プロローグ

 三月の終わり、僕は五ヵ月前と同じ場所に立っていた。沖縄県・石垣港。浮桟橋の袂で、僕は離島ターミナルの建物に入る自動ドアを見つめていた。
 あの日、その自動ドアを抜けて遠ざかってゆく彼女の背中を、僕は追えなかった。高三の秋、受験勉強に疲れ、東京からから逃げ出してきた僕にとって、熊本のエリート校に通い、指定校推薦で一流の私大に合格を決めていた彼女は、決して手の届かぬ別世界の人間のように見えたのだ。
 僕も彼女も、そこでしか見られないという海の青に魅かれ、石垣島の沖にある久留島で出会った。しかし、僕には、その出会いに続きがあるとは思えなかった。その時の僕は、ひどく卑屈だった。
 去年の秋、十月の終わりに僕が手にした模試の結果は散々だった。担任から、分相応だと言われた中堅の大学は、ずっとA判定が続いていたが、昔からの憧れの第一志望、難関の早大の英語英文学科は、またも「E判定」、「合格確率二十パーセント以下」、「志望校検討の要あり」。入試までの日数を考えると死刑宣告とも言えた。
 僕は、すっかりやる気を失くし、南の島に逃げてしまったのだ。以前から気になっていた、久留島でしか見られないという海の青に魅かれてのことだった。
 そこで僕は彼女に出会ったのだが、それは、ひと時の旅の出会いで終わった。帰京後、僕は随分と後悔した。そのせいもあって、僕は益々勉強に身が入らなくなった。
 結果として、僕は受験に失敗した。模試ではA判定しか出ていなかった大学を含め、すべて不合格だった。秋以降の僕の不甲斐ない様子を見て、両親は浪人を許してくれなかった。三月でも出願が可能な大学に行く気にはなれず、僕は進路未定のまま高校を卒業した。
 そうして、失意の中、僕は再び現実から逃避して、久留島に行こうとしていた。なぜかしら無性に、あの日見た海の青が見たくなったのだ。
 あの場所に戻ったからといって、彼女に再会できるわけがないのは分かりきっていたし、失敗した受験をやり直すことができるわけでもないことは百も承知だった。それでも僕は、どうしようもなく、あの海の青に魅かれたのだ。
 できることなら、あの日から、もう一度人生をやり直してみたい。そんなことを未練がましく思いながら、僕は浮桟橋を歩き、久留島行きの高速船に乗った。朝が早かったせいか、座席に腰を降ろすと、僕はすぐに眠りに落ちてしまった。
 
 第1章
 
 石垣港から久留島に向かう高速船の中で目が覚めると、窓の外には春の光が・・・いや、春ではない、今は秋ではないか。僕は高三の秋に、受験勉強から逃げ出して久留島に向かっているところだ。なぜ、今が春だと思ったのだろうか。僕には見当がつかなかった。
 
