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フライングした蝉がなきだす春と夏のちょうど真ん中あたりのこと。まだ昼の延長線上にあるような明るい空が、窓の向こうに見えていた。試験期間の放課後の校舎は、どことなく余所余所しい。
<明日の17時半頃から第二理科準備室で化学のテスト対策を行います。たくさんきてね>という文字と、うさぎの絵が隅に描かれた手書きのプリントが学年の掲示板に貼ってあった。
化学が大の苦手なわたしは、それを見た瞬間に行くことを決めた。奈々を誘ってみたけど、化学とか捨て教科だし一宮もあんまり好きじゃないからいかな~い、とあっさり断られたので、渋々ひとりで行くことになった。
荷物をすべてもって、第二理科準備室へ向かう。
テスト期間中の先生ってけっこう忙しそうだけど、大丈夫なのかな。新人だから仕事が少ないのかもしれないな、なんて生意気なことを思いながら準備室の扉を開けると、先客がひとりいた。
「あ!」
思わず発してしまった声に、相手は、ふにゃりと頬をゆるめた。よく見知ったその顔に、わたしも安心して笑い返す。
準備室の扉を閉めて、足を進める。
埃の匂いと、まだ外は明るいはずなのに、部屋に広がる若干の不気味な雰囲気。その真ん中にどかんと座るひとは、去年同じクラスだった男の子だった。
「眞島かあ」
「久しぶり、野坂。ひとり?」
「友達誘ったけど断られた」
「おれも。でも、化学一番苦手だからどうしても参加したくて」
「眞島苦手なの? わたしも一番苦手な教科だよ」
「やなおそろいだなあ」
苦手な教科で盛り上がるのも悲しい気がしたけれど、テスト対策に参加する人が自分以外にもいたことに安心した。それに、眞島とふたりなら楽しそうだと思った。同じクラスだったときに、彼がとても面白い人だということを知って、それから、なんとなくずっとメッセージアプリでのやり取りを続けている相手でもある。
「となり座ってもいい?」
「ん。いいよ」
眞島の隣に腰をおろして、鞄からノートと筆箱を取り出す。眞島は、化学の教科書をぺらぺらと捲りながら、呪文だ、としかめっ面をした。
しばらくふたりでいたら、廊下からぱたぱたと忙しない足音が聞こえて、勢いよく扉が開く。わたしと眞島は一斉に後ろを振り返る。
「ごめん! 遅れちゃった!」
前髪を乱して、ぜえぜえと息を切らした先生が、プリントを抱えながらわたしたちのところまで来る。時刻は午後十七時三十五分で、そこまでたいした遅れではないのに、律儀なひとだな、と思う。廊下は走りません、という立場であるはずなのに、このひとはきっと全速力でこの場所まで来たのだろう。
「というか、ふたり?! もっと来ると思って、たくさんプリント用意したんだけどな」
「あはは。あのうさぎのイラストがだめだったんじゃないっすか?」
「眞島くん失礼な! 頑張って描いたのに。あ、でも来てくれてありがとね。んんん、野坂さんも、ありがとう。それでは早速、大事なところと、間違えやすいところ、プリントにまとめてきたから、くばりますね」
にこにこと先生は笑っている。わたしからすれば、テスト対策してくれて、こちらこそありがとう、である。眞島もきっとそれは同じだ。
「先生、質問でーす」
「なんですか? 野坂さん」
「今回のテストって誰が作るの?」
「あはは、それは、企業秘密でーす、んんんっ」
「はい、先生」
「なんですか? 眞島くん」
「学校は企業ではありませーん」
「あはは、確かに。んんん、はい、まあ細かいことはそこまでにして、プリント、一度自分たちで解いてみて。その後、解説します」
先生お手製のプリントが机に二枚置かれた。モル濃度、イオン、化学式、構造式。基礎のまとめの部分。ところどころに可愛いうさぎのイラストが描いてあって、先生はうさぎが好きなんだなあ、とぼんやり思う。
