あれから10年後が経った。俺は今日も生きている。

「是枝さん、数字出ました!」

デスクに座りパソコンを叩く俺のもとに新しい資料が届けられた。

「ありがとう、漓江(りこう)さん」

漓江さんは俺の2年あとにここへやって来た女の子、長い黒髪をいつも一つに束ねてメガネを掛けている。メガネのレンズ横を親指でクイッとを上げるのが癖だ。

「どうですか?この数字」

「うーん…」

受け取った資料を眺める、前回のと比べて数字の精密さは上がってるか。ただまだ分量に関しては曖昧だし、温度に関しても変えられるところはある…か。

「今度は時間経過を加えてやってみよう、もう少し量を増やしていく感じで」

「まだやるんですか!?」

立ち上がって、椅子にかけてあった白衣を羽織た。私服着用の職場で、だいたい白Tシャツに黒のスリムパンツなんて格好が多く白衣を着ると仕事の意欲が高まった。
手には受け取った資料とノートパソコンを持って隣の試作ロボットの方へ足を向けた。

「まだ改良は可能だよ」

ここはSociety(ソサエティ) Technology(テクノロジー)、人型ロボットstead(ステッド)を作る会社だ。
俺は今、stead(ステッド)を作るために日々試行錯誤している。

「涙機能を搭載したstead(ステッド)を作りたいからって、そんなに細かく設定します…?」

月日が経ち、少しずつstead(ステッド)が浸透し始めた。10年前に行われた強引に社会に送り込むなんて実験はもうしてないけど。

「そこまでしなくても、涙を流すのに人間でもそんなに考えてませんよね?」

「だから、だよ。人間は感情で涙を流しているだけだから、その感情に追いつくためにはより繊細で緻密なデータが必要なんだよ」

今はstead(ステッド)が社会に適応出来るように、人間と共に暮らせるように、人間を手助け出来る存在になれるようにゆっくりと慣らすことから始めている。
それでもまだ足りないことは多くて、これだけかかっても涙を流すのは難しい。ただ泣けばいい、というものでもないからだ。

「共感性だよね、大事なのは」

そこにあるのは気持ちだから。

「さすが開発研究部ですね、是枝さんみたいな人を研究者って言うんでしょうね」

「漓江さんも研究者じゃん」

「そうですけど…あ、それともうひとつ!設計部の七江さんからの伝言です、データの復元がついに完了したみたいですよ」

その言葉を聞いて思わず走り出した。資料もパソコンも置いて、研究室から飛び出した。白衣を羽織ったまま、無我夢中でその答えが聞きたくて。
ついに、やっと…あの日から待っていたものが…今っ!!!

「柚先輩っ」

勢いよく設計部に駆け込んだ。開発研究部と違ってどこもかしこもパソコンやモニターばかりで少し狭く思えるようなこの部屋で、肩まであるふわふわの髪をなびかせながらこっちを向いた。

「利津くん!」

「柚先輩…っ、完成したんですか!?」

息を切らしながら肩で大きく呼吸をし、それでも流行る気持ちは抑えきれず突っかかるように聞いてしまった。

「出来たんですか、どうなったんですか!?」

「お、落ちついて利津くんっ!とりあえずこれ見てよ!」

サッとパソコンの前に案内された。いくつものモニターに繋がれ、デスクのどこもかしこもいろんな機械が設置されていた。
柚先輩がマウスをクリックする。

「これ…っ」

「うん、一度破棄されちゃったものだからそこからデータを復元するのはかなり時間がかかって…元のデータもその時消去されちゃったから思い出しながらの作業もあったんだけど」

