民宿・狐荘から歩いて三十分。
 霞原町から川を挟んで反対側、鈴代町に位置する私立鈴代高校の校門前。
 様々な中学校の制服を纏った学生達が、ある者は友人と笑い合い、またある者は親に肩を軽く叩かれながら、出たり入ったりしていく。
 今日は、鈴代高校の合格発表日だ。
「あー……緊張する」
 麗奈もまた、校門前で深呼吸をかれこれ十数回は繰り返していた。
「早く見て来いよ」
 焦れたような裕を、麗奈は鋭く睨み付ける。
「簡単に言わないでよ! 他人事だと思って、あたしがどんなに……っ」
「麗奈なら大丈夫だよ、あんなに勉強したんだし」
 萩が口を挟み、麗奈を励ますように微笑みかける。
 それに毒気を抜かれた麗奈は、とうとう覚悟を決めた。
「あーもう……うん、よし、じゃあ行ってくる、ここで待ってて。一人で見に行くから」
 到着してから二十分、漸く麗奈は学校の敷地内に踏み込んだ。

 裕は門に入ってすぐの、「合格発表」と書かれた巨大な紙が貼ってある掲示板に背中を預けた。
 萩はそわそわと、合格者の受験番号が貼り出された方へ何度も視線を送っている。
「ちょっとは落ち着いたらどうだ」
 見かねた裕が声を掛けると、萩は冷たい視線を返した。
「心配してるんだよ」
「信じてやれよ。それとも何だ、落ちる可能性が高いとでも思ってんのか」
「違うよ、そんなつもりじゃない。……それより、ちゃんと準備出来てるんだろうね?」
 萩の問いに、裕が右手の親指をぐっと立てた。
「ばっちり。今、宏が最後の飾り付けしてるとこ」
「これが祝合格・誕生日パーティーになるか、悲しい誕生日を盛り上げる会になるかは……」
 二人は麗奈が向かった方を見遣る。
「帰ってきたあいつの表情次第だな」

 本日、鈴代高校の合格発表日は、麗奈の誕生日でもあったのだ。
 現在、民宿に残っている宏がパーティーの準備をしているところだった。
 勿論、本人には内緒である。
「ところであいつ、何歳になった?」
 裕の言葉に、萩は呆れた視線を向けた。
「……今度高一になるんだから、訊かなくても分かるだろ。十五だよ」
「ああ。そう言えばそうか」
「そうだよ。――もう十五か、昔はあんなに……」
 萩が何かを懐かしむような目をする。裕が首を傾げると、彼は「こっちの話」と誤魔化した。
「……それはそうと、お前いつまでうちに泊まるつもりだよ」
「さーね」
「程々にしないと、うちの宿泊費は尋常じゃないからな」
「だからー、肉体労働で払うって言ってるだろ」
「駄目。現金以外は受け付けませーん」
「いーよ、意地でも払わないから」
「ざけんな短足。持ち財産全部売って、来、……あ」
「……螺子切れた?」
 急に話を止めた裕に、萩が眉をひそめた。裕が示す先を見て、萩もああ、と頷く。
「あの子?」
「妖怪だ。……受かったんだな」
 視線の先には、母親らしき女性と笑いながら歩いている少女。
 二人とも自分たちと同類であることが、一目で判った。
「……あいつも高校通うつもりなのかな」
「そうじゃなきゃここにいないんじゃない? さっきから何人か見掛けてるけど……皆、積極的でいいね。――人間に正体がばれて退治されないかってビクビクして隠れ暮らすより、ずっといいよ」
 行き来する人の流れを観察しながら、しばしば短く言葉を交わして麗奈を待つ。それから十分後、丁度五人目の妖怪を数えた時、人混みから麗奈が帰ってきた。
 下を向いていて、肝心の表情は読み取れない。
 裕が掲示板から背中を離して右手を挙げると、麗奈はふと顔を上げて駆け寄って来た。
「裕、萩!」
 表情は明るい。二人は安堵した。どうやら――
「あったよ! 六五五番! やったー!」
