「本当、詩織あり得ない。同じサックスパートとして恥ずかしい。それに、謝罪もせず逃げるとか」
 ボソッとセレナが低い声で呟く。彼女の怒りが伝わって来る。
「詩織、こんなことするなんて……失望した」
「フルートの実力ある大月さんの邪魔をするって実質部活全体の邪魔をしたってことですよね」
 他の部員達も口々に逃げた詩織を非難していた。
「おい、何の騒ぎだ? そろそろ三年の先輩達も来るぞ」
 そこへ蓮斗も現れる。
 ちなみにこの日、三年生は学年集会が長引いて部活に少し遅れるそうだ。
「あ、晩沢先輩、実は……」
 蓮斗の近くにいた一年生の部員が、奏のものが壊される件の犯人が詩織だと伝えた。
「……とりあえずこの件は部長と顧問の先生に報告した方が良い。内海に関しては……退部させた方が良いだろうな」
「あの、待ってください」
 二年生の中のリーダー的存在である蓮斗がそう結論付けたところ、奏が声を上げる。
「奏?」
 彩歌は怪訝そうに首を傾げた。
(壊されたり捨てられたのは、メトロノームと譜面台と楽譜とチューナーだけ……)
 奏はチラリと楽器棚に置いてある自身のフルートを見てから、蓮斗や全体に目を向けて口を開く。
「退部まではやり過ぎだと思います。それに、今は文化祭前ですし、夏にはコンクールもあります。テナーの詩織ちゃんに抜けられたら、サックスパートも全体としても困りますよね。この件、不問にしませんか?」
 すると周囲は戸惑ったように騒つく。
「待って、奏、それは甘過ぎない? 奏、めちゃくちゃ被害に遭ったんだよ」
 彩歌は甘い対処をしようとする奏に少し不満そうだ。
「彩歌ちゃんの言う通りだと思うけど……」
「確かにテナーに抜けられるの困るけどさ、あんなことする子は……」
 小夜とセレナも困惑気味だ。
「彩歌も小夜先輩もセレナ先輩も、私がその気になれば詩織ちゃんを器物破損などで前科持ちに追い込めること知っていますよね? その気になればあの子の未来を潰すことが出来るってことも」
 少し悪戯っぽく笑う奏。
 奏の物騒な言葉に、周囲は騒つく。
「あ……」
「奏ちゃん、まさか」
「高校でもあの手口使う気なんだ……」
 彩歌、小夜、セレナの顔が引きつる。
 周囲は奏がどんな手口を使うのかと戦々恐々だ。
「でも、詩織ちゃんはまだ一線を越えていません」
 奏は穏やかな表情で楽器棚から自身のフルートを取り出し、大切そうに抱きしめる。
「フルートだけは、壊されませんでした。だから、この件は不問にしようと思うのです。本気で私を邪魔したり、部活全体の邪魔をしたいのなら、私のフルートを壊す方がやり方として合理的ですよね。でも、詩織ちゃんはそれをやらなかった。まだ改心の余地があると思います。詩織ちゃんには、今まで通り部活に来てもらいましょう。それから、詩織ちゃんが吹奏楽部に居づらくならないように、詩織ちゃんへの態度は今まで通りでお願いします」
 奏は全体を見てそう訴えかけた。
「かなちゃんがそれを望むのなら、俺はそうするよ」
 響は少し心配そうだったが、奏に賛成してくれた。
「ありがとうございます、響先輩」
 真っ先に賛成してくれた響に微笑む奏。
「大月さんが納得してるのなら、俺もいつも通りにする。あ、でもこの動画は念の為に残しておくから」
 律も奏に賛成してくれた。
「まあ、被害者の大月がそう言ってるなら、そうする。ただ、これは部活内で起きた問題だから、部長と先生には報告するぞ」
「はい」
 蓮斗の言葉に奏は頷く。
「私、詩織ちゃん追いかけますね。後はよろしくお願いします」
 奏はそう言うと、すぐに音楽準備室から駆け出した。
(詩織ちゃん、あなたはまだ一線を超えていない。だから、許すことにするよ。お願い、逃げないで)
 奏は校内の隅から隅まで詩織をさがすのであった。