課題のワークの教師確認欄に押されるハンコもうさぎのイラストだった。可愛い。そう思う反面、そういうところがクラスの女の子から、『いい歳してるくせに媚び売っててキモイおばさん』などと言われる理由なのかもしれない、とも思う。まだ先生は確か三十歳にはなっておらず十分若いはずだけど、わたしたちからすれば、十分すぎるほどの大人だった。
乱れた前髪を手ぐしでとかしながら、先生がわたしたちの前に座る。先生の呼吸は、ようやく落ち着いてきたようで、準備室は心地よい沈黙に包まれた。眞島は机に顎をついて、じっとプリントの上の部分を見つめている。わたしはペンを握って、プリントに向かう。部屋の向こうからは、知らない生徒の笑い声が聞こえてくる。
平和だなあ、と思いながら、いざ一問目を解こうと頭を動かし始めた瞬間に、平和は瓦解した。
「呪文だ」
わたしがうめくように放った言葉に、眞島はこくこくと頷いて、先生はため息をひとつ落とした。
「んんん、先生は日本語で書きましたよー」
「呪文にしか見えないよ」
「もう、二人とも。んん、それじゃあ、一緒にはじめから解いていこうか」
その言葉に、眞島はぱっと顔を明るくさせる。おそらく、わたしも同じような反応をしたからだろう。先生は、くふふ、と堪えきれずに笑って、わたしたちの方にぐっと身体を近づけて、優しくまあるい声で、呪文の解説をはじめた。
「はい、んんん、だいたい分かったかなあ? モル濃度とモル体積しかできなかったけど」
「呪文じゃなくなった」
「あはは、よかった、それは」
「先生、明日からもやってよ。化学、最終日だからあと三日もあるし」
「それ賛成。先生、わたしもやってほしいよー」
「先生も暇じゃないんだよ? んん、んー、でも、うん、できないことはないから、明日からもやろっか!」
わたしと眞島に優しく微笑んだ先生に、このひとは媚びを売っているわけではなくて、ただ、屈託がないだけなのだろう、と思った。だけどそれが、この場にいない奈々や他のひと達に伝わることはない。残念な気もするけれど、わたしと眞島だけが普段よりも優しくて気の抜けた先生の姿を見ているのかと思うと、その特別にどこか自慢げに思う自分もいた。
「じゃあ、明日も、んんっ、よろしくね、明日はイオンをやろうねえ」
「げ、呪文中の呪文じゃん」
「あはは、大丈夫だよ。魔法使いになれるよ。じゃあね、二人とも気をつけて帰ってね」
先生が先に準備室から出ていく。薬品類ではなく模型ばかりが置いてある第二理科準備室は、一々施錠しなくてもいいようだ。
「このままだと化学が一番いい点数とれそう」
「最高得点競っちゃう?」
「いいよ。おれ、野坂には負けないと思うけどな」
「ちなみに眞島、二年の最後の期末何点だったの?」
「えー、忘れた」
眞島が、髪の襟足を撫でながらにやりと笑う。
「うそだー、絶対覚えてるでしょ?」
「そういう野坂は?」
「42点」
「わっ、ひでーな。まあ、おれもそのくらいだった。45点」
「覚えてるじゃん。あはは、本当にいい勝負だね」
眞島の指から自由になった彼の襟足。彼と出会ってしばらく経ってから見つけたものを再確認できたことが、わたしは嬉しかった。
結局、先生に取り残されたわたしと眞島は、今日の内容をふたりで復習しあって、警備員の人が鍵を閉めにくるまで準備室に居座った。試験期間中はたくさんの生徒が学校に残っているけれど、さすがに警備員が巡回するまで残っている生徒はほとんどいなかった。
もうほとんどひとがいなくなった校門まで、眞島と並んで歩く。
「野坂、電車だっけ?」
「うん、眞島も?」
「おれは自転車。家近いから」
「いいなあ、家近いの。ずるだ」
「家から近いってのが、この高校選んだ理由だし」
「ずうるう」
「ずるずる言いたい野坂さん、かわいそーだし、駅まで送ってやるよ。自転車とってくるから、ちょっと待ってて」
眞島はそう言ったと思ったら、わたしの返事も待たずに、自転車置き場の方へ行ってしまった。
ゆうちゃんはいいのかな。眞島の遠くなっていく背中をじっと見つめながら、彼の恋人の心配をする。