 高速船が、久留島港に向かって大きく左にカーブを切ると、海の色がガラリと変わった。青とも緑ともつかぬその色に、僕の目は釘付けになった。本土では決して見ることができない、初めて目にするその色を、なぜだか僕は前にも見たことがあるような気がした。もちろん、そんなことはありえなかったが。
 僕が例えようもないような海の色に魅入られ、呆けているうちに、船は久留島港に入港していた。船を降りると更に驚いた。港の中でさえ、海は信じられない程美しい色をしていた。
 久留島は石垣島から高速船で三十分程の所にあった。多くの人に知られているような観光名所もない久留島に、なぜ僕が来たのかと言うと、それは、ここでしか見られないという海の青に魅かれたからだった。
 浮桟橋を渡った所には数台の車が待ち構えていた。ダイビングやシュノーケリングのツアーが目的で来たと思われる人たちは、早々に迎えの車で姿を消し、港には僕一人がぽつんと残された。
 ネットの情報では、港から少し坂を上がった所にレンタサイクルの店があるはずだった。僕はとりあえずトイレに寄った後、坂を上り始めた。
 夏の観光シーズンは過ぎたとは言え、南の島の夏は、まだ終わってはいなかった。東京とは比べ物にならない日差しはチリチリと肌を焼いていたし、坂の向こうの空には威圧的な入道雲がどんと控えていた。
 レンタサイクルの店は、すぐに見つかった。店にはママチャリタイプの自転車もあったが、僕はスポーツタイプの自転車を借りた。この島でしか見ることができない海の青を探し周り、走る距離が長くなった場合、その方が楽だと思ったからだ。真新しい白い車体は中々に格好が良かった。
 店のおばあさんに、どこに行けば、この島でしか見られないという海の青に出会えるのかと尋ねてみたが、おばあさんの答えは要領を得なかった。もらった地図を見たところ、古伊桟橋、平川湾、ウミガメ研究所、間仲川の河口などの島の観光スポットは、港を中心にして、その両側に分散していた。しかたなく、僕は、もらった地図を頼りに、まずは港の西側の古伊桟橋に行ってみることにした。
 走り始めると、沖縄の伝統的な赤瓦の家並みはあっという間に姿を消した。左側の防砂林の隙間からは、時折、美しい海が顔を見せた。右側には牧場の景色が続いた。
 しばらく行くと、前方に古伊桟橋の方向を示す看板が見えてきた。左に折れると、両側を緑の森に挟まれた未舗装の道に出た。強い日差しが遮られた薄暗いその道には、いまだに蝉の声が響いていた。
 やがて緑のトンネルの向こうに、海の中をまっすぐに伸びるコンクリート製の細い桟橋が姿を現した。いかにも南の島といった美しい風景に僕は言葉を失くした。
 桟橋の袂には小さな東屋があり、そこには牛の形をしたベンチが設けられていた。僕は、その傍に自転車を止めると、とりあえず一休みすることにした。
 ベンチに腰を降ろし、ペットボトルのお茶で喉を潤していると、右手の緑のトンネルから一台の自転車が駆け抜けてきた。自転車が僕の前を通り過ぎようとした時、僕は不思議な感覚に捕らわれた。乗っていた少女の顔に見覚えがあるような気がしたのだ。
 少女は、僕と同年代で、とても奇麗な女の子だった。もし身近に似たような子がいれば、すぐに気が付くはずだった。しかし、僕には思い当たる節がまるでなかった。僕の知る限り、似たような芸能人もいなかった。なぜ、少女の顔に既視感のようなものを覚えたのか、まるで分からなかった。少女は僕の前を通り過ぎた後、自転車に乗ったまま、一気に桟橋の先まで行ってしまった。

