龍神は愛の言葉が甘すぎる

 連れてこられて何日が過ぎたのだろう。
 きっと、二日は経っているだろう。
 眠りから目を覚ますと外が騒がしかった。
「……お嬢さま!」
「お嬢さま、お待ちください!」
「……なにをなさっているのです、お嬢さま」
 慌てたような使用人の声。
 冷静な声はばあやのものだった。
 この家でお嬢さまと呼ばれているのはたった一人。
 ガチャガチャと鍵が開けられるような音がした。
 茅都さんが来てくれたのかもしれないなんて淡い希望を抱くがそれは叶わなかった。
「え……?の、乃々羽お姉さま……」
 わたしは顔が強張る。
 お姉さまとなんてあまり話したことがないのに。
 お姉さまが物置小屋に入って来たかと思えばわたしの手を掴んだ。
「早く来て……!」
 お姉さまはなぜか楽しそうに言った。
 お姉さまに連れられるがまま、家の中を全力で走った。
「お嬢さま!なにをなさっているのですか⁉」
「誰かお嬢さまを捕まえて!」
 乃々羽お姉さまは玄関の扉を勢いよく開けた。
「ちょっと来て……!早くしないとばあやたちが来ちゃう」
 そう言った途端に玄関から数人の使用人とばあやが出てきた。
「来ちゃった……!こっちよ」
 お姉さまはまたわたしの手を掴み走りだした。
「お嬢さま、なにをしているのです。早く戻って来なさい。旦那さまや奥さまに怒られますよ」
ㅤばあやの怒りが混じった声が聞こえるが、乃々羽お姉さまはそれを無視した。
 白い車を出してお姉さまは運転席に乗った。
「乗って。……なにもしないから、私は妃翠と話がしたいの。ばあやのことは気にしないでいいから」
 お姉さまはの瞳は真剣そのものだった。
 少しだけ信じてみようと思った。
 わたしは車に乗り込んだ。
 車が動き出した。
 少し後ろを振り返って見てみると使用人たちが慌てたように走っている。
 けれど、車の速さに敵うわけもなく。
「……ふふっ。あははっ」
 お姉さまは突然おかしそうに笑った。
 けれど、不気味さはなかった。
「……なぜ笑うのですか?」
「ああ。妃翠に向けての笑いじゃないわよ?いつも……ばあやには名家の娘らしくいなさいって言われるの」
 お姉さまは呆れたようにため息をつく。
「名家の娘ってどんなのなのかな……難しいな。わたしはわからないままばあやに色々と言われるの」
 お姉さまはわたしを見て言った。
「いつもチクチク言ってくるばあやが焦ってるの見たらなんだかおもしろくなっちゃった。……本当に性格悪いわね、私」
 なんて意地悪く笑うお姉さま。
「……ここでお茶でもしましょう?」
 お姉さまは車をとめた。
 個室のあるレストランに行った。
「さあ、好きなの選んで……二日間ろくに食事をとれなかったでしょ……?」
 お姉さまは辛そうな顔をした。
 食事がきてからお姉さまは話出した。
「妃翠……今まで本当にごめんなさい」
 急に謝られ戸惑ってしまう。
「な、なぜお姉さまが謝るのですか……?」
「だって……今まで妃翠がお母さまやお父さまになにをされても私は助けることができなかった……」
 弱弱しい声のお姉さまにわたしは今までのことを思い出す。
 継母さまに叩かれることがあっても、お姉さまは同情の瞳を向けるだけだったのだ。
「ごめんなさい、私……妃翠と仲良くしなきゃって思っていたけれど……お母さまに妃翠のところに行くなって口止めされていたの……それで中々妃翠の部屋に行けなかった」
 お姉さまは頭を下げた。
 継母さまはいつもお姉さまのことを監視していたようだ。
「こんな姉でごめんなさい……こんなダメダメな私だけどなにかあれば妃翠の力になりたい」
 お姉さまは頭を上げ、わたしに向かって言った。
「そうだ、妃翠。『お姉さま』だなんて堅苦しいからせめて『お姉ちゃん』って呼んでよ!あと敬語も。今どき兄妹姉妹に対して敬語使うほうが珍しいんじゃない?」
 お姉さまはウインクをする。
「えっと……乃々羽お姉ちゃん……?」
 わたしが言うと乃々羽お姉ちゃんはキラキラした瞳をしていた。
「いいわ!それでいきましょ!」
 わたしたちは食事を進めながら話をした。
「……お姉ちゃんに悩みを相談したいのだけれど……」
 わたしが控えめに言うと。
「わたし……その……茅都さんのことが好き、なの……」
 顔を真っ赤にしながら言う。
 乃々羽お姉ちゃんの顔を見ると驚いたように目を見開いていた。
「え、本当⁉」
「うん……でも、まだ心の声が聞こえることも言えてない……言ったら嫌われちゃうわよ」
 わたしが言うと乃々羽お姉ちゃんはわたしの手を握った。
「大丈夫……その好きだっていう気持ちを大切にすればいいの。好きを伝えて損はないと思うよ?雲龍さまだって妃翠のことを認めてくれる」
 わたしは好きという感情を誰かに伝えることを今まであまりしてきていない。
 お母さまが生きていた頃はわたしもまだ幼かった。
 それからはお父さまと話すこともなくなって好きということすらも忘れていた。
「妃翠が幸せになれるなら私はなんでも協力する。……だって、私は妃翠のお姉ちゃんだもん」
 乃々羽お姉ちゃんは嬉しそうに笑った。
 わたしはこれまでにない幸福感に満たされた。
 家族に愛されるということはこんなにも嬉しいのか。
 レストランから出ると見覚えのある黒い車があった。
「……妃翠。あなたなら大丈夫、勇気を出して伝えてみるのもいいと思うよ」
 そう言って乃々羽お姉ちゃんはいなくなった。
「妃翠!」
 後ろを向くとすぐさま抱きしめられた。
 この匂い、温もり、すごく落ち着く。
「茅都さん……」
「ごめん。来るのが遅くなった……本当にごめん」
 茅都さんは泣きそうな顔でわたしを見た。
「平気よ。……わたし、家族の中でやっと信用できる人を見つけたから。それに一番は茅都さんなら来てくれるってわかってたから」
 茅都さんならきっとわたしのことを探してくれるとなんの根拠もない自身があったのだ。
「そっか。……家に帰ろう」
 茅都さんはわたしの手を引いて車に乗った。
 家の近くまで来た。
 懐かしい並木道。
 たった二日間だけなのにすごく懐かしく感じる。
「ただいま」
 わたしは大きな家に向かって言う。
「……おかえり」
 茅都さんは優しく笑った。
 茅都さんのこの優しい顔で笑うところも少し大げさなところも全部全部大好きなんだ。
 今日、ちゃんと全て伝えなければ。
「……妃翠、おいで」
 時間だけがすぎて行き、夜になってしまった。
 お風呂も入り、夕食も食べた。
 ソファーにいる茅都さんに呼ばれる。
 茅都さんは腕を広げて待っている。
 わたしは茅都さんの腕に包まれた。
「茅都さん……あの、大切な話があるの」
 茅都さんはわたしを抱きしめる力をゆるめた。
「……どうしたの。そんな改まって」
 茅都さんは少し不安気な顔をした。
「その……理解するのに時間がかかっても仕方がないとは思うのだけど……わたし、誰かの心の声が聞こえるの」
 わたしは茅都さんの瞳を見た。
(──心の声?……じゃあ、この声も聞こえているのか?)
 わたしは小さく頷いた。
「ええ……聞こえているわよ」
 わたしが言うと茅都さんは目を見開いた。
 驚くのも無理はないだろう。
 さて、ここからが問題だ。
 この能力を受け入れてもらえるのか。
「信じられないけど……言ってくれてありがとう」
 茅都さんはまたわたしを抱きしめた。
 受け入れてもらえたのだろうか。
 きっと、そうだろう。
「そ、それと……まだ一番伝えたいことが残ってるのよ」
 一番伝えたいこと、それは──。
「わたし、茅都さんのことが──好き」
 わたしが言うと茅都さんは固まってしまった。
 さすがにこれは受け入れてもらえないか。
「待って、本当にこれ現実……?」
 茅都さんはわたしに頬を叩いてほしいなんてお願いしてきた。
「えっと……叩きはしないけれど。現実よ……?」
(──嬉しすぎる。もう今日命日でもいいよ)
 そんな心の声が聞こえ、わたしは焦る。
「し、死んじゃダメよ……!」 
 わたしが言うと茅都さんは笑った。
「そうだ。妃翠には思ってることがバレバレなんだね」
 わたしはこくこくと頷いた。
「じゃあ、遅くなったけど。……妃翠、昔から僕の好きな人は妃翠なんだよ。やっと、言えた」
 わたしは茅都さんの言葉が理解できなかった。
「えっ……?ほ、本当に?わ、わたし……っ」
 わたし、誰かに好きでいてもらえている。
 そのことに嬉しさと同時に大量の涙が溢れた。
「妃翠……」
 茅都さんは嬉しそうに微笑んだ。
「改めて……僕と付き合ってくれますか?」
 わたしは涙でぐちゃぐちゃの顔ではにかんだ。
「ええ、もちろんよ……!」
 茅都さんの顔が目の前にあった。
 少し見つめ合ったあと、優しいキスが降ってきた。 



 茅都さんと付き合い始めてから数日後。
「あ、妃翠ちゃんやないの?……あんた、茅都と付き合ったって?」
 結璃ちゃんに話しかけられた。
 わたしは恥ずかしさをこらえながら頷いた。
「そう。おめでとう……せや、あんたら付き合ったから言ってもええのかな?」
 結璃ちゃんは少し言いづらそうにしていた。
「なにか言いたいことがあるなら言ってほしいわ」
「……うちな茅都の元カノなんや」
 いつもニコニコしている結璃ちゃんが真剣な表情で言った。
「え……?」
 わたしはショックというより驚きが勝っていた。
「ごめんな、言うつもりはなかったんやけど。言ったほうがええなって思うことがあったからあんたには言うわ」
 結璃ちゃんは一息おいて。
「うちと茅都が付き合ってたのは高校生のときや。高一のときから高二の最後らへんまで付き合ってた。別れを言ったのは茅都やった。忘れられへん子がいるって言ってな。ほんま一生分のごめんをもらった気がするわぁ」
 結璃ちゃんは少し切なそうに笑った。
「うちらは確かに両想いやったと思うで?妃翠ちゃんの前で話すことやないとは思うんやけど。……でも、茅都はきっと頭のどこかで妃翠ちゃんのことを想ってたんやない?それくらい、あんたのことを忘れられへんかったんやろ?」
 わたしは結璃ちゃんの話に違和感を覚えた。
 わたしが茅都さんと会ったのは翡翠川に落ちて助けてもらったときの一回だけだ。
 それなのにわたしのことを忘れられないなんてあり得るのだろうか。
 わたしはそんなことを思いながら結璃ちゃんの話の続きを聞いた。
「うちは身代わりでもなんでもないわぁ……って別れたんやけど。あんまりピンと来てへんの?」
 結璃ちゃんは笑って言った。
「……もぉ、ほんまに茅都最低やわぁ。でも、本気で茅都に愛されてるのは妃翠ちゃんなんやから、あんたは絶対に幸せになれるで。うちはええ人探してくるわ」
 なんて最後は冗談めかして言った結璃ちゃんだった。
 けれど、わたしがずっと探し求めてきたもの。
 『幸せ』というものが手に入るのか。
 結璃ちゃんはわたしに手を振っていなくなった。
 家に帰ると茅都さんはすでに帰って来ていたようだ。
 夕食を食べているときにわたしは茅都さんに今日あったことを話した。
「……今日、結璃ちゃんに会ったの。それで、茅都さんと結璃ちゃんが高校生のときに付き合ってたことを聞いたわ」
 わたしがそう言うと茅都さんはぴくっと肩を揺らした。
「そのときに少し違和感があったの……わたしたち一回しか会ってないわよね?なのに、あたかも昔にずっと会ってたみたいな言い方をされたの……変な話よね──」
 わたしが茅都さんの顔を見ると、茅都さんはすごく切なそうな顔をしていた。
「…………」
 茅都さんはなにも言葉を発しない。
「ね、ねぇ……なにか言ってよ。なんで、なにも言わないの……っ?」
 わたしの声は震えていた。
 明確になにに不安があるかと問われると答えることができないがこの雰囲気がわたしの不安を煽った。
「……妃翠はなにも覚えてないの?」
 急にそんなことを言われる。
「えっと……なにを?」
「僕と妃翠は……妃翠が──川に落ちる前からの知り合いだってこと」
 わたしはただ呆然とするしかなかった。
「え、え?どういう……こと?」
「妃翠の記憶からはもう消えてるんだよ……翡翠川に落ちる前から一緒によく遊んでいたんだよ。本当に毎日のように僕は家から抜け出して、妃翠と誰にも見つからないようにこっそりと綾城家で遊んでたんだ」
 茅都さんは懐かしそうに、そして辛そうに言った。
「でも、妃翠は川に落とされたショックで僕のことを忘れた……完全に忘れさせたのは僕だけどね」
 わたしは茅都さんの能力によって記憶を消されたのだ。
 記憶を消してほしいと願ったのはわたしのほうだった。
 けれど、記憶を消す代償として茅都さんのことも忘れていたようだ。
「妃翠は僕のことを忘れちゃって……それが辛くて、距離をとったんだ……」
 わたしは悲しそうに話す茅都さんを見ていると胸がズキズキと痛んだ。
「……じゃあ、どうしてこの縁談を受け入れたの……?とても辛いでしょう?昔会ってたのに完全に忘れられるって」
 わたしが聞くと茅都さんは頷いた。
「ああ、もちろん悲しいし辛い。けど、もう一度妃翠の近くにいたかった。また妃翠が昔のように笑ってくれるのを見たかった。今度は僕が……妃翠のことを助けたかった」
 茅都さんは弱弱しく、だけど芯のある声で言った。
 わたしの記憶は戻らない。
 だけど、茅都さんと会ったのは事実。
「……わたし、茅都さんに出会えて幸せ。わたしね、ずっと探していたの、幸せを。記憶があればもっとよかったのだけど……過去には戻れない。ただ、これだけは言わせて、わたしのことを受け入れてくれて……わたしはいてもいいって思わせてくれてありがとう」
 わたしは能力のせいで受け入れてもらえなかった。
 学校に行っても能力を知ればみんなわたしから離れていく。
 能力を知っても離れないでいてくれたのは茅都さんだけだった。
 そんな茅都さんにどうしても感謝を伝えたかった。
「僕も……妃翠に出会えてよかったと思ってるよ」
 茅都さんはわたしの頬にキスをした。 
「一回だけの出会いじゃなかったのね……この縁談も運命なのかしら」
 わたしは微笑んだ。
「運命、なのかな。……僕には妃翠が必要だって神様が言ってるみたいだよ」
 茅都さんは笑った。
 わたしたちはそのあとも思い出に浸った。



