この想いが続くかぎり

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 外に出ると、大粒の雨が空から降ってきた。普段は気にも留めないそんなことが、今の祐二には憎くて仕方なかった。いや、本当に憎いのは自分自身なのかもしれない。

 真生が泣いているのを目の前にしながら、何もできずに、ただ立ち竦んでいた不甲斐無い自分。そんな 自分を、殺してしまいたいとさえ思う。

 何も考えたくない。大雨の中を濡れるままに、時間の感覚を失うまでただひたすら足を進めた。しかし、歩いても歩いても昇華されない苦しみが、大事な想いをじりじりと焼いていく。
 
 窓に反射して見えた彼女の姿が、目に焼きついて離れない。嗚咽を隠すように、口を塞いでいた小さな両手。気づかぬうちに細くなっていた震える身体。真生の心を表すように、途絶えることなく流れ落ちた涙。声を殺し、壊れてしまいそうな泣き方をした彼女に、胸は疼くように痛む。何処へ向かうのかさえ思いつかず、ただ足を動かす。
 
 ──なぁ、お前はどんな気持ちでオレの傍にいたんだ?
 
 彼女の微笑みに隠された痛みは、どれほどのものだったのだろうか。ようやく気づいた気持ちは、祐二が目を逸らし続けたものだった。誰が悪いと聞かれたら、きっと逃げていた自分こそが責められるべきだろう。

「……真生」

 彼女の名前を呼ぶことさえ避けていた。最初は情が移るのを避けるためにしていたことが、次第に逃げ道の一つになっていた。真生はきっとそれさえも気づいていて、全部を許していたのだ。

「ごめん。ごめんな、真生」

 そんな言葉を何度繰り返したところで、真生の痛みには到底とどかない気がした。思えば彼女は最初から、ただ祐二に想いを伝えることだけをしていた。「好き」とは言っても、「付き合ってほしい」と口にしたことは一度もない。自分がいずれいなくなることを前提に行動をしていたのだろう。そして最後には何も言わずに消えてしまうつもりだったのだ。

『私という存在は死ぬんですよ』

 涙に濡れてなお、真っ直ぐだった彼女の目が忘れられない。覚悟を決めている者の持つ強さがそこにはあった。きっとそれは優し過ぎた真生が残してくれた最後の逃げ道だ。自分の想いを貫けば、祐二は失った彼女の影を追いかけて苦しむことになるだろうから。

 残される祐二のことを考えたから、真生は突き放した言い方をしたのだ。嫌いだと言わなかった彼女の気持ちを考えると、身勝手でしかなかった自分を責める気持ちは大きくなる。その優しさが、こんなにも辛いと思ったことはない。苦しいはずなのに周囲ばかりを気にかけ、自分の想いよりも祐二の心を優先させて、少しも真生は自身を顧みない。

 そんな彼女の性格を実感して、祐二は歯痒さに頭を掻きむしりたくなった。彼女を鈍い奴だなんてよくも思えたものだ。その笑顔に目を眩ませて、いろいろなものを見落としていたのは自分の方だった。

 正面から走ってきた人と肩がぶつかり、祐二はよろめいて足を止めた。ふと周囲を何気なく見回した祐二は目を見開く。そこは真生と待ち合わせした駅だったのだ。時間通りに来た祐二に、満面の笑みで手を振った真生。脳裏に描かれたその笑顔に、切なさが込み上げて、目頭が熱くなる。

 ぽたりと一つ、水滴が地面に落ちた。一度落ちると、滴は二つ、三つと零れ続け、黒く染まった地面に溶けていく。

「なんだよ、これ……」

 濡れた感触を頬に感じて、指先で触れれば、雨とは違う温かなものが伝っていた。涙が零れるほど、彼女が好きだと、想わずにはいられないと、気づく前に心が先に叫んでいた。

 祐二は掌で顔を覆うと、熱い涙が流れるままに彼女を想った。




 学校へバイクを取りに戻ると、祐二は家に向かった。自宅に帰りつくと、真っ先に心配していた涼と無断欠勤になってしまったバイト先へと電話をかける。涼には明日は休むとだけ伝え、バイト先へは諸事情で暫く休ませてほしいと頼んだ。クビになることも覚悟していたが、幸いなことに店長は何も聞かずに了承してくれる。祐二はその好意に頭が下がる思いだった。

 次は熱いシャワーと食事だ。濡れ鼠のまま空腹ではどうしようもない。鴉の行水で風呂に入り、簡単な軽食を取り終えると、祐二はソファに深く腰がけた。そうして、組んだ両手を額に押し当てじっと考える。

 真生がいつ手術を受けるのかはわからないが、時間は確実に限られている。彼女ともう一度向き合うためには、覚悟が必要だった。自分を曝け出す、覚悟が。

 どれだけそうしていただろうか。祐二は組んだ両手を解くと、一つの決意をして厚手のジャケットを手に取った。

 家から出ると夜の外はまだまだ寒い。祐二は一瞬身震いして駐車場に向かう。バイクからメットを出し、キーを回してエンジンを吹かす。そうしてバイクが十分温まると、出発した。

 大通りへ出れば、肌を切るように空気が冷たい。祐二はスピードを上げる。夜も更けて三時も回れば昼間は賑やかな街もつかの間の眠りにつく。誰もが眠る時間にありながら、黒い空に浮かぶ傾いた月だけは、一際強く輝いていた。
 その明かりに背中を押される様に、バイクは道路を疾走する。
 
 周囲から建物が消えた頃、バイクは公道から脇道に逸れて山道へと入った。狭い道を上りきり、砂利が敷き詰められた広い場所に出ると、祐二はバイクを止める。
 
 普段は近づかないその場所は、深い静寂に包まれていた。祐二は一つ息を吸うと、敷かれた石畳の上を歩き出す。周囲が白み始める。夜明けが近い。少し進んだ場所で足を止めた。そこは祐二が避けて通っていた場所だった。
 
 ──ここには一生来ない、そう思っていたのにな。
 
 目の前の物をじっと見つめて、祐二は静かに語りかける。

「情けねぇよな。覚悟を決めなきゃいけない時に思いついた場所がここだなんてよ。今のオレを見たら、あんたはきっと笑うよな──……兄貴」

 細めた目の先には、兄が眠る墓があった。
 墓場から家に帰ると、祐二は真生のいる病院へ向かった。昨日と同じようにエレベーターに乗って三階で降りる。真っ白すぎて落ち着かない廊下を足早に過ぎて、一番右端の部屋の前で足を止めた。

 そこが真生の病室である。祐二は一呼吸置くと、ドアを横に開く。ゆっくりと開いたドアの先で、彼女はベットの上で静かに寝ていた。起こさないように足音を殺して近づき、目を閉じた彼女の顔を眺める。小さく真っ白な顔と枕に広がる黒い髪。ゆるく上下する胸。その全部が儚く、このまま消えてしまいそうだ。

 祐二は眉を顰める。

 ──こいつ、いつからこんなに痩せちまっていたんだ? オレは……そんなことにも気づいてやれなかったんだな。

 細い右腕に刺さった点滴が痛々しい。彼女に触れたくて、祐二は頬へと手を伸ばす。しかしその手は触れるか触れないかの位置でぴたりと止まる。触れば、壊れてしまいそうな気がしたのだ。指先を握りこみ、手を下ろす。

「……真生……」

 伸ばせない指先の代わりに、小さな声で彼女を呼ぶ。胸が苦しいほど切なくなった。ふいに、真生の瞼が震える。目覚めようとしているのだ。祐二は慌てて離れると、彼女が目覚めるのを固唾を飲んで見守った。ゆるゆると開かれた眠たげな目が、ぼんやりと瞬く。やがて虚ろだった目の焦点が祐二に絞られて、大きく見開かれる。

「祐二先輩……? なんでここに?」

 真生は驚いたのか、勢いのままに起き上がりかけて、ベットに力なく倒れ込んだ。

「お、おい! 大丈夫か?」

 それに慌てたのは祐二の方である。苦しそうな様子に、そろそろと彼女の背に触れた。真生の身体が一瞬、小さく跳ねる。しかし、振り払われることはなかった。そのことに安堵して、祐二はじわりと伝わる熱を噛みしめた。それは彼女がここに生きて存在する証であった。

「悪い、大丈夫か? 驚かせるつもりはなかったんだけどよ」

「いえ、勝手に驚いたのはこっちですから」

 目を逸らして、真生は不安を滲ませる。昨日の今日だ。何をいわれるのか不安なのだろう。それも仕方がない反応だ。けれど、祐二はこのまま引き返すつもりはなかった。

「オレが諦め悪いのは知ってんだろ? 昨日のことも含めて、お前ともう一度ちゃんと話がしたい」

 真生を失うとわかっていながら、手をこまねいているほど祐二は愚かではない。彼女が逃げるのならどこまでだって追いかけて、彼女と向き合うために何度でも足を運ぶつもりだった。
 
 祐二の真剣な表情に、引き下がらないことがわかったのだろうか。真生は一度目を伏せると、すぐに顔を上げた。

「……ここだと誰か来ますから、場所を移しましょう。点滴が終わるまで少しだけ待っていてもらえますか?」

「そのくらい構やしねぇよ」

 そう答えれば、真生の顔に小さな笑みが浮かぶ。控え目であっても、彼女が笑ってくれたことに祐二はほっとした。

 ──ようやくお前の笑った顔を見られた。

 無理して笑ってほしいとは望まない。ただ、真生の泣き顔が胸に痛くて、彼女の笑顔を忘れてしまいそうだったから。祐二はもう一度彼女を心から笑わせてやりたかった。




 点滴が終わり、針を抜いてもらった真生に誘われて、二人は病院の屋上へと向かった。学校よりも広い屋上には高いフェンスに囲かれており、ベンチが所々に設置されている。どこまでも青い空がいつもより近いその場所で、二人は向き合って立つ。
 