 しばらくしてから、僕は再び自転車にまたがり、桟橋の先端に向かった。それは決して少女の後を追いかけたわけではなく、ただ、そこから見える海を見たかったからだった。通りすがりの美少女との間に、何かが起こると期待するほど僕はバカではなかった。いや、そうではない。同年代の可愛い女の子に振り向いてもらえるような男ではないことを、痛いほど自覚していただけだった。
 桟橋の先に着くと、僕は少女から少し離れた所に自転車を止めた。少女は桟橋の右の角にしゃがみ込んで海を見つめていた。だから僕は反対側の左の角に腰を降ろし、少女には顔を背けるようにして海を眺めた。
 桟橋の先端からは八重山諸島に属する島がいくつか臨めた。沖の方の海はエメラルドグリーンを少し明るくしたような色をしていた。水面は近づくにつれてその色を落とし、桟橋の近くの浅瀬では、完全に白くなっていた。
 船から見た海も、眼前にある海も確かに美しかった。しかし、それらの色は、ここでしか見られない青ではないと、なぜだか確信に近いものがあった。では、いったい、その青は、この島のどこにあるのだろうかと思った時だった。
「どちらからいらしたんですか?」
 右側から少女の声がして、僕は少なからず驚いた。美しい海を見ながら物思いにふけっていたせいで、少女のことはほとんど頭から消えていたし、見ず知らずの少女に話し掛けられるとは思ってもいなかったからだ。
 少女の方に顔を向けると、僕は質問に答えた。驚いたせいで少し言葉につまった。
「あ、えっと、東京からです」
「東京ですか、すごいですね。私は熊本から来ました」
 そう答えた少女の容姿を、僕は初めてしっかりと見た。色白で美しいその顔は、全く化粧っけがなかった。肩よりも少し伸びた程度の短めの髪も手を加えた様子がなかった。白いブラウスに薄い黄色のスカートという服装は飾り気がなく、それがかえって、少女の清楚な美しさを引きたてていた。
 それから、少しためらったような間を置いた後、少女は僕に尋ねてきた。
「あの、あなたはどうしてこの島に来たんですか?」
 受験勉強から逃げてきたのだとは言えなかった。
「この島でしか見られない海の青があると聞いて来ました」
 それも嘘ではなかったが、僕の答えを聞いて、少女が満面の笑みを浮かべたので、僕は少し良心が咎めた。
「本当ですか?私も同じなんです。私も、その青が見たくて来たんです」
「そうですか、偶然ですね」
 確かに不思議な偶然ではあった。しかし、だからと言って、それが運命の出会いだとは思えなかった。東京に住むパッとしない僕と、熊本在住の美少女の出会いに、続きなんてあるわけがない。そんな僕の卑屈な思いとは裏腹に、少女は笑顔で次の質問を繰り出してきた。
「あの、間仲川の河口にはもう行かれましたか?」
「いえ、まだです。後で行ってみようと思っています」
「そうですか。私も、この後、行こうと思っているんです」
 そう聞いた瞬間に、僕は『ならば、一緒に行きませんか』と言いかけて、慌ててその言葉を飲み込んだ。僕たちの出会いに未来などないと思いながら、十八歳の僕は、偶然にも同じ目的で島に来た美少女に、やはり心を魅かれていた。
 そんな僕の心の内など、まるで気づかない様子で少女は話を続けた。
「ここでしか見られない青は、間仲川の河口から見えるそうですよ」
 なるほど、そこが僕たちの共通の目的地なのかと思った。できることなら目の前の美少女と一緒にその青を見てみたいという気持ちが、再び頭をもたげてきたが、僕はそれを抑え込んだ。
 少女にすれば、旅で心が大きくなり、僕に声をかけたものの、つきまとわれるのは良い気分ではないだろうと思った。しかし、そう思ったのは、断られるのが怖いことへの言い訳に過ぎないような気がした。
 少女を前にして、やたらと卑屈になる自分が疎ましくなって、僕は立ち上がった。
「じゃあ、僕はこれで」
「え、ああ、はい、じゃあ」
 話し掛けた相手に、早々に会話を打ち切られたのが意外だったのか、少女は少し困惑した様子に見えた。何か少し悪いことをしたような気がしたが、僕は振り向くことなく自転車にまたがると桟橋を後にした。自分の卑屈さがつくづく嫌になった。

 第2章

 少女が、『この後、間仲川の河口に行く』と言ったので、僕は、すぐにそこへ行くのを避けた。待ち伏せしていたように思われるのが嫌だったからだ。
 だから僕は別の方向に足を進めることにした。間仲川の河口は港の東側にあったので、僕は反対方向へ、更に西側に向かって自転車を漕いだ。
 しばらく行くと、平川湾にたどり着いた。南側の崖が、細い入り江の奥の砂浜に、都合よく日陰を作ってくれていた。僕は、そこに、用意してきたブルーシートを広げ横になった。美しい入り江の色を見つめていると心が静かになった。
 ここでしか見られないという海の青が見られる間仲川の河口は、どうしても行きたい場所だったが、先ほどの少女と鉢合わせることは避けたかった。あの後、しばらくのんびりしてから少女が間仲川の河口に向かったとしても、もうそこにはいないだろうと思える頃合いを僕は待つことにした。平川湾は休憩と暇つぶしにはもってこいの場所だった。
 
