あやかしの王と甘味婚 ~婚約破棄された甘味令嬢は、朱雀王に嫁入りする~

「おうおう、人間くさいな、この店は!」

 いきなり入ってきたのは、鬼の面をつけた三人の大柄な男たちだった。
 口元の開いた面の下で、鼻がひくひくと動く。
 角と牙がついた面は(いか)つく恐ろしげで、寧々子はびくりとした。

「何か食い物を寄越せ」
「ここは食い物屋だろう?」

 口々に勝手なことを言う男たちの腰には、刃物らしきものがある。

「な、何?」

 怯える寧々子(ねねこ)をかばうように蒼火(そうび)が前に出る。

「おまえたち、異界から勝手に来た結界破りだな」
「なんだ、このガキ」
「失せろ」

 ぽっと青い炎が空中に浮いたかと思うと、銃弾のように男たちに向かって放たれた。

「あちちっ!!」

 たまらず男たちが店の外へと逃げ出す。

「何するんだよ! 俺たちは結界破りじゃねえ!!」
「このとおり人間の姿に化けているし、面もかぶってるだろ!」

 地べたに転がり、着物についた火を消しながら男たちが叫ぶ。
 蒼火が冷ややかに男たちを見下した。

「じゃあ、許可証を出せ」
「は?」
朱雀(すざく)国に居住を許された者には在留許可証を出している。持っていないのであれば、おまえたちは不正な手段で入国した結界破りと見なす」

 男たちが顔を見合わせる。

「他の境国ではどうか知らんが、ウチでは王がちゃんと仕切っているんだ」
「知るか!」
「俺たちは俺たちの好きにするんだよ!」

 男たちが腰紐からするっと武器を抜いた。

「蒼火さん!!」

 明らかに体格で圧倒する男たちが攻撃姿勢を取っている。
 寧々子はどうしたらいいかわからず、おろおろした。

「僕の後ろにいてください。大丈夫ですよ、こんな奴ら。それに、この騒ぎを聞きつけて火鳥(ひとり)組がすぐ来てくれますよ」

 蒼火は悠然とした態度を崩さない。
 なぜそんなに余裕があるのか、寧々子には理解できなかった。
 男たちは今にも飛びかかってきそうだ。

「おまえたち、何をしている!!」

 よく通る声が響いた。

「ほら、火鳥組が――」

 そう言いかけた蒼火がぽかんと口を開けた。

「蒼火! おまえ何をしている!」

 毛皮のついたマントをはためかせて駆けつけたのは、黄金色の髪をなびかせた蘇芳(すおう)だった。
 屋敷内では着物だったが、今の蘇芳はマントの下に軍服のような洋装をしている。

「えっ、なんで蘇芳様が――」
「火鳥組の見回りを手伝っているんだ。手が足りないらしくてな」

 蘇芳がじろりと鬼の面をつけた男たちを睨めつける。
 背丈は男たちと変わらないが蘇芳は細身で、体の厚みが全然違う。
 寧々子はハラハラと見守ったが、蘇芳はまるで動揺した様子がない。
 それどころか口の端に笑みが浮かんでいる。

「ふん、一応人に化けられるのか。結界破りのくせにこしゃくな」

 男たちがじりっと後ずさりをする。

「こいつ……やばい、朱雀王だ」
「王がなんだって言うんだ! 同じあやかしだろ!!」

 男たちは面を投げ捨てた。

「あっ……」

 男たちの体が膨れ上がったかと思うと、一気に体が大きくなる。
 ザンバラ髪が伸び、頭部には日本の角が生え、口からは牙が覗く。

「鬼……!」
「それが本性か」

 蘇芳が不敵に笑う。
 バサリという音とともに、その背中に大きな翼が生えた。
 蘇芳の背後に現れた翼は、髪と同じ金に赤が混ざった美しい色をしていた。

(なんて……美しいの……)

 寧々子は息を呑んだ。
 太陽が顕現したかのように、煌びやかに輝く羽に目を奪われる。

(朱雀……伝説上の四神がここにいる……!!)

 ばさりと大きく翼を羽ばたかせると、矢のように羽が飛ぶ。

「ぎゃっ!!」

 羽はまるで刃物のように、鬼たちの屈強な体に突き刺さった。

「あっ……」

 突き刺さった羽が炎に変わる。

「ぎゃあああああ!!」

 鬼たちの体はあっという間に炎に包まれ、塵となって消えた。
 いつの間にか集まった民たちから、わっと歓声が上がる。

「さすが蘇芳様!!」

 にこやかに手を上げて応えると、蘇芳は店内に入ってきた。
 背中の翼は消え去っている。

「大丈夫か、蒼火」
「ええ。すぐ蘇芳様が来てくれたので」
「ん? そっちは――」

 蘇芳が目を向けてきたので、寧々子はびくっとした。

(どうしよう、怒られる!!)

 蘇芳(すおう)に見つめられ、寧々子(ねねこ)は体をすくませた。

(こっそり町に出たのがバレてしまった!!)

 だが、蘇芳から返ってきたのは、安心させるような優しい笑みだった。

「三毛猫の化け面か。可愛いな」
「えっ……」

 寧々子は慌てて顔に手をやった。
 すっかり馴染んでしまって忘れていたが、猫の化け面をかぶっていたことを思い出す。

(そっか! お面をかぶっているから気づかれていないんだ!)

