街とは違った、朝日を浴びての目覚めは、非常に清々しいものだった。
 春がまだ訪れていないこの時期の山は、かなり冷え込む。布団から出るのにはなかなか勇気がいるが、いったん着替えて顔を洗い、温かな食事を口にすれば、しっかりと目が冴えるものだ。

 麗奈はひとり庭に出ると、深呼吸した。山の澄んだ冷たい空気が肺の奥まで染み渡る。白く染まった吐息が、ふわりと空に消えた。

 祖母の家の周りには水田が広がっていて、隣の家までは少し距離がある。昔はこの水田も祖母の所有だったらしいが、娘が独り立ちして一人暮らしをするようになった祖母が近所の農家に売ってしまったそうだ。そこで収穫した米を、買い取った農家の人が毎年祖母にも分けてくれるというのだから田舎の人々はあたたかい。

 そんな水田の間に走る畦道をしばらく歩くと、村の外れの山道に入った。舗装されていないので草などたくさん生えているが、一応軽車両が通れる程度には均されている。村の名前の由来となった、萩山という小さな山だ。

 跡継ぎの話が出ていた萩山神社は、この山の中腹にある。とはいえ小さな山なので、二十分も歩けばすぐに着く。小学生のころは、祖母の家に来るたびに山遊びに来ていたものだ。というよりは、子供が遊べる場所がここくらいしかないというほうが正しいが。
 百段弱の石の階段を上れば、ちいさな鳥居がぽつりと出迎えた。
 簡素な拝殿と小さな本殿、苔むした手水舎しかないちっぽけな神社。社務所は、盆と正月だけプレハブで建てられる。本当に静かで何もない神社だ。

 山の守り神を祀っているという。小さいけれど歴史はそこそこ長いらしく、管理しているのは麗奈の祖母だが村の人たちがまめに訪れて挨拶ついでに手入れをしてくれているらしい。久しぶりに見る神社は、何度来ても変わらない。静かで落ち着いた雰囲気が心地良く、麗奈のお気に入りの場所だった。

 それにしても自分がここの巫女になるだなんて想像もしていなかった、とぼんやり突っ立っていると、背後で不意に、かろんと下駄の鳴る音がした。
「あれ、麗奈?」
 声をかけられて、振り返る。立っていたのは、見た目麗奈とそう変わらない年頃の少年だ。
 一瞬女の子と見紛うような中性的な顔立ちに、少し長めの胡桃色の髪。白い着物と青い袴を身に着けていて、境内の掃除でもするつもりだったのか手には竹箒を持っている。
「おー、萩。久しぶり」
「久しぶり、おはよう。元気してた?」
「元気だよー」
 麗奈が手を上げて掌を向けると、軽くハイタッチを返してくれる。この山、神社と同じ名前の彼は、もうずいぶん長くこの神社でアルバイトをしていた。
 五年前、麗奈が母親の帰省にくっついて初めてこの神社を訪れたときにはすでにここで今と同じように箒を握っていたはずだ。当時、麗奈は小学生。もし彼が麗奈と同じ年頃なら彼も小学生だったということになってしまうから、年が近そうな見た目とは裏腹に実際はもう少し年上なのだろう。なんにせよ、彼は年齢不詳だ。

 萩は麗奈を見下ろすと、ことりと不思議そうに首を傾げた。
「あれ。中学の卒業式って、確かまだじゃなかったっけ?」
「うん……そうなんだけど」
「……何かあったの?」
 彼に促され、境内の隅に置かれた木製のベンチに並んで腰を下ろす。卒業前に帰省していることを心配して顔色を変えた彼に、心配するほどのことではないよと一連の経緯を簡単に説明した。萩は黙って相槌を打ちながら、麗奈の話を聞いてくれている。