 大学に行くと久しぶりに会う気がする瀬凪くんがいた。
「よっ。なんか久しぶりだな、ひい」
 ニカッと笑う瀬凪くん。
「……すごく久しぶりな気がするわね。実際はそんなことないのに」
 わたしたちは笑い合った。
「そうだな……」
 瀬凪くんはなにかを決心したようにわたしを見る。
「……なぁ、ひい。ひいにとって俺ってなに?」
 急にそんなことを言われてもよくわからない。
「なにって……大切なお友達かしら」
 わたしが言うと瀬凪くんは大きなため息をついた。
「はぁ……やっぱそうだよな。……なあ、ひい。俺がひいのこと──好きって言ったらどう?」
 わたしは瀬凪くんの顔を見る。
 瀬凪くんの顔は真剣そのものだった。
「えっと……それは、友達とか家族とかに向けられるものよね……?」
「いいや?恋愛的な意味に決まってんじゃん。俺と付き合ってほしい」
 そう言われわたしは目を丸くする。
「え、えぇ⁉せ、瀬凪くんがわたしを好き……?」
 わたしが驚いて声をあげると瀬凪くんはいたって冷静に。
「俺結構わかりやすかったと思うけどな」
 さらっと言うけれどわたしは全く気付かなかった。
「まあ、返事は考えておいて」
 そう言ってわたしとは反対方向に歩き始める瀬凪くん。
「あっ……」
 行ってしまった。
 なにも返事を言えずに。
 わたしには茅都さん以外考えられない。
 これは世間一般でいうと瀬凪くんが可哀想になってしまうのか。
 それともきちんと気持ちを伝えるべきなのかよくわからない。
 これだからもっと恋愛を経験しておけばよかったと後悔するのだ。
 わたしは家に帰って一人で瀬凪くんの告白の返事を考える。
 茅都さんはまだ帰ってきていないので一人でじっくりと考える。
「……なんて言うのが正解なのかしら……まずはごめんなさいかしら?」
 なんて独り言をぶつぶつと言いながら考える。
「──……それはなにに対しての謝り?」
「告白の返事よ……って、え?」
 わたしは今、誰に返事をしたのだろう。
 この家にはわたし一人しかいないのだ。
 なんだかすごく聞いたことがあるような声だった。
「──か、茅都さん……」
 予想通り声の主は茅都さんだった。
 茅都さんの顔は恐ろしかった。
「か、茅都さん……笑ってるのに目が全くもって光を宿していないのだけれど……」
 わたしは視線をおろおろと移動させる。
 この状況で茅都さんの顔を見れるわけがないのだ。
「うん、当たり前だよね?この状況で笑っていられるほうが僕はすごいと思うな……で、なにがあったか説明してくれるかな妃翠ちゃん?」
 今までちゃん付けなんてされたことがない。
 不覚にもドキッとしてしまった。
 この状況でときめいてはいけない。
 ちゃんと瀬凪くんのことを話さなければ。
「え、えっと……小さいときに遊んでた瀬凪くんから……その、告白をされまして……」
 わたしはごにょごにょと茅都さんに話す。
「……で?なに、告白にオーケーでもしたの?僕がいるのに?」
 茅都さんに問われわたしは首をぶんぶんと横に振った。
「そんなわけないでしょう。わたしは茅都さんしか見ていないから……でも、返事ができてなくてなんて返事をするべきなのかわからなくて考えていたのよ」
 わたしが言うと茅都さんはニヤッと口角をあげた。
「今の言葉そのままそいつに言えばいいのに。『わたしは茅都さんしか見ていないから、ごめんなさい』って」
 茅都さんはそう言うけれどわたしは恥ずかしくてたまらない。 
 会話に必死で自分で言ったことなのに後悔している。
 本人の前でわたしはなにを言っているのか。
「あ、明日……告白はお断りするわ……」
 わたしがそう言うと茅都さんは満足げに笑った。
 翌日、昨日の言葉通り瀬凪くんの告白に返事することにした。
「……昨日のこと考えてくれた?」
「ええ……瀬凪くん、告白には応えられないわ。でも、嬉しかったわ。気持ちを伝えてくれてありがとう」
 誰かに気持ちを伝えることはとても勇気がいることなのに瀬凪くんはさらっとやりとげてしまうのだからわたしは関心していた。
「ははっ。やっぱり……雲龍には敵わないか。まあ、お似合いカップルだもんな、ひいと雲龍。めっちゃ悔しいけどな」
 カップルと言われて顔が熱くなる。
「な、なんで……っ。付き合ってることを知っているのよ……⁉」
 わたしが聞くと瀬凪くんは当たり前だというふうに言った。
「なにを言ってんだひいは。あやかしの中でもトップの雲龍家の次期当主の話となれば伝達の速さも異次元だぞ?同棲してるんだし、恋の一つや二つあってもおかしくはないだろ」
 ということは色々な人にわたしと茅都さんが付き合っていることが知れ渡っているのか。
 わたしはなんとも言えない気持ちになる。
 色々な人に伝わっていればきっと祝福してくれる人とそうでない人に分かれるのだろう。
 茅都さんのファンの人にいつか刺されないかが心配だ。
「まあ、ひいの気持ちが聞けてよかった。雲龍とは仲良くやれよ」
 そう言ってわたしに背を向ける瀬凪くん。
 わたしは人生で初めて告白を断るという特別な体験をした。
 世の中からしたらこんなこと当たり前なのかもしれない。
 けれど、わたしからすれば誰かを好きになることも好きになってもらうことすら特別だったのだ。
 こんなわたしを好きになってくれた瀬凪くんに感謝を伝えなければ。
「あ、あの!瀬凪くん……!」
 歩き始めた瀬凪くんの背中に向かって叫ぶ。
「ん?」
 瀬凪くんはわたしのほうを振り返った。
「えっと、わたしを好きになってくれてありがとう!好きになってもらえてわたし幸せ者よ」
 わたしが必死になって言うと瀬凪くんは爽やかな笑顔で言った。
「そりゃどうも。……ひいのその言葉は雲龍にたくさん言ってやってやれよ。きっと喜ぶぜ?」
 瀬凪くんはそれだけを言ってまた歩き出し、もう背中すら見えなくなっていた。
 わたしは清々しい気分だ。
 言いたいことをきちんと言えたのだ。
 わたしは講義室に向かう途中で茅都さんに会った。
「……真神、だっけ?そいつには言いたいこと言えた?」
 わたしはいつ瀬凪くんの名字を言っただろうか。
 今はそんなことはどうでもいいのだ。
「ええ。とってもスッキリしているわ」
 わたしが言うと茅都さんの手がわたしの頭の上にポンッと乗った。
 わたしがびっくりして茅都さんの顔を見ると優しくふわっと笑っていた。
 周りにいた女子がクラッときてしまったのか慌てている人が数名いるようだ。
 こんなにかっこいい人、茅都さん以外いないと思ってしまう。
「講義始まるからまたあとでね」
 そう言って茅都さんは行ってしまった。
(──あの子、綾城家の令嬢……)
(──雲龍さまに愛されているなんて羨ましい)
 大学は色々な人がいるのでたくさんの心の声が聞こえる。
 心の声を聞きすぎると耳に負担がかかるので基本的には人があまりにいないところにいる。
 けれど、大学となればそういうわけにもいかない。
 講義が終わり、即行で家に帰る。
 心の声を聞きすぎて耳鳴りがひどいのだ。
 これは薬でどうにかできることでもないようだ。
 家に帰ってスマホを見ているとネットニュースでうららちゃんのことが書いてあった。
「えっと……恋水うらら初のワンマンライブ……え?」
 わたしは驚きで言葉を失う。
 同い年の少女だというのにうららちゃんは日本中を相手にしているのだ。
 これは絶対に見に行かなくては。
 わたしはうららちゃんにライブを見に行くとメールを送った。
 すぐに既読がついて電話がかかってきた。
「も、もしもし……?」
『あ、もしもし⁉妃翠ちゃん、ライブ見に来てくれるの⁉』
 とても嬉しそうな口調で話すうららちゃん。
「ええ。もちろん見に行くわよ。初のワンマンライブ……というものをやるのでしょう?」
 ワンマンライブというものをちゃんと見たことがないのでよくわからないがすごいということだけはわかる。
『やったー!あ、そうだ!妃翠ちゃんのために特別席用意しておくよ!』
 特別席というものに驚いて言葉を失うわたし。
『妃翠ちゃんはうららの大切なお友達だから、せっかく初めてのワンマンライブだし!』
 わたしは嬉しくて心が熱くなる。
「ありがとう……楽しみにしているわ」
 そう言って電話を切る。
「ただいまー……」
 茅都さんが帰って来た。
「あの、茅都さん……!わたし、人生で初めてライブに行ってくるの!」
 この喜びを誰かに話したかった。
「誰の?男?」
 わたしはぶんぶんと首を振った。
「ち、違うわよ……!恋水うららちゃんのライブよ!」
 わたしが言うと少しは納得したような顔の茅都さん。
「恋水うららってあの小悪魔アイドルの?」
「ええ、そうよ」
「妃翠ってアイドルとかわかるの?あんまり知らないのかと思ってた」
 茅都さんは着替えようとネクタイをゆるめた。
 今日、茅都さんは次期当主として大事な会議があったらしい。
「……!ちょ、ちょっと……わたしが目の前にいるのに恥ずかしくないの⁉」
 わたしの顔はきっとりんごのように赤いだろう。
「ふっ。そんなに恥ずかしいの?ちょっと肌見えてるだけじゃん。それにカップルだし?」
「よ、よくわからないわよ……!」
 茅都さんはそういうけれど、少し肌が見えているだけでも茅都さんは色っぽく見えてしまうのだ。
 カップルというものはこういうことが当たり前なのか。
「……ライブは一人で行くの?」
 着替え終わり、部屋着姿の茅都さんが聞いてくる。
「ええ。一人よ」
 茅都さんは心配そうに眉をへの字に曲げた。
「一人でいいの?僕と一緒に行く?変な男につかまらない?」
 すごい質問攻めをしてくる。
「えっと、あの……せっかくのお友達のライブだから一人で平気よ?変な人にもついて行かないわ」
 小さな子供に言い聞かせるのならまだしも大学生にするような質問ではない気がする。
「本当に?……マジで心配。でも、妃翠が行きたいって言うのなら妃翠の意見が優先だから」
 茅都さんはわたしのことをぎゅっと抱きしめた。
 わたしはライブに行ける権利を獲得した。



