよく激突した。
「きゃぁあ! 萩!?」
 つんのめって倒れた萩を見た麗奈が悲鳴を上げ、宏が再び呆然とする。裕はフンと鼻で嘲笑った。

*****

 その夜、麗奈が寝る準備をしている時。
 ドアの方からコンコンと小さな音がして、麗奈はドアを開けた。
「……あれ?」
 誰もいない。
 空耳だろうと思ってドアを閉めようとした時、不意に足下から声が聞こえた。
「……麗奈、ちょっと入れて」
「わ、萩」
 ドアの影に身を潜めるようにして、白い鼬が座っていた。
「何してんの」
「こっそり来た。だってあの狐、上がってくるなって五月蝿いんだもん。階段上るのに一苦労しちゃったよ。じゃあお邪魔しまーす」
 カチカチとフローリングに爪の当たる音をさせて、返事も待たずに部屋に入ってくるにょろんと長い小動物。改めてよく見ると可愛らしいが、これが萩だなんてなんだか不思議な感じだ。
「用は何?」
「あのね、いきなりだけど麗奈、高校決めた?」
「あ、まだ」
「隣町に鈴代高校ってとこがあるんだ。そこなら麗奈の学力で行けるだろうし、近いし、いいんじゃないかと思ってちょっと紹介に。これ、資料」
 萩が、足下に引きずってきていた冊子の端を銜えて差し出した。
「スズシロ……それって佐藤先輩が行ったとこ?」
「さあ……」
「ほら、女テニの! あたしが凄く可愛がってもらってた、二つ上の……」
「……ほらとか言われても、佐藤先輩が何者かなんて僕は全く知らないんだけど」
「あ、そっか。でも確かそこって、テニス部が強いんだよね。そこまで有名じゃなかったけど」
「体育部全般、そこそこ強いみたいだね。地区予選勝ち抜いて県大会行ってるとこ、いくつかあるし」
 麗奈はベッドに座って右手で冊子を捲りながら、左手で床の萩を抱き上げてベッドに上げ、ぐりぐりと頭を撫でた。
「いてて、痛い」
「でかした萩ー! あたしここがいい。佐藤先輩と同じとこ!」
「え、そんな簡単に決めちゃっていいの?」
「まだ時間あるし、もっとちゃんと調べるって。中学の先生にも訊いてみる。そうだ、先輩にメールしよっと!」
 麗奈が机の上の携帯を出して弄り始めた時、ドアをノックする音がして、麗奈が返事をする前にゆっくりと部屋のドアが開いた。
「おい。そこで何してる、胴長短足馬鹿鼬野郎」
「うわ、出た。ていうか今何か凄い言語出てきたね。僕は高校の資料渡してただけだよ?」
「ふーん?」
 裕が部屋に入ってきて、ベッドに広げられた冊子を覗き込んだ。
「鈴代? 麗奈行くのか?」
「行きたくなった」
「そっか。まあ精々頑張れ。ところで鼬、ちょっと聞きたい事があるんだが」
「名前で呼んでよ。で、何?」
「お前、いつ帰るんだ?」
「……実はぁ、僕ぅ、お金持ってないんだよねぇ」
「……」
「タダで泊めてくれるなら明日には出てくつもりだけど?」
「それは駄目」
「じゃ、麗奈みたいに働けばいい?」
「居座るつもりかよ!?」
「払わなくていいならすぐ帰るってば」
「絶対払え!」
「じゃあ居座る。生憎、援助してくれそうな保護者いないんだよね。だから体で払います。いい労働力になるよ」
「……っのやろ、勝手にしろ」
「勝手にしますよーだ」
 萩はベッドから飛び降りると、裕に向かってべえと舌を出し、ドアの方へ歩いていった。それを麗奈は慌てて呼び止める。
「待った! この学校私立だよね、お金掛かるよ。そんなにお母さん達にお願い出来ないかも」
「ああ、それなら大丈夫。ツテがあるから」
 萩が不敵な笑みを浮かべた。
「つ、つて……?」
「鈴代に行くなら学費の心配は要らないよ。じゃ、僕寝るから。おやすみ」
