夏祭り以降、奏は響や詩織に対してモヤモヤとした気持ちを抱えながら、吹奏楽部の夏合宿が始まった。
 海辺の合宿所を借りて、ホールでは全体練習、泊まる部屋では昼間にそれぞれのパート練習を(おこな)う。それだけでなく、宿題をする時間を設けたり、レクリエーションとして夜に花火をする時間も設けられているのだ。
 泊まる部屋割りは基本的にパートごと。しかし男子は響、風雅、徹、蓮斗、律の五人しかいないのでその五人は問答無用で同じ部屋に入れられる。
 奏は彩歌と他のフルートパートの一年生と同じ部屋だ。

「奏、次って三時半から全体合奏だよね?」
「うん、そうだよ彩歌」
 休憩中、奏は彩歌の問いにそう答えた。
「ありがとう。じゃあそろそろホール行かないと」
 若干気怠げな彩歌はピッコロと譜面台と楽譜を持って立ち上がる。
「行こう、奏」
「うん」
 奏はフルートなど、必要なものを持って個人やパート練習で使っていた部屋を後にした。
「あ、ごめん彩歌。筆記用具忘れたから、先にホール向かって」
 ホールへ向かう最中、奏は忘れ物に気付く。
「分かった。じゃあまた後で」
 彩歌の言葉を聞き、奏は筆記用具を取りに行った。
 そして、その後ホールに向かう際、同じくホールに向かう詩織とばったり会った。
「奏ちゃん、ギリギリだね」
 詩織は悪戯っぽい表情だ。
「うん。忘れ物しちゃって」
 奏は困ったように微笑んでいる。
 二人揃ってホールへ向かうものの、何となく気まずくなり奏はうつむいている。
(詩織ちゃんは夏祭りの時、響先輩にかなりアプローチしていたよね……。途中で用事があって帰ったみたいだけど、その後どうなったんだろう?)
 少し不安になる奏だ。
「私さ、小日向先輩にフラれたんだ。夏祭りの日に」
 奏の心を読んだかのように、隣から詩織の声が聞こえた。
 その声は悲しんだ様子ではなく、どこか吹っ切れた様子である。
「そうなんだ……」
 奏はぎこちない表情である。
 ほんの少しだけホッとしてしまった。
「やっぱり私じゃ最初から駄目だった」
 残念そうに呟くが、詩織の表情は明るかった。
「ごめんなさい……」
 奏は思わず謝っていた。
「私、詩織ちゃんが響先輩にフラれたって聞いて……少し安心しちゃったの」
 奏は申し訳なさそうな表情になる。
「それって、奏ちゃんも小日向先輩のことが好きってことだよね」
 気にした様子はなく、クスッと笑う詩織。
 奏は黙って頷いた。
「ごめんね、詩織ちゃん。私性格悪いよね」
 ため息をつく奏。
「本当に奏ちゃんには敵わないよ。私は嫉妬心に負けて奏ちゃんに嫌がらせしちゃったのに、奏ちゃんは私の失恋を聞いてホッとしたことに謝るんだもん」
 はあっとため息をつく詩織。
「ま、私の分まで頑張ってよ」
 ニッと明るく笑う詩織。
「うん、ありがとう」
 奏はホッとしたように、柔らかく微笑んだ。
 胸のモヤモヤはスッと消えていた。





