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オルゴールの音楽が控えめに鳴っているだけの静かな保健室で、からからと扉が開く音が聞こえた。

あのあたたかな過去から現実へと意識が戻る。心臓がこくんこくんと毛布の中で音を立てていた。養護教諭には、からだがマシになるまでは休ませてください、と嘘を吐いて、もうかれこれ三時間以上は横になったままじっとしている。

さきほど、ふつうのよりも長いチャイムの音がオルゴールの音色を裂くように響いて、昼休みがはじまったことを理解した。少し前から不規則な間隔でお腹が音を立てていて、どれほど絶望していても、どれほど罪悪感に押しつぶされそうになっていても、お腹は空くし、わたしは生きることを求めてしまう。

ひとを容易く笑わせることができるのならば、自分以外の誰かが傷ついてもいいし、自分が助かるならば、自分以外の誰かが犠牲になってもいい。奈々がわたしを好きでいて、そばにいてくれるなら、牧なんてどうだっていいし、毎日の退屈をしのぐためなら、誰かの秘密を笑ってもいい。

眞島。ちょうど、羽のような軽さだった。一度手放したものは、わたしのもとから一瞬で離れて、黒く染まった。そんなに黒くなるなんて、わたしは思いもしなかった。

だけど、眞島。染めたひとたちのせいではないのです。手放したのは、わたしだ。手放さなければ、きっと、どす黒い色に染ることはなかった。

眞島。

カラスから羽が抜けて落ちる。その瞬間と同じくらい、あなたとの約束を破るのは簡単だった。

眞島。

ゆっくりと近づいてくる足音に、わたしはぎゅっと身体を縮こませる。毛布を強く握りしめて、浅い呼吸を繰り返す。場所をメッセージでは告げていないけれど、この数ヶ月で確かに他人に戻ったはずの眞島が、いま、ここに来たのだと、わたしは確信する。正確には、願い、だった。

付き合ってるわけでもない。正直にいえば、眞島のことが恋愛として好きかどうか訊ねられても、わたしは答えられないだろう。だけど、あの日、二人で先生のテスト対策をうけて、先生からもらったおしるこを飲んで、笑った。先生の大人としての優しさやお茶目なところに触れた、あの時間を共有している。

だから今、わたしを犯罪者にできるのも、わたしを裁けるのも、眞島だけだと思った。世界で、たったひとり。眞島しかいないと思った。


「───野坂」

眞島の低い声が聞こえる。眞島にだけは嫌われたくなかったけれど、それと同時に、眞島にだけは嫌われるべきだと思っている。

「ましま、」

「教室行ったら森本が、野坂は保健室にいるって言ってたから。だから来た」

「うん」

「スマホ、見れなくて悪い」

「ううん。わたしこそ、突然ごめん。……ずっと返信してなかったのに」

「ん、いいよ。ほんとはずっと待ってたけど。……保健室の先生は?」

「たぶん外出中」

「そっか。……野坂」

「うん?」

「──顔、見せてよ」

おそるおそる毛布から顔を出すと、ベッドを囲むカーテンを中途半端にあけて、中を控えめにのぞくように立っていた眞島と目が合った。微笑む前のような穏やかな顔をしている。「泣いてなくてよかった」と、わたしに言う。

今、眞島が何を思っているのか分からないけれど、わたしはこのわたしを軽蔑するべき相手の顔を見て、雪崩れるように安堵した。眞島は遠慮がちにわたしの横たわるベッドに近づいて、「座っていいか?」と聞いてきたので頷く。わたしも上体を起こした。

眞島はカーテンを再び閉めて、ベッドのはしに腰掛ける。そうして生まれたセキュリティ能力皆無の半密室に、守られている、とわたしは勘違いしてしまう。そして、守られることと逃げられないことが、重なることだってあるのだと知る。

