9月に夏休みが取れた私たちは、某日の朝、ヒースロー空港に降り立った。

 天気は小雨だ。イギリス人は傘を差さないと聞いていたが本当だった。

 真っ先に向かったのは、もちろんキングス・クロス駅。考えることは皆同じで、あの場所は観光客たちであふれていた。

 その後は演劇『呪いの子』も見て、グッズも買って。今日一日、鈴木さんとはまるで、長年の親友のような仲だった。

 

 夜はホテル近くのパブへ入った。

「そういえば鈴木さん、本当はだれと行く予定だったんですか?」

 フィッシュアンドチップスをつまみながら、私は鈴木さんに尋ねた。

「弟」

「弟さん、ロンドンに興味なくなっちゃった?」

「死んだの。そもそもロンドン行きたかったのアイツで、供養のために行こっかなって」

 鈴木さんは陽気な顔は保ちつつも、瞳には後悔のようなものが見えた。

「きょんきょん、ありがとね。俺、一人じゃ来れなかったよ、さみしくて」

「こちらこそ。変な人が来たらどうしようかと思ったけど、鈴木さんで良かった。これからも友達としてよろしくお願いします」

 私が手を差し出すと、鈴木さんの瞳からふっと光が消えた。シリアスの怖い阿部サダヲ。でもすぐにコメディの阿部サダヲに戻って「おう!行きたい寿司屋あるから、今度行こうな」と私と固い握手を交わした。



 2日目は朝一でワーナー・ブロス・スタジオ・ツアー・ロンドン。映画ハリポタで実際使われていたスタジオで、セットや小道具なども見学できる。

 もちろん、二人そろって大興奮。周りの人やスタッフの人に英語で注意された。英語は分からないけど、注意されたのはよくわかった。

 ただ、昨日は気づかなかったけれど、鈴木さんは私が楽しめるように、相当、気を使ってくれていることが見えてきた。それが分かったときにはホテルの部屋で、私は天井を眺めながら鈴木さんの気づかいを思い出していた。

 私はただ、楽しんでいるだけ。



 最終日はハリポタ以外の観光をする日にした。天気は灰汁桶をかき混ぜたようなどんより空だ。

 まずは鈴木さんの希望、世界遺産ロンドン塔へ入った。語彙力が無くて申し訳ないが、立派なお城だ。しかしここは監獄でもあり、処刑された人も大勢いる血塗られた歴史を持つ場所。単純にかっこいい、キレイという気持ちで観光する場所ではない。

 鈴木さんはリュックから文庫本を取り出した。夏目漱石の小説だった。

「俺がロンドンに来たホントの理由」鈴木さんは表紙を掲げ、歩きながら、理由を話してくれた。

 病院で弟さんが亡くなった時のこと。その枕もとにあったのが、鈴木さんがいま手にしている文庫本だったそうだ。ぱらぱらめくると『倫敦塔』の最後のページに黄緑色の真四角の付箋が貼ってあった。

 付箋には「倫敦に行きたい」と書かれていた。

「なんでロンドンなのかは全然わかんない。別に夏目漱石が好きだったわけでもないのに。やっぱハリポタかなあ。ってか漱石ってさ、イギリス留学不愉快だったんでしょ?これ読んでも特にロンドンに行きたくはならないっていうか。俺はね」

「それでも鈴木さんはロンドンに来たんですね」

「まあなー。たった一人の家族の最後の夢くらい、叶えたかったし」

 鈴木さんのご両親は若くして事故で亡くなり、その後は親戚の家でお世話になっていたそうだ。

「そうそう、それがいじわるな親戚でさ!ハリーと同じ!なんだかんだ世間体で高校まで置いてもらえたから、感謝はしてる」

 空元気の鈴木さん、普通の鈴木さん、今の鈴木さんは……なんだろう。私は横顔をじっとみつめる。

「お金貯めるのに時間かかって、とか、仕事忙しくて、とか。言い訳にしかなんないけど、アイツの夢を叶えるのに随分時間かかっちゃったなあ」

 鈴木さんはホワイト・タワーを見上げる。うっすらと涙をためていた。

「なんか、すいません。そんな壮大な旅に私なんか」

「パブで話したよね、俺、一人じゃさみしくて無理って。アイツの事思い出しちゃって、夢叶えツアーにならなかったよ。函館空港に行くのも無理だったかも。きょんきょんがいたから、楽しく過ごせたよ。本当にありがとう」

