約束の時間になっても相島透は戻ってこなかった。私はつい地面の土をいじいじしながら時間を潰す。君の方から時間を指定しておいてもう六時の鐘が鳴ってから一時間を過ぎている。流石に遅すぎるので、私の心では不安と怒りが葛藤していた。
「変なことに巻き込まれてないといいんですけど……。それ以外の理由で遅刻したなら要相談案件ですよ」
ふと顔を上げると、向かい側の山にはもう明かりが灯っていた。いつもの色と違う提灯を透かしたその色は、まるで山全部が燃え盛っているように赤一色に染まっている。少し手前の時計台の長針はゆっくりと時を進めていた。暮相の空には一番星が滲んでいて、薄い衣を透かしたような雲は段々と藍色の空に溶けていく。蝉の音に被せるように微かに笛と和太鼓の音が鳴っているのが分かった。嗚呼、今年もこの時期が来たんだ。17年間代り映えのしなかった風景から一転、今の私はどこまでも行ける自由の身であることが未だに信じられなかった。鳥籠からしか見てこなかった世界はこんなにも広かったんだ。今まで網膜に映っていた狭い世界はどこまでも広がっていた。空も海も山も人もそれこそ星のような大きさで、どこまでもどこまでも果てしない世界として繋がっていた。私は幻想的な風景に怒りも忘れて心を奪われていると、鼻腔に鈴蘭の淡い香りが充満した。
「遅くなった、すまない」
少し掠れた声の持ち主は振り返らずとも分かった。土のついた手を軽くはたくと、私はほっと肩に入れていた力を抜いた。そのままゆっくりと振り返る。さぁこれだけ遅刻したのだ。何という言い訳が出てくるのか見ものだ。
「心配するので約束は守ってくださいね……ってどうしたんですか?その浴衣」
「浴衣だけじゃない、簪もある」
「そうじゃなくて……なんで、」
言及するつもりだったのに、聞く前に驚かされてしまった。君の片手には高そうな生地があった。麻製の通気性のよさそうな布には一面、朝顔の花が咲いている。反対の手にはピンクゴールドを基調としたシンプルな簪も持ち合わせていた。アクセントとして硝子でできた朝顔が添えられていて、言葉にするのも躊躇われるほど美しい。
私が目の前の光景に言葉を失っていると、君は想像と違うリアクションに若干困り眉で頬を掻きながら釈明する。
「いつも眺めてた景色にいた同世代の子はこんな格好じゃなかった?俺の価値観がおじさんだったらすまん」
私がどうしてこんなにも驚いているのか、君の見当外れな推測に思わず頬が緩む。まさか君が遅れてきた理由は私の浴衣を探すためだったのか。小さな町に浴衣をレンタルできる場所なんてそうそうない。きっと隣町まで出たに違いない、一体どれだけの体力と労力を要したのだろう。君の顔面はまるで証拠だというように白いマスクが大半を覆っていた。下瞼ぎりぎりまで持ち上げられたそれは君の煌びやかなオーラを幾分か和らげる。
百歩譲って自分に利益のある人や、有名女優のためとかならまだ分からなくもない。こんな存在するだけで邪魔なちんちくりんのために身を削るなんて君は馬鹿だ。
私は複雑な顔で君を見上げるしかなかった。君は私の表情に一瞬傷ついたような顔をしてみせる。
「そんな顔しないでください。これでも喜んでいます」
私は微笑みをたたえながら、首を横に振ってみせる。
遅刻されたのにこんなの、許すしかできないだろう。私は君の左手に手を重ねて自分の髪に添える。一つに結われていた頭に朝顔の花が三輪咲いた。君は驚いたように瞳孔を大きくして、それから緩やかに目を細めた。俳優の相島透のときには見ることのできなかった新しい仕草に、私はときめきよりも興味深いなと思ってしまう。こんな顔今まで見たこともないし、心理学の本にも書いていなかった。一体これはどういう感情なんだろう。私がじっと彼の瞳の奥を覗こうと奮闘していると、不意に簪に触れた指先が耳たぶをなぞる。冷え性の手が触れた皮膚が不思議とどんどん熱を帯びていく。
「からかうのは辞めてください」
本当は嬉しくて可愛らしくお礼を言ってみてもいいなと思ったが、今更態度を変えてすり寄るのは何だか違う気がしてつい素っ気なくしてしまう。私が眉間に皺を寄せながら訴えかけると、君ははっと我に返ったような表情をしてそのまま高速で手を引っ込めた。挙動不審な動きに私の皺はどんどん深くなっていく。君はもう落ち着きを取り戻した顔で、右手に抱えていた浴衣と帯を押し付けてきた。よく見れば浴衣だけではなく、白く通気性のいいワンピースもあった。私は所々破けた自分の服に目をやる。普段使い用にと考えてくれたのだろう。
「着てみて。サイズが合ってたらそのまま出発しよう」
「はい」
私は半ば強制的に持たされたそれを抱えると、森の深くまで歩いていく。しかし、変な感じだ。表情と言い、耳に触れる手つきと言い、調子が狂う。一体君は何を考えているのだろう。
「私ってこんなに心読むの下手だったっけ」
数日客を取らないだけで、読心術というのはこんなにも鈍るものなのか。それとも、君の表情には私がまだ出会ったことのない感情が込められているのか。私はどうしたものかと唸りながら、誰の目の届かないところまで歩いていくのだった。
ずっと神社にいたはずなのに、踏み入れた瞬間異世界のように感じてしまうのはどうしてだろう。規則正しく並べられた石畳は綺麗に清掃されていて、暗がりに赤く怪しい光が映えていた。賑やかな祭囃子と、子供のはしゃぐ声が絶えず聞こえて気分を高揚させる。
遠くから見ていた世界が現実となった興奮から紅潮していく頬に手を当てた。君にばれないうちに熱を冷まさなきゃ、またからかわれると思った。
すれ違う人は誰もが幸せそうだった。恋人同士が多いような気がする。そんな空間に君みたいな美形と、ガリガリちんちくりんの私が並んで歩いている姿を想像して思わず背中が粟立つ。不釣り合いすぎて恐ろしいくらいだ。あと、浴衣の件の衝撃で薄れていたがちゃっかり君も甚平を身にまとっていた。ちなみに色はお揃いとかでもなんでもなく、白に多彩な色の花々の柄が描かれている私に対して、落ち着いた紺色は派手さはないが統一感があった。
私は何だか落ち着かずちらちらと定期的に隣の男に視線を送ってしまう。どうして彼が私と一緒にいてくれているのか未だに分からない。私は何も考えずに歩いている男と少し距離を取った。
「なんで離れる」
ですよねと思った。私は言い訳をごにょごにょと重ねる。
「いやぁ、透くんの顔が主な原因と言いますか。視線がこう一点集中するといたたまれないと言いますか……あの、怪訝そうな顔辞めてもらっていいですか?」
「怒っていない、ただ理解できないだけだ。ボタンが言っていることは俺の顔のせいでお前が肩身の狭い思いをしている、だから距離を取りたい。そういうことか?」
「そうです!!日本語お上手ですねー」
「じゃあ離れる必要ないな。距離を詰めろ、そう離れられると通行人の邪魔になる」
正論だった。そう言いくるめられてしまえば言い返す言葉が見つからない。
「……はい」
私は肩を落としてなるべく気配を消した。彼に熱い視線を送る女性たちに、誤解なんだと観念した顔をすることと、どうか刺されませんようにと祈ることしかできなかった。私が顔を上げると、君の身長が思ったよりも高いことに気づいた。180は優に超えていそうだ。浴衣の袖を引っ張って、気づいてもらおうとする。見下ろしてきた君に私はじとっと睨みをきかせた。君は面倒くさそうにため息を吐くだけでまた視線を前に戻す。諦めろということだった。
それから目に入る屋台全てを見て回った。金魚すくい、鮫釣り、りんご飴、綿菓子。君は自由奔放に神社を駆け回る私に嫌がることなく着いてきてくれた。彼氏でもないのにどれも文句の一つも言わず付き合ってくれる男、そうそういないだろう。ちらちらと隣の男に視線を送ってくる女性に「お目が高い。優良物件ですよー」なんて紹介してやりたかったが、君の立場的に辞めておいた。
「透くん、あれ射的ですよね!」
射的の文字を見つけて興奮が一段階ギアを上げる。屋台の食べ物も、出店でしか出会えないイベントも、全部楽しみにしていたが、私の一番の目的はこれだった。射的、銃を使って景品を落とす単純な遊びである。しかし、小屋の中では中々見ることのないメカニックなものは私の好奇心を擽る。レバーを引いた後に小気味いい音を鳴らすのも、微かに火薬の煙がたつのも格好いいとずっと思っていた。私が先ほどとは打って変わった光を含んだ瞳で上目遣いをすると、君は表情を変えずに尋ねてくる。
「やりたいのか?」
「はい!やってるところを見たいです」
君の体が拍子抜けしたかのように傾く。何か変なことを言っただろうか、不思議に思う私に彼は呆れたようにマスク越しの表情筋を脱力させる。
「お前がやりたいんじゃないのかよ」
「透くんが銃を構えた姿が様になるかなと思いまして」
「何、ボタンも俺のファンなの?」
目をぱちくりさせながら聞いてくる彼に私は全力でかぶりを振る。ファンだなんて断じてなかった。
「そんな滅相もない!きっと私みたいな人間が捧げられたから、神様は恩恵としてこのような美しい顔を造形されたのだと思うと少し感動したまでです」
「なんかリアクションしずらいな」
「喜んでくださいよ!その顔で生れ落ちることができて嬉しくないんですか?」
そう口にしておきながら、私は勿体ないと思っていた。小さい頃から業界で働いてきたなら、あの初期透の爽やかな水あめみたいに甘い微笑みに懐柔されてきた人間が数多いるのだろう。しかし、そうやって生きてきたからこそ実際君の心の壁は陰で分厚くなって自分の声すら届かなくなってしまった。周りにいた誰一人として、君の笑顔が完璧すぎて静かに崩壊していったことに気づけなかったのだ。
だから私は君の顔は蛇足とさえ思っている。中身のない、屑な人間なんてこの世にごまんといるだろう。それなのにどうして君が選ばれてしまったのだろう。君がどうしようもない人間だったらきっと何も考えなかった。けれど、君は清らかで泥臭い人間だった。思っていた以上に不器用で、思っていた以上に鈍感で、思っていた以上に生きるのが下手な人間だった。
仮に君の顔が興梠だったとしたら、ファンとやらは離れていくんだろう。
でも私はきっと君の顔が興梠だったとしても離れず、いつもと同じように話せる自信がある。それは君の肌に張り付いたパーツとバランスではなく、生き方を尊敬しているからだった。
「いいことばかりじゃないよ、逆に面倒ごとに巻き込まれることが多い。あと偏見に悩まされる」
「……それはそうですよね。失礼しました」
君が真剣に言うので、私も申し訳なさから声量が小さくなる。
「まぁでもボタンみたいな奴には関係ないけどな」
「褒めてるんでしょうかそれ」
「んー、どうだろうね」
訂正しよう、顔だけではなく発言の数々も蛇足であった。つまり私が王道ではなく、B専だと言いたいのだろうか。折角好感度が上がりかけていたのに、上げて落とされた気分になる。私が拗ねているのを他所に、彼は財布から小銭を出していた。
「おっちゃん、二発頼むよ」
射的屋のおっちゃんはだるそうに顔を上げながら二百円を受け取る。割といかついヤクザ顔のおっちゃんは彼と目があった瞬間、その顔に似合わない蕩けた表情で恍惚の息を漏らした。
「……あれ、どっかで見たことのある顔だな。なんかモデルとかやってたりするのか?」
おっちゃんの冗談めいた何気ない一言に心臓が飛び跳ねる。
どきりとしてつい彼の方を向こうとしたが、それは彼の左手によって阻止される。私の頭部は片手一つでがっちりと固定されて微動だにできなかった。君の態度を見る限りここでの正解は何も反応しないことらしい。首筋に冷や汗を流す私に対し、君の態度は涼しいものだった。
「勘違いじゃない?俺は隣町の大学に通ってるただの大学生だよ」
「まぁそりゃそうか、有名人様がこんな街にくるはずないもんな。あいよ、的に当てたらその景品が貰えるからな」
おっちゃんは笑ってスルーしてくれた。私の拍動は徐々に落ち着きを取り戻す。それにしてもマスクをしても尚オーラが消せないのか、最早行き過ぎた美形は恐ろしいものだと他人事としてしか捉えられない世界線だった。
墨色蒼然となった世界に、ぽつりと君の横顔だけが浮き出て見える。作画が違う挿絵のようだと思った。蜃気楼が見えなくなったと言っても、夏盛りの夜さりは蒸し暑い。しかし額から一筋流れる雫もまた様になるので、私は何も言えず黙ってその横顔を観察する。
「ボタンはどれが欲しいの?」
突然私に話が振られた。押さえつけられていた手がようやく離れ、君を見上げると片手に銃を持ったまま袖を捲る色男がいた。ああこういうのを見たことがある。毎年祭りの際一度は見る光景と近似していた。大体恋人同士が射的をしたとき男が「何がほしい?」と甘い声で聞くと、女は決まって一番大きな景品を指さすのだ。彼氏側は奮闘するものの、中央にある大きなぬいぐるみが倒されることはなく、おっちゃんにまんまと搾取される。そういう意味ではこのおっちゃんもある意味策士だ。毎年、大きな景品を狙う恋人たちからたんまり儲けているのだろう。
「あれがいいです!!」
私が指さしたものは全く可愛げのない白いつつみだった。風で飛んで行ってしまいそうなほど儚い和紙に包まれたそれは、墨汁の「花火」の文字が滲んでいた。
君は鳩が豆鉄砲を食ってもそんな顔しないだろうという具合で私をまじまじと見てくる。
「あれって……花火?いいの、熊のデカいぬいぐるみとかあるけど。女子ってそういう方が好きじゃないの?」
「花火一回してみたかったんですよ。いつも打ち上げられるものを遠くからしか見てこなかったので」
「ふぅん、まぁへましないように努力する」
君は変に意気込むこともなく手にある鉄の塊を構えた。照準を合わせるために片目を閉じる彼は顔のほとんどのパーツが見えなくなってしまっているというのに、やけにキラキラしている。私は困ったように笑う、もうこの姿だけで結末が大体分かってしまうじゃないか。
「へましないように努力する」
一見気障な台詞に聞こえるが、期待を裏切ることができないのが相島透の恐ろしいとこだった。
パンっと躊躇いもなく小気味いい音が弾ける。
軽い音を立てて、純白の包みは地面に落ちた。
「やっぱり」
「おいおい、前世はカウボーイか何かか?!まぁ当たったものは当たったからな、おめでとうさん」
カウボーイと揶揄された青年は的に当てたというのに喜びを見せない。そんな姿に店主は若干引きながら、景品を押し付ける。私の方を振り向いた君は完全にスナイパーの目をしていた。役者スイッチというものは変なところで入るらしい。おっちゃんの言葉に引っ張られてか、心なしか彼の背景に荒野とサラブレッドが見えたような気がした。
「どうするあと一発あるけど」
彼にとって大切なのは手に入れた景品より、弾を打ち切ることらしい。表情は変わっていないのに予想以上に楽しんでいるちぐはぐ具合に耐えられなかった。真っすぐなその姿が子供っぽくみえて私は失笑してしまう。
「一発で当てろなんて言ってませんよ、私」
「じゃあボタンがやればいい。ほら構えて、そうレバーに手を掛けて。まだ引くんじゃねぇぞ。ボタンが銃を持ってるってだけでひやひやするのに暴発されたら困るからな」
流石に信用されてなさすぎではないか。彼は私を台の前に立たせると自分は後ろに回って、覆いかぶさるような形になる。銃に二人の手が添えられた。君の薄い胸板が肩に密着して、知りたいとも思っていない心拍数が伝わってくる。私は皺ばむ顔を斜め上の彫刻品から逸らしながら呟く。
「ひぃ……息が首に当たります。気持ち悪い」
「気持ち悪いって言ったか今?」
「い、言ってません……それよりこれを押せばいいんですか」
狙いを定めたつもりだったが、気を散らす要因が多すぎて正直言うと身が入ってなかったこともある。
私が何気なく指を引こうとしたその先には、いかつい眼光を光らせたスキンヘッドがあった。
「下手くそか!」
危うくおっちゃんの脳天をぶち抜きかけた私に拳骨が落とされた。君はもう半分呆れたような表情をしている。私は状況に理解が追い付かず呆けた顔をしていたが、有り得ない状況にじわじわと笑いが込み上げてきた。当の本人が笑いを堪えているというのに、隣の男は本気で心配したような顔で私の顔を覗いてくる。
「いくらコントロールが下手だとして、どうして銃口がそっち向くんだよ。殺意高すぎだろ」
「……すみません……ぶっ」
突っ込みがあまりに的確過ぎて、我慢が出来なかった。耐えきれず吹き出してしまう。自分でも意味がわからない状況だと思う。だって普通、隣にいる人の顔が良すぎるあまり理性を飛ばして危うく人を殺しそうになることあるか。あって堪るか。でも実際起こりかけたのだ、これこそ本当の美の暴力だろう。君は子供が初めて包丁を使う時の保護者の目をしている。それが余計に面白かった。笑いが一向に収まることのない私は「ごめん」と言っておきながら、腹を抱えて崩れ落ちる。
「おいおい、しっかりしろ。どうしたんだよ本当に。気が狂ったのか?」
咳き込む私に、背中がぽんぽんと一定のリズムで叩かれる。
幸せとはこういうもののことを指すのだろうか。
気兼ねなく神社を歩いて、嫌な顔せずに隣を歩いてくれる人がいて、しょうもないことで笑って。
その全てが当たり前だと笑える人が羨ましい。
息も絶え絶えになりながら、それでも笑うことを辞めれない。くだらないことで涙が出るほど笑らう経験なんて、したことがなかった。顔が熱くて胸が苦しいほどにいっぱいだった。
あぁ。
「死にたくないなぁ……」
腹に手を当てながら今度は地獄耳の君に聞こえない声量で呟く。火薬は幸せによって中和されることなく腹に留まり続けている。素直に幸せに身を委ねられれば良かったのに。心が満たされる度に脳裏を掠めるのは、数を減らしていく時限爆弾の秒数だった。
死ぬ前に幸せを見つけてやろうと飛び出したのに、いざ幸せを知れば知るほど知りたくなかったと後悔に襲われる。
馬鹿みたいな話だ。掴んだ幸せを離したくないと思ってしまう。失いたくないと思う思い出が増えてしまう。
『私は失うことが怖いと感じるほどの地位も思い出も積み重ねてきたこともないので』
君に告げた言葉が嘘に塗り替わっていく。幸せと反比例するように別の感情が湧き出る。
頭を振って、笑う膝に力を込めて、立ち上がった。もう一度銃を手に取ると今度はきちんと狙いを定める。狙いは特に考えもせずに選んだ一番大きな熊のぬいぐるみだった。彼がつむじの上で頷くのが分かって、私も真っすぐ前だけを見る。
レバーに掛けた人差し指を思い切り曲げようとした。
その時だった。
「あっ!」
周りの人が避けるほどの声量の持ち主は、何故か私たちを指さす。指の持ち主は全く顔も知らない若い女だった。規則正しく刻まれていた拍動が無くなって私は思わず君の方を見る。白い肌には一筋の汗が流れていた。おっちゃんに声を掛けられたときとは比にならない焦りが浮かぶ彼に、私の指先は一瞬で氷河と化す。
「アレ、神に捧げる少女じゃない?」
「えっ、脱走したって言ってた?」
「気持ち悪い、何でこんなところにいるの」
「てか隣にいる人誰?なんか横顔イケメンじゃない?」
「ほんとだ!!しかもちょっと相島透に似てるー!」
「え、そういえば相島透って今行方不明で活動休止してるんじゃないの?」
「まさか、この女と駆け落ちするために?!はぁ、普通にありえない。冷めるわ」
観衆の声は黄色いものから漆黒へ鮮やかにグラデーションする。たった一人の何気ない言葉がその場にいる大勢の目に悪意の種を宿した。
その結果、瞬きする間に数えきれないほどの矛先が私たちの方を向いていた。
君の腰がくるりと人通りの少ないへ翻る。銃に添えられていた手は私の指先へスライドして掴んだ後、鉄の塊を手放した。君は私を連れて逃げるつもりだと瞬時に判断する。
駄目だ、私は足手まといだ。直感が叫んだ。
私は傾く体にブレーキを掛ける。軽い体ではあるが、踏ん張ればそれなりの抵抗はできる。振り返る君は今にも噛みついてきそうな顔をしていた。
「行くぞ、ボタ」
「透くん、私」
「いいから!!」