 少しの沈黙の後に、祐二が先に口を開く。

「真生に言われたこと、ちゃんと考えてみた。けど、どうしても最後には同じ答えに行きつくんだ。お前のことが好きだって──……」

 何度考えても、その答えだけは変わらない。祐二は自分の気持ちを誤魔化すばかりで、一番肝心なことを口にしていないのだ。それを今度こそ正直に伝えたかった。

「どんなに想っても、お前の記憶が最後には消えちまうのはわかってる。けど、たとえ真生の記憶が明日消えたとしても、オレはお前を想うよ。きっと想い続ける。だってよ、心は理性でどうにかなるもんじゃねぇだろ?」

 俯いて肩を震わす彼女を、心の底から愛しいと思う。痛みも苦しみも全部笑顔の中に隠すのは、どれだけ強い想いが必要だったことだろう。彼女の優しさに救われていた影で、何度真生を傷つけていたのだろうか。祐二はそれを想う度に、たまらなく切ない気持ちになる。

「記憶がなくなるのをお前は死ぬことだと言ったけど、オレはそうは思わない。死ぬってのは身体を焼かれて、話すことも、一緒に未来に進むこともできなくなることだ。……オレの兄貴みたいにな」

 真生が驚いたように目を見開く。これはごく一部の人間しか知らない話なのだ。祐二はあの日のことを思い出してゆく。暑かった、あの日のことを────……。

 曇っているくせに、やけにむしむしと暑い日だった。当時の祐二は受験生で、全くはかどらない問題集をテーブルに丸投げしていた。その時、三つ上の兄、晃史(こうし)が帰ってきたのだ。

『ただいま。おぉ、勉強してんのか祐二?  こりゃあ今夜は豪雨だな』

 機嫌の良さそうな晃史は、祐二の頭の上に手を置いてからかうように笑った。それが無性に苛立たしくて、祐二はその手を即座に払い落した。

『うるせぇよ兄貴。勉強の邪魔だ。こんなに早く帰ってくんな!』

『冗談だって、そう噛みつくなよ』

 苦笑を滲ませる大人びた兄の余裕が悔しくて、祐二はそっぽを向いていた。たった三歳の年の差が、その時の祐二には腹立たしいほど大きく見えていたのだ。

「今思えば、喧嘩でさえなかったな。ありゃあオレが一方的に八つ当たりしてただけだった。馬鹿だよな? 兄貴だったら何を言っても許してくれるって気持ちが、心のどこかにあったんだ」

 同じ年齢になった今だからこそ、わかることがある。大人びた兄に嫉妬しながらも、弟という位置に祐二は甘えていたのだ。

『母さん、オレもう一度出てくるわ。こう暑いと何もやる気しねぇし、アイスでも買って涼んでくる』

 兄は隣の部屋で洗濯物を畳んでいた母にそう声をかけて、財布を手にした。

『そう? 母さんのも買って来てね』

『おう。ついでに祐二のも買ってきてやっから機嫌直せよ?』

『子供扱いすんな暇人!』

『へいへい、そんじゃ暇人のお兄様はパシリになりますよ』

『行ってらっしゃい。雨が降りそうだから運転に気をつけるのよ』

 ひらひらと後ろ向きで手を振る姿に、祐二は何も声をかけなかった。

「それが最後だった。兄貴は降り始めた雨にバイクの足を取られて、そのまま逝っちまった。オレに残されたのは、傷だらけのバイクと、使い古したライターに、尽きることのない後悔だけだ」

 どうしてあの時、何も声をかけなかったのだろう。
 どうしてあの時、不機嫌な態度を取ってしまったのだろう。
 どうしてあの時、止めることをしなかったのだろう。
 どれだけ後悔しても、すべてが遅かった。

「それじゃあ、先輩のバイクは……」

「兄貴の形見だ」

 自分自身を戒めるため、そして後悔を絶対に忘れないために、傷は消さないであえて残したままにしている。

「兄貴が死んでからオレの家はめちゃくちゃ荒れたんだぜ?」

 苦笑が浮かぶ。それでも話せるようになっただけましだった。三年前の記憶は、引き攣れた傷跡となって祐二の中に残っている。

 子供を失った母は、祐二が傍にいないことを極端に怖がるようになった。祐二が時間通りに帰ってこないと錯乱して、泣き叫ぶ母の姿をどれだけ見たことだろう。そんな母が哀れで、不安にさせないように努力した。学校が終わればすぐにでも帰ったし、友達と出掛けることも、夜に外に出ることも止めた。

『お願いよ、晃史! お母さんを置いて逝かないで……っ』

 失う恐怖に自分と兄と間違えて泣き喚く母の姿が悲しくて、祐二はひたすら母を宥めた。泣きながら眠り、起きては自分を責めることを繰り返す日々。その現状を見て、父は家に寄り付かなくなった。毎月義務のようにお金だけが通帳に振り込まれるのが悔しくて、祐二は逃げた父親を恨んだ。

「泣いてばかりのお袋と、真っ先に逃げ出した親父。それを見て、オレだけはしっかりしねぇとって思ってた。けど、そう思えば思うほど家にいることが苦痛になっていった」

 ある日、祐二は夜中にバイクで家を飛び出した。胸の中で堪えていた鬱屈が一気に吹き飛ぶほど、服越しに当たる風が心地よかった。その頃には、安らぐはずの家でさえ、息苦しいだけの場所へと変わってしまっていたのだ。

 もともと放任主義だった家の雁字搦めの束縛。いつまでもそれに耐えられるほど祐二は我慢強くはなかった。それでもバイクで気晴らしをすれば、また頑張ろうという気持ちになれた。しかし家で祐二を待っていたのは、鬼の形相をした母だった。

『バイクには二度と乗らないでってあれほど言ったでしょっ? 祐二まで事故にあったらどうするの!』

『お袋は心配し過ぎだ。見ろよ、今日は雨も降ってねぇ。それにバイクは乗ってやらないと壊れやすくなる』

『祐二はまだ中学生でしょっ? どうしてお母さんの言うことを聞いてくれないの! お兄ちゃんが死んじゃったのに、祐二は哀しくなかったの!?』

 居間を切り裂くように響いた声は、祐二の心を握りつぶした。自分の失言に気付いた母は顔を強張らせて、ただ唇を震わせた。その姿に一気に心が冷えるのが自分でもわかった。

 いつか元の家族に戻れると思っていた。そのためなら耐えられると。それなのに前を見ていたのは自分一人で、母はもう手の届かない幸せを求めていたのだ。過去が、戻るはずもないのに。

「あの人は兄貴の幻影を追うばかりで、今を少しも見てはいなかったんだ。それに気づいた時、もう駄目だって思い知った。だからオレは母親が落ち着くのと同時に家を出たんだ。もう二度と帰らないと決めて」

 父も母も祐二を止めることはしなかった。負い目があるだけに強く言えなかったのだろう。仮に止められてもきっと出て行っただろうが。

「先輩は、お父さんとお母さんを恨んでいるんですか?」

「許せなかった。許すつもりもなかった。けど、お前を失いそうになって初めて、オレにもお袋達の気持ちが少し理解できたんだ」

 失う事実を否定したくて、逃げきれるわけがないのに、逃げ出したくなった。どうしようもない現実に何もかもをぶち壊したい衝動に駆られた。そうやって悩み抜いた時間の中でわかったのは、兄を失った両親の気持ちである。

 兄の死を悼み、悲しんだのは祐二も両親も同じだったはずだ。それを深いか浅いかで比べようとは思わない。しかし、当時の両親はこんな風に苦しんでいたのかもしれないと思えば、何年も祐二の心を蝕んでいたどす黒い憎しみは、小さく萎んでいった。

「今でも、ふとした時に兄貴のことを思い出す。あの時、どうして見送ることをしなかったんだろうって。多分、後悔してるのは親父もお袋も同じで、あの日の正しい答えを求めてる」

 そんなことをしても、過去を変えることはできないと知りながら、これから先もまるで自らを罰するように、『どうして』と、自分に問い続けるのだろう。しかし、祐二はそれが間違っているとは思わない。

「いなくなって初めてその存在のでかさを知った。めちゃくちゃ後悔したからこそ、ここでお前と別れて同じ後悔をしたくねぇ」

「だけど、私は……」

 泣きそうな顔で、真生が距離を置こうと後ずさる。祐二はそれを許さずに詰め寄ると、彼女をできるだけ優しく抱きしめた。腕の中の温もりは、今を生きているのだと祐二に伝えてくれる。

「苦しいなら、その苦しみを半分寄越せ。辛いなら、辛いって口に出せよ。お前の腹の中にある気持ちを見せてくれ」

 懸命に一人で立とうと足掻く真生の姿は、傍で見ていてあまりにも切ない。たった一人で苦しんで、たった一人で泣かせるくらいなら、祐二は他の誰でもない自分の腕の中で、真生を泣かせてやりたかった。
******

「心配させて、迷惑もたくさんかけて、私のせいで周りが苦しんでるのも知ってて……わかってて、それを口にするのは単なる我儘ですよ」

 真生は祐二の胸を押して、離れようとした。一度でも泣き言を口にしてしまえば、そこから全部が崩れてしまいそうで怖かったのだ。つぎはぎだらけの心は破けるたびに、何度も悲鳴を上げている。それでもこの苦しみだけは、自分が背負わなければいけないものだから。

「私なら、大丈夫です」

 真生が呟くように言うと、祐二が離すまいとするかのように、腕の力をきつくする。

「苦しい時に苦しいって言うことのどこが我儘なんだ? 我慢して、何も言わずに笑顔で隠されて、お前の本当の気持ちに気づけねぇほうが、オレには辛れぇよ」

 誰にも言えずに我慢してきた気持ちが、祐二の言葉で弾けてしまう。

「全部をわかってはやれねぇかもしれない。けどお前のことをわかりたいって思うから。だから口に出して言ってほしい。オレにも伝わるように」

 祐二の声に込められた切ない願いに、真生は心に隠し続けていたものを震えながら吐き出す。

「……病気の、告知を受けた日から、眠れなくなりました。眠ったらそのまま目が覚めないんじゃないかって思うと、怖くて……何度も眠れないまま朝を迎えました」

 朝がくるたびに、今日も生きられるのかと思い。
 夜が来るたびに、明日は来るのだろうかと思う。

 長くなった夜と無情に朝を迎える日々に、気が狂ってしまいそうだった。

「普通に学校へ行くこともできる。私の手も足も普通に動くのにって思うと、自分が病気であることが夢みたいで、時々勘違いしそうになるんです。少しも変わっていないんじゃないかって」

