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フライングした蝉がなきだす春と夏のちょうど真ん中あたりのこと。まだ昼の延長線上にあるような明るい空が、窓の向こうに見えていた。試験期間の放課後の校舎は、どことなく余所余所しい。
<明日の17時半頃から第二理科準備室で化学のテスト対策を行います。たくさんきてね>という文字と、うさぎの絵が隅に描かれた手書きのプリントが学年の掲示板に貼ってあった。
化学が大の苦手なわたしは、それを見た瞬間に行くことを決めた。奈々を誘ってみたけど、化学とか捨て教科だし一宮もあんまり好きじゃないからいかな~い、とあっさり断られたので、渋々ひとりで行くことになった。
荷物をすべてもって、第二理科準備室へ向かう。
テスト期間中の先生ってけっこう忙しそうだけど、大丈夫なのかな。新人だから仕事が少ないのかもしれないな、なんて生意気なことを思いながら準備室の扉を開けると、先客がひとりいた。
「あ!」
思わず発してしまった声に、相手は、ふにゃりと頬をゆるめた。よく見知ったその顔に、わたしも安心して笑い返す。
準備室の扉を閉めて、足を進める。
埃の匂いと、まだ外は明るいはずなのに、部屋に広がる若干の不気味な雰囲気。その真ん中にどかんと座るひとは、去年同じクラスだった男の子だった。
「眞島かあ」
「久しぶり、野坂。ひとり?」
「友達誘ったけど断られた」
「おれも。でも、化学一番苦手だからどうしても参加したくて」
「眞島苦手なの? わたしも一番苦手な教科だよ」
「やなおそろいだなあ」
苦手な教科で盛り上がるのも悲しい気がしたけれど、テスト対策に参加する人が自分以外にもいたことに安心した。それに、眞島とふたりなら楽しそうだと思った。同じクラスだったときに、彼がとても面白い人だということを知って、それから、なんとなくずっとメッセージアプリでのやり取りを続けている相手でもある。
「となり座ってもいい?」
「ん。いいよ」
眞島の隣に腰をおろして、鞄からノートと筆箱を取り出す。眞島は、化学の教科書をぺらぺらと捲りながら、呪文だ、としかめっ面をした。
しばらくふたりでいたら、廊下からぱたぱたと忙しない足音が聞こえて、勢いよく扉が開く。わたしと眞島は一斉に後ろを振り返る。
「ごめん! 遅れちゃった!」
前髪を乱して、ぜえぜえと息を切らした先生が、プリントを抱えながらわたしたちのところまで来る。時刻は午後十七時三十五分で、そこまでたいした遅れではないのに、律儀なひとだな、と思う。廊下は走りません、という立場であるはずなのに、このひとはきっと全速力でこの場所まで来たのだろう。
「というか、ふたり?! もっと来ると思って、たくさんプリント用意したんだけどな」
「あはは。あのうさぎのイラストがだめだったんじゃないっすか?」
「眞島くん失礼な! 頑張って描いたのに。あ、でも来てくれてありがとね。んんん、野坂さんも、ありがとう。それでは早速、大事なところと、間違えやすいところ、プリントにまとめてきたから、くばりますね」
にこにこと先生は笑っている。わたしからすれば、テスト対策してくれて、こちらこそありがとう、である。眞島もきっとそれは同じだ。
「先生、質問でーす」
「なんですか? 野坂さん」
「今回のテストって誰が作るの?」
「あはは、それは、企業秘密でーす、んんんっ」
「はい、先生」
「なんですか? 眞島くん」
「学校は企業ではありませーん」
「あはは、確かに。んんん、はい、まあ細かいことはそこまでにして、プリント、一度自分たちで解いてみて。その後、解説します」
先生お手製のプリントが机に二枚置かれた。モル濃度、イオン、化学式、構造式。基礎のまとめの部分。ところどころに可愛いうさぎのイラストが描いてあって、先生はうさぎが好きなんだなあ、とぼんやり思う。
課題のワークの教師確認欄に押されるハンコもうさぎのイラストだった。可愛い。そう思う反面、そういうところがクラスの女の子から、『いい歳してるくせに媚び売っててキモイおばさん』などと言われる理由なのかもしれない、とも思う。まだ先生は確か三十歳にはなっておらず十分若いはずだけど、わたしたちからすれば、十分すぎるほどの大人だった。