そんな喋り方すれば喉が千切れてしまうだろう。宝石にまた一つ傷がついた。私のせいだった。君の声に衝撃を受けてささやかな抵抗は失敗に終わった。透くんは私の手を強引に引くと、人の波を潜り抜ける。彼のボロボロのスニーカーが悲鳴をあげて今にも壊れそうだった。気を抜けば躓いてしまうこの状況で、それでも私が走れているのは自分がどんな酷い言葉に晒されようが迷わずに進む背中が目の前にあったからだ。
嗤う人、物を投げつけてくる人、写真を撮る人。
頬がぶたれたように熱くて繋がれてない方の手で拭うと、豚汁のニンジンが肌に張り付いていた。私は人の目が怖くて、足元だけを見て走る。しかし、皮膚がうっ血して白くなるくらい強い力を込められた腕が視界の端でちらつくと涙が込み上げてきた。君の額からはマスクが剥がれ優美な顔が露わになる。そうなれば流石に周りの人は私の手を引く男が相島透だと確信して、更に騒めきは大きくなる。
あぁ、私なんてことをしてしまったんだ。私の我が儘で透くんを危険な目に合わせて傷つけて、挙句の果てに苦手な群衆の盾なってもらって。やっぱり私は疫病神なのかもしれない、周りにいるだけで誰かの迷惑で誰かの不幸で。傷つけてはいけない人を、傷つけてしまう。
縺れる足を踏ん張って人込みを抜けると、彼だって土地勘がないのに私の姿を誰にも見られないように庇いながら人通りの少ない道を選別してくれた。後はもうひたすら走った。息が苦しくて段々何も考えられなくなってくる、視界に映る石壁と彼岸花がものすごいスピードで後ろへ流れていった。前を向くと肩で息をする透くんがいる。
ごめんなさい、と心の中で呟く。
彼の姿を目にするだけで申し訳なくて、私はそっと目を逸らす。夜風に潤んだ瞳を晒して、早く乾いてくれと願った。
苦しいけれど庇われた私はまだましだった。君が引いてくれる力のお陰で体は勝手に前に進む。君より楽に逃げている自分が情けなかった。
もう神社の提灯の明かりも点になった頃、彼はようやく右手を脱力させた。
「はぁ……っ、はっ」
嗚咽と同時にどさっと重たいものが落ちた音が聞える。驚いて地面の方を見ると、四つん這いになりながら必死に呼吸をしている透くんがいた。
「透くん?!」
背中をさすると、彼は咳き込みながら私の手に自分の手を当てて「やめろ」と静止させる。人に揉まれたせいで、煙草と甘ったるい香水の匂いとアルコールの匂いが纏わりついた。酸素が足りなくて思い切り深呼吸すると、その匂いまで吸い込んでしまって私までむせてしまう。
苦し気に喘ぐ透くんは、涙でぐちゃぐちゃの私の肩を押し出した。
「……逃げろよ、早く」
「何言ってるんですか?!こんな状態の透くんを置いていける訳ないじゃないですか」
「馬鹿だな、ボタンが先に行かなかったら俺がこんな無茶した意味ないだろう。別に死ぬわけじゃないし、後で追いかけるから大丈夫」
「そうやって虚勢張って、倒れているところを無理やり誰かに問いただされたりしたら……」
「黙って早く行け!」
「私は!!」
こんな大声出してもし誰かが来てしまったら元も子もない。彼の努力の水の泡になってしまう。
それでも私は声を荒げる選択をした。
そうしなきゃ、本当の彼には届かないと思ったからだ。彼は私の言葉を本気に捉えていない、掛ける言葉全てを上辺だけのものだと勘違いしている。その背景は、きっと幼いころからお世辞や胡麻をする言葉ばかり掛けられてきて、いつしか本当に心配する言葉が届かなくなってしまったのだろう。
当たり前だ、そんな経験して一体誰が周りの大人を信用したいと思えるのだろう。
彼の周りにはいつも人がいたかもしれないけれど、透くんはずっと孤独と戦ってきた。
極限まで整えられた体裁は自身ですら自分を見失ってしまうほど分厚く、それに加えて騙された周囲の人々も本当の君を知ろうとしなかった。
誰も頼れない、誰も信じられない世界で、たった一人で生きてきた。
だったら今夜、私が貴方の世界で二人目の人間になることを誓おう。
震える喉で息を思い切り吸い込む。普段使わない筋が伸びて、今にも破裂しそうな肺と肋骨が軋む。
私は彼の頬を両手で包み込むと、そのまま引き寄せて額を密着させる。
鼓膜が破れそうなほどの声量で放つ言葉が、虚ろな目をした彼にどうか届きますようにと祈った。
「私は、貴方が苦しむのが一番怖いんです」
酸欠で視界の所々が欠ける。腹筋に力を入れなければ、意識が飛んでしまいそうだった。そんな穴だらけの私の目にも鮮明に映ったのは、彼の揺れる睫毛だった。
大胆なことを言い放っておいて自分が一番驚いていた。気づかないうちに君は静かに私の世界の真ん中にいた。
変な男だと思うだけだったのに、今私はどうしてこんなにも傷つけたくないと願ってしまうのだろう。
どうしてあんなに願い続けていた自由を捨ててまで、君を見捨てたくないと思うのだろう。
答えは一つだ。自分よりも幸せになってほしいと思える人ができたからだ。
君だ。
誰よりも傷ついてほしくなくて、誰よりも背負うものを軽くしてあげたくて、誰よりもこの先に待ち受ける未来が輝くものであってほしい、そんな人。私の頭の中では変な男からこんなにも長い名前に書き換えられていた。
君は与えたものの見返りなんて要らなかった、自分がどれだけ苦しくても幸せを願える人だった。空っぽならそんなことできない、自分のことを蔑む君は俳優という地位も名誉もお金も全部捨ててまで私をここまで連れてきてくれた。
それが例え自分のためであったとしても、事実には変わりない。
そして私はそれが君が失くしていたものの一つだと思った。
人はそれを漢字一文字で表したがる。
ただ敢えて口にする気にはなれない。君が自覚した瞬間、私の願いは破綻するからだ。
私たちにそんな感情、芽生えてはならなかった。
「決めました。私、神社に戻ります」
精一杯の笑顔を浮かべた。もう心は決まっている。私はその場で立ち上がると、千切れた右足のスニーカーの紐をきつく縛る。今ならまだ間に合うだろう。
依然、地べたで脱力したままの君は何か言いかけた言葉を飲み下して、乾いた笑い声をあげる。
「は?何言って、」
「ちゃんと皆に頭下げてごめんなさいってして、白い浴衣に着替えて、腹切ってきますね!せっかく髪飾りも浴衣も全部可愛くしてもらったのに残念です」
「おい、」
「最後に楽しい時間を過ごせて私は幸せでした。人らしい時間は少ししかなかったですけど、悔いのない17年でしたね!何より透くんに出会えましたし!私、実は最初怖かったんですよ、突然貴方が障子を開けたから」
「ふざけたこと言ってんじゃねぇよ、目ぇ覚ませ」
「ふざけてなんか、ないですよ」
指先が小刻みに空気を揺らす。それを抑え込もうと震えている右手で震えている左手を包み込んだ。
私は平気なことを伝えるために笑った。
笑ったはずなのに、口が金縛りにあったように動かなかった。鉛の口角はどんどん下に下がっていって、目から零れ落ちる雫が宝石のように光を孕んで零れた。
「だって、私がいる限り貴方は苦しいですよ」
私が言い放ったとき、見開かれた濁りのない瞳に暗い色が滲んだ。
「歩いているだけで誰かに後ろ指さされて、まともに顔をあげて歩けなくて、皆が私の犠牲を心待ちにしてる。そんな人間と生きていくなんてきっと辛いことだらけです」
普通だったら貴方のような人が豚汁を投げつけられるようなことも、汚い言葉をぶつけられながら逃げることもないのだ。全て、私のせいである。私と関わると碌なことがない、そんなの自分が一番よくわかっていた。
「君は私と出会って、何か一つでもよかったと言えることがありましたか……?」
私は君と出会えてよかったと思えることが沢山ある。けれど、君はどうだろうか。答えは分かり切ったことだった。
私が泣きながらでそれでも笑ったのは、私以上に苦悶の表情を浮かべている人が目と鼻の先にいたからだ。
なんだ、そんな顔できるんだ。よかった、また一つ君が感情を思い出せたことが嬉しい。
でも、そんな顔させたくて私は言った訳ではない。ただ諦めてほしくて、私のことを見捨ててほしかっただけなのだ。
それなのになんで私以上に君が苦しそうな顔をしているのだろう。
「お前は、それでいいのかよ」
掠れた声が余計に私の息を浅くさせる。私の手首を掴もうとした綺麗な手が伸ばされて、私は瞬時に引っ込める。しかし逃がさないとばかりに中指を掴んだ彼は、繋がれた指一本に五本分の力を込める。しかしその力は成人男性の握力とは思えないほど弱弱しかった。強弱を繰り返しながらそれでも離されることのない掌はどちらがともなく震えていた。
「なぁ、生きたくて生きたくて堪らなかったんじゃなかったのかよ。祭り以外にもしたいこと沢山あるんだろ?そんなに簡単に諦められるほどお前の願いは軽いものだったのか……?」
顔があげられない。きっと今顔を合わせればその切実な瞳に全て言いくるめられる。絆されて、生きたいと思ってしまう。許されないことを君だけが許してくれるから、私はそれに甘えてしまう。
頑なに否定せず、俯き続ける私にため息が降り注ぐ。額に焼かれた鉄のような熱がじわっと広がって思わず瞬きを繰り返した。手を伸ばせば簡単に触れられる距離にいる相島透は、目を瞑って私の額に自分のそれを押し付けている。
「村の誰がなんと言おうと、お前はお前の為に生きればいいし、死ねばいい。ただお前に生きてほしいと願っているのは世界でたった一人じゃないことを知ってくれ」
君の言葉は私に対して向けたものであり、自分自身に確認するために呟いたものだった。それは君にとって決して軽い言葉ではないというのは出会って四日の私にも分かる。これほどまでに痛切に言葉を紡げる人が存在するなんて、私は知らなかった。
「……それは同情ですか」
「いいや違う、ただの祈りだ」
そのまま私の体は広い肩にすっぽりと覆われ、ぎゅっと抱き寄せられた。不安や迷いがるつぼのようにどろどろに溶かされて、代わりに君の言う祈りとやらが心に侵入してきた。それは瞬く間に全身に広がって、私の強がる心を解こうとしてくる。
変態だと思った。
芋虫が蛹になってどろどろにされて蝶として体を変えるように、今まさに私は蝶になろうとしていた。
蝶になって、羽を伸ばしたら君と何処までも飛んでいけるだろうか。
誰の手の届かないところまで遠く、高く、昇っていけるだろうか。
「お嬢様……?!」
突然のことに夢見心地だった意識は現実に引き戻される。間違いない、私を探し求める声だった。恐る恐る顔を上げると、汗だくの白い浴衣を着た女が直立したまま信じられないという目で私をじっと睨んでいた。
私が息を吸うのと同時に、彼女の口が開いた。
「巫女さん……っ」
「神主様がお怒りですよ。直ちに戻りましょう、お嬢様」
ずかずかと近づいてきた巫女と目が合う。その瞬間、左頬に火花が散った。何が起こったのか状況が分からず何度も瞬きをしていると今度は髪の毛を思い切り引っ張られる。痛いと叫びたかった、しかし声は出なかった。やはり彼女の顔を見たら私に反抗する資格はないと思った。
「貴方がいなければ、我が神社の損失は計り知れないんですよ。村の住民みんながお嬢様がいなくなったことに対して怒りをぶつけている。その相手は誰だと思いますか?10年前貴方の命をお救いになった神主様なのですよ?」
分かっている。
「恩を仇で返すなんて本当に信じられません」
分かっているよ。
「貴方が17年間生かされた意味を理解してください」
分かっているって。
それでも、生きたいと思ってしまった私は欠損品なのか。
小屋にいるときに同じことを考えたことがある。私の答えは今日で決まった。
ぬるい夜風が肌に張り付く。祭囃子の音も、人々の賑わう声も、耳を澄まさなければ聞こえない。袖に隠してある線香花火の袋と、穴の開いたポイをきゅっと握りしめると、段々と賑やかなあの音が蘇る。
直後、破裂音が鳴り響いた。
祭囃子はもう聞こえない。まとめた髪が濡れて毛先から何かが滴り落ちる。
鉄の匂いが鼻腔を充満させたとき、私は上を向くことができなかった。
「うるさい」
掠れ声の彼が蹲る巫女に向けた言葉はたった四文字だった。巫女は何か言い返そうとしたが、自分の鼻から赤い液体が垂れていることに気づくと声にならない悲鳴をあげる。
私にも生ぬるいものが指先に触れた。生ぬるいといっても夏の空気の生ぬるさではない、もっと人の体温に近いそんな感じだった。丁度花火が打ち上げられる時刻になったらしい。私は暗がりの手元が花火によって明るくなったときに初めてその正体が血液だと知った。
殴って血だらけの手が、私の手に絡みつく。
不快だったけれど不思議と離したくはなかった。
その瞬間、一際大きな花火が打ち上げられた。私は思わず顔をあげると、散っていく風物詩を背景に透くんがいた。
逆光で表情がよく見えない。私が目を細めたとき、細身のシルエットの肩があがった。
一緒に過ごした時間は短いけれどこの仕草の意味を私は知っている。
きっと君は今、笑っているんだろう。
「生きることに意味を見出そうとすることがあったとしても、生かされることに意味を見つける必要なんてねぇよ。人の一生は非売品なんだから、他人が横柄に値踏みできるものじゃないだろ」
息の切れた声で必死に言葉を紡ぐ君。
私は不安定な足元からよそ見して君だけを見つめた。視界を埋め尽くすのは君だけだった。
観察なんてしなくても込められた想いは全部分かる。花火が弾けた光で照らされた一瞬の君を、私は瞬き一つでシャッターを切る。
私の出会った冷酷で感情のない君は、いつの間にか溶けていなくなっていた。感情を殺された青年にはちゃんと心があった。
ちゃんと、そこに、弱弱しいが、確かに。
「世間の目がとか、周りの人が、とかもうどうでもいいんだ。何を言われたっていい、この先進む未来が明けない夜でも、止まない雨でも、藻掻いても浮上できない海の底でも、真っ暗で先の見えない道のりでも一緒にいれば何か一つは変われるって俺は確信している」
花火が遠ざかっていく。私の瞳にはもう、彼岸花も落ちた空き缶も剝がれかけた蛻の殻も何も映らない。
「俺の手を取って一緒に逃げよう、ボタン」
今はただ、貴方が。
私を信じてくれる、君が。
網膜に染みついて、幾ら目を擦っても消えることがない透くんが。
私のちっぽけな世界の真ん中で笑っている。
微かに「待って」という声と、足首を掴む強い力が足元から私を引き留める。
声のする方へ視線を向けると、鼻から血を垂れ流しながらも死んでも離さないとばかりの気迫が私の心を現実に染めようとした。
「許さないから」
紅色の袴が恨めしそうに縋りつく。彼女はきっと私を逃したら神主にこっぴどく叱られるのだろう。
神主は私を取り逃がしたことで村の人たちから罵詈雑言を浴びせられて肩身の狭い思いをするかもしれない。
私がされたような仕打ちを、代わりに育ててくれた巫女が身代わりとなって苦しむのかもしれない。
新しい少女が『神に捧げる少女』となって17年後殺されるのかもしれない。
「はい」
それでも私は笑った。今まで彼女に17年間見せてきた貼り付けの笑みではなく、心からの笑顔で。それは皮肉でも何でもない、解放からの綻びだった。
「許さないでください。気が済むまで、私のことを一生憎み続けてください」
許しなんていらなかった。誰かから許されようと恨まれようと、その感情はどれも私を止めることはできなかったのだ。だとするならばそれはきっと私にとって必要のないものなのだろう。
ただ、彼だけは必要だった。
誰かの言葉より、感情より、私の世界に彼がいることが大切だった。
彼だけは手放したくなかった。
そう思えたことが、生きてきて一番幸せだと感じた。
「育ててくれて、偽りでも大切にしてくれてありがとうございました。……けれど、誰かの言いなりで、自我を殺していた私は今日でおしまいです。誰が何と言おうと、私は神に捧げる少女じゃない」
肩をすくめると私は紫色になった足首に絡みついた手を解く。もう、その華奢な手には力が込められていなかった。諦めたような虚ろな目玉二つが私を見上げる。私は頷くと、背後でずっと見守ってくれていた大切な人の手をとった。
「私はボタンです」
そこからの記憶はあまりなかった。石垣から生えてきた雑草の生い茂る細い道を抜けて、雨蛙の声が微かに聞こえるあぜ道を走って、人気のない丘を登って、たどり着いた先は寂れた公園だった。公園というのは透くんが教えてくれた。小説で何度も出てきた「公園」を目の当たりにして私は柄にもなく高揚した。もう何十年も使われていないのかカラフルであっただろう塗装は全て赤茶色の錆で染められている。切れた息がお互いに穏やかになったのは30分経ってからだった。透くんが目を閉じていると、体温の低そうな雰囲気も相まって死んでいるんじゃないかと錯覚してしまう。だから繋がれた掌はそのまま力を込めて、二人で仰向けで寝転がった。そうすれば目を瞑っていても、蝉の音がうるさくても、とくとくと指先で脈が打つから生きていると分かる。素早い拍動は酸素を取り込む度に緩やかに数を減らしていく。私は安心感で意識を手放してしまいそうだった。芝生の青臭い香りと、満点の星空、隣には顔のいい男。求婚に励む蝉がいなければ完璧だったななんて考えながら、全身に回ったアドレナリンが落ち着くのを待つ。
暫く経って彼が起き上がったので私も立ち上がると、公園とは神社とは全然違う雰囲気の場所だと初めて気づいた。鉄でできたよく分からないものが沢山あったので「これはなに?」と透くんに聞いたら「滑り台」とだけ返ってきた。
「すべりだいってあの滑り台ですか?!私初めて見ました!こんな形なんですね」
「滑り台でそんなオーバーリアクションする奴、いるかよ」
「はい!素晴らしい形状ですね。下にいくほど放物線は緩やかになっていて子供が遊んでも怪我がなさそうです。一度滑ってもいいでしょうか」
私が早口でまくしたてると君は耐えきれないとばかりに真一文字で結んでいた口角をぐにゃりと緩ませた。声を上げて笑う彼に私は驚いて、軽く君の頬を叩いてしまう。
「大丈夫ですか、透くん。壊れてしまいましたか?」
「いや、ボタンの反応が五歳児そのまますぎて……ちょっと……ふっ」
もう君は堪えようとはしなかった。笑いすぎてもう喘いでいるではないか、私は不服を申し立てるように頬を膨らませる。
「透くんにも五歳児時代があるのですから、そんなに笑わないでくださいよ!私だけって訳じゃないでしょう?誰でも最初はおんなじ反応だと思いますよ?!」
「そうだよな……っぶっ、やめろその大真面目な顔」
やめろと言われればやりたくなるのが人間の性だ。私は見せつけるように先ほどより大きく頬を膨らませる。私は君のように特別顔が整っているわけではないからそれはそれは形容し難いほど酷い顔だったのだと思う。君は大袈裟に膝から崩れ落ちて「もうやめてくれ」と呻いている。馬鹿みたいなやり取りだが、それが胸が詰まるほど幸せだと言ったら笑われるだろうか。まぁ伝える気はないが。
「それと、」
笑いすぎて目尻に滲んだ涙を拭った君が付け足す。
「俺、滑り台滑ったことないよ」
私が彼の瞳を覗き込む。ひんやりした革細工のようなこげ茶色のそれは私のそれをじっと見つめたあと、ゆるりと逸らしてしまった。脱力させていた腕が唐突に私の手首を引く。転ばないように淡い懐中電灯の光一つを頼りに鉄の柵にたどり着くとゆっくりと腰掛けた。
この空気で呑気に滑り台に走っていくのは間違いなのは流石の私にも分かる。衝動をぐっと堪えて、一旦話を聞こうと横顔を盗み見る。君は懐かし気に公園を見回してから、また滑り台に視線を戻した。
「俺は小学生の頃からこの業界で働かせてもらってるからさ、まともに遊べなかったんだ。近所の公園に寄ろうとしても周りの大人とか母さんが『もし怪我でもして顔に傷がついたらどうするの?』とか『誰かを一度でも突き飛ばしたりしたら君の芸能人生は終わるよ』とか言うんだよ。だから公園で無邪気に何の気兼ねもなく遊んでふざけて笑っている同級生が羨ましかった」
無条件に私は小さい子は当たり前のように公園で遊ぶものだと思っていた。私の読んできた本に出てくる公園とはそういう場所だったからだ。友達と遊ぶための集合場所、親と喧嘩して行きつく場所、自分が親となったときに今度は懐かしさに胸をいっぱいにしながら自分の子と遊ぶ場所。それが公園というものだと思っていた。