 麗奈は両手で裕と萩の手を片方ずつ取って、その場でぴょんぴょん跳ねた。
「おめでとう!」
「良かったな」
「うんっ」
「お母さんに連絡はしたの?」
 萩が尋ねると、麗奈は跳ねるのを止めて頷いた。
「うん、向こうで電話してきた。お母さん大喜びで悲鳴あげるから、耳痛かったー」
「良かったね、喜んで貰えて」
「うん!」
 喜ぶ麗奈に、裕は空いた方の手でポケットを探り、テレホンカードを出して見せた。
「宏にも知らせてくる」
「テレカ……? いや貸すよ、携帯。……その前に、携帯持ってないの? 不便」
「そうか? 昔は無かったんだ、別に今無くても困らない。それに携帯高いだろ。俺にしてみれば何でそんな物に大金注ぎ込むのか分かんねー」
「確かに高いけどさ、今時携帯を否定する若者なんて、時代遅れにも程が……」
「ねえ麗奈、僕も見に行きたいな。番号があるとこ」
 萩は再び口を挟んで麗奈の気を引いた。
 どうも麗奈と裕は、話しているうちにお互い喧嘩腰になってくる節があるようだ。裕が幾ら機嫌を損ねようと萩には関係無いのだが、麗奈がぴりぴりしているのは見たくなかった。
「見る? こっちだよ」
 麗奈はころりと機嫌を直して裕の手を放し、萩の服の袖を引っ張って行く。
 裕は校舎に入ってすぐの事務所前にある公衆電話から民宿に電話をかけた。内容は簡潔に、麗奈の合格の知らせとパーティーの実行指示。だから麗奈に携帯を借りるわけにはいかなかったのだ。
 受話器を下ろして校舎から出た所で、萩と麗奈が戻って来た。
「麗奈。宏が『おめでとうございます』って」
「ありがとうございます」
「俺に言われても……」
「後で宏さんに直接言わないと」
 麗奈は大切そうに手に持っていた受験票を鞄に入れた。
「えーと、合格者説明会と物品販売は明日だって。今日はもう帰っていいのかな?」
「そうだな」
 三人連れだって校門を出ると、学校のすぐ近くにある河原に下りた。川沿いに歩いて橋を渡れば、霞原である。
 霞原と鈴代を隔てる、小さな川の名前は三鈴川。麗奈はその川面を眺めながら呟いた。
「いいよね、こういうの。金八先生みたいで、憧れだったんだ」
「ふーん」
 興味無さそうに頷いた裕が、足下にある大量の石の中から平たいものを一つ拾う。
「何するの、それ」
 麗奈の問いには答えずに、裕はそれを川に向かってフリスビーの様に投げた。石は水面を二回三回と跳ねながら進み、やがて川に沈む。
「凄い!」
 麗奈と萩が手を叩くと、裕が振り返った。
「別に難しくねえよ。……まさか出来ない訳ないよな、田舎人?」
 勿論これは萩のことを指す。お前もやれと言っているのである。
「やったことないもん。萩山にこんな広い川ないんだから、仕方ないだろ」
 萩が口をとがらせる。確かに萩山には大きな川が無いのだ。
「未経験を理由に勝負から逃げるか」
「勝負? そんなの不公平だ。勝負するなら公平にしろよ」
 文句を言う萩に、裕は嫌そうな顔を見せた。
「公平ぃ?」
「出来る人と初心者じゃ、初心者が負けるに決まってる。第一初めて見たんだから」
「あぁそうですか。つまんねーの」
 漸く諦めた裕に、萩は胸を撫で下ろす。そんな二人に、麗奈は一つ提案した。
「じゃあ、家まで競走しようよ」
「え?」
「待て、まだ距離かなりあるぞ」
「いいのいいの、用意」
「わ、待っ……」
「どん」
 走り出した麗奈を、萩と裕は慌てて追った。あまり早く着いてしまったら、パーティーの準備が出来ない。
 だがそれを言う訳にもいかず、無理矢理捕まえる訳にもいかない。二人は悩みながら麗奈を追い掛けた。
 そんな心配を他所に、麗奈は河原から土手を上がり、橋の真ん中まで渡った所で立ち止まる。
「すごい、綺麗!」