 あっさりとそう告げて、萩が部屋を出て行った。
 麗奈は、部屋の真ん中に突っ立っている裕に視線を向けた。
「何か用?」
「いや、別に。おやすみ」
「? うん、おやすみ」
 ただ単に、萩の声が聞こえたので様子を見に来ただけだったようだ。
 裕は部屋を出て行きかけたが、ふと立ち止まって振り返った。
「明日から、家事と掃除と客の対応、あと金のやりくりと我が家ルールについて、徹底的に叩き込むからな」
「えっ!?」
「覚悟しとくように」
 それだけ告げると、裕はさっさと出て行ってしまった。
「まぁ、仕方ない……のかな? 働く訳だし……あー、裕って厳しそうだなぁ、やだな」
 ブツブツ文句を垂れながら、麗奈は高校の資料冊子を閉じて机の上に置き、携帯を取って先輩からの返信メールを読む。
「あ、やっぱ佐藤先輩、鈴代高校だ……今度会いに行こうかな」
 携帯を閉じ、これも机の上に置く。カーテンを閉めようと窓側へ行ったその時、廊下から裕の怒鳴り声が聞こえてきた。
「この野郎、勝手に人の部屋覗いてんじゃねえ!」
「開けっぱなしにするのが悪いんだよ」
 部屋に帰ったと思っていた萩は、まだ廊下にいたらしい。空いていた裕の部屋を覗き込んで怒られているのが聞こえる。
「さっさと下りろ、客の分際で! ここは関係者以外立ち入り禁止だぞ!」
「客に向かって、客の分際でとか言っていいの? 僕、この宿はとんでもなく無礼だって近所の人に言いふらしちゃうよ?」
「何だと、無礼はそっちだろ!」
「商売する人は何があってもお客様を大切にしなきゃ」
「自分でっ……」
 更に向こうで、ドアの開く音がする。
「裕! それに萩さんも、今何時だと思ってるんですか」
「へーへー」
「はーい」
 裕と萩が、面倒臭そうに返事をした。宏が部屋のドアを閉めると、二人の声量が下がる。
「あーあ、怒られた」
「誰のせいだよ」
「君の声が大きかったんだ」
「俺かよ!」
 ガンッ、と今度は壁を叩く音がする。流石の二人も宏の怒りが伝わったのか、話を止めたようだ。
 数秒後、トントンと小さな足音が階段を降りていった。
 ベランダを照らしていた隣室の明かりが消える。麗奈も天井から垂れ下がった紐を引いて、照明を消した。
 この住宅街に街灯は少ないが、その代わり星もよく見えるし月の光が明るい夜だ。麗奈はカーテンを閉めるのをやめ、ベッドに潜り込んだ。
 萩が何時まで滞在するつもりが知らないが、二人の様子を見る限りではこれからの生活が思いやられる。
 麗奈は人知れず溜め息を吐いて、輝かしい理想の青春像をふと思い浮かべた。
(だけど、妖怪なんかに関わった時点で、既に普通の青春が送れるはずなかった……)
 確かにそうだが、もしかしたらそれはそれで楽しいかも知れない。高校には知っている先輩もいる。また部活にも挑戦したい。
 そう考えると早くも待ち遠しくなって、麗奈はもう少ししたら始まるであろう自分の華やかな高校生活に思いを巡らせた。

 窓の外には満天の星空。満月を過ぎて僅かに細くなった下弦の月が、遠くのビルの間で一際輝いていた。

 民宿・狐荘から歩いて三十分。
 霞原町から川を挟んで反対側、鈴代町に位置する私立鈴代高校の校門前。
 様々な中学校の制服を纏った学生達が、ある者は友人と笑い合い、またある者は親に肩を軽く叩かれながら、出たり入ったりしていく。
 今日は、鈴代高校の合格発表日だ。
「あー……緊張する」
 麗奈もまた、校門前で深呼吸をかれこれ十数回は繰り返していた。
「早く見て来いよ」
 焦れたような裕を、麗奈は鋭く睨み付ける。