それに条件何て必要なくて、誰でもいつでも行くことのできる場所。それが公園というものだと思っていた。
けれど、君にはその権利がなかったらしい。
誰からも許されずに、周りの期待や重圧を背負わされ、娯楽なんかなくても、無理やり口角を上げてきたというのか。ちらりと横目で表情を確認しようとするが、私は驚愕してしまう。
てっきり辛そうな顔をしていると勘違いしていたが、君の表情は想像とはかけ離れていた。
何故か君は穏やかな顔のまま、ただ淡々と言葉を零す。
「でも、ボタンはそれも知らないんだよな」
私はその言葉に何も言い返せなかった。憐れまれて悲しい気持ちよりも、君には関係ない話だよねと守られた事実が寂しかった。確かに私は世間知らずの少女だ。彼より社会経験もなければ、人に揉まれて苦しんだ経験もない。
それでも、君より私の方が苦しい人生だったとは思わなかった。
私は私なりに、貴方は貴方なりに必死に生きてきたことを短い期間で伝えてきたはずなのに、どうしてこう私ばかり君に守られてしまうのだろう。
自分では気づけない痛みを私は貴方に気づいてほしかった。大丈夫って言葉じゃなくて『痛いよ』って言葉が私はほしい。
「知ってるからこと、しんどいこともあると思います。私はまだ知らないだけ良かったのかもしれません」
微笑みながら言う私に君は顔を歪ませた。何か言おうと深く吸われた君の息は、困り眉に変わって言葉にはならなかった。
今日だけで新しい君を沢山見ることができた。私はその百面相が面白くてつい失笑してしまう。
「ふふ、透くんが変な顔してるの初めて見ました。少し可愛い……」
「なっ、あ」
怪訝そうな顔でこちらから一歩引いた君は、諦めたように頭をぐしゃぐしゃと揉みしだいた。
「この状況でなんでそんなに綺麗な言葉を言えるんだよ、ボタンは」
「透くんが頑張っているからです」
私が迷いもなく言いきると、君は目に塵が入ったのか何度も瞬きを繰り返した。驚いて私が君の瞼に触れると、君の手が私の手を掴む。君はばつが悪そうに手を繋いだままそっぽを向いた。『目に塵が入ったなら早く水で流した方が……』と言っても聞く耳を持たずに、反抗するように握る力を強める。流石男性なので力は強い、それでも私が振りほどけば簡単に離れてしまうほどの臆病な力の込め方だった。怪我したときくらい素直に言うことを聞けばいいのに。
私はため息を吐くと諦めて大きな背に自分の体重を委ねて座る。
「知っていますか、世の中って一生懸命生きている人ほど損をするんですよ」
これは世間知らずの私が学んだ唯一のことだった。英語も読めなければ、簡単な計算しかできない。やることのない日々を小屋の中で過ごしていれば人の表情と言動に機微になるのは難しいことではなかった。外界からの情報は本でしか知らない私にとって情報とは人そのものだった。神捧げる少女として曲がりにも様々な人間と対話をしてきたつもりだ。
一生懸命な人間は決まって澄んだ目に傷が沢山ついていた。何処か世界に対して諦めがあって、常に何かに怯え疲弊していた。
金に、酒に、薬に、中毒になり溺れた人間は無駄な自信に満ちて、傷一つない瞳をぎらつかせていた。
美しいのがどちらかなんて、誰が見ても分かるだろう。それでも美しさと幸せは違うということは幼いなりに理解していた。
「怠けていても、結局は誰かがやってくれる。それを待ちながら生きるのが一番楽で効率的です。そしてそういう人たちは決まって、努力している人たちに言います。『努力は意味ない』と」
私も最初、心理学を極めようとしたとき巫女に止められたことがある。ポーカーで行き詰ったとき、心理学の本が欲しいとお願いをしたら鼻で嗤われて軽くあしらわれたことがある。
きっとすぐ死ぬ身で勉強なんて無駄な行為だと思ったのだろう。
ただ受動的に流れるままに生きていればきっと私の人生は楽なものだった。着替えも食事も手伝ってくれる人がいる、何不自由ない暮らしをして静かに17の夏に神に捧げられる名目で散っていた。
しかし、私は僅かでもいいからこの世界に爪痕を残したかった。
私にとって爪痕を残す方法は一つしかなかった、それが努力し続けることだった。
私のもとを訪れた金持ちのボンボンにも散々なことを言われた。
「ポーカーを頑張ったところで何か意味があるの?ただ食って寝るだけでアンタには生きる価値があるんだからそれでいいじゃん。わざわざ何かする必要ないよね」
それでも私は読みすぎて角の欠けた心理学の本を手放すことなはなかった。効率的に生きることこそ、生きる価値がないように思えたからだ。
私の考えが間違っているのかと疑う時もあった。
でも、君の存在が私は間違っていなかったと証明してくれた。
「君は諦めずに、今あるものも手放さずに、実直に生きている。透くんの生き方は泥臭いけれど綺麗です。私が出会ってきた誰よりも、綺麗です。それを頑張っていると言わずに何と言うんですか」
君の凄いところは欲張りなところだった。手の届かないかもしれない目標に向かって飛ぶとき、背負うものは軽い方がいい。それでも君は沢山の人の想いや応援を全て背負って挑んでいた。それがどれだけ茨の道か、私には分からない。それでも君が俳優の話をするときに時々息が詰まるような表情をしているのを知っている。
背骨越しに君の浅い息遣いが聞えた。どうしよう、なんて声を掛けよう。感情を露わにしない彼の心が揺れている、その事実に動揺してしまって更に焦りが募る。でも、君が今一番必要な言葉を贈ってあげたかった。自分があの時、否定されたときに、欲しかった言葉を言ってあげられたら少しは救えるだろうか。
繋がれた弱弱しい手を振りほどく。君は拒否されたことが恥ずかしかったのか、さっと引っ込めようとするが私は逃さない。ぎりぎりで掴んだ手をもう離れないように強く、強く握りしめた。
「透くん、辛いときは辛いって言っていいんですよ」
当たり前を許されていない私たちだからこそ、二人のときにその当たり前を求めてしまうのだろう。君はその言葉を聞いた瞬間、堰を切ったように目から涙を流す。私がそっとその肩を引き寄せると、いつもの透くんでは想像できないほど苦しそうな声で泣いた。
「俺、きょう、だめかも」
「だめでもいいですよ」
「ん……」
「どれだけ情けなくても、駄目駄目でも、私は貴方が泣き止むまでずっと傍にいます。離れないと約束します」
膝で震える手を必死に抑えようとしている君が愛おしくて、思わず繋がれていない反対の手にも自分の手を重ねた。
その姿はつい一時間前に牙を剝いていた強気の態度の青年とはあまりにもかけ離れている。しかし、それで幻滅するようなことは断じてない。
私も弱いところがあって、君にも弱いところがある。
それでいいじゃないか。私たちは弱いけれど、受け止められないほど脆くはないのだから。
「手、冷たいですよ。夏なのに」
指先から伝わるひんやりとした感覚に驚いた。まるで血が通ってないかのような温度だった。
「うるさい」
「大丈夫です。冷たいなら温めればいいだけなので」
優しく握りこむと君は繋がれた二つを自分の頬に寄せた。涙が二人の手の僅かな隙間に入り込む。しゃっくりの合間の小さな声は、声変わりの終わった青年が少年に戻ったように上ずっていた。
「……ありがとう」
小さな感謝の言葉は私の鼓膜を揺らした後、真っ暗な空に吸い込まれていった。
小高い山にひっそりと佇む古びた公園は、この町で一番空に近い場所だった。
その日、宇宙に一番近いのは間違いなく私たちだった。
私は多分、君が宇宙に行くと言うなら宇宙まで行こうと思う。貴方は私にたくさんの新しいものを教えてくれる。私はその全部を目に、皮膚に、脳に、焼き付けてぜんぶ覚えておきたい。
泥のように眠った私が次目を開けると星影が東の空にあった。まずい、流石に寝すぎた。丸一日を睡眠で潰してしまった後悔で寝起きから気分が落ち込む。ふと隣を見ると、私より先に起きていた君が小箱と燭台を持っていた。私が寝ている間に街を探索したのか横には水と食料も置いてあった。申し訳ないと思いながらも、喉の渇きに耐えかねて水を一口頂戴する。君は特に何も咎めず、むしろおにぎりも差し出してきた。至れり尽くせりすぎてちょっと怖い。おにぎりを口に含むと、塩気の奥にほんのり甘みがあって噛めば噛むほど鮭の旨味が口いっぱいに広がる。あまりの美味しさに感動していると、おにぎりの包装を片付けようとする君の手元で小箱が軽い音を鳴らす。箱の側面は材質が違うようで、私は巫女が夜になると灯してくれた燐寸を思い出した。
「燐寸ですか?」
「本当はチャッカマンとかあったら良かったんだけどな、売り切れだったから仕方なくマッチを買った」
「何に使うんですか?」
ちゃっかまんが何かは分からなかったけどそれは後回しだ。燐寸は明かりを灯すのに使うのだろうか、でもここ二日夜は明かりなしで生活してきたし今更という感じではある。君は何やらやりたいことがあるようで、私を立たせると付いてきてと一言。またあの洞窟に帰るのかと思ったら少し違った。君は分かれ道でもう歩きなれた右の道へ進もうとする私の腕を掴んで暗い岐路を選ぶ。私は訳の分からないまま取り合えず付いていくと、唐突に蛍光色の光がゆらゆらと目の前を過ぎ去る。
「ひえぇ」
間抜けな声を出して腰を抜かす私に君は怪訝そうな視線を送る。
「ただの蛍だろ」
「妖怪ですか?私そういう類は初めてで……」
心臓の鼓動が煩い。都会に住んでいれば妖怪は普通に出くわすものなんだな、田舎の小さな馬房のような家に住んでいて一度も出会ったことのない謎の飛行物体に私は柄にもなく怯え散らかしている。反射的に目を瞑ってその場で蹲ると、近くの地面が軽く振動した。成人男性に似合わない小さなジャンプだった。
「おっ、意外と熱くないんだな」
「ななな何する気ですか」
「何って折角なら見せてやろうと思って。初めてなんだろ、その反応」
「い、いいですいいです。遠慮させていただきます!」
未知の生物は誰だって怖い、特に光るというなら。声にならない悲鳴をあげながら情けない格好で後ずさりする私に、にやりと含みのある笑みを浮かべた彼は迫ってくる。こんな状況でも無駄に顔がいいので、さながら浪漫小説のワンシーンのようだ。絵になっていて腹が立つ。
ついに距離が三十センチほどになって堪忍した私が両手をあげる。君は両手の間に蠢いていたそれを解き放つ。
星が舞い降りてきたようだった。
不思議と先ほどの恐怖心は薄れて私は、憑りつかれたようにたった一つの光に見入ってしまう。
祭りの提灯とも町の灯りとも違う、誰かを呼ぶような切実で儚い光はゆったりと舞いながら空へと昇って行った。
「ほら、何も怖くない」
「襲われませんか」
「うん」
「……本当ですか?」
私が訝しむ気持ちと冗談を半分ずつ滲ませながら問うと、君は耐えきれなかったように吹き出した。私はこの反応を知っている、私があまりにも世間知らずの田舎者すぎて呆れているのだ。不満だけれども、そういう顔をするということはまるで水の中を揺蕩うように空を泳ぐこの光は無害ということを暗示している。私はほっと胸を撫でおろして、それでも許していないことを伝えるためにじとっと睨んでおく。
「今、馬鹿にしましたね。田舎者だって」
君は視線を逸らした後「いや真の田舎者の方が蛍を知っているというか。別に馬鹿にしてるわけではなくて……」と何やらごにょごにょと言い訳を羅列するが何一つ私の心を動かす言葉はなかった。最終的には彼が折れて謝ってきたのでひとまずは許すとしよう。
「さ、こんなところで腰抜かしてる場合じゃないよ。蛍がいるってことは目的地はもうすぐだから」
「誰のせいで腰を抜かしたと……」
「誰のお陰で食料を調達できたと?」
確かにそれはそうだ、私は言い返したい気持ちをぐっと堪えてまた歩き始める。蛍というのは一匹だけではなかった、奥に進む度に一匹また一匹とその光は増え続け開けた場所に出た時には数百匹いや少なく見積もっても千はいる。若緑の光は所狭しと重なり合い、ぶつかり合い、光ったり、消えたり、昇ったり、止まったりを繰り返しながら浮遊する。幻想的な空間だった。あまりに浮世離れした世界に私は言葉を失う。ふと見た隣の君の指先に留まった蛍が、薄い皮膚を透かしている。赤く染まった皮膚は心なしか心臓の鼓動に合わせて震えているように見えて、思わぬところでこの世のものとは思えない男の生を感じた。
「綺麗ですね」
「ご機嫌は治りましたか、お嬢様」
伺うように、それでいて普通なら茶目っ気を含みながら言うところを不愛想に言うのが君らしい。
「うん」
珍しく私が素直に認めると、君は一瞬ひるんだように眉をあげた。私は表情を崩す。
「上機嫌だよ、連れてきてくれてありがとう」
「……」
興奮のあまりつい砕けた言い方になってしまった。黙りこける君に首を傾げながら暗闇の先へと進む。そこには大きな岩と静かに流れる浅い川があった。滑らないように慎重に歩くと小石が沢山敷き詰められた比較的平坦な場所で立ち止まる。君はその場でしゃがむとポケットにしまっていた蝋と燐寸を取り出した。ちちっという音と共に火が生まれるのは毎回慣れることなく魔法みたいだと思ってしまう。ぽっと闇に蛍とはまた違う光が灯った。風で揺れる火がようやく安定すると、端正な顔はこちらに向けられた。
「さて問題です、俺たちは今から何をするでしょうか」
「火遊びは辞めてくださいね。昔、神社に来た子供がふざけて神木に火をつけたことで大変な目に遭ってましたので」
「……大変な目とは」
「それ聞きます?」
「いや、いい。それに火遊びはしない」
彼は何を想像したのか身震いをして全力で否定をする。実際、祟られることはなかったにしろ守銭奴な神主から相当な額を請求されたに違いない。私は質問に答えようと再び思考を凝らすが、火遊び以外に思い浮かぶものはなかった。
私が首を振ると、彼は蝋燭の出てきた反対側のポケットからこよりを二本取り出した。私は目を細めながらそれをじっと観察する。どこかで見たような。
「あっ、線香花火ですか」
「正解。祭りで手に入れたやつ、急いでやる必要もないけれど、なるべく思い出が鮮明なうちにやった方がいいかなと思った」
そう言うと君は私に密着してこよりを一本渡してくる。私は顔を顰めて彼を避けた。彼がどうしてと聞いてくるので私は少し恥じらいながら答える。
「湯浴み、してないです」
「ゆあみ……?あぁ、風呂のこと」
こくこくと頷き自分の服の匂いを嗅ぐ。血だらけの着物は流石に着続けられなくて、君がくれたワンピースを着ているが一夜着ただけでも汗はちゃんと染みている。真夏ということもあり蒸れるものは蒸れるので予想通りきつくはないけれど、生乾きの手拭いのような嫌な匂いがして拳三つ分また離れる。彼はくだらないとばかりに鼻で笑った。
「そんなの俺も同じだろ。それにくっついていないと、隙間から風が漏れて炎が消える。嫌かもしれないけど大人しく肩を寄せておけ」
「うう……」
隙間風で今にも消えそうな蝋燭の灯を見せられてしまえば距離を詰める他なかった。私は仕方なく肩を青年の腕に預ける。ばれないように君の匂いも嗅いでみたが、生ぬるい真夏なのが嘘のように春の花畑の匂いがした。ほのかに柑橘の匂いもするので香水なのかもしれない。しかし、俳優とは体臭にまで完璧を求められるのか。何だか知れば知るほど生きづらそうな世界だなと感じる。何気ないことで改めて当たり前に隣にいる場違いすぎる顔面の持ち主は、茶の間では知らない人もいないくらい有名な人間なんだよなと思い出させられた。
これは乙女としてのプライドが傷つく。口を尖らしながら見上げるとへそを曲げた私を気にすることなく、色のない方の先端を炙るんだと教えてくれた。
「持ち手は端っこな」
「そんなの言われなくても分かりますよ……」
「いいや、箱入り娘はいつ何をしでかすか分からないからな」
「透くんは過保護な保護者ですか?」
「引火したら困るのは誰だと思ってる?」
それは私と透くんですが……。言いくるめられたのが悔しくてぶすくれた顔のまま揺れる炎に視線を戻す。隣の手の動きに合わせて私も和紙の先端を燃え盛るものに近づけた。
「「せーのっ」」
同時に白い紙を炎の中に入れる。焦げる匂いと共にぱちぱちと軽い音が鳴り始めた。周りには沢山の光が飛び交う。仄暗い世界の中で君の横顔が淡く照らしだされる。最初のような完璧スマイルよりも、今みたいにほんのり汗ばんだ頬を緩ませているくらいがいいのにと常々思う。しかし需要と供給という言葉があるように、彼は需要があるから王子様の仮面を外せない。世間と私の美意識はかけ離れているようだ。そしてこの場合私が悪食となる。
「阿保な顔してぼうっとしてると見逃すよ」
ハッとして手元を見ると火花が散り始めていた。蛍のお尻よりも鮮やかな色が小さな打ち上げ花火のように花開いては落ちていく。火花があまりにも美しく儚くて思わず反対の手で零れ落ちた光を掴もうとしたら、君に止められた。火傷したら危ないかららしい。私は大人しく二つの光を見つめる。比べると君の花の方が大きく咲いていて羨ましかった。
「知ってるか、線香花火は人の一生を表すんだ」
突然、独り言のような声量で語り出す君。私は虫の声と火花の音にかき消されてしまわないように耳を澄ます。
「蕾は人生のスタートライン、牡丹はよく人生の分岐点と言われるやつだ。迷いながらも間違えながらも自分の道を探して進んでいく、松葉は山場を乗り越えた人生の最盛期、そして散り菊は静かに散りゆく最期」
「牡丹って私と同じですね」
散りゆく花を見ながら私は顔を綻ばせた。今は丁度牡丹くらいだろう。ボタンと牡丹、偶然だとしても親近感が湧いてしまう。
遠くを見つめた。反対側の山にあるはずの小さな襤褸小屋を思い浮かべながら呟く。
「私の人生も今きっと牡丹です。迷いながら間違えながら自分の道を探しています。一番苦しくて、一番鮮やかな時間を過ごしています」
君の言葉では人生の最盛期は松葉らしいが、私にとってはそうではないと思う。苦しいのも迷いも全部含めた今が生きてきた中で最も眩しかった。これ以上の幸せをうまく想像できない私にとって、人生の盛りはこの瞬間なのだ。
ボタンの由来は、ただの釦だ。君の袖で取れかかっていた金ボタンから名前をつけられた。
それでも、
「私はボタンという名を冠することができて幸せです」
私は喜色満面に溢れた。意味が違ったとしても同じ響きなのは嬉しい。喜ぶことができるのは、名前があるからだった。
「透くん、私に名前をくれてありがとうございます」
目の前の二つの目が見開かれる。数秒の間、全ての表情が固まったそれは緩やかに赤く染まっていった。口元がむず痒そうに動いている。そんな反応をされるとは思わず、私の方も照れてしまった。頬を掻きながら視線を君から花火へと外す。
「へへ、改めて言うと照れ臭いですね」
「俺の方こそありがとう」
「えっ……」
唐突な感謝の言葉に動揺する。油の切れたロボットみたいな動きで首を傾げた。
「私、何かしましたっけ」
「……自覚無いのかよ」
「はい、透くんに感謝することは沢山あっても感謝されることはないような」
「勿体ない。折角有名俳優に感謝されたなら、弱みを握ったことに喜べばいいのに」
私は言葉通り阿呆のように口を大きく開けて君の言葉を理解しようとした。あのことかと思い当たることが一つあった。先日の公園での出来事か。しかしあんなこと弱みという弱みでもないだろう、あれをカウントするのであったら私はもう何度君の前で襤褸を出しているのやら。
それに弱みを握ったことを喜ぶってどうして喜ぶのだろう。別に感謝されるようなことをしていたとしてもそれは君の弱みになるのか。それを世間は弱みとして利用するのか。理解する努力は一応してみたが、どう考えたって君の言葉を消化できない。
「自分が有名俳優だという自覚はあるんですね」
「そこじゃねえよ。ただ俺の情けない姿を散々見てきたお前が今業界にこの情報を売ったら俺の今まで築き上げてきたキャラは崩れる。お前は特ダネを提供した人間として報酬がもらえるだろう」