♪♪♪♪♪♪♪♪





 その日の夜。
 夕食を終えた後は花火の時間である。
 顧問や副顧問達が部員の為に手持ち花火を買ってくれているのだ。
「おい馬鹿徹! こっち向けんな!」
「あ、(わり)いな蓮斗」
 徹が花火を持ってはしゃぎ、蓮斗から怒られていた。
「昼岡先輩、相変わらずだね」
「ほんと、馬鹿猿じゃん」
 奏と彩歌はカラフルな花火を持ちながら苦笑していた。
「彩歌ちゃん、ちょっと火もらえる?」
 風雅がまだ火をつけていない花火を持ち、彩歌の花火に近付ける。
「ちょっと、勝手にやるな!」
 ムッとした表情の彩歌。
「駄目かな? 蝋燭の火、今人がいっぱいなんだよ」
 苦笑した風雅は蝋燭に群がって花火に火を付ける部員達に目を向けている。
 蝋燭の火が風で消えないよう、小夜とセレナが壁になっているようだ。
「じゃあ火を付けたらさっさとどっか行って」
 彩歌はムスッとしたまま風雅にまだ勢い良く燃えている花火の火を向けた。
「おっと、危ない」
 風雅は火を向けられ少し後ずさりした。恐らく彩歌はわざと火を向けたのだろう。
 風雅は彩歌から火をお裾分けしてもらい、手持ち花火を点火した。
 赤い花火がザーッと激しい音を立てて周囲を照らす。
 その間に奏の花火が消えたので、水が入ったバケツに入れに行った。
「かなちゃん」
 消えた花火をちゃぽんと水に入れた瞬間、響から声をかけられた奏。
「響先輩……」
 胸のモヤモヤが消えた今、少し穏やかな表情の奏である。
「はいこれ、新しい花火」
 響はそっと奏にまだ火が付けられていない花火を渡す。
「ありがとうございます」
 奏は響から花火を受け取った。線香花火である。
「俺もさっき消えたところだからさ。火、付けに行く?」
 響は蝋燭の方を指差す。
「はい」
 奏は頷き、響と一緒に線香花火に火を付け、ゆっくりとしゃがんだ。
「線香花火ってさ、他の手持ち花火と違ってミニチュア花火大会感ない?」
「どういう意味ですか?」
 まだ蕾のような火の玉になっている線香花火から響に目を移し、首を傾げる奏。
「ほら、線香花火はこう……この前の夏祭りで見た打ち上げ花火みたいな感じじゃん。他の手持ち花火は勢い良く……何て言うか、火炎放射器みたいな感じだけど、線香花火ならこう……小さな夜空に咲く花火みたいなさ」
 響はパチッパチッと一つずつ火花が散り始めた牡丹のような線香花火と奏を交互に見ながら自分の言葉で説明した。
「……何となく、言おうとしていることは分かるような気がします」
 奏は牡丹のようにパチッパチッと火花を散らす線香花火を見ながら表情を綻ばせた。
 やがて線香花火は勢い良く松葉のように次々と火花が散り出す。
 まるで打ち上げ花火のクライマックスのようだ。
 線香花火から出る火花は丸みを帯び、柳のようになった。やがて火花は一本一本落ちていき、散り菊となる。
「小さい頃、よく家族ぐるみで手持ち花火やったよね」
 響は散り菊となった線香花火を見ながら懐かしそうに呟く。
 かつて奏が響と同じマンションに住んでいた頃、夏は大月家と小日向家勢揃いでマンションの駐車場で手持ち花火をやった記憶がある。
「そうだったね」
 当時を思い出し、奏は懐かしげな表情になった。敬語も抜けている。
「あの頃は、ただ無邪気に楽しくフルートを吹いていたかな」
 奏はふふっと微笑む。
「今は?」
 響はゆっくりと線香花火から奏に目を移す。
「今も楽しいよ。でも、また中学一年の頃みたいになったらって思うとほんの少しだけ怖くはある。私はいつまでフルートを続けられるのかなって」
 奏はもう少しで落ちてしまいそうな線香花火を見ながらそう言った。自分が思っている以上に穏やかな声である。
「俺は……かなちゃんのフルート、ずっと聴いていたいな。それに、昔約束した曲で、フルートとクラリネットの二重奏もしたい」
 隣から聞こえる、真っ直ぐな響の声。
 奏は嬉しくなり、響を見る。
 響は穏やかに微笑み、その目は真っ直ぐだった。
「ありがとう、響くん」
 奏は再び線香花火に目を戻し、口元を綻ばせた。
 奏と響の線香花火は同時にポトリと落ち、消えるのであった。





♪♪♪♪♪♪♪♪





 花火が終わり、片付けに移っていた。
 準備は金管楽器担当の部員達がやったので、片付けは木管楽器担当の部員達がやることになっている。
「じゃあ花火のゴミ捨てはジャンケンで負けた二人にお願いするよー」
 セレナの掛け声により、ジャンケンをした。
「おお、綺麗に決まったね」
 結果を見た小夜は面白そうに目を見開いている。
「じゃあゴミ捨ては奏と浜須賀よろしく」
 セレナが明るく笑いそう言った。
 ジャンケンに負けたのは奏と律だった。
「奏、早く戻って来てね」
「うん、分かったよ、彩歌」
 奏は彩歌にそう微笑みかけた。
 そして奏は律と一緒にバケツを持ち、ゴミ捨て場へ向かった。