 平川湾を出た後、途中いくつかの観光スポットを巡りながら、僕は間仲川の河口に向かった。港の西側に入り、ウミガメ研究所を通り過ぎてしばらくすると、間仲川の河口に架かる間仲大橋が見えてきた。橋の上に上ると、僕が求めていたものがそこにあった。
 橋の上から見た海は、信じられないような色をしていた。これこそ正に、ここでしか見られない青なのだと思った。空よりも更に青いスカイブルー。僕にはその程度の形容しかできなかった。そして、不思議なことに、初めて見たその青も、前に見たことがあるような気がした。
 僕は、その青をずっとそこで見ていたいと思ったのだが、そうはいかなかった。橋には南の島の暑い日差しが容赦なく降り注いでいる上に、座る場所もなかった。とても長居はできそうになかった。
 しかし、橋の下の河口は階段状に護岸工事がされていて、橋がちょうどよい日陰をそこに作り出してくれていた。
 橋を渡りきると、右手から河口に降りられる細い道が有るのが目についた。その道の手前で僕は自転車を降りた。自転車を押して、草に埋もれかけた道を下り、僕は河口の岸にたどり着いた。
 僕と同じことを考えて、その場所に来たと思われる先人が残した天然水のペットボトルが、日陰の少し外で陽を浴びていた。僕は自転車を止めると、橋の下の日陰に逃げ込んだ。そうして、座るのにもちょうど良い階段状の護岸の上に腰を降ろし、リュックを右側に置いた。
 橋の上はフライパンで焼かれているように暑かったのに、その下の日陰は嘘のように快適な場所だった。僕は、海が見やすいように少し、体を左側に向けると、しばらくずっと、ただ目の前の神秘的な青に見とれていた。一人でそうしていると、海の青に染まって、濁った心が透き通ってゆくような気がした。

 そうこうしているうちに、僕は少し後悔の念に駆られた。こんな素晴らしい海の色を、さっきの少女と一緒に見られたら良かったのにと思った。もし、あの少女が、今ここにいたら。そんなことを考えていたら、ふと、歌の構想が浮かんできた。オリジナルの歌を作るのが、誰にも話したことがない僕の秘密の趣味だった。
 僕は脇に置いたリュックから青いノートとペンを取り出した。そのノートは、僕がそれまでに作った歌の歌詞を書き留めたものだった。ノートを開くと、僕は、とりあえず、使えそうなキーワードをノートに書いていった。
「南の島」、「海の青」、「美少女」、「自転車」、「遠距離」、「運命の出会い?」
 イメージは広がっていったが、逆にまとまりがつかなかった。眼前の美しい海を見ながら創作に没頭しているうちに、時間はどんどん、過ぎていった。

 一度は一休みしてペットボトルのお茶で喉を潤したものの、僕は再び歌作りに没頭してしまった。だから僕は、周囲の小さな物音には、まったく注意がいっていなかった。故に、僕は自分の少し後方にトートバッグが置かれた音にも気づかなかった。
「何を書いているんですか?」
 右を見ると、先ほどの少女が、僕の斜め前にしゃがみこんで、僕の顔をのぞき込んでいた。その情景も、僕は前に見たことがあるような気がした。
『君をモデルにして歌を書いているんだ』とは口が裂けても言えなかった。突然の出来事に僕は激しく動揺した。顔が火照るのが分かった。頬が赤くなってはいないかと心配になった。だから僕は少女から顔を背けて海の青をみつめた。
 少し落ち着きを取り戻した時、僕は、まだ、少女の問いに答えていなかったことにようやく気がついた。少女の方に目をやると、少女は嫌な顔もせずに僕の答えを待っているようだった。
「ああ、ごめんなさい。急に人の声がしたので驚いてしまって。ああ、これは、うん、そう、実は旅の記録をつけていたんです」
 僕は、慌ててノートを閉じると、ペンと一緒にリュックの中にねじ込んだ。少女は僕の答えを疑っているようにも見えた。
「旅の記録ですか。なるほど。ああ、私、まだ名前も名乗っていませんでしたね。私の名前は上野瑠璃子、高校三年生です。あなたの御名前は?」
「僕は前田蒼太。君と同じ高校三年生です」
 僕の少々暗い返答とは逆に、瑠璃子は明るかった。
「あれ、私たち、同い年だったんだ。だったら、もう敬語は止めようね」
「ああ、そうだね」
 僕は、瑠璃子の明るさに少し押されたようにそう答えた。
「蒼太君、随分と良い場所を見つけたんだね。奇麗な海が見えるし、日陰で快適だし。今、私たちが見ているのが、ここでしか見られない青なんだね」
「そのようだね。ああ、そうだ」
 僕は、ふと思い出し、リュックの中からブルーシートを取り出した。リュックを背中の方に置き直すと、シートを僕の右側に敷いた。
「よかったら、座らない?」
「ありがとう」
 言いながら、瑠璃子は僕の隣に腰を降ろした。それから、瑠璃子は、しばらく、まるで一人でそこにいるかのように、黙って海を見つめていた。