「いやいや、関係ないですよ」
今度は彼がきょとんとする番だった。私は最早笑ってしまう。何を言っているのかと思えば、予想を超えるしょうもないことだった。
「だって私の目の前にいるのは俳優の相島透じゃなくて、ただのぶっきらぼうで愛想の欠片もない、けれど誰よりも真っすぐな、面倒くさくて人間味のある相島透ですもの」
君と出会った頃を思い起こした。あれほど精巧に表情筋を操れる者はきっと世界でも片手に収まるほどしかいないだろう。綻びを見つけるまでは、よもや完璧御仁の正体がこんな人間だと思いもしなかった。
「私は今、一般人の相島透の情けない姿も珍しく感謝する姿も知っていますが、俳優の相島透さんの情けない姿は一度も見ていません。少なくとも取材のときの君はきらきらと輝いていて王子様を演じきっているように見受けられました」
しかしそれはあくまでも君が努力して作り上げた分厚く巧緻を極めた仮面であって、本来の君ではない。
話によると人は弱みを握るとその襤褸を広め、他者を落とし自らの地位を上げるらしい。
でもそんな汚い人間も知っているだろう、どれだけ自分の地位をあげたところで人は完璧にはなれない。完璧を追い求めようと藻掻くことはできても、その頂にたどり着くことは誰一人として叶わないのだ。
結局自分も同じような運命を辿るのであれば、私は君の強いところも脆いところも大切にしまっておきたい。
「人なら一つや二つ、弱みがあって当たり前です。弱みがあるから、支え合えるんです、愛おしいんです」
何より君の地位を落とそうだなんて思えなかった。こんな不器用な生き方で、息継ぎもままならないまま必死に藻掻いている人をどうしたら見捨てることができるというのか。全く想像力が豊かにもほどがあるだろう。
君は俳優の仮面を取り外した自分のことを世に広めればいいと私に言っている。
けれど私にとって、俳優の相島透とここにいる相島透は別人だった。同じ人物として扱うには、あまりにも惜しい。前髪越しに君の瞳を盗み見る。下睫毛が戸惑いを体現するように震える。一挙手一投足なんて言葉では足りない。寝ぐせではねたままの髪先が風に揺れるのも、次々と変わっていく口角も、綺麗だなと思った。
私にとって俳優の相島透と相島透は同じ人物ではないからマスメディアに情報を流すことはない、もしかしたらそれは建前なのかもしれない。
胸に手を添えた。心臓が歪な音を立てながら鼓動を刻む。
私はこんなにも綺麗な君を、世間に知られたくない。
液晶越しで、彼の顔だけしか興味ない人が、君のぜんぶを理解しないでほしい。
私だけでいい。君の醜い姿も、弱い姿も、本当は誰よりもあたたかい姿も、私だけが分かっていればそれでいいのに。
目と鼻の先にある端正な顔とは釣り合わない、醜い欲望が自分の中で沸々と湧き上がるのが確かに感じ取れる。
口に出したいけれど、口にしてしまえば最後、私たちの関係は破綻するだろう。
だから、誤魔化すように笑った。冗談めいた声で、嘘を吐いた。
「ね、だから私は俳優の相島透さんについて知ってる情報はほとんどないんですよ。売る情報がないので私は貧乏人のまま相島透の隣にいます。残念、報酬ってどのくらい貰えたんでしょうねぇ。家何件くらい建てれますか?」
目の前の菊が散ってしまった。最後に一つ、弾けたあと、火の玉はぽとりと足元に零れる。
見つめるものがなくなって視線を横に向けると、君も私を見つめていた。その瞳は珍獣でも見つけたような驚きに満ちている。先ほどの感謝はどうした、そんな目を向けないでほしい。
「私、何か変なこと言いましたかね?」
「……いや、何と言うか」
言葉の続きはくぐもった声で聴きとれない。何よりこの沈黙が気まずかった。臭いことを言ったなと思ったら笑い飛ばすなり、感動したなら目尻を濡らすなりしてほしい。何でもいいから表情変化が欲しい。それだと言うのに、君は驚いた顔をしてから顔を逸らして無言を貫く。こちらとしても次に何と言えばいいのか、判断がつかなかった。聞こえないくらいに小さくため息をついて仕方なく空を見上げた。小さい頃から変わらない、田舎の空。夜の光たちの中で、ひと際大きく存在感を放つあれが月なのだと幼い頃湯浴み場に行くときに教えてもらった。日によっては奇妙な形をしていたり、妙に楕円がかってたりするが、今日は欠けることなく真っ白な光を最大限に注いでいる。
ふふと笑って、空を指さす。ほんの冗談のつもりだった。
「今日の月は綺麗ですね」
びくっと肩を震わせる透くんとようやく視線が交わる。君は先ほどと変わらず、私をこの世のものかと疑う目で見つめてくる。
「お前、意味分かって言ってるの?」
「さぁ、何のことでしょう。まあ、夏目漱石の本なんて数冊しか読んだことはありませんけどね」
「あんまり冗談言ってると本気にするぞ」
突然、澄んだ瞳に獣が宿る。今度は私が驚く番だった。そんな顔できるんだ、果たしてこれは『俳優相島透』なのか『相島透』なのか。見極めようとするが、彼は考える暇すら与えてはくれない。じりじりと距離を詰める綺麗な顔に耐えきれなくなって、掌を支えに背中を仰け反る。全身で警報が鳴っていた、これは危ない。私は引きつりそうな顔に辛うじて、へらりと笑いを張り付けた。
「本気って、貴方が本気を出したらひとたまりもないでしょう」
「嗚呼、本気は本気だ」
「……透くんもどうせ私と同じ箱入り息子ですからね、大したことはできないでしょう。それに大人気俳優様となれば引く手数多でしょうからこんな3日も湯浴みをしていない女、」
何かが唇に触れた。否、その何かとはもう分かり切っていた。だって、瞬きする前にいた君が目の前から消え、代わりに柔らかそうな黒い髪が私の視界を覆ったからだ。頭上から花束みたいな甘い香りが降り注ぎ、長い睫毛は伏せられたまま頬を掠める。たった一瞬、触れたものは名残惜しそうに離れる。近すぎて合わなかったピントがようやく合った。ほんのり朱に染まった耳たぶと、気まずそうに逸らされた視線が明らかにいつもとは違う雰囲気を醸し出す。
「何、してるんですか」
「それ聞きます?」
私が言った言葉が特大ブーメランとしてそっくりそのまま返ってくる。言い返そうとしても、今の私にはただ瞬きをして状況を飲み込もうとすることしかできない。今何が起こった、分かっても解らなかった。頭の中では5w1hが渦巻く。
いつ、どこでは今、ここで。ここまではいいだろう。
では、誰が何をどうした。
相島透が、唇を、寄せてきた。
いやいやいやいや何で?どうしてそうなる。思わずセルフ突っ込みが炸裂する。
上がった息を落ち着かせようと、深呼吸をしてみる。その度に君を纏う花の匂いがもれなく肺を満たして落ち着こうにも落ち着けやしない。もしかしてと思い、両手を顔に添えると私も笑えないくらい顔が熱かった。
君は口を尖らせながら、目線は地面に向けたまま喋る。
「だから言っただろ、本気にするぞって。今更後悔したって遅いからな」
「……はしてません」
「は?」
「後悔はしてません、でも怒ってはいます」
睨め付ける私は本気で心配をしていた。暗がりで遠くまでは見えないけれど、取り合えず人気はなさそうだ。それにしてもこんな大胆な行動をされると困るのは君なのだ。
「君は人気俳優なんでしょう、自覚があるなら行動にも気を配ってくださいよ。そんなことをして誰かに見つかれば」
「俳優の俺と今の俺は別だって言ったやつは何処の誰だよ」
「んぐっ、それとこれとは違います!」
嗚呼、取り返しのつかないことをしてるなぁ。馬鹿な若者だ、本当に。冷静になりきれない心よりも、今は一周回って状況を他人事として捉えている頭を使うことにする。
私は両手で顔を覆いながら、演者のようにわざとらしく噓泣きをした。
「それに私の初接吻を……簡単に奪って……。貴方にとってはもう何十人目かもしれませんが、私にとっては初めてなのですよ!風の噂で初キスはレモンの味と聞きましたが、それを味わう余裕もなく終わってしまいました」
「味わうって、お前なぁ」
「ちなみに噂は本当なのかだけ教えてください」
「……普通に歯磨き粉の味だった」
「引っ掛かりましたね、透くん私以外の女とキスしたことあるんですねぇ」
「なっ……面倒くさいな、お前」
「ふふ、突然された仕返しです。これくらいしないと気が済みません」
よかった、普通に会話できている。先ほどの甘い空気は一連の流れで消え去って私は胸のつかえがとれた。肩の力を抜くと、小さくなった蝋燭の火に息を吹きかけて消す。
「さぁ、行きましょう。もう夜も遅いので明日のために寝床を探さなければ」
立ち上がって、きょろきょろと辺りを見回す。まるで先ほどの出来事はなかったように。夢だったのかと錯覚させるほど、自然に。
なるべく普通を装わなければならない。私は君の口から発せられる言葉を恐れた。
しかし、ここで素直に動かないのがこの男なのだ。その場を離れようとする私の裾が何かに引っかかる。足元を見ると、血の巡りのよい手が私を引き留めていた。
「なぁ」
君の声が硬い。嫌な予感がする。それでも私は平然を装い「何ですか?」と面倒くさそうなトーンで尋ねた。
どこまでも甘かった空気、私は次に告げられる言葉を悟っていた。それを拒むように冷たくあしらう。ほとんど答えのようなものだった。
俯いていた頭が持ち上げられ、表情が露わになる。
相島透は苦しそうに、でもそれを誤魔化すように笑った。
「お前は、俺のことが嫌いか?」
怯えたような聞き方だった。緊張で気づかなかったが地面を思い切り掴んでいたらしい。爪の間に小石や泥が詰まって痛みを伴う。ふっと指先まで入った力が一瞬にして抜ける。「好きだ」とは言われなかったことに安堵する私はきっと悪い女だ。
接吻をされておいて、その行為をないものとされたら誰でも傷つくだろう。でも私は甘えるつもりでいた、無いものとしても君は優しいから許してくれるかと思った。
相島透は優しい男だが、弱みを売るのは許せても、接吻を忘れられるのは許せないらしい。
こういうところが、ずるくて少し憎い。
私は諦めて引き上げていた表情筋を脱力させた。瞼すら重くて瞳は閉じたまま、彼の表情は見えない状態で呟く。
夏の虫の声でかき消されてしまえばいい、こんな願い。
蝉にも脳はあるが、惜しくも空気を読むという行為はできないらしい。深く息を吸い、口を開いた瞬間、虫の大合唱が煩い夜にひと時の静寂が訪れた。
「もし私が死んだら」
「何故死ぬことになる、俺の質問にこた」
「私のことは忘れてください」
それが私なりの答えだった。私が絞り出すことのできる唯一の言葉だった。
人間いつ死ぬか分からない。死ぬことになってても今こうして生きているように、当たり前に生きる明日がないことも時にはある。腹にある爆弾に触れようとした手の神経が伝達不能になったように力なく地面に落ちる。君はまだ知らない、私の中で渦巻くこの爆弾の存在を。
そんな君に向けた私の告白だった。
君の苦しみに触れて、あたたかさに触れて、殺していた欲望がただ君の幸せだけを願って、願って、願い続けた私なりのラブレターだった。
君と手を繋ぎ同じ歩幅で同じ方向を向いて歩む未来ではなく、君が走り出せるようにそっと背を押すだけの存在になることを選んだ。
私が明日死ぬとしたら、君の人生から私を消してほしかった。
私のことは忘れて、また元の光へ続く道に、成功に繋がるレールの上を歩いて欲しい。
きっと私が存在する人生は茨の道だ。
ただの茨の道なら君の元の人生とそう変わらない。しかし、こちらにはたどり着く先に光がある確証はない。むしろ傷ついて立ち上がれないほどの深く病んだところで、明るい未来があったら奇跡だろう。現実は甘くも簡単でもない、真っ暗な世界が広がっているかもれない、茨の道は一生続いて目的地にたどり着くことすらできないかもしれない。
祭りの日に言った言葉が全てだった。
「私がいる限り貴方は苦しいですよ」、何度言ったところで君はそれを否定して苦しい選択でも一緒に歩もうとしてくれる。
だから君を突き放しきれない。
嫌いだと言ってしまえば簡単なのに、我が儘な小娘はそれが怖い。
相島透の存在はもう既に少女の世界の真ん中にあるからだ。
全くどうしてくれるのだ。どうしてたった数日の間に私の心に潜り込んで、私の叫びを開放してしまったのだ。
私はもう透くんのことが。
「それは……」
君の何か言いかけた口が真一門に結ばれる。私の目はこれ以上何も語れることはないと物語っていた。
私はふわりと触れれば消えてしまう、そんな曖昧な笑みを浮かべた。
「私のことは透くんの夢の中に出てきたことにでもしておいてください」
「……善処するよ」
善処という言葉に容易く折れることはないという気概を感じる。今はその言葉の意味を理解できなくてもいい、いずれ嫌というほど理解する君を想像すると少し気の毒に思える。私は反射的に先ほどは触れることのできなかった自分の腹を撫でた。子宮の代わりに埋め込まれたそれは触れる度に腹膜を刺激し意識が飛びそうなほどの激痛が襲う。唇が嚙み切れて血の味が口に広がる。爆弾がもうすぐ雄叫びを上げる。それに怯えながら生きるのは少々疲れた。全部忘れてしまいたいと思うが、私にはまだやることがあるので簡単に死ねない。
君は私の手を取り、腰を持ち上げた。私も釣られて立ち上がると蝋燭はそのままに私たちは森の奥へと入っていく。
月明かりに照らされた横顔は複雑な顔をしていた。
「また明日しましょう、花火」
つい約束を取り付けてしまう。君は私の言葉に頭二つ分高い位置から見下ろすだけだった。
こんな日々が続けばいいのに。
花火の炎が瞬きの間に幾つ散ったのか、それを忘れて喉までせり上がった言葉は声にはならなかった。声にしようとしても魚の小骨のようにつっかえて、君の耳に届くことはない。
牡丹は永遠には続かない。炎が変わらず燃え続けることはない。
再び始まった蝉の声は水の膜が張っているように遠く、四本の足が砂利をかき分けて芝を踏む音だけが聞える。
私は細く息を吐き、繋がれていない方の細い手首を取る。告白を拒んでおいて、自分から接触するのは我が儘の他ない。しかし、透くんは優しいから自ら振りほどくことはなかった。
曖昧な関係は面倒だ。白黒はっきりつけばいいと思う。君もそれは同じだろう、だからあんなことを聞いてきた。
でも、この感情を言語化する術を私は知らない。
言語化できたとしても、その言葉はきっと君に伝えるべきではない。
故に霧のような返答しかできないのだ。
実態があるようで掴もうとすればするほど分からなくなる、そんな関係から逃れることはできないのだ。
雨風が急に来てもしのげそうな木陰を見つけると、私は堪らずその場に横たわった。考えすぎたのだろうか、どっと疲れが押し寄せてきてもう重力には抗えなさそうだ。
横向きになって低くなった視界では君の顔は見えず、少し泥で汚れたズボンの裾だけが見えた。あちらはすぐには横にならず、座り込んだだけらしい。
会話もなく、聞こえるのは騒がしい蝉と僅かな鈴虫の声だけ。瞼を閉じて、脳を休ませることに集中しよう。
そう思っていたはずなのに、無意識のうちに私は君の名前を呼んでいた。
「……ねぇ、透くん」
「ん、なんだ」
「私は貴方に相応しい人間でも、貴方が触れたいと思えるような人間でもないですよ」
何故だか、目尻から涙が一筋零れた。いけない、いけない。これは子供のようではないか。駄目だとわかっているのに、面倒な女だと自覚しているのに、肋骨のもっと奥が痛くて、溢れた感情を抑えることはできなかった。全身の体液全部に「すきだ」という気持ちが溶け混んで細胞に浸み込んでいく。目を逸らし続けていた三文字はもう飽和状態だった。これは目を逸らすどころではない、逸らそうとしても網膜を支配しているのだ。逸らしようがないではないか。差し伸べられた手のひらに、控えめに頬を摺り寄せる。少し冷たい指先が心地よかった。
「いいよそれでも」
硝子の破片みたいに透き通った声が降り注ぐ。とめどなく流れる涙を隠すように小さく蹲る私、君はくくっと喉を鳴らすと頭をそっと撫でる。滑稽だと思ったか、幼子のように我が儘を言って泣きじゃくる私を。
しかし実際私という人間は、素直になれないし、言いたいこともろくに言えないし、突き放しておいて自らは手放したくないと思ってしまう貪欲な人間だ。
自分自身でも至極面倒な女だと思う。
自分の気持ちにはもう気づいていた。君のことを見る目が変な人から頼れる人、そして一緒にいると心が安らぐ人へと変化していることも解っていた。
でもこれ以上近づけば、私はきっと死にきれない。恋をすれば、腹の爆弾が止まるなんて奇跡は起こらない。私がもうすぐ死ぬことはこの世に生を受けた瞬間から決まっている。
君は今日、私に接吻をした。
でもそれ以上は何も手を出さなかった。
きっとあの表情に込められた思いを察したのだろう。不本意で拒んでいると知っているから、「好きだ」とも「付き合おう」とも言わずただ黙って頭を撫でる。
「……ごめんね」
優しさが、痛い。
真にあたたかい人間は時々凶器となる。見返りを求めない愛が、与えられる人間の心の弱いところに沁みて、罪悪感を駆り立てる。君が綺麗な人間であると分かれば分かるほど、自分の汚さが嫌というほど分からされる。
からからに乾いた喉でようやく絞り出せたのはたった四文字だった。
力を入れていた手を解いて仰向けになった。滲む視界を占める君の顔は逆光でよく見えない。
「謝る言葉はいいから、どうかそのままの君でいて。俺はそれだけで満足だ」
青年の小さな声に、私は再び目元を腕で覆う。今夜は私が弱さを曝け出す番だった。仕方がないと割り切った途端、赤子のように涙が止まらなかった。それこそ最初は声を抑えていたが、次第に君ならいいかという思いが強くなっていって最終的には小さい子みたいに声を上げる。月が西に傾きはじめた頃、私は泣き疲れて意識を手放した。
君は私の寝息が聞こえるまで、撫でる手を辞めはしなかった。
その日は雨がしとしとと降る朝だった。瞼を開けると目と鼻の先には今にも消えてしまいそうな儚さを持つ青年がいた。いつの間にか二人とも寝てしまっていたのか。自分の体を触ってみるが、本当に何もされていないようだった。その事実を知ってまた胸が勝手に痛んだ。
「おはようございます」
声を掛けても穏やかな寝息が途切れることはない。きめの細かい肌は触れることも憚られるほどに綺麗で、寝息で揺れる睫毛の一本一本を観察しても飽きないくらい美しい。それはきっと人知を超えた「美しさ」なのだと思った。私は彼を応援する人々の気持ちがようやく理解出来た。子猫とか、赤ちゃんとかと同じなのだ。目の前に差し出されたら可愛いと感嘆の息を漏らし、そっと壊れないように触れて思わず目を細めてしまうのと同じように、彼を見た人々は彼を構成するパーツ全てが信じられないというようにただひたすら瞬きを繰り返して、愛さざるにはいられないのだ。
「……憎いくらいに、本当に綺麗な人」
ただ「美しい」という言葉では言い表しては失礼なほどに相島透は特別だった。例えるなら朝一番の一本の光が透明なガラスにゆっくりゆっくり注ぎ込まれるような、光でいっぱいになったガラスの器で湧き出た天然水を掬う瞬間を切り取ったような、そんな存在だ。
「怖い……」
そして同時にこれ以上近づけば、消えてしまいそうなほど淡くもあった。
私は淡いとか儚いという言葉が好きだ。窓辺に降り注ぐ雪の結晶、水に滲む水彩の青、一晩で散ってしまう花の甘い香り、夏の蛍の光、どれも消えてしまいそうだからこそ名残惜しくて、手に入ったところですぐに消えてしまいそうで愛おしい。しかし、好きだからこそそういうものを直視できない自分もいる。
いつかは消えてしまうから、私はいつまで経っても何も掴めないのか。
大事にしたいものこそ、臆病になって最後には何も残らない。
これは自分だけの弱さなのか、人が皆持つ弱さなのか、分からない。分からないから、逃げたい。
目の前の陶器肌をそっとなぞろうとして、突然君が身をよじった。それが手の気配を察してなのか、単にこの蒸し暑さへの不快感からかは分からないが私はそれ以降君に触れようとはしなかった。