 ライブ当日。
 うららちゃんから集合場所を教えてもらった。
『──……そう!そこで待ってて!』
 うららちゃんに電話をして特別席まで向かうことにした。
 会場はうららちゃんにぴったりな薄いピンクと白が基調になっている。
 うららちゃんの指示通り関係者以外立ち入り禁止という看板がある扉の前で待つ。
「──きゃっ」
 わたしがきょろきょろと周りを見ていたせいか誰かにぶつかってしまったようだ。
「──……すみません、大丈夫ですか?」
 その声は優しそうな甘い声だった。
「……だ、大丈夫です」
 その人を見ると帽子にサングラス、マスクといういかにも不審者極まりない恰好だった。
 そこでふと茅都さんの言葉を思い出す。
『──……一人でいいの?僕と一緒に行く?変な男につかまらない?』
 もしかしたらこの人は優しそうな仮面を被った不審者なのではないか。
「あー……安心して?不審者じゃないから。こんな格好してるのは訳があって──」
 その人が話している途中でバタバタと走る音が聞こえた。
「妃翠ちゃーん!遅くなってごめんね~!」
 フリフリとした可愛いフリル付きの衣装をまとったうららちゃん。
「うららちゃん……!」
 わたしがうららちゃんに近づこうとするとうららちゃんは急に止まった。
「……爽良(そら)くん、ライブ来るって言ってたっけ?」
 うららちゃんは不審者のような恰好の人に向かって言った。
「……言ったし。別に妹のライブくらい見に来てもいいでしょ?うららだって僕のライブ勝手に見に来て騒がれてるんだし」
 その人は帽子とサングラス、マスクを外した。
 とてもかっこよかった。
 顔立ちは整っていて茶色の瞳と髪。
 透き通るような白い肌、高い身長。
 どこかうららちゃんに似ている気がする。
 この世のいいところを全てこの人に取られているようだ。
「むぅ……騒がれちゃったのは予想外だったけど」
 うららちゃんは頬をぷくっと膨らます。
「トップアイドルならそれくらいわかってよ。てか、この子は?なんかこの子と会うことは昨日夢に出てきたからわかってたけどさ」
 わたしはその発言に首を傾げる。
 なぜ夢でわたしを見たのだろう。
ㅤ夢というのは会ったことがある人しか出てこないという話を聞いたことがある。
ㅤけれど、わたしはこの人と会ったことがない。
「えー、嘘。うらら昨日夢でライブ成功しか見なかった!妃翠ちゃんと爽良くんが会うなんて……」
 わたし一人がこの会話についていけない。
「そうだ。自己紹介遅くなってごめんね。僕、恋水爽良」
 わたしは恋水という名字を聞いてハッとした。
「さっき、うららちゃんのこと妹って……」
「ん?うん、うららと僕は双子の兄妹」
 わたしは驚きで目を見開いた。
「え、えぇ!双子⁉」
「そうだよ~!爽良くんのこと知らなかった?……まあ、うららのことも冷泉家のお嬢さまに教えてもらうまでわからなかったって言ってたっけ?」
 わたしは頷いた。
「……僕はアイドルグループ、スターライトのメンバーなんだよ」
 わたしは初めて聞くアイドルグループだった。
「そ、そうなんですね……あ、わたしも自己紹介してなかったですね。わたし、綾城妃翠と言います」
 わたしはペコリとお辞儀をした。
「妃翠ちゃん?よろしくね、僕のことは爽良って呼んで。あとは敬語じゃなくてもいいよ、同い年だから」
「うん……!そういえば、わたしと会うことがわかっていたというのはどういうことかしら?」
 わたしが聞くと爽良くんはうららちゃんのことを見た。
「うらら、友達に言ってないの?」
「いやー……言うタイミング逃しちゃった」
 なんてうららちゃんは可愛く舌をペロッと出した。
「僕たちはあやかしの鬼なんだ」
 そう言ってうららちゃんと爽良くんはグッと角を出した。
「つ、角……⁉」
 わたし一人が驚いているのでうららちゃんと爽良くんはクスクスと笑っていた。
「そうだよ!……あ、うららそろそろ行かないと!二人の席はこっちだよ!」
 わたしと爽良くんの席はうららちゃんを間近で見れる席であり、爽良くんも観客にバレることがなさそうな席だ。
 しばらくしてからライブは始まった。
 さすがは小悪魔アイドルというところか。
「うららちゃーん!」
「可愛い~!」
 中には涙を流している人もいた。
 大学ではあまりいい風に思われていなかったうららちゃんはこんなにも誰かの心を動かす原動力になっていたのか。
 うららちゃんは可愛いだけの逸材ではない。
 とてもかっこいい少女だ。
 わたしの人生初のライブはとてもいい思い出になった。
「……妃翠ちゃん。今日はうららのライブに来てくれてありがとう」
 爽良くんにお礼を言われる。
「い、いえ……!とても楽しかったわ」
「そっか。……僕はうららとは違う大学だから大学のことはあまり知らないんだけど、あまりいい噂は聞かないんだよね。だから友達とかいるのか心配で」
 爽良くんは眉をへの字に曲げた。
「……でも、妃翠ちゃんがいるなら大丈夫そうかな。妃翠ちゃん、これからもうららと仲良くしてくれたら嬉しいな」
 爽良くんはニコっと笑った。
 今ここに爽良くんのファンがいなくてよかったと思ったのだ。
 この笑顔みたら倒れる人がでるだろう。
「ただいまー」
 家に帰ると鼻孔をくすぐるような香りがしていた。
「おかえり、妃翠。ライブはどうだった?」
「楽しかったわ!」
 わたしが笑顔で答えると茅都さんも優しく笑った。
「今日の夕食は肉じゃがだよ」 
 わたしは肉じゃがが大好きだ。
 なんだか食べると心が温まる気がするのだ。
 夕食を食べ終え、ベッドに入る。
「そうだわ……」
 ライブに行ったときに爽良くんのことを調べたいと思ったのだ。
 ネットで爽良くんが所属しているアイドルグループ、スターライトについて調べた。
 スターライトは五人組のアイドルグループで、爽良くんが一番人気らしい。
 人気なのも納得だ。
 爽良くんは歌もダンスもできる完璧な人物。
 うららちゃんと双子だと公表したのはテレビ番組で共演したときだった。
 他の出演者に二人は兄妹かと聞かれ、公表したらしい。
 そこから二人は『最強の双子』と言われるようになったとのことだ。
 わたしが色々と調べていると茅都さんの足音がした。
(妃翠はなにをそんなに熱心に調べているのだろう……)
 茅都さんには爽良くんと会ったことは言っていない。
「妃翠?」
 いつの間にかベッドの中に茅都さんがいた。
「へっ……?」
 そんな間抜けな声が出てしまい恥ずかしさに陥る。
「……ずっと声かけてたのに上の空じゃん。なにかあったの?」
「いえ。特になにもないわ。ただ、今日のライブに圧倒されちゃってまだ酔いがさめないみたい」
 わたしが笑うと茅都さんもクスッと笑った。
「ライブが楽しかったんならよかった」
 そう言ってわたしに抱きつく茅都さん。
 かなり密着していて、心臓の音が聞こえているのではないかというくらい近い。
 ベッドの中というのもあり逃げ場がない。
「顔真っ赤になってるじゃん」
「うぅ……」
 小さく唸るわたしに対して茅都さんは余裕そうな表情。
 茅都さんばかり余裕があってわたしにはなにひとつ余裕がない。
 そんな茅都さんに少しいたずらをしたくなった。
 いたずらといってもただの八つ当たりだ。
 茅都さんばかり余裕があるのはずるいからだ。
 なんて馬鹿げた考えだと思うが恥ずかしすぎてそれどころではないのだ。
「……っ。不意打ちはずるくないっ?」
 いつもより余裕のない、どこか焦りさえ感じられる声。
「どうしたの?急にぎゅって抱きついて、抱きついたと思ったら手までつないじゃって」
 自分でも大胆過ぎる行動だとはわかっている。
 作戦成功というところか。
「茅都さんにいたずらしたくなっちゃって」
 わたしはそう言って笑ってみせるが内心、恥ずかしさと戦っているのだ。
 こうやって手をつないだりしていると本当にわたしたち一緒に住んでいるのだと実感が湧く。
「いたずらって……こっちがどんな気持ちだかわかってる?」
 星明りに照らされる茅都さんはすごく色っぽくて。
「えっと……ごめんなさい、なにか癪に障ることを言ってしまったかしら……?」
 不安になって控えめに茅都さんを見る。
「はぁ……本当に無自覚が一番ダメだと思う」 
 そう言って大きなため息をついた茅都さん。
「……今日は疲れたでしょ?早く寝たほうがいいよ、おやすみ」
 最後におでこにキスを落として部屋を出て行った茅都さんだった。
 うららちゃんのライブが終わってから数日、うららちゃんから連絡が来た。
『妃翠ちゃん!ちょっと爽良くんが話したいことがあるみたいで今日、講義が終わったら門の前で待っててくれる?』
 わたしは了解とスタンプを送信してスマホをかばんの中にしまった。
 講義が終わり、わたしは門に向かう。
「……あ、妃翠ちゃん!」
 わたしに向かってぱたぱたと走って来るうららちゃん。
「うららちゃん。話したいことって……?」
「んー……それがうららもわからないの。爽良くんなにも言ってくれないの」
 うららちゃんは眉をへの字に曲げた。
「まあ、とりあえず爽良くんのところに行こう!」
 うららちゃんはわたしの腕をぐいぐいと引っ張って爽良くんがいるという車に連れてきた。
「爽良くん!妃翠ちゃん来たよ」
 うららちゃんは車に向かって言った。
「──……ありがとう。妃翠ちゃん、突然ごめんね。今日は少し付き合ってもらいたくて」
 爽良くんはうららちゃんからわたしに目線を移した。
「じゃあ、うららはこのへんでバイバイ!」
 そう言ってどこかに行ってしまったうららちゃん。
 わたしはどうすればいいのかわからずおろおろしている。
「妃翠ちゃん、車乗って」
「え、ええ……」
 わたしは爽良くんの車に乗った。
「あの、今日はどこへ?」
「……もう少しで僕たちの誕生日なんだ。でも、うららが好きなものってなにか聞くといつも可愛いものって答えるんだ」
 爽良くんは呆れたようにため息をついた。
「その可愛いの具体的なものを聞きたいんだけど、うららも忙しいしあまり聞く時間がなくて……それで妃翠ちゃんにお願いがあって、うららの誕生日プレゼントを一緒に選んでほしいんだ」
 爽良くんはわたしに向かって手を合わせてきた。
「ええ、それはもちろんいいのだけれど、爽良くんはファンの子にバレたりしないのかしら?」
 誕生日プレゼントを選ぶのは賛成だが、それだけが不安要素だった。
 人気アイドルグループ、スターライトの一番人気のメンバーと一般人であるわたしが一緒にいたら大変なことになりそうだ。
「……あー。大丈夫、変装するし、気をつけるよ」
 そう言って車を運転し始める爽良くん。
 ショッピングモールにつくと、わたしたちは雑貨屋に入った。
「これとか……どうかしら」
 わたしは一冊のノートを爽良くんに見せた。
「ノート?どうして?」
「……前にうららちゃん、書くことが好きだって言っていたのよ」
 うららちゃんと仕事の話をしていたときのことだった。
 うららちゃんはなにかを文字に起こすことが好きだと言っていた。
 ファンの子に可愛いと言われた行動やレッスンでの反省点などをノートにまとめているようだ。
「そうなんだ。じゃあ、それにしよっか」
 爽良くんは会計のレジに向かって行った。
「……妃翠ちゃん、ありがとう。僕も買いたいものがあって待っててくれるかな?」
「ええ、わたし少し喉が渇いたからお水買ってくるわね……ここで待ってるわね」
 わたしは爽良くんとは反対方向に歩いた。 
 水を買ってから爽良くんと別れた場所にまた戻る。
 爽良くんはベンチの近くにいるが身長が高いことや変装をしていても隠し切れない芸能人オーラがあってか周りの視線が爽良くんに向いていた。
「……ごめんなさい、待たせてしまったわね」
 わたしが慌てて爽良くんに駆け寄るとふっと目を細めた。
 マスクで口元は見えないがきっと笑っているのだろう。
「えっと、どうかなさったの?」
「いや?……ちょっと来て」
 ぐいっと腕を引かれ、駐車場まで来た。
 そして車に乗った。
「……妃翠ちゃん、今日は付き合ってくれてありがとね」
 爽良くんはそう言ってわたしに近づく。
(──喜んでくれるかな?)
 そんな心の声が聞こえ、不思議に思っていると首元にヒヤッとなにか冷たいものが触れた。
「え……っ?」
「今日、付き合ってくれたお礼」
 そう言って爽良くんは変装を全て外し、いつもの爽やか笑顔になっていた。
 首元を見るとアメジストのネックレスがつけられていた。
「す、すごいわ……こんないいもの、もらっていいのかしら」
 わたしが申し訳なく笑った。
「いいの。だって、妃翠ちゃんのおかげでうららのことを知れたし。妹なのに裏での努力もあんまり理解できてなかった」
 なんて力なく笑う爽良くん。
「……そんなことないと思うわよ。うららちゃんと話しているといつも、爽良くんは完璧で頼りになるお兄ちゃんだって言っているのよ。うららちゃんは忙しいからいつもお礼もまともに言えてないって言ってるわ……わたしはそうやって思いやりの心があるだけで素敵だと思うわ」
 わたしはお姉さまと全く仲良くできなかった。
 綾城家から少し離れて考えてみるともう少し仲良くできたのではないかなど考えてしまう。 
 だからなのか、恋水兄妹を見ていると羨ましく思う。
 わたしが話し終えると爽良くんは驚いたように目を見開いた。
「……妃翠ちゃんって本当にいい子だよね」
 わたしはその言葉がなぜか心に引っかかった。
「そ、そうかしら……」
 いい子でなければ殴られるのは当たり前。
 少しでも抵抗すれば命を奪われてもおかしくなかったような環境だった。
 わたしのいい子はつくりものではないのか。
 そんなつくった姿を茅都さんや結璃ちゃん、うららちゃんたちに見せているのか。
 今で言えば爽良くんに向かって笑って見せているのも全部全部つくりものなのではないか。
 自問自答するが答えは一向に出てこない。
 今までずっとなにがあっても心を殺して時間が過ぎるのを待っていただけのつまらない人生だった。
 それからはなにがあっても泣かずに、嬉しくなくても笑い、わたしはまるで操り人形のようだった。
(……妃翠ちゃん、なんか元気ない?僕のプレゼント嬉しくなかったかな)
 爽良くんの心配そうな心の声が聞こえハッとする。
「プレゼント、ありがとう。とても嬉しいわ」
 貼り付けたような笑顔で言った。
 爽良くんは笑うだけでなにも言ってくれなかった。
 やはり、わたしの笑顔はつくりものだったようだ。
 自分でも悲しくなってきてしまう。
 わたしが誰かを好きになったのも、誰かといてもいいんだと思ったのも全て嘘だったのではないかと不安になる。
 今までわたしが抱いてきた感情の山が一気に崩れてしまったようだった。
 どれがわたしの本心で、どれがわたしの嘘なのかわからない。
 考えるのも辛い。
 爽良くんに送ってもらい家の近くで降ろしてもらった。
 家の目の前に行くと、部屋の明かりがついていることに気が付いた。
 けれど、今の状態で茅都さんに会うのが怖い。
 茅都さんに会ってつくりものの笑顔を見せて、嘘を並べた言葉で茅都さんに会うのが怖かった。
 家の前でたたずんでいるとガチャッと家の大きな扉が開いた。
「……妃翠?」
 茅都さんの瞳が心配そうにわたしをとらえる。
「……っ。か、茅都さん……遅くなってごめんなさい。ご飯つくるわね」
 わたしは茅都さんの目を見れないでいる。
 それに違和感を覚えたのか茅都さんはわたしの腕をパシッと掴んだ。
「……なにかしら?」
 わたしは平常心を保つのに必死になる。
 今、茅都さんに心配されてしまってはなにを言ってしまうかわからない。
 家の事情は知っているとはいえ、わたしの気持ちを知っているわけではない。
「なんか様子おかしくない?全然僕の目見ないし。よそよそしいって言うか、なんかあったの?」
「なにもないわ。目を見ないのもたまたまよ。ほら、見れるじゃない──」
 わたしはそう言って茅都さんの顔を見る。
 茅都さんの瞳はどんな感情を宿しているのだろうか。
 いつもはわかりやすい茅都さんの瞳も心の声も今はわからないし、聞こえない。
 心の声が聞こえないことなんてないのに。
 耳鳴りが酷いわけでもない、耳がなにか変というわけでもない。
「……あっそ。ご飯はつくってあるから。早く家に入んないと風邪引くよ」
 どこか無愛想な声でわたしに言い放った。
「ええ……」
 わたしたちは言葉には言い表せない気まずい空気に呑み込まれた。
 茅都さんは先に夕食を済ませていたそうで、わたしが気まずい雰囲気の中黙々と茅都さんがつくってくれたオムライスを食べる。
「……ねぇ、それなに?」
 冷たい声で首元を指される。
「あ、えっと……今日貰ったものなの」
 わたしが説明すると不機嫌そうな顔で茅都さんはため息をついた。
「はぁ……それさ、男から貰ったものじゃないよね?」
 わたしはなんと説明すればいいのかわからず黙り込む。
 こういうときはしっかり説明しなければいけないのに、なぜかそれをためらう悪いわたしがそれを阻んだ。
「なんとか言ったらどうなの」
 そんな冷たい声で聞かないでほしい。
 継母さまみたいで、お父さまみたいで怖い。
 言い訳にしかならないかもしれないが、昔のことがフラッシュバックする。
「……そう、って言ってら茅都さんは──……」
 わたしがそう呟いたとき、茅都さんはひどく傷ついたような顔をしていた。
「意味わかんない。僕たち付き合ってるんじゃないの?こんな言い方したくないし、こんな不毛な口論とか嫌いだけど……他の男と一緒に遅くまでいるの?僕がどれだけ心配したかわかっているの?」
 今までにない威圧感を放つ茅都さんにわたしは後ずさりしてしまう。
「遅くなったのは、わたしが連絡しておけばよかったわ。それは、ごめんなさい。でも、その人とはなにもなかったのよ、ただうららちゃんの誕生日プレゼントを──……」
「でも、男といたのには変わりがないでしょ?」
 わたしの話を最後まで聞かずに茅都さんはそう言った。
 わたしの中でなにかがぷつんと切れたような気がした。
 怒りや悲しみを覚えた。
 きっとこれは、本物の感情だ。
 つくりものなんかではない。
 けれど、こんな感情ではなくて前向きな感情が本物だと思いたかった。
「なんで……」
 わたしが声にならない声で言った。
「なんで……なんで茅都さんにそんなに縛られていなきゃいけないの?結婚って……付き合うってなによ。誰かのことを縛り付けて一生離さないことが恋なの?誰かと遊ぶことも許されないの……?」
 わたしの頬には熱いなにかが伝っていた。
「わからないわよ……」
 こんなことになるなら、誰かと一緒にいたいという感情も恋も全部全部なければよかったのに。
 最初からこんな感情知らなければよかったのに。  
 わたしは「ごちそうさまでした」と小さく言い、食器を洗った。
 食器洗いが終わり、わたしは階段を駆けあがった。
 部屋の扉をバタンと閉め、ずるずると床に座り込んだ。
 涙が溢れて止まらない。
 前に茅都さんと気まずくなったときはわたしが一方的に話を聞かなかったことが原因だった。
 けれど、今回は茅都さんもかなり怒っていた。
 わたしは自己嫌悪に陥る。
 カッとなってしまったとはいえ、さすがに言い過ぎた。
 いつも気まずくなるときはわたしの勘違いなどが多い。
 わたしはどうすれば変われるのだろうか。
 人を変えるのは難しいと誰かが言っていた変えられるのは自分自身だと。
 茅都さんはこんなわたしをいつも受け入れてくれる。
 わたしはどうだろうか。
 わたしは茅都さんがくれる大きな愛を返しているだろうか。
 落ち着いて考えてみるとわたしは茅都さんになにひとつ愛を返していない気がする。
 愛を返すのはとても難しい。
 けれど、返さなくてはいつ返せなくなるかわからない。
 お母さまのようにいつか突然いなくなってしまうかもしれない。
 お父さまのようにいつか一切話さなくなるかもしれない。
 そんなことを考えると震えが止まらない。
 爽良くんから貰ったネックレスを外し、机に置く。
 きっと、爽良くんは全く悪気などないのだろう。
 わたしも茅都さんと付き合っていることを言っていなかった。
 それが悪かったのだ。
 ちゃんと、爽良くんに言わなければ。
 そして、茅都さんにも謝らなければならない。



 翌日、起きると案の定目はすごく腫れていた。
 泣いたまま寝て、冷やしていなかった。
 目がすごく重い。
 憂鬱な気分で階段を下りる。
 リビングでは茅都さんがソファーに座り、テレビを見ていた。
 今日は土曜日なので大学には行かない。
 久しぶりにゆっくりしようと思う。
 けれど、茅都さんに謝らなければいけない。
 ここで謝らなかったらわたしはいつまでも変わらないままだ。
 いつまでも自分の本心を隠し続ける操り人形になってしまう。
「あの……茅都さん。昨日はごめんなさい」
 わたしが謝るとぴくっと茅都さんの手が動いた気がした。
 それでも茅都さんはわたしの方を向いてはくれなかった。
「……ネックレスはうららちゃんの双子のお兄さんである恋水爽良くんに貰ったものなの……」
 わたしは茅都さんの背中に向かって話し続ける。
「昨日は……うららちゃんの誕生日プレゼントを買いに行っていたの。それで昨日一緒にプレゼントを選んでくれたからってくれたものなのよ」
 わたしの瞳に涙を溜めないようにすることに必死になる。
 泣いてはいけない。
 泣きたいのはきっと茅都さんの方だから。
 彼女なのに茅都さんの心配してくれた気持ちも全部無視して悲劇のヒロインぶっていた。
 そんなの誰だって怒って当たり前だ。
「……恋水爽良とはなにもないわけ?」
 やっと茅都さんの声が聞こえる。
「ええ……当たり前よ。彼とはなにもない……」
 わたしはハッキリとそう言った。
「そっか……昨日は僕もごめん。妃翠を縛り付けるような発言をして……」
 茅都さんは弱弱しくそう言った。 
 謝らなければいけないのはこちらだというのに。
 わたしたちは大学があったので身支度を整える。
 茅都さんは家から出るとスッとわたしの手に指を絡めた。
「……っ⁉」
「いいでしょ?……妃翠は僕のものなんだから」
 ふっと笑う茅都さん。
 大学までは手をつないで歩いた。
 街中を歩くので周りの視線が気になる。
 茅都さんは周りが二度見するような容姿をもっている。
 それに加えて雲龍家の次期当主という肩書もある。
 あやかしという生き物は今の日本には欠かせないものであり、国民はあやかしを知らないということがないのだ。
 大学に着くと茅都さんはわたしの手をスッと離した。
 少し名残惜しいものではあるが大学なので仕方がない。
 茅都さんはわたしに手を振り講義室に向かった。
(──妃翠と離れたくないな)
 寂しそうな心の声が聞こえ、ボッと顔が熱くなる。
 わたしだって離れたくない。
「……おはよう」
 わたしがボーッとしていると聞きなれた声が聞こえる。
「おはよう、結璃ちゃん」
 結璃ちゃんがノートを持ってわたしの隣に座った。
「あんた朝から大胆やなぁ~」
 結璃ちゃんはクスクスと笑った。
「え……?」
 わたしはなんのことかと首を傾げる。
「なんや、とぼけるんか?茅都と手つないでたやないの~!ラブラブやんなぁ」
 見られていたのかと恥ずかしくなる。
「……妃翠ちゃんも茅都も素直やないし、打ち解けるまで時間かかるんちゃうかなって思ってたんやけど心配不要って感じやな」
 女神のように優しく笑う結璃ちゃん。
「あ、あら……心配してくれていたのね……ありがとう」
 わたしははにかんだ。
 結璃ちゃんと一緒に講義を受け、カフェテリアでお茶をする。
「妃翠ちゃん~!あ、冷泉さん、だよね?」
 うららちゃんの元気な声が聞こえる。
「そうやけど……恋水うららちゃん、あんたと話すのは初めて?」
 うららちゃんは小さく頷いた。
「そうだよ!……改めて初めまして、恋水うららですっ」
「冷泉結璃、よろしゅう。……ワンマンライブの特別映像見たで?可愛かったわ~」
 結璃ちゃんが上品に笑うとうららちゃんは嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。 
「えへへっ。嬉しいなっ!……結璃ちゃんって呼んでいい?」
「当たり前や~」
 結璃ちゃんとうららちゃんは仲良くなったようだ。
「……妃翠ちゃん、なんか今日も爽良くんが妃翠ちゃんに用事があるんだって」
 爽良くんという名前を聞いて身体がびくっと跳ねる。
 爽良くんに罪はないが、また会ったら茅都さんに怒られないか。
 けれど、つい昨日、爽良くんとはなにもなかったと説明した。
 きちんと茅都さんには連絡をしておけば問題はないはず。
「……わかったわ。今日も門の前にいればいいかしら?」
 そう聞くとうららちゃんは頷いた。
 講義が全て終わり、わたしはスマホのメールアプリを開いた。
 爽良くんが用事があると言っているので少しだけ会うというメッセージを茅都さんに送信した。
 送信してすぐに既読がついた。
 了解というスタンプが送られてきて安堵した。
 門の前まで行くと誰か芸能人がいるのかというくらい混んでいた。
「きゃ~!こっち見た⁉」
「いや、あたしを見たでしょ!」
 なんて声が聞こえる。
(──妃翠ちゃん、どこかな。ファンの子たちも嬉しいけど今探してるのは妃翠ちゃんなんだよね)
 その心の声が聞こえ、囲まれているのは爽良くんだと気づいた。
 この光景を目にしてよくショッピングモールではバレなかったと思う。
 わたしはスマホを取り出し、爽良くんにメッセージを送る。
『門の前着いたんだけど、囲まれているのって爽良くん?』
(──妃翠ちゃん、僕からじゃ見えないな。どうしよう、このまま妃翠ちゃんに近づくと妃翠ちゃんの噂とか流れるかもしれないしな)
 爽良くんの焦ったような声が聞こえる。
 わたしは噂を気にしないが茅都さんがとばっちりを受けることになるのは申し訳ない。
『そうだよ』
 そんな返信が来たかと思ったらどこからかまた歓声が聞こえる。
「うららちゃーん!」
「ワンマンライブすごかったよー!可愛い~!」
 なんとこの状況でうららちゃんまで来てしまったのだ。
(──うららナイス)
(──このタイミングで来たうららに感謝してほしいよ、爽良くん)
 なんて息ピッタリな心の声なのだろう。
 さすが双子というところか。
 皆がうららちゃんに夢中になっているところでわたしは急いで爽良くんの方へ向かった。
 誰もいないようなところまで歩いた。
 そこでようやく一息つくことができた。
「……妃翠ちゃん、昨日はごめん」
 爽良くんが頭を下げわたしは慌てるばかり。
「え、えっと。なんで爽良くんが謝っているの?」
「だって……妃翠ちゃん、雲龍茅都さんの婚約者なんでしょ?それなのに僕なにも知らずに妃翠ちゃんのこと買い物に誘って」
 わたしはそんなことで謝るのかと驚いた。
「知らなかったのなら仕方がないと思うわ。そんなことで謝らないで」
 わたしが言うと爽良くんは頭を上げた。
「けど、雲龍さんはきっと嫌な思いをしただろうに……昨日、帰ってきてからうららと話してたらうららが雲龍さんの甘い声も全部聞けるのは妃翠ちゃんだけだって言ってて……どういうことかわからなくて色々聞いてやっと知ったんだ」
 わたしは納得し頷いた。
「わたしこそ……言っていなくて申し訳ないわ、ごめんなさい」
 わたしが謝ると爽良くんはぶんぶんと首を横に振った。
「妃翠ちゃんが謝ることじゃないよ……!その、昨日のネックレスとかは妃翠ちゃんの判断で捨てたりしていいから。ただ、僕の買い物に付き合ってくれた妃翠ちゃんに感謝を伝えたくて選んだものだから。別に他の意味があるとかじゃないよって雲龍さんに伝えておいてほしいな」
 わたしは笑って頷いた。
「爽良くんはただうららちゃんを喜ばせたかっただけなんでしょう?」
 わたしが聞くと爽良くんはとても驚いたように目を見開いていた。
「……うん。ただ、うららが喜んでるところが見たくて……でも、自分だけじゃなに買えばいいのかわからなくて妃翠ちゃんを頼ったんだ」
 爽良くんの瞳は真剣なものだった。
「爽良くんはうららちゃんのこと大好きなのね」
 わたしが言うと爽良くんは恥ずかしそうに顔を背けた。
「ファンの子になら好きとか愛してるなんて簡単に言えるのに家族とか本当に身近な人には言えないんだよね。一番言わなきゃいけない人たちなのにね……」
 わたしは爽良くんの言葉に心を動かされた。
 一番言わなければならない人に意外と好きを伝えられない。
 茅都さんはわたしにたくさんの愛をくれる。
 けれど、わたしはどうだろうか。
 きちんと愛を返せているだろうか。 
 愛の返しかたなんてどうやったらいいのかわからない。
 そう思うがそんなの皆当たり前なのか。
 それとも誰もが親から教えてもらうのか。
 こういうときに他の人が羨ましく感じる。
「そうね……爽良くんの意見、とてもいいと思うわ。わたし、あなたの言葉で感動したの」
「本当?……妃翠ちゃんのことを感動させたのなら僕の目標は達成かな」
 わたしはその言葉に首を傾げる。
「目標……?」
「うん。僕の目標は世界中の人たちを歌でダンスで……言葉で誰かの心を動かすこと。アイドルやってる以上、今言ったことでファンの子が感動したとか言ってくれるんだけど」
 爽良くんはわたしを見て笑った。
「妃翠ちゃんみたいに僕のことを知らない人が僕の発言で感動してくれるっていうことがあまりないから。それを目標に活動してたんだよね……まあ、妃翠ちゃん一人じゃダメだから、もっとたくさんの人を虜にできるように頑張るよ」
 爽良くんはくるっとわたしに背を向けた。
「……見ててね。うららよりももっとすごいアイドルになるから」
 そう言って爽良くんは顔だけわたしの方に向けた。
「ええ。爽良くんならできるわ」
 たとえ、できるという証拠がなくても彼はきっとやってのけるだろう。
 たくさんの人を魅了するトップアイドルに。