「簡単に言わないでよ! 他人事だと思って、あたしがどんなに……っ」
「麗奈なら大丈夫だよ、あんなに勉強したんだし」
 萩が口を挟み、麗奈を励ますように微笑みかける。
 それに毒気を抜かれた麗奈は、とうとう覚悟を決めた。
「あーもう……うん、よし、じゃあ行ってくる、ここで待ってて。一人で見に行くから」
 到着してから二十分、漸く麗奈は学校の敷地内に踏み込んだ。

 裕は門に入ってすぐの、「合格発表」と書かれた巨大な紙が貼ってある掲示板に背中を預けた。
 萩はそわそわと、合格者の受験番号が貼り出された方へ何度も視線を送っている。
「ちょっとは落ち着いたらどうだ」
 見かねた裕が声を掛けると、萩は冷たい視線を返した。
「心配してるんだよ」
「信じてやれよ。それとも何だ、落ちる可能性が高いとでも思ってんのか」
「違うよ、そんなつもりじゃない。……それより、ちゃんと準備出来てるんだろうね?」
 萩の問いに、裕が右手の親指をぐっと立てた。
「ばっちり。今、宏が最後の飾り付けしてるとこ」
「これが祝合格・誕生日パーティーになるか、悲しい誕生日を盛り上げる会になるかは……」
 二人は麗奈が向かった方を見遣る。
「帰ってきたあいつの表情次第だな」

 本日、鈴代高校の合格発表日は、麗奈の誕生日でもあったのだ。
 現在、民宿に残っている宏がパーティーの準備をしているところだった。
 勿論、本人には内緒である。
「ところであいつ、何歳になった?」
 裕の言葉に、萩は呆れた視線を向けた。
「……今度高一になるんだから、訊かなくても分かるだろ。十五だよ」
「ああ。そう言えばそうか」
「そうだよ。――もう十五か、昔はあんなに……」
 萩が何かを懐かしむような目をする。裕が首を傾げると、彼は「こっちの話」と誤魔化した。
「……それはそうと、お前いつまでうちに泊まるつもりだよ」
「さーね」
「程々にしないと、うちの宿泊費は尋常じゃないからな」
「だからー、肉体労働で払うって言ってるだろ」
「駄目。現金以外は受け付けませーん」
「いーよ、意地でも払わないから」
「ざけんな短足。持ち財産全部売って、来、……あ」
「……螺子切れた?」
 急に話を止めた裕に、萩が眉をひそめた。裕が示す先を見て、萩もああ、と頷く。
「あの子?」
「妖怪だ。……受かったんだな」
 視線の先には、母親らしき女性と笑いながら歩いている少女。
 二人とも自分たちと同類であることが、一目で判った。
「……あいつも高校通うつもりなのかな」
「そうじゃなきゃここにいないんじゃない? さっきから何人か見掛けてるけど……皆、積極的でいいね。――人間に正体がばれて退治されないかってビクビクして隠れ暮らすより、ずっといいよ」
 行き来する人の流れを観察しながら、しばしば短く言葉を交わして麗奈を待つ。それから十分後、丁度五人目の妖怪を数えた時、人混みから麗奈が帰ってきた。
 下を向いていて、肝心の表情は読み取れない。
 裕が掲示板から背中を離して右手を挙げると、麗奈はふと顔を上げて駆け寄って来た。
「裕、萩!」
 表情は明るい。二人は安堵した。どうやら――
「あったよ! 六五五番! やったー!」
 麗奈は両手で裕と萩の手を片方ずつ取って、その場でぴょんぴょん跳ねた。
「おめでとう!」
「良かったな」
「うんっ」
「お母さんに連絡はしたの?」
 萩が尋ねると、麗奈は跳ねるのを止めて頷いた。
「うん、向こうで電話してきた。お母さん大喜びで悲鳴あげるから、耳痛かったー」
「良かったね、喜んで貰えて」
「うん!」