 安堵しつつも、寧々子はうつむき加減になった。
 声や仕草でバレないとも限らない。

「ど、どうも……」
「怖かっただろう。怪我はないか?」
「は、はいいっ……」

 蘇芳が気遣うように顔を近づけてきたので、修三(しゅうぞう)顔負けの小声になってしまう。

「そうか、よかった」

 輝くような蘇芳の笑顔に、寧々子は呆然とした。

(笑うと……こんなに可愛らしく見えるんだ……)

 寧々子が屋敷で見た蘇芳は、冷ややかで感情のない能面のような顔をしていた。
 優しい方だといくら他人に言われても実感できなかった。

 だが、目の前で穏やかな笑みを浮かべている蘇芳は、同一人物とは思えないほどリラックスして見える。

(こんな屈託のない顔をなさるのね……)
(ああ、変わらない。十年前と――)
(あのときも安心させるように笑ってくれていた)
(やっぱり蘇芳だ……)

「見ない顔だな、猫娘。名前は?」
「ええっ、あっ、ね――」

 寧々子、と本名を言いかけて慌てて口を閉じた。
 かたわらで蒼火(そうび)が目を剥いている。

 必死で目配せしてくる蒼火に、寧々子は軽くうなずいてみせた。
 バレないように振る舞わなくては。

「ね、猫又のミケです……」

 適当なあやかし名と名前を名乗ってしまう。

(ちょっとそのまますぎたかな……)

 ドキドキして蘇芳を見やると、ぱっと笑顔になった。

「ミケか! 可愛い名前だな」
「ど、どうも……」

 ホッとしつつも、寧々子は複雑な気分だった。

(こんなに近くで話しているのに、全然私だと気づかないのね……)
(お面をかぶっているからしょうがないかもしれないけれど)
(本当に私に興味がないんだわ……)

 わかっていたことだが、気持ちが沈む。
 寧々子の気も知らず、蘇芳が蒼火に楽しげに話しかける。

「おまえの友達か? こんなに可愛らしい友人がいるなんて知らなかったぞ」
「え、ええ、そうなんです。人間界から来たばっかりで……な?」

 蒼火が話を合わせてくれたので、寧々子はこくこくうなずいた。

「まだ申請中で正式な認定書はないけど……」
「そうなのか。道理で見覚えがないと思った。すまないな。警備の仕事に追われ、書類仕事が後回しになってしまっている」
「大丈夫ですよ! 認定待ちでも朱雀国には住めますし!」

 蒼火が必死で事情を寧々子にわかるように説明してくれる。

(この国に住むには王の許可が必要なのね。でも、審査が追いつかなくて、認定待ちの人たちもいるってことか……)
(警備の仕事もあるし、王様って本当に忙しいのね)
(そりゃあ、私のことなんか(かえり)みないはずだわ)
(だって、望んだ結婚じゃないもの……)

 寧々子はしょんぼりうつむいた。

「もしかして、デート中だったか?」

 蘇芳の言葉に、蒼火と寧々子は飛び上がらんばかりに驚いた。

「ち、違いますよ! ね……ミケを案内していただけです!」
「照れるな。おまえがミケを気に入っているのは見ればわかる」

 蒼火の慌てっぷりに、蘇芳がクスクス笑う。
 蒼火が気まずそうにそっぽを向いた。
 蘇芳(すおう)がちらりとテーブルに目をやった。

「甘味を食べていたのか。おまえたちもせっかくの(いこ)いの時間を台無しにされたな」

 修三(しゅうぞう)がおずおずと歩みでた。

「あ、あの、王様。助けてくれてありがとうございます。よかったら、お礼にあんみつはいかがですか? お嬢様たちも」
「えっ、いいの?」

 寧々子(ねねこ)の言葉に、修三が笑顔でうなずいた。

「試作中なので、ぜひ食べてみてください。三池屋は喫茶がなかったので、店で食べられるメニューをいろいろ考案中なんです」

 修三がいそいそと新しいお茶をいれてくれる。

「残念だが、俺は遠慮する」

 蘇芳の言葉に寧々子は驚いた。

「……蘇芳様、甘味はお嫌いですか?」
「嫌いなわけではないが、食べない。俺は王だからな」
「どういうことですか?」
「王たるもの、常に威厳を持って畏怖(いふ)される存在でなければならない」

 蘇芳が肩をすくめる。

「――と、長老どもがくどいほど言ってくるのでな。甘味など、軟弱なものを人前で食べるな、と」
「そんな――!」

 夏祭りのときに、イチゴ大福をお気に入りだと持ってきてくれた蘇芳。

(甘味が好きなのに食べられないの?)

「俺に気にせず、食べるといい。俺は茶をもらう」
「……」

 蒼火が落ち着かない様子でそわそわしている。
 寧々子と蘇芳が近い距離で話しているのが気にかかるのだろう。
 危険な綱渡りをしているのは、寧々子も重々承知の上だ。

 本当はバレないうちに、さっさと店を出たほうがいい。
 だが、寧々子はこの場を離れたくなかった。
 気さくに話してくれる蘇芳、自分に笑いかけてくれる蘇芳を、もっと見ていたかった。

「じゃあ、お言葉に甘えて。ぜひ食べてみたいわ」

 寧々子の言葉に、蒼火が諦めたように嘆息した。

「じゃあ、僕もいただきます」
「はい、今すぐに!」

 寧々子はちらっと蘇芳を見やった。
 こんな風に近くで話せる機会はまずないだろう。

「あの、蘇芳様は嫌いな食べ物とかありますか?」

 すかさず晩ご飯のリサーチを始めた寧々子に、蒼火が思わずお茶を吹く。
 ずいぶん大胆なことをすると思われたに違いない。

(でも、本人に直接聞いたほうがいいし。今日の晩ご飯が気に入らなかったら、もう一緒に食べてくれないかもしれないし)