「よく…ここまで出来ましたね」

「お父さん…あ、専務が廃棄することを避けてくれたおかげだよね。思い出し作業もだいぶ助けてもらっちゃった」

パソコンの画面に映し出されたデータ構造、プログラム、並べられらたコード…ここまで到達するのに膨大な時間と労力が要されたに違いない。

「私もここに入社するまでは知らなかったけど、まだ可能性があるなんて思わなかった」

「…俺もです。0からでも1人でやってやろうと思ってたぐらいなんで」

「まだ、人の形にするのはこれから時間かかるけどね」

柚先輩がふぅっと息を吐いた。これまでのこと、きっと気の遠くなる作業だったと思う。それでも、やっとここまで来たんだ。
パチッと一度瞬きをした柚先輩がこっちを見た。

「利津くんは覚えてる?純夏ちゃんのこと」

あの日からずっと、俺はー…

「1日も、忘れたことはありませんよ」

柚先輩が目を細めて嬉しそうに笑った。俺も口元が緩んだ。

「あ、そうだ利津くん座って座って。コーヒーでもどう?これこないだ瑞穂くんが買ってきてくれたの」

スッと隣にあったキャリー付きの椅子を出され、引き出しからはコーヒーの粉の入った小瓶を取り出した。

「花の香りがするコーヒーなんだって」

「そんなのあるんですか?相変わらず瑞穂先輩変わったものが好きですね」

「瑞穂くんいつでも好奇心旺盛だから」

「まぁ、確かに…俺がクラスでいじめられてる時に真顔でいじめって何がおもしろいの?ってあいつらに言い放った時は度肝を抜かれましたけど」

思い出したらなぜかくすくすと笑えて、眉が下がった。

「助けられましたよ、瑞穂先輩にも柚先輩にも」

純夏先輩がいなかったら、こんな風にはなれなかった。生きることさえも諦めようとしていた俺を、変えてくれたのは純夏先輩だ。

「コーヒー淹れて来るね、待ってて」

「ありがとうございます」

椅子に腰かけた。パソコンに映し出されたデータを見ながら。

stead(ステッド)の本来の目的はコミュニケーション不足が加速し、孤独化が問題となった世の中の解決策として生まれた。
その目的は今でも変わっていない。stead(ステッド)は孤独に苦しむ人々のために存在する。

だけどもしあの時引き止めてなかったら、純夏先輩は…
“庸司純夏先輩!好きです、付き合ってください”
俺と出会うことがなかったら…

「利津くん、どうぞ!」

「ありがとうございます。すごいですね、もう香りがします」

「ね~、フローラルな香りがするよね!」

鼻に抜けていく香りを楽しみながら一口コーヒーを飲んだ。香りは花のような甘い香りなのに、飲んだ味覚はブラックコーヒーそのもので不思議な飲み物に思えた。

「そういえば、柚先輩は純夏先輩がstead(ステッド)って気付いてたんですか?」

「ううん、全然!」

両手でコーヒーカップを持ってコーヒーを飲んだ柚先輩がケラッとした顔で答えた。お父さんがここの社員で今や役職付きなんだから、多少情報を持っていてもおかしくなはいと思っていたけどそうでもなかったらしい。

「ただ仲良くなりたかっただけだから、純夏ちゃんと」

そう言って明るく笑う柚先輩を見て、俺も微笑みながらもう一口コーヒーを飲んだ。

「あ、あとねぇ…これは新型stead(ステッド)のデータ案なんだけど」

柚先輩が隣の椅子に座って、デスクの上に置いてあった書類を見せてくれた。

「自然恋愛機能の再追加?」

stead(ステッド)が人間同様、自分の意志で誰かを好きになり恋に落ちる…それが自然恋愛機能。

「うん、これはずーーーっと課題なんだけどね。あった方がいいのかない方がいいのか、…今だと相手が異性だとは限らないってこともあるし」

「あー…そうですよね」

これだけ経ってもまだまだ課題は多く、頭の中で組み立てたものを形にするのはとても難しい。

「恋愛が原因で人間関係が崩れるってこともあるから、そうなるとstead(ステッド)としても本末転倒だもん。それで一度廃止になったんだけど」

それでも諦めたくないから。これからの未来のために。

「…純夏ちゃんはどう思ってたのかな」

両手で持ったコーヒーカップをゆっくり膝の上に置いた柚先輩がじぃっと残りのコーヒーを見つめた。

「…そもそも001.SUMIKAは初期不良が多かったから、最初は実験も見送りになる予定だったんですよね」

「うん、そう言われてるね。stead(ステッド)第一号ってことで生まれたから、足りないものは多かったって」

最初に作られるものにそんなことはよくあることだから、そうやって開発を繰り返していつか完成に辿り着く。その過程はとても大事で、その過程があるからこそ生まれるものがある。