乱れた前髪を手ぐしでとかしながら、先生がわたしたちの前に座る。先生の呼吸は、ようやく落ち着いてきたようで、準備室は心地よい沈黙に包まれた。眞島は机に顎をついて、じっとプリントの上の部分を見つめている。わたしはペンを握って、プリントに向かう。部屋の向こうからは、知らない生徒の笑い声が聞こえてくる。
平和だなあ、と思いながら、いざ一問目を解こうと頭を動かし始めた瞬間に、平和は瓦解した。
「呪文だ」
わたしがうめくように放った言葉に、眞島はこくこくと頷いて、先生はため息をひとつ落とした。
「んんん、先生は日本語で書きましたよー」
「呪文にしか見えないよ」
「もう、二人とも。んん、それじゃあ、一緒にはじめから解いていこうか」
その言葉に、眞島はぱっと顔を明るくさせる。おそらく、わたしも同じような反応をしたからだろう。先生は、くふふ、と堪えきれずに笑って、わたしたちの方にぐっと身体を近づけて、優しくまあるい声で、呪文の解説をはじめた。
「はい、んんん、だいたい分かったかなあ? モル濃度とモル体積しかできなかったけど」
「呪文じゃなくなった」
「あはは、よかった、それは」
「先生、明日からもやってよ。化学、最終日だからあと三日もあるし」
「それ賛成。先生、わたしもやってほしいよー」
「先生も暇じゃないんだよ? んん、んー、でも、うん、できないことはないから、明日からもやろっか!」
わたしと眞島に優しく微笑んだ先生に、このひとは媚びを売っているわけではなくて、ただ、屈託がないだけなのだろう、と思った。だけどそれが、この場にいない奈々や他のひと達に伝わることはない。残念な気もするけれど、わたしと眞島だけが普段よりも優しくて気の抜けた先生の姿を見ているのかと思うと、その特別にどこか自慢げに思う自分もいた。
「じゃあ、明日も、んんっ、よろしくね、明日はイオンをやろうねえ」
「げ、呪文中の呪文じゃん」
「あはは、大丈夫だよ。魔法使いになれるよ。じゃあね、二人とも気をつけて帰ってね」
先生が先に準備室から出ていく。薬品類ではなく模型ばかりが置いてある第二理科準備室は、一々施錠しなくてもいいようだ。
「このままだと化学が一番いい点数とれそう」
「最高得点競っちゃう?」
「いいよ。おれ、野坂には負けないと思うけどな」
「ちなみに眞島、二年の最後の期末何点だったの?」
「えー、忘れた」
眞島が、髪の襟足を撫でながらにやりと笑う。
「うそだー、絶対覚えてるでしょ?」
「そういう野坂は?」
「42点」
「わっ、ひでーな。まあ、おれもそのくらいだった。45点」
「覚えてるじゃん。あはは、本当にいい勝負だね」
眞島の指から自由になった彼の襟足。彼と出会ってしばらく経ってから見つけたものを再確認できたことが、わたしは嬉しかった。
結局、先生に取り残されたわたしと眞島は、今日の内容をふたりで復習しあって、警備員の人が鍵を閉めにくるまで準備室に居座った。試験期間中はたくさんの生徒が学校に残っているけれど、さすがに警備員が巡回するまで残っている生徒はほとんどいなかった。
もうほとんどひとがいなくなった校門まで、眞島と並んで歩く。
「野坂、電車だっけ?」
「うん、眞島も?」
「おれは自転車。家近いから」
「いいなあ、家近いの。ずるだ」
「家から近いってのが、この高校選んだ理由だし」
「ずうるう」
「ずるずる言いたい野坂さん、かわいそーだし、駅まで送ってやるよ。自転車とってくるから、ちょっと待ってて」
眞島はそう言ったと思ったら、わたしの返事も待たずに、自転車置き場の方へ行ってしまった。
ゆうちゃんはいいのかな。眞島の遠くなっていく背中をじっと見つめながら、彼の恋人の心配をする。
去年、同じクラスだったから、眞島に恋人がいたことは知っていた。ゆうちゃんは、可愛くて小さくて笑うと顔がしわしわになるショートカットの女の子だ。わたしが眞島に駅まで送ってもらうのを、誰かに目撃されて悪い噂が立ったら、わたしも眞島も少しだけ生き辛くなってしまう。本当はもう少し眞島と話をしていたい自分がいるけれど、明日からの日々が面倒なものになるのは絶対に避けたかった。
「お待たせ」
人の気など全く知らない眞島は、年季の入った自転車をひいて、にっこり笑った。わたしは一度頷いて、「でも、」と言いづらそうな表情をつくって言葉を発する。
