入院して五日目、二度目の点滴を終えた真生は、病院内の一階にある売店にいた。病気だからといって、食べ物に制限があるわけではない。ただ激しい運動は厳禁で、一日に二度は点滴を受けなければいけないことと、飲み薬を決められた時間に飲むことは絶対ではあるが、それ以外は基本的に普通の人と変わりはないのだ。

 店内をぐるりと一周して、もともとの目的であったオレンジジュースを買うと、真生は売店を出て狭い廊下をゆっくりと歩き出す。

 売店の隣は外科で、椅子には診察を待った人が腰がけていた。そこを通り過ぎると、ガラス越しに青々と芝生が広がっているのが見えた。柔らかそうな芝生の上では、病衣を着た子供が笑顔で駆けている。
 
 晴れているし、少し外に出るのもいいかもしれない。真生は近くの出入り口から外へ出た。

 ぽかぽかと暖かな太陽が真生を照らす。近くのベンチに腰を下ろすと、空を見上げて、その気持ちよさに目を閉じる。これが一時の平和だとしても、この瞬間は幸せだと思う。

 祐二はこの五日間、学校が終わると一日も欠かさずに会いに来てくれている。最初は、それこそ学校にも行かずに、長時間いてくれようとした。だが、それでは祐二が留年してしまうことになる。それはさすがに申し訳なくて、学校を優先させてほしいと真生がお願いしたのだ。

「何してんの、真生ちゃん?」

 聞こえた声に、ぱちりと目を開くと、逆さまの顔が青い空の中に映り込んでいて、心臓が飛び上がった。

「涼先輩!」

「思ったより元気そうで良かったよ。学校抜けてお見舞いに来ちゃた」

 慌てて立ち上がると、涼はベンチの後ろを回って正面にくる。よほど間抜けな顔をしていたのか、彼はおかしそうに笑って、かご盛りにしたお菓子の詰め合わせを差し出す。

「フルーツもいいけどさ、食事制限がないならこっちの方が嬉しいかと思って」

「ありがとうございます。お菓子に飢えてたのですっごく嬉しいですよ。それにしても……どうしたんですか、それ?」

 喜んでいた真生だったが、涼の左頬に痛々しい青痣がくっきりと浮かんでいるのを見つけて、思わず顔を顰めた。その困惑した様子に、涼は苦笑しながら頬を撫でる。

「これはオレの自業自得。見かけは派手だけど、たいしたことないよ」

「見てるこっちが痛くなりますよ。喧嘩でもしたんですか?」

「まっ、そんなとこかな」

 涼はそれ以上言わなかった。もしかしたら、なにか事情があるのかもしれない。真生が突っ込んで聞くのはやめると、彼は笑みを消して真剣な顔をする。

「あのね、今日はお見舞いに来たのと同時に、真生ちゃんにも一発もらいにきたんだよ」

 一瞬、ふざけているのかと思ったが、その目はどこまでも真剣なもので、真生は戸惑う。

「どうしてそんなことを?」

 真生にはなぜ殴れと言われたのかわからなかった。心当たりもない。涼はふっと目を細めた。その中に暗く苦しい色が宿る。

「──……秘密の話をしようか?」

 悲しそうな笑みを浮かべる涼に嫌な予感を覚えて、身体が強張る。

「これを聞いたらキミはオレを嫌うかもしれない」

「いったい、何を……」

 その真面目な様子は全く知らない人のようで、真生はただ戸惑うばかりだ。

「オレ、本当はずっと前から知ってたんだよ。祐二が誰を想っていたのかを」

 一瞬、耳がおかしくなったのかと思った。

 ──どういう、こと?

 言われた言葉を頭が理解するのを拒む。うろたえて言葉もない真生に、涼はいっそ優しいとさえ思える声音でゆっくりと言葉を紡ぐ。

「ごめんな、真生ちゃん。オレはキミに感謝されるような心優しい人間なんかじゃないんだよ。……オレはあいつがずっと琴美を好きだったことに、気づいていたんだから」

 はっきりと繰り返された言葉が信じられずに、真生は喘ぐように声を出す。

「なんで……」

「あいつは隠してたみたいだけど、親友なんだ。わからないわけがないよ」

「それじゃあ、琴美先輩も気づいてたってことですかっ!?」

「琴美は知らないし、そんなこと疑いもしないよ。気づいていたら、あいつはオレと違って平気な顔なんてできないしね」

 涼が上を仰ぐ。遠くに投げられた視線は、空ではない何処かを見ていた。

「祐二を苦しませてるのをわかっていても、三人の関係を崩したくなくて、オレはあいつの気持ちに気づかない振りをしていた。あいつが離れていくことも、琴美を手放すことも嫌だったからね。だからオレは、キミが祐二を想う気持ちを利用したんだよ」