お尻の位置をずらして眞島と横並びになり、淡い黄色のカーテンを見つめながら、眞島、と名前を呼べば、彼は顔をわたしのほうに傾けて、うん、と頷いた。

ついに、わたしは覚悟する。

穏やかな彼の表情が冷めきり、もう二度と、眞島、とは呼べなくなるかもしれないことを。

カーテンから眞島のほうに視線を向ければ、じっとこちらを見ている眞島の瞳につかまった。

「あのね」

「……うん」

「先生、学校を辞めちゃった」

「知ってる。クラスのやつが話してたし」

「わたしの、せい。わたしが、わたしが、先生の秘密を奈々ちゃんたちに話したの」

「秘密ってなに?」

眞島は、忘れてしまったのだろうか。

「眞島と約束、したのに、先生のことを好きじゃない奈々ちゃんとかほかのクラスの子に、面白おかしく話したの。先生がよくすること、言葉のあいだにんんんって言っちゃうこと、みんな知ってただろうにわざわざ口にはしなかったこと。中間試験のすぐあとくらいに。眞島の言ってたことを思い出して、喘いでるみたいだよね、って。ただ、退屈をしのぐためだけに、刺激、みたいなのがほしくて、先生を馬鹿にした。……眞島、」

「……うん?」

「────悪意、があった。あんなに優しくしてもらったのに、先生のことすごく好きなのに、わたしには、あのとき、悪意があった」

「……悪意」

「それと、優越感もあったの。先生のことを、奈々ちゃんたちよりも知っているんだよ、って。そんなの、価値観が違う人たちに、先生のことを好きじゃない人たちに優越感を持ったって意味なんてないのに。好きだからこそ、なんて、今更、絶対に言っちゃいけないけど、でも、好きだったから、そういう傲りみたいなものを持ってしまったんだと思う」

泣きたい。泣きたい。泣きたい。それから、少しだけ。死んでしまいたい。

わたしは眞島から目を逸らさないし、眞島もわたしの瞳をつかまえたままだ。いつの間にか、眞島の顔からは、微笑みは消えていた。だけど、彼の表情は相変わらず穏やかで、軽蔑の色など皆無で、冷たさも全くなくて、わたしは焦る。

あなたが、あなただけが、わたしを責めてくれなければ、わたしは一生このままずっとこの場にいて、動くことができないのに。

利己的にしか思考回路は機能しない。誰かが死んでも、喉は乾くしお腹は空く。知らないひとが突然いなくなっても気づきはしないし、朝、誰かが電車から飛び降りたら、高校に遅刻しないかどうかの心配をまず先にしてしまう。今だって、責めてほしいのは、ただ自分が楽になりたいからなのかもしれない。誰にも自分の罪を知られていない苦しい状況から抜け出して、時間が経てば、許され得る犯罪者になってしまいたい。罪だと認められれば、償うだけになるから。

スカートをぎゅっと握って、眞島、とこころの中で呼ぶ。悪意と優越感、浅はかで汚い一時的な感情で、他人の人生を台無しにしてしまった。

死んでしまいたい。力強く、思っているわけではない。日々ずっと、呼吸と同じくらいなだらかに、そういう感情がわたしのなかに生まれては消えて、また生まれる。

あの日から。奈々たちに先生のことを話したあの日から、はじまってしまったことを記憶でなぞる。ざらざらしていて、鋭くて、とても暗い、なぞるたびに負傷できるような記憶だった。

「……いつの間にか、みんなが先生のことを馬鹿にするようになった」

はじまりは、鮮明に覚えている。授業が終わったあとに、クラスの中心にいるような男の子が、「えみちゃん、五十二回だったよ」と先生に言ったのだ。にやにやと下品な笑みを浮かべて、何も知らない先生の前に立つ。先生がぽかんとした顔で首を傾げたら、「喘ぎ声」と言って、吹きだすように笑った。他の男の子たちも、それに続いて笑い出す。