 喜ぶ麗奈に、裕は空いた方の手でポケットを探り、テレホンカードを出して見せた。
「宏にも知らせてくる」
「テレカ……? いや貸すよ、携帯。……その前に、携帯持ってないの? 不便」
「そうか? 昔は無かったんだ、別に今無くても困らない。それに携帯高いだろ。俺にしてみれば何でそんな物に大金注ぎ込むのか分かんねー」
「確かに高いけどさ、今時携帯を否定する若者なんて、時代遅れにも程が……」
「ねえ麗奈、僕も見に行きたいな。番号があるとこ」
 萩は再び口を挟んで麗奈の気を引いた。
 どうも麗奈と裕は、話しているうちにお互い喧嘩腰になってくる節があるようだ。裕が幾ら機嫌を損ねようと萩には関係無いのだが、麗奈がぴりぴりしているのは見たくなかった。
「見る? こっちだよ」
 麗奈はころりと機嫌を直して裕の手を放し、萩の服の袖を引っ張って行く。
 裕は校舎に入ってすぐの事務所前にある公衆電話から民宿に電話をかけた。内容は簡潔に、麗奈の合格の知らせとパーティーの実行指示。だから麗奈に携帯を借りるわけにはいかなかったのだ。
 受話器を下ろして校舎から出た所で、萩と麗奈が戻って来た。
「麗奈。宏が『おめでとうございます』って」
「ありがとうございます」
「俺に言われても……」
「後で宏さんに直接言わないと」
 麗奈は大切そうに手に持っていた受験票を鞄に入れた。
「えーと、合格者説明会と物品販売は明日だって。今日はもう帰っていいのかな?」
「そうだな」
 三人連れだって校門を出ると、学校のすぐ近くにある河原に下りた。川沿いに歩いて橋を渡れば、霞原である。
 霞原と鈴代を隔てる、小さな川の名前は三鈴川。麗奈はその川面を眺めながら呟いた。
「いいよね、こういうの。金八先生みたいで、憧れだったんだ」
「ふーん」
 興味無さそうに頷いた裕が、足下にある大量の石の中から平たいものを一つ拾う。
「何するの、それ」
 麗奈の問いには答えずに、裕はそれを川に向かってフリスビーの様に投げた。石は水面を二回三回と跳ねながら進み、やがて川に沈む。
「凄い!」
 麗奈と萩が手を叩くと、裕が振り返った。
「別に難しくねえよ。……まさか出来ない訳ないよな、田舎人?」
 勿論これは萩のことを指す。お前もやれと言っているのである。
「やったことないもん。萩山にこんな広い川ないんだから、仕方ないだろ」
 萩が口をとがらせる。確かに萩山には大きな川が無いのだ。
「未経験を理由に勝負から逃げるか」
「勝負? そんなの不公平だ。勝負するなら公平にしろよ」
 文句を言う萩に、裕は嫌そうな顔を見せた。
「公平ぃ?」
「出来る人と初心者じゃ、初心者が負けるに決まってる。第一初めて見たんだから」
「あぁそうですか。つまんねーの」
 漸く諦めた裕に、萩は胸を撫で下ろす。そんな二人に、麗奈は一つ提案した。
「じゃあ、家まで競走しようよ」
「え?」
「待て、まだ距離かなりあるぞ」
「いいのいいの、用意」
「わ、待っ……」
「どん」
 走り出した麗奈を、萩と裕は慌てて追った。あまり早く着いてしまったら、パーティーの準備が出来ない。
 だがそれを言う訳にもいかず、無理矢理捕まえる訳にもいかない。二人は悩みながら麗奈を追い掛けた。
 そんな心配を他所に、麗奈は河原から土手を上がり、橋の真ん中まで渡った所で立ち止まる。
「すごい、綺麗!」
 川を見下ろして、感嘆の声を上げる。二人も追い付いて、橋の下を見下ろした。穏やかに流れる水は透明に澄み、橋の上からでも川底の丸い石が見える。水中の小魚の群れが、見下ろす三人の影に驚いて散った。
「これから毎日見れるんだ……」