 家に帰ると電気はついていなかった。
 茅都さんも会社に行っているのだろうか。
 次期当主なら学生であろうと勉強することは山ほどあるのだろう。
「ただいま」
 わたしは誰もいない大きな家に向かって呟く。
「え……っ?」
 わたしが驚きの声をあげたのは、真っ暗だった部屋の灯りがついたからだ。
 わたしは部屋の電気のスイッチを押していない。
 この部屋に誰がいるのだろう。
 不安に怯えながら部屋に入る。
「……妃翠、誕生日おめでとう!」
 クラッカーの音が鳴ったと同時に茅都さんの楽しそうな声が聞こえた。
 わたしはリビングのカレンダーを見る。
 薫風が吹き始める今、五月中旬。
 わたしの誕生日を茅都さんは覚えてくれていたのだ。
 自分自身でも忘れていたのに。
 こうやって誰かに祝ってもらったのは何年ぶりだろうか。
「……あ、ありがとうっ」
 わたしは涙がポロポロと流れるのを拭うのに精一杯になる。
「……妃翠、おいで」
 茅都さんはわたしの腰を引き寄せた。
 今は恥ずかしさなどない。
 ただ嬉しさともっと一緒にいたいという感情のみ。
「……これ、誕生日プレゼント」
 茅都さんは小さな四角い箱を取り出した。
「……これから次期当主として雲龍家を背負っていく。なにかある度に妃翠に迷惑をかけるかもしれない。妃翠を傷つけるかもしれない……それでも僕と一緒にこれからの人生を歩いてくれますか?」
 わたしの薬指につけられた指輪は小さな翡翠がついていた。
「ええ……っ。もちろんよ」
 わたしは先ほどよりも涙を流しながら笑顔で答えた。
「妃翠……っ」
 茅都さんはわたしを力強く抱きしめた。
 もう離さないという意志を感じられる。
 感動の余韻に浸っている中、茅都さんは一つ提案をした。
「ずっと思ってたんだけど……なんでずっと茅都さん呼びなの?恋水うららの双子の兄貴のことは爽良くんって呼んでるのに?」
 不服そうに訴える茅都さん。
「僕のこともせめてくん付けしてよ」
 わたしの顔は爆発しそうなくらい熱くなっている。
 今までわたしが茅都さんと呼んでいたのは男子に免疫がないという理由だった。 
 けれど、瀬凪くんも爽良くんも男子だけれどもくん付けができる。
 茅都さんはというとどうしても意識してしまってくん付けができない。
「ほら、呼んでみてよ。茅都くんって」
 意地悪く笑う茅都さん。
「え、えっと……か、茅都さん」
「今までと変わってないんだけど?妃翠ちゃん?」
 妃翠ちゃんと呼ぶのはやめてほしい。
 恥ずかしくて心臓飛び出してしまうのではないかと思うからだ。
「だ、だって!恥ずかしいもの!ずっと恥ずかしくてたまらないのよ!どうして茅都さんはわたしの名前を呼ぶことが恥ずかしくないの⁉」
 わたしは心の中に秘めていたものを茅都さんに向かって言う。
「…………」
 茅都さんはわたしが普段あまり大きな声を出さないからなのか目を見開いた。
「……恥ずかしさもあるよ。だって、ずっと好きだった子を目の前にしたら当然緊張とかある。でも、それよりも目の前にいる妃翠に好きを伝えたい、少しでも名前を呼んでここにいるってことを証明したい」
 茅都さんはわたしを抱きしめる力を少しゆるめ、わたしの頬に優しくキスをした。
「……わたしだって──か、茅都くんのことが好きよ……?」
 緊張と恥ずかしさが相まってうるっと涙が瞳にたまる。
 先ほど大泣きしたおかげで涙は枯れたと思っていた。
(──もう本当に可愛すぎる。すること全部僕の心臓壊しにかかってる。これ推しとかの次元じゃない、好きな人がすることってこんなにも目が離せないのか)
 心の声がありえないくらい饒舌になっている気がする。
 茅都くんというのにものすごく違和感を感じるが会ったときから茅都さんと呼んでいるとそれが定着してしまっているからだろう。
 これから先、茅都くんと呼んでいたら慣れてくるものなのだろうか。
「可愛い。大好き、妃翠」
「ふふっ。好きっていう気持ちを伝えるってこんなにも嬉しいことなのね」
 わたしは茅都くんの背中に腕を回す。
「……そうだ、夕食食べてないでしょ?お風呂入ってきてから食べようよ……一緒に入る?」
「なっ……⁉入らないわよ!」
 わたしは急いで脱衣所に駆け込んだ。
 ドライヤーで髪を乾かす。 
 わたしの髪は胸よりも少し下ほどまであるので乾かすのに少し時間がかかる。
 わたしは自分の髪色を気に入っている。
 わたしの髪は黒曜石のような色、この髪色はお母さまからの宝物だと思っている。
 形としてはないお母さまだけれど、自分の髪を見るとお母さまのことを思い出せるので気に入っている。
 この髪がわたしがお母さまの子供である証拠のひとつでもある。
 綾城家では継母さまが当主であるお父さまの奥方として今は知られている。
 継母さまは雪女なので、髪も雪のように美しい白色なのだ。
 乃々羽お姉ちゃんも継母さまと同じ白髪。
 わたしと乃々羽お姉ちゃんを見比べ、姉妹ではないと思う人がいるがそれはほんの少しの綾城家の関係者だけだ。
 基本的にはわたしは表には出ていなかった。
 なにかしら表舞台に立つことがあれば乃々羽お姉ちゃんがその役を担っていた。
 わたしが立つべき舞台ではなかったのだ。
 けれど、今はそんなことは関係ない。
 だって、茅都くんがいるのだから。
 綾城家という重荷を少し忘れて新たなスタートラインに立ったのだから。
 リビングに戻ると匂いだけで頬が落ちそうだった。
「いい匂いね……!」
 わたしがキッチンにひょこっと顔を出すと。
「そうでしょ?ごめんね、レストランとかじゃなくて」
 わたしはぶんぶんと首を横に振る。
「……レストランとかそんな場所は気にしていないわ。ただ、茅都くんと一緒にいられるだけで幸せよ」
 わたしは満面の笑みで答える。
 こんな漫画のようなセリフが現実世界で言う日がくるとは数ヶ月前のわたしでは考えられなかっただろう。
 夕食はサニーレタスを存分に使ったグリーンサラダとパスタ、コーンスープだった。
「全然豪華な食事じゃないけど許してほしいな」
 と茅都くんは苦笑いする。
「ふふっ。美味しそうだわ。わたし、サニーレタス大好きなのよ……!」
 サニーレタスのあの触感、あの味全てが最高なのだ。
 ぜひとも全人類におすすめしたい。
 そういう話を乃々羽お姉ちゃんにしたら「妃翠って野菜好きだったの?意外!」と言われてしまった。
 人は見かけによらないものだ。
「そうだったんだ。妃翠の好きなものでよかった……いただけます」
 わたしも手を合わせて「いただきます」と言い、食べ始めた。
 食事は最高なものだった。
「……そういえば、なんで茅都くんはわたしの誕生日を知っているのかしら?わたし言った覚えがないのだけれど……」
 わたしは食事を終え、ソファーでくつろいでいた途中で聞いた。
「結璃に聞いた。さすがにサプライズしたいなって思ったし」
 茅都くんはそう言い、わたしの手を握る。
 その手はわたしの指を触り、いつしか恋人つなぎをしていた。
「……こうやって触ってると妃翠が隣にいるって実感できるんだよね」
「く、くすぐったいわ……」
 わたしはくすぐったい感覚から逃れたくて触ってくる茅都くんの手をぎゅっと握った。
「……これは予想外。結構大胆なんだね?」
 わたしがぎゅっと手を握ったことに対して茅都くんは満足そうだった。
「なにを言っているのよ……くすぐったいって言ったでしょう?」
「素直じゃないね。まあ、そんな妃翠も可愛いけど」
 素直じゃないと言われ、少しむっとしてしまい、頬をぷくっと膨らます。
 そうした途端、茅都くんの顔が近づいてきた。
 わたしは驚きで固まってしまったが、その刹那、唇に温かく柔らかな感触が触れた。
「へ……っ?」
 思わず間抜けな声を出し、ソファーからずり落ちるところだった。
 すかさず茅都くんの長い腕がわたしの腰に回り、茅都くんの胸にダイブした。
(──初キス、だったかな)
 心の声が聞こえる。
 心配そうな、それとは裏腹に嬉しそうな声だった。
「な、なな……⁉い、今……」
「ちゃんと日本語喋ってくれるー?……キス、唇にしたの初めてだよね」
 ニヤッと口角を上げる茅都くん。
 わたしの心臓は今にも飛び出してしまうのではと心配になるくらい鼓動が速くなっていた。
「……~っ!」
 わたしは声にならない叫び声を上げる。
(──そんな可愛い顔して睨みつけたって逆効果なのに)
 わたしは今どんな顔しているのかと不安になり、顔を手で覆う。
「顔、隠さないでよ」
「だ、だって……また……その、キ、キスされたら困るものっ」
 なんて可愛くない嘘をつく。
 本当はもっとしてほしかった。
 もっと茅都くんを感じたかった。
(──顔真っ赤にしてそんなこと言われてもなぁ……もっともっと妃翠を暴いてみたい)
 そんな心の声が聞こえわたしは顔を覆っていた手を外す。
「あ、暴くって……?」
 わたしが聞くと茅都くんはふっと笑って。
「妃翠には教えない」
 なんて意地悪な回答だ。
「……教えてくれないの?まあ、それほど知ってもわたしに得がないのかしら?」
 わたしはそう言うが人間、知らなくてもいいことというものは必ずしもあるのだ。
 きっと茅都くんが今考えていることはわたしは知らなくてもいいこと。
 ならば、わたしが取るべき行動はただひとつ。
 心の声を聞かないように意識を他のことに集中させることだ。
 わたしは心の声を聞かないようにする方法を中学生でやっと覚えた。
 誰かと話したりしているとどうしても相手の行動を先読みして、いつでも最善を尽くすことに必死だったのだ。
 誰かと一緒にいるのも疲れてしまったとき、読書など誰にも関わらずにできることをすればいいとわかった。
「人生、損得だけで生きていくのは難しいと思うのは僕だけなのかな?」
 茅都くんは首を傾げた。
「……それは難しい質問ね。わたしはいつも得をするほうを選んで生きてきたつもりなのだけれど……ほとんど損に終わることもあったのだけれど」
 わたしは肩をすくめた。
「それは人それぞれ考え方が変わるね。妃翠のいう損が実は別の視点から見れば得だったりするかもね。……その逆も然りって感じだけど」
 わたしは茅都くんの意見に大きく同意した。
 それからしばらくテレビを見ていた。
「ふわぁ~」
 わたしが大きなあくびをすると茅都くんはくすっと笑った。
「そろそろ寝る?今日はたくさん泣いたから疲れちゃったでしょ?」
 人というのは泣くという行為に意外と体力を使うものなのだ。
「そうね……今日はたくさんうれし泣きをしたわ……ありがとう、茅都くん」
 わたしは茅都くんに抱きついた。
(──不意打ちはずるいな。本当に妃翠って小悪魔なんだよな)
 小悪魔と聞こえ、わたしはうららちゃんの顔が脳裏によぎる。
 わたしはうららちゃんに一歩近づけたと解釈し、推しに近づけたことにこの上ない喜びを覚えていたのは茅都くんには内緒。 
 ソファーから茅都くんが立ち上がった。
 わたしも自分のベッドへ向かおうと立ち上がるとひゅっと宙に浮いた。
「え、えぇ⁉ちょ、ちょっとなにをしているのよ!降ろして⁉」
 わたしは茅都くんにお姫さま抱っこをされていた。
 こんなことするのはわたしが熱を出したとき以来だろうか。
 あのときは意識もふわふわしていたのであまり覚えていないがいざ意識がちゃんとある中でされるのは恥ずかしい。
「降ろしたら意味ないでしょ。ほら、行くよ」
 茅都くんはわたしを持ち上げたまま、階段を上った。
「かなり筋肉あるのね……わたしを持ち上げたまま移動できるなんて」
「……僕をなんだと思ってるの?」
 なんて言われ、わたしと茅都くんはくすくすと笑い合う。
 二階につき、わたしはやっと降ろしてもらえると思っていたがそれは間違っていたようだ。
「えっ?あの、わたしの部屋通り過ぎたのだけれど……?」
 わたしが問うと茅都くんは当たり前かのようにわたしを茅都くんの部屋へと連れ込んだ。
「うん。今日は一緒に寝ようよ」
 今、確かに爆弾が落とされた気がする。
 わたしは勢いよく首を横に振った。
「む、無理よ……!心の準備ができてないわよ⁉」
 一緒に寝るなんて誰ともしたことがないのに。
「平気平気。ほら、こっちおいで?」
 茅都くんの甘い声に誘惑され、わたしは布団の中にもぐる。
「こーら。出て来て?妃翠の顔が見えない」
 わたしは恥ずかしさに耐え切れず布団にくるまったまま。
(──こんな日が来るなんて夢にも思わなかったな。耐えきれるかな、こんな可愛い妃翠を前にして)
 とてつもなく心の声が甘すぎてわたしの心臓が爆発してしまいそうだ。
「……ぅ」
 わたしは小さく唸り声をあげて、ひょこっと布団から顔を出す。
「こうやってくっついて寝よう?」
 茅都くんはわたしの腕をぐいっと引っ張り、わたしたちの距離はほぼゼロに近いだろう。
 茅都くんの心音が聞こえる。
 トクッ……トクッ……とその音が聞こえるたびにわたしはここから逃げ出したくなる。
 それは嫌な気持ちではなく、緊張と恥ずかしさなど様々な感情が混ざり合っているからだ。
「……妃翠?どうしたの、そんなに僕のパジャマ掴んで」
 わたしは自分の手の位置を確認する。
 片手は自分の胸の前、そしてもう片方の手は茅都くんの胸元をクシャッと掴んでいた。
 きっと無意識のうちにしてしまったのだろう。
「え、あっ……ご、ごめんなさい」
 わたしは慌てて手を離そうとするが茅都くんの手がそれを阻止した。
「いいじゃん。なんか妃翠が積極的だね」
「そんなことないわよ!」
 茅都くんはわたしの手を離し、わたしの腰に腕を回した。
 なんだろうか、すごく安心する。
 誰かの温もりを感じられることに感動を覚えていた。
 わたしはいつの間にか意識を手放していた。
 翌朝、ぎゅっと誰かに抱きしめられている感覚で目が覚めた。
「……⁉」
 昨夜は茅都くんの一緒に寝たのだった。
 昨日の出来事を振り返り、顔に熱が集まっていくのがわかる。
「おはよう、妃翠。昨日はちゃんと眠れた?」
「ええ……超熟睡だったわ。なんでかしら、茅都くんの全部が温かくて……安心したのよ」
 わたしははにかんだ。
「そう?僕が妃翠の居場所になるから。妃翠が……安心していられる場所に僕がなるよ」
 そう言って茅都くんはわたしの唇に熱いキスを落とした。
「……すでにわたしの居場所になっているわよ?」
 わたしは茅都くんに自分からキスをした。
 予想通り茅都くんが満足そうだったのは言わなくてもわかるだろう。
 