「大月さん、そっちのバケツも持とうか? 多分重いでしょ」
 二人で歩く中、律は奏のバケツも持とうとする。
「でも、それじゃ何か悪いよ。私何も持たないことになるから」
 奏は申し訳なさそうな表情だ。
「だったら、スマホのライトで道照らして」
 爽やかで優しげな笑みの律。
「……分かった。ありがとう」
 奏はバケツを律に渡し、自身のスマートフォンのライトを付けた。
「道が暗いからさ、助かるよ」
 律は軽々と二つのバケツを持ち、奏のペースに合わせて歩いてくれた。

 ゴミの処理が終わり、バケツが空になったので帰りは奏もバケツを持っている。
「大月さんって小日向先輩と幼馴染なんだっけ?」
 律は興味ありげな様子だ。
「うん。昔、同じマンションに住んでた。通っていた音楽教室も同じで、よくレッスン終わりにフルートとピアノの二重奏をしてた。当時は響くん、ピアノ習っていたからね」
 奏は夜空を見上げ、懐かしげに目を細めた。
 夜空には星々が散りばめられている。
「大月さんってたまに小日向先輩のことを響くんって呼ぶよね」
 やや複雑そうに笑う律。
「あ、学校とか部活関連の時だから不適切だね」
 奏はハッとして苦笑した。
「何か、大月さんと小日向先輩の距離の近さを見せつけられてる感じで……嫉妬しちゃうよ」
 律の表情はいつもの爽やかさとは違い、少し余裕がなさそうである。
「……何で?」
 いつもとは違う律に戸惑う奏。
 律は足を止めた。それに伴い、奏も足を止める。
「だって俺、大月さんのことが好きだから」
 真っ直ぐ射抜くような律の視線が奏を捕える。
「え……」
 奏はまさか律から好意を寄せられているとは思っておらず、ただ戸惑うばかり。
(浜須賀くんが、私のことを……)
 律は夜空を見上げ、ゆっくりと話し始める。
「入学したばかりの頃はいつも天沢さんと一緒にいて、クールだったから近寄り難い感じの子なのかなって思ってた。でも、ハンカチを返してくれた時の笑顔を見て、何か良いなって思った」
 再び奏に目を戻す律。
 奏は一旦律から目をそらし、しばらくして再び律を見る。
「ごめんなさい。私、響先輩が、響くんのことが好きなの」
 奏は真っ直ぐ律を見て謝った。
「そっか。それは残念」
 律は軽くため息をついた。
「大月さん、みんな待ってるだろうし、そろそろ行こうか」
 いつもの爽やかな笑みに戻る律。
「……うん」
 奏は律から視線を外し、前を見て歩く。
(私は響くんが好き。でも、この気持ちを伝えるのは今じゃない。その前に、私には決めたことがあるから)
 奏はあることを決意していた。





♪♪♪♪♪♪♪♪





「奏、遅かったね」
 奏の姿を確認した彩歌。すぐに奏に駆け寄る。
「うん、ゴミ捨てに手間取っちゃって」
 律から告白されたことは言わない奏である。
 一方、響は奏と律の様子から、何かあったことを察して気が気でなかった。
「律……かなちゃんと何かあった?」
「俺、大月さんに告白したんですよ」
 フッと笑う律。
 響は驚愕し、思わず息を呑む。
「でも、フラれました」
 律はそれだけ言って、その場を立ち去った。
 響はただ呆気に取られるだけである。
「響くん」
 彩歌との話を切り上げた奏は響の元へと来ていた。
「かなちゃん……」
 少し驚く響。
「私、決めたことがあるの」
 奏は真っ直ぐな目を響に向ける。その目は覚悟が決まったかのような目である。
「私、十二月のフルートコンクールに出ることにしたの。三年前、中学一年の時に本戦で棄権したコンクールに、三年前と同じ曲で」
 奏は穏やかだが力強い笑みだった。
「そっか」
 響は嬉しそうに見守るかのような表情だ。
「迷っていたけれど、本格的にフルート奏者を目指すことに決めたの」
「かなちゃん、応援してるよ」
 響は真っ直ぐ奏を見つめている。
「ありがとう、響くん」
 奏も真っ直ぐ響を見ていた。
(響くんに気持ちを伝えるのは、フルートコンクールが終わった後)
 奏の胸に灯った炎は、熱く強く燃えていた。