 寧々子は寧々子なりに必死だった。

「特に好き嫌いはない」
「じゃ、じゃあ、好きなものは?」
「特に。なんでも食べる」
「では、今食べてみたいものは?」
「ずいぶん熱心に聞いてくるのだな」

 ぐいぐいと迫ってくる寧々子に蘇芳が苦笑する。

「そうだな……。まだ食べたことはないが、人間界で流行している洋食というものに興味があるな」
「洋食ですか!」

 洋菓子店の跡継ぎと婚約していたので、寧々子は一緒に店を切り盛りすることを考えて洋菓子の勉強をした。
 そのときに、洋食も作ってみたことがある。
 俊之(としゆき)のすげない態度にすべてが無駄だったと空しくなったが、まさかその経験がここで生きてくるとは思わなかった。

(洋食なら……作れるわ! なんにしよう。ライスカレー? 材料が揃うかしら。それにあまりに先鋭的なものより、もっと身近なもののほうが……)

 寧々子が考えを巡らせていると、修三が盆を手にやってきた。

「お待たせしました」
「わあ」

 透明の器に入れられたあんみつに、思わず声を上げてしまう。
 それほど、修三のあんみつは美味しそうだった。

 (さい)の目状に切られたつやつやの寒天、(まる)くこんもりと盛られた(あん)、さまざまな果物や白玉が配されている。
 色彩豊かで爽やかな一品だ。

「素敵……! 修三さん、すごいわね」
「……再就職にあたって、いろいろ食べ歩いたんですよ。それで自分でも作れないかと思って」

 相変わらずぼそぼそとした口調だったが、嬉しさが滲み出ている。
 視線を感じ、寧々子はふいっと蘇芳を見た。

 蘇芳は素知らぬふうを装っていたが、ちらちらと横目であんみつを見ている。
 紅玉のような赤い目には好奇心の光が(とも)っていた。

「……それはあんみつというのか」
「そうです」
「ふむ……『あん』は餡子だな。だが『みつ』は?」
「みつ豆のことです。ゆでた赤エンドウ豆に寒天や果物を混ぜたものです」
「ほほう……。ではそれは?」

 蘇芳が付け合わせの陶器の小瓶に入った黒蜜を指差した。

「この黒蜜はお好みでかけるんです」

 以前、あんみつは食べたことがある。
 寧々子はさっと透明な寒天の上に黒蜜をかけた。

「寒天自体は感触を楽しむもので、ほとんど味がありません。餡子と黒蜜と一緒に食べることによって、しっかりした甘さが出ます」
「な、なるほど……」

 ごくり、と蘇芳の喉が鳴った。

「……あの、蘇芳様、一口食べてみます?」

 (さじ)を差し出すと、蘇芳の顔がカッと赤らんだ。
 ふい、と蘇芳が顔をそむける。

「いらぬ。食べないと言ったであろう」
「でも、せっかくですし……」
「いらぬ、と言っている!」

 声を荒げられ、寧々子はびくりとした。

「す、すまない。大声を出すつもりはなかった」

 蘇芳が申し訳なさそうにうなだれる。

「問題が山積みでな。ついイライラしてしまった……」

 蘇芳の言葉がちくんと胸を刺す。

(もしかして、それは私の――人間の花嫁のことも入っているのだろうか)

 寧々子は気を取り直し、ぱくりとあんみつを口に入れた。
 しっかりした甘みが口いっぱいに広がる。

「うう……美味しい……」

 寧々子につられるように、蒼火もあんみつを口にする。

「こんな甘味は初めてです。甘い餡子、さっぱりした寒天、酸味のある果物と、味と食感が一匙ごとに変わって飽きないですね!」

 蒼火がもりもりと食べるのを、蘇芳が羨ましそうに見ている。
 疲れているときこそ、甘味はいい気分転換になる。

(なのに、王だから食べられないなんて可哀想……)

 そのとき、寧々子はハッとした。

(あるわ。食べてもらう方法が――!)
 夜になり、蘇芳(すおう)は屋敷へと戻った。
 結界破りたちが起こす暴力沙汰に、倒れて搬送されたあやかしへの聞き取りなど、城下町を駆けずり回りクタクタだ。

(腹がすいたな……)

 忙しすぎて、朝からろくに食べていない。
 晩ご飯も適当に店で買ったものを食べるつもりだったが、蒼火(そうび)にきつく言い含められていたのを思い出した。

(今日は絶対に屋敷で食べろ、と言っていたな)

 いつもは控え目な蒼火が、一歩も引かない勢いで言ってきた。

 ――寧々子(ねねこ)さんが蘇芳様のために晩ご飯を作ると言っているのですから、今日は絶対に屋敷で食べてください!

(手料理か……よく銀花(ぎんか)が許したな)

 朱雀(すざく)屋敷の料理はすべて料理長である銀花が仕切っている。
 腕はいいがこだわりが強い銀花は、自分が認めた者しか厨房に入れない。
 余所者の、しかも人間に、王の食事を作らせる許可を与えたとは驚きだ。

(蒼火が頼み込んだのか……?)