「眞島の彼女に誤解されたらやだし、別々に帰るほうがいいんじゃないかなあ。ね?」
「あ、ゆうのこと?」
「うん、ゆうちゃん」
「別れたよ、結構前に」
「えっ、嘘。なんでまた」
「んー、冷めたから」
爽やかな笑みを顔に浮かべたまま、冷めたから、なんて冷たい理由を示した眞島に、わたしは内心でぎょっとした。
彼は、右手で自転車のハンドルを、左手で自分の髪の襟足を触りながら、冷めるのって一瞬だよまじで、とあっさり言いのけた。本当の理由は違うところにあるでしょ眞島。などと、さすがに踏み込む気は起きなくて、そっかあ、とだけ相槌を打った。正直なところ、自分が面倒な目にあわないならば、眞島の恋愛事情にそこまで興味はなかった。
「あ、野坂は大丈夫? 彼氏いる?」
「いると思う?」
「うん。野坂だし、普通にいる可能性高いと思って聞いてる」
「ざーんねん。今はいない」
「じゃあ、遠慮なく送らせてもらうな」
普通は、遠慮なく、は送られる側の台詞じゃないかな、と思ったものの、眞島はもう駅の方へ進み出していたので、余計なことは言わないことにした。遠慮して送られます、心の中で返事をして、わたしも歩き出す。
「ありがとう、眞島」
「うん」
明日からも、こうやって二人で駅まで歩く時間が数日だけ続くのかと思うと、少しくすぐったくて、結構、嬉しかった。
「はい、じゃあ、んん、今日はこれで終わり」
約束どおり、先生は化学の試験がある日の前日まで、みっちりと化学の基礎を教えてくれた。
二日目以降の先生はかなりのスパルタで、それでも眞島と二人で受けるテスト対策は楽しくて、分からなかったことが分かるようになって呪文が呪文ではなくなったことで、魔法使いになれたみたいで嬉しかった。先生は、毎日、手作りのプリントを持ってきてくれた。どのプリントにも必ず、手描きのうさぎのイラストがあって、少し面白かった。
「先生、わたし百点とれちゃうかも」
「おれも」
「んんん、頼もしいね二人とも。期待してるねえ」
屈託のない先生の笑顔。名前通りの人だな、と思った。
一宮笑理。先生の名前はどうしてか漢字で記憶している。下の名前には、「笑」という文字が使われている。
影ではみんなに、”えみちゃん”と呼ばれているけど、それは、親しまれているというよりは、少し小馬鹿にする意味合いの方が強かった。先生は直接そう呼ばれても怒ったりしないけれど、本人の前で呼ぶのは、気が引けた。眞島も、きっとそうだ。二人きりの帰り道では、”えみちゃん”と言っていたけれど、準備室では“先生”と呼んでいたから、意図的に使い分けているのだと思う。
「先生、ありがとうございました、本当に」
「んんん、どういたしまして」
「おれ、まじでベストを尽くします」
「うん、んんん。ベストを尽くすことが一番だよ、何事も。んんっ、ふたりとも応援してるからね」
先生は、筆箱にボールペンと赤ペンをしまって、持ってきた教科書やプリントを重ねて角をそろえてから、立ち上がった。にこにこと、何がそんなに楽しいのかわからないけれど、ずっと笑っている。
この数日でさらに夏に近づいていて、エアコンの効きが悪いのか準備室は蒸し暑かった。うなじのところにじんわりと滲んだ汗を、一度、手の甲でぬぐって、下じきで仰ぐ。眞島はブレザーを脱いで、ワイシャツの裾もズボンの裾もまくっている。
先生と眞島とわたし。三人だけの化学のテスト対策が今日で終わってしまうのかと思うと、少し寂しかった。
「あ!」
物思いに耽かけていたところで、突然大きな声が発せられたものだから、身体が小さく跳ねる。声の発信源である先生の方を見ると、彼女は、何かとっておきの閃きをしたような誇らしげな表情で、わたしたちの方を見ていた。
「ちょっと待っててね、二人とも!」
せっかく角をそろえたプリントと教科書を雑に机の上に置いて、先生は準備室を出ていった。
そして数分後、がらがらと音を立てて準備室の扉が再び開いた。わたしと眞島はぽかんと口を開いたまま、返ってきた先生の両手に握られていたものに目を向ける。
先生は、廊下を走りません というルールをどうやら知らないみたいだ。準備室に入ってくるときの先生の呼吸はたいてい乱れていて、わたしたちからすれば十分すぎるほどの大人のくせに、子どもみたいで可笑しい。
