「うわあ、真っ暗だ! 星がいっぱい見える!」
「明かりが全然ないね……さっすが田舎」
 車から降りたところで、小さな弟が満天の星空を指差し、それよりも少し上の妹はげんなりとした声を上げた。きょうだい達に続いてワゴン車の後部座席を降りた麗奈は、一度夜空を見上げはしたものの、さして興味もわかずに自らの荷物を抱え、唯一この視界の中で灯りを点している大きな民家に向かってさっさと歩き出した。

 ここ萩山村は、その名の通り萩山という山にある小さな村で、建物が民家くらいしかないから夜になると辺りは闇に包まれる。街のほうに比べると星が一段と多く、『超』が付くくらいの田舎だった。
 周りには水田が広がり、夏になれば虫や蛙の鳴き声で喧しくなる。ただ、春とは名ばかりで寒さの厳しい今の時期、さらに町よりも気温の下がるこの山奥は、生き物の気配も無く静まり返っていた。
 夜に冷やされた風が、肩まである髪を揺らす。車での長旅に疲れた麗奈には心地よい冷たさでもある。
「お姉ちゃんお姉ちゃん、上見て! 星がすごいよ」
 春には小学校二年生に進級する弟、勇太が追ってきて、背後から麗奈の服の裾をぐいと引っ張った。歩みを止められた麗奈は眉間に皺をよせ、小さな弟を振り返る。
「毎年見てるでしょ。自分の荷物くらい自分で持ちなさい」
「はぁい……」
 叱られた勇太はしゅんと項垂れて、荷物を取りにすごすごと車へと引き返していった。
 萩山村は、麗奈の母の故郷である。盆と正月には毎年母の帰省にくっついて訪れていたけれど、今回のこれは里帰りではない。高沢家は、この村に住むことになったのだ。
 麗奈は荷物を運びながら、数日前のことを思い返した。

*****

 その日麗奈は、いつものように学校から帰宅した。受験シーズンに入り、クラスの雰囲気もだんだん本気ムードになってきた頃。麗奈も、家に帰ってからは毎日机に向かい、受験勉強に取り組んでいた、そんな矢先の出来事。
 いつもなら仕事で帰宅が遅いはずの母親の靴が玄関にあったことに気付き、珍しいなと思いながらリビングへ顔を出すと、帰宅の挨拶もそこそこに、ダイニングテーブルについていた母から「とりあえず座って」と促された。
「お帰り。今日はずいぶん早いんだね」
「ちょっとお話があってね」
 手招きされて、言われるままにダイニングテーブルの向かい側につく。
「おばあちゃん家が神社なのは麗奈も知ってるよね?」
「うん。萩山神社のこと?」
「今月中に、あっちに行くことになったから」
「…………はぁ?」
 長い沈黙の後、やっとのことでそれだけ言った麗奈に、母はまるで世間話でもするかのような気楽さで言った。
「おばあちゃんが前に、麗奈を神社の跡継ぎにどうかって言っててね。ちょうど今回、お父さんがあっち方面に転勤することになったから、この際一緒に行っちゃえって事で。巫女さん、やってみたいって前に言ってたでしょう?」
「あ、跡継ぎ……? 転勤!?」 混乱した麗奈の頭の中を、いろいろなものがめまぐるしく駆け巡った。突っ込みどころが多すぎて突っ込めない。まだ母はなにか喋っているようだが、頭に入って来なかった。
 やがて、ある事実に思い当たる。
「――そしたらきっと、麗奈も……」
「ちょっと待った、受験は!? それにもうすぐ卒業なのに」
「萩山にも高校はあるわよ?」
「そうじゃなくて! こないだ願書出した志望校は……」
「あっちで受け直せばいいじゃない」
「…………」
 あまりにもあっさりした母である。
 どうやら子供たちの知らない間に、両親や祖母の間で話がまとまっていたらしい。

 こうして、跡継ぎだか転勤だかよく訳の分からないまま、麗奈の中学卒業を目前にして転校が決まったのだ。
 といっても出席日数は十分に足りていたから受験に支障は無く、正確には卒業式まで欠席扱いということになる。中学一年生の妹と小学一年生の弟も、終業式を迎えずに転校となった。
 麗奈は今の中学に未練も何もなかったから割とすんなり受け入れたが、新しい学校にようやく馴染んでようやく友達が増えたばかりの二人は、しばらく嫌がって抵抗したものだ。
 最終的に、「時々は友人に会いに帰ってくる」という約束の元、渋々転校を受け入れたのだった。