 

 ロンドン塔を後にした私たちは水上バスに乗って、私のリクエスト、グリニッジ旧王立天文台へやってきた。学校で習ったアレを見たかったのだ。

「俺もね、見たかったんだ本初子午線!」

 先ほどちょっと涙してしまった鈴木さんは、それを払しょくするためか、中身のないハイテンションになりつつあった。

 私がロンドンに来たのは、ただの遊び目的。でも鈴木さんには弟さんの夢を叶えるという大きな使命があった。

 そんな思いを背負った中、私に気を遣ってくれて、こんなに楽しい3日間にしてもらった。

 私に出来ることはないだろうか。

 そう考えるうちに、目的の場所に到達した。私と鈴木さんは本初子午線を何度もまたいだ。

「うん、特に感動はないけど、ここでゼロなんだね、経度。経度だよね?」

 ここで、ゼロ。弟さんへの想いは消えないだろうけど、鈴木さんもここでゼロになれたらいいのに。

「鈴木さん」

「なあに?」

「3日間、本当にありがとうございました。とっても楽しかったです」

「なになに改まって~感謝しなきゃいけないのこっちなんだけど!あとで好きな物いくらでも買ってあげるね。ハロッズのくま買う?」

 空元気の中に、私への感謝も気遣いもきちんと伝わって来た。ただただ、鈴木さんによくしてもらっただけの自分が情けなくて、涙が出てきた。

「きょ、きょんきょん、どしたのかな~?」

「私、鈴木さんのために何かできることありますか?」

「どした急に」

「この3日間、鈴木さんによくしてもらってばっかりで、私は何にもできてないから」

「あのさ、何度言わせんの。きょんきょんのおかげでロンドンに来られたの。それだけで十分だから」

「恩返しさせてください!!」

 鈴木さんは泣き顔の私に困ってしまったようだった。

 困らせるつもりはなかったのに、私はとんだ痴れ者だ。恩返しどころではない。

 涙をぬぐって謝罪しようとしたところ、鈴木さんが顔を掻きながら「じゃあさ、抱きしめていいかな」と言った。

「え?」

「ロンドンていう希望を持って闘病してたと思うんだ、アイツ。でも俺、点滴とかチューブしてるの見てるの辛くて。面会もいつも5分くらいで帰っちゃってさ。超手遅れなんだけど、死んだ顔見たら、生きてるうちに抱きしめときゃよかったって思ったんだよ」

 私は両手を広げた。

「私を弟さんだと思って、思い切りどうぞ!」

 本初子午線の東側に鈴木さん、西側に私。

 線を真ん中に、鈴木さんは私を抱きしめた。

 青空がのぞいた。

 青が目に入った瞬間、気が付いた。私も一人じゃロンドンなんて無理だった。

 友達が欲しかったんじゃない、後押ししてくれる誰かを求めていた。ずっとずっと、葛飾から出るきっかけが、狭い世界にしか住めない自分を変えるきっかけがほしかった。

 弟さんのように、それがなぜロンドンかなんて説明できない。でも、ロンドンだった。

 鈴木さんは手を解き、照れ臭そうに笑って、後ろへ二歩後退した。

 その笑顔を、私は可愛いと思った。

「私も一人じゃ、さみしくてロンドン来られなかった」

 私は東側へ跨いで、鈴木さんの青のスニーカーのつま先に自分の赤のスニーカーのつま先を合わせた。

 次の行動は、どちらからともなくだったと記憶している。

 私は鈴木さんと同じ身長だから、唇の位置がちょうどよかった。

 からだよ、多分?