むくりと起き上がり、昨日花火をした川辺まで行って顔を洗う。澄んだ水で夜中に滲んだ脂が幾らかましになったような気がした。河畔をそのまま真っすぐ進むと、煙草の吸殻とひびの入ったボールペンが落ちていた。私は煤に塗れたそれを拾うと、腐りかけの看板に張り付けられていた「熊出没注意」のチラシを無理やり剥がす。背の高い野草に隠れるように座ると、不安定な太ももの上で文字を綴る。
文字を一つ書く度に指が震えて、涙が止まらなかった。書いた文字が滲まないように何度も目を擦るが、涙腺から溢れ出す雨が止むことはなかった。嗚呼、昨夜散々泣いたはずなのにまだこんなにも流せる水分が残っているのか。段々と心の中に掛かっていた不透明な霧が文字に起こす度にはっきりと輪郭をもった。
私は書き終えた手紙を二つ折りにして呆然としたまま目の前の川の流れを見つめる。
朝日を含んだ水は蓄えきれなかった光を零しながら、流れていく。流れる先は曇り空で、下流は光が届かず薄暗い。今私の目の前の光景がどれだけ綺麗でも、流れれば流れるほど零れていく光に私は絶望した。何故だかは自分でもすぐには分からなかった。けれど、流れなければ、そのまま留まっていればその水はいつまでも太陽の下で光を目いっぱい浴びることができたのに、流れるから失う。失った先に光があるのかは誰も分からない。それは抗えない現実と少し似ているような気がした。
「ただいま戻りました」
「お帰り、ボタン。どこに行ってたんだ?」
裏山に戻ると、体を横にしながら目を開けている君がいた。私は目を擦りながらぎこちなく笑う。
「花粉症かもしれなくて、目がかゆい」
「この時期に?」
「はい、この時期に」
春の花粉にしては遅いし、秋の花粉にしては早すぎる時期に君は訝しみながらじっと私の目を見つめてくる。流石仮にでも俳優、深い瞳は簡単には逸らせそうになくて首筋に一筋冷たいものが流れた。それでも尚、口を割らない私に彼は二の句が継げない様子だった。
「嘘へったくそだな」
「すみません……」
肩をすぼませて身を縮こませる私に、彼は呆れた表情は見せるものの何も言わずに立ち上がって川のある方向へ歩き始めた。驚いて思わずズボンの裾を掴むと、もういつもの涼し気な顔に戻っていた彼の口が不満げに歪んだ。
「何か他に隠し事でもあるのか」
「いや……何も言及しないのですか?」
「……どうせ聞いたところで事実が返ってくるとは思ってないからな」
「ぐぬ、それは」
君は言葉を詰まらせる私を「そうだろう?」と言わんばかりの表情で見下ろすと、とっととその場を離れていく。私は姿が見えなくなっても彼の行った方向を見つめ続けていた。
ぼうっとただひたすら目の前を見ていると、突然その方向から声がした。
「おーい」
物静かな彼が珍しく声を張り上げているので私も反射的に返答する。
「何でしょうー?」
「俺はこのまま朝ご飯を調達するけど、ボタンはどうする。ついてくるかー」
私は少し迷ったあと、君はここにいないのについ首を振って答える。
「いえ、ここで留守番しています。まだ体が起ききってないので少し体操をします」
「……そうか」
暫くの沈黙のあと、明らかに落ち込んだ声が聞えてきた。誘えば私は当たり前のようについてくるだろうと思っていたのだろう。しかしボタンにもやらなければいけないことがあった。
芝生を踏みしめる音が段々と遠ざかっていく。私は空を見上げると、風の吹く方向を確認した。幸い雲一つない空には穏やかな夏風が吹いている。私は服の内側から朝書いた手紙を取り出すと、傍にあった木に解けないようしっかりと括りつける。
「頼んだよ」
樹皮をそっと撫でると、まだ君が寄りかかっていたぬくもりが僅かに残っていた。しかし、ごつごつとしたそれに頬を寄せても何も言葉は返ってこないし、繋がれることのない手は手持無沙汰というようにだらりと脱力する。
名残惜しいなんて思ってはいけないのに、私はずっとこのままでいいのにと思ってしまう。
その日、私は彼の傍を離れることにした。
もう君には死ぬまで会わないだろう。
どうせ今日もやることはないのだから、日がな一日彼女とくだらない話をするのだと思っていた。君は俺の仕事に強く興味を示していたからテレビとはどんなもので、撮影とはどんな風に進むのか教えてあげるのも良い。17年間も反抗せず素直に小屋に閉じ込められていた彼女は無気力な人間だと想像していたがそうでもないらしい。知らないことを知るたびに落ち着きのある瞳が輝くと年相応の少女と言った感じで、俺はもっと色々なことを教えてあげたくなった。
「後は昨日出来なかった花火を買うだけか」
手にぶら下げられたレジ袋には昼と夜分のおにぎり二人前と、緑茶のペットボトルが入っている。二日前から代わり映えのしないつまらない食事だが、君は文句も言わずいつも美味しそうに頬張っている。単におにぎりが好きなのかもしれないが、彼女が経験した今までの食事はこんな質素なものよりも更に悪質なものだったのかもしれない。想像すると胸が痛んだ。
駄菓子屋に到着すると、店主のおじさんを呼んで線香花火の束を出してもらう。
「見ない顔じゃな。どこから来たんだい」
「少し、用事があって東京から」
「東京からこんな辺境まで来たのかい。好事家もいるものだねぇ」
この人はテレビなどは見ないのだろうか。俺の顔を見ても何とも反応しないし、ここに来た目的も観光だと思っている。よく耳を澄ませばノイズの入った昭和歌謡が流れていて、レジの奥にはレコードが回っていた。なるほど、旧式を好むものもまだいるんだな。彼が俺を好事家というなら、時代の流れに乗らない彼もまた好事家だと思った。
「坊主、若いのにいいのかい?今時はもっと大袋に入った色が鮮やかなやつが人気だと思っとんたんだが」
「いいんです。一緒にする人が花火初心者で、あまり刺激の強いものもどうかと」
俺は苦笑いしながら返す。鳥籠に閉じ込められていた少女には花火の大袋は刺激が強すぎる。線香花火のときの少女の初心な反応を想像すると、安易にねずみ花火や手筒花火を渡す気にはなれなかった。多分、大火事になるか彼女の心臓が止まるかどちらかであろう。
「きみは優しいんじゃなぁ」
腰の曲がった老爺は皺だらけの目元を細めた。
俺はその言葉になんと返せばいいのか分からなかった。何とか小さく笑って誤魔化したが表情筋は弛緩と緊張の間で何とも言えない表情になる。
「わしにも昔花火をしようと約束していた女がいたなぁ」
「そうですか」
「村の祭りの大輪だけでは満足できなかったみたいでな、拗ねた顔をしながらもっと近くで美しいのを見たいと駄々を捏ねたの思い出したよ」
聞き流すつもりだったのにその話にどこか既視感を覚えた。俺は思わずカウンターに小銭入れを揺らす勢いで手を突く。
どうしてか、心臓が痛いくらいに強く、脈を打っていた。
「その、女はどうなったんですか」
老人の眉毛が萎れる。伏せられた睫毛はシミだらけの顔に濃い影を落とした。
「約束した日、彼女は死んだ」
震える声は到底、嘘を吐いているようには見えなかった。正直俺は内臓全部が口から逆流しそうだった。全身に激しい痛みが走る。何もないのに、全身のどこか分からないところが痛くて堪らなかった。それはもしかしたら幻肢痛かもしれないし、ちゃんとした体の不調かもしれない。しかし、俺はこの痛みを表す言葉を知らなかった。
「坊主はこの村の言い伝えを知っているか?」
「神に捧げる少女……」
「なんだ、知っておったのか」
もう何も話さないでくれ。老人が次に喋る言葉を悟ってしまった。ぎゅっと目を閉じる。老人の変わらないトーンは俺の想像通りの言葉をなぞった。
「儂が好いた女は神に捧げる少女だったのだよ」
前後不覚に陥る体が何とかカウンターにしがみつく。萎んだ肺は酸素を求めるが、横隔膜がまるで記憶喪失したように自分の仕事を忘れた。上手く吸えない息は、肺胞を満たすことなく肋骨を不自然に軋ませるだけだった。
目に汗が入った。俺の体には全身から噴き出した冷たい汗が張り付いていた。
「……その話詳しく聞いてもいいですか」
尋常ではない様子の俺に老人は息を呑む。それから咳払いで絡まる淡を胃に落とすと、ゆっくりと話し始めた。
「出会ったきっかけは、儂がいじめでいわくつきと呼ばれているあの神社に忍び込むことを命令されたからなんじゃ。けれど夜になっても何も起こることはなく、下着が汗ばんで気持ちが悪かったから、もう帰ろうとしたその時だった。奥まった場所から声がしたんだよ。それが出会いだったなぁ」
何でもその当時は町が孤児で溢れていたらしい。哀れに思った寺の人間が子供たちを養っていたらしいが、子供たちは例もないのに勝手にカーストを構築し、この老人はその底辺としていじめを受けていたそうだ。
「彼女は全てを諦めたような顔で小さな窓から儂を見つめていた。その姿はさながら鳥籠の扉は開いたままなのに、いつまで経っても外に出ようとはしない小鳥のようだった。儂は最初、幽霊ではと疑ってしまったよ」
それから老人は様々な思い出を語った。名前を聞いたら名前はまだないと返されたこと。その返答から彼女をタマと呼ぶようになったこと。世間知らずの彼女の反応が面白くて、気づけば夜な夜な抜け出しては外の世界の話をしてあげたり、駄菓子屋から駄菓子をくすねては彼女に与えたりしたこと。
いつか寺小屋を出て職に就いたら婚約しようと話したこともあったという。
「彼女の感情のなかった笑顔は段々と喜怒哀楽を含むものに変わっていて、儂はそれが嬉しくて堪らなかった」
彼の穏やかな笑みを見ればわかる。彼らの間には確かに愛が育まれていた。しかし、老人が次の言葉を紡ぐときにはもう、蓄えた微笑みは失われ、操り人形のような目で遠くを見つめていた。
「祭りの日、タマは打ち上げ花火を見つめながら『もっと近くで見たい』と呟いた。儂はいつものように笑って次の日に手持ち花火を持ってくることを約束して帰った。……それが間違いだったのかのぅ」
その横顔には後悔と少しの憎しみが混じっている。どうしてあの時、笑って見過ごしてしまったのだんだろうなとぼやく彼の目尻には涙が滲んでいた。
「もしかして、」
「あぁ、君の予想通り次の日行くと、彼女はもういなかった」
彼が行った時にはもう小屋の中には誰もいなくて、辺りには異臭が漂っていたという。暗がりの中で目を凝らして小屋の中を見ると、葡萄と酒精と酸の匂いが一気に押し寄せて思わず身をのけぞったらしい。
「神に捧げる少女だったタマは最期に葡萄酒と毒が混ぜられたものを飲まされたらしくてね、割れた硝子の破片と食道が爛れるほどの吐瀉物と吐血の痕が残っていたのを目の当たりにした儂はその時生きてきて初めて死んでしまいたいと思ったよ」
つい数分前まで片手に手持ち花火を握りしめ期待で胸を膨らませていた幼い少年が、目を見開き惨状を目の当たりにする。それがどんなに痛々しいことか、想像を絶する思い出話に俺は呼吸一つするのも躊躇われた。
それに、吐瀉物が大量に残されていたということは、毒が全身に回るまで苦しんだということだ。体が必死に生を求めて藻掻いていたということだ。
会ったことのない体の薄い少女の最期を想像する。
何故か、その姿とボタンが重なった。
俺は唐突な嘔気に襲われて、口を押えて必死に胃酸を飲み下す。
「儂は彼女と出会ってからの日々が充実しすぎていて忘れていたよ、彼女がどうしてこんな鳥籠に閉じ込められていたのか」
雲に隠れていた太陽がようやく顔を出したようだ。店に一つしかない窓から木漏れ日が差し込んで、老人の右頬を照らし出す。普通なら光に魅かれるように明るくなった方を見るだろう。しかし、影になっている左半分の暗さに気づいたとき俺は彼の横顔から目を離せなかった。
彼は駄菓子屋の店主として至極普通の人生を歩んできたのだと思う、彼女と出会ったこと以外は。暗がりの彼の表情は当たり前の生活をしてくれば経験しない闇を抱えていた。
「タマは普通の子じゃなく神に捧げる少女、だから祭りの日には殺される。考えればすぐ分かったはずだ、けれどその日に初めて出会ったならすぐ気づくことを、彼女との日々を過ごした儂はタマがいる未来が当たり前だと信じて疑わなかった。儂は実に愚かで、愚鈍で、惰性でしか生きることのできない少年だった」
老人と青年の間に形容しがたい静寂が流れる。呼吸音すら禁忌だと錯覚するほどの静けさなのに、どこかから少女の声が聞こえる。これは俺の空耳なのだろう。脳に直接響く風鈴の端を撫でたような涼やかな声はボタンのものだ。じわりと涙が込み上げた。君が今生きていることは当たり前なんかじゃないのだ。そう思うとつい一時間前まで共に身を寄せ合っていた彼女が急に恋しくなる。
「君が花火を共にする人は想い人なのかい」
「……想い人というか、何というか」
俺が口をもごつかせると、老人は笑う。背中にぬくもりを感じて後ろを振り向くと、シミのある手が優しく背を叩いていた。
「若いというのは素晴らしいことだ。活気に満ち溢れ、恋をして誰かを全身全霊で愛する純粋な心も持っている。けれどそれは同時に愚かさも伴う」
その言葉に俺は押し黙るしかなかった。俺は彼以上に愚かな人間だと思う。幼い頃から優等生な俳優というレッテルを貼られ、その面子を潰さないように必死に自身の仮面を分厚くして、すべて未来への投資の為にいきてきたようなものだ。しかし現在俺は今までの人生を捨てる形でボタンと一緒にいる。若気の至り、痴れ者の何者以外でもない。
俺がしていることは傍から見れば大間違いと言えるだろう。所謂人生負け組というやつだ。
ふと顔をあげると、老人は店の裏から線香花火の束を持ってきた。彼は頼んだ数より随分おまけのされた包みを俺に押し付けてくる。慌てて財布を取り出そうとすると、静かに首を振る老人。その顔は微笑んでいるのに、どこか泣きそうであった。
「ただ愚かであることが必ずしも悪だとは思えないんだ。儂が通う度に、死んだ顔をしていたタマの表情が一つまた一つ増えていった。知らないことを教える度に、何にも染まっていない純粋な瞳が待ち望んでいたように光を取り戻していった。タマが死んで周りは儂を嘲笑した。死ぬことが分かっていた娘に現を抜かすなんて時間の無駄だと嗤った。でも、儂だけは愚者になったのは間違いではなかったと信じている」
愚かであることが必ずしも悪ではない。彼が言うからこそ、それは何十倍にも重くなって俺の心に響く。老人は俺の反応を見ると、にやりと含みのある笑みを浮かべる。その表情は先ほどとは打って変わって晴れやかなものであった。
「君には愚かになる勇気があるかい?」
俺は目を見開いて目の前の人物の瞳を見つめた。嗚呼、この沢山の色を吸収した深い瞳の前では嘘など通用しなさそうだ。俺が答えると、老人は「そうか」とだけ言って煙草をふかし始めた。
「色々とありがとうございました」
「あぁ、いいんだよ。儂の方こそ、もう60年も前のわだかまりからようやく解放された気がするよ」
「それは、よかったです」
白い煙を口から漏らしながら老人は扉の奥に視線を向けた。開けた店の外には小さな山が一つあって、朱色の鳥居が見える。何を考えているのかは分からなかったが、今日見る夢で彼は愛した少女に再び出会うのだろうなと思った。俺が店を去ろうとしたとき、彼は何か思い出したように口にする。
「そういえばどうしてタマは開いた窓から外に出なかったのだろうな」
「監視が厳しくて出れなかったのでは?」
「いいや、それはないと思うよ。儂が通っても一度も警備の人間などいなかったし、抜け出すことをそそのかしても咎めを食らったことはない。窓の大きさも小柄なタマでは十分潜り抜けれたはずなのに、タマは抜け出す素振りを一度も見せないまま生贄となってしまった」
その返答に俺の心拍数は急激に上昇する。
手薄な警備。神に捧げる少女。町に溢れていた孤児。簡単に抜け出すことのできる小屋。
「……まさか」
まさか、そんなこと有り得ない。
荒くなった息を必死に戻す。瞳孔は興奮で大きく開かれたまま震えていた。手汗の滲んだ小包は音をたてて、地面に転がる。
頭を過る最悪の想像に口が痙攣する。乾燥した唇からは言葉を発せられず、意味のない呻きを上げた。
老爺はパニックになる俺の背中を狼狽しながら摩る。しかし何かを思い出したのか「あっ」と声をあげた後、手を止めた。
「そういえば、儂が未来の話をするたびにタマは決まって困ったように同じことを呟いていた」
ふとボタンの笑顔が脳内で弾ける。
「『どうせ結末は皆一緒なのだから』」
毒を飲んで苦しむ少女が脳内でリフレインする。
記憶の中の君が一瞬で朱色に染まった。
俺の予感はいい意味でも悪い意味でも的中することが多い。それに対し気に留めたことはなかった。悪い予感が現実になったとしてもそれが運命なのだと受け入れていた。しかし、今回ばかりは外れてくれと願う。
ボタンが死ぬ
俺の脳内を埋め尽くすのは皮肉にもその言葉だけだった。
俺はなりふり構わず店を飛び出し、陽の光の下を走った。風の噂で俺がこの村にいると聞きつけたファンまがいがと警察が相島透捜索に明け暮れていると聞いたが、そんなのもうどうでもよかった。
手に絡みついたビニール袋も邪魔で道端に投げ捨てる。警察に追われようが、誰かに晒されようが、君が死んでしまうことに比べれば痛くも痒くもない。
「頼む……間に合え……たのむ」
つい一時間前までいた山に戻ってきた。
君はもう、そこにはいなかった。
拝啓 相島透さまへ
突然いなくなったことを許してください。
この手紙を読むころには貴方は酷く自分を責めているでしょう。何かボタンに嫌な思いをさせてしまっただろうか、と。私が知っている相島透はそんな人のような気がしますが、違うでしょうか。
貴方は初めに「感情のない、ロボットみたいな奴に価値なんてない」と言いましたね。けれどそれは少し違うような気がします。少なくとも貴方は自分で思っているほど冷たくも空っぽでもないと思います。
夏祭りの日、貴方は私を見捨てずに最後まで手を引いてくれました。どこかで捨てれば自分はまた何でもない顔で元の日常に戻れたのに。しかし、君は私を見捨てることが出来なかった。
そんな人がロボットな訳がないでしょう。
君の横顔には確かに愛があったように思えます。
昨日の夜、君は言いたいことがあったはずなのに黙って傍にいてくれました。私に「そのままの君でいて」と言ってくれる人は初めてです。涙が枯れるくらい、嬉しくて幸せでした。
二人でいれば欠けたものが満ちていくのが少しずつ、しかし確かに、感じることができました。
私にとって相島透は世界を広げてくれる人で、貴方にとって私は世界を色づける人。一緒にいればいるほど身に染みて透くんの存在が私の特別になっていきました。
けれども、時間が一分すぎるたびに私は君を触れることを恐れました。一秒すぎる度に君と同じ空間で息をするのが怖くなった。知れば知るほど貴方は綺麗な存在で、人に必要とされる理由がわかったから。私が君の時間を、人生を奪ってはいけない、初めから分かっていたはずなのにあまりの幸せに忘れてしまっていた事実が貴方から優しさを貰う度に痛いほど脳内で警鐘を鳴らした。
私はもう君とは一緒にいることはできません。私はもうこれ以上君を壊したくありません。さようなら、どうかお元気で。
敬具 ボタン
「なぁ……」
全て読み終わったとき、その紙は丸められて破られて文字が読めないほど原形を留めない姿に変化していた。
走って戻ってきた場所に君はいなかった。代わりに新しく白い紙が木に括り付けてあった。俺はうまく動かない手で紙を広げた。白い紙いっぱいに埋め尽くされていたのは、しっかり者の彼女にしては少し乱れた筆跡だった。
なんだよ、この手紙。
嘲笑が漏れる。引きつった口角と三日月に歪んだ目は、到底君の言う愛に溢れた人間ではなかった。
「馬鹿だな、大外れだよ。自分なんて責めてない。俺は自己中な人間だから自分の大切なものを失うのが怖いだけだ。ただ自分の欲望のためにここまで走ってきた、今失いたくないと叫んでいる。全部、君のためじゃない、自分のためだ。これが優しさだというのか、そんなふざけた話ない。俺に愛なんて」