 麗奈が三鈴川を見下ろしたまま、ぼんやりと呟く。
 かと思うと、橋の欄干からパッと離れて再び走り出した。
「ったく……あ、そうだ」
 橋を渡り、下の河原に下りた麗奈を見て、裕は溜め息を吐く。それから振り返った麗奈に不敵な笑みを見せると、橋の途中から、数メートル程下の河原にひらりと飛び下りた。
「嘘!」
 驚く麗奈にあっと言う間に追い付いて、――追い抜いた。
「あっ、馬鹿狐」
 慌てた萩も橋から飛び下りたが、二人はぐんぐん離れていく。
「あんまり走るなよ、もう!」
 萩が呆れて走るのを止めたその時、裕が立ち止まって麗奈が追い付くのを待ち、何か耳打ちをした。それを聞いた麗奈は、クスクス笑う。
 萩が首を傾げると、麗奈は口元に手を添えて叫んだ。
「ゴール変更ー! “カスミ食鮮館”まで!」
「ビリは明日から一週間、買い出しと風呂掃除なー!」
「そんな無茶な!」
 萩はとっさに走り出したが、既に手遅れなのは明らかだった。
彼と二人の間はかなり開いている上、二人が今いるのが例のスーパーの目の前なのだ。土手を上がればゴールである。
「ずるい、そんなの!」
 萩は抗議したが、裕は聞く耳を持たない。のんびり歩きながら振り返り、
「これは公平だよな。スタートは確かに同時だったもんな。途中でちんたらしてるのが悪い」
「それは屁理屈だっ」
「そうか? 正しいと思うけどなぁ……と、はい、俺いっちばーん」
「あたしにばーん。萩、最後ね」
「えーっ」
「肉体労働で払うって言ったのは何処のどいつだ」
「確かに言ったけど、それとこれとは……」
「同じだな」
 裕は萩の言葉を継いで、無理矢理完結させた。
「よし。明日から頼むぞ」
「嫌だよ」
「文句言うな、追い出すぞ」
「いいでしょ、萩。宿泊費だと思って」
「えー…………はぁい」
 萩は麗奈にまでも言われ、渋々了承した。宿泊費を体で払うといったのは確かに萩だ。

 合流した三人は再び河原へ下りて、川沿いに歩き出した。
「麗奈、今夜はご馳走な。合格祝い」
「本当?」
 民宿で着々とパーティーの準備が進められていることは何も知らず、麗奈は目を輝かせる。無駄に走ってしまったので、とりあえず民宿に到着するまでの時間稼ぎをしなければならない。裕と萩で麗奈を挟んで、歩くペースを落としながら雑談を持ちかける。作戦は成功のようだ。
「楽しみだなぁ。何食べるの?」
「気が早い。まあゆっくり考えようや」
「えー、待ち遠しいよ。もう随分、ご馳走って呼べる物食べてないし……お寿司とか焼肉がいいな」
「そんなんでいいのか?」
「え? 十分ご馳走じゃない?」
「遠慮なんてしないでもっと贅沢しなよ、合格祝いなんだから」
「庶民にとっては贅沢なのー。質より量、いっぱい食べるから」
「逞しいなー。体重大丈夫か?」
「失礼な!」
「麗奈は重くないよねぇ」
「そうそう」
「ん? お前こいつの体重知ってるんだな」
「えぇ!? 萩!?」
「冗談だってば」
「……重くないのは冗談なのか」
「裕ってば! 挙げ足取りやめてよ、なんか頭良さそうで悔しいから!」
「良さそう? いいんだよ」
「本当に頭が良い人はそんなこと言わないと思いまーす」
「同感でーす」
「あっ、この野郎」
 せせらぎの中に、楽し気な少年少女の声が響く。
 僅かに位置の高くなった陽光を反射して流水の小波は絶え間なく煌めく。
 水飛沫に濡れた河原の石は、彼等が去った後いつまでもきらきらと輝いていた。

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