去年、同じクラスだったから、眞島に恋人がいたことは知っていた。ゆうちゃんは、可愛くて小さくて笑うと顔がしわしわになるショートカットの女の子だ。わたしが眞島に駅まで送ってもらうのを、誰かに目撃されて悪い噂が立ったら、わたしも眞島も少しだけ生き辛くなってしまう。本当はもう少し眞島と話をしていたい自分がいるけれど、明日からの日々が面倒なものになるのは絶対に避けたかった。
「お待たせ」
人の気など全く知らない眞島は、年季の入った自転車をひいて、にっこり笑った。わたしは一度頷いて、「でも、」と言いづらそうな表情をつくって言葉を発する。
「眞島の彼女に誤解されたらやだし、別々に帰るほうがいいんじゃないかなあ。ね?」
「あ、ゆうのこと?」
「うん、ゆうちゃん」
「別れたよ、結構前に」
「えっ、嘘。なんでまた」
「んー、冷めたから」
爽やかな笑みを顔に浮かべたまま、冷めたから、なんて冷たい理由を示した眞島に、わたしは内心でぎょっとした。
彼は、右手で自転車のハンドルを、左手で自分の髪の襟足を触りながら、冷めるのって一瞬だよまじで、とあっさり言いのけた。本当の理由は違うところにあるでしょ眞島。などと、さすがに踏み込む気は起きなくて、そっかあ、とだけ相槌を打った。正直なところ、自分が面倒な目にあわないならば、眞島の恋愛事情にそこまで興味はなかった。
「あ、野坂は大丈夫? 彼氏いる?」
「いると思う?」
「うん。野坂だし、普通にいる可能性高いと思って聞いてる」
「ざーんねん。今はいない」
「じゃあ、遠慮なく送らせてもらうな」
普通は、遠慮なく、は送られる側の台詞じゃないかな、と思ったものの、眞島はもう駅の方へ進み出していたので、余計なことは言わないことにした。遠慮して送られます、心の中で返事をして、わたしも歩き出す。
「ありがとう、眞島」
「うん」
明日からも、こうやって二人で駅まで歩く時間が数日だけ続くのかと思うと、少しくすぐったくて、結構、嬉しかった。
「はい、じゃあ、んん、今日はこれで終わり」
約束どおり、先生は化学の試験がある日の前日まで、みっちりと化学の基礎を教えてくれた。
二日目以降の先生はかなりのスパルタで、それでも眞島と二人で受けるテスト対策は楽しくて、分からなかったことが分かるようになって呪文が呪文ではなくなったことで、魔法使いになれたみたいで嬉しかった。先生は、毎日、手作りのプリントを持ってきてくれた。どのプリントにも必ず、手描きのうさぎのイラストがあって、少し面白かった。
「先生、わたし百点とれちゃうかも」
「おれも」
「んんん、頼もしいね二人とも。期待してるねえ」
屈託のない先生の笑顔。名前通りの人だな、と思った。
一宮笑理。先生の名前はどうしてか漢字で記憶している。下の名前には、「笑」という文字が使われている。
影ではみんなに、”えみちゃん”と呼ばれているけど、それは、親しまれているというよりは、少し小馬鹿にする意味合いの方が強かった。先生は直接そう呼ばれても怒ったりしないけれど、本人の前で呼ぶのは、気が引けた。眞島も、きっとそうだ。二人きりの帰り道では、”えみちゃん”と言っていたけれど、準備室では“先生”と呼んでいたから、意図的に使い分けているのだと思う。
「先生、ありがとうございました、本当に」
「んんん、どういたしまして」
「おれ、まじでベストを尽くします」
「うん、んんん。ベストを尽くすことが一番だよ、何事も。んんっ、ふたりとも応援してるからね」
先生は、筆箱にボールペンと赤ペンをしまって、持ってきた教科書やプリントを重ねて角をそろえてから、立ち上がった。にこにこと、何がそんなに楽しいのかわからないけれど、ずっと笑っている。
この数日でさらに夏に近づいていて、エアコンの効きが悪いのか準備室は蒸し暑かった。うなじのところにじんわりと滲んだ汗を、一度、手の甲でぬぐって、下じきで仰ぐ。眞島はブレザーを脱いで、ワイシャツの裾もズボンの裾もまくっている。
先生と眞島とわたし。三人だけの化学のテスト対策が今日で終わってしまうのかと思うと、少し寂しかった。
「あ!」