そこまで喚いて、急に体に力が入らなくなってその場にへたり込む。乾いた笑いと、笑いにもならなかった息が体から零れる。
愛ってなんだよ、俺には分からないよ。愛があるって言われたって、俺には見えないんだ。それが何か分からない人間には、理解できないんだ。そこにあるのかすら、それに価値があるのかすら。
『透、欲張っちゃ駄目よ。もし欲張って今まで積み上げたものが全部なくなったら、お母さん透と一緒に死ぬからね』
唐突に母さんの声がして思わず耳をふさいだまましゃがみ込んだ。周りには誰もいないのに頬骨が抉られた感覚がする。頼む、消えろ。しかし、トラウマはフラッシュバックを辞めない。子役時代、現場でやりたくないことをやらされた日の帰り道に母さんに頬をぶたれた記憶が水の波紋のように頭の中に広がっていく。金属を擦り合わせたような声は絶えず俺の脳内で鳴り響いた。
『我儘で幼い自分は押し殺すの。そうすればしっかり者で、非の打ち所がない子役として沢山使ってもらえるからね。ほら笑いたくなくても、笑って。家に帰ったら笑顔の練習をしようね』
『でも、おれつまらないことは笑えな』
『俺、じゃなくて僕ってお母さん言ったよね?俺は下品だからダメって何度も何度も言ってるのにどうして分かってくれないの』
『……ごめんなさい、母さん』
『うんうん、それでいいんだよ。透は素直でいい子だもんね』
透はいい子だもんね。
呪いの言葉のようにそれが何回も何回も何回も何回も何回も何回も、何回も、なんかいも俺の心を侵食する。
「……ごめん。ごめんなさい、母さん」
地面に頭を打ち付ける。こめかみに石がぶつかって血が染み出してくる。あまりの痛さに鼻水を垂らしながら喘いでも、声は消えない。頼む消えてくれよ。もう分かってるから、欲張ったら大事なものが全部なくなるって分かってるから。
記憶の中で俺から感情を奪った人が油汚れみたいな笑顔を向けてくる。粘着質でぎとぎとした肌を歪めて爽やかさと対極の位置にいる笑顔が成人した今も忘れられない。
それでも心のどこかでは恨み切れなくて裏切れなくて、死んでほしくて、でも自分で手を下すのは怖くて。彼女のことを思い出すたびに本当に醜いのは母さんなんかじゃなくて、俺なんじゃないかと思ってしまう。
「俺なんかがボタンの生き方に何か言える権限があるのかな」
そういえばボタンはいつも腹を抑える癖があった。駄菓子屋の老人の話を聞く限り、きっと君はきっとまだ神社の秘密と繋がった鎖に縛られている。目に見えないそれは腹に何か詰められていたのかもしれない。
例えば遅効性の毒であったり、時限爆弾であったり。
そしてタマさんは逃げ出したとしても死ぬことに変わりはないことを分かっていて、あの言葉を呟いたのだ。
君は初め障子を開けることは禁止されていると言っていた。きっと老人と神に捧げる少女の件でその辺りが一層厳しくなったのだろう。孤児が溢れていた過去と違って、現代では簡単に替え玉なんて見つかりやしない。
昔でさえ厳しく、死を免れることはできなかったのに、現在は易しくなっているなんてことあるはずがない。
つまり君は、本当に死んでしまう。
しかしそれに気づいたところで、こんなぽっと出の男が出しゃばって君の死に際に立ち会う権利はあるのだろうか。
君が嘘まで吐いて守ろうとした俺の人生を、自分自身で投げ捨ててもいいのだろうか。
俺は君の苦しみのすべては知らない。一度公園で話したときに、自分よりも俺の方が辛いだろうと言っていたが、それが本当だとは俺は思えなかった。苦しんだ先に出した決断を、こんなに醜い俺が止めに行ってもいいのだろうか。
「わかんないよ、おれ……」
仰向けになって空を見上げた。空は相変わらず美しい。澄んだセレストブルーの端に滲む藍色、薄い雲が太陽の光を透かして地上を淡く照らしつける。俺はそっと瞼を閉じた。美しいものを見ると、目を逸らしたくなる。それは手紙に書かれていた感情と一緒なのかもしれない。
俺たちは臆病だ。
互いが自分を醜いと思って、傷つけることを恐れて、傷を癒そうとしても上手くいかずに空回りして。
「俺が不器用なのはボタンが一番知ってるだろ。……何が正しかったんだよ、どうするのが正解だったんだよ」
こんな時でさえ、責める言葉は相手に届かない。一人取り残されて、君が孤独死を選んだと悟ったとき胸が締め付けられる感覚と共に本当に現実か疑う感情が芽生えた。言葉をまともに受け止めれば傷つきいつか壊れてしまうと分かってから麻痺していった感覚が数十年ぶりに取り戻された予感がする。俺は確かにあの瞬間傷ついた。でも傷つけた本人は臆病だから逃げた。傷つけるなら傷つく覚悟を持つ必要があるのに君は臆病だから逃げた。
ただ臆病と優しさは紙一重だと思う。
そして君は臆病であるけれど、それ以上に人を傷つけるのを嫌う心の綺麗な人間であると俺は知っている。
一度丸めた紙をもう一度引き伸ばした。美しい文字であったけれど、俺の名前を書いたところだけ文字が揺れていた。俺の名前は視線を下にすればするほど歪んでいった。指が震えていたのか、太いところもあれば細いところも、とめはねも雑で、でもボタンの覚悟がひしひしと伝わってくる字だった。
「愚かになる覚悟……」
俺を守るために逃げた君が「さようなら」と書いたとき、どんな気持ちだっただろう。
君には愚者になる覚悟があった。
「でもごめん、俺は一人で死ぬことを選んだボタンを許せないよ」
神に捧げる少女の正しさを否定出来たら、何か変われるのだろうか。
俺は、
俺は最初から神に捧げる少女の言葉なんて聞きたくなかった。
君の心の叫びがずっとずっと聴きたかったんだ。
いつだってお人好しで、自己犠牲の塊みたいな君の、希望を乗せた声がずっと欲しかった。
小屋から出る時にあれほど言ったのに、それでも君の心の中では良心と野性がぶつかり合っていた。
誰かの為に自分の欲を見て見ぬふりする君は馬鹿だと思う。
一人で死ぬなんて間違っていると頬をぶってやりたい。
この衝動に従うのは果たして正義なのか。
「正しいのか正しくないのか、行ってから確かめればいいか」
考えるのはやめた。
『君には愚かにな勇気があるかい?』
あの時、老人の問いかけに俺は少し考えて頷いた。
『大切な人の為なら』
「母さん、ごめんな。俺は醜い人間だから欲望を捨てきることはできなかったよ」
小さく笑う。それはもう自分自身を蔑むものではなかった。こんな状況なのに心が高鳴って、俺は武者震いをする。
人生全部台無しする用意はできた。
きっと次は何にだってなれるだろう。
なら俺は愚者として、君を救いにいきたい。
たった一人の少女ために、人生を捧げたい。
もう辺りは薄暗闇に包まれていた。俺はエネルギーに満ちた体を起こして、山の斜面を駆け抜ける。ここは都会と違って街灯が沢山あるわけではない。まばらに散った光を頼りに俺はボタンがいそうな場所を走った。
関係ない人を巻き込む住宅地はないだろう。山奥はありえないし、村を出ることは多分ない。一銭も持っていない華奢な少女では険しい崖を超えることは難しいと判断した。
「あとは……どこだ」
神社か、ふと赤い鳥居が脳裏を掠める。しかしすぐにそれはないなと思った。彼女はもうけじめはつけたのだから、わざわざ行く必要はない。ならばどこだ、どこにならいる可能性がある。
焦りから普段はかかない変な汗がこめかみにへばりつく。酸欠で脳と視界の所々が欠けている。でもまだ走れる。俺は酸素の足らない頭を必死に回転させる。人に迷惑を掛けずに死ねる場所。山ではなく市街地でもない。となれば、あとこの村に残されたものは一つしかない。
「うみ」
違ったらどうする、朝から消えた君にもう間に合う確証はない。それでも飛び込まないと君に会うことはことはもうない。
戦慄く体は今、人生の舵を切ろうとしていた。それは重く、旋回するかも沈没するかも不確かな運命を決める瞬間であった。
深呼吸をする、深く深く息を吸った。瞼を閉じて、もう一度持ち上げる。
俺は踵を返すと、月明かりで青に照らされたそれを目指した。
君が死を選んだ怒りが、徐々に祈りへと変わっていく。いや怒りが完全に消えたわけではない。
それでも、段々と怒りが祈りへ、祈りが希望へ。塗り重ねられていく。
『この先進む未来が明けない夜でも、止まない雨でも、藻掻いても浮上できない海の底でも、真っ暗で先の見えない道のりでも一緒にいれば何か一つは変われるって俺は確信している』
夏祭りの日、俺を庇う君にそう言っただろう。
「……っ一緒に……いさせてくれよ……」
好きだと言えなくていい。抱きしめられなくてもいい。俳優として芸能界に戻れなくてもいい。生きて朝日を見れなくたっていい。
だから、どうか
どうか、君の息が絶えるそのときまで、傍にいさせてほしい。
夏の夜は比較的明るいはずなのに、その日は神がアイロニーを漂わせるように暗かった。
光がない世界では色は存在しないらしい。光の屈折がどうのこうのという複雑な理屈はいいのだ。光のない、色のない世界で俺はどうやって君を見つければいいのだろう。
いつもの艶のある真っ黒な髪の毛も、銀河系にあるどこかの惑星みたいな瞳も、透くんと綻ばせる表情も、何も分からなくても俺は君をまた見つけられる気がした。不確かで確かな矛盾した確証だった。俺はその確証一つで賭けをしている。
街灯の明かりが消えた道を走る。意地悪するかのように月が雲隠れした夜、頼りにするものは何もなかった。スマホだって充電切れだし、懐中電灯なんてもの持ってやしない。
「ボタン」
貴方の姿は何処にも見当たらない。前後左右全てが黒に包まれた世界を進み続ける。突然何かが足に絡みついて、危うく転びそうになった。靴に絡まったものを解くとごみ捨ての際に被せておくカラス避けだった。擦りむいた膝と手のひらからは血が滲む。しかし興奮からか痛さは全く感じなかった。膝の関節は麻痺することなく、逆に回転数を増やす。
「……そういえば神に捧げる少女、捕まったのかしら」
「そうねぇ、全然話を聞かないから怖いわぁ。あの日以来音沙汰がないみたい」
「だってもう祭りから三日も過ぎているのよ。そろそろ見つからないと、あの神主も顔がたたないんじゃない?」
顔も見えないすれ違う人の声がする。俺はそれを無視して突き進んだ。
俺が探しているのは神に捧げる少女ではない。ボタンという素朴な一人の少女だった。
段々と水平線が近づいてくる。民家の光が届かない目の前は巨大な穴が開いているみたいだった。
ようやく人気がなくなり、視界一面が真っ黒なキャンバスになる。
俺はその中で一つ、光り輝く月明かりに憑りつかれたように導かれる。
綺麗だった。すべてが、現実離れした景色だった。遠くから聞こえる蝉の声、4等星まで肉眼で見える空、無機質なコンクリートに、鼻腔を刺激する磯の香り。
青白いスポットライトの下に君は小さく佇んでいた。
穢れの知らない白いワンピースを纏い、きめの細かい肌で月光を反射させるその姿は月下美人そのものだった。
生きているうちにこんなにも美しいものを見れるのだと胸が焦げるほどに鼓動が高鳴る。気を抜けば、腰が抜けて膝から崩れ落ちてしまいそうだった。
「ボタン」
一番丁寧に君の名前を呼んだ。
ゆっくりと振り向いた君と目が合う。
さぁ答え合わせの時間だ。俺がしたことは本当に正しかったのか、君が教えてくれ。
月明かりの綺麗な夜だった。腰掛けた堤防は熱帯夜の続く日々にしては珍しく涼しい。背中側から陸風が吹いて、ふっと力を抜けばそのまま真っ黒な海に落ちてしまいそうだった。まぁ今落ちなくても数時間後には沈むんだけど、なんてブラックジョークを言う余裕なんてない。こんな状況でも君なら言いそうだけれど。
「……最期に一度でいいから会いたい」
ふと口にしていた言葉に嫌気がさす。
願ったところで自分から切った縁なのだ、身勝手にも程がある。それに私は透くんさえ幸せになってくれればよかった。先ほどの出来事を思い返す。人気俳優と小さな村の生贄。十人に聞けば十人とも身をわきまえろと頬を叩いてきそうな話だ。神に捧げる少女の歴史はなんと平安時代まで遡るらしい。平安時代の人々もこんな風に悩んだのかな。けれど、源氏物語では身分差も血縁関係もタブーの数々は許されていたもんな。どの時代でも御伽噺ほど甘いものはないだろう。1000年以上前に生きていた人も同じ悩みを抱えていたというのに人は未だに成長できていない。
今更自分の幸せなんて願えなかった。一度は二人で幸せになりたいとも思ったけれど、現実はそう簡単でもなかった。そんなこと今までの人生で十分痛感してきたはずなのに、ここ数日の幸福が飽和量を超えすぎていたから感覚が麻痺してしまったのだろう。結局私の正義なんて、幸せなんて、世間からすれば鼻をかみ終わったティッシュくらいどうでもいいものだった。
「でももしそれが叶っていたらどうだったんだろう」
二人でどこか遠いところに逃げたのだろうか。そこでも世間の目を気にして生活しているのだろうか。生きながらえてしまったことに罪悪感を抱きながら生きているのだろうか。私たちはそれで本当に幸せになれるのだろうか。
漠然と考えて、でもどれだけ考えたところでそれが鮮明になることはなくて、頭が痛くなったところで辞めた。
「やっぱりいいや」
そうだ、これでいい。何処にもぶつけることのできない悔しさを心の奥に押し込める。目を瞑ると、目の前で透くんが笑っていた。出会ったのはたった数日前なのに透くんは確実に私の人生を侵食している。真っ暗な夜でも鮮明に輪郭を、笑い方を、一言発する前に少しだけ漏らす息の音も全部思い出せるくらいには私に強く強く焼き付いていた。あぁ、そんな存在ができるなんて想像することすら許されなかった私が、今ではこんなにも誰かを愛しているという事実に自分自身が一番追いつけていない。
記憶の中の数少ない君の笑顔を最後に私は立ち上がると、ゆっくりと爪先に体重を掛ける。
爆弾はあと1時間後には爆発する。きっとそんなに大掛かりなものではないはずだけど、この村の人たちを巻き込むのは僅かに残された良心が許さなかった。爆破前に海に飛び込めばきっと誰にも迷惑を掛けずに爆ぜることができるだろう。
右足を宙に浮かせた。すぐ下は暗闇だった。ぎゅっと瞼を閉じる。覚悟を決めて肩を前に倒しかけたその時、
「―――ボタン」
貴方の声が、聞えてしまった。
恐る恐る振り返ると、走ってきたのか酸素を貪りながら喘ぐ青年がそこにはいた。月明かりを反射させたその瞳は間違いなく相島透だった。再び会えた嬉しさが爪まで駆け巡った後、すぐに絶望が私を侵食した。
それが表情に出てしまったのか、君は私の顔を見た瞬間に口角を下げて唇を震わせた。
透くん、
透くん、
透くん、
私、間違ってるのかな。どんな顔をすれば正解だったのかな。素直に喜べたら可愛いヒロインになれたのかな。
会いたかったよ、と言いたかった。来てくれてありがとう、と涙を流したかった。
「……透くん」
駄目だよ、と言いかけた私の唇を何かが覆う。視線を下に向けると、ほっそりとした色白な指だった。
驚いて見上げると、綺麗な顔がすぐそこにある。普通の人なら黄色い悲鳴をあげる距離でも透くんという存在にどこかほっとしてしまう。私はこの顔に見慣れてしまった自分に少しの恐怖を抱いた。改めて見れば睫毛がこんなにも長いんだとか、肌のキメが寸分の狂いもなく整っているなぁとかその場の雰囲気にそぐわないことばかり考えてしまって、思わず私も君の唇を人差し指でなぞっていた。
君は微笑を浮かべた後、深い呼吸をしてから私の目を捉える。その瞳があまりに真剣なものだったので私は指先を君の唇に置いてきたまま硬直してしまう。
「どうしてこんなことした?」
指先に唇の震えが伝わった瞬間、端正な顔が歪んだ。そうだよね、あんな置手紙一つで突然いなくなったら当然驚くよね。けれど私はうまい言い訳が思いつかなくて口をもごつかせた。そんな私の姿を見かねてか、彼は悲しそうな表情からまた別の感情で顔を歪ませる。綺麗な二重瞼の淵は赤く染まっていた。
「って聞こうと思ってた。でもやっぱり大事なのはそこじゃないなって思った」
腕をそのまま引き寄せられて私の体は広い肩幅に包み込まれる。何が起きているのか理解できなかった。ただあたたかさに身を委ねていて、脚の感覚なんて当然のようにない。今私は震えているのか、ちゃんと立てているのかすらわからなかった。ただ目の前の真っ暗な海を見つめながら、頭上から頬に注がれた熱い液体を拭う。錆びたロボットのようなぎこちない動きで首を動かすと、痙攣する指先には確かに透明な雫があった。
「ごめん、一人にして」
違う、透くんが謝ることじゃない。首を振った私を無視して君は続ける。
「俺たちは二人で一人だなんて厚かましいこと言いたい訳じゃないんだ。けど、肩先くらいは身を委ねてくれているって勝手に思ってた。実際はこんなところまで一人で抱え込ませてたけど」
「違います、それは透くんの責任じゃなくて私の責任で」
「俺が頼りないせいで、一人で死ぬことを選ばせてしまった」
なんでそれを。驚きで声がでない。
それにいつも世界を俯瞰しているようなその瞳が、今日は酷く幼く見えた。まるで叱られた後の子供みたいに純粋な申し訳なさ、後悔を蓄えながら揺れている。私はそんな君を知らなかったから狼狽して口が開かなかった。
「だから、凄く申し訳なくて」
その言葉が静かな海辺に響いた瞬間、全身が粟立つのを覚えた。私はこのタイミングでようやく自分が計画していたことが失敗に終わったと気づいた。
君を傷つけないように抜け出したのに、こんな顔にさせた私の計画はとっくに失敗していたのだ。
喉から絞り出す声のボリュームは消波ブロックにぶつかった波の音にすら、消されてしまいそうだった。
「……ごめんなさい。私、嘘吐くの下手で」
私は君の手を取ると、掴んだ手ごと腹部に当てた。二つの手にごつごつした人ならぬものが触れた瞬間、君の表情が強張り一歩後ずさりする。
「何、それ」
「私、爆発するんです」
ここまで来てしまったならしょうがない。全てを話す覚悟で君と爆弾を触れさせた。君は私の言ったことに理解が追い付かず、瞳孔を開いたまま遠くを見つめたあと「は?」と腑抜けた声を出した。
「あと一時間で死ぬんです」
「……なんとなく分かってはいた」
「えぇ?!私の嘘、そんなに下手くそでしたか?」
「いいや、君の嘘は立派なものだったよ。とある人に出会わなければ気づかないままだった」
まさか見抜かれていたとは。君が仄めかすとある人が誰だか知りたかったが、表情を見る限り口は堅そうだ。
「それで」
話を切り出す青年の声はとても小さかった。さざ波の音で消されてしまいそうな音量は、私の終わりを半分悟っているのだろうなと思った。
「助かる方法は、もうないのか」
形のよい唇が小刻みに揺れているのが見えて、胸が痛かった。それでも私は告げなければいけない、現実を。抗いきれなかった、運命を。
「はい、この爆弾は小屋を出てから72時間で爆破するものです。初日に病院に行けば助かった可能性は捨てきれませんが、まぁどのみち私は死んでいたでしょう」
ひゅっと風を切る音がして視線を上に向けると、喉を引きつらせた男が必死に酸素を貪っていた。この反応は当然のことだった、しかしそれが貴方だとは思えなかった。今にも死んじゃいそうなくらい苦しそうに息をするこの男が、いつもファンの人の前で微笑みを浮かべていた相島透だとは誰も気づかないだろう。
私は怖くなってシャツの袖を引いた。彼はまた一歩後ずさった。
「なんでもっと早く……」
君は掠れた声で一つ呟く。私は視線を正面から外した。これを言ってしまえば優しい君は更に深い傷を負うだろう。それでも私は理由を伝えなければいけない気がした。傷を、負わせたかった。私にこんな決断をさせたのが貴方だということを知ってほしかった。
「透くんのいない世界で長生きするより、貴方と一緒に知らない公園に行く方が楽しかったからです」
「俺のせいってことか?」
「透くんの責任半分、私の覚悟半分です」
予想通り絶望を体現したような表情をする君。
「じゃあ、俺も死のうか」
まるで今日の晩御飯のメニューを言うようにあっさりと告げられた死に私は慌てて首を振る。