 語られる涼の心情に真生は言葉を失う。涼は視線を戻しながら話し続ける。

「祐二を好きだと言い続けるキミが傍にいれば、あいつに辛い思いをさせなくてすむんじゃないか、あいつがキミを好きになってくれれば全て上手くいく、そう思ってたんだ。だけど、キミが病気だと知った時に、身勝手だった自分の醜さに気づいて……吐き気がしたよ。それでも、後戻りはできなかった」

 親友が好きになったのは自分の彼女だった。それを知った時、涼はどんな気持ちだったのだろう。どんな思いで二人を見守ってきたのだろうか。

 心というのは、他人はおろか自分でさえもコントロールできるものではない。誰が悪いわけでもないのに、それを誰にも言えずに一人苦しんだだろう涼を思うと、真生は何の言葉も出てこなかった。

「オレは琴美と祐二だけが大事だった。だから、躊躇いもなくキミの気持ちを利用した」

 後悔しているのだろうか。感情を押し殺したように涼は淡々と話した。しかし真生の目には、その顔が苦しさに歪んでいるように見えた。高ぶった気を落ちけて、彼に尋ねる。

「どうしてこんな話をするんです? 黙っていても、私はもうじきすべてを忘れてしまうのに」

「最初は、キミの気持ちを軽く見てたんだ。きっと祐二の周りをうろつくのも、一時的なものだろうって。上手くいけばよし。上手くいかなくても、祐二の気を紛らせてくれるならそれでよかった。だけど今は違う。キミという人間を知って、オレは真生ちゃんと対等な関係になりたいって思ったんだ。だから、キミにちゃんと詫びたい」

 それは思いもかけない言葉だった。

「『友達は一過性のもの、ダチは一生のもの』これは、ある人の受け売りだけど、オレの中にも明確な線引きがある。クラスメイトは友達だけど、一生つるみたいと思うようなダチは、祐二を入れて三人だけだ。だから……」

 涼はそこで頭を深く下げた。

「本当にごめん、真生ちゃん。いくら殴られても文句はいわないから、許してくれ。そして、もしキミが許してくれるなら、オレの新しいダチになってほしい。性別も年齢も、祐二の彼女であることも関係なく、ただオレはキミと一生つるめる関係になりたいんだよ」

 頭を上げない涼は、断罪されるのを待っているかのようだった。真生はそんな姿を見たくなくて、慌ててその広い肩を揺する。

「頭を上げてください! 先輩の立場からすれば、私の気持ちより、付き合いの長い二人を優先するのは当然のことです。ほんの少し、私が現れたタイミングが悪かっただけですよ」

「そんな簡単に許さないでよ。だって、オレはキミを傷つけただろ?」

 真生は言葉に詰まる。信頼していた先輩の本心にショックを受けなかったわけがない。しかし、真生はここで涼を責めたくなかった。

「……そうですね、本音を言えば、少しだけ悲しかったです。だけど、今まで先輩が親身になって心配してくれたのは事実ですし、私はその悲しみを上回るほど貴方に感謝しているんです。だって、私は貴方にも救われていたから」

 苦しい時に、その苦しみを知っている人がいてくれた。それだけで救われる気持ちがあった。どんなに苦しくても、一人じゃないと思えた。それはとても幸せなことだろう。

 差し伸べられる手があった。それがどんなに嬉しいことか彼は知っているのだろうか?

「私は涼先輩に救われていましたよ? 言葉で、態度で、数え切れないほど、貴方の存在に救われていました。だから私は殴るよりもありがとうって貴方に言いたい」

 真生はふわりと涼に笑いかけた。この気持ちが涼に届けばいい、そう願う。

「だけど、それじゃあ……」

「もし、それでも納得がいかないなら、殴る代わりに一つだけ、私のお願いを聞いてくれませんか?」

 良心が咎めるのか、顔を曇らせる涼に真生はそう尋ねる。彼は迷いもなく即答した。

「オレにできることなら」

「これは先輩にしかお願いできません。──もしこの先、祐二先輩が悩んだり苦しむことがあったら、力になってあげてほしいんです。祐二先輩ならきっと最後には自分で答えを見つけるでしょうけど、先輩がいれば心強いはずですから」

真生は穏やかに目を細め、それだけを願った。涼が祐二を助けないと思っているのではない。ただ涼に一番頼みたいことが、これだったのだ。

 ──私にはもう、助けることが出来ないから。

 その気持ちがわかったのだろう。涼は深く頷いた。

「わかったよ。祐二の助けになるって約束する。そして絶対に、キミの助けにもなってみせるから」

「ありがとうございます」

「お礼を言うのはオレの方だよ。本当にごめん。許してくれてありがとう、真生ちゃん」

 笑う真生に、涼は泣きそうな顔で、それでも今度こそ笑みを返してくれた。心から笑い合える今があれば、それだけでよかった。