物思いに耽かけていたところで、突然大きな声が発せられたものだから、身体が小さく跳ねる。声の発信源である先生の方を見ると、彼女は、何かとっておきの閃きをしたような誇らしげな表情で、わたしたちの方を見ていた。
「ちょっと待っててね、二人とも!」
せっかく角をそろえたプリントと教科書を雑に机の上に置いて、先生は準備室を出ていった。
そして数分後、がらがらと音を立てて準備室の扉が再び開いた。わたしと眞島はぽかんと口を開いたまま、返ってきた先生の両手に握られていたものに目を向ける。
先生は、廊下を走りません というルールをどうやら知らないみたいだ。準備室に入ってくるときの先生の呼吸はたいてい乱れていて、わたしたちからすれば十分すぎるほどの大人のくせに、子どもみたいで可笑しい。
先生は、わたしと眞島の前に、自分が握っていた缶をそっと置いて微笑んだ。
「んんん、二人とも、たくさん頑張ったから、先生からのご褒美です。あ、内緒だよ」
「……」
「……あ。もしかして、いらないの?! いらないなら、んんん、二缶とも先生が飲みますっ」
わたしも眞島も何も言ってないのに、ひとりで焦りだす先生に、堪えきれず吹き出してしまう。
「ご褒美のセンス、おもしろすぎるよ先生。わたしたちのこと笑かそうとしてるでしょー」
「んんん、先生は、いたって真剣だよう、失礼だなあ」
缶のプルタブを開けると、その隙間から湯気がのぼる。握る右てのひらのなかが、じんわりと熱くなった。
どうして、先生は、まさに夏になりかけているこの季節に、おしるこなんて選んだのだろう。わたしだったら絶対に選ばないし、眞島も選ばないだろう。それでも、数ある飲み物の中からほかほかのおしるこを選ぶのは、なんだか先生らしいなとも思った。
缶を傾けると、小豆の香りと甘ったるい汁が一緒になってむわりとわたしを襲う。だけど、あたまを使った後だからか、蒸し暑い部屋の中にいても、おしるこはじんわりと優しく身体にしみていった。
先生は、しばらくわたしたちがおしるこを飲む様子をにこにこ見ていたけれど、腕時計をちらりと確認して立ち上がる。
うさぎの筆箱、化学を教えているときの生き生きとした表情、手描きのうさぎのイラスト、好きな物事に真っ直ぐな先生は、自分が思っていたよりもうんと素敵なひとだった。そう思った。そう思っている自分も素敵であるような気がした。
「先生、そろそろ行くね。んんん、じゃあ、二人とも明日は、ベストを尽くしてね」
「先生、対策もおしるこも、超感謝」
「季節感ないけど、意外に美味しいっす。おれも、超感謝」
「ふたりとも、おしるこは一年中旬なのっ。んんん、じゃあね。今日も気を付けて帰ってね」
友達に手を振るような軽やかさで挨拶をして、先生が、準備室から出て行く。
モル濃度、イオン、中和滴定。公式や知識で準備室のなかはいっぱいで、そこにおしるこの甘ったるさが加わり、それらと結びつく。まるで化学反応みたいだな、と思う。結びついて起きた反応は、のどかな幸福そのものだった。
「おれ、おしるこ数億年ぶりに食べた」
「わたしも自販機のおしるこははじめて」
「あんなの買うひと、いるんだなあ」
「えみちゃんとかね」
「うん。”先生”、とか」
「.......“先生”、いいひとだね」
「うん」
「おしるこくれたし」
「はは、そうそう。なんてったって、おしるこ、くれたし」
「おしるこでいい先生になっちゃうの、ちょっと面白いけどね」
わたしも眞島も、もう、先生がいないところであっても、”えみちゃん”とは呼ばなかった。
「ていうか、先生って口癖あるよね。言葉の途中で、絶対に、んんん、って言うの」
「ああ、あれな。口癖っていうか、チックかもなあ。ちょっとエロいよな」
「うわ、眞島変態みたいなこと言うー」
「仕方ないっすよ。喘いでるって脳が変換すんの、おれの意思とは関係なく」
「軽蔑しちゃう。てか、チックってなに?」
「自分の意思とは関係なく出ちゃうやつ。てか、野坂、軽蔑って。男なんてそんなもんだからな? あ、でも、あんまりひとには言わないでおこ。先生さ、一部からあんまり好かれてないし、そういうの張り切って馬鹿にするやつとかいるじゃん?」