先生は、しばらくぽかんとしていたけれど、意味を理解することをを諦めたのか、「変なこと、言わないの」と軽くいなして、教室を出ていった。教室の下品な笑い声は、そのあとも続いた。わたしも。わたしも、笑っていた。

「先生が、んんん、て言ったら、みんなで続けてそれを真似したり、先生のことがあんまり好きじゃない女の子とかは、先生の、喋り方が気になって、授業の内容がはいってこない、なんて本人に直接文句を言ったりして。先生、プリントにうさぎのイラストよく描いてたでしょ? 先生があとで回収しますって言った、そのプリントのうさぎに吹き出しをつけて、「んんんっ」って書いて出したひととかもいて」

初めは何のことかまるで分からなかった先生も、徐々に気づきはじめた。笑顔は明らかに減って、授業であまりうまく話せなくなっているのが、わたしたちにははっきりと分かった。でも、誰もやめなかった。一度走り出してしまった列車は止まらない。先生は毎日の退屈をしのぐためのエンターテインメントの的となって、わたしたちは、容赦なく、その的めがけて矢を射続けた。

「野坂のクラスがしてたことは、噂で、ぜんぶ聞いてた」

「そう、なんだ」

「でもそのとき、憤りとか軽蔑とかはあんまりなくて、うわやばいなあ、くらいにしか思わなくて。……だから、うーん、なんて言えばいいんだろう、だから。………ごめん、言葉がでてこない」

眞島は困ったように顔を歪めて、それから、そっと、わたしの手に自分の手を重ねた。彼の手のひらの温度は、言葉のかわりとも言えるし、誤魔化しとも捉えることができるもので、わたしは、眞島の手を拒まず、じっとしたままでいた。

だけど、眞島の優しさなんて、本当はいまひとつも欲しくないはずだった。そんな生ぬるいもので、わたしを逃がさないでほしい。責めてほしい。爆発させてほしい。

そう思うのに、わたしは泣きそうで、泣きたくて、───少しだけ、満たされている。

「……ある日、ね、先生のプリントからうさぎのイラストが、消えちゃって、そのときになって、やっと、わたしは、自分がしてしまったことが、分かった」

あれは、感触だった。プリントのざらざらとした手触り、手のひらに滲む汗、唇を噛んだときの痛み、心臓の鼓動。プリントから顔をあげて、黒板の前に立つ、ひとつも笑わなくなった先生を見る。その向こうに、テスト対策をしてくれた先生の笑顔が、幻のように浮かびあがって、わたしは、自分がしてしまったことに気がついた。

大人だって人間だ。脆い部分は、かならず存在していることを。先生は、なにひとつ悪いことなどしてないのに、「こども」という免罪符をぶらさげたわたしたちに、不当に傷つけられたということを。

「それから、しばらくして、先生ね、来なくなっちゃった」

誰も自分たちのせいだとは思っていなかった。的が壊れたのは、矢を射続けた自分たちのせいではなく、的の方に問題があるのだと主張するかのように平然としていた。わたしだけが、きっと、死んでしまいたかった。

「わたしが、みんなに言わなければ、こんなことにはならなかった」

「野坂。それは、違う」

「ううん、違わない」

わたしが言わなければ、先生は、傷つかずにすんだ。花は種がなければ咲かない。種をまいたのは、紛れもなく、わたしだ。

「眞島」

手を重ねられたまま、にじむ涙を限界まで目のふちにためこんで、ぐちゃぐちゃになった感情にラベルを貼っていく。後悔、悲しみ、寂しさ、罪悪感、非難、甘え、安心、すべて名前を丁寧に貼り付けたはずなのに、割れて、粉々になって、混ざる、刺さる、血がにじむ、こころに。だけど、こんなものは先生の傷よりも、ずっとずっと、ずっと浅い。