 事情がよく飲み込めない。
 屋敷でゆっくりと過ごせ、と言った花嫁が、なぜわざわざ料理を作ることになったのか。
 蘇芳はため息をついた。

(ああ、気が重い……できるなら、顔を合わせたくないのだが)

 異界のバランスを取るために必要な結婚、というのは痛いほどわかっている。
 結界のほころびから侵入を繰り返すあやかしたちの対応に日々迫られているし、人間界もそれは同じだ。
 適宜(てきぎ)対応するよりも、結界を強固にして場を安定させるのが一番効率がいい。

(だが、人間の娘と結婚とは……)

 現実味がわかない。
 形式だけで構わない、と佐嶋(さじま)は言ったが、異界へ嫁入りする娘の気持ちを思うと心が暗く沈む。

(ずいぶんと勇気がいる行為だ……)

 あやかしの国に望んで来る人間の娘などいるはずがない。
 隠しても(せん)無いと判断したのか、佐嶋は正直に事情を明かしてくれた。
 実家の借金を肩代わりするのを条件に、嫁入りを受け入れたらしい。

(これではまるで人買いではないか……)

 相手の財力や地位を見込んでの政略結婚というのはよくあることだ。
 だが、その相手が人ではなくあやかし、住むのは異界というのであれば話は別だ。

 霊力が高いのを見込まれたというが、その娘にとってはとんだ災難だと思う。
 なるたけ怯えさせないように距離をとり、屋敷にいてもらう他はないと考えていたのだが、娘は違ったようだ。

(なぜ、わざわざ手料理を振る舞いたがるのだ? 俺のご機嫌とりか?)

 嫁入りが失敗したら、借金を返してもらえなくなる。
 それが恐ろしいのかもしれない。

(無理をせずとも、霊力の高い貴重な娘なのだ。異界の安定のためにいてもらうのに)

 まったく合点(がてん)がいかず、戸惑いながら蘇芳は座敷に座った。

「お待たせしました」

 澄んだ声が廊下から聞こえ、蘇芳はびくりとした。
 お膳を持った寧々子が室内に入ってくる。

(控え目な所作だが綺麗な娘だな……そういえば、顔もろくに見ていなかった)

 何やら豪勢な着物を着ている、としか認識していなかった蘇芳は、思わずまじまじと寧々子を見つめてしまった。
 あやかしの王と二人きりだというのに、なぜか寧々子は落ち着きはらっていた。
 怯えた様子もなく、堂々と蘇芳の前に膳を置く。

「特にお嫌いなものはない、と伺っていたので、今日は洋食にしてみました」
「洋食……!」

 知識としては知っている。
 今、人間界で流行している、外国から入ってきた料理だ。

「オムライスという卵料理です」
「ほう……」

 初めて見る料理に目が釘付けになる。
 蘇芳にとっては想定外の出来事だった。

 蒼火にうるさく言われたからしぶしぶ食べにきただけで、さっさと食べて部屋を出るつもりだったのだ。
 だが、今や蘇芳は目の前のふんわりとした黄色いものに包まれた料理に興味津々(しんしん)になってしまっている。

「オムライスとはなんだ?」
「お米と少量の野菜を(いた)めてトマトケチャップで味付けしたものを、薄焼き卵で巻いたものです」
「ほお……炒めた米を卵焼きで巻いているのか」
「……せっかくなので、上に文字を書いておきました」
「すおう……俺の名前か」

 赤いケチャップで自分の名前が書かれている。
 こんな料理は初めてで、蘇芳は思わず微笑んでしまった。

「下手ですみません」

 寧々子のオムライスにも、『ねねこ』と書かれている。
 よく見ると、寧々子のオムライスは焼きムラがあり、形も少し崩れている。
 対して、蘇芳のオムライスは綺麗な色味できちんと巻かれている。

(綺麗にできた方を俺に寄越したのか……)

「スプーンですくってお食べください」
「わかった」

 焼いた卵はやわらかく、さくっとスプーンが入る。
 蘇芳は中身のケチャップライスとともにすくい上げた。
 ほかほかと湯気の立つ黄色と赤という鮮やかな色味の一口を口に運ぶ。

「!!」

 口の中で卵とライスが混ざり合い、うまみが広がった。

(ライスに混ざった細かい野菜がいいアクセントになっている……)
(初めての味、食感だが、悪くない……)

 もっと味わいたくて、蘇芳は次々とすくって口に運んだ。
 その様子を見た寧々子が、安心したように自分も食事を始めた。
 気づくと蘇芳(すおう)の皿は空になっていた。
 無言で食べるつもりではあったが、こんなに夢中で味わって食べるとは思わなかった蘇芳は呆然とした。