「――それで、ちょうど昨日の夜こっちに来たばっかりなんだけど」
「……ふーん」
 一通り話を聞いた萩はゆっくりと立ち上がり、麗奈に背を向けたまま、持っていた箒で境内をガサガサと適当に掃き始めた。無視されたのかと思いきや、何事か考え込んでいたらしい。集めたのだか集めていないのだかよく判らない落ち葉の山を足で蹴散らして、真面目な顔でくるりと振り返る。
「麗奈。君はそれで良いの?」
「え? ……あたし?」
「うん、そう。君自身は、これで良かったと思う?」
「うー……ん」
 よく分からない。家族に従っていただけで、自分の道など考えてもみなかった。萩は首を傾げる麗奈を見下ろして再び問う。
「どうして、断ろうとは思わなかったの?」
「何だろう……仕方ないっていうのかな、お母さん一度決めた事は譲らないし。跡継ぎがどうとかって話も、今はまだよく分からないし。前の家や学校には思い入れも無いから、引っ越し自体は嫌じゃないし」
 萩は暫く麗奈を見下ろして、ふむ、と顎に手を当てた後、唐突に質問を変えてきた。
「麗奈、今身長何センチ?」
「は?」
 話題の変化についていけない。
「えっと、この間測ったら、百五十八センチ……だったかな」
 とりあえず聞かれたことに答えると、萩が驚いたように「へぇ」と目を丸くする。
「そんなに感心する事じゃないよ。クラスでも真ん中あたりだし」
「大きくなったなぁ。ま、僕にはまだまだ及ばないけど?」
「いやいやもう少し頑張って伸ばす予定だから」
「頑張って伸びるものじゃないと思うんだけど。僕はこれ以上伸びないから、あとは麗奈の成長期が終わらないのを祈るだけだ」
 萩がくすくす笑う。馬鹿にされているようで悔しい。成長期などとっくに終わっているというのに。
「せめて百六十は欲しいんだよ。体重だったらいくらでも増えるのにな」
「ふうん。今は?」
「えーと、……ってこら聞くな」
 にやにやしながら余計な質問を投げ込んできた萩は、叩こうとする麗奈の右手をひょいと大股に一歩下がって避け、楽しそうに笑った。
「良かった、笑った」
「はぁ?」
「だって、なんか元気なかったんだもん、麗奈。ボケッとして案山子(かかし)みたいに突っ立ってるしさ」
「案山子ってねえ」

 萩は笑いながら、ふと自分の髪に手を伸ばして枯葉の破片を手櫛で取った。風で飛ばされてきたのがいつの間にか付着していたのだろう。彼の髪は、太陽に透かすと淡く光って見える。日本人にしては少し色が明るい胡桃色。しかしそれは人工的な茶髪ではなく、やわらかい自然な色だ。
「僕、思うんだけどね」
 彼は人懐こい笑みを浮かべ、踵を軸にしてくるりと体ごと麗奈のほうに向き直った。
「麗奈が自分の意思で、やりたい事をやりたいようにやったらいいんじゃないの」
「え?」
「もう高校生なんだから。行きたい学校があればそこに行けばいいし、やりたい仕事があったら働けばいいし。もちろん、この村で学校に通うのが本意なら、そうすればいいし」
「でも……おばあちゃんが」
「神社継げって言われてるんだっけ? 嫌なら断っちゃいなよ」
「……そんなことして怒られないかな?」
「当たり前だろー、あの孫大好きおばあちゃんが、可愛い孫が嫌がることを押し付けるわけないって!」
 萩が麗奈の不安を吹き飛ばすように快活に笑った。それから、秘密でも教えるかのように声を潜め、麗奈の耳に口元を寄せてくる。
「あのね。……ここだけの話なんだけど、この神社の神様はかなり自由人で我が儘で、ちやほやされるのが好きなの。お勤めだからって渋々お仕えされるのは一番嫌いなんだよ。麗奈のおばあちゃんも、そのことはよーく知ってるから、大丈夫」
 悪戯っぽい笑みで、萩がそんなことを言う。神様が自由人だなんて聞いたこともない。何それ、と麗奈が吹き出すと、萩はにっこり微笑んだ。
「……人間ってさ、時間が限られてるじゃん。だったら、やりたい事をできるうちにやっとかないと、後で後悔するよ? 君のおばあちゃんだって今はまだバリバリ現役なんだから、今すぐに継ぐ必要なんてない」
「バリバリ現役って何それ。……でも、それもそうだよね」
「そうそう。もう少し考え直してみなよ。……あ、来た来た!」
 ふらりと鳥居の近くまで歩いて行った萩が、神社の階段を見下ろして大きく手を振る。
「おそよー、勇太」
「萩兄ー! 久しぶりー! おはよう」
 弟の勇太が、サッカーボールを小脇に抱えて階段を駆け上がってきた。走ってきた勢いのまま飛び付いた勇太を、萩が抱きとめる。
「うわ、また重くなってやんの」
「三センチ伸びたよ!」
「でかくなってんじゃーん」
「あのね、リフティングできるようになったんだ、見てて」
 萩から離れて、抱えてきたボールを蹴り上げる。ぎこちないが、数回続くだけでも成長だ。幾度目か、空に浮いたボールが風に流されてふわりと揺らいだのを、すかさず萩の足が受け止めた。落ちないように手助けしたのかと思えば、そのままひょいひょいと勇太から逃げていく。
「待って、ボール返して」
「ここから奪い取れたら、上達したと認めてあげよう」
「えーっ、ひどい!」