 だが、いくら普通の高校生の振りをしても、現実は違う。受けられない授業や、激痛に苦しむたびに思い知るのだ。どんなに求めても、自分がもう元には戻らないことを。暗い穴から抜け出せない。そんな絶望に、ただ苦しかった。いっそ手術を受けないままでいようかとも思った。受けてしまえばそこで自分は消えてしまうが、受けなければ後三年は生きられるはずだからと。

「馬鹿ですよね。自分だけが辛くて、私だけが苦しいんだって思っていたんですよ。両親は私以上に苦しんでいたのに」
 
 生かしたいのに、生かしてやる術がない。代わりたくても、代わってやれない。
 両親のその声を聞いた時、真生は自分が恥ずかしくなった。一人よがりに苦しんでいた。自分だけが辛いなんてそんなこと、あるはずがないのに。

 記憶を失えば、真生の苦しみはそこで途絶えるが、忘れられた周囲はその後もずっとその苦しみが続いていくのだ。それがわかったから、手術を受ける決心がついたのだ。

「だから私は先輩に告白したんです。好きな人のためにこの時間を使いたかった。そして、できることなら、記憶の片隅でいいから、私を覚えていてほしかった……」

「断ったのに、『諦めない』なんて答えた奴は初めてだったな」

 祐二の穏やかな声が耳に響く。腕がゆるめられ、真生は祐二の顔を見上げて、切なさを堪えて笑ってみせる。

「先輩にもっと外の世界を見せてあげたかった。世界は苦しいばかりじゃないって教えてあげたかった。苦しそうな目であの人を追っている、そんな先輩を見ているのは胸が痛かったから」

 自分を見てくれなくても、大事な人が苦しまないのならそれでいいと思ったのだ。それが、いずれ離れる自分ができる唯一のことだった。

「違う世界に目を向けるなら、オレは一人でも他の誰かでもなくて、真生と一緒に見たい。お前と同じものを見て、同じものを感じて、幸せも苦しみも分け合うように、一緒に歩きたい。それじゃあ、駄目か?」

 自分にはけして向けられることなどないと思っていた祐二の熱の籠った眼差しに、心が大きく波打つ。

「オレが好きだと言うのなら離れていくな。オレのためだと言うのなら傍にいてくれ。勝手に全部決めて消えることを選ぶなよ」

 祐二の眼差しに込められた激情に、心が震えた。気持ちのたがが外れてしまったように、次から次へと想いが溢れてくる。

「忘れたくないなぁ……っ、先輩の全部を覚えていたいよ!」

 無理だと知っていても、そう願ってしまう自分に、真生はやるせなく笑う。涙が止まらない。

「お前が忘れても、オレが全部覚えておく。それで、お前に教えてやるよ。オレの心がどんな風に変わり、お前を想うようになったのかを。お前がどれだけ真っ直ぐに、オレを想ってくれたのかも」

 祐二の想いが嬉しくて、忘れることが切なくて、真生の胸は引き裂かれたように痛んだ。なんて幸せなんだろうと思う。それとは逆に、なんて苦しいのだろうとも思う。恋をしたら幸せになれるなんて嘘だ。溺れてしまえば苦しむのに、それでも手放せなくなるのだ。

「せん、ぱい、私は祐二先輩を忘れてしまうけど、貴方をずっと好きでいても、いいですか……っ?」

 子供のようにぽろぽろと涙を零して、真生は小さな声で尋ねた。祐二は、今まで見たことがないような愛しそうな笑みを浮かべて、真生の身体をぎゅっと抱きしめる。

「好きだぜ、真生。お前の想いをオレの中に刻んでくれよ。オレも、お前の心に残るくらい強く想いを刻むから」

 真生は祐二の背中に両手を回して、泣きながら微笑んだ。
 入院して五日目、二度目の点滴を終えた真生は、病院内の一階にある売店にいた。病気だからといって、食べ物に制限があるわけではない。ただ激しい運動は厳禁で、一日に二度は点滴を受けなければいけないことと、飲み薬を決められた時間に飲むことは絶対ではあるが、それ以外は基本的に普通の人と変わりはないのだ。

 店内をぐるりと一周して、もともとの目的であったオレンジジュースを買うと、真生は売店を出て狭い廊下をゆっくりと歩き出す。

 売店の隣は外科で、椅子には診察を待った人が腰がけていた。そこを通り過ぎると、ガラス越しに青々と芝生が広がっているのが見えた。柔らかそうな芝生の上では、病衣を着た子供が笑顔で駆けている。
 
 晴れているし、少し外に出るのもいいかもしれない。真生は近くの出入り口から外へ出た。

 ぽかぽかと暖かな太陽が真生を照らす。近くのベンチに腰を下ろすと、空を見上げて、その気持ちよさに目を閉じる。これが一時の平和だとしても、この瞬間は幸せだと思う。

 祐二はこの五日間、学校が終わると一日も欠かさずに会いに来てくれている。最初は、それこそ学校にも行かずに、長時間いてくれようとした。だが、それでは祐二が留年してしまうことになる。それはさすがに申し訳なくて、学校を優先させてほしいと真生がお願いしたのだ。

「何してんの、真生ちゃん?」

 聞こえた声に、ぱちりと目を開くと、逆さまの顔が青い空の中に映り込んでいて、心臓が飛び上がった。

「涼先輩!」

「思ったより元気そうで良かったよ。学校抜けてお見舞いに来ちゃた」

 慌てて立ち上がると、涼はベンチの後ろを回って正面にくる。よほど間抜けな顔をしていたのか、彼はおかしそうに笑って、かご盛りにしたお菓子の詰め合わせを差し出す。

「フルーツもいいけどさ、食事制限がないならこっちの方が嬉しいかと思って」

「ありがとうございます。お菓子に飢えてたのですっごく嬉しいですよ。それにしても……どうしたんですか、それ?」

 喜んでいた真生だったが、涼の左頬に痛々しい青痣がくっきりと浮かんでいるのを見つけて、思わず顔を顰めた。その困惑した様子に、涼は苦笑しながら頬を撫でる。

「これはオレの自業自得。見かけは派手だけど、たいしたことないよ」

「見てるこっちが痛くなりますよ。喧嘩でもしたんですか?」

「まっ、そんなとこかな」

 涼はそれ以上言わなかった。もしかしたら、なにか事情があるのかもしれない。真生が突っ込んで聞くのはやめると、彼は笑みを消して真剣な顔をする。

「あのね、今日はお見舞いに来たのと同時に、真生ちゃんにも一発もらいにきたんだよ」

 一瞬、ふざけているのかと思ったが、その目はどこまでも真剣なもので、真生は戸惑う。

「どうしてそんなことを?」

 真生にはなぜ殴れと言われたのかわからなかった。心当たりもない。涼はふっと目を細めた。その中に暗く苦しい色が宿る。

「──……秘密の話をしようか?」

 悲しそうな笑みを浮かべる涼に嫌な予感を覚えて、身体が強張る。

「これを聞いたらキミはオレを嫌うかもしれない」

「いったい、何を……」

 その真面目な様子は全く知らない人のようで、真生はただ戸惑うばかりだ。

「オレ、本当はずっと前から知ってたんだよ。祐二が誰を想っていたのかを」

 一瞬、耳がおかしくなったのかと思った。

 ──どういう、こと?

 言われた言葉を頭が理解するのを拒む。うろたえて言葉もない真生に、涼はいっそ優しいとさえ思える声音でゆっくりと言葉を紡ぐ。

「ごめんな、真生ちゃん。オレはキミに感謝されるような心優しい人間なんかじゃないんだよ。……オレはあいつがずっと琴美を好きだったことに、気づいていたんだから」

 はっきりと繰り返された言葉が信じられずに、真生は喘ぐように声を出す。

「なんで……」

「あいつは隠してたみたいだけど、親友なんだ。わからないわけがないよ」

「それじゃあ、琴美先輩も気づいてたってことですかっ!?」

「琴美は知らないし、そんなこと疑いもしないよ。気づいていたら、あいつはオレと違って平気な顔なんてできないしね」

 涼が上を仰ぐ。遠くに投げられた視線は、空ではない何処かを見ていた。

「祐二を苦しませてるのをわかっていても、三人の関係を崩したくなくて、オレはあいつの気持ちに気づかない振りをしていた。あいつが離れていくことも、琴美を手放すことも嫌だったからね。だからオレは、キミが祐二を想う気持ちを利用したんだよ」

 語られる涼の心情に真生は言葉を失う。涼は視線を戻しながら話し続ける。

「祐二を好きだと言い続けるキミが傍にいれば、あいつに辛い思いをさせなくてすむんじゃないか、あいつがキミを好きになってくれれば全て上手くいく、そう思ってたんだ。だけど、キミが病気だと知った時に、身勝手だった自分の醜さに気づいて……吐き気がしたよ。それでも、後戻りはできなかった」

 親友が好きになったのは自分の彼女だった。それを知った時、涼はどんな気持ちだったのだろう。どんな思いで二人を見守ってきたのだろうか。

 心というのは、他人はおろか自分でさえもコントロールできるものではない。誰が悪いわけでもないのに、それを誰にも言えずに一人苦しんだだろう涼を思うと、真生は何の言葉も出てこなかった。

「オレは琴美と祐二だけが大事だった。だから、躊躇いもなくキミの気持ちを利用した」

 後悔しているのだろうか。感情を押し殺したように涼は淡々と話した。しかし真生の目には、その顔が苦しさに歪んでいるように見えた。高ぶった気を落ちけて、彼に尋ねる。

「どうしてこんな話をするんです? 黙っていても、私はもうじきすべてを忘れてしまうのに」

「最初は、キミの気持ちを軽く見てたんだ。きっと祐二の周りをうろつくのも、一時的なものだろうって。上手くいけばよし。上手くいかなくても、祐二の気を紛らせてくれるならそれでよかった。だけど今は違う。キミという人間を知って、オレは真生ちゃんと対等な関係になりたいって思ったんだ。だから、キミにちゃんと詫びたい」