 茅都くんからプロポーズを受け、数日。
「え~!ほんまに?おめでとう」
「おめでとう!妃翠ちゃんの茅都くん呼びなんか新鮮だね!」
 プロポーズのことを結璃ちゃんとうららちゃんに話す。
 二人ともすごく祝ってくれた。
「……ありがとう二人とも……けれど、まだ入籍していないのよ。それはまだ先かしら。プロポーズされたって感じよ」
 わたしが言うと、結璃ちゃんがニコニコしながら聞いた。
「まだ籍入れてへんの?茅都ならすぐに市役所行くかと思ってたわ。……せや、妃翠ちゃんたち、新婚旅行とか行かへんの?まだ結婚してはないけど」
 旅行など考えてもいなかった。
「……考えてないわ。確かに行ったほうがいいのかしら?」
 結婚など遠い未来の話だと思っていた。
 こんなにもすぐにプロポーズされるとは思っていなかった。
「せっかくなら、行ったほうがいいと思うんやけど」
「そうだよ!素敵な思い出つくらないと!」
 結璃ちゃんの発言にうららちゃんも大きく頷いた。
「……でも、どこに行くのがいいのかもわからないわ。茅都くんの好きなこととかもあまりわからないし……」
 わたしが俯きながら言う。
 ふと思ったがわたしあまり茅都くんのことを知らないのではないか。
 夫婦ならお互いの趣味の一つや二つ知っているのが当然なのではないか。
 そう思っていると結璃ちゃんがなにかを閃いたかのようにポンッと手を叩いた。
「せや、茅都昔自然が大好きだって言ってたで?まあ、高校生のときやから二、三年くらい前の話やけど」
 自然と言われわたしが思い浮かぶのは川や海、山だった。
「……うちの会社、冷泉リゾートが経営してるリゾートホテル、自然の多い観光地にたくさんあるで?うちのホテル泊まる?」
 結璃ちゃんがニコっと笑った。
「え、いいの?」
「当たり前や~。新婚さんには特別にスイートルーム用意したるわ」
 わたしは驚きで飲んでいたお茶を吹き出しそうになった。
「え~!スイート羨ましい~!」
 うららちゃんがキラキラした瞳で言った。
「……じゃあ、うららちゃんがうちのホテルの近くでライブやってくれるんやったらスイート用意するわ~」
 うららちゃんはたくさんライブができるように頑張ると意気込みを言い、ガッツポーズを見せた。
 その後、小さな声で結璃ちゃんが「大儲けやぁ~」と喜んでいたのは誰にも教えない秘密だ。
「ありがとう、結璃ちゃん。うららちゃんも頑張ってね」
 わたしは結璃ちゃんにペコリとお辞儀をし、うららちゃんには頑張ってほしいと応援の言葉をかけた。
 わたしは家に帰り、茅都くんに旅行の話をした。
「結璃ちゃんからスイートルームを用意するって言われたのだけれど……茅都くんはいいかしら?」
 わたしが聞くと茅都くんは嬉しそうに笑った。
「もちろんだよ。結璃の言ってるところって海めっちゃ綺麗なところじゃなかった?前に結璃から写真見せてもらった気がする」
 わたしはホテルの場所を調べる。
「え、えっ⁉五つ星ホテルなの……⁉」
 茅都くんは当たり前のことだというふうに頷いた。
「冷泉リゾートって結構すごいんだよね。観光地からは少し離れたところに大きなホテルを構えてるって感じだからね」
 茅都くんの情報によると冷泉リゾートのホテルは全てのホテルが広くて素敵だという。
「プールとかスパとかあるみたい。せっかくなら妃翠スパ行ってみたら?」
 茅都くんに提案され、わたしは笑顔で頷いた。
「ええ、いいアイデアね」
 これから旅行の計画を立てるのが楽しみになった。



 茹だるような暑さが続く八月の初め。
 もうそろそろ旅行に行くのだ。
 楽しみな気持ちと緊張の気持ちが混ざり合う。
 わたしは旅行など行ったことがない。
 お母さまが亡くなったのはわたしが本当に幼かった頃。
 お父さまが継母さまと再婚してからは乃々羽お姉ちゃんが家の中心だった。
 お父さまも継母さまも使用人も全員乃々羽お姉ちゃんの虜だった。
 夏休みや冬休みなど大型連休になると家族旅行なんて当たり前。
 けれど、どこに行くにしてもわたしは家で留守番だった。
 学校でも夏休みの思い出を語るなど地獄のような時間もあったのだ。
 そんなとき、皆は家族でどこに行った、親にこれを買ってもらったなど誰もが家族とのことを話す中、わたしは勉強や読書をしていたというつまらないことしか言えなかった。
 わたしが話し始めると笑い声も聞こえたが、それはわたしがおもしろかったのではなく、ただ馬鹿にするような嘲笑うような笑いだった。
 だから、家族のことを話せる日を待ちわびていた。
 家族と旅行じゃなくてもいい、ただ、誰かと一緒に過ごしていたと言いたいのだ。
 わたしはどんな景色が待っているのだろうと考えながら荷物をスーツケースの中に詰める。
「……妃翠、なんだか楽しそうだね。まだ荷物詰めてるだけだよ?」
 いつの間にか茅都くんが隣にいた。
「わっ……!びっくりした……」
 わたしが驚いていると、反応がおもしろかったのか茅都くんはくすくすと笑っていた。
 こうやって茅都くんが笑っているのを見ると今までわたしのことを笑っていた人たちとは全然違うと感じさせられた。
「……荷物詰めてるだけでもこれからのこと考えて楽しくなっちゃうのよ」
 わたしが言うと茅都くんはわたしを抱きしめた。
(──可愛すぎない?本当に結婚したい……いや、結婚してる。妃翠って結構ガード堅いからプロポーズも断られるんじゃないかって思ってたけど……)
 わたしたちはつい先ほど市役所に行き、正式に籍を入れた。
 そのときの茅都くんはとても幸せそうでわたしも幸福感で満たされた。
 わたしはその心の声に硬直する。
 茅都くんはプロポーズのとき、不安そうな素振りは全く見せなかった。
 心の中ではたくさんの心配事を抱えているのだと思った。
「……っ!」
 わたしは自分のことを大切にしてくれる茅都くんに少しでもと思い、唇にキスを落とした。
 わたしの行動に驚いたのかピクッと茅都くんの肩が跳ねた。
「……不意打ちはずるいね。それとももっとしてほしいの?」
 意地悪くニイッと口角を上げる茅都くんにドキッとしてしまった。
 わたしは茅都くんの質問にこくっと小さく頷いた。
(──無理、こんなの耐えられない)
 焦るような、けれど、どこか嬉しそうな心の声が聞こえた。
「……んっ」
 わたしが先ほどした軽いキスではなく、熱く深いキスだった。
 息が苦しくなりドンドンと茅都くんの胸らへんを叩いた。
「はぁ……っ」
 やっと離れてくれたと安堵する。
 息が乱れるわたしとは対照的にまだまだ余裕そうな茅都くん。
 茅都くんばかり余裕があり、悔しい気持ちがあるがそれ以上に幸福感に満たされる。
「……まだ足りないんだけど?」
 ふっと笑った茅都くん。
「も、もう無理よ……!息が持たないわ」
 わたしが必死に訴えかけると茅都くんは不服そうな顔をした。
「妃翠の息継ぎ下手すぎなの。もっとすごいのできるように頑張ってね」
 毒を吐いたかと思ったが、終いには優しいキスをわたしのおでこに落とし部屋から出て行った。
 茅都くんが部屋からいなくなってから一息つく。
 キスなんて茅都くんが初めてなものだから息継ぎが下手なのも仕方がないじゃないかと心の中で思うがそれを口にすれば練習と言って窒息してしまうほどのキスをしてくるのだろう。
 考えるだけでも顔が熱くなるのがわかる。
 わたしは自分の頬をパシッと叩き、気持ちを切り替える。
 ネットで旅行に必要なものを調べ、スーツケースに詰める。
「……ふぅ」
 わたしは一息つき、時計を見る。
 スーツケースに荷物を詰め始めてから、かなり時間が経っていたようだ。
 もうそろそろ夕食をつくらなければと思い、キッチンへ向かう。
 リビングの電気はついていて、茅都くんがテレビを見ているのかと思ったがテレビは電源が入っていなかった。
 ソファーのほうに近づいてみると、分厚い本を持ったまま眠りについている茅都くんが見えた。
 ソファーの目の前に置いてあるローテーブルには経済学や経営学の本が大量に置いてあった。
 わたしはこんな本を読んだことがないのでなにひとつわからないが、きっと雲龍家の会社のことだろう。
 前に茅都くんが言っていた。
『……次期当主ってのもそうだけど、僕は次期社長でもあるんだよね。だから、勉強することがたくさんあるって父さんに言われた……遊んでいる暇はないぞって』
 そのときの茅都くんは真剣な瞳、それと少し寂し気な顔をしていた。
「……茅都くん」
 わたしはそっと茅都くんが持っていた本をローテーブルに置いて、抱きついた。
 茅都くんの温もりを感じる。
 きっと、まだ起きないだろうから、少しだけ甘えたい。
「……そんな無防備でいいの?」
 急に声が聞こえ、バッと顔を上げる。
「えっ……ご、ごめんなさいっ」
 わたしは急いで茅都くんから離れようと身体を起こすが茅都くんに腕を掴まれまた元の状態に戻る。
(──可愛すぎる。急に抱きついてくるとか狙ってるのか?)
 わたしはそんな心の声に首を傾げる。
 狙うとはなにをだろうか。
 茅都くんの心の声はよくわからないものが多い。
 そう思っていたらぎゅっと茅都くんの腕の力がこもった。
「……ちょ、ちょっと近いわよ」
 わたしは茅都くんとの距離が近すぎて心臓が今にも飛び出そうになるくらい速く動いていた。
 こんなの茅都くんに心拍数がバレてしまう。
 こんなにドキドキしているなんて知られるのは恥ずかしい。
「……すごくドキドキしてるね」
 わたしは恥ずかしくて茅都くんの胸に顔を埋めて茅都くんの顔を見ないようにしている。
(──そんなの逆効果だってわからないのかな。本当に無自覚が一番怖いって)
 耳を澄ませていたから心の声とともに茅都くんの心音も聞こえた。
 わたしはその音でまた顔が赤くなる。
「か、茅都くんのせいよっ」
「僕のせいなの?それは嬉しいな」
 茅都くんは嬉しそうに笑った。
 しばらく抱きつかれたままの状態が続いた。
「そろそろご飯をつくりたのだけど……?」
 少し呆れの混じった声で、わたしは茅都くんに言った。
「わかったよ。僕ももう少しこっちで勉強してるね」 
 茅都くんは渋々わたしのことを離してくれた。
 わたしはやっとキッチンに行き、料理を始める。
 夕食のときは旅行の話をしたり、その日あったことを話したりする。
 それがどれだけ幸せなものだろう。
 他人から見れば話すだけなのに幸せだなんて大げさだと思われるかもしれない。
 けれど、その幸せは当たり前ではないのだ。
 ほんの少しの幸せが誰かの人生を大きく左右するのだ。
 こんな幸せな時間がずっとずっと続けばいいのに。



 荷物を詰めてから数日後、ついに旅行当日となった。
「妃翠ー?準備できた?」
 部屋の扉からひょこっと茅都くんの顔が見えた。
「ええ、準備できたわ……!」
 わたしはスーツケースを持って、茅都くんのほうへ向かった。
「……妃翠、すごい笑顔」
 茅都くんはふっと笑い、わたしの頬を撫でた。
 わたしはどんな顔をしているのかと顔を手で覆った。
(──可愛い。旅行先でナンパとかされたら耐えられない)
 わたしはその心の声に首を振った。
「……ナンパとかされるような魅力的な人間ではないから、そうはならないわ」
 わたしが言うと茅都くんはいぶかしげな顔をした。
「なに言ってんの?こんなに可愛い子どこにいるっていうの」
「なにかフィルターでもかかっているのかしら?それとも眼科行く?」
 わたしたちはよくわからないやり取りをした後、駅へと向かった。
 今回の旅行先は駅から電車で二時間程度で行ける場所。
 電車に乗り始めてから一時間が経過したころ。
 外の景色を見ると山がたくさん見えてきた。
 都市部は開発されているが、ここまで来ると自然と触れ合うことができる。
 わたしが景色をひたすら見ているとすごく視線を感じた。
(──今すぐに抱きつきたい。でも、公共の場だからさすがにやめておこう。妃翠に嫌われたら人生終了……精神統一)
 スゥ……と深呼吸をする茅都くん。
 わたしは呆れ半分でため息をついた。
 景色に見惚れてから一時間が経過した。
『──……次は○○駅。お出口は左側です』
 アナウンスが聞こえ、わたしと茅都くんは目を合わせる。
 ついに来たのだ旅行先に。
 わたしたちは電車を降りた。
 ふわっと優しい風がわたしたちを包み込む。
 自然に囲まれた土地、新鮮な空気。
 空気が美味しいとはこのことなのかと納得する。
「まずはレンタカー借りに行くよ」
 茅都くんはスマホのマップアプリを開き、わたしを案内してくれる。
 無事にレンタカーを借りて、移動する。
「今日は海に行くんだよね」
 茅都くんはわたしの瞳はじっと見る。
「ええ。海は初めてだからちょっと不安だわ……あ、安心してちょうだい?一応泳げるから」
 小学校から中学校まで水泳の授業があったので泳げるはず。
 しばらく移動して海へとやって来た。
 コバルトブルーの空と白い雲。
 絵に描いたような綺麗な空だった。
 わたしたちは水着に着替え、浜辺を歩く。
(──妃翠と全然目が合わない……怒らせるようなことしたのかな)
 そんな心の声が聞こえるがわたしは決して怒っているわけではない。
 ただ、隣に水着姿の茅都くんがいるせいでどこに視線を持っていけばいいのかわからないのだ。
 高身長で腹筋も割れていて、イケメン。
 誰もが二度見している。
「……妃翠、ここから入ろ」
 茅都くんはわたしの腕をぐいっと引っ張り、海に入る。
 プールとは全く違い、波があり泳ぎにくい。
「わっ……!」
 急に底が深くなった。
 溺れる、そう覚悟したときにぐっと腰に手を回された。
「危なっ」
 茅都くんはわたしをぎゅっと抱きしめた。
 翡翠川に落とされたことの記憶がフラッシュバックする。
「……怖かったね。大丈夫?」
 わたしは茅都くんの首に手を回す。
「もう大丈夫だから。僕がいる、安心して?」
 茅都くんと一緒に泳ぐ。
 海は透き通っていて、こんな海はもう一生見れないのではと思うほど綺麗。
 何時間か泳ぎ、また車に戻る。
「結璃ちゃんの会社のホテルって山の上のほうにあるのかしら?」
 わたしは車のナビを見て、疑問に思った。
「結璃の会社のホテルって基本的にめっちゃデカいからかなりの土地が必要なんだよね。だから、山の少し上のほうにつくられてたり田舎のほうに多いんだよね」
 茅都くんが色々と説明してくれた。
 しばらく茅都くんが車を運転してくれた。
 数十分が経ったころ、大きな建物が見えた。
「わぁ……!あれが結璃ちゃんの……?」
 わたしが首を傾げると茅都くんが頷いた。
「そうだよ。結璃の会社のホテル」
 駐車場に車を置き、スーツケースを持ってロビーへと移動する。
 ロビーからもうそこは別世界。
 茅都くんが受付をしてくれて、部屋に向かう。 
 ロビーの近くにはグランドピアノが置いてあり、ドレスを着た女性が弾いていた。
 わたしはホテルに泊まることすら初めてに近いので圧倒される。
 部屋も広くて二人が泊まるには贅沢すぎるくらいだ。
「……あ、あの……お部屋はすごく素敵なのだけれど、なんでベッド……その、ひ、一つしかないのかしら」
 わたしは広すぎるベッドを控えめに指さした。
「……?ああ、一緒に寝るだけだよ?」
「な、なんでそんなに余裕そうなのよ……⁉」
 わたしが驚いていると。
(──余裕なわけないじゃん。妃翠と一緒に寝るとか結璃の発想は最高だけど、なに仕出かすかわからないのに……)
 焦ったような心の声が聞こえる。
 これはやはり結璃ちゃんの仕業だったのか。
 さすがは社長というところか。
 わたしは一息ついて茅都くんに言った。
「その、一緒に寝ること自体は嫌とかそういうのじゃないわ……ただ、恥ずかしくて明日寝不足にならないか心配なだけよ」
 わたしは発した言葉を自分自身に言い聞かせた。
 そう。わたしは茅都くんと寝ることは嫌ではない。
 むしろその逆、とても嬉しいのだ。 
 けれど、こんな美麗な彼がずっとくっついていたら心臓が止まってしまうのではないかと思う。
(──なにこれ、生殺し?本当に妃翠は天使だよ、一生くっついていたい)
 そんなことをいつでも思っているのかと考えるとこっちまで顔が赤くなる。
 一度話すことをやめ、荷物を整理する。
「……そうだ。結璃が言ってたんだけど、この時間海行くと超綺麗らしいよ?穴場スポットも教えてくれた」
 わたしはピクッと肩を揺らす。
 今日泳いだ海は昼間であれだけ美しかったのだから、夕陽に照らされている海はどれだけ綺麗なのだろうかと想像する。
 わたしたちは車に乗り、結璃ちゃんに教えてもらった場所へと移動する。
「この辺かな?……こっから少しだけ歩くかもしれないけど大丈夫?」
「ええ、大丈夫よ」
 わたしたちは結璃ちゃんが教えてくれた場所まで歩いて移動する。
「ここかな……」
 茅都くんの歩く足が止まった。
 ふわっと優しい風が吹く。
 わたしたちが昼間遊んだ場所からは少し離れていて人もいない。
 けれど、海を一望できる。
「綺麗……」
 わたしはボソッと呟く。
 言葉では言い表せないほど海は美しかった。
「妃翠」
 茅都くんに名前を呼ばれ、茅都くんのほうを向く。
 ぶわっと爽やかな風が吹き、わたしが着ていた白いワンピースが揺れる。
(──夕陽に照らされて、輝いている妃翠が一番綺麗だ──……)
 そんな心の声が聞こえ、わたしはドキッと心臓が跳ねるのを感じた。
 わたしのほうが茅都くんの甘さに溺れて、愛されることを知ったのだ。
「……ねぇ、茅都くん。わたし──茅都くんのことが大好きよ」
 わたしが笑って答えるとカシャッとシャッターを切る音が聞こえた。
「うん。僕も妃翠が大好き……愛してる」
 茅都くんは持っていたスマホをポケットにしまい、わたしに抱きつきたくさんのキスを落とした。
 愛しているなんていつでも言えて、いつでも感じられるものだとお母さまが亡くなるまでは思っていた。
 けれど、それが感じられなくなる日が来るのは神さまさえも知らないのだ。
 お母さまにもっと愛してるの言葉を言っていればよかったと何度思ったことか。
 茅都くんには同じことを思いたくない。
 だから、わたしは茅都くんに好きという気持ちを伝える。
 茅都くんの温もりを、思い出を一つ一つ記憶に刻みつける。