 完食した蘇芳に、寧々子(ねねこ)から小皿と箸が差し出される。
 どうやら、あらかじめ用意して置いてあったらしい。

「これを最後にどうぞ」

 そっと出されたのは、小皿にのせられたモサモサした葉のついた緑色の野菜だった。

「付け合わせのパセリです」
「……?」

 どうやら西洋の野菜らしいが、付け合わせなのになぜ食べ終えたあとに出すのだろう。
 首を傾げながらも、初めて見る野菜が気になり蘇芳は口をつけた。

「……っ!!」

 食べた瞬間わかった。
 それは野菜そっくりに見えたが、甘味だった。
 上品な甘みが口に広がり、ほろほろとほどけていく。
 寧々子が微笑む。

「実はパセリに見せかけた、金団……きんとんです」
「きんとん……?」
「さつまいもと栗を甘く煮てつぶしたものです。それに抹茶を混ぜて緑色にしました」

 言われれば抹茶の風味がする。
 優しい甘みに、蘇芳はあっという間に食べ終えてしまった。
 そして、もちろん聞かずにはおれなかった。

「なぜ、野菜に見せかけた甘味を出したのだ?」

 寧々子がそっと目をそらせる。

「あの、甘味を食べるのがダメだと聞いて……」
「……ああ」

 そんなことをなぜ知っているのかと驚いたが、蒼火から聞いたのかもしれない。

「でも、お好きですよね?」

 寧々子がじっと見つめてくる。

「なぜそう思う?」

 尋ねると、寧々子が悲しげに目をそらせた。

「……覚えてらっしゃらないんですね」

 それは小さなつぶやきで、蘇芳はよく聞き取れなかった。

(それにしても、俺が気になる料理がよくわかったな……偶然か?)

 すべて食べ終えた蘇芳は、思いのほか食事を楽しんだことに動揺しながらも手を合わせた。

「お味はどうでしたか? お口に合いました?」

 寧々子の言葉に、蘇芳はぐっと詰まった。

(美味かった。どれも初めての味なのに、よく馴染んだ)

「まあまあだな……」

 口から出た言葉の素っ気なさに、蘇芳は自分でも驚いた。
 寧々子がしゅんとしたようにうつむく。
 罪悪感が胸を焼いた。

(これが銀花(ぎんか)の料理なら、手放しで賞賛しただろう。俺は人間の娘、ということがこれほど気に掛かっているのか……)

 寧々子が気を取り直したように顔を上げた。

「あの、明日も一品作ります! だから――晩ご飯をご一緒したいです」

 寧々子の一品――想像するだけで頬が緩んだ。
 今度はどんな料理を作るのだろう。
 だから、蘇芳は素直にうなずいていた。

「わかった」

 ぱっと寧々子の顔が輝く。

(変な娘だ……。俺のことなんて放っておけばいいだろうに)

 ふと、脳裏に何かが引っかかった。
 寧々子の笑顔を以前見たことがあるような気がした。

(そんなわけはないのにな……)
 翌朝、寧々子(ねねこ)蒼火(そうび)と朝食を食べることになった。

「すいません、蘇芳(すおう)様は朝早くから見回りに出かけていて……」
「いいの。忙しいのはわかっているから」

 一人で朝食を食べるつもりだったが、蒼火が一緒にいてくれるのは嬉しかった。

「わ、美味しい……銀花(ぎんか)さんは魚を調理するのが上手なのね」

 脂ののった焼き鮭に舌鼓を打つ。
 野菜がたくさん入った味噌汁も美味い。
 蒼火がそわそわしながら、口火を切った。

「昨晩はどうでした? 蘇芳様は夕飯を食べてくれましたか?」

 心配げな蒼火に、寧々子は微笑んでみせた。

「うん。全部食べてくれたよ」
「よかった!」

 蒼火がホッとしたように肩から力を抜く。
 蘇芳がすっぽかしたり、一口も食べなかったりなど、最悪の事態も考えていたのだろう。

「まあまあ、って言ってくれた」

 蒼火が(ひたい)に手を当てる。

「ったく、あの人は……素直じゃないんだから」
「でも、素人の料理だし、そんなものだよ……」

 そう言いつつ、少し残念だった。

「いえ、味見させてもらいましたが美味しかったですよ! 蘇芳様も全部食べたんでしょう?」
「ええ……」

 無言だったが、ぱくぱくと手を止めずに食べていた。

「蘇芳様は……ちょっと人間に対して警戒心が強すぎるんですよね」

 蒼火の思わせぶりな言葉に、寧々子は俄然興味を引かれた。

「昔、何かあったの?」

 蒼火が小さくため息をつく。

「以前、人間界であやかしの事件が起こり、解決のために行き来をしていたことがあったのですが……。どうも、関係者の女性からひどい言葉を投げつけられたようで」

「ひどい言葉って……」
「化け物、とか。あやかしに対する蔑みの言葉ですね」
「そうなの……」

 背中に大きな翼を生やした蘇芳の姿は、確かに異形ではあったが、気味が悪いというよりも神々しさや美しさを感じるものだった。
 だが、人によっては受け付けないのかもしれない。

(傷つけたのは人間の女性……か)

 昨晩の蘇芳の態度からも、こちらを信用していないのがありありとわかった。

「私……近づかないほうがいいのかな」
「え?」
「蘇芳様は私と親しくなりたいと思っていないみたい。形式だけの夫婦として、異界のバランスが取れたらいいって考えてるんだったら、私が近寄るのは迷惑なのかも」
「……」

 蒼火が箸を置き、じっと青い目で見つめてくる。

「寧々子さんはそれでいいのですか?」
「……」

 お互い干渉せず、形だけの夫婦として別々に生きていく。
 そういう夫婦の形もあるだろう。
 だが、寧々子が望む形とは違う。

「私は……蘇芳様ともっと仲良くなりたい……」

 蒼火がほっとしたように表情を緩める。

「勝手な言葉ですが……蘇芳様を諦めないでほしいです」

 寧々子ははっとして蒼火を見た。

「あの人は本当は情が深くて、家族をとても大事にする人なんです。形だけの結婚なんて、きっと寂しいはずです。たった一人の配偶者と向き合えないなんて……」

 蒼火がすっと頭を下げた。

「蘇芳様はあのとおり、意固地になってしまっています。寧々子さんには不快な思いをさせてしまいますが、どうか蘇芳様を見捨てないでやってください」
「うん……わかった」

 初恋の男の子との再会を夢見てここに来た。
 冷ややかな対応に泣きたくなったが、蘇芳が根っからの冷酷な人ではないのはもうわかっている。

 ミケである自分に対する優しい思いやりのある態度を見てもわかる。
 王様だというのに、なんのてらいもなく親切にしてくれた。

(あんな風に……自然に笑いかけて、接してくれるようになるまで頑張る!)