 川を見下ろして、感嘆の声を上げる。二人も追い付いて、橋の下を見下ろした。穏やかに流れる水は透明に澄み、橋の上からでも川底の丸い石が見える。水中の小魚の群れが、見下ろす三人の影に驚いて散った。
「これから毎日見れるんだ……」
 麗奈が三鈴川を見下ろしたまま、ぼんやりと呟く。
 かと思うと、橋の欄干からパッと離れて再び走り出した。
「ったく……あ、そうだ」
 橋を渡り、下の河原に下りた麗奈を見て、裕は溜め息を吐く。それから振り返った麗奈に不敵な笑みを見せると、橋の途中から、数メートル程下の河原にひらりと飛び下りた。
「嘘!」
 驚く麗奈にあっと言う間に追い付いて、――追い抜いた。
「あっ、馬鹿狐」
 慌てた萩も橋から飛び下りたが、二人はぐんぐん離れていく。
「あんまり走るなよ、もう!」
 萩が呆れて走るのを止めたその時、裕が立ち止まって麗奈が追い付くのを待ち、何か耳打ちをした。それを聞いた麗奈は、クスクス笑う。
 萩が首を傾げると、麗奈は口元に手を添えて叫んだ。
「ゴール変更ー! “カスミ食鮮館”まで!」
「ビリは明日から一週間、買い出しと風呂掃除なー!」
「そんな無茶な!」
 萩はとっさに走り出したが、既に手遅れなのは明らかだった。
彼と二人の間はかなり開いている上、二人が今いるのが例のスーパーの目の前なのだ。土手を上がればゴールである。
「ずるい、そんなの!」
 萩は抗議したが、裕は聞く耳を持たない。のんびり歩きながら振り返り、
「これは公平だよな。スタートは確かに同時だったもんな。途中でちんたらしてるのが悪い」
「それは屁理屈だっ」
「そうか? 正しいと思うけどなぁ……と、はい、俺いっちばーん」
「あたしにばーん。萩、最後ね」
「えーっ」
「肉体労働で払うって言ったのは何処のどいつだ」
「確かに言ったけど、それとこれとは……」
「同じだな」
 裕は萩の言葉を継いで、無理矢理完結させた。
「よし。明日から頼むぞ」
「嫌だよ」
「文句言うな、追い出すぞ」
「いいでしょ、萩。宿泊費だと思って」
「えー…………はぁい」
 萩は麗奈にまでも言われ、渋々了承した。宿泊費を体で払うといったのは確かに萩だ。

 合流した三人は再び河原へ下りて、川沿いに歩き出した。
「麗奈、今夜はご馳走な。合格祝い」
「本当?」
 民宿で着々とパーティーの準備が進められていることは何も知らず、麗奈は目を輝かせる。無駄に走ってしまったので、とりあえず民宿に到着するまでの時間稼ぎをしなければならない。裕と萩で麗奈を挟んで、歩くペースを落としながら雑談を持ちかける。作戦は成功のようだ。
「楽しみだなぁ。何食べるの?」
「気が早い。まあゆっくり考えようや」
「えー、待ち遠しいよ。もう随分、ご馳走って呼べる物食べてないし……お寿司とか焼肉がいいな」
「そんなんでいいのか?」
「え? 十分ご馳走じゃない?」
「遠慮なんてしないでもっと贅沢しなよ、合格祝いなんだから」
「庶民にとっては贅沢なのー。質より量、いっぱい食べるから」
「逞しいなー。体重大丈夫か?」
「失礼な!」
「麗奈は重くないよねぇ」
「そうそう」
「ん? お前こいつの体重知ってるんだな」
「えぇ!? 萩!?」
「冗談だってば」
「……重くないのは冗談なのか」
「裕ってば! 挙げ足取りやめてよ、なんか頭良さそうで悔しいから!」
「良さそう? いいんだよ」
「本当に頭が良い人はそんなこと言わないと思いまーす」
「同感でーす」
「あっ、この野郎」
 せせらぎの中に、楽し気な少年少女の声が響く。
 僅かに位置の高くなった陽光を反射して流水の小波は絶え間なく煌めく。
 水飛沫に濡れた河原の石は、彼等が去った後いつまでもきらきらと輝いていた。