「そうだね。化学教えてくれたし、おしるこもくれたし、秘密にする」
「そうそう、おしるこくれたし、おれらの秘密な」
眞島はにやりと悪戯っこのように笑って、おしるこをすすった。
わたしは、とても誇らしかったのだ。
先生がよくする動作を発見したということは、先生の、先生でさえ知らない部分を知ったということで、そのぶんだけ、先生との距離が縮まったような気でいた。好きだと思った大人な先生が、手を伸ばせば、わたしたちのところまでおりてきて、友達みたいな距離になる。そのことだって、嬉しかった。
それに、わたしは眞島の秘密も知っていた。とにかく、誇らしい気持ちでいっぱいだった。優越感もびたびたになるほど抱いていた。
だから、眞島と、秘密にしようって約束したことなど、おしるこの缶をゴミ箱に捨てるころにはすっかり忘れていた。
────傲慢、そのものだった。
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オルゴールの音楽が控えめに鳴っているだけの静かな保健室で、からからと扉が開く音が聞こえた。
あのあたたかな過去から現実へと意識が戻る。心臓がこくんこくんと毛布の中で音を立てていた。養護教諭には、からだがマシになるまでは休ませてください、と嘘を吐いて、もうかれこれ三時間以上は横になったままじっとしている。
さきほど、ふつうのよりも長いチャイムの音がオルゴールの音色を裂くように響いて、昼休みがはじまったことを理解した。少し前から不規則な間隔でお腹が音を立てていて、どれほど絶望していても、どれほど罪悪感に押しつぶされそうになっていても、お腹は空くし、わたしは生きることを求めてしまう。
ひとを容易く笑わせることができるのならば、自分以外の誰かが傷ついてもいいし、自分が助かるならば、自分以外の誰かが犠牲になってもいい。奈々がわたしを好きでいて、そばにいてくれるなら、牧なんてどうだっていいし、毎日の退屈をしのぐためなら、誰かの秘密を笑ってもいい。
眞島。ちょうど、羽のような軽さだった。一度手放したものは、わたしのもとから一瞬で離れて、黒く染まった。そんなに黒くなるなんて、わたしは思いもしなかった。
だけど、眞島。染めたひとたちのせいではないのです。手放したのは、わたしだ。手放さなければ、きっと、どす黒い色に染ることはなかった。
眞島。
カラスから羽が抜けて落ちる。その瞬間と同じくらい、あなたとの約束を破るのは簡単だった。
眞島。
ゆっくりと近づいてくる足音に、わたしはぎゅっと身体を縮こませる。毛布を強く握りしめて、浅い呼吸を繰り返す。場所をメッセージでは告げていないけれど、この数ヶ月で確かに他人に戻ったはずの眞島が、いま、ここに来たのだと、わたしは確信する。正確には、願い、だった。
付き合ってるわけでもない。正直にいえば、眞島のことが恋愛として好きかどうか訊ねられても、わたしは答えられないだろう。だけど、あの日、二人で先生のテスト対策をうけて、先生からもらったおしるこを飲んで、笑った。先生の大人としての優しさやお茶目なところに触れた、あの時間を共有している。
だから今、わたしを犯罪者にできるのも、わたしを裁けるのも、眞島だけだと思った。世界で、たったひとり。眞島しかいないと思った。
「───野坂」
眞島の低い声が聞こえる。眞島にだけは嫌われたくなかったけれど、それと同時に、眞島にだけは嫌われるべきだと思っている。
「ましま、」
「教室行ったら森本が、野坂は保健室にいるって言ってたから。だから来た」
「うん」
「スマホ、見れなくて悪い」
「ううん。わたしこそ、突然ごめん。……ずっと返信してなかったのに」
「ん、いいよ。ほんとはずっと待ってたけど。……保健室の先生は?」
「たぶん外出中」
「そっか。……野坂」
「うん?」
「──顔、見せてよ」