♪♪♪♪♪♪♪♪





 奏が詩織を探し始めた後のこと。

『彩歌も小夜先輩もセレナ先輩も、私がその気になれば詩織ちゃんを器物破損などで前科持ちに追い込めること知っていますよね? その気になればあの子の未来を潰すことが出来るってことも』

 響の脳裏には、その言葉と少し悪戯っぽく笑う奏の表情がこびりついていた。
(初めて見たかなちゃんの一面だったな……)
 響は思い出してドキッとしていた。
「あのさ、かなちゃんはその気になれば内海を前科持ちにすることが出来るとか言ってたけど、天沢さんと小夜さんとセレナさんはかなちゃんが中学時代に何をしたか知ってるんだよね?」
 響は興味本位で聞いてみた。
「あ……それは俺も気になりました」
 律も思い出したように苦笑している。
「ああ、その話ね」
「あれはウチもびっくりした」
 小夜とセレナは懐かしそうに笑っていた。
「まあ、奏は理不尽に対しては法で対処しますからね。あたしを助けてくれた時も」
 彩歌も懐かしそうに笑っている。
「もしかして、弁護士呼んだ系?」
 響は中学時代の彩歌が奏に助けてもらった話を思い出す。
「小日向くん、大正解。奏ちゃん、中学入学当時はイタリアから帰って来て間もなかったからその影響でね」
 小夜がクスッと笑い、セレナが詳細を説明し始める。
「ウチらの中学の吹奏楽部、一年はポニーテール禁止とかいうわけの分かんない不文律があったわけ。でも奏はそれが理不尽で意味分からないって守らなかったんだよ。まあ案の定って感じでウチと同学年の性格キツい子に目を付けられて、嫌がらせが始まった」
「そしたら奏、待ってましたって感じで弁護士連れて大事(おおごと)にして、その先輩を退部に追いやった。それだけじゃなくて、名誉毀損とか前科も付けて転校させた。奏、凄いでしょ。吹奏楽部の意味分かんない理不尽な不文律もそのお陰で撤廃。奏はイタリアにいた頃で見た学校でのいじめとかの対応を真似したっぽい。イタリアは即逃げるか警察に通報みたいだし」
 彩歌は自慢するかのような表情だ。
「かなちゃん……凄いなあ。イタリア暮らしの影響だったんだ」
 響は知らなかった奏の一面を知り、少し嬉しくなった。
(何か……かなちゃんが何をしても受け入れそうな気がする)
 それは完全に惚れた弱みだった。
「意外ですね……」
 律も目を丸くしていた。
「奏ちゃん、見かけによらず凄いことする。てかあの子イタリアからの帰国子女だったんだ」
「大月だけは絶対敵に回したくねえ」
 風雅と蓮斗もその話を聞き驚いていた。
「まあ大月の行動は正しいと思うな」
 蓮斗は納得したように頷いていた。