先生は、わたしと眞島の前に、自分が握っていた缶をそっと置いて微笑んだ。
「んんん、二人とも、たくさん頑張ったから、先生からのご褒美です。あ、内緒だよ」
「……」
「……あ。もしかして、いらないの?! いらないなら、んんん、二缶とも先生が飲みますっ」
わたしも眞島も何も言ってないのに、ひとりで焦りだす先生に、堪えきれず吹き出してしまう。
「ご褒美のセンス、おもしろすぎるよ先生。わたしたちのこと笑かそうとしてるでしょー」
「んんん、先生は、いたって真剣だよう、失礼だなあ」
缶のプルタブを開けると、その隙間から湯気がのぼる。握る右てのひらのなかが、じんわりと熱くなった。
どうして、先生は、まさに夏になりかけているこの季節に、おしるこなんて選んだのだろう。わたしだったら絶対に選ばないし、眞島も選ばないだろう。それでも、数ある飲み物の中からほかほかのおしるこを選ぶのは、なんだか先生らしいなとも思った。
缶を傾けると、小豆の香りと甘ったるい汁が一緒になってむわりとわたしを襲う。だけど、あたまを使った後だからか、蒸し暑い部屋の中にいても、おしるこはじんわりと優しく身体にしみていった。
先生は、しばらくわたしたちがおしるこを飲む様子をにこにこ見ていたけれど、腕時計をちらりと確認して立ち上がる。
うさぎの筆箱、化学を教えているときの生き生きとした表情、手描きのうさぎのイラスト、好きな物事に真っ直ぐな先生は、自分が思っていたよりもうんと素敵なひとだった。そう思った。そう思っている自分も素敵であるような気がした。
「先生、そろそろ行くね。んんん、じゃあ、二人とも明日は、ベストを尽くしてね」
「先生、対策もおしるこも、超感謝」
「季節感ないけど、意外に美味しいっす。おれも、超感謝」
「ふたりとも、おしるこは一年中旬なのっ。んんん、じゃあね。今日も気を付けて帰ってね」
友達に手を振るような軽やかさで挨拶をして、先生が、準備室から出て行く。
モル濃度、イオン、中和滴定。公式や知識で準備室のなかはいっぱいで、そこにおしるこの甘ったるさが加わり、それらと結びつく。まるで化学反応みたいだな、と思う。結びついて起きた反応は、のどかな幸福そのものだった。
「おれ、おしるこ数億年ぶりに食べた」
「わたしも自販機のおしるこははじめて」
「あんなの買うひと、いるんだなあ」
「えみちゃんとかね」
「うん。”先生”、とか」
「.......“先生”、いいひとだね」
「うん」
「おしるこくれたし」
「はは、そうそう。なんてったって、おしるこ、くれたし」
「おしるこでいい先生になっちゃうの、ちょっと面白いけどね」
わたしも眞島も、もう、先生がいないところであっても、”えみちゃん”とは呼ばなかった。
「ていうか、先生って口癖あるよね。言葉の途中で、絶対に、んんん、って言うの」
「ああ、あれな。口癖っていうか、チックかもなあ。ちょっとエロいよな」
「うわ、眞島変態みたいなこと言うー」
「仕方ないっすよ。喘いでるって脳が変換すんの、おれの意思とは関係なく」
「軽蔑しちゃう。てか、チックってなに?」
「自分の意思とは関係なく出ちゃうやつ。てか、野坂、軽蔑って。男なんてそんなもんだからな? あ、でも、あんまりひとには言わないでおこ。先生さ、一部からあんまり好かれてないし、そういうの張り切って馬鹿にするやつとかいるじゃん?」
「そうだね。化学教えてくれたし、おしるこもくれたし、秘密にする」
「そうそう、おしるこくれたし、おれらの秘密な」
眞島はにやりと悪戯っこのように笑って、おしるこをすすった。
わたしは、とても誇らしかったのだ。
先生がよくする動作を発見したということは、先生の、先生でさえ知らない部分を知ったということで、そのぶんだけ、先生との距離が縮まったような気でいた。好きだと思った大人な先生が、手を伸ばせば、わたしたちのところまでおりてきて、友達みたいな距離になる。そのことだって、嬉しかった。
それに、わたしは眞島の秘密も知っていた。とにかく、誇らしい気持ちでいっぱいだった。優越感もびたびたになるほど抱いていた。
だから、眞島と、秘密にしようって約束したことなど、おしるこの缶をゴミ箱に捨てるころにはすっかり忘れていた。
────傲慢、そのものだった。