 それは思いもかけない言葉だった。

「『友達は一過性のもの、ダチは一生のもの』これは、ある人の受け売りだけど、オレの中にも明確な線引きがある。クラスメイトは友達だけど、一生つるみたいと思うようなダチは、祐二を入れて三人だけだ。だから……」

 涼はそこで頭を深く下げた。

「本当にごめん、真生ちゃん。いくら殴られても文句はいわないから、許してくれ。そして、もしキミが許してくれるなら、オレの新しいダチになってほしい。性別も年齢も、祐二の彼女であることも関係なく、ただオレはキミと一生つるめる関係になりたいんだよ」

 頭を上げない涼は、断罪されるのを待っているかのようだった。真生はそんな姿を見たくなくて、慌ててその広い肩を揺する。

「頭を上げてください! 先輩の立場からすれば、私の気持ちより、付き合いの長い二人を優先するのは当然のことです。ほんの少し、私が現れたタイミングが悪かっただけですよ」

「そんな簡単に許さないでよ。だって、オレはキミを傷つけただろ?」

 真生は言葉に詰まる。信頼していた先輩の本心にショックを受けなかったわけがない。しかし、真生はここで涼を責めたくなかった。

「……そうですね、本音を言えば、少しだけ悲しかったです。だけど、今まで先輩が親身になって心配してくれたのは事実ですし、私はその悲しみを上回るほど貴方に感謝しているんです。だって、私は貴方にも救われていたから」

 苦しい時に、その苦しみを知っている人がいてくれた。それだけで救われる気持ちがあった。どんなに苦しくても、一人じゃないと思えた。それはとても幸せなことだろう。

 差し伸べられる手があった。それがどんなに嬉しいことか彼は知っているのだろうか?

「私は涼先輩に救われていましたよ? 言葉で、態度で、数え切れないほど、貴方の存在に救われていました。だから私は殴るよりもありがとうって貴方に言いたい」

 真生はふわりと涼に笑いかけた。この気持ちが涼に届けばいい、そう願う。

「だけど、それじゃあ……」

「もし、それでも納得がいかないなら、殴る代わりに一つだけ、私のお願いを聞いてくれませんか?」

 良心が咎めるのか、顔を曇らせる涼に真生はそう尋ねる。彼は迷いもなく即答した。

「オレにできることなら」

「これは先輩にしかお願いできません。──もしこの先、祐二先輩が悩んだり苦しむことがあったら、力になってあげてほしいんです。祐二先輩ならきっと最後には自分で答えを見つけるでしょうけど、先輩がいれば心強いはずですから」

真生は穏やかに目を細め、それだけを願った。涼が祐二を助けないと思っているのではない。ただ涼に一番頼みたいことが、これだったのだ。

 ──私にはもう、助けることが出来ないから。

 その気持ちがわかったのだろう。涼は深く頷いた。

「わかったよ。祐二の助けになるって約束する。そして絶対に、キミの助けにもなってみせるから」

「ありがとうございます」

「お礼を言うのはオレの方だよ。本当にごめん。許してくれてありがとう、真生ちゃん」

 笑う真生に、涼は泣きそうな顔で、それでも今度こそ笑みを返してくれた。心から笑い合える今があれば、それだけでよかった。
 病室へ戻ると、涼はベットの傍に椅子を置いて、真生の話に付き合ってくれた。しかし、陽が傾いても一向に帰る様子が見られないので、しだいに気を遣わせているのでないかと心配になってくる。

「涼先輩、授業はいいんですか?」

「いいのいいの、オレ頭悪くないから心配いらないよ? 五回や十回受けなかったところで大した問題にはならないからさ。それよりね、もう少し真生ちゃんと話したいよ」

「十回って、留年したいんですか? 多すぎですよ。話したいって思ってくれるのは嬉しいですけど、琴美先輩が怒りませんか?」

「あっ、怒るかな? いや、でも大丈夫だって。真生ちゃんのとこにいるからって言えば」

「素直に帰った方がいいですよ」

 促すものの、暖簾に腕押しの状況である。祐二には学校を優先してほしいと頼んだ手前、彼だけにそれを許すのは真生の心情に反していた。

「今度は琴美先輩と一緒に来てください。そうすれば絶対に怒られませんよ?」

「そうだね、今度はそうするよ。……その前に琴美の怒りを鎮めてからじゃないと、無理かもしれないけどね」

 歯切れの悪い口調だ。真生は二人の関係に影が射したのかと、困り顔になる。

「今度はどうしたんです?」

「あのね、琴美は真生ちゃんの病気を最後に知ることになったよね? まぁ、他意はなかったわけだけど。だけど、あいつからすれば可愛い妹分からも知らされず、彼氏からもダチからも知らされなかったわけだ。で、今かなり怒ってて、口訊いてくんないんだよ」

「それは……」

 そうだった。すっかり教えた気になっていたが、よくよく考えてみればそんなわけがない。自分はあの時、誰にも言わずに消えるつもりだったのだ。

「ね? なんとも言えないでしょ?」

「……謝らないといけないですね」

「いやぁ、オレも土下座する勢いで謝ったんだけど、腹に一発拳を食らって、見向きもされませんでした」

「なんというか、相変わらずなようですね。不謹慎ですけど、ちょっと安心しちゃいました」

 その光景が容易に目に浮かぶ。

「そんなとこで安心されても嬉しくないって。けど、琴美も真生ちゃんの気持ちはわかっているはずだからさ。ちゃんと話して今度は連れてくるよ」

「はい。琴美先輩に、「隠していてごめんなさい」って伝えてもらえますか?」

「わかった。ちゃんと伝えるよ」

 涼の態度は、今までにない真摯なものだった。ふざけた姿ばかり見てきたが、本来の涼は繊細で優しい人なのだろう。その時、足音が聞こえてきた。真生は開けられたままのドアへと目を向ける。

「どうしてお前がここにいるんだよ?」

 先客の涼に不機嫌な顔をして、祐二が病室に入ってきた。

「あらま、ずいぶんなご挨拶じゃないの。もしかして妬いてる? オレが真生ちゃんと仲良くしちゃってるから」

 涼は真生の肩に腕を回すとわざとらしく鼻で笑ってみせる。挑発するような仕草に巻き込まれた真生は困った顔をするしかない。

「オレのに触るな」

 祐二の常から目つきがよくない目が険悪に細められ、親友の頭を軽く叩いて、真生を解放させる。その強引な仕草に思わず彼の顔を見上げた。

「大丈夫か?」

「あ、はい。ちょっとびっくりしました」

「……まぁ、大丈夫ならいい」

 何かを言いかけて、祐二はため息を吐きながら、ゆるく首を振る。どうしたのだろうかと、真生は不思議に思いながら瞬く。

「真生ちゃん、今のは祐二の嫉妬だって」

「黙れ害虫」

「い、一度ならず、二度までも!」

 祐二の手が素早く動いた。今度は力が入っていたようで、涼は頭を抱えて痛そうに唸る。真生は身体を張った冗談に思わず笑い出す。

「あははっ、嫉妬なんて先輩がするはずないですよ」

「この反応って恋人としてどうなの? 祐二、お前もっと頑張れよな」

 二人が顔を見合わせる。祐二の複雑そうな表情の意味が、真生にはいまいちよくわからなかった。

「わたし変なこと言いましたかね?」

「気にするな。それよりも、涼はいつからここにいやがったんだ。お前が学校にいなかったせいで、琴美の怒りがこっちに飛んできたじゃねぇかよ」

「オレ達、親友でしょ? 祐二くんとオレは一蓮托生なんだから、琴美の怒りも一緒に受けて当然だろ」

「胸を張るな。そんな親友なら捨てちまうぞ。お前の彼女なんだからしっかり宥めろ。……お前が何も言わないで消えたから、琴美も心配してたみたいだぜ」

「上々だね。琴美ちゃんにはもう少し素直になって欲しいのよ、オレとしても」

「もしかして、わざとですか?」

「怒ってばかりでこっちの話を少しも聞かないからね、苦肉の策だよ。このままぶつかることだけが増えていけば、一緒にはいられなくなるでしょ? 今のオレ達には必要なことだよ」

 物憂げな笑みを浮かべる涼はきっと本当に琴美のことが好きなのだろう。

「……呆れた奴だな」

「なんとでも言ってよ。それじゃあ、そろそろオレは帰るとするかな。馬に蹴られて死にたくないしね」

「さっさと帰れ」

「はいはい帰りますよ。またね真生ちゃん」

 ひらひらと手を振る涼に、祐二は手の甲を見せ邪険に払った。その後ろで真生は小さく手を振り返していたのだが、祐二が振り向く前に、素知らぬ顔で手を下ろして隠す。

「やっと煩い奴がいなくなったな。無駄に疲れたぜ」

 溜息を吐いて頭をがしがしと掻く祐二に、真生は微笑む。

「涼先輩はいい人ですよね」

「うるせぇけどな」

 素直じゃない言葉が祐二らしくて、小さな笑い声が漏れる。軽く睨まれるものの、ちっとも怖くない。

「怒らないで下さいよ」

「怒ってねぇよ」

「じゃあ、拗ねないで下さい」

「拗ねてねぇ」

 そっぽを向いてぶっきらぼうに祐二は答えるが、その声とは裏腹に彼の耳はうっすらと赤かった。真生は祐二が拗ねないように今度は声を立てないで笑った。しかし、その笑い声はすぐに途絶えてしまう。