おそるおそる毛布から顔を出すと、ベッドを囲むカーテンを中途半端にあけて、中を控えめにのぞくように立っていた眞島と目が合った。微笑む前のような穏やかな顔をしている。「泣いてなくてよかった」と、わたしに言う。
今、眞島が何を思っているのか分からないけれど、わたしはこのわたしを軽蔑するべき相手の顔を見て、雪崩れるように安堵した。眞島は遠慮がちにわたしの横たわるベッドに近づいて、「座っていいか?」と聞いてきたので頷く。わたしも上体を起こした。
眞島はカーテンを再び閉めて、ベッドのはしに腰掛ける。そうして生まれたセキュリティ能力皆無の半密室に、守られている、とわたしは勘違いしてしまう。そして、守られることと逃げられないことが、重なることだってあるのだと知る。
お尻の位置をずらして眞島と横並びになり、淡い黄色のカーテンを見つめながら、眞島、と名前を呼べば、彼は顔をわたしのほうに傾けて、うん、と頷いた。
ついに、わたしは覚悟する。
穏やかな彼の表情が冷めきり、もう二度と、眞島、とは呼べなくなるかもしれないことを。
カーテンから眞島のほうに視線を向ければ、じっとこちらを見ている眞島の瞳につかまった。
「あのね」
「……うん」
「先生、学校を辞めちゃった」
「知ってる。クラスのやつが話してたし」
「わたしの、せい。わたしが、わたしが、先生の秘密を奈々ちゃんたちに話したの」
「秘密ってなに?」
眞島は、忘れてしまったのだろうか。
「眞島と約束、したのに、先生のことを好きじゃない奈々ちゃんとかほかのクラスの子に、面白おかしく話したの。先生がよくすること、言葉のあいだにんんんって言っちゃうこと、みんな知ってただろうにわざわざ口にはしなかったこと。中間試験のすぐあとくらいに。眞島の言ってたことを思い出して、喘いでるみたいだよね、って。ただ、退屈をしのぐためだけに、刺激、みたいなのがほしくて、先生を馬鹿にした。……眞島、」
「……うん?」
「────悪意、があった。あんなに優しくしてもらったのに、先生のことすごく好きなのに、わたしには、あのとき、悪意があった」
「……悪意」
「それと、優越感もあったの。先生のことを、奈々ちゃんたちよりも知っているんだよ、って。そんなの、価値観が違う人たちに、先生のことを好きじゃない人たちに優越感を持ったって意味なんてないのに。好きだからこそ、なんて、今更、絶対に言っちゃいけないけど、でも、好きだったから、そういう傲りみたいなものを持ってしまったんだと思う」
泣きたい。泣きたい。泣きたい。それから、少しだけ。死んでしまいたい。
わたしは眞島から目を逸らさないし、眞島もわたしの瞳をつかまえたままだ。いつの間にか、眞島の顔からは、微笑みは消えていた。だけど、彼の表情は相変わらず穏やかで、軽蔑の色など皆無で、冷たさも全くなくて、わたしは焦る。
あなたが、あなただけが、わたしを責めてくれなければ、わたしは一生このままずっとこの場にいて、動くことができないのに。
利己的にしか思考回路は機能しない。誰かが死んでも、喉は乾くしお腹は空く。知らないひとが突然いなくなっても気づきはしないし、朝、誰かが電車から飛び降りたら、高校に遅刻しないかどうかの心配をまず先にしてしまう。今だって、責めてほしいのは、ただ自分が楽になりたいからなのかもしれない。誰にも自分の罪を知られていない苦しい状況から抜け出して、時間が経てば、許され得る犯罪者になってしまいたい。罪だと認められれば、償うだけになるから。
スカートをぎゅっと握って、眞島、とこころの中で呼ぶ。悪意と優越感、浅はかで汚い一時的な感情で、他人の人生を台無しにしてしまった。
死んでしまいたい。力強く、思っているわけではない。日々ずっと、呼吸と同じくらいなだらかに、そういう感情がわたしのなかに生まれては消えて、また生まれる。
あの日から。奈々たちに先生のことを話したあの日から、はじまってしまったことを記憶でなぞる。ざらざらしていて、鋭くて、とても暗い、なぞるたびに負傷できるような記憶だった。
「……いつの間にか、みんなが先生のことを馬鹿にするようになった」