 相変わらず動揺が収まらないまま、僕も黙って海を見ていると、瑠璃子が沈黙を破った。
「蒼太君、東京の高校なんて羨ましいな」
「東京といっても、千葉県境に近い田舎の都立高校だからね」
「そう?都立なんて響きだけでカッコいいけどな。本当に田舎の高校生からすると」
 熊本の人には東京の状況など、まるで分かっていないのだろうと思った。地方では、
公立は、大抵、私立の上だと思い込んでいるのだろう。話の流れで、僕も瑠璃子に尋ねた。
「君はどっちなの、私立、それとも県立?」
「私は国立の高校に通っているの」
 何気ない瑠璃子の返答は僕を打ちのめした。瑠璃子は僕とは比べ物にならないエリートだったのだ。黙り込んだら、落ち込んだことがバレそうな気がして、僕は平静を装って、すぐに言葉をつないだ。
「国立なら、大学の付属だよね。そのまま、上の大学に行くのかな?」
「ううん、指定校推薦で私立の大学に行くのが決まっているの」
 国立の高校から私立大の指定校推薦。瑠璃子は進学先の大学名を明かさなかったが、超一流の私立大学に間違いなかった。僕は、自分の掘った墓穴を更に深くしたような気がした。
 僕の様子に気づいたのか、瑠璃子は僕の進路については聞いてこなかった。そして、当たり障りのない方向に話を振った。
「ねえ、蒼太君は漫画とか、アニメとか好き?」
「うん、好きだよ」
 そこから僕たちは、延々と漫画やアニメの話に花を咲かせた。瑠璃子と僕はアニメや漫画の趣味が良く似ていた。瑠璃子は僕の好きなマイナーな漫画やアニメも良く知っていた。男友達とさえ共有できなかった感動を可愛らしい女の子と語り合えて、僕はすっかり舞い上がってしまった。そんな話をしている間は、瑠璃子もまた、自分と何ら変わらない、身近な高校生のように思えた。

 しかし僕は、やがて現実を思い知らされた。
「ねえ、私、夕方の船で石垣に戻るんだけど、蒼太君は?」
 漫画やアニメの話が途切れた所で、僕は瑠璃子にそう聞かれたのだ。僕と瑠璃子は所詮、別の世界の人間だということを思いだした。
「僕も、夕方の船で石垣に戻って、東京には明日帰るんだ」
「そう、私は、今日の夜の飛行機で熊本に帰るんだ。大きな荷物は石垣の離島ターミナルに預けてあるの」
「へえ、そうなんだ」
 僕は、あまり関心がなさそうな返事を返したが、実際はそうではなかった。切なくて仕方がなかった。
 僕たちは、それからしばらく、また黙ったまま、そこでしか見えない海の色を見つめていた。たとえ僕たちの出会いに未来など無いとしても、時間が許す限り、瑠璃子と一緒に海を見ていたいと思った。