「あ……っ」

 まるで何かの衝撃を受けたように視界が一瞬大きくぶれた。頭が痛み出す。最初は小さく、やがて耐えられないほど痛みは大きくなっていく。

「真生?」

 振り返った祐二に応える余裕もないまま、真生は震える指先で米神に触れると、きつく目を閉ざす。苦痛の時間が始まったのだ。

「先輩……外に、出ててください……」

 こんな姿を祐二に見られたくなくて、真生は激痛を堪えて声を絞り出す。じわりと広がるような痛みが、頭の中で大きくなったり小さくなったりを繰り返す。まるで不整脈を起こした心臓のようだ。

「痛むのか!? ナースコール押すぞ!」

「お願いです……外へ……」

「こんなの見て放っておけるか! どうすればいい? どうすればお前を少しでも楽にしてやれる?」

 痛みに苦しんでいるのは真生なのに、祐二の方が死にそうな顔をしている。真生は冷や汗を額に感じながら頼む。

「……一番上の引き出しに、薬が入ってます……っ」

「水もいるよな? ちょっと待ってろよ」

 祐二は引き出しから出した薬を真生に持たせると、反対側の壁に備え付けられた洗面所でコップに水を汲んで持ってきてくれる。

「……すみません」

「謝らなくていいから早く飲め」

 真生はあまりの痛みに朦朧としてきた意識の中で、なんとか薬を飲み込む。祐二の優しい手が何度も頭を撫でてくれる。繰り返し撫でられているとほんの少し、痛みが小さくなった気がした。

 すぐに担当医である郁也の父が駆けつけてくれた。彼は祐二の姿に驚いたようだが、それも最初の一瞬だけで、何も言わずに祐二を外に出して、苦しむ真生の処置を始める。腕に針を刺され、点滴が行われた。

「おじさん、先輩に、今日はごめんなさいって……」

「わかったよ、真生ちゃん。ちゃんと伝えておくからね、さぁ、ゆっくりと眠りなさい」

 真生はぼんやりした頭でかろうじてそれだけを言い残すと、激しい痛みの中で気絶するように眠りについた。
******

 菊地の父親だろう男が病室に入り、どれだけ時間が過ぎただろうか。祐二は苛々しながら男が出てくるのを待っていた。
 
 じっと閉じられたドアを睨みつけていると、内側からドアが開き、男が出てきた。年は四十代半ばといったところか、やはりその顔は郁也にどことなく似ている。

「真生ちゃんが、『今日はごめんなさい』と言っていたよ。彼女は暫く眠り続けるから、今日はもう帰りなさい」
 
 穏やかな口調で話す男の言葉には、反発するのを許さない強さがあった。男の言うことを聞く必要も義理もありはしない。しかし、ここは素直に引くことを選ぶべきか。祐二にとって一番気がかりなのは、真生のことだ。

「……さっきの薬は睡眠薬か?」

「そうだよ。あの子には痛み止めはもうあまり効かないから、睡眠薬を使って痛みが治まるまで眠らせているんだ」

「それじゃあ、睡眠薬を使うとその後どのくらい眠るんだ?」

「そうだね、だいたい二時間前後は眠り続ける。だけど、真生ちゃんはできるだけ睡眠薬は使わないようにしているんだよ」

「なんで?」

「使えばその間は眠り続けないといけないし、そんなに薬に頼っていたら、彼女の体力が落ちてしまう。なにより自由に動ける時間が確実に減るからね」

「それじゃあ、あいつは毎回あんな苦しみを限界まで一人で耐えているのか?」

 真っ青な顔で、苦しそうに頭を押さえて蹲った真生の姿が脳裏を過る。一年前に自分の病気を知ったと彼女は言っていたはずだ。そんなに前から誰にも気づかれないように、笑って隠していたということか。

 苦しい時に苦しいと言わない彼女の強さが、今の祐二には切ない。真生がもっと自分本位であってくれたならと思う。

「残念だけど、手術を受けるまではそれで耐えてもらうしかない。今より強い薬を使えば、その時は楽になれるだろうけど、その分副作用も強くなってしまうんだ」

「……あいつは治るんだよな?」

 意識しないで零れた言葉は、そのまま祐二の不安を表していた。

「僕はあの子が赤ん坊の頃から知っているから、実の娘同然なんだ。だからね、あの子を死なせたくないと思っているよ」
 
 男は医師の顔ではなく親の顔をしてそう答えると、足早に病室の前を去っていく。絶対に助けると、気休めでも口にしなかったのは、助けたいという気持ちが男にもあるからだろう。

 どんなに手術の成功率が高くても、絶対の保証はこの世界のどこにもありはしない。信じる覚悟をしたつもりだった。しかし蝋燭の火が風に揺れるように、祐二の心も不安という風に簡単に揺れてしまった。

 そんな自分を情けなく思いながら、祐二は弱気な自分を振り払う。そして、病室の扉に手の平で触れながら中にいる彼女を想った。

 ──お前が頑張るなら、オレも同じように信じる努力をする。真生の隣に立つのに恥ずかしくない奴になってみせるから──……。

 祐二は拳を握ると、廊下を歩き出した。




 自宅に帰った祐二はソファアに深く腰がけて、テーブルの上に置かれたスマホを見ていた。息を吸い、深く吐いて、ようやくそれを手に取る。スマホを最初に買った時でも、こんなに扱いを躊躇いはしなかったはずだ。

「くそっ、らしくねぇよな。くだくだ悩むのは止めだ」

 祐二は頭を掻き毟って大きくため息を吐くと、一度も自分からはしたことのない相手へ電話をかけた。耳の奥で単調なコール音が繰り返される。しかし五回を過ぎて相手が出ない。もう一度時間を置いてかけ直そうかと思い直した頃、プツリとその音が止んだ。

【もしもし?】

「…………オレ」

 なんて言えばいいのかわからずに、とりあえず口を開くとそんな言葉が出た。自分で電話しておいてこの切り出し方はまずいだろうと思ったが、どうしようもない。

【祐二、だな?】

 相手の声は驚いたと言わんばかりにあからさまに上擦っていて、祐二は見えない相手に複雑な気分になる。

「あんたは相手の表示も見ないで電話に出てるのか?」

【ちゃんと見てるさ。それでも信じられなかったんだ。お前から電話してくるなんて、ずっとなかったからな】

「……そうかよ」

【どうしたんだ? 何かあったのか?】

どう切り出そうかと悩む。

【……深刻なことか?】

「──直接、親父達と会って話をしたいって言ったら、できるか?」

【あぁ、もちろんだとも! 場所は何処だ? 今からか?】

「今からって、いいのかよ?」

 相手が興奮を抑えようとしているのが伝わってきて、祐二は苦笑した。ずっと話し合いの場を求めていたのは父なのだ。この機会を逃してなるものかとでも思っているのだろう。

【問題ないぞ。どこで会う?】

「そっちがいいなら、近くまで行く」

 向こうの家に行くことも、自宅に招くことにもまだ抵抗があって、家と自宅の中間くらいにある喫茶店で待ち合わせをする。

【母さんと一緒に待ってるからな】

「……あぁ、わかった」

 祐二はそう答えると、電話を切った。




 待ち合わせをした喫茶店の前でバイクを止めて、祐二は店に入った。周囲を流し見ると、もうすでに両親は来ていたようだ。入口から奥にある窓側の席に座って祐二を待っている。

 離れているのに、ぴんと伸ばされている背筋には、祐二に対する緊張が感じられた。こっちも身構える気持ちがないわけではない。しかし普通の親子とはあまりにも違う関係が物哀しさを誘った。

 少し近づくと、両親と目が合う。祐二は黙って向かいに座った。二人がもうコーヒーを飲んでいるのを見て、ウェイターに自分の分を注文する。三人の間に沈黙が流れ、祐二は迷いながら口を開く。

「……三年ぶりだな」

 久しぶりに会った両親は、三年会っていなかっただけなのに老けこんで見えた。皺の増えた顔に時間が確実に流れていたことを知る。

「祐二……よかった、元気そうで……」

「しばらく見ないうちに男前になったな」

 母は目頭にハンカチを当ててすすり泣きながら、ぎこちなく小さな笑みを浮かべた。
 父はそんな母を気にかける様子を見せると、感慨深そうに祐二の顔を見つめる。

 祐二は両親を目の前にしながら、冷静でいられる自分に驚いていた。もっと複雑な気持ちになるだろうと思っていたのに、意外なほど心は落ち着いている。

「やっぱり兄貴に似てるか?」

「兄弟だもの……お兄ちゃんと違うところももちろんあるけど、似ている部分もたくさんあるわ」

「そうだな。お前もオレ達の子なんだから、似てて当然だ」

 父に言われた言葉に胸が熱くなる。両親の子供と認識されているのは兄だけな気がしていた。失った子に思いを寄せるのは親なら当然だ。しかし、自分たちの悲しみに囚われていた両親は、祐二の抱える苦しみを想像することがなかったのだ。

 そう考えていると、父が祐二に向かって深く頭を下げた。

「祐二、あの時は本当にすまなかった。ずっと謝らなければいけないと思っていたんだ。父さん達は親としてお前を守らなければいけない立場にありながら、逃げてしまっていた」

「ごめんなさい、祐二。貴方が出て行ってからずっと後悔していたのよ。あの時言ってしまった言葉を何度も何度も謝ろうと思った。だけど、祐二が出て行ってしまうまでお母さんは謝る勇気がなかったの」

 両親の謝罪の言葉に、祐二は喉の奥から込み上げる熱を殺すことができなかった。真生と出会ってから、こんな気持ちに何度駆られたことだろう。十八にもなって、子供のように泣き出したい衝動に駆られることがあるなんて、思いもしなかった。

 しかし、ここで泣くなんてみっともない真似を自分に許すほど、祐二のプライドは低くない。冷静に振舞いながら、今度は自分が素直な気持ちを打ち明ける。今を逃せば、一生言えないだろう言葉を。

「あの時は、親父達を許せないと思った。この先も許すつもりはなかった。けど、オレも自分の気持ちばかりで、お袋達の気持ちをちゃんとわかってなかったんだと思う。それに気づいたから、今は別に恨んでねぇし、憎くも思ってねぇよ」