 麗奈は境内のベンチに腰掛けたまま、ボールを取り合う二人を眺めた。麗奈の話を聞いてくれていた先程とは打って変わって、子供のようにはしゃいでいる萩は、年下のようにさえ見えてしまう。がむしゃらにボールを追いかけ回していた勇太は、萩の巧みな足さばきに翻弄された末、スタミナ切れで座り込んだ。
「萩兄強すぎ! 全然疲れないよね、なんで」
「山暮らしだと自然に体力つくんだよ。それに君はまだ十歳にも満たないお子様なんだから、早く疲れて当たり前」
「お子様じゃないもん」
「チビっ子、ガキんちょ」
「うわー萩兄がいじめるぅー」
「事実じゃん」
「チビじゃないもん! クラスで前から四番目だもん」
「……へえ、そうか。君より小さいのが三人も」
「うん!」
 最後の萩の一言も一応嫌味だったのだが、勇太は誇らしげに大きく頷く。かわいいなあと言わんばかりに萩の顔がにやけたのを麗奈は見逃さなかった。萩は麗奈の弟にちょっかいをかけていじるのが好きらしい。
 麗奈は自分の財布を取り出して百円玉を数枚出し、弟に手招きをして握らせた。
「これでジュース三本買ってきて。下に駄菓子屋さんあるから」
「僕と麗奈と神社のお供えの分だからね?」
 麗奈の背後から肩に体重を掛けて凭れた萩が、麗奈の頭越しにニヤニヤしながら口を挟む。いちにいさん、と指折り数えた勇太が、悲壮な声を上げた。
「えーっ! なんで、萩兄ずるい、ボクのぶんは」
「えっ?」
「……萩」
 肩越しに窘めると、萩がごめんごめんとまるでそうは思っていないような声で謝った。
「仕方ないなぁ、じゃあ五分で戻って来られたら君の分もあるという事にしよう。よーいドン!」
「えっ、うわあ、いってきます!」
「いってらっしゃーい」
 階段を駆け下りる勇太に向かって、萩がにこやかに手を振る。麗奈は小さくため息を吐いた。
「可愛いのは解るけど、あんまりからかわないであげてよ……」
「いいじゃん、傷ついてるようでもないし。きっと今頃、無謀にも五分で戻るなんていうインポッシブルなミッションにチャレンジしていることでしょう。いやー、ピュアだよね」
「これで勇太がぶっ倒れたらあんたの責任だからね」
「なに言ってんだよ。サッカー小僧がこれくらいで倒れてちゃ、試合なんか出られないよ」
 萩が麗奈の前に来たので、麗奈は少しずれてベンチを空けてやる。空いたスペースに腰を下ろして、萩は唐突に尋ねてきた。
「麗奈は将来、何になりたいの?」
「将来? ……将来かぁ」
 敷かれたレールの上を走るだけの人生だった。流れるように義務教育を終え、その先までは考えていなかった。だから突然の環境の変化に戸惑っているのだ。もしかしたら、突然すぎて戸惑うところまで行きついていないかもしれない。
 自分は何がしたいのか。何のために進学するのか。これからどうするのか。自分で考えなければいけないのだ。
「難しいなぁ……」
 思わず零れた本音に、萩がゆるりと目を細める。
「やりたいようにやったらいいよ。君の道を妨げる人間なんて、この村にはいないから」
「やりたいことって言われても……正直まだよく分かんない。高校に上がれば決まるかなとは思ってたけど、行きたい高校はキャンセルしちゃったし、べつに近くに行きたいところないし。働くかなぁ」
「あー、そっか。萩山高校は偏差値低いしね」
「え? そういうわけじゃ……少しは、ある、けど」
 咄嗟に否定しようとしたものの、萩の「ほんとに?」という視線を向けられて、尻すぼみに本音が出た。
「ご、ごめん」
「別に本当のことなんだから気にしなくていいんだよ。母校ってわけでもないし」
「そう……」
 暫く考えて、ふと思い当たる。
「母校ってことは、萩もう高校出てるの?」
「いや? 行ってないよ、高校には」
「……萩って何歳なの?」
「ヒミツー。教えない」
 きひひと悪戯っぽく笑って見せた、口元に八重歯が覗く。顔のいい人は何をしても様になるものだ。麗奈は答えの返ってくるはずがない質問は諦めて、少し考え込んだ。