*****

 祖母の家は、麗奈たち家族五人がひとつずつ部屋を使っても余るほど広い。里帰りのたびに各自使っている部屋があったから、荷物を広げなくとも必要なものは揃っていた。
 麗奈は自分の荷物を運び入れると、昼間に祖母が干しておいてくれた布団をベッドに敷き、横になった。
 父も母も、勝手だ。せめて長女にくらい、先に相談してくれてもいいのに。まあ昔から言い出したら周りが見えないのは解っていたことだが、そもそも跡継ぎだの何だの、麗奈には未だにさっぱり解らない。
 ほんの数日前まで、ごくごく普通の中学生活を送っていたのだ。普通に受験して、普通に高校生になるのだと思っていた。父の転勤ならまだよくある話だが、跡継ぎとは。そもそも祖母の跡を継ぐならば父か母ではないのだろうか。考えるほどにわけが分からない。
 色々と思考を巡らせていると、ドアを叩く音が聞こえた。続いてドアが開き、細い隙間から弟がそっと顔を覗かせる。
「お姉ちゃん……おばあちゃんが、ご飯もうできてるって」
 声にいつもの覇気がない。さっき冷たくしすぎてしまっただろうか。(弟にあたっても仕方ないか)
 別に、田舎暮らしが嫌なわけではないのだ。
 普通ならもっと反抗したりするのだろうが、気紛れな母の我が儘に振り回されるのにはもう慣れてしまっていた。志望校にどうしても行きたい熱意はなかったし、通っていた中学校にも特に思い入れはない。突然のことに戸惑っただけで、正直なところ、「どうでもいい」というのが彼女の本音だった。まあだいだいなるようになる。

 麗奈は身体を起こしてベッドから足を下ろした。八つも歳の離れた兄弟はやはり可愛い。麗奈の表情が柔らかいのを見て、弟がほっと肩から力を抜いたのがわかる。
「分かった、行くよ。ご飯何だろうね?」
「あのね、今日は肉じゃがとかぼちゃコロッケがあるよ。お姉ちゃんが好きだからって」
「おばあちゃんのかぼちゃコロッケ美味しいもんね。楽しみだね」
 麗奈は弟の手を握って、共に居間へ向かった。
 祖母は、娘夫婦と孫たちと共に暮らせるようになることを心底喜んでいるようであった。
 麗奈が小学生のころは夏休みや冬休みをたっぷり使って萩山に滞在することも多かったが、麗奈が中学に上がって部活をするようになってからは休みが少なくなり、盆と正月のみ、それもほんの数日しか訪れることも無くなっていたため、この大きな屋敷に一人暮らしをしている祖母としてはやはり、口にはしなくとも寂しさを感じていたのかもしれない。

 夕食後、自室で一人荷物を片付けていると、祖母が部屋を訪ねてきた。中学生の一人部屋にしては若干広すぎる洋室に、勉強机と木製のベッドを置いただけの質素な部屋。椅子の代わりにベッドに並んで腰掛け、久しぶりに祖母と二人きりで顔を合わせた。
「麗奈ちゃん、長旅で疲れているのにごめんなさい。少しだけお話したくて」
「うん、いいよ」
「跡継ぎの話なんだけど」
 なんだか言いにくそうに、祖母が顔を曇らせる。静かに続きを待つと、祖母は深く溜め息を吐いて、申し訳なさそうな顔をした。
「なんだか急に知ったみたいで、ごめんなさいね。別に、今すぐどうこうしろってわけではなくて、いずれはこういう道もいいんじゃないかと思って、あくまで選択肢の一つとして話したつもりだったのだけど。たまたまお父さんがこちらに転勤になるってことだったから、貴方のお母さんがこれ幸いと引っ越しを決めてしまったみたいで」
「あー……なるほど」
「まったくあの子は……昔っからああいう性格で。お父さんの転勤も、本当はもう少し前から決まっていた筈なのよ。もっと早くに教えてあげれば、麗奈ちゃんだって覚悟できていたのにね……ごめんね」
 頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた祖母を見て、祖母の数十年の苦悩が目に浮かぶ。そそっかしい困った母だ。

「ところで神社の跡継ぎって何するの? なんであたしなの?」
 麗奈はとりあえず今一番知りたかったことを尋ねてみた。本当は一番にこれを知っていないとおかしいのだが、母の性格を考えると知っていながら話していない可能性もある。
「簡単に言うと、神主さん――最初は巫女さんからかしら。あの神社は小さいしそんなに手が掛からないから、することはそれほど多くないのよ。うちの血筋は女系でね、代々女の子があの神社を継いできたの。だから麗奈のお父さんも婿入りだったでしょう? まあ今の時代、長女だからと言って強制する気はないわ。今は私が一人で神社を管理しているけれど、ただ、私ももうこんな年だから、ねぇ?」
 穏やかに笑う祖母は、七十代も後半に差し掛かった頃だ。しかし本人が言うほど年老いてはおらず足腰も強靭だし、なにより見た目も若々しかった。きつい団子に結んだ白髪混じりの髪が、きりりとした女性らしい印象を与える。
「おばあちゃんはまだ若いでしょ」
 麗奈が素直に思ったことを言うと、祖母はふふとくすぐったそうに笑った。
「ありがとう。そう、私も今はまだ元気だし、跡継ぎの話は『いずれ』って言っていたのだけど。麗奈ちゃんの希望もまだ聞いていないしね。興味があれば、学校に行きながら巫女さんのアルバイトとして体験してみても大丈夫よ。やっぱり高校には通いたいでしょう? 萩山にも高校はあるから、よかったら今度見に行って御覧なさい」
「行ったことなら、あるよ」
「そうなの。どうだった?」
 古いし小さいし田舎だし生徒少ないし。それに麗奈が受験するにはちょっと偏差値が低すぎて……。
――さすがにそこまでは言えなくて、曖昧に笑ってごまかした。