「ねえ、蒼太君は、アニメや漫画以外に趣味とかないの?」
 しばらく続いていた沈黙を破ったのは、またも瑠璃子の方だった。
  情けないことに、瑠璃子に魅かれ、すっかりガードを下げてしまっていた僕は、それまで誰にも話したことのない秘密をポロリと漏らしてしまった。
「僕はね、オリジナルの歌を作るのが好きなんだ」
「ええ、本当?自分で作詞・作曲をするってこと?」
 瑠璃子は目を丸くして僕の顔を覗き込んだ。僕は瑠璃子の過大な妄想を否定しなければいけないと思った。
「作曲っていう程、大袈裟なものじゃないよ。歌詞に合わせたメロディーを作ってるだけで、伴奏も付いていないんだ。僕は何も楽器が弾けないから、自分の歌を披露する機会もなかったんだ。だから、僕は誰にも自分の歌を聴かせたことがないんだ」
「ええ、でも、凄いよ。私、子供の頃からピアノを習ってるけど、作曲なんてしたことないもの」
 瑠璃子は相変わらず、感心しきっていた。エリートの瑠璃子がそんな風に思ってくれたことは少し嬉しかった。
「ねえ、ひょっとして、さっきの青いノート、中に蒼太君の作った歌の歌詞とか楽譜とかが書いてあるんじゃない?」
 瑠璃子は一段と目を輝かせていた。やはり、瑠璃子は僕がノートに書いていたのは、旅の記録ではないと疑っていたようだった。
「楽譜なんてないよ。書けないから。メロディーは頭の中にあるだけだよ」
「でも、歌詞は書いてあるんじゃないの」
「まあ、そうだけど」
「じゃあ、歌ってみてくれない」
 瑠璃子の唐突な要望に僕は仰天した。
「いやだよ。本当に人に聴かせられるレベルじゃないんだから」
「ねえ、どうして決めつけちゃうの?人に披露したことがないんでしょう。だったら良いか悪いか、レベルなんて分からないじゃない」
 瑠璃子は、それまでの態度とは少し変わって、妙に強く主張をしてきた。
「そんなもの、披露しなくても分かってるよ」
 瑠璃子に歌を披露する。とてもそんな自信はなかった。
「そうかな、私はやってみなくちゃ分からないと思うけどな。蒼太君が歌ってくれれば、私、楽譜ぐらいは起こせるし、簡単なピアノ伴奏なら付けられるよ」
 瑠璃子が僕の歌を弾き語りで歌っている様子が心に浮かび、一瞬、僕は夢心地になった。しかし、そんな気持ちはすぐにしぼんだ。瑠璃子は話の流れでそう言ったものの、そんなことが実現するはずはないとすぐに気づいた。僕たちは、もうすぐ、違う街へ、いや、違う世界に帰って行くのだから。
「瑠璃子さん、そろそろ港に戻ろうよ。乗り遅れたら大変だから」
 僕は瑠璃子の返答も待たずに立ち上がると、リュックを背負い、自転車のハンドルに手をかけた。ふと見ると瑠璃子は、まだ座ったまま海を見ていた。僕が歌の話を打ち切ったやり方には納得がいかないと言いたげだった。

 第3章

 久留島港で船を待っている間、瑠璃子は飼っている犬のことを嬉々として話し続けた。その様子は、まるで、『さっきのことは気にしていない』と必死に伝えようとしているように見えた。

 やがて、到着した船の座席に僕たちは並んで座った。瑠璃子が窓側、僕が通路側だった。船が出港するまでのわずかの間に、旅の疲れが出たのか、瑠璃子はうたた寝を始めてしまった。船は緩やかに港を離れたので、瑠璃子が目を覚ますことはなかった。
 船が港の防波堤を抜けると、窓の向こうに、来た時に見たのと同じ、青とも緑ともつかぬ美しい海が帰ってきた。僕は瑠璃子の横顔と、その向こうに流れてゆく海の色から目を離すことができなかった。僕は、その夢の中のような情景を、いつまでも見ていたいと思った。しかし、船が珊瑚礁を外れ、外洋に出ると、海の色は見慣れた色に変わった。僕は正面の座席の後部をみつめ、小さくため息をついた。

 船が石垣港の防波堤の内側に入り、いよいよ、瑠璃子との時間も終了目前だと思ったその時、小さな奇跡が起きた。瑠璃子の頭が、僕の肩にもたれた微かな重さと、甘い温もりを感じたのだ。
 胸がキリキリと痛んだ。切なかった。それは永遠のような一瞬だった。瑠璃子はすぐに目を覚まし、自分が僕にもたれかかって寝ていたことに気づくと、感電でもしたかのように跳ね起きた。
「ごめんなさい」
 そういうと、瑠璃子は窓の方に顔を背けてしまった。何も言わないでおくのが良いのだろと思い、僕は沈黙を決めこんだ。