 信用は一朝一夕では得られない。
 三池屋も百年近い歴史があるからこそ、買いに来てくれる人がいる。

(粘り強くコツコツと積み上げていくしかない)
(今日は何を作ろうかな……)

 多忙な蘇芳と唯一会えるのは、食事の時だけだ。

「ねえ、蒼火さん。今日も甘味処に行きたいんだけど……」
「やっぱり屋敷で一人でいるのは気詰まりですよね」

「修三さんのことも気になるし……あと、今日何を作るか、アイディアと材料が欲しくて」
「わかりました。お供します。協力は惜しみません」

 心強い言葉に、寧々子は微笑んだ。
 三毛猫の化け面をつけ、蒼火(そうび)とともに甘味処に来た寧々子(ねねこ)は引き戸をノックした。
 まだのれんはかかっていない。

修三(しゅうぞう)さん? 寧々子です」

 しばらくして引き戸ががらっと開いた。

「お嬢さん……おはようございます」

 のっぺらぼうのお面を外した修三が顔を出す。
 もともと彫りの深い顔だが、更に頬がこけているように見える。
 顔色も悪く、表情も冴えない。

「どうしたんですか? 疲れているみたい……」
「仕込み中なんですが集中できなくて……。昨日みたいにまた変な奴らが来ないかと……」

 修三が長身を屈めるようにして言った。
 繊細で気の弱い修三にとって、昨日の事件は大きなトラウマになっているようだ。

「よかったら、仕込みを手伝いましょうか?」

 寧々子はさっと袖から紐を取り出し、たすき掛けを始めた。

「お邪魔じゃなければ僕もいますよ。昨日みたいな奴が来たら追っ払います」
「ほ、本当ですか!」

 寧々子たちの提案に、修三がホッとしたように顔をほころばせる。

「あの修三さん。手伝いがてら、私にも甘味を作らせてもらえない?」
「お嬢さんが?」
「ええ。新しく作ってみたいものがあって……」
「もちろん構いませんよ!」

 快諾してもらい、寧々子はホッとした。
 今晩のデザートに使う材料を試してみたかったのだ。
 三人が必死で作業の追い込みをしたおかげで、昼前には店を開けることができた。

「えっ……すごい……」

 のれんを手にした寧々子は引き戸を開けて呆然とした。
 店の前に人だかりができている。

「これ、全部お客様?」

 蒼火も驚いたようで目を見張っている。

「たぶん、昨日の騒ぎでお店が認知されたんでしょう。甘味が好きなあやかしが多いから……」
「こんなに大勢……」

 閑古鳥が鳴いていた昨日とは大違いだ。

「これは修三さん一人ではさばけませんね、僕たちも手伝いましょう!」
「ええ! 蒼火さん、付き合わせてごめんなさい」
「いえいえ、甘味処を手伝うなんて初めてですが、面白いですよ」