 ホテルに戻り、わたしは大浴場に行った。
 露天風呂からは一等星が見えた。
 そのときわたしは世界中で誰よりも幸せな気分になっていたと思う。
 部屋に戻ると茅都くんも大浴場から戻って来ていたようで。
「……なにを見ているのかしら?」
 わたしはスマホに真剣になっている茅都くんに問う。
 茅都くんは嬉しそうな顔でわたしを見た。
「見る?」
 そう聞かれ、わたしはこくんと頷いた。
「え──?」
 わたしが茅都くんのスマホを覗くと信じられない写真が写っていた。
「これ……わたし?」
 茅都くんのスマホには夕陽に照らされているわたしの写真。
 背景には先ほど行った海が写っていた。
「さっき撮ったやつ。我ながら綺麗に撮れてると思うんだけど……」
 写真はプロが撮ったものかと思うくらい綺麗に撮れていた。
「すごいわ……綺麗」
 青い海なのに夕陽が当たり、一部オレンジ色に染まっている。
 それがどれだけ美しいものか。
「妃翠が綺麗すぎるんだよ」
「それは……嬉しいわ。けれど……この景色も全部全部茅都くんがいなかったらわたしは知らなかったわ。わたしを連れて来てくれてありがとう」
 わたしは茅都くんに抱きついた。
 茅都くんもぎゅっとわたしを抱きしめる力を強めた。
 しばらく、写真を見て感動に浸っていると、茅都くんの声が聞こえ現実に引き戻される。
「明日もあるし、今日はそろそろ寝よう?……せっかく広ーいベッドで二人で寝るんだから」
 二人の部分を強調して言った茅都くん。
「うぅ……わかったわよ……って、え?」
「なに?」
 わたしは茅都くんにお姫さま抱っこをされている。
「一人で歩けるわよ?……でも、これも悪くないわね」
 わたしが言うとくすっと笑われた。
「やっと素直に言ったね。いつも頑なに降ろしてって言ってるくせに」
 茅都くんは意地悪く笑った。
 その顔さえ、愛おしく感じる。
 わたしは茅都くんの甘い愛の海に溺れているみたいだ。
 その海はなにも苦しくなく、ただただ幸せな感情しか生まれないのだ。
 その日は恥ずかしさを感じながら眠りについた。



「……おはよ、妃翠」
 愛おしそうにわたしを見つめる茅都くんの声で起きた。
「……まだ眠い」
 わたしがそう呟やくと茅都くんがくすっと笑った。
「そう言ってないで。今日はスパに行きたいんでしょ?」
 わたしは小さく頷いた。
「じゃあ、起きてよ。朝食までまだ時間あるからゆっくり準備しな?」
 わたしはむくっと起きて、茅都くんの胸にダイブする。
「眠いわよ……」
「妃翠って意外と朝弱いよね」
 そう。わたしは夜型の人間。
 早起きが苦手で、布団が離してくれるのを待っているのだ。
 今日だって布団がわたしを離してくれないのだ。
「ん-……」
 わたしはぼんやりとする意識の中、返事をする。
(──寝起きでも可愛いとかどうなってんの?)
 茅都くんの心の声が聞こえ、ドキッと心臓が跳ねる。
 茅都くんはわたしが心の声が聞こえると知っているのに心の中で甘い言葉を吐くのだから、いつもわたしの心臓がドキドキしている。
 茅都くんはわたしをぎゅっと抱きしめる。
 ようやくちゃんと意識がハッキリとした。
「……準備するわね」
 わたしは髪を結び、服を着替える。
 朝食は和食レストラン。
 朝からすごく美味しいものをいただいた。
 二日目はドライブをするという話になった。
「どこか行くって感じではないけど、景色見れるだけでも十分よ」
 茅都くんは本当にドライブだけでいいのかと心配していた。
「本当に?買いたいものとかあったら言ってね」
 わたしはこくんと頷いた。
 ドライブはとても楽しかった。
 二人でこっちに行こうあっちに行こうと話すのも幸福感に満たされる行為だった。
 ホテルに戻り、わたしは予約していたマッサージに行く。
 こういうところでマッサージなんて人生初だったのでとても緊張した。
 けれど、マッサージは最高に気持ち良かったのでいい体験となった。
 マッサージから戻ると茅都くんはラウンジで紅茶を飲んでいた。
 見ているだけで目の保養になる。
 茅都くんに近づこうとするが、先に誰かに取られてしまった。
「え~!めっちゃかっこいいですねー!」
「わたくしたちと一緒にお茶でもいたしません?」
 めちゃくちゃスタイルのいい女性二人に先を越されてしまった。
「すみません、妻を待っているので」
 茅都くんは笑顔で答えたが、少し困っているようにも見えた。
 わたしは少し複雑な気持ちになった。
 茅都くんがかっこいいということはわたしだけが知っていればいいのに、なんて独占欲にまみれた考えがわたしの頭の中を巡った。
「……あ、妃翠」
 茅都くんはわたしのことを見つけたのか話しかけてきた人たちを無視してわたしのほうに近づいた。
(──あれ、あの女の人って綾城妃翠さん……?前にネットかなにかで見たような……じゃあ、このイケメン、雲龍茅都さま⁉)
 わたしたちのことを知っている人なのか、一人は驚いたかのようにわたしと茅都くんを交互に見た。
(──こんなにイケメンなら奥さんくらいいるか。せっかくいい人見つけたと思ったのにな)
 一人は少し不服そうな心の声が漏れていた。
「……茅都くん、先ほどの方たちはいいの?」
 わたしが聞くと茅都くんはいぶかしげにわたしを見つめた。
「僕が妃翠より見知らぬ人を優先するとでも思ってるの?」
 わたしはくすっと笑い。
「茅都くんはそんな人じゃないと思っているわ。それは、わたしの勘違いだったかしら?」
 わたしが聞くと茅都くんはわたしの手を握った。
「僕が一等に大事なのは妃翠だよ」
 周りの目があるというのに羞恥心の一つなく、茅都くんはわたしに言った。
「ふふっ。嬉しいわ」
 わたしは周りの視線を気にせずに茅都くんの手をぎゅっと握り返した。
 三日間の旅行はあっという間に終わり、家に戻って来た。
「楽しかったわ」
「そうだね。もう妃翠が可愛すぎるだけの旅だったよ」
 わたしはぶわっと顔が熱くなるのを感じた。
「そ、それはどうも……茅都くんもかっこいいわよ」
 わたしは茅都くんの瞳が見れない。
(──今すぐに抱きついて離れたくないけど、今それをすると荷物片づけるのが遅くなりそうだからな……)
 茅都くんはスーツケースをちらっと見て考えていた。
 せっかく新婚旅行に連れていってくれたのだから、少しでも感謝の気持ちを伝えたい。
 わたしは茅都くんの首に手を回した。
 茅都くんは突然のわたしの行動に驚いたようで身体がびくっと跳ねた。
「……妃翠から抱きつくなんて大胆だね」
「嫌だったかしら……?」
 茅都くんは首を横に振った。
「いいや?むしろ嬉しい」
 茅都くんはわたしを力強く抱きしめた。
「あ、あの……?そろそろ離してもらわないと片づけられないのだけれど……」
 わたしから抱きついてからどれくらいの時間が経ったのだろうか。
 いつまで経っても茅都くんはわたしを抱きしめたまま。
「ん?……ああ、だって妃翠から抱きついてきたんだもん。仕掛人は妃翠だよ?」
「うぅ……わたしが最初に抱きついたけれど、こんなに長く抱きしめてほしかったわけじゃないのよ?」
 わたしが言うと茅都くんはシュンとした顔をしていた。
「あ、えっと……今のは違うわ。言葉を間違えたわね……抱きしめてほしかったのは確か。でも、片付けをしなくてはならないなって思ったのよ」
 わたしが説明していると、ふっと茅都くんが笑った。
「なんで笑うのよ……」
「いや、だって可愛いから。あたふたしてる妃翠見るのちょっと楽しいんだよね」
「せ、性格悪いわね……っ」
 わたしがムッとしていると、茅都くんがくくっと笑った。
「そうかな?妃翠が一生懸命に説明してくれて、僕が傷ついてると思った?」
 わたしは小さく頷いた。
「雲龍家の次期当主を舐めないでもらいたいな。そんな柔な精神じゃないし」
 茅都くんはわたしをからかうように言った。
「確かに……雲龍家の次期当主ってかなり期待とかもあるっていうことでしょう?」
 茅都くんは深く頷いた。
「そうだね。期待も名誉も全部、僕が背負うことになる。けど、それが僕の選んだ道。変えたりすることはないよ」
 茅都くんは胸を張って言った。
 その姿はとても逞しく、次期当主として相応しいものだった。



 月日が経ち、肌寒くなってきた十月の初め。
 わたしはずっと家にいても暇だと思い、外に出た。
 せっかくなら綺麗な川をたくさん探そう。
 そうわたしは閃き、自然が豊かな雲龍家の近くに来た。
 雲龍家の近くは静かで落ち着く。
 わたしはなんとなく近くにあった川に近づく。
「わぁ……」
 わたしはそれしか言葉がでなかった。
 翡翠川とはまた違った美しさ。
 わたしは川にかかっていた橋を歩く。
 橋は木製で、古くからありそうな橋だったがわたしが乗っても壊れそうな感じはしない。
 改めて川を見る。
 川の流れは穏やかで、鮮やかな青色で、紅葉と相性がいい。
「なんていう川なのかしら──」
 わたしがそう呟くとザバンッと大きな音がした。
 わたしは慌てて川を見る。
 川の中には長い髪の女性がいた。
 わたしはパニック状態になるが、助けないといけないと思い橋から降りる。
 橋から川まで小さな階段があった。
 川に足を入れると同時に川の中にいた女性が上がって来た。
「あ、あの……!大丈夫ですか?」
 わたしが聞くと女性は不思議そうな顔をしていた。
「……ええ。ご心配をおかけして申し訳ありません。私は特になにもないので」
 女性はわたしの瞳をじっと見た。
 女性は腰くらいまであるだろう長い濡羽色の髪を後ろで結っていた。
 瞳も澄んでいて、少し低めの声。
「あの、なんで川の中にいたのですか……?秋なのに……風邪ひいてしまいますよ?」
 わたしはその人が何事もなかったかのようにいなくなろうとするので質問をした。
「……ここの川に誰かが来ていると感知したので。誰か溺れているのかと勘違いしてしまって」
 その人はそう言ってまた立ち去ろうとした。
『──あの川に異常があったらすぐに気づけるんだ。龍神の力すごいでしょ?』 
 わたしが茅都くんに昔のことを思い出したと話したときに茅都くんが言っていた言葉。
 その言葉を思い出し、ハッとする。
「龍神……?」
 わたしがそう言うと、その女性は静かに頷いた。
「そうですけれど……なにかご用があるのですか?」
「……この川の名前ってなんですか?」
 わたしの質問に女性は一言だけ答えた。
「──美澄川(みすみがわ)
 そう言って女性はどこかへ行ってしまった。
 女性が行ってしまったあと、わたしはとあることに気づいた。
「わたし、あの方のお名前を聞くのを忘れていたわ……」
 茅都くんなら同じ龍神同士、名前くらい知っているのではないかと思った。
 家に帰るとすでに茅都くんが帰って来ていた。
「ただいま」
「おかえり、どこか買い物に行ってたの?」
 わたしは首を横に振った。
「いいえ。川を見に行っていたの」
「翡翠川?」
 茅都くんに聞かれ、再度首を横に振る。
「えっと……美澄川ってところに行ったの。そこで一人の女性に会ったのだけれど、その方も龍神だったの。美澄川を守っている方を茅都くんは知っているかしら?知っていたら教えてほしいの」
 わたしが聞くと茅都くんは頷いた。
「思い当たる人はいるよ。明日は僕も一日暇だし、本人に会ってみる?」
 わたしは頷いた。
「ええ。会って話したいわ。今日はすぐにいなくなってしまったから」
 わたしがそう言うと茅都くんは呆れたように笑った。
「そっか」
 茅都くんはそう呟いて部屋に行ってしまった。