「あたしにバイトとかできると思う?」
「うん。高校生でバイトする人いくらでもいるでしょ」
「別に村にいなくたって、寮とか下宿とか……あるよね」
「私立高校なら寮もあるし、山の向こうにある……そうだな、柳町とか霞原とか、そのくらいの学生街なら下宿くらいいっぱいあるよ」
「まだ願書受け付けてる高校あるかな?」
「麗奈の住んでたとことは地区が違うから、いくらでもあるんじゃない? 調べてみよう」
「そっか……」
「自分で決めて、自分で考えたらいいよ。それで決めたことならきっと、ご両親もおばあちゃんも誰も文句なんか言わないから」
 萩が麗奈の頭にぽんと手を載せる。
「……ありがと」
「まあ僕としては、麗奈と一緒にここで働くのも大歓迎なんだけど?」
「あはは、考えとく」
 冗談とも本気とも取れる発言に、思わず笑う。
 今までこんなに親身になって相談に乗ってくれた人は他にいなかった気がする。いい友人を持ったものだ。

 というより、親身になって悩みを聞いてくれそうな人がいなかったから、迂闊に相談できなかったのだ。……なんと頼りにならない家族だろうか。決して面倒見が悪いわけではないが、良くも悪くも放任主義なのだ。しかしそれは、麗奈自身の決断を無下にするようなこともしないということでもある。
「……決めた。やっぱり、お母さんたちに相談してみるよ」
 麗奈の言葉に、萩は微笑んで頷いた。

「ただいまー! ジュース買ってきたよ」
 やがて、息を切らした勇太が階段を駆け上がってきた。
「もうだめ、もう歩けない……萩兄、いま何分?」
「八分四十二秒。三分四十二秒の遅刻だね」
「あー、もう疲れたぁ。お姉ちゃん、これ」 勇太が麗奈にコーラを差し出す。麗奈がそれを受け取って開けようとすると、すかさず萩が横から手を伸ばして奪い取った。
「ちょっと待った。これ……」
 奪った缶のプルタブを、萩は何の躊躇いもなく引き起こす。
 走ってきた勇太の手に握られて満遍なくシェイクされた炭酸は、噴水のように勢いよく吹き出した。萩は缶の飲み口を絶妙に自分から遠い方に向けていたので、被害者はもちろん。
「うわぁーなにすんだよ! 兄ちゃんの馬鹿!」
「あらーごめんあそばせ。まったく……危うく君のおねーちゃんが被害に合うとこだったんだぞ」
「だったら誰もいないほうに向けたらいいじゃんか」
 噴き出したコーラを浴びてベタベタになった勇太が文句を言いながら自分の缶を開け、口をつけようとした。
「あ、こら。五分オーバーしたんだからそれは神社のお供えの分だってば」
「萩兄のいじわるー!」
 泣きそうな顔をする勇太とは裏腹に満面の笑みである。勇太は萩の意地悪から逃れる事はできないようだと、麗奈はこっそり溜め息をついた。

*****

 その夜、麗奈は自分の考えを両親と祖母に打ち明けた。
 神社の跡継ぎの話は先延ばしにしてほしい事、萩山の外の高校へ行きたい事、学費と最低限の生活費だけ支援してほしい事――。

 突然の麗奈の申し出に戸惑ったのは両親だった。この村が嫌なら皆でまた引っ越そうかという提案もあったが、それは断った。そもそも父の仕事の都合でこちらに来ているのだし、妹や弟の転校の手続きも進めている。家族に余計な手間を掛けさせるわけにはいかない。