「自然恋愛機能も初めは不要だって搭載されなかったけど、新しい生活を目指してそのあと取り入れられることが決まって002から実験として社会に浸透されるはずだった…って」

“用済みのすみか、だから“庸司純夏”なの”
stead(ステッド)には意志があって感情もあれば考えることが出来た。純夏先輩はどんな思いで…

「だけど、純夏ちゃんは利津くんのこと大好きだったよ」

飲み終わったコーヒーカップをデスクの上に置いた。思い出しながら、ふとあの日のことを。

「まさか耳を引っ張ると恋が始まるなんて誰も予想しませんからね」

何気なく、触れただけだったのに。耳元で名前を呼びたかっただけなのに。

“純夏”
あれが恋愛機能のスイッチだったなんて。

「しかもそんな機能が搭載されてること本人は知らなかったんですもんね」

だから純夏先輩は諦めていた。自分に恋は無縁だと、そんな機能備わってないからと。自らを欠陥品だと言って。

「一応予備で付けられた機能だもんね」

ごくっとコーヒーを飲み干した柚先輩がコーヒーカップをデスク横に置いて、今度はまた別の書類を取り出した。早々休んでもいられないくらい、実際は忙しくて日々業務に追われている。

「…それにstead(ステッド)は有能ですけど、自ら発信することが苦手でしたから」

話しかけたり、呼びかけたり、行動したり…“学習型”である以上、相手を見て触れて会話して学ぶことが重要とされていたから。
今はそこも改良されて、あの頃よりも自発的に行動が出来るようになっているけれど。
だから…“おはよう”と呼びかければ、“おはよう”と返って来る。これは社会における1番大事で1番最初になされるコミュニケーション、条件反射で答えられるよう初めからプログラミングされていた。

「あいさつは大事って言いますけどそこ最初にインプットしますかね~、もっと他にありますよね」

「え?何?」

「いえ、何でもないです」

…でも、その言葉にどれだけ救われたか。その言葉で今、こうして生きてるんで。
守ってくれた俺のこと、想ってくれていたこと…わかってますよ、純夏先輩。

“こんな私を好きって言ってくれてありがとう”
その言葉、信じてますから。出会えたこと、誇りに思ってますから。

好きです、純夏先輩。また、いつか…

「是枝さん!!いつまで帰って来ないつもりなんですか!仕事溜まってますよ!」

「あ、漓江さん」

大きな声を出しながら設計部まで呼びに来られた。
腕にした時計を確認すると、3時半を過ぎたところ…休憩時間も過ぎている。そろそろ仕事に戻るか。

「じゃあ柚先輩、ありがとうございました」

「うん、また進展あったら連絡するね!」

「はい、お願いします」

サッと立ち上がり椅子を元あったところへ戻した。廊下に出て眉を吊り上げた漓江さんに手を合わせ、ごめんねと軽く頭を下げる。
さぁ、開発研究部に戻ろうと一歩足を踏み出した。

「是枝さん、コーヒー飲んでました?」

「え、わかった?」

「コーヒーの微香が感知されました」

親指でメガネをグイッと上げて指摘するように顔を見上げた。

「…コーヒーっておいしいんですか?」

「それは人それぞれかな、俺はおいしいと思うけど」

「そう…ですか」

スッと顔を下ろしてメガネからも手を離した。なんとなく悲しそうな表情をしているように見えて。

「いつか漓江さんにもわかる日が来るんじゃない?」

「そんな日来ませんよ、私はstead(ステッド)ですから」

「わからないよ、いつか味覚がわかるstead(ステッド)が出来るかもしれないよ?」

まだまだ研究はこれからだから、いつかを形に出来る日を夢見て。

「是枝さんは本当研究者ですよ」

「まぁ、研究したくてこの会社に入ったからね」

「どうして是枝さんはこの会社に入ったんですか?」

「それはねー…」

廊下の窓から空を見上げれば、青が広がっていて。晴れた日は特に思い出す。

「もう一度会いたい人がいるから」


僕の元へ、君の住処(居場所)。僕のすみか。