「何言ってるんですか……?」
「もともと覚悟は決まってた。君がここで生きる選択を取るんだったら俳優を辞めて君と都落ちしようとしていたし、死ぬんだったら俺も一緒に死のうって、そう決めてたから」
反射的に骨ばった右手を取る。私はそのまま手汗の滲む掌でぎゅっと力強く握りしめた。
「これ以上透くんが自分自身を責めるなら私は今すぐにここから飛び降ります」
「それは駄目だ!」
「ならちゃんと聞いてください!」
男女の荒げる声が夜の静寂に響く。君は私が海に身を投げるのを止めるために私の左腕を、私は今にも暴走しそうな君の左腕を掴んだ。彼は眉をぴくりとあげて、掴む力を強める。筋肉のない腕には骨に直接ダメージが加わる。私の骨はぎしぎしと鳴って今にも折れてしまいそうだ。私が耐えられずに痛いと声を漏らすと、君ははっとしたように手を広げて一歩引く。自分のしたことが信じられないとばかりに呆然と掌を見つめていた。暫くしても尚、力を込めすぎて白くなったままの自分の指先を見て顔を青くさせた君は、「ごめん」と一言呟いて膝から崩れ落ちた。
「謝らないでください、冷静になれないのはお互い様です」
私の声に首を振り続ける貴方。私は腕ではなく、今度は震える掌を掴んだ。
「まず病院にいったところで爆弾処理なんてしてもらえるはずがありません。それに運よく助かったところで、世間が私を許すとは限りません。世間での私の存在は人気俳優を拐かした村の醜い少女です。退院した後、透くんとまた一緒に過ごすことは愚か再会することも許されないかもしれない」
もし透くんと出会わなかったら生贄として、出会ったとしてもこの鉄と火薬の塊に散り散りにされていた。
私が明日も生きる未来なんてはじめから存在しなかったのだ。それを伝え忘れていたことを今更ながら後悔する。出会った日に私が死ぬことを知っていたら君は今こんなにも沢山のことに縛られていないのに。それでも伝えられなかった自分の弱さと傲慢さに嫌気が差す瞬間もあった。
「考えてみたんです、もしそうなったらどうしようって」
俯いてコンクリートを視界いっぱいに捉えながら想像をする。もし私のせいで彼が笑えなくなってしまったら、私はそっと君の傍を離れて切腹をするだろう。後悔でいっぱいで、もう君に顔向けできないくらいの責任を負うだろう。
大袈裟でもないし、冗談でもない。それほど大切だったのだ。
「貴方がいない人生以上に怖いものはないと思いました」
待ち受ける死を言えなかった一番の理由はこれなのだ。出会ってしまったから、話してしまったから、私が差し伸べられた君の手を取ってしまったから、私は透くんがいない人生がどれほどモノクロだったのか気づいてしまった。
隣に立つ資格がないことは分かっていたけれど、それでも傍にいたいと願ってしまった。
右手から伝わる脈が早まる。驚いてじっと目の前の顔を見つめると、今にも泣きそうな君がちゃんとそこにいた。
「手紙に『私はもうこれ以上君を壊したくありません』と書きましたよね」
君が頷くのが視界の端で見える。
「もう私は今日までにたくさんの人の人生を壊してきました。神主、巫女、この街で豊作を願う人々。それに加えて、今度は貴方までもが私のせいで芸能界で肩身の狭い思いをして、積み上げてきたもの全て私のせいで壊されて、そこまでして私が生きる意味がどうしても見いだせなかったんです」
困り顔で笑う私の手の甲に熱いものが降り注ぐ。その正体に察しはついていたけれど、敢えて「泣いてるの?」なんて聞くことはしなかった。代わりに右手に更に強く力を込めた。
正面から向き合えば、話をすれば、もしかしたら君が病院に口利きして生き延びることも、君とひっそり生きることもできたかもしれない。
でも私は不器用だから、臆病だから、できやしなかった。
ただ愚かな選択をすることしかできなかった。
君の失った心はきっとあの牡丹みたいな一瞬でしか、救えなかったのだ。
ここで今生きていることに意味があって、生き延びた私が君を救える確実な未来なんてどこにもない。
自分の人生より、君の先に待ち受ける現実を選んだ私を神様は嗤うだろうか。
生きることより、幸せを選んだ私を神様は愚か者だと言うだろうか。
そしたら私は笑って返してやろう。
それが私が一番効率悪く生きる方法だったのだ、と。
「一人で死のうとしたことはごめんなさい。それでも君とこの村の人を巻き込まないためにはこうするしかありませんでした」
君が唐突に首筋に手を当てる。涙の膜が張った瞳は痛そうに歪められた。同じところをなぞると、ぼこぼこした炎症が線状に何本もあった。自傷行為に気づかれてしまったようだ、私は首を振り「もうしていませんよ」と答える。
小屋にいたころ、何度自分の首にペーパーナイフを当てただろう。表面の皮膚だけが切れて、頸動脈までは到達しなかった刃先を見て何度絶望しただろう。死ぬことでさえ逃げだというのに、それすらも出来ないなんて、と自己嫌悪を超越した何かに陥っていた。
少量の血液に濡れたナイフを見ながら私はいつも考えていた。
意味があって生きているはずなのに、時々その意味を忘れてしまいたいと思ってしまう自分は何て醜いのだろう。
君と出会ってその考えは覆された。
正義とは何なのだろう。
代わりに考えるようになったことの一つだった。
君と出会って自分の世界はなんて狭いものだったのだろう、なんて歪んだ正しさだったのだろうと知った。
私は正しいと言われたことは何も疑わずに暮らしてきた。疑ってしまった時点で私の中の正義感は壊れて苦しむと悟っていたから。だから、他人の正しさは自分の正しさとして。不信感は、周りのせいではなく私だけがおかしいのだと一人で背負ってきた。
けれど、透くんは私が疑う気持ちを肯定してくれた。
正義の反対は別の正義と良く言う。表面上ではそんな言葉で片付けられているが、実際は互いに己の正義を押し付け合って傲慢で自分勝手な世界を他人に強要しているだけだ。それならば初めから「正しい」なんて字を使う正義なんてもの、存在しないのかもしれない。
それでも私たちは正義とは何か、考え続けなければいけない。
死ぬほど考え抜いて、時には頭皮から血が出るほど頭を掻きむしって、出た結論はきっと酷く身勝手なものなのだと思う。
貴方の隣で「ボタン」として生きたい。
少なくとも今の私にとっての正義は神に捧げる少女なんかではなく、ボタンとして生きることだった。
誰が文句を言おうと、他の正義を押し付けられようが、揺るがない。
私だけの正義だ。
喉に力を込める。この村の人全員に届くように息を吸って、吸って吸って吸って。
吐き出だした。
「私、生きててよかった」
泣きながら破顔する少女はもう『神に捧げる少女』なんてたいそうな存在ではなかった。
脆くて、臆病で、それでも自分の信念を突き通すことのできる『ボタン』という少女だった。
名前のない少女に名前を贈った青年は気づいているだろうか。
少女を変えたのは自分自身であると。
空虚な私に愛を芽生えさせたのは、君なんだと。
「これは透くんが迎えに来てくれたから気づけたことだよ」
目の前にいる青年もまた、煌めきを纏い常に穏やかな笑みを絶やさない『俳優 相島透』ではなかった。
私の言葉に目頭から大量の雫を零して、顔をあげられないほどに号泣する、不器用で、臆病で、でも誰かの為にこんなにも美しく涙を流せるただの『透くん』だった。
「君に会うまで生きる意味なんて分からなかった。毎日同じ場所で同じことをしていて、それが17年続いたあとに殺されるんだって思いながら生きてきたからさ、貴方がやって来た日は本当に驚いたんだよ」
だからどうか、申し訳ないなんて言わないでほしい。
君が不甲斐ないと思う必要なんて何一つないのだ。
「外の世界に出てから、新しいことをたくさん見れて楽しかった。普通の人が送る普通の生活がどれだけあたたかいのか、どれだけ幸せなのか、普通の日々がどれだけ美しいものなのか知ることができた。けれど同時にそれが守られるために今まで大勢の『神に捧げる少女』が亡くなったことはやっぱり必要なんだと思った」
もしかしたらこれは洗脳なのかもしれない。けれど、もしそうではなく本当に誰かの犠牲の上で幸せが営まれているのだとしたら、と思うと足がすくんだ。
「その職務を放棄した私は後ろめたい気持ちでいっぱいだった。今まで自分が生きてきた意味は誰かの幸せのためだったから、私なんかの幸せのために他の大勢の幸せを犠牲になんて出来ないって寝る前に目をつむると不安に押しつぶされそうだった」
私の手に包まれていた冷たい指先がゆっくりと動く。切り傷のある指先は私の頬を滑る。無造作な前髪から濡羽色の瞳が覗くように見えた。暗くてよく見えなかったけれど、濡れたそれは美しく揺らめいていた。
「けれど、透くんはそんな私も肯定してくれたね」
私は目を瞑ると、そっと顔を寄せた。人生で初めての自分からの接吻だった。柔らかい感触と触れる睫毛のくすぐったさにに幸せを覚える。嗚呼、世界にはまだ私の知らない幸せが沢山あるようだ。
私が照れくささに耐えきれず笑うと、君は信じられないように目を見開きながら私と目を合わせる。
「生きてていいって教えてくれてありがとう。私だけが背負えばいいものを半分背負ってくれてありがとう。自分を犠牲にしてまで私を逃がそうとしてくれてありがとう。花火を一緒にしてくれてありがとう。ここまで迎えに来てくれてありがとう。幸せを願ってくれてありがとう」
また私の目から涙が零れる。言葉一つ一つを噛みしめるように文字を声で縁取っていく。
「私は今この瞬間が幸せで堪らないよ、透くん」
ぐちゃぐちゃだった。顔も声も呂律も全部がぐちゃぐちゃで、到底人に見せられるものではなかった。それでも必死に言葉を紡いだのは全部ぶつけたかったからだ。全部を、私のありったけを、君に知ってほしかった。理解してくれなくていい、ただ君の耳に届くだけでよかった。心を揺さぶらなくていいから、たった一枚の鼓膜を揺らすだけでいい。
「だから死んじゃ駄目だよ、簡単に一緒に死ぬなんて言わないで」
語気が弱まっていくのが自分でも分かる。揺れる声を抑えて何とか最後まで言葉を絞り出す。
「君が願うのと同じように、私も数えきれないほど苦しんできた貴方に幸せになってほしいと願っている。君はまだ生きる権利があるんだから、まだ知らない沢山の幸せに出会えるよきっと」
自分だけ死ぬのはやっぱり卑怯だろうか。そんな言葉を遺して君一人に生きることを託すなんてずるいだろうか。
でもこれだけは譲れなかった。
目の前の青年は私の言葉に肯定も否定もしない。恨めしそうな視線は腹の方に一瞬向けられた後、君は嗚咽交じりの声で泣き崩れた。
潮の匂いよりも花の香りが、夜の月よりも君の後頭部が、瞳に美しく映った。別れが近づいていることがわかった。君が侵食した世界は鳥籠から見えた世界とは何一つ同じではなかった。目に映るものが全て愛おしかった。鼻を擽る君の香りも、掠れた君の声も、触れる指先の冷たさも、全部失いたくなかった。忘れたくなかった。百年後も千年後も生き続けてこのあたたかさを覚えておきたかった。
「俺は、おれは」
君のつむじが持ち上げられる。目が合うと君はもう泣いてはいなかった。
「誰かにこんなに心を揺さぶられるなんて想像したこともなかった」
君が胸のあたりをくしゃりと握りしめる。白いシャツに皺と汚れが付いた。
「俺の全部なんて、少し前の俺ならここで何も言えなかったと思う。全てが空っぽで中身のない自分を全てをあげるなんておこがましくて馬鹿らしいって笑って逃げた。けど、今の俺ならちゃんと向き合える」
君はもう、空っぽではないんだね。よかった、それは……それはよかった。その時、私の大好きな瞳は真っ暗な夜に光を灯した。星よりも煌めきながら、月明かりよりも柔らかく。ほら言っただろう、君はこんなにも綺麗な人間なのだ。私はやっぱり間違えていなかったよ、どれだけ自分で醜いと言い聞かせたところで私には分かるのだ。
青年はくしゃりと笑う。
それは何度も練習した万人受けする笑顔ではない、君が失っていた子供のような笑い方だった。
「ボタンがいてくれてよかった」
時が止まったような感覚に襲われる。流れていく雲は遅くて、海の波は中々打ち消されなくて、先ほどまで鳴いていた蝉も聞こえない。止まった世界では、君だけが一人取り残されたように話続ける。
「ボタンと手を繋いで走ったときに、苦しかったけれど不思議と心は満たされていたんだ。
今までひとりぼっちで走り続けてきた俺にとって、誰かの手を引くなんて有り得なかったから。ただ横を見たときに苦しそうだけれど俺と同じように満足そうに楽しそうに走る君を見て、俺はもう一人じゃないんだって思えたんだ」
「……うん」
「同時にこの人を失いたくないとも思った。永遠なんかないって子供じゃないから分かってるけど、それでもボタンがいつまでも隣にいる未来を何度も想像してしまった」
私もだよ。私もあの日から隣に貴方がいると目の前の日差しが二乗されたように世界が眩しかった。
「俺は正直、まだ明日からこの世にボタンがいないことを受け止めきれてないよ。それに生より俺を選んだ君を許したくない」
整えられた眉がぴくりと震える。私は僅かな変化を見逃すことはできなかった。君が私の手を取る。夏の夜の生ぬるい風が二人の間を通り抜け、私の髪を靡かせる。
「でも、それがボタンが俺にくれた不器用で臆病な愛だから、俺がここまで走って来たことは間違いじゃなかった」
君は笑った。きっとそれは解放を意味していた。空っぽだった君はもうそこにはいない。
私は彼の背中にそっと手を回した。あたたかい、私たちはまだ生きている。お互いがすぐ傍にいる。幸せだ、本当に夢を見ているような現実だった。
視線が噛み合う。彼の右手が頭に左手が腰に回されて強く抱き寄せられた。熱が全身に回る、頬を掠める筋張った首は少し熱い。
「好きだ」
「私も好きです」
「愛してるなんて言葉では伝えきれないくらいに、ボタンのことを想ってる」
その言葉の送り主が透くんだということが幸せで、愛おしくて、愛で溺れて死んでしまいそうだ。
ただ私たちには時間が足りなかっただけなのだ。
それ以外は全てそこにあった。
お互いたくさん傷ついて穴だらけで欠けたものばかりだったけれど、出会ってしまえば欠けていたものはすぐに埋まった。
欠陥があったことすらも忘れてしまうほど、ただ幸せで満たされていた。
これが私たちの出会う意味だったのかもしれない。
この世に神様なんていないかもしれないけれど、運命も永遠も存在しないけれど、
もしそうなら、
それは、凄く幸せなことだと思った。
「……じゃあね」
「うん……またね」
お互い最後の言葉を交わすと、名残惜しさに唇を重ねた。幸せで満たされると同時にこれが最期のキスだと悟った。肺胞全部が二酸化炭素でいっぱいになるまで唇をくっつけて、右頬に感じる睫毛を確かめて、回した腕からの熱を忘れまいとぎゅっと力を込めていた。
酸素が足りなくて私がよろめきかけて、二人の体はようやく離れる。手を繋いだまま顔を見たら気恥ずかしくて思わず笑ってしまった。
笑っているのに涙が止まらなくて、ぼろぼろと雫を零すと彼は愛おしさに満ちた眼差しでまた私を引き寄せた。大丈夫だよと何度も耳元で言ってくれているのにその声も段々と聞こえなくなってくる。不安から私は更に涙腺を緩めて嗚咽した。
「俺はボタンと反対の道を歩かなきゃいけない。頼まれたからには生きて幸せになって、ボタンのことを忘れなきゃいけない」
君の言葉は夢見心地な私を現実に引き戻すには十分だった。君の表情は分からない。君の輪郭は涙の膜でぼやけている。
「真っすぐ前に進もう。もう進みだしたら振り返らない。声も出さないし、泣くのも禁止。ただ前だけを見て歩く」
決意したのは私なのに、この震える足はどうして私のものなのだろう。
揺れる瞳に映る貴方への想いでまだ生きたいと思ってしまうのは罪だろうか。
色々な思いが駆け巡って、それからくっつけられた額との距離は君の長い睫毛を濡らす。
「大丈夫だよ、俺はボタンの強さをもう知ってる」
その言葉をしっかり受け止めてからゆっくりと自分の心に落とし込める。私なら大丈夫、私ならできる。うん、だってもう17年も耐えて生きてきたんだ。きっと、きっと私なら。
目頭をごしごしと擦ると、もう一度真っすぐ澄んだ瞳を見つめた。
「うん、私たちなら大丈夫だ」
私が破顔すると、君は驚いたように目を見開いてから目じりを下げた。
後ろを振り向くとそこはどこにでもいけそうな広い海だった。背後からスニーカーが擦れる音がして君も後ろを向いたことが分かった。一歩、一歩ゆっくりと歩みを進める。
余命残り三十分
私は今、テトラポッドの先まで来ていた。もう君が地面を蹴る音も聞こえない。
苔の生えたコンクリートの塊はとても不安定で、踏みしめていなければ今すぐにでも深海に吸い込まれてしまいそうだった。
深呼吸をして、目を閉じる。私はようやく暗黒に足を踏み入れた。
体が急速に冷やされて力の抜けた体は浮き沈みを繰り返しながら、しかし確実に海底へと引きずり込まれていく。遠のく意識の中、何故だかさっき聞こえなかった君の言葉が段々とボリュームを上げて蘇る。
大丈夫だよ
苦しいのに、辛いのに、もう死んでしまうというのに、私は君の声が脳裏で響く度に微笑みを湛えた。
幸せだったな。
これでいいのだ、これがいいのだ。
四肢に力が入らなくなり、そのうち意識を失った。そうして私は17年の生涯を終えたのだった。
君がいなくなってから三度目の夏を迎えた。君が迷惑だと言っていた蝉はもう散りかけの手持ち花火みたいにうるさく、それでいて眩く生きていた。
俺は今、再びあの村に来ている。
「透さぁ、こんなとこに来て一体何がしたいんだよ」
「まぁまぁ」
隣で文句を垂れながらもここまでついてきてくれたのは同期で俳優の横持隼人だった。横持とはあの映画で共演して以来、話すようになり、人嫌いの俺に初めてできた親友だった。スタイルのいい体系はカーゴパンツによって隠れてしまっているが、彼の身長は田舎ではそうそう見ない高さのようですれ違う人の視線が痛い。時折色めき立つ声や黄色い声援、中にはカメラを向けられることもあるが、俺があまりにも気にしない影響か最初はソワソワと落ち着きのなかった彼も人目を気にせずに歩くようになった。
砂利道で足元をとられながらも、俺たちは歩く。目的地はないまま、当てもなくふらついていた。
「なぁ、透。お前変装もなしにこんなに注目されて気持ち悪くねぇの?せめてサングラスとか、マスクとか」
「別にやましいことする訳じゃないし、俺は気にしないよ」
「だったらいいけど……お前って案外神経図太いんだな」
「ネットにあげられて拡散されて散々叩かれてもまた芸能界戻ってくるぐらいにはね」
「……その覚悟にはオレだって脱帽だよ」
時は三年前に遡る。ある夜、『神に捧げる少女』であった者の死体が海辺で、それはとても綺麗に爆ぜた。その後、村の住民は砂浜近辺で泣き崩れてその場でうずくまった男を発見し病院に連れていく。男は病院で俳優の相島透だと判明したが、無断で疾走していたこと、村の禁忌とされる少女と関わっていたことが分かると、一時は相島透の俳優生命は終わったとまで揶揄される事態となった。相島透はその後の調査によって、謎の少女の死に関わっていたものの殺人をした訳ではないということが判明し、無実が認められた。しかしそれに関連し、村の儀式である『神に捧げる少女』が全国に大々的に報道されると各地から残酷すぎるなどの非難囂囂の嵐となり、住民の反対も甲斐もなく儀式は廃止となった。
儀式を失った村は安寧を保てなくなり消滅し、相島透も戻ってこない。
誰もが疑いもせずそう思っていたのだ。
しかし、その一年後相島透は芸能界に何事もなかったかのように復帰する。
まるでその記憶丸ごと忘れてしまったかのように。