 妹や弟が寝静まった後にひっそりと開かれた家族会議。夜も更けるまで慎重に皆で話し合ったが、最終的に本人の希望を最大限尊重するということで落ち着くこととなった。

 最後まで心配していたのは、意外にも一番奔放なはずの母だった。ひとりでどうやって暮らしていくつもりなのか、母と二人で村を出るのはどうか、この村からでは通えないのか、と散々渋っていたが、それを説得してくれたのは祖母だ。
「あんたも同じくらいの年で、同じことしたじゃない」
「それとこれとは話が別でしょ?」
「同じことよ」
 祖母からの思わぬ援護に、麗奈も目を丸くした。祖母曰く、麗奈の母も村を飛び出していった経験があったらしい。祖母にとっては麗奈の意を決した相談もある程度は予想済みだったということだ。

「子は親に似るとはよく言ったものね」
 そう言って笑った祖母に、母は諦めたように苦笑いで頷いた。――こうして、麗奈は萩山を出て行く事が決まった。

 村を出る条件として、最初はまず母の知人が営業している下宿先に入ること、生活費は祖母が毎月仕送りをすること、高校が決まったらすぐに知らせること、万が一受験に失敗したら村に帰ってきて速やかに村の小さな高校を受け直すこと、を両親と約束した。
 受験をしてから引っ越すという手もあるのだが、環境に慣れるためにも麗奈は出来るだけ早くに親元を離れることを希望したのだ。これから資料を集め、要綱を見比べてから受験校を決める位の時間はまだある。
 姉にべったりな弟は姉の一人立ちを泣いて嫌がったが、会いたくなったらいつでも会えると話して聞かせると、渋々納得して頷いた。姉と大して仲の良くない妹は素っ気なかったが、少しだけ寂しげな表情を浮かべて「頑張ってね」と言ってくれた。

*****

 数日後の夕暮れ時、麗奈は再び萩山神社へ足を運んだ。
 明かりのない山は薄暗く、日が暮れると何も見えなくなってしまいそうだ。日が暮れないうちに用事を済ませようと、足を急がせる。鳥居をくぐったところで、少し声を大きくして目当ての名を呼んだ。
「萩? いるんでしょ」
「うん。どうしたの、こんな時間に」
 本殿の後ろから箒を持って萩が出てくる。朝早くても夜遅くても、境内で名を呼ぶとすぐに現れるのが彼の謎のひとつでもある。
「あのね。あたし、家を出て一人暮らしすることになった」
「へぇ……お母さんと同じか」
 ぽつりと呟いた萩に、麗奈は首を傾げる。
「それ、村では有名な話なの?」
「うん、まあね。それで、どこに?」
霞原(かすみはら)にお母さんの知り合いで学生の下宿をやってる人がいるから、お母さんに話を付けてもらってそこに行こうかなって」
「そっか。……いつ出るの?」
「今月中には」
「そう……気をつけて」
 麗奈の報告を聞いても、彼は特に動じた様子もなかった。まるで予想通りだったとでもいうように、穏やかに微笑んで頷いた。
「うん。ただその報告に来ただけなんだ。時間取らせてごめんね。じゃあ――」
「あ、待った」
 暗くなってきたので早く帰ろうと踵を返したが、呼び止められて振り返る。
「ん?」
「あのさ……これ」 着物の袖の中に手を突っ込んで彼が取り出したのは、小さな皮の巾着。差し出されたそれを開けて見ると、中に入っていたのはペンダントだった。二センチほどの丸い水晶のような石に、穴をあけて細い皮紐が通してある。今時の女の子が好んで身に着ける可愛いアクセサリーとは違い、どちらかといえば民芸品のようなシンプルなものだ。

「何これ? 綺麗」
 掌に乗せたそれを眺めながら問うと、萩はふふふと笑いながら手を伸ばし、麗奈の手からそれを取って両手で頭の上に掲げた。頭下げて、と促されて軽く下を向く。首飾りがそっと麗奈の首に掛けられた。
「御守りだよ。三月、誕生日でしょ? 次にこっちに来るのはだいぶ先になるだろうし、ちょっと早いけど今渡しておくよ。持って行って」
 サイズの割には予想したほどの重みもなく、肩は凝らなそうだ。しっくりと胸元に馴染むその石を右手に乗せて眺める。パワーストーンなどの類いには詳しくないが、別に効果を信じていないというわけでもないので純粋に嬉しかった。

「ありがとう。大事にする」
「いーえ、どういたしまして。……御守りだから、できるだけ着けててね」
「うん。ありがとう」
 ペンダントを受け取った麗奈は、もう一度礼を言って彼に手を振り、石段を駆け下りる。石段を下りた先で振り返ると、鳥居の下には既に萩の姿は無かった。