 口に出すのは母の言うとおり、たしかに勇気が必要だった。けれど、自分にも非がある時に、それを認めない方がよほど格好悪い。

「オレを気づかせてくれた奴がいるんだ。そいつは重い病気で、手術しないと助からないんだ。けど、手術を受ければ全部の記憶を失っちまう」

「大切な人なのか?」 

「あぁ。オレはあいつが、真生のことが大事だ。病気のことも知らないで、オレはあいつを山ほど傷つけてきた。普通の奴なら、想うのを止めるだろうっていうくらいにな。なのに、あいつは全部許してオレの傍にいてくれたんだ」

 普通なら自分の好きな相手を両親に教えるなど、気恥しくて絶対に避けて通るはずだ。けれど、祐二からすれば、自分が真生にしてきたことを思えば、そんな甘い気持ちよりも、自分に対する苦さのほうが増さってしまう。言わなければいけない言葉はこの先にある。だから、祐二は逃げずに両親を見つめた。

「あいつが記憶を失うと知った時は、気が変になりそうなくらい悩んだ。どうすりゃあいいのかわかんねぇし、その現実から逃げ出したくもなった。その時にようやく、お袋達もこんな風に苦しかったんだろうって、わかったんだよ」

 祐二は二人に向かって頭を下げた。

「オレも悪かった。親父が何度も話す場を設けようとしたのに、辛く当たっちまった。お袋にも連絡せずに心配かけた。家に行くのはまだ無理だけど、これからはオレからも歩み寄る努力をする」
 
 三年前の溝を、ここで全部埋めることなど無理だろう。しかし歩み寄ろうとしてくれた両親に、少しずつ応えていくことならできるはずだ。

「ありがとう、祐二」

「家族なんだ。ゆっくりやっていこう」
 
 父の言葉に、深く頷いて返す。それは祐二の時間が動き出した瞬間だった。
******

「菊地先生、お願いがあります」

 点滴の針を抜きに処置室を訪れていた真生は、菊地にそう切り出した。伝えた内容に、医師の顔をした幼馴染の父は難しい顔をして唸る。

「医師としては、絶対にすすめられないね」

「お願いします。一日だけでいいんです」

 無理を承知で口にした願いだった。残された時間が少ないのなら、どうしてもこれだけは叶えておきたい。

「──わかったよ」

「我儘で、ごめんなさい……」

「医師としては止めるけど、他ならぬ真生ちゃんの頼みだからね。できるだけ聞いてあげたいのがおじさんの本音だよ」
 
 穏やかな顔で笑う菊地に、真生も表情を緩めた。申し訳ない気持ちもあったが、最後だからこそ、これだけは譲れなかったのだ。

「いいかい? 絶対に激しい運動はしないこと、必ず薬を持っていくこと。具合が悪ければ無理をせず戻ること、この三つを絶対に守るんだよ?」

 とつとつと一つずつ条件を上げる菊地に、真生はそのつど頷いて返事をする。

「これが守れるなら、君の願いを叶えるよ」

「はい! ちゃんと守ります」

「それにしても、昔は膝に乗るくらいに小さかったのに、真生ちゃんも郁也も知らないうちに随分大きくなったもんだ。体はもちろん、心も成長したね」

「おじさんにそんな風にいわれると、気恥ずかしいです」

「この間、キミのお父さんとも話をしたんだよ。キミ達が親の手を離れていく日も近いかもしれないってね。少し寂しいけど、親として子供の成長はやっぱり嬉しいことだよ」

 真生は内心酷く驚いた。微塵もそんな様子を見せない父の本心を垣間見た気がしたのだ。だが、父がたしかに自分のことを見ていてくれていたことを知り、真生は嬉しく思う。

「キミのお父さんは口下手だから口に出さないけど、自分の子供は可愛いものだよ。ボクが話したことは内緒だよ?」

「もちろん言いません」

「いい子だね。針は抜いたから、もう行っていいよ」

「ありがとうございました」

 真生は弾んだ気持ちのままに処置室を後にした。




 病院の屋上では日光浴を楽しむ患者の姿があった。真生はベンチの前を通って景色を眺めるように手すりを握る。学校が微かに見えた。少し前までは自分も通っていた場所。

「いまの先輩は何をしてますか……?」

 そっと呟いた言葉に応える者はいない。真生は目を穏やかゆるめる。もしかしたら祐二も同じように屋上で、こちらを見ているかもしれない。なんだか本当にそんな気がして、心は暖かな日差しと同じくらいに温かくなる。

 恵まれたと、本当にそう思う。そのおかげで、真生はここに存在できている。

 自分を気にかけてくれた両親。
 優しくしてくれた先輩達。
 欲しい言葉をくれた先生。
 背中を押してくれた幼馴染。
 一緒に進む道を示してくれた、大事な人。
 
 ──今の私に、何ができるかな?
 
 その想いはいつも真生の胸の中にあった。病に侵されたこの体でも、最後に残せるものはないだろうかと常に考えている。

「こんなところにいたのか」

 声に振り返った真生は、静かに笑う。

「……来てくれたんですね、先生」

 笹枝は、大きな手に不似合い小さな花束を差し出す。大柄な姿にその可憐さは違和感があってなんだかおかしい。けれど、その気遣いが嬉しくて、真生は指の腹で花弁をそっと撫でる。

「わざわざありがとうございます。いい匂い。こんなに可愛い花束をどんな顔して買ったんです? 恥ずかしくなかったですか?」

「そりゃあ、恥ずかしかったさ。花屋でも珍獣を見るような目で見られたしな」
 
 鬚の生えた顎を摩りながら、笹枝がしみじみとそんなことを言う。恥ずかしいといいつつも、少しもそんな風には見えなくて、真生は小さく笑った。

「その鬚がなければ、先生も花束が似合う人になるのに」

 口周りにびっしりと生えた鬚のせいで年齢不詳に見られるが、笹枝の実年齢はまだ二十代だと聞いたことがある。しかし、笹枝はけして鬚を剃ろうとしない。もしかしたらそこには彼なりの拘りがあるのかもしれない。

「そう言ってくれるなよ。オレの鬚のことはともかく、お前の方はどうなんだ? 手術を受けると菊地から聞いたぞ」

「はい、もうすぐ受けることになります」

 真生は、明るい色で飾られた花束に柔らかく目を落とす。「自分」が長く存在できないことを、辛くないと言えば嘘になる。病気さえなければ他の人と同じように、普通に生きられたかもしれない。しかし、それをいくら嘆いたところで病気が治るわけではない。それが理解できないほど、真生は幼くはなかった。

「……弱いなぁって、自分でも思うんです。もうすぐ全部を忘れてしまう現実を考えると、時々物凄く怖くなる。逃げ出したくなるんですよ」
 
 逃げ場所なんて何処にもありはしないのに、と真生は空に視線を投げる。同じ空の下にいながら、ここは透明な牢獄のようだ。向こう側は透けて見えるのに、真生はここから出られない。息苦しくて、時折無性に全部を壊したくなる。

「お前は逃げないだろ。仮に、オレがこの場所から逃がしてやると言ったとしても、絶対に踏み留まる。違うか?」

 笹枝の言葉に胸を突かれ、真生は一瞬言葉を失った。

「……そうかもしれません。だって、私のことで心を痛めてくれる優しい人を知っているんです。その人を裏切ることなんてきっと一生できないですよ」

 真生は笑う。死にたくなるほどの苦痛さえ、耐えてしまえる。優しくて、愛しくて、忘れたくないと足掻くほどに、ただ祐二のことを想う。

「だから苦しくても、今の私は幸せなんです」

 真生は刻々と迫る時間を感じていた。
******

 同じ頃、祐二は学校の屋上から真生のいる病院を見つめていた。どうしても彼女のことが気になって、授業を抜け出してきたのだ。

「いまの真生は何をしてる?」

 祐二は真生に問いかけるように呟いた。無理はしていないだろうか。
 苦しんでいないだろうか。笑っているだろうか。心配で胸が埋めつくされて、今すぐ飛んでいきたくなる。

 だが、真生との約束がある。焦れてくるが、今はまだ学校にいるしかない。
 
 ──頼むから早く終わってくれ。
 
 願うのはそれだけだ。そんなことを本気で願っている自分がなんだか情けなくて、祐二は手すりに背を預けると、内ポケットから煙草を出した。蓋を開けてライターの火を当てる。煙草が赤く灯ると、深く息を吸い込んでじっくりと味わう。

 真生の病院に行くようになってから、煙草を吸う回数は確実に減ったが、こんな気分の時は無性に吸いたくなる。煙草で気をまぎわらせていると、祐二の正面にあった屋上の扉がゆっくりと開いた。

「あんたか……」

「お前か……」

 言葉は同時だった。二人の間になんとも言えない沈黙が満ちる。郁也はそのまま出ていくことをせず、屋上の端へ行く。祐二は煙草を口元に持っていきながら、その背中に話しかけてみた。

「真生から聞いた。あいつにオレと話し合うように言ってくれたのは、お前だってな。悪かったな、迷惑かけちまって」

「別に。オレが動いたのは相手があいつだったからだ。あんたのためじゃない」

 郁也は幼馴染を大事にしているようだ。言い方にはカチンとくるが、全面的な非はこちらにあるのだからと、祐二は言い返さなかった。

「そんなことよりも、あんた、あいつに毎日会いに行ってるんだろ? 前はあんだけ真生のことを泣かせたくせによ」

「自分がしてきたことに、気づいたからな。それでめちゃくちゃ後悔したから、今度こそ真生を大事にしたいんだ」

「それで償ってるつもりかよ?」

「そういうわけじゃねぇよ。真生を好きだと気づいたから、想う通りにしているだけだ」

 祐二は煙草を携帯灰皿で消すと、郁也の鋭い目を真っ直ぐに見返した。

「……ぎりぎり合格にしといてやる」

 祐二はその言葉に、自分が彼女の幼馴染に試されていたことを知る。しかし、それだけのことをしたのだと思えば、別に腹も立たなかった。

「もし、あいつをまた泣かせやがったら、その時は容赦しねぇ。あんたをぶっ飛ばすからな。忘れるなよ」

「肝に銘じとくさ。まぁ、そんなことはしないけどな」

「そうであることを願う」

 そっぽを向く郁也の語彙の荒さに、祐二は違和感を覚えた。

「お前、もしかして真生のことを──……」

 それは、ほとんど直感だった。

「さぁね」

 用は済んだとばかりに郁也が背を向ける。肯定も否定もされなかったそれが答えだった。祐二は閉ざされたドアを見つめる。

「オレは二度と間違えねぇよ」

 人気のなくなった屋上に、祐二の声が静かに落ちて消えた。




 祐二は手すりに寄り掛かるのを止めて、屋上を出た。次の授業を受けるつもりで階段を下っていると、声が聞こてくる。

「……しは……行き…い」

「そんなこと……かい……の……」

 上から見下ろせば、人気のない踊り場で涼と琴美が言い争っている。琴美が泣きそうに顔を歪めており、それに対して涼は険しい表情を崩さず、彼女の手首を逃さないように握りしめていた。