はじまりは、鮮明に覚えている。授業が終わったあとに、クラスの中心にいるような男の子が、「えみちゃん、五十二回だったよ」と先生に言ったのだ。にやにやと下品な笑みを浮かべて、何も知らない先生の前に立つ。先生がぽかんとした顔で首を傾げたら、「喘ぎ声」と言って、吹きだすように笑った。他の男の子たちも、それに続いて笑い出す。
先生は、しばらくぽかんとしていたけれど、意味を理解することをを諦めたのか、「変なこと、言わないの」と軽くいなして、教室を出ていった。教室の下品な笑い声は、そのあとも続いた。わたしも。わたしも、笑っていた。
「先生が、んんん、て言ったら、みんなで続けてそれを真似したり、先生のことがあんまり好きじゃない女の子とかは、先生の、喋り方が気になって、授業の内容がはいってこない、なんて本人に直接文句を言ったりして。先生、プリントにうさぎのイラストよく描いてたでしょ? 先生があとで回収しますって言った、そのプリントのうさぎに吹き出しをつけて、「んんんっ」って書いて出したひととかもいて」
初めは何のことかまるで分からなかった先生も、徐々に気づきはじめた。笑顔は明らかに減って、授業であまりうまく話せなくなっているのが、わたしたちにははっきりと分かった。でも、誰もやめなかった。一度走り出してしまった列車は止まらない。先生は毎日の退屈をしのぐためのエンターテインメントの的となって、わたしたちは、容赦なく、その的めがけて矢を射続けた。
「野坂のクラスがしてたことは、噂で、ぜんぶ聞いてた」
「そう、なんだ」
「でもそのとき、憤りとか軽蔑とかはあんまりなくて、うわやばいなあ、くらいにしか思わなくて。……だから、うーん、なんて言えばいいんだろう、だから。………ごめん、言葉がでてこない」
眞島は困ったように顔を歪めて、それから、そっと、わたしの手に自分の手を重ねた。彼の手のひらの温度は、言葉のかわりとも言えるし、誤魔化しとも捉えることができるもので、わたしは、眞島の手を拒まず、じっとしたままでいた。
だけど、眞島の優しさなんて、本当はいまひとつも欲しくないはずだった。そんな生ぬるいもので、わたしを逃がさないでほしい。責めてほしい。爆発させてほしい。
そう思うのに、わたしは泣きそうで、泣きたくて、───少しだけ、満たされている。
「……ある日、ね、先生のプリントからうさぎのイラストが、消えちゃって、そのときになって、やっと、わたしは、自分がしてしまったことが、分かった」
あれは、感触だった。プリントのざらざらとした手触り、手のひらに滲む汗、唇を噛んだときの痛み、心臓の鼓動。プリントから顔をあげて、黒板の前に立つ、ひとつも笑わなくなった先生を見る。その向こうに、テスト対策をしてくれた先生の笑顔が、幻のように浮かびあがって、わたしは、自分がしてしまったことに気がついた。
大人だって人間だ。脆い部分は、かならず存在していることを。先生は、なにひとつ悪いことなどしてないのに、「こども」という免罪符をぶらさげたわたしたちに、不当に傷つけられたということを。
「それから、しばらくして、先生ね、来なくなっちゃった」
誰も自分たちのせいだとは思っていなかった。的が壊れたのは、矢を射続けた自分たちのせいではなく、的の方に問題があるのだと主張するかのように平然としていた。わたしだけが、きっと、死んでしまいたかった。
「わたしが、みんなに言わなければ、こんなことにはならなかった」
「野坂。それは、違う」
「ううん、違わない」
わたしが言わなければ、先生は、傷つかずにすんだ。花は種がなければ咲かない。種をまいたのは、紛れもなく、わたしだ。
「眞島」
手を重ねられたまま、にじむ涙を限界まで目のふちにためこんで、ぐちゃぐちゃになった感情にラベルを貼っていく。後悔、悲しみ、寂しさ、罪悪感、非難、甘え、安心、すべて名前を丁寧に貼り付けたはずなのに、割れて、粉々になって、混ざる、刺さる、血がにじむ、こころに。だけど、こんなものは先生の傷よりも、ずっとずっと、ずっと浅い。