 快活に笑う蒼火に救われた気持ちになる。

「どうかしましたか?」

 何の騒ぎかと、厨房からのっぺらぼうのお面をかぶった修三が顔を出す。

「ひいっ!」

 詰めかけた大勢の客の姿に、修三がぎょっとしたように後ずさった。
 和菓子作りは超一流だが、接客は苦手なのだ。しかも相手はあやかしと来ている。

「接客は私たちに任せて、修三さんは厨房をお願いします」
「はい!」

 修三が逃げるようにして厨房に戻る。

「いらっしゃいませ!」

 寧々子は客たちに笑顔を向けた。
 これでも実家の和菓子店を切り盛りしてきたのだ。
 この程度の客足で怯むわけにはいかない。

「喫茶ですか? それとも持ち帰りですか?」

 一人一人に尋ねていく。
 相手はおそらく全員あやかしだが、寧々子はまったく気にならなかった。
 人間だろうがあやかしだろうが、お客様には違いない。

「蒼火さん、お持ち帰りの方の注文をとってくださいませんか?」
「了解です!」

 蒼火がてきぱきと客から注文を取り出す。
 寧々子は主に喫茶を担当し、客を席に案内し、お茶を出し、注文を取った。

「あんみつ二つお願いします!」
「豆大福五個お願いします!」
「はい!」

 厨房の修三もてんてこ舞いだ。
 まさかこんなに客が来るとは思わなかったのだろう。

 そのとき、寧々子は店先に狐のお面をつけた男の子が立っていることに気づいた。
 背格好からすると、寧々子より少し年下に見える。

「いらっしゃいませ。喫茶と持ち帰り、どちらですか?」

 寧々子が声をかけると、狐面の男の子はびくりとした。

「あ、あの……」
「はい?」
「桃の……甘味ありますか?」
「桃?」

 和菓子に桃はあまり使われない。
 そもそも、穀類や豆類が主に使われるので、果物の使用自体が珍しい。
 わざわざ桃を指定ということは、よっぽど好物なのだろうか。

 寧々子はまじまじと狐面の男の子を見つめた。
 視線を感じたのか、男の子が気まずそうにうつむく。

「ちょっと待ってくださいね。聞いてきます」

 三池屋では桃を作った甘味は扱っていなかった。
 だが、この店では違うかもしれない。
 寧々子は厨房に入って修三に声をかけた。

「修三さん、桃の甘味ってあります?」
「桃? 新メニューの試作用にいろいろ仕入れたからありますけど、まだ使ってなくて……」

 修三が考え込むように首を傾げる。

「みつ豆の付け合わせとして出すことはできますけど」
「わかりました。そう伝えます」

 寧々子は店先に戻り、狐面の男の子に声をかけた。

「みつ豆に付けることができるみたいですけど、中で食べますか?」

 狐面の男の子が大きくうなずく。

「じゃあ、どうぞ。相席になっちゃいますけど……」

 幸い、座敷席が一つ空いていたので案内した。

「寧々子さん! 注文が上がりました!」
「はーい!」

 修三の声がけに、急いで厨房に行く。

「すいません、本当に手伝わせてしまって」
「いいの。甘味処で働けるのは楽しいし、いい気分転換になるわ」

 正直、何もやることがなく、時間を持て余していた。
 こうして修三を手伝えるのなら、やりがいもあるというものだ。
 寧々子はきびきびと注文をさばいていった。
寧々子(ねねこ)さん、これ桃のみつ豆です」
「はい!」

 寧々子は狐の男の子の前にお膳を置いた。

「お待たせしました」

 桃がたっぷりのったみつ豆を見た狐の男の子の顔がぱっと輝くのが、お面越しにもわかった。
 男の子はスプーンを手に取り、夢中で桃をすくって食べる。

「ごゆっくり」

 微笑ましい気分で寧々子は仕事に戻った。
 ようやくお客の波が途切れだし、寧々子は食器を片付け、テーブルを拭いていた。

 ガタン!!
 大きな音に座敷席に目をやると、茶色の大きな尻尾が見えた。

「え……?」

 よく見ると、狐が一匹倒れている。
 慌てて駆け寄ると、狐のかたわらには狐の面が落ちていた。

(みつ豆を頼んだ狐面の男の子!? あやかしの姿に戻ってしまってる!)

「どうしました?」

 異変に気づいた蒼火(そうび)が駆け寄ってくる。

「あの、お客様があやかしに戻って倒れていて……」

 狐は目をつぶり、ぐったりしている。

「これは……この客は何を食べました!?」
「桃のあんみつです」
「桃!! これはたぶん、桃にあたったんだと思います」
「桃にあたる……?」

「桃は魔除けの力を持つ果実です。あやかしによっては、強い刺激を感じ、場合によってはこうやって具合が悪くなってしまうんです!」
「そんな……」

 寧々子はおろおろした。

「ど、どうしたら……」
「中和できるといいのですが……。何か赤い食べ物はありますか? ここは朱雀(すざく)の領域で、赤が強いのです」
「赤……小豆はどうですか?」
「いいですね!」

 餡子ならたくさんある。
 さっそく厨房で餡子をもらい、そっと狐の口に近づけた。

「お願い、食べて……」

 舌の上に餡子をのせると、ごくりと嚥下(えんげ)した。

「これで良くなるといいのですが……。この子は療養所に運びます」
「療養所?」
「臨時で作られた場所です。具合が悪くなったものを運び、隔離して、安定するまで経過観察します」
「そういう人が他にもいるんですか?」
「ええ」

 蒼火が顔をしかめる。

「……最近、タチの悪い嗜好品が出回っているんです。食べ物や飲み物、タバコなんですが、いずれも桃の実や葉が使われています」
「そんな……!」

「刺激を求めて嗜好品を入手した者たちが体調を崩してしまっているんです。タチの悪いことに中毒性があって、すぐに欲しくなってしまうんだとか」
「まるで麻薬じゃないですか……!」

 思った以上に深刻な事態だったようだ。

「いったい誰がそんなことを?」
「調査中ですが、お面をかぶっている男としかわかっていないんです。おそらくは外部から金を稼ぎに来たんだと思いますが、悪質なので取り締まろうとしているのですが、なかなか尻尾が掴めず……」

 蒼火が悔しそうな表情になる。

「もしかして、結界のほころびから?」
「ええ、その可能性が高いです。あちこちにできてしまって、閉じても閉じてもキリがない」

 寧々子の想像以上にほころびによる弊害があるようだ。

(だから、結婚を急いだのね……。効果はまだ出ていないけど……)

「この国にいるあやかしたちは、新しいものや珍しいものに目がないんです。その性質をうまく利用しているのでしょう。腹立たしいことです」

 蒼火が怒りを(にじ)ませる。

「今、蘇芳様が先頭に立って調査中です」

 厨房から出てきた修三(しゅうぞう)が、お面をとってため息をつく。

「申し訳ありません。私が作ったものでこんな……。桃が禁忌だとは知りませんでした……」
「どのあやかしにも危険なわけではないし、人間が知らなくても仕方ないです。このあやかしは若いから、特に影響が強かったのかもしれない」

 しょんぼりする修三を慰めるように寧々子は肩に手を置いた。

「修三さんは悪くありません。桃はその狐の男の子が所望したんです」
「わざわざ自分から……?」

 蒼火がため息をつく。

「この子も中毒者かもしれないな。桃の刺激に耽溺して、探し回ってこの店に来たのかもしれない」
「そんな……」
「思ったより嗜好品が蔓延しているのかもしれない。僕はこの子を療養所に連れていきます。寧々子さん、一人で帰れますか?」
「大丈夫です。私のことはお気になさらず」