 ここ最近、二人の雰囲気がおかしいことはすぐにわかった。だが、祐二は聞くことはしなかった。今の自分にとって一番気にかけるべき相手は琴美ではない。真生なのだ。なによりも、それ以外に気を払う余裕がなかったせいもある。

「──行きたくないの!」

 琴美はそう叫ぶと、涼の手を振り払って走り去ってしまう。静寂が包む中、涼が深くため息を吐いて俯く。
 祐二は階段を下りながら、声をかけた。

「真生の見舞いの件でもめてるのか?」

「そうなんだよね。どうしてなのか聞いても言わないんだ。ただ行きたくないって繰り返すばかりで、ほんと、参ったよ」
 
 涼は苦い口調で項垂れながらしゃがみ込む。

「黙っていたことをまだ怒ってんのか?」

「それはないよ。そのことはちゃんと話して納得してもらった」

「なら、なんでだよ?」

「わかればとっくにお見舞いに行ってるって。……でも、オレが必ず連れていくから。絶対に真生ちゃんの手術までには」
 
 その目には強い意志があった。このまま真生に会わずに別れれば、琴美はいずれ必ず後悔することになる。それを二人はわかっていた。

「オレは口を出さねぇから、ちゃんと連れて行けよ」

「責任重大だわ。でも祐二くんが期待してくれてるんですもの、応えて見せるわよ! ってことで、祐二はこの後どうするの?」

 涼はふざけた口調で立ち上がり、呆れた顔をした祐二に笑いかけてくる。もうすっかりいつもの涼だ。

「教室戻るわ」

「そっか、オレは琴美が行きそうな場所を探してみるよ。たぶん教室には戻ってないだろうからさ」




 涼と別れて教室に戻っていると、正面から数学教師の笹枝が歩いてくる姿を見つけた。祐二は面倒な奴に見つかったと、身を隠す場所を探す。直接関わったことはないが、笹枝にはきな臭い噂が多数ある。

 しかし、運の悪いことに隠れられそうな教室はないようだ。祐二は潔く諦めて、普通に歩いていく。咎められようが無視すればいい。そう開き直っていたのだ。案の定、声を掛けられる。

「……今は授業中のはずだがな?」

「それなら、あんたはその授業中に何処へ行って来たんだ?」

 祐二の目には、笹枝の手に握られた車の鍵がしっかりと見えていた。咎められるならお互い様だと、自分より頭一つ分高い相手の顔を睨む。

「知り合いの見舞いに行ってきたところだ」

「へぇ、奇遇だな。オレもある奴が気になって、授業どころじゃねぇんだわ」

 その言葉に笹枝が驚いた表情をする。

「そうか、お前が……」

「なんだよ?」

 勝手に何かを納得したように頷かれても、祐二にはさっぱり意味がわからない。訝しんでいると、強引に襟首を掴まれて連れて行かれそうになった。冗談ではない。祐二は抵抗しようとした。しかしその気配を察したのか、笹枝が思いもかけないことを口にする。

「河野真生を知ってるな?」

「なんでそれ……あんたが見舞いに行ったのって、まさか真生のところか?」

「そうだ。だから、お前とちょっと話がしたいだけだよ。別に説教するつもりはないから、暴れずについて来い」

 祐二は迷ったが、その言葉に大人しく従った。連れて行かれたのは数学準備室と書かれた部屋である。主要教室とは離れた場所にそんなところがあるのなんて、祐二は全く知らなかった。

 中に入ると、ソファに座るように言われて祐二は腰を下ろした。笹枝はデスク脇の椅子を引いて座り、話を切り出す。

「オレと河野に関わりがあるのが、そんなに不思議か?」

「不思議じゃねぇ方がおかしいだろ! あんたと真生に接点なんかないはずだぜ。見舞いに行くほど親しいのかよ?」

「行こうと思うくらいには親しいかもな」

「……どういうつもりだ? なんでオレをここに連れて来たんだ」

 祐二は笹枝に警戒心を露にする。何を考えているのか、相手の表情からは読めない。だが、その言葉には何かが含まれているように聞こえた。

「オレは教師の中で唯一あの子の病気を知る者だった。だから河野は調子が悪い時や、出れない授業の時にここへ来ていたのさ。この場所を提供して、オレはあの子が隠れる手伝いをしていたんだ」

 淡々と語られた言葉に祐二は息を飲んだ。よく考えればわかりそうなことだった。病に侵された彼女が誰にも知られない様に行動するためには、絶対に協力者が不可欠である。彼女の幼馴染だけでは、これだけ綺麗に隠せるはずもなかったのだ。

「お前がどう思っているのかは知らんがな、あんな風に儚く笑わせたまま、あの子をいかせるなよ」

 笹枝の目は、祐二を通して誰かを見ているようだった。

「あんたは何を知っているんだ?」

「年を重ねるということは、たくさんの思いを知るということだ。後悔することのないようにな」

「……オレは後悔しない。これ以上の後悔なんて要らねぇんだよ」

 その深く重い言葉に、祐二は奥歯をきつく噛みしめて答えた。
 真生は病室のベットの上で、一枚の封筒を手にしていた。
 窓から零れる日差しの色が変わっていき、病室の中が幻想的な光景につかの間だけ染めかれる。太陽が沈んでゆくと、ドアをノックされた。真生は慌てて手に持っていたものを枕の下に隠し、その代わりにスケッチブックを取り出す。何も気づかない様子で祐二が入ってくる。

「真生、体調はどうだ?」

「こんにちは、先輩。待ってましたよ。昨日はすみませんでした。今日は朝から元気です」

 明るく笑って出迎える。そんな真生の頭を一撫でして祐二が優しく笑う。

「謝んなよ。そうだ、今日はお前に報告があるんだぜ?」

「なんですか?」

 祐二が楽しそうににやりと笑う。

「昨日な、お袋達に会ってきたんだ」

「本当ですか?」

 祐二と彼の両親の確執を聞いていた真生は思わず身を乗り出す。ずっと憎んでいたと苦しそうに言っていた祐二の姿は記憶に新しい。それなのに、いったいこの短期間でどんな心境の変化があったのだろうか。

「会えてよかったですねぇ。すごくすっきりした顔をしていますよ」

「どろどろしてたもんが、綺麗になくなっちまったからな」

「でも、どうして突然会おうって思ったんですか?」

 好奇心に負けて、真生が思い切って尋ねてみると、祐二は目を逸らして、珍しく口ごもった。

「……おかげ」

「はい?」

 聞き取れずにもう一度聞き返すと、祐二は僅かに顔を赤くする。

「だから、お前のおかげだって言ってるんだ」

「えっ!? まったく心当たりがないんですけど。むしろ私の方してもらってばかりいる気がしますよ?」

 気恥ずかしいと言わんばかりの態度で言われて、真生は面食らう。そう言われても、自分にはそれらしいことをした記憶はない。正直にそう答えると、祐二は目を丸くした。

「真生は全然自分のことわかってねぇのな? とにかく、お前のおかげでオレは親父達と会う決意ができたんだよ」

「そうなんですか?」

「わかんなくていいから納得しとけ。……お前に負けっぱなしじゃ男が廃るだろ」

「先輩は十分かっこいいです」

「ありがとな。けどよ、オレからすれば、お前の方がよっぽど強いぞ?」

「嬉しくないですよそれ」

 そんなことを真面目な顔で言わないでほしい。祐二は喉の奥で笑うと、目をやわらかく細めた。

「お前が誇れるほどの奴になるのは難しいかもしれねぇけど、お前の隣に立つのに恥ずかしくない奴にはなりたいからな」

「そんな風に思ってくれるのは嬉しいですけど、私はそんな大きな人間じゃないですよ」

 真生は笑って、やんわりと否定する。

「わかんなくていいぜ。真生はそれでいいんだ」

 楽しそうに祐二が笑っているのだから、まぁいいか流すことにする。

「先輩、私も報告があります」

「どうした?」

「一日だけですが、手術の前日に外出できることになったんですよ」

「それ本当か?」

 祐二の驚いた表情に、真生は嬉しくなる。入院してから初めての外出だ。そして、おそらく最後の外出だろう。心に滲むような寂しさを振り切り、真生は陽気に振る舞う。

「本当です! 先生に相談したら、いいよって言ってくれたんです。祐二先輩、その日は私と出かけてくれますか?」

「あぁ、約束したもんな。何処でも連れていってやる。行きたい場所があったら候補を決めとけよ? それからいくら楽しみでも無理だけはするんじゃねぇぞ」

「はい、わかってますよ」

 すっかり心配性になってしまった祐二に、真生は笑顔を見せる。つられるように、彼の表情にも笑みが浮かぶ。

「なぁ、さっきから気になってたんだけどよ、それスケッチブックだよな? 絵を描いているのか?」

 祐二の指摘に、真生はしゃんと背筋を伸ばすと、表情を引き締める。そして、今度は真剣な表情で口を開く。

「祐二先輩、私のお願いを聞いてくれますか?」

「いいぜ。言ってみろ」

「一緒に桜の木の絵を描いてほしいんです」

 ずっと考えていた。残りの時間で他になにが出来るだろうかと。そしてこれが、考え続けた真生が思いついたことだった。

「オレ達が初めて会ったのも桜の木の下だったな。お前の手紙に呼び出されて、そこまで行ったんだった」

「あれからいろいろありましたよね? 告白して、振られて、それでも諦めないって宣言して……。きっとあそこが私達の始まりの場所です。だから、大切なその場所を絵に残しておきたくて」