「どうして。───どうして、誰も、わたしのことを、責めてくれないんだろう」
叩いたり蹴ったり、目に見えるような暴力は、簡単に罪になる。だけど物理的ではない暴力は、なぜこんなにもうまく隠れてしまうのだろう。
「なんで、だろうなあ」
「どう、して」
本当は、分かりはじめている。さきほどから、気づき始めてしまっている。
先生のことは、眞島にとっては、そんなにたいしたことではなくて。死にたくなってしまうほど深刻なことではないし、わたしを責めるほどの事件でもないのだということを。わたしにそのことを気づかせるには、眞島の手のひらの体温だけで十分だった。
眞島は、保健室まできてくれた。手を重ねて、慰めてくれた。だけど、責めてはくれないのだ。一生誰にも責められず、ゆるしてもらえずに、甘やかされることは、何よりもつらいことなのかもしれない。誰にも、わかってもらえない。秘密を共有しているはずのひとにだって。死ぬまでずっと、この気持ちは誰にも。───生まれて初めての、ほんものの孤独、だった。
「野坂」
「な、に」
「おれは、野坂のこと責められないよ。野坂がどれだけ責めてほしくても」
「……どうして」
「野坂が思うよりもやさしくないし、正しくもないから」
眞島は、わたしの手から重ねていた手を離して、わたしの顔をのぞきこむ。それから、甘やかすように目尻を下げた。
わたしは、ゆっくりと、頭の中で彼の言葉をなぞる。眞島、優しさを行使しないのは、二重に優しさで、その優しさがある限り、わたしは永遠に、先生の傷にとらわれたままになる。
だけど、それで、いいのかもしれなかった。
毒されて、毒されて、なにが愛なのか、なにが善悪なのか、判断ができなくなって、背中に生えた黒くて冷たい翼で、見かけだけ綺麗な未来へ飛び立とうとするとき、それはたしかな足枷になる。
にこにこと笑う先生がいた、あの埃っぽい第二理科準備室。もう二度と、あの日は戻ってこない。おしるこの味も、忘れてしまう。ただ、一生ゆるされることはない、という事実だけが、永遠にあり続けるだろう。
わたしはついに止められなくて溢れてしまった涙を強引にぬぐう。それから顔をあげて、眞島の方をもう一度見る。眞島は、穏やかな表情のままで、野坂、とわたしを呼ぶ。
「あのさ、こんなことを今言うのは違うだろうし、そういう問題じゃないって、野坂は言うかもしれないけど。……この前、近所のスーパーで、先生にたまたま会ったんだよ。久しぶりだし、何より突然だったし、驚いたけど。あっちもおれの名前とかは覚えていて、それで、少し話したんだけど」
「う、ん」
「いきなり休んでごめんねって言ってたのと、あとは、家の事情でどうしてもって言ってたよ。本当は続けたかったみたいだよ。笑ってたし、まあまあ元気そう、だった。……だから、野坂」
「……うん」
「───大丈夫、かもしれない」
わたしは、じっと、見つめた。髪の襟足に触れながら、言葉を慎重につむいでわたしにくれる眞島のことを。
そうしたら、さっきぬぐったばかりの涙がまた溢れ出しそうになってしまって、きつく唇を結んだ。泣きそうになっているわたしに、眞島は少しだけ安堵したような表情を浮かべて、もう一度、大丈夫、とあやすように言った。
眞島は、先生が元気そうだった、ということを聞いてわたしが安心したと思っているのだろう。本当は、全然違うのに。だけど、そうやって、分かり合わないままでいたほうが、都合がいいこともきっとあって、わたしが今、何に泣きそうになっているのかは、わたしが眞島の秘密を暴かなければ、絶対に彼には分からないだろう。
「───眞島は、やっぱり、優しいよ」
眞島が自分の襟足から指を離して、その手でわたしのあたまを撫でる。優しくて、優しくて、ただ、易しくて。だから、やっぱりわたしは、死んでしまいたくなった。
眞島。
あなたが髪の襟足を触るのは、嘘をついているときだ。
了
毒されて毒されて、きみの心臓を貫くナイフがあるかぎり、一生ゆるされないことに、きみは守られている。