 
 約束通り、翌日茅都くんと一緒に美澄川に行った。
 川に行くとすぐに人影が見えた。
「……こんにちは」
 昨日、会った女性はわたしに向かってそう言った。
「こ、こんにちは……!あの、あなたのお名前を伺いたくて」
「私の名前、ですか?」
 女性は不思議そうに聞いてきた。
「──雲龍澄空(すみあ)と申します」
「え、雲龍……⁉」
 わたし一人が驚いている。
 龍神だから茅都くんとは何らかの関りがあるのではないかと勝手に推測していた。
 まさかのそれが当たってしまい、一人で驚いている。
「……?ええ。兄さん、私のことを紹介していなかったの?」
 澄空さんは茅都くんに聞いた。
「ん?まあ、言ってなかったね。妃翠が美澄川に来るなんて思ってなかったし」
 茅都くんは笑いながた言う。
「え、今兄さんって……?」
「はい。雲龍茅都は私の兄なので」
 さらっとそう言われ、叫びそうになるが、近所迷惑になるので叫びたいのをこらえる。
「え、茅都くんって妹さんいたの……⁉とても意外」
 わたしがそう呟くと茅都くんは首を傾げた。
「そう?え、もしや誰かの世話とかできないかと思ってるの?」
「い、いえ。そういうわけではないわ。なんというか……意外」
「それしか言わないじゃん」
「いや、本当にびっくりしていて……」
「……兄さんとは三つ離れているので関わることも少ないので」
 三つ離れているということは澄空さんは今、高校一年生。
 高校一年生にしては大人びている。
「それにしては大人びているのね……」
 どうやったらこんなに大人びている高校生が育つのか。
(──どうして皆、同じことを言うのだろう。私なんて兄さんとは違う……)
 澄空さんの心の声は後ろめたいものだった。
 澄空さんは無表情のまま。
 人間もあやかしも皆、心の声が聞こえないように上手く隠して生きる。
 心の中で思っていることが爆発したとき、喧嘩やすれ違いが起こる。
 言葉でなくても、表情で心の声がわかってしまうときもある。
 不貞腐れているときや嬉しいとき、悲しいときそれぞれ顔でも感情を表現する。
 そうでないと意思の疎通ができない。
 澄空さんは表情ではわかりにくい部類の人だ。
 昨日会ったときもずっと無表情で、声のトーンもずっと同じ。
「……そんなことはないと思います。私も聞きたかったことがあるのですがいいですか?」
 澄空さんはわたしに聞いた。
 わたしはこくんと頷いた。
「あなたはなぜ……美澄川にいたのですか?あの川はあまり知られていない。来たのは私が知る限りあなただけ」
 とても素朴な質問だった。
 けれど、そこには情報がたくさんあった。
「えっと……川はなんとなく行ったら見つけられて。川はとても綺麗で古くからありそうなのに、わたししか来ていないのですか?」
 わたしが質問で返すと澄空さんは小さく頷いた。
「ええ。妃翠さんの言う通り川は本当に古くからあります。けれど、時代が進むにつれ、川や山に目がいかなくなったのですよ……皆、自然はお飾りだと思ってる」
 自然が織りなす恵はどれだけありがたいものか。
「私たち龍神は川と一番深く関わっている。だからこそ、川の良さについては誰にも負けないくらい知っている自信がある……けれど、今の時代それを理解しようとする人も少なくなった」
 一瞬、澄空さんの表情が切なそうになった。
 きっと、澄空さんは自然が大好きなのだろう。
 それが澄空さんの言葉一つ一つで感じられる。
「……妃翠さんなら川の美しさとかわかってもらえるかもしれないと思ったんです。妃翠さんなら誰も知らない川を見つけるかもしれない。その川を色々な人に伝えて皆に川の良さが伝わればいいなって思ってしまった」
 澄空さんは美澄川を見た。
(──川のために妃翠さんを利用するなんて私、最低だ。妃翠さんにも嫌がられるだろうな)
 わたしは最低だなんて一切思わなかった。
 誰かに自然の良さが伝わるなら利用されてもいいと思った。
「わたしだって……みんなに自然の良さ、伝えたいですよ?澄空さんは自然を大切に思っているのですね」
 わたしが言うと澄空さんは微笑んだ。
 初めて無表情ではないところを見た。
 すごく美しい。
「……山紫水明(さんしすいめい)、という言葉を知っていますか?」
 澄空さんは美澄川を見つめながらわたしに聞いた。
「……ごめんなさい、わからないです」
「謝ることはないです……山紫水明は自然の風景が清浄で美しいことを表す言葉。美澄川や翡翠川は山紫水明という言葉がピッタリだと思っているんです」
 澄空さんの説明を聞いてわたしも大きく頷いた。
「この美しさは誰かが繋いでいかないといつかは果ててしまう。私は今、美澄川を守っていますが元は私の祖母が守っていたものなんです」
 わたしは驚いて目を見開いた。
「えっ?」
「……祖母は私が小さいときからずっと美澄川に連れて来てくれました。けれど、祖母が寝たきりになってからは私が美澄川を守っています。私が見舞いに行くと必ず祖母は同じ言葉を言うんです……」
 澄空さんは一息ついて。
「この川は澄空が守りなさい、誰かがいないと川も美しさをなくすって。私は最初、この言葉が理解できませんでした。だって、川なんて人がいなくても、一年中流れを止めたりしないのに。でも、祖母が言いたいことはそうではなかったみたいで」
 澄空さんは懐かしそうに微笑んだ。
「祖母はこの川の美しさを誰かに知ってほしかったんです……けれど、私も川の良さを友達に伝えましたが誰もわかってくれなかったんですよ」
 澄空さんは少し悲しそうに瞳を揺らした。
「……澄空さん、わたしもたくさんの人に川の良さを伝えられるように頑張ります……!ねぇ、茅都くん!川って最高よね?」
 隣にいた茅都くんに聞くと、苦笑いで返された。
「僕は龍神だし、川については結構知ってると思うけどな」
「……兄さんは川への愛が足りない」
 静かに呟いた澄空さん。
「そんなことないよ?翡翠川は僕の命と同じくらい大事な川だよ?」
 こてんと首を傾げる茅都くん。
 澄空さんとしばらく話した。
「……妃翠さん。私のこと澄空って呼んでください。あと、敬語じゃなくていいので」
 澄空さんにそう言われわたしは笑顔で答える。
「今日はありがとう、澄空ちゃん。わたしのことも妃翠って呼んでほしいわ、敬語もなしで」
 わたしが言うと澄空ちゃんも笑っていた。
「ええ。また美澄川に遊びに来てね。妃翠ちゃん」
 わたしと茅都くんは澄空ちゃんに手を振って家に戻った。
 


 家に帰ると茅都くんはわたしに抱きついて、キスの雨を落とした。
「ちょ、茅都くんっ?な、なによ急に」
「ん?だって今日あんまり妃翠にくっついてないなって思って」
「いや、数え切れないほど抱きつかれてますけれど……」
 わたしは呆れ混じりのため息をつく。
「そう?全然足りないし、軽いものばっかりじゃん」
「いや、意識飛びそうになるくらいのき、キス……してるじゃない」
 わたしは顔をぷいっと背けてそう呟く。
 茅都くんはくすくすと笑いながらわたしの頬を撫でる。
「だって妃翠が可愛いんだもん」
 わたしは顔を赤く染める。
「そういえば、澄空ちゃんって本当に高校一年生なの?あんなに大人びているのに」
 悪い意味とかではなく、純粋に思ったことだった。
「本当だけど?澄空って大人しいし聞き分けも良くて大人からも評判がいいんだよね。あいつ外面だけはいいから」
 さすがは兄妹と言ったところか。
 わたしが知らない澄空ちゃんを知っているのだ。
 わたしはくすっと笑った。
「外面だけ?すごくいい子だったわ」
「澄空っていい子の仮面被ってるような奴だからあんまり他人に本性見せてる印象ないけど、妃翠の前では本当の澄空だったよ」
 澄空ちゃんの兄である茅都くんが言うのなら本当のことなのだろう。
 それからのこと澄空ちゃんと遊ぶことが増えた。
 遊ぶと言ってもショッピングとかではなく、川巡りであった。
 澄空ちゃんは川や山への愛が強いのでたくさんの知識がある。
 澄空ちゃんの学校がない日、雲龍家で待ち合わせをした。
 茅都くんも澄空ちゃんなら安心だと言っていた。
 約束の時間に雲龍家に着く。
「……妃翠ちゃん」
 黒いワンピースを着ていた。
 少しミステリアスな澄空ちゃんにピッタリだった。
「こんにちは、澄空ちゃん。今日のお洋服可愛いわ」
 わたしが言うと澄空ちゃんは嬉しそうにはにかんだ。
「本当?ありがとう」
「今日はどこへ行くの?」
「わからない。妃翠ちゃんはどこに行きたい?」
 澄空ちゃんは首を傾げた。
「美澄川に行きたいわ。ありきたりな場所で申し訳ないわ」
 そう言うと、澄空ちゃんは首を横に振った。
「いいの。美澄川を知ってもらえるなら」
 澄空ちゃんはどこか嬉しそうな顔をしていた。
 澄空ちゃんとともに美澄川に向かう。
「見て、ここが一番綺麗に見える場所なの」
 澄空ちゃんに手を引かれ、岩の上に立つ。
 紅葉(もみじ)が綺麗で輝く川。
 初めて美澄川を見たときよりもはるかに上回る感動を覚えた。
 澄空ちゃんとはどっちが綺麗な写真を撮れるか勝負したり楽しい時間を過ごした。
(──なんだろう、この雰囲気。すごく嫌な雰囲気、でも妃翠ちゃんからしている感じではない)
 少しずつ澄空ちゃんの表情が曇っていった。
 わたしはなにも感じられなかった。
(──この雰囲気はどこから……?まさか、翡翠川?場所的にも翡翠川はあり得る。とにかく美澄川ではないことは確か)
 澄空ちゃんは心の中で推理していた。
 わたしは澄空ちゃんが思う嫌な雰囲気を感じとれないためなんとも言えない。
(──余計なことを考えてはダメだ。今は妃翠ちゃんと遊んでいるのだから……楽しまなくては)
 澄空ちゃんは首を小さく横に振った。
「……澄空ちゃん、翡翠川に行かない?」
 わたしが突然言い出したからなのか、澄空ちゃんはとても驚いていた。
(──急にどうしたのだろう。けれど、こっちにとっても都合がいい)
 澄空ちゃんは頷いた。
「もちろん。行こう?」
 澄空ちゃんとわたしは翡翠川に向かった。
 翡翠川に着くと、ザバンッと大きな音がした。
 何事かと思い、川に近づこうとするが澄空ちゃんに阻まれてしまった。
「危ないから行ってはダメ」
 そう言われた途端、大きな白い龍がわたしたちの目の前に現れた。
「えっ……⁉」
 龍は川の中に潜った。
 そして、なんと龍は背中に女性を乗せてわたしたちの目の前で降ろした。
 龍はどんどん小さくなっていった。
「……兄さん、なにをしていたの」
 澄空ちゃんがそう言うと龍は人間の姿に戻った。
「澄空、妃翠……この人が川に飛び込んでいたんだ」
 龍の姿をしていたのは茅都くんだった。
 茅都くんは橋に降ろした女性を見てそう言った。
「──……なんで、なんで?ねぇ、なんであたしを助けるの⁉」
 茅都くんに助けられた女性はそう叫んだ。
 その人は高校生くらいだろうか。
 きっと澄空ちゃんとあまり年は変わらないだろう。
(──こんな人生もう嫌だ。誰かに必要とされることがないのならいなくなった方がマシ。誰もあたしを見てもくれない、誰もあたしの声を聞いてくれない。こんな恵まれた人たちとは違う。誰もあたしを好きになってくれない。なのになんで助けるの……)
 その女性の心の声はとても悲痛なものだった。
 誰にも必要とされずに、ただ罵倒されるだけの人生がどれだけ辛いかわたしは体験したことがある。
 継母さまにもお父さまにも使用人にも誰にも相手にされず、生きる意味もなくなっていた。
(──美澄川にいたときからあった違和感はこれだったのか)
 澄空ちゃんは納得がいったような声をしていた。
「……誰にも必要とされない人間の気持ちが……あなたたちみたいな裕福でなにも不自由ない者にわかるの⁉……いいよね、綾城のお嬢さまも。こんないい家の人と結婚できて」
 その女性は嘲笑うかのようにわたしを見てきた。
(──どうせお嬢さまは世間知らずなんでしょ?親にも愛されて。親の愛情も全部あの子のもの。この人たちはあたしとはなにもかもが違う)
 その人の心の声を聞いているだけで胸がズキズキと痛む。
「……わ、わたしは……綾城家では誰にも相手にされなくて、いらない子扱いでした」
 わたしは茅都くんにしか言っていないことを口にした。
「わたしも……いらない子は川に落としてやるって言われてこの川に昔落とされました。わたしはずっといらない子だった。もしかしたら今でもそうなのかもしれない。けど、命をなくしてしまってはこれから待ってる幸せがなくなってしまう」
 わたしはこの人に少しでも幸せを見つけてほしいと思った。
ㅤ涙菊も言っていた。
ㅤ命を絶つことは簡単ではないけれど、できてしまう。
ㅤけれど、命を絶ってしまえばこれから自分の手で開いていく未来すらなくなってしまう。
 自分がその女性に対して発した言葉になんて自分勝手な考えなのだろうと思ったが、今はこの人に生きてほしいとただ願った。
(──お嬢さまもそんな扱いを受けているの?)
「あなたのことを好きでいてくれる人は本当にゼロですか?」
「な、なにを言ってるのあたしなんていらない子。学校ではみんなあたしを嫌いって言ってる!お母さんもお父さんも皆妹のことばっかり!誰もあたしを好きでいてくれない──」
「──……なつ!」
 焦ったように誰かが走って来た。
「お、母さん……?」
 その女性は驚いたように目を見開いた。
「あなたを待っている人はいるんですよ?ちゃんとあなたを好きでいてくれる人はいます。あなたは一人じゃない」
 その女性は大粒の涙を流しながらわたしに謝った。
「ご、ごめんなさい……っ。あたし、お嬢さまならなんでもあるって勘違いしてた。酷いこと言ってごめんなさいっ!」 
 その女性の母親であろう人が背中をさすりながらペコペコとお辞儀をする。
 たくさんお礼と謝罪をもらった気がする。
 先ほどの女性が言っていた通り、お金があるからと言ってなんでもあるわけではない。
 どんなにいい暮らしでも愛がないこともある。
 その逆も然りというところか、普通の家庭でも愛が溢れているところもある。
 愛やお金が全てかと言ったらそうではない。
 人それぞれの価値観で人生を歩んでいくのだ。  
 一段落したところで澄空ちゃんがわたしに向って言った。
「妃翠ちゃんって……ここに落とされたことがあるの?」
 すごく驚いた顔で言われた。
「ええ。小さい頃の話だけど……そのとき、茅都くんが助けてくれたのよ」
 わたしは茅都くんをちらっと見た。
 澄空ちゃんは茅都くんを見た。
「兄さんが昔話してた川に落ちた子って妃翠ちゃんのことだったの?」
 わたしは首を傾げる。
 わたしとは対照的に顔を赤く染めている茅都くんがいた。
「お、おい……澄空本人の前でなに言ってんの……」
「兄さんが照れるなんて相当惚れてんだね」
 澄空ちゃんはふっと笑った。
「……さっきの人、助かってよかった。私とあんまり年変わらないだろうし、これからもっと楽しいことが待ってるはず……また巡り合えるのを楽しみにしてる──」
 澄空ちゃんの濡羽色の髪がふわっと揺れた。 
 澄空ちゃんはそう言ってどこかへ行ってしまった。
 
 
 
 いつも通りの日々を過ごす。
 結璃ちゃんとうららちゃんと一緒にいることがほとんどの大学生活。
「……せや、天ヶ紅祭ってもうそろそろやんな?」
 天ヶ紅祭、それは大学の学園祭だ。
「そうね。結璃ちゃんとうららちゃんはなにかやったりするのかしら?」
 わたしが聞くとうららちゃんは嬉しそうに言った。
「うららね、天ヶ紅祭でライブすることになったの!」
 人気アイドルが大学でライブなんて夢のような話だ。
「ほんまに言ってるん?大学に人入り切らんで?」
 結璃ちゃんはおもしろそうに笑った。
「うららちゃんがライブだなんて大学にいる子たちびっくりするんじゃないかしら?」
 わたしたちが言うとうららちゃんは嬉しそうにはにかんだ。
「うらら、うららのこと知らない人も虜にするの。だから、見ててね。ワンマンライブよりもすごいライブするから!」
 うららちゃんは胸を張って堂々と言った。
「ええ勢いやな。このままいけばライブは大成功やな」
 結璃ちゃんはうららちゃんに向かってそう言った。
「えへへっ……結璃ちゃんはなにか出し物とかあるの?」
「せやな、うちのところは小さなレストランを開くって言ってたわ。冷泉リゾートのシェフが料理の指導してくれはるって」
 結璃ちゃんの口からさらっと告げられた言葉にわたしとうららちゃんは呆然とする。
「「……ん?」」
 わたしとうららちゃんは声を合わせ、結璃ちゃんを見る。
「ん?」
 結璃ちゃんもわたしたちと同じ言葉を言った。
「……なんかうち失言でもしたんか?おーい、二人ともなんで固まってるん?」
 結璃ちゃんはわたしたちの目の前で手を振った。
「い、いや……シェフってなに⁉学園祭の規模じゃなくない⁉」
「シェフが特別教室開いてくれるって」
 当たり前ではないかと言いたげな顔をして言う結璃ちゃん。
「家でどんな話をしたらそうなるのよ……」
 わたしがボソッと呟く。
「どんなって……なんやろ、学園祭で小さいレストラン開くことになったで~って言ったらうちのシェフが「なら特別教室でも開いて料理勉強しはりますか?」って言ってくれたんや」
 さすがは冷泉リゾートの社長。
「すごいわね……それでどこで料理教室開くのかしら?大学の教室?」
 わたしが首を傾げ聞くと、結璃ちゃんは首を横に振った。
「そんなわけないやん。うちの家でやるで?」
「家⁉結璃ちゃんの家にそんなに人入るの⁉」
 うららちゃんはとても驚いていた。
「別に少しくらいなら入るで?うちを甘く見たらあかんで~」
 上品に笑う結璃ちゃん。
「結璃ちゃんのところのレストランだけすごい高級そう……」
 勝手な偏見を結璃ちゃんに言う。
「そんな大学の学園祭で大金もらったりするわけないやん。材料も高くないのを選んでるで?」
 結璃ちゃん曰く、小さなレストランのリーダーは先輩のようだが、ほとんど仕切っているのは結璃ちゃんだそう。
 社長は効率よく、物事を進められるのか小さなレストランを営業する人たちは皆結璃ちゃんに従っているみたいだ。
 それも納得ができる。
 結璃ちゃんはリーダーシップがあり、頼ってもいいだろうという安心感がある。
「妃翠ちゃんはなにか出し物するん?」
「わたしはチュロスを売ろうって話になっているのだけれど……結璃ちゃんたちのところがハイクオリティすぎて言っていいのか不安になってくるわ」
 学園祭というものを楽しむのは初めてなのでよくわからないが、結璃ちゃんたちのところがハイクオリティなのは目に見えてわかっている。
「そうなんや……チュロスは売れるって言うで?」
「そうなの?リーダーになった子がチュロスがいいって言っていたからそれになったのだけど」
 わたしが言うとうららちゃんがぴょこぴょこと飛び跳ねていた。
「うららもチュロス食べたい!マネージャーさんから肌荒れするから食べない方がいいんじゃないかって言われるの」
 不服そうに抗議するうららちゃん。
「うららだってチュロスくらい食べたい……だから妃翠ちゃんのところに行ってチュロス食べる!結璃ちゃんのところももちろん行くよ!」
 三人の中で一番楽しみにしているのはきっとうららちゃんだろう。
 家に帰り、茅都くんと学園祭の話をしながら夕食を食べる。
「茅都くんと会えればいいのだけれど……」
「妃翠に会いたいよ。四六時中一緒にいて、抱きついていたい」
「お気持ちだけもらっておくわね」
 わたしたちは毎日同じような会話しかしていない。
「……茅都くんはなんの出店?」
「んー……お楽しみ?」
「えー……待ちきれないわね」
 わたしがくすっと笑うと茅都くんはわたしの瞳をじっと見た。
 瑠璃色の瞳は川のように美しい。
「ど、どうかなさったの?」
 急に黙るものだからなにかあったかと心配になる。
「いや、妃翠はなんの出店なのか気になって」
 茅都くんはそう言うが心の声はそうでないことをわたしは知っている。
(──妃翠と同じグループ、変な奴はいないかな。僕は学部が違うから一緒にいられない。本当に心配……)
 そんなに心配しなくてもわたしは平気なのにと思うがどれだけ言っても茅都くんは心配することをやめない。
「チュロスを売るのよ……グループの子たちは皆いい子たち。だから心配しないで、ね?」
 わたしはニコリと笑う。
「……妃翠がそんなに言うなら、もうなにも言わないけど」
「……ありがとう。そうだわ、結璃ちゃんのところは小さなレストランを開くみたいなのだけれど、シェフが特別教室を開いてくれるみたいなの。レベルが違うわ」
 わたしが言うと茅都くんは苦笑いする。
「やっぱ社長は違うね~」
「そうは言っても茅都くんだって次期社長じゃないの?」
 茅都くんの家は大きな会社を経営している。
 今じゃ就職したいであろう人が殺到しているようだ。
「まあ、そうなんだけど。僕の会社はリゾートとかじゃないからシェフとかいないし」
「そう……まず次期社長って時点ですごいわよね」
 わたしは家のことなんて評判くらいしか気にしたことがなかった。
 家ではいないもの扱いされ、当主などの問題に一切関りがなかった。
  