「わかった。その代わり下手くそでも勘弁しろよ?」

 真生は笑いながら祐二に鉛筆を渡して、さっそくスケッチブックをベットの上に開く。

「こうやって描いて置けば、絵にもあの時の想いが焼きつくと思ったんです。私が忘れてしまっても、この絵が覚えていてくれる」

「オレもいるのを忘れんなよ」

「忘れたりしませんよ。祐二先輩のこと頼りにしてますからね」

 祐二に横目でちろりと軽く睨まれる。少しも怖くない睨みに、年上の彼のことがなんだか微笑ましかった。




 それから二人は、毎日真っ白なスケッチブックに少しずつ大きな桜の絵を描いていった。

 太い幹から分かれた枝はいきいきと。
 枝先に咲く花は可憐に。
 花弁が風に散る繊細さを帯び。
 絵の具で色を何度も重ね、空の色を創った。

「完成です!」

 真生は祐二にも見えるように絵を掲げてみせる。ベットに腰がけた祐二は、肩を鳴らして屈めていた背をぐんと伸ばす。背の高い彼にはきつい作業だったようだ。

「腰いてぇ……」

「私もです。頑張りましたもんね」

「まぁな。絵なんかまともに書いたの小学生以来だ」

「疲れちゃいましたか?」

 顔を顰めて自分の腰をとんとんと叩く祐二に、真生は小さく笑うと描き上げた絵を床に立てかけて、ベッドに座る。彼が隣に来て、大きな手が優しく髪を撫でてくれた。その心地よさに目を閉じる。そのままうっとりしていたら、ノックの音がした。

「真生ちゃんいるかな?」

 入ってきたのは菊地だった。いつもの白衣姿に、手にはカルテを持っている。

「キミも一緒ならちょうどいいね。外出の件なんだけど、このまま安定しているようなら、三日後に許可を出すよ」

「本当ですか?」

「うん、それで彼にも念のために言っておこうと思ってね。キミも知っているだろうけど、真生ちゃんは その次の日に手術を受ける。だからできるだけ無理はさせないように」

「具体的には、どういうことに気をつければいい?」

「疲れすぎない程度に遊ぶことかな。それこそ極端な話、全力疾走するような激しい運動は避けて、ゆったりのんびり歩くような感じを意識して」
「わかった。気をつける」

「真生ちゃんも、絶対に薬を飲み忘れたり、はしゃぎすぎたりしないようにね。せっかくだから後は楽しんできなさい。僕からは以上です」

「了解しました! 先生、ありがとう」

「どうしたしまして。僕はもう行くけど、何かあったら呼ぶんだよ」

 他の回診がまだあるのだろう。菊地は足早に病室から出て行った。

「三日後が楽しみです!」

「そうだな。オレも同じ気持ちだ」

 心からその日が待ち遠しかった。




 いよいよ当日、真生は朝からそわそわと落ち着きがなかった。それというのも、今日は両親が病室に来ていたのだ。

 真生が外出することは両親も知っている。問題なのは、両親が祐二に会うと言い出したことだった。別に隠しているつもりもなかったし、後ろ暗いものがあるわけでもない。だが、真生がそれを聞かされたのは今日の話なのだ。当然、ここに向かっている祐二はそれを知らない。

 ただでさえ、一緒に出掛けるからと緊張していたのに、二人のせいでさらに変な緊張まで加わってしまい、真生は少しも落ち着けなかった。

「真生、ちょっとは落ち着きなさいな」

「できたらとっくに落ち着いてるよ。どうしても今日会うの? 先輩はこのこと知らないんだよ?」

「今日じゃなきゃ意味ないでしょう? ねぇ、お父さん」

「そうだ。一緒に出かける相手なら、きちんと会っておかなければいけない」

「固いよお父さん。ほんとに大丈夫なの?」

 いつもよりも喋ってはいるものの、父の顔はかなり強張っている。静かすぎて気づかなかったが、真生よりも父の方が密かに緊張していたようだ。そんな親子を尻目に、母親はやはり強かった。呑気に持参した水筒のお茶を飲んでいる。

「お母さんはなんでそんなに余裕なの……」

「あんた達が神経細すぎんのよ。真生もこっちいらっしゃい。お茶でも飲めば落ち着くわよ。お父さんもまだ時間あるんだから、いっそ開き直りなさいな」

「うん、もらっとく」

「そうだな、努力しよう」

 努力でどうにかなるものなのかと思いつつも、真生は朝から疲れた気分で、お茶を飲んだ。いつも飲んでいたお茶の味に、ようやくほっと一息つける。真生と父が幾分落ち着いた頃、ノックの音が響いて扉が開いた。驚くだろうなと思っていたのに、祐二は両親の姿を見ても意外と落ち着いている。

「こんにちは。初めまして、オレは呉柳祐二って言います。今日は真生さんと一日出かけるために来ました」

「はじめまして、真生の父です」

「同じく母です。ねぇ、祐二くん。真生と出掛ける前に、あたし達に少し話をする時間をくれないかしら?」

「オレは構いませんよ。何処で話ししますか?」

「談話室でどうだ?」

「ええ、そこにしましょうか。真生も一緒にいらっしゃい」
 
 談話室は、この階の真ん中に位置している。基本的にほとんど人がいることがない。一般に開放されてはいるものの、使うのはもっぱら医師が多く、彼等も特別な時以外はほとんど使わないのだ。案の定、開いた室内に人の姿はなかった。

「いい感じに人もいないことだし、腹を割って話をしましょうか? まず、貴方はこの子の病気を当然知っているのよね?」

「知ってます」

「それじぁあ、この子の記憶が手術と共に消えてしまう可能性が高いことも?」

「本人の口から聞きました」

「それを知っているなら、どうして? こんなことをして思い出を重ねても辛くなるのは貴方の方なのよ?」

「……やっぱり親子っスね。真生と同じことを言う」

 母の厳しい質問にも表情を崩さなかった祐二が、そこで初めて砕けた口調で話した。

「真生も同じようにオレが辛くなるから、自分を好きになるなと言った。けどそんな器用な真似ができるはずがない。頭で考えて相手を好きになったわけじゃねぇんだ。感じたのは心だ。オレの心が、真生を好きだと感じたんだ。気持ちだけは誰にも操れねぇ」

 それは真っ直ぐな言葉だった。はらはらしていた真生は祐二の揺るがない声に、徐々に落ち着きを取り戻す。

「オレは、大事な人を失う辛さを知ってます。前に一度失った人がいるから。けど、自分が苦しむのを怖がってたら、今ある大事なもんまで取り零しちまう。だからオレは真生を大事にしたいし、真生を好きなこの気持ちも大事にしたいって思うんです」

 目と声に込められた真摯な気持ちは、真生の胸を深く打つ。それは前の祐二なら絶対に口に出さなかった言葉だ。彼は真生のために両親に伝えようと努力してくれたのだ。

「キミの気持ちはよくわかった。母さん、彼はちゃんと理解している。理解した上で選んだことなら、オレ達が止める理由はないだろう」

「お父さん……」

 それまで黙って聞き役に徹していた父の言葉に、真生は思わず声を出した。父はさっきよりも落ち着いた表情で、静かに話しを続ける。

「オレは仕事人間で、この子が病気になるまでいっさい家庭をかえりみようとはしなかった。家族は何も言わないでもわかっていてくれると、勝手に思い込んでいたんだ。娘との距離に気づいたのは、情けないことに真生の病気が発見された後だった」
 
 それは初めて語られる父の心情だった。

「手術をすると記憶が消えると聞いた時の絶望といったら、言葉では言い表せない。……これまでのことを心底後悔した。家族で一緒に過ごす時間も持たずに、いったい何をやってきたのだろうと」

 父がこれほど自分の心情を語る姿など、真生は見たことがなかった。

「それからは娘との時間を取ろうと努力した。だが、父親らしいことを一つもしてこなかったオレが、今更そんなことをしても、真生に真っ直ぐに届くわけがなかった」

 それまで、ほとんど会話もしなかった父親が急に干渉し出したことに、真生は困惑した。父が何を考えているのか、理解できなかったのだ。しかし、今は違う。ちゃんと自分を思ってくれていた両親の気持ちを知っている。

「随分遠回りしてしまったが、今はこうして真生と理解しあえた。それはオレにとって何にも勝る幸せだ。オレ達の大事な娘を、よろしく頼む」

 父は最後にそう締めくくり頭を下げた。

「頭を上げてください。真生には絶対無茶をさせません。だから安心してください」

 祐二ははっきりと答えた。その言葉を受けて父がようやく頭を上げる。胸がいっぱいになっていた。こんなにも自分を心配して、想ってくれる人のがいたことが、嬉しかった。

「さぁ、湿っぽい話は終わりよ!」
 
 だがそれは、あっけらかんと言い放った母の一言で、一気に崩れる。

「お、お母さん……」

 真生は頭を抱えたくなった。せめてもう少し余韻を残してほしかった。

「それで、いつから付き合ってるの? 告白はどちらから? 真生ったらそんなこと一言も言わないんだもの、お母さんびっくりしちゃったわよ」

「……勘弁してよ、お母さん」

 母のテンションの高さに、違う意味で頭が痛くなりそうだ。

「やぁね、冗談じゃない。わざわざ今聞くほどあたしも意地悪じゃないわよ。遊びに行ってらっしゃいな」

「時間も限られてるんだ。早く行きなさい」

「すんません。真生、行くか」

「はいっ。それじゃあ行ってきます!」

 真生達は暖かな目に見送られてその場を後にした。