 石垣港の浮桟橋に着岸して、船が少し揺れると、いよいよ、お別れかと思った。ほどなく船は桟橋に固定され、ドアが開いた。船を降り、浮桟橋を歩いていると、心が大きく揺れるのを感じた。もっと瑠璃子と繋がっていたいと思った。
 しかし、僕たちの出会いには、やはり続きがあるようには思えなかった。東京と熊本、その距離はあまりにも大きかった。それ以上に落ちこぼれとエリートの格差はもっと大きかった。
 瑠璃子との出会いは、やはり、ひと時の旅の出会いとして、美しいままで終わらせるべきものだ。それ以上のことを望んでも、それは美しい思い出を台無しにして、お互いに気まずい思いをするだけだと思った。高望みをしてはいけないのだ。このまま別れる、それが僕の取るべき道なのだという気がした。桟橋を渡り切った所で僕は口を開いた。
「じゃあ、僕はこっちだから」 
 僕は港の左手を指さし、離島ターミナルの建物には入らないことを伝えた。
「え、ああ、うん」
 瑠璃子は、あっさりと別れを示唆されたのが心外だという顔をしたような気がしたが、未練がましい妄想だと僕はすぐに否定した。
「蒼太君、じゃあね。お話しできて楽しかったわ」
 そっけなく言うと、瑠璃子は右手にある離島ターミナルの建物の入口の方に向かった。僕は、そのまま、瑠璃子の後姿を見送った。追いかけることができなかった。
『そうだ、これでいいんだ』、そう思った。いや、思おうとした。その裏側で、僕は瑠璃子に拒絶されることを恐れているだけなのだと分かっていた。しかし、それでも、離島ターミナルの建物に入る自動ドアを抜けて、遠ざかってゆく瑠璃子の背中を追うことができなかった。卑屈な自分が本当に情けなかった。
 ふと、その時、僕の中で、もう一人の僕が叫んだような気がした。
『何やってんだ。追いかけろよ。一生後悔するぞ。何もしねえうちに諦めてんじゃねえ』
 その声に叱咤されて僕は走り出した。自動ドアを抜けて瑠璃子の許に駆け寄った。
「瑠璃子さん」
 呼び止められて、瑠璃子は僕の方を向いた。僕は覚悟を決めて、言えなかった言葉を口にした。
「あの、瑠璃子さん、SNSとかやってる」
「うん、やってるよ」
 瑠璃子は少しぎこちない笑顔を浮かべた。
「よかったら、僕と友達になってくれないかな」
 次の言葉はスラスラと出てきた。
「うん、喜んで」
 言いながら、瑠璃子は、その日一番の笑顔を浮かべた。

 エピローグ

 五ヵ月後、僕の目の前には、あの日と同じ海の青があった。三月の終わり、僕は、また、間仲川の橋の日陰で青いノートにペンを走らせていた。

『あんた、島で天使に会ったみたいね』
 島に出発する直前に、母に言われた。五ヵ月前、島から帰って以来、僕が目の色を変えて勉強を始めた理由を母はお見通しだったのだ。
 僕は瑠璃子に相応しい男になろうとした。卑屈になるのは止めようと思った。瑠璃子は大学の偏差値で他人を見るような人ではないことは分かっていた。第一志望に受かるか受からないか、その結果は、僕にとって、最も重要なことではなかった。ただ、自分は精いっぱい努力したのだと、瑠璃子に胸を張って言えるようになりたいと思った。その結果、僕は本来の第一志望、早大の英語英文学科に合格してしまった。母の言う通り、確かに瑠璃子は天使だった。

 青いノートに、最後の一文字を記した時、右から声が聞こえてきた。
「何を書いているの?」
 右を見ると、少女が、僕の斜め前にしゃがみこんで、僕の顔をのぞき込んでいた。
 五ヵ月ぶりに見る瑠璃子の姿だった。
「君をモデルにした歌を書いていたんだ。五ヵ月前に構想が浮かんでから、そのままになってたんだけど、ちょうど出来上がった所だよ」
「ええ、本当。見せて、見せて」
 そう言って僕の隣に腰を降ろした瑠璃子に、僕はノートを手渡した。瑠璃子が歌詞を読んでいる間に、僕は前方の海に目を向けた。
 今日もまた、ここでしか見えない青が奇麗だった。ふと、もしあの時、瑠璃子の背中を追えなかったら、僕はどうなっていたのだろうかと思った。僕は、僕の中で叫んだもう一人の僕に感謝したい気持ちになった。
 この海の青に魅かれて僕たちが出会ったのは、やはり運命だったのだろう。僕たちは来週から、同じ学科に通うクラスメートになるのだから。

                            終