「どうして。───どうして、誰も、わたしのことを、責めてくれないんだろう」

叩いたり蹴ったり、目に見えるような暴力は、簡単に罪になる。だけど物理的ではない暴力は、なぜこんなにもうまく隠れてしまうのだろう。

「なんで、だろうなあ」

「どう、して」

本当は、分かりはじめている。さきほどから、気づき始めてしまっている。

先生のことは、眞島にとっては、そんなにたいしたことではなくて。死にたくなってしまうほど深刻なことではないし、わたしを責めるほどの事件でもないのだということを。わたしにそのことを気づかせるには、眞島の手のひらの体温だけで十分だった。

眞島は、保健室まできてくれた。手を重ねて、慰めてくれた。だけど、責めてはくれないのだ。一生誰にも責められず、ゆるしてもらえずに、甘やかされることは、何よりもつらいことなのかもしれない。誰にも、わかってもらえない。秘密を共有しているはずのひとにだって。死ぬまでずっと、この気持ちは誰にも。───生まれて初めての、ほんものの孤独、だった。

「野坂」

「な、に」

「おれは、野坂のこと責められないよ。野坂がどれだけ責めてほしくても」

「……どうして」

「野坂が思うよりもやさしくないし、正しくもないから」

眞島は、わたしの手から重ねていた手を離して、わたしの顔をのぞきこむ。それから、甘やかすように目尻を下げた。

わたしは、ゆっくりと、頭の中で彼の言葉をなぞる。眞島、優しさを行使しないのは、二重に優しさで、その優しさがある限り、わたしは永遠に、先生の傷にとらわれたままになる。

だけど、それで、いいのかもしれなかった。

毒されて、毒されて、なにが愛なのか、なにが善悪なのか、判断ができなくなって、背中に生えた黒くて冷たい翼で、見かけだけ綺麗な未来へ飛び立とうとするとき、それはたしかな足枷になる。

にこにこと笑う先生がいた、あの埃っぽい第二理科準備室。もう二度と、あの日は戻ってこない。おしるこの味も、忘れてしまう。ただ、一生ゆるされることはない、という事実だけが、永遠にあり続けるだろう。

わたしはついに止められなくて溢れてしまった涙を強引にぬぐう。それから顔をあげて、眞島の方をもう一度見る。眞島は、穏やかな表情のままで、野坂、とわたしを呼ぶ。

「あのさ、こんなことを今言うのは違うだろうし、そういう問題じゃないって、野坂は言うかもしれないけど。……この前、近所のスーパーで、先生にたまたま会ったんだよ。久しぶりだし、何より突然だったし、驚いたけど。あっちもおれの名前とかは覚えていて、それで、少し話したんだけど」

「う、ん」

「いきなり休んでごめんねって言ってたのと、あとは、家の事情でどうしてもって言ってたよ。本当は続けたかったみたいだよ。笑ってたし、まあまあ元気そう、だった。……だから、野坂」

「……うん」

「───大丈夫、かもしれない」

わたしは、じっと、見つめた。髪の襟足に触れながら、言葉を慎重につむいでわたしにくれる眞島のことを。

そうしたら、さっきぬぐったばかりの涙がまた溢れ出しそうになってしまって、きつく唇を結んだ。泣きそうになっているわたしに、眞島は少しだけ安堵したような表情を浮かべて、もう一度、大丈夫、とあやすように言った。

眞島は、先生が元気そうだった、ということを聞いてわたしが安心したと思っているのだろう。本当は、全然違うのに。だけど、そうやって、分かり合わないままでいたほうが、都合がいいこともきっとあって、わたしが今、何に泣きそうになっているのかは、わたしが眞島の秘密を暴かなければ、絶対に彼には分からないだろう。

「───眞島は、やっぱり、優しいよ」

眞島が自分の襟足から指を離して、その手でわたしのあたまを撫でる。優しくて、優しくて、ただ、易しくて。だから、やっぱりわたしは、死んでしまいたくなった。