更に相島透は元の天然王子様キャラから一変し、完璧スマイルだけではなく様々な表情を見せるようになった。プライベートな話は依然無く、私生活はミステリアスなままだがファンにとってはそれがまた心を擽られるとのことで評判は上々だった。また以前にはなかった孤児や子供を支援するボランティアや寄付活動なども積極的に取り組む姿がネットに掲載されると世界中から多くの称賛を得た。初めこそ視聴者や関係者は戸惑ったものの、帰ってきた相島透は以前より更に神々しくなったと、炎上どころか逆に人気に火が付き、今ではテレビCMにも数多く出演する本物の人気俳優となったのだった。
一方村は、
「ここは変わらないな」
「あぁ、奉納祭なんてやらなくても祟りなんか起きやしないよ。古い伝統を守る言い訳だったのかも、それか神社の利益か」
「罰当たりなこと言うなぁ」
相変わらずの街並みを二人で眺めながらゆっくり息を吐いた。澄んだ空気も、ガードレールの下に根を生やしている彼岸花もそのままで、何も変わらないこの街。言い伝えなんて結局信仰心によって雁字搦めになった倫理観故のものだったのだろう。
「神に捧げる少女」のいなくなった街に大災害は起こることなく、残ったのはただ一人少女が死んだという事実だけだった。
「おー!!」
相島が突然声をあげてふらっと道から外れる。俺が首を傾げると、彼は嬉しそうな表情で振り向いた。
「たません売ってるんだけど!!オレ、たません大好きなんだよね」
「今時珍しいな」
「んね、俺も久々に見たよ。俺らが小さい時には祭りとかの定番だったのに全然見なくなった」
「そうなのか?……じゃあ逆に最近の祭りって何売ってるんだろ」
「んー、いちご飴とかワッフルとか?トッポギとかもたまにあるよね」
これがジェネーレーションギャップというやつか。聞き慣れない単語に目眩がする。変わらないと思っていたが、三年という月日は意外と大きかった。24だった俺は今や27歳になり、今や立派なアラサーという訳だ。これから益々一日一日が短くなって、体も動かなくなって、頭も回らなくなって。
あぁ、考えるだけで憂鬱になる。
「何険しい顔してんだ、お前」
ぽんと肩に手を乗せた横持によって意識が引き戻される。目の前の整った顔は怪訝そうに歪められていた。光を溢れんばかりに取り込んだ瞳には老いへの不安と絶望によって表情管理を忘れたアラサー俳優が映り込んでいる。楽観的に見えて実は何でも知っていそうな相島の前ではこの感情も見透かされてしまいそうだ。
あまりに深すぎるその瞳に、俺の口からは不意にほろりと本音が零れていた。
「俺、年を取るのが怖いよ」
「急だな」
彼はいつの間にか買ったらしいたませんを一つ押し付けてくる。一口齧ると、旨味たっぷりの中濃ソースと白身のぷりっとした食感が口いっぱいに広がった。彼も頬張ると美味いと言って笑った。それから君と歩いたあぜ道を足を踏みしめながら歩いた。踏みしめたのは普通に歩いてしまったら自分の中にある何かが決壊してしまいそうだったからだ。何かというのはまだ分からない。悲しみなのか、怒りなのか、寂しさなのか、苦しみなのか。でも今はまだ気づくべきではないきがして、泣くのを隠すときに唇を噛みしめ、上を向くのと同じように俺は君と歩いたこの道一歩一歩をゆっくりと進む。
君の記憶には全て鍵を掛けた。
「私のことは忘れてください」なんて言葉がなければ俺は君が死んでから一日も欠かすことなく、ボタンのことを思い出しただろう。しかし、あんな約束をしてしまったから無いものにせざるを得なかった。夏のひと時の思い出は熱にやられた幻だったことにして、何事もなかったように俳優活動に専念して、誰かとまた出会って結婚して、晩年はどこか静かな山奥に隠居して死のうと思っていた。
それだというのに、俺は懲りずにまたここに来てしまった。
どこに行っても、何をしていていても、あの夏のことが頭を過るのだ。忘れようとすればするほど、少女の存在は夢だと思い込もうとすればするほど。
しかし、忘れようとする努力をしなくてもいつか、君のことを忘れてしまう日が来るかもしれない。
俺の記憶からいなくなれば、『神に捧げる少女』を覚えている人はいても、ボタンという少女を憶えていられる人はもういないだろう。
ふとそう思ったときに、年を重ねるのが怖いと感じた。馬鹿らしいだろうか、いつか忘れるのは当たり前だというのに。君は忘れることを望んでいたというのに。
彼はそんな俺の考えを悟ってか、母親が子供に向かって優しく叱るときのような、柔らかな微笑を浮かべた。
「老いるから、それでも忘れられないくらいあの子の存在が透に染みついているから、お前は色んな顔をできてるんじゃないの?」
君のことを完璧に忘れていれば、今の相島透はないだろう。
そう諭されて初めて、俺は溢れそうなこの感情が言葉では表すことのできない複雑なものだと気が付いた。
彼は頬にたませんをぱんぱんに詰めたまま突然笑った。
「不老不死まで手に入れたら燃え尽き症候群にでもなってそうだ」
「そうだな」
「まぁでもお前顔がいいから、不老不死になったらファンがありがたがるよ。そのうち神として崇められそうじゃね?」
「そうなったら神社でも作って生計を建てようかな」
「この町でそんなこというなんて度胸ありすぎなんだよ」
横持が笑いを堪えきれず、周りを気にしながら失笑する。ここで某神社の神主とでも鉢合わせたら俺たちはぶっ殺される自信があった。まぁ前提として迷信で金儲けするなんて許されるものではないのだが。
足元に転がっていた石ころを蹴る。遠くに飛んで行ったそれを見つめながら、ふと君と過ごした最後の海を思い出した。
あの時は必死すぎて涙で滲んで碌に思い出すことのできないあの景色をもう一度見れば、この気持ちに整理はつくだろうか。
「横持」
ん?と首を傾げた端正な顔に俺は笑いかける。
突然のことに気味悪がる彼に、俺は更に口角を上げる。
「行きたいところがあるんだ」
彼の目が見開かれた。真っ黒な瞳孔は戸惑うように揺れたあと、蕩けるように形を柔らかく変えて細められた。
「透変わったね」
その声色はどこか嬉しそうだった。きっと彼も彼なりに心配をしてくれていたのだろう。そうだ、彼は憔悴しきって食事もまともに取れなかった俺を、見捨てずに引き上げてくれた男だ。自分の家に連れ帰って食事を取らせて、一日中意味もなく泣きはらしても何も聞かずにただくだらない話をして傍にいてくれた親友なのだ。
俺の瞳がまた一つ、色を取り戻す。
「三年前、初めて自分を変えたいと思えた。もっと自分としての人生を歩みたいと思えた」
月下美人の甘ったるい匂いが風に乗って流れてきた気がした。夜でもないのに、夏風に溶け込んだそれは息を切らしながらそれでも足を止めなかった夏を鮮麗に蘇らせる。
「たった今、変われたような気がする。少しずつだけど、ようやくその一歩を踏み出せた気がするんだ」
夏がまた一つ、香りを憶えた。
海岸線を目指して丘を下ると、そこは偶然にも最期にボタンが爆ぜた場所だった。
「ここって」
横持が何か言いかけたあと、珍しく動揺しながら俺の方を見る。マスメディアに報道されまくったせいで、ここはほぼ聖地化していた。立ち入り禁止線の周りには、弔う気持ちもない癖に律儀に花が添えられている。俺は気にしてないことを伝えるために首を振った。
「いいんだ、俺がここに来たいと思ったのは横持に聞きたいことがあったからだから」
「聞きたいことって?」
「神に捧げる少女についてどう思う?」
氷河期に生きていたライオンの死体はまるで眠っているかのように、それは綺麗な状態で現代で発見されたらしい。
彼はまさに氷河期の生き残りだった。
まるで地球に隕石が落ちた瞬間みたいな顔をして、そのまま固まる。
一度呼吸をすれば肺が凍りつく。
そんな空気だった。
一つでも言葉を間違えれば首が吹き飛ぶ。
そんな空気でもあった。
俺は別にどんなことを言われても良かった。でも彼はそこを気にするらしい。その原因が鬼気迫る俺の表情だったら申し訳ない。
彼は暫くの間、沈黙を貫いた後慎重に言葉を選びながら言う。
「俺では公正な判断ができないよ。だって透の背景を全てではなくとも多少なりには知っているから」
横持らしい誰も傷つけない言葉だった。俺はそれに一種の感心を抱きながら、おどけたように言う。
「お前、案外真面目なんだな」
「案外ってなんだよー、オレはいつでも真面目ちゃんなのに」
「前言撤回、そういえば横持は虚言癖なのを忘れてた」
「おいー、オレは誠実ジェントルマンキャラで売ってるのにー」
なんだ誠実ジェントルマンキャラって。俺が苦虫を踏み潰したような顔で彼を見ると、自信満々にこちらを見てきた。しかし、その顔がふっと真顔に戻ると落ち着いたトーンで話し始めた。
「ただ、お前から話を聞くまでは自分勝手な奴だと思ってた。俺はトロッコ問題とかでも5人助かるんだったら1人の犠牲くらいどうってことないと思っちゃう人間だから、村の言い伝えは馬鹿らしいと思ったけど、でもその子が一人犠牲になるだけで村での争いとか心の健康とかが保たれるならそれでいいんじゃない?って考えてた」
改めて彼はできた人間だと思った。普段は冗談交じりの軽快なトークが持ち味の癖に、時に思慮深い冷静な意見も述べることができる。私情に偏ることなくきちんと俯瞰して物事を捉えているので、俺としても忌憚のないそれが有難かった。
俺が真顔でその言葉を受け止めてしまったあまり、彼は俺が傷ついたと誤解をしたらしい。慌てて両手を振って否定する。
「ごめんな、俺はこう考えるけどお前は違うんだよな」
彼はただ一般論を述べただけだ。それなのに俺への心のケアを欠かさない。そういうところが面倒見がいいというか、女性にもてる要因だと思った。ただ相手は俺なのだ。彼の性的対象が俺だったら話は別だが、横持がストレートなのは知っている。もう何年の付き合いになる、そろそろ気を抜いてくれたっていいのにという言葉は恐らく俺が言えることではないだろう。俺は気を使いすぎる彼に俺は何とも言えない顔で首を振る。
「いや横持は正しいよ。普通なら誰だってそう考える」
何が正しいのか、何が間違えなのかは立場によって大きく変わってくる。
そして大抵の場合、背景も知らぬまま流動的に多数派の意見に流されるというのが正しさというのもだ。
ネットで見たことを、真実だと鵜吞みにして。ついたいいねとコメントに踊らされて。「何が正しいのか」より先に、「誰が愚者か」が推測されていく。生きている間もそうだったが、死後も尚、歪んだ正しさが君の周りには蔓延っていた。
更に君の存在は、村の人たちにとっては「よくもやってくれたな、祭事のときにとっとと死ねばよかったのに」であるし、
神社の関係者にとっては「お前のせいで人生滅茶苦茶だ」の一言に尽きるであろう。
世界は一夜にして君を悪者に仕立て上げようとした。
ただ君にとっては違う。
俺と君にだけは違ったんだ。
俺は憂いを帯びた目をすると、唇をゆっくり湿らせる。中々言葉が出てこなかったのは、綺麗に舗装されたコンクリートの堤防が欠けていたからだ。3年前同じ場所で見た苦しそうな顔の君と、口論になって腕を引っ張り合ったときに出来た痕だった。誰かとあれだけの言い合いをしたのは最初で最後だ。
君は俺が今から言うことを許してくれるかい。
これを言ってしまえばきっと世界は全て敵になるんだ。
心の中で語りかける。記憶の片鱗にいる君は首を縦にも横にも振らない。代わりに笑ってみせた。
そうだ、二人で十分だった。二人いれば例え世界は変わらなくても、幸せになる方法は見つけ出すことができたんだ。
だから俺は破顔した。複雑なことは忘れて、気の向くままに笑ってやった。
「ただ、正しさが一つだけだとは思わないんだ」
あの時、結局何が正しかったのかなんて誰にも分かりやしなかった。
傍から見れば彼女が生贄となってこの村の平穏が保たれたと錯覚するのが正しかったのかもしれない。俺は彼女と初めから接触するべきではなかったのかもしれない。
けれど、あの時
ボタンがあまりにも屈託なく笑ったから。
俺は間違えてないと思えた。
曲がりなりにも見つけた自分なりの正義を俺は、俺たちはこれからも肯定したいと思えたんだ。
いつだって俺の世界の真ん中ではボタンが大の字になって寝転がっている。狭い小屋で、窮屈な姿勢で閉じこもっている少女なんかじゃない。白地に鮮やかな朝顔を咲かせた浴衣で、一生懸命水鏡と睨めっこしながら結った髪の毛を揺らして、頬を染めて、
何度も何度も、俺から貰った名前を宝物のように舌で丁寧に転がす少女が腹をよじりながら笑っているのだ。
海藻の絡みついたテトラポッドを撫でると、体温のようなあたたかさが伝わる。昼間直射日光を浴びた石が、まだ熱を帯びていた。君と肩を寄せ合って手持ち花火をした夜を思い出す。少し生ぬるい夏の空気と、隣にあったぬくもりがボタンとの思い出を彷彿とさせた。
夕陽が山に吸い込まれて手元さえよく見えなくなる中、灰色の石に一つ黒い染みが浮かび上がった。
「まだ、少しだけ、忘れられないかも……」
忘れようとした、もう蓋をして二度と思い出すものかと思った記憶がじわじわと体を侵食する。
あぜ道を歩いていたときに決壊しそうだった感情が溢れ出す。
忘れたくない、忘れられない。忘れるものか。
君との約束を破ってしまうことになる。遂行したかったのに、君の願いならば全て忘れてしまうことも苦でないと思ったのに、ここに来たいと心が叫んだ。
もうその衝動から俺の心は変わっていたのだろう。
なぁ。
俺、君との日々を思い出すことより、君への想いをなかったことにする方が何百倍もしんどいみたいなんだ。
段々、吐き出す息の量が多くなる。吸い込む酸素が足りない。
苦しいけれど、涙が止まらないくらい貴方が好きだった。
君がいない朝を俺は知りたくなかった。ずっとずっと隣で、そうだ、ただ隣にいるだけでよかった。
君の呼吸が肩から聞こえる朝を、迎えたかった。
「俺は……おれは……おれは……っ」
ボタンの未来を守れなかった。
そう言いかけて、息が足りずに体を折りたたんだ。
瞼が痙攣する。歪んだ視界の中、黒い海の奥で俺は光るものを見つけた。虚空に手を伸ばす。震える指先が涙で滲んで二重に見える。
光を掴んだ瞬間、全身を震わせるほど大きな音が轟く。
掴んだはずの光は遥か彼方まで上昇して散った。
花火だった。
俺の両手からは火花が溢れだした。
「あぁ、そっか……ボタン笑ってたなぁ」
二人でボロボロになりながら逃げだした夏祭りの宵、笑いながら走った。背負い続けた責任を捨てて、出会って3日の俺の手を取ってくれた。
劣等感と自己嫌悪でぐちゃぐちゃだった俺の肩を抱きしめてくれた。
何度も泣いた、お互いの心臓を曝け出すように弱い部分も見せあった。
何度も笑った、泣きたくなるくらいにあたたかい感情は存在するんだと思った。
ボタンと過ごしたすべてが、過去に囚われる枷とではなく、いつまでも忘れたくない一瞬の瞬きとして俺の中で未だに残り続けている。
それがまた、君がいた時には知ることができなかったまた別の形の幸せだった。
『今日の月は綺麗ですね』
ふとボタンが笑いながら言った日を思い出した。軽々しく言ったことが許せなくて、接吻してやると君は突然のことに酷く狼狽えながらも耳を真っ赤にしていて。思い出の中の君があまりに愛おしくて思わずはにかむ。
月を見上げた。今日はひと際大きな月だった。少しオレンジ色の混じったそれは暗い海を淡く照らしていた。LEDよりも白熱電球よりも弱く、けれど柔らかい光に俺は思わず感嘆の息を漏らす。
「月明かりってこんなにも綺麗だったんだな」
小さい頃、仕事帰りに見上げた空が重なる。すれ違う酔っ払い、居酒屋の煙でぼやけた月の輪郭、きつい香水の匂いと媚びるような視線、いつからかそれが当たり前だった。
今、目の前に広がるのは涙で滲む可惜夜だった。一生明けなくてもいい、この月の下をただ真っすぐに歩いていたい、そう願えるほど美しい夜だった。
「……俺の知ってる夜はこんなはずじゃなかったのに」
脚に力が入らなくてがくがくと震わせたあと、情けなく崩れ落ちる。また、熱いものが込み上げてくる。泣かないように必死に唇を嚙みしめるが鼻腔に込み上げる熱に耐えられず、俺は大人げなく嗚咽を漏らした。
なんでいつの間にかこんなにも優しい夜になっていたのだろう。
「ボタンが俺に残してくれたものはこんなにも素敵なものなんだな。本当に立派だよ君は……ほんとうに……本当にさぁ」
君が傍にいなくたって愛すことを辞めることはできなかった。
こんなに美しい世界を遺してくれた貴方を忘れてしまうなんて出来なかった。
人間、愛という見えない概念に囚われがちだけど、愛してはじめて分かることが本当は大切にするべきものなんだろうな。
夜更けの海は漆黒ではないのとか、花火の火薬の匂いとか、笑ったときに右だけ下がりがちな目尻とか、澄んだ空気で見上げる月はこんなにも綺麗なこととか。
きっと君を愛さなければ生きているうちに知らなかったことがこれ以上に沢山沢山あって、君を愛した世界では綺麗なものが溢れていた。
君の世界もそうだったらいいなと思う。
愛した世界で、愛された世界で、愛で照らされるものが一つでも多く君の世界に満ち溢れていたら、俺が君の隣にいたことには意味があったのだと思う。
男泣きする俺に狼狽しながらも、背中にそっと手を添えてくれる友のぬくもりに一気に力が抜ける。
「大丈夫だよ、透」
それだけ言って、後は何も言及せずに背中をさすり続ける横持に俺は甘えた。ボタン、人ってこんなにいい奴もいたんだな。こうやって人の弱みに漬け込むこともせずに黙って隣にいてくれる人だっているんだな。
痙攣する横隔膜に涙と鼻水にまみれた汚い掌。みすぼらしくて滑稽で、こんな姿で人気俳優だなんてとてもじゃないけれど言い切れない。溢れる涙をどうにかして抑えようと目を瞑る。けれど、瞼の裏のその先にいたのは貴方だった。
「ボタン……ボタン……ぼた、ん……」
今も、名前を呼べばあの長い睫毛を震わせて、輝く瞳に沢山の色を蓄えて、「どうしたんですか?」と小首を傾げながら近づいてくる君がすぐ傍にいるような気がする。
俺は、あの時から変わりたいとずっと願ってきた。
周りの人を大切にできない俺は醜い存在だって、だからいつか人を大切にできるようになりたいって。
母さんとは縁を切ったよ。もう会わないと約束して、俺はようやく透明な鎖を断ち切ることができた。
でも人間そう簡単には変われなくて、信じれる人なんて片手で治まるくらいで、そんな俺が俳優なんて職業に就いてていいのかなって何度も疑った。
それでも、大切にしたいと思える人は増えたよ。すぐ傍にいる男に視線をやる。優しい目をした男はその一人だった。
君が歩み寄ることを教えてくれたから、俺は今一人じゃないんだよ。俺とボタンだけだった世界にいつの間にか人が増えていくんだ。
これからもどんどん、どんどん増えていって、いつの間にか孤独だった自分を忘れてしまうくらい人のあたたかさを知るんだ。
「ボタン、君を思い出すだけで俺はこんなにもあったかい気持ちになれるんだ。やっぱり必要なんだ、君にはこれからも俺の真ん中にいてもらわなきゃ、困るんだ」
相島透は情けなくて、不甲斐なくて、臆病で、後悔ばかりの男だ。
それでも君を誰よりも想っていることに変わりはなかった。これからも、変わることはないだろう。
「……愛しているよ」
言葉にしきれない気持ちの一つが溢れて、俺は息を吐いたまま暫く呼吸ができなかった。
たんぽぽが揺れ、陸風が背中を撫でる。涙はもう出なかった。俺は再び足に力を込めて立ち上がる。痙攣していた口角を持ち上げると、不思議と震えは治まった。横持に「大丈夫」と一言告げると、彼はほっとしたように肩の力を抜いた。それからまた元通りの会話をする。今日の宿はどうしよう、予約してなかったのかよ。ありふれた会話をして、沢山笑った。1時間ほど潮風に吹かれた後、俺たちは今日の宿に向かうことにした。海に背を向けて、進もうとした足を止める。俺はゆっくりと振り返った。
目を細めながら小さく手を振る。
きっとまた来るから。また来るときには、君との思い出を笑って話せるようになっているから。どうかそれまで待っていてほしい。
「愛してる」
静かな声で語りかけると、いるはずのない少女が嬉しそうに頷いた幻影が見えて、俺はまた破顔した。
「あいしてる」
牡丹の火花が、鮮やかに爆ぜた。