 人とあやかしが共存するこの国で、何かが起こっている。

(私が力になれるといいんだけど……)
「今日はもう閉めます……」
「ごめんなさい、私が安易に注文を取ったから……」

「いえ、お嬢さんのせいじゃありませんよ。俺ももっとあやかしのことを勉強しないと……ここは人間界じゃないんだから」

 しょんぼり落ち込む修三(しゅうぞう)を慰めて、寧々子(ねねこ)は閉店準備に入った。

「じゃあ、のれんを仕舞いますね」

 店の外に出ると、珍しく女性たちが集まっているのが見えた。

「え……?」

 その中心にいるのは、輝く金色の髪をした長身の着物姿の男性――蘇芳(すおう)だ。
 困ったように女性たちをあしらっている。

「えっ、蘇芳様!?」

 思わず声を上げると、蘇芳が寧々子に気づいた。

「ミケ! ……すまないが用事がある」

 蘇芳がなんとか女性たちの輪の中から抜け出そうと試みるが、彼女たちの壁はなかなか崩れない。

「そんなあ、蘇芳様」
「せっかくお目にかかれたのに、もう行ってしまわれるんですか?」

 女性のあやかしたちがきゃっきゃっ、と蘇芳の羽織の袖を引く。

「蘇芳様、新しい茶屋ができたんですって。ご一緒しません?」
「それより今度庭園に行きませんか? ゆっくりお話ししたいわ」

 女性たちはなんとか蘇芳を誘いだそうとしている。

(……蘇芳は女性に人気があるのね)

 考えてみれば当然だ。
 国を治める若く美しい男性――女性が放っておかないだろう。

(もしや、恋人や好きな人がいらっしゃるのかも……)
(私なんか、急遽決まった政略結婚の相手……)

 それならば、まったく自分に興味がない蘇芳の態度にも納得がいく。
 寧々子は自然とうつむいてしまった。

(私、なんでこんなにショックを受けているんだろう……)

「誘いはありがたいが、俺は妻帯者だ。受けることはできない」

 蘇芳のきっぱりした声に、寧々子ははっと顔を上げた。
 あやかしの女性たちが不満げな表情になる。

「人間の花嫁でしょ? お連れになっていませんのね」
「ああ。屋敷にいる」
「お披露目もしないし、形式だけの結婚と聞きましたわ」
「じゃあ、構わないじゃないですか」

 女性たちがすっと蘇芳の腕に手をからめる。

「悪いが、もう行く」

 やんわりと女性たちから逃れ、蘇芳が足早にこちらに向かってきた。

「ミケ! 店は開いているか? ちょっと休ませてくれ」
「は、はい」

 寧々子はのれんを外した。

(ちょうど店じまいだし、貸し切りにしてしまおう)

「なあに、あの子」
「見ない猫娘ね」

 女性たちの嫉妬の視線を感じ、寧々子は慌てて店に入った。

「朝からずっと見回りでな……」

 蘇芳がふう、とため息をつくと座敷に上がる。

「客はいないのか?」
「それが……」

 寧々子は先程まで混雑していたこと、狐の男の子が倒れたことを話した。

「桃か……」

 蘇芳の表情が曇る。

「その狐の少年はどうなった?」
「赤いものを与えるのがいいと聞いたので、餡子を食べさせました」
「おお! なるほど小豆か……! 療養所では赤じそのジュースを与えているが……。よくやった、ミケ」

 頭を撫でられ、寧々子はお面の中で赤面した。

(すごく優しい声……)

「どうした? もっと撫でて欲しいのか?」
「えっ」

 寧々子は自然と蘇芳の体に身を預けてしまっていることに気づいた。

「す、すいません!」
「構わぬ。猫の習性だろう」

(すいません、私、猫じゃないんです……!)

 寧々子は慌てて姿勢を正した。

(こんなに甘えてしまって! ちゃんとしなくちゃ!)

 寧々子は咳払いをし、話を元に戻した。

蒼火(そうび)さんがお話ししてくれたのですが、桃を使った嗜好品が出回っているそうですね」

「ああ。ただの桃ならば、多少具合が悪くなるくらいで済むのだがな。どうも混ぜ物をしているらしく、流しの商人から買った者はひどい中毒症状を起こしたり、依存症になってしまっている」
「そんな……!」

 あまりに悪意のある使われ方だ。

「いったい誰が何の目的で……」
「金目当てなのか、それともあやかしを狩りたいのか……。どちらにしろ、朱雀(すざく)国に悪影響を及ぼす。早く手を打ちたいのだが……聞き込みも(かんば)しくなくてな」
「そうですか……」

 面をつけている者も多いし、犯人は紛れ込みやすいだろう。
 蘇芳がため息をつく。

「これ以上被害が広がり犯人が捕まらないのであれば、国民に注意喚起も必要だがどれほど効果があるか……」
「そうなのですか?」

「あやかしたちが皆、店を持っているわけではない。流しの商人はもちろんのこと、物々交換も盛んだ。いちいちそんな商売を取り締まるわけにもいかないし、タバコや菓子の売買を禁ずるわけにもいかない」

 お手上げだというように、蘇芳が宙を仰ぐ。

「せめて、犯人に辿り着ける何かが見つかればいいのだが……」