♪♪♪♪♪♪♪♪





 奏は必死に学校の敷地内を探し、人気(ひとけ)のない校舎裏でようやく詩織を見つけた。
 詩織はうずくまって泣いていた。
「詩織ちゃん」
 奏は優しく声をかける。
「何で……? 何で私に話しかけるの? 私、奏ちゃんにあんなことしたのに……」
 弱々しい声だ。
「そうだね。ものを壊されたり、閉じ込められたり、理不尽な思いはそれなりにしたよ。でも、詩織ちゃんはまだ一線は越えていない」
 奏の声は穏やかだった。
「一線って……?」
 涙を拭い、弱々しく不思議そうに首を傾げる詩織。
「私のフルートは壊さなかった。だから、私は詩織ちゃんを許そうと思うの」
 奏は柔らかく微笑んでいる。
「……もし私が奏ちゃんのフルートを壊してたらどうするつもりだったの?」
「その時は、詩織ちゃんに犯罪者になってもらうつもりだった」
 口元は笑っているが、目は笑っていない奏だ。
「え……」
 詩織はゾクリと冷や汗をかく。
「今まで壊されたものは証拠として保管しているし、浜須賀くんの動画と証拠として残ってる。だから、私は詩織ちゃんに器物破損とかの前科を付けることが出来るの。詩織ちゃんの将来を完全に潰すことだって出来るよ」
 悪戯っぽく笑う奏。
「あ……」
 詩織は怯えたような目で奏を見ていた。
「理不尽には法で対処するって決めているからね。中学時代も、先輩から嫌がらせを受けた時は弁護士呼んで大事(おおごと)にしたから」
 懐かしそうな表情の奏である。
「……ごめんなさい。私……本当にごめんなさい……!」
 詩織は泣きながら奏に謝罪した。
「大丈夫。フルートは無事だから、詩織ちゃんを許すって決めていたの。それに、今まで通り部活にも来て。みんな詩織ちゃんを待ってるから。テナーに抜けられると困るの」
 奏は優しく詩織の肩に手を置く。
「私からのお願い、聞いてくれるよね?」
 奏は優しく詩織に微笑む。
「……うん、分かった」
 詩織は少し迷いながらも頷いた。
「良かった」
 奏はホッとしたように肩を撫で下ろした。
「詩織ちゃん、私、詩織ちゃんに何か悪いことしたかな?」
 奏はずっと疑問に思っていたことをもう一度改めて聞いてみた。
 すると、詩織は黙り込む。詩織は悔しげな表情だった。
「……てない」
「え? 何て言ったの?」
 詩織の声が聞き取れなかったので、奏は聞き返す。
「何もしてない。奏ちゃんは……悪くない。完全に私の逆恨み」
 詩織は悔しそうに奏を見ている。
「奏ちゃんは……小日向先輩のこと、どう思ってるの?」
 詩織は奏から目をそらす。
「響先輩? 響先輩は幼馴染だけど」
 奏はきょとんとしていた。
「ふーん……」
 詩織はやや納得していなさそうだ。そのまま話を続ける詩織。
「私ね、小日向先輩が好きなんだ。中学の時からずっと」
「そうだったんだ」
 奏は目を丸くした。
「でも、全然振り向いてくれなくて。高校も、音宮は偏差値高いから諦めろって言われてたけど、小日向先輩かいる高校だから勉強頑張って合格して、また吹奏楽部で小日向先輩と過ごせたらって思ってた。だけど、いきなり現れた奏ちゃんが全部持って行っちゃうんだもん……」
 詩織はムスッと頬を膨らませ、恨めしげに奏を見ていた。
「それで、奏ちゃんのメトロとかチューナー壊した。三組が音楽の授業中だった時、一組は自習だったから教室抜け出すのは余裕だったし。でもそうすればそうする程、奏ちゃんは小日向先輩と楽しそうにしてるし、ムカついた。だから音楽準備室に閉じ込めた。音楽室のピアノの下、死角になってるからそこに隠れて、奏ちゃんが音楽準備室に入るの待ってたんだよ」
「ピアノの下にいたんだ……。確かにあの場所は見えないよね」
 あっさり詩織が音楽準備室に閉じ込められた件をネタバラシしてくれたので、奏は目を丸くした。
「冷静に考えたら、奏ちゃんにそんなことしたって小日向先輩が私を見てくれるわけじゃないのに」
 詩織はため息をつく。
「奏ちゃん、本当にごめんなさい」
「詩織ちゃん……」
 奏から見た詩織は、心底反省しているようだった。
「私はもう気にしていないよ。フルートが無事だったから」
 穏やかに優しく微笑む奏。
「……ありがとう」
 詩織は力なく眉を八の字にして笑う。
「あのさ……奏ちゃんは……小日向先輩のことは本当にただの幼馴染としか思ってないの?」
 詩織は真っ直ぐ奏を見ている。
「……うん、そうだけど」
 奏はきょとんとしながら答えた。
「そっか。……私、やっぱ小日向先輩のこと、諦められなくてさ。たとえチャンスがもうなかったとしても……」
 詩織は力強い目で曇り空を見上げていた。
「そっか」
 奏はそんな詩織から目をそらす。
(もし響先輩と詩織ちゃんが付き合い始めたら……)
 ふとそんな想像をしてみた。
 響と詩織の仲睦まじい様子を脳裏に思い浮かべる。
 すると、奏の胸がほんの少しだけズキンと痛んだ。
(どうして……? どうして胸が痛むの……?)
 奏は心の奥底にあるよく分からない本心に戸惑っていた。
 詩織とは和解出来たのだが、新たな感情に戸惑う奏だった。