 

 準備期間が終わり、ついに天ヶ紅祭当日。
 わたしは午前中だけ、仕事をする。
 茅都くんは午前中と午後に少しだけと言っていた。
 うららちゃんのライブは午後からと言っていたので見れそうだ。
「綾城さーん!こっち来て~!」
 グループの子から呼ばれ、わたしは走ってその子のところまで行った。
「綾城さん、これやっておいてね!うち接客行くから!」
 学園祭というものは大変だ。
 お客さんはたくさん来て、ストックが足りるかどうかも怪しくなってきた。
(──あれ、あの子高校一緒だった気がする……)
(──チュロス最高!)
 心の声がたくさん聞こえる。
 懐かしさを覚える声や食べ物に関する感想など、とても満足してもらえているようでなによりだ。
 午前中の仕事は終わり、わたしは茅都くんの出店に行くことにした。
「えっと……ここかしら?」
 わたしが着いたところは長蛇の列をなしていた。
 一体ここはなにをしているのだろう。
 一人で入ってみることにした。
「「いらっしゃいませ」」
 何人かの男性の声が重なった。
(──妃翠?)
(──ひい?)
 この心の声で誰がいるのかがわかる。
「ひい、こっち空いてるぞ?」
「えっ?……あ、ありがとう」
 急に瀬凪くんに声をかけられて驚いた。
 瀬凪くんを見るとスーツを着ていた。
(──真神くん、やっぱりかっこいい)
(──あんなにイケメンなのにちょっと口悪いとか最高なんだけど。私、鼻血出てないかな。心配になってきた)
 この店にいる子たちは皆、瀬凪くんたちのことが好きな人たちなのか。
「……妃翠!」
 聞きなれた落ち着く声。
「茅都くん。出店ってここだったのね──」
 わたしは茅都くんを見るなり、言葉を失った。
「……っ」
 茅都くんもスーツを着ていた。
 スーツ姿なんて見慣れているはずなのに、茅都くんがかっこよすぎて直視できない。
「妃翠?」
 茅都くんがわたしの顔を覗く。
 周りからはものすごい量の悲鳴が上がった。
(──なにあれ。雲龍さまにあんな近くにいられたら失神する自信がある)
(──一番イケメンなのは雲龍さましかいない)
 様々な心の声が聞こえ、少し複雑な気持ちになる。
 かっこいいのは誰もがわかること。
 けれど、そのかっこよさをわたしだけが知っていればいいのにと思ってしまった。
 いつからわたしは独占欲があったのだろうか。
「えっと……その、前に出店は秘密だって言っていたからここにいたのがすごくびっくりしたのよ!」
 わたしは自分の気持ちに蓋をして、咄嗟に前に茅都くんが言っていた言葉を頭の片隅から引っ張り出す。
「そういえばそうだったね、妃翠にはサプライズでもしよかと思って」
「サプライズは成功ね」
 わたしは茅都くんにふわふわのパンケーキをもらった。
 パンケーキは頬が落ちてしまいそうになるくらい美味しかった。
「妃翠、これから恋水うららのライブあるんでしょ?あとは結璃のところのレストランも行きたいって言ってなかったっけ?よければ一緒に回らない?」
 茅都くんはわたしの手を握った。
 ここには大勢の人がいるというのに。
 わたしは顔に熱が集まるのを感じながらこくんと頷いた。


 わたしと茅都くんは出店から離れ、うららちゃんがライブを行うと言っていた会場に向かう。
 会場に着くと、すでに満員だった。
(──うららちゃん、モデルやってたときから大好きだったからまた輝いてる姿見たいな)
(──恋水うららって、前にワンマンライブやってた子だったよな……)
 うららちゃんのライブにはうららちゃんのファンの人やそうでない人もいるようだ。
 ついに、うららちゃんのライブが始まる。
「──みなさーん!こんにちは~!恋水うららですっ」
 うららちゃんが出て来ると会場は大盛り上がり。
 マイクを通して聞こえるうららちゃんの声も、歓声にかき消されそうだ。
 うららちゃんが数曲歌い終わったあと。
「……では、ここでスペシャルゲストに登場してもらいます!」
 突然の発表に会場はざわつく。
「──……恋水爽良です」
 現れたのはうららちゃんの双子の兄、爽良くんだった。
(──どうしよう。爽良くん大ファンなんだけど)
(──もう泣きそう。双子共演とかあんまりなかったから嬉しい)
 会場はさらに盛り上がった。
「今日はうららのライブに来てくれてありがとうございます。兄としてこんなにたくさんのお客さんが来てくれるまで成長したんだって嬉しく思います」
 爽良くんはうららちゃんを見て微笑んだ。
 その笑顔に胸を打たれた人はどれだけいるだろうか。
「……多分、うららと爽良くんで歌ったりするのはここが初めてだと思うから、ちゃーんと目に焼き付けておいてよねっ!」
 うららちゃんはそう言ってウインクをした。
 曲が始まると最初に歌い出したのはうららちゃん。
 いつもの明るくて可愛い声からは想像できない透き通った声をしている。
 次のパートを歌ったのは爽良くん。
 爽良くんは名前の通り爽やかな歌声をしていた。
 会場にいた人全員が息を忘れるほど二人の歌に夢中になっていた。
 曲が終わると耳が壊れてしまうのではないかと思うほどの歓声が沸きあがった。
 ライブが終わるとうららちゃんと爽良くんは舞台裏に行ってしまったので話しかけることはできなかったが、後でライブを見たことを言おう。
「恋水の双子は歌上手いんだね。僕あんまりアイドルとかわからなくて」
 茅都くんが言う。
「そうね。うららちゃんの歌声はワンマンライブで聞いたから知っていたけれど、爽良くんの歌は初めて聞いたわ。すごかった!」
 茅都くんとライブの余韻に浸りながら結璃ちゃんのグループがいる場所へと向かう。
 ライブ会場から数分したところに看板が出ていた。
「絶対ここよね……」
「絶対にここだと思うよ」
 看板からして高級感溢れている。
 店内に入ると本物のレストランと見間違えるほどのものだった。
「……妃翠ちゃん、茅都。来てくれはったん?」
 わたしと茅都くんは頷く。
「嬉しいわ~。あ、ここの席座りや」
 結璃ちゃんに案内してもらい、椅子に座る。
 椅子もふかふかで学園祭の出店とは思えない。
 わたしと茅都くんはカルボナーラを選んだ。
 カルボナーラとかは冷凍食品とかでも売っているからそういうのかと思いきや、ちゃんと一からつくっているようだ。
「お待たせいたしました、カルボナーラでございます」
 結璃ちゃんが運んできてくれた。
「ありがとう……そういえば、うららちゃんのライブ最高だったわ。結璃ちゃんは仕事で見れなかったかしら?」
「せやな。うちも見たかったわ~。噂によると双子で歌ったんやろ?」
 結璃ちゃんは誰かから聞いていたようで爽良くんが出ていたことも知っているそうだ。
 カルボナーラの味はというと、出店のレベルではないほど美味しかった。
「美味しいわ!」
「最高」
 茅都くんも絶賛していた。
「ほんまに?やっぱりシェフ呼んでよかったわ~」
「……社長はやっぱり違うわね」
 わたしがそう言うと結璃ちゃんは楽しそうに笑った。
 家に帰り、今日のことをたくさん茅都くんに話す。
「チュロスはすぐに売れたわ!お客さんが喜んでいたのよ」
 わたしが楽し気に話しているものだからか茅都くんもすごく笑顔だった。
「よかったね。僕も結構儲かったよ。楽しかったし」
「…………」
 今日の茅都くんはすごく格好よかった。
 けれど、それと同時にわたしの感情にはほんの少しの嫉妬が混じっていた。 
 この気持ちは隠したほうがいい気持ちだろう。
 こんな気持ちを持っているわたしを茅都くんは嫌うかもしれない。
「どうしたの?急に黙り込んで」
 わたしはハッとし、俯きぎみの顔を勢いよく上げる。
「な、なんでもないわ」
「……隠し事?なにかあるなら言ってよ」
「い、言ったら怒る……?」
 茅都くんは小さく首を横に振る。
「怒らないから言ってみてよ」
 茅都くんにそう言われ、わたしは口を開いた。
「今日……茅都くん、スーツ着てて皆がかっこいいって言っていたの。それで……茅都くんのかっこいい姿なんてわたしだけが知っていればいいのにって思ったの……」
 わたしはまた顔が下がる。
「はぁ……」
 そんなため息が聞こえ、肩がビクッと跳ねる。
「ご、ごめんなさいっ。こんなこと思ってるなんて知りたくなかったよね……」
 わたしが言うと、茅都くんはすぐに口を開いた。
「は?いや、そういうことじゃなくて、なんでそんなに可愛いことを思ってるのかなって」
「え?」
 わたしは首を傾げる。
「妃翠だけだよ?今日は学園祭だし仕方なかったけど、本当は妃翠だけにあの姿を見せたかったよ」
 そう言って茅都くんはわたしを力強く抱きしめた。
「わたしだけ……?」
「そう、妃翠だけ。僕は妃翠の特別だから」
 茅都くんはそう言ってわたしの唇にキスをした。



 天ヶ紅祭が終わり、雪でも降るのではないかと思わされる寒さの十二月。
「寒い~!でも、雪降ってほしいなぁ~」
 のんきにうららちゃんは言うが、寒いのがあまり得意ではないわたしの身にもなってほしい。
「雪遊びしたい気持ちもあるわ~。せやけど、雪かきとか大変やしな……ホテルの雪かきも手伝うことになるしちょこっとだけ降ってほしいな」
 結璃ちゃんは頭を抱え悩んだ末、少しだけなら降ってもよしという回答にいたった。
「わたしは今の寒さで凍えてしまうのに……雪なんて降ったらどうなってしまうのかしら」
 わたしは考えたくもないと首を横に振った。
 わたしの発言に結璃ちゃんとうららちゃんは笑った。
「……この季節はやっぱりクリスマスやんな?」
 結璃ちゃんの質問にわたしとうららちゃんは同時に頷いた。
「あんたら二人はデートとか行くん?」
 ニヤニヤしながら結璃ちゃんはわたしたちに聞いた。
「うららはライブとかあるし……事務所は恋愛ダメって感じじゃ全くないけど、『ファンを恋に落とす小悪魔アイドル』っていうブランドを守るためにはデートとかしてる場合じゃないから!」
 うららちゃんはアイドルという仕事に命を懸けているようだ。
 そんなうららちゃんを見て、たくさんの人が勇気をもらっているのだろう。
「うららちゃんが人気な理由がわかるわぁ~」
「本当に結璃ちゃんの言う通りだと思うわ。うららちゃんが人気な理由はファン一筋って感じがわかるからなのかしらね」
「ファンの子たちはみんな大好きだよっ。うららのことを支えてくれるのはファンの人たちだもん」
 うららちゃんは嬉しそうに語った。
「結璃ちゃんはデートとかしないの~?」
 うららちゃんが楽しそうに聞いた。
「うちはそんな暇ないわ~。クリスマスから年末は売れるんやで?そんなんしてる場合ちゃうわ」
 さすが社長、とわたしとうららちゃんは拍手をした。
「……妃翠ちゃんは茅都とデートするやろ?」
 わたしは硬直する。
「え、えっと……」
「……まさかとは思うんやけど、考えてないなんて言わないよなぁ~?」
 結璃ちゃんから放たれる威圧感に縮こまる。
「そ、そのまさかです……」
 わたしが言うと結璃ちゃんとうららちゃんは大きなため息をついた。
「クリスマスと言えばデートだよっ⁉妃翠ちゃんわかってるの⁉」
「あんたらお似合いカップルなんやからデートくらい行きや」
 結璃ちゃんとうららちゃんの二人に詰め寄られる。
「わ、わかったわよ……!行くわ、行く!」
 わたしが言うと二人は離れてくれた。
「で、でも、どこに行けばいいのかしら?わたし、彼氏とかそういうの茅都くんが初めてで……よくわからないのよ」
 綾城家にいたときはクリスマスだろうがなんだろうがいつも一人だった。
 茅都くんと出会ってからわたしの人生は一気に変わっていった。
 デートは自体は何度かあったが、クリスマスのように大きな行事の日には行ったことがない。
「王道なのはやっぱりイルミネーションだよっ!ね、結璃ちゃん?」
 うららちゃんが結璃ちゃんに聞くと、結璃ちゃんは大きく頷いた。
「イルミネーションは人気やな……せや、もう準備してるかもしれへんけど、茅都の誕生日プレゼントを渡したりするのはどうや?」
 結璃ちゃんの言葉にわたしは疑問を抱く。
「誕生日プレゼント……?」
「……?せやけど」
 わたしは頭を抱える。
 茅都くんの誕生日を知らなかった。
「まさかとは思うんやけど、茅都の誕生日知らんかったん?」
「そのまさかです」
 このような会話をつい先ほどもした気がする。
「茅都の誕生日はクリスマスの日やで」
 結璃ちゃんに教えてもらい、わたしは結璃ちゃんは一生分のありがとうを言った気がする。
「愛しの妃翠ちゃんから誕生日を祝われたら茅都めっちゃ喜ぶで?」
「結璃ちゃんの言う通り!雲龍さま、妃翠ちゃんのこと大好きだもんねっ」
 二人にそう言われ、少し恥ずかしい気持ちになる。
 その日は家に帰り、一人でじっくりと誕生日プレゼントを考える。
「んー……わからないわ」
 考えても、茅都くんが本当に喜んでくれるものがわからない。
 どうしようか。茅都くんはわたしに指輪をくれた。
 そのとき、わたしは心の底から喜びを感じた。
 茅都くんにもその喜びを味わってほしい。
 茅都くんならなにを渡せば喜ぶのか。
「──……もしもし?」
 わたしはなにがいいのかわからずに、助けを求める。
『もしもし?なんや、妃翠ちゃんから電話なんて珍しいわ』
 電話の相手は結璃ちゃんだった。
「助けてほしいのよ。茅都くんの誕生日プレゼント、なにを渡せばいいのか全くもってわからなくて」
 わたしがそう言うと返って来た返事は予想外のものだった。
『……なに言ってるんや!そんなん妃翠ちゃんが考えな意味ないやろ!』
「えぇっ!ちょっとは手伝ってよ……本当にわからないのよ」
 わたしは必死に伝える。
『せやな、強いて言うならばネックレスとかピアスちゃう?』 
「なるほど。アクセサリーっていいわね!ありがとう、結璃ちゃん」
 わたしがそう言うと、電話が切れた。
 今朝、茅都くんは今日は色々と会議があって帰るのが遅くなると言っていた。
 わたしは絶好のチャンスだと思い、デパートに向かう。
 アクセサリーショップにはキラキラと輝く宝石がついているネックレスなどが置いてあった。
 どれから手を付ければいいのかわからずにいると、声を掛けられた。
「……なにかお探しですか?」
 お店の人だった。
 真っ白な肌、雪のように白い髪。
 どこかで見たことがあるような気がする。
「えっと、誕生日プレゼントを買いに来たんですけど……」
「そうですか。ネックレスがいい、指輪がいいなどご希望はありますでしょうか」
 お店の人に聞かれ、ネックレスと答えた。
「……そうですね、十二月生まれならば誕生石であるラピスラズリのネックレスはいかかでしょうか」
 お店の人はわたしを案内してくれた。
「綺麗……」
「……人違いでしたら申し訳ございません。妃翠お嬢さまですよね?」
 わたしのことをお嬢さまなんて言うのは家の者以外いない。
 けれど、わたしのことを今お嬢さまなんて呼ぶ人もいない。
「はい。えっと、あなたは露雪家の……?」
「そうですよ。今はもう結婚しているので露雪ではありませんが」
 その人の左手を見ると指輪をしていた。
「……お嬢さまがまだ本当に幼かった頃にお会いしました。でも、覚えていなくて当然かもしれませんね」
 わたしはなぜだと聞いた。
「あの頃、お嬢さまはお母さま……綾城妃奈(ひな)さまを亡くされて立ち直れていなかったんです。そんなときに冬香さまと乃々羽さまが来られたのですから。私と関わる機会があったとしてもお嬢さまはそれどころじゃなかったんです」
 なるほどとわたしは頷いた。
「けれど、今はプレゼントを選ぶときの顔がとても嬉しそうです。雲龍さまと出会えて、お嬢さまの生活が変わったと思うと本当に喜ばしいです……お嬢さまが綾城家でどんな扱いを受けてきたのかは聞きました」
 お店の人はすごく悲しそうな顔をした。
「お嬢さまが辛いときに助けてあげられず申し訳ございません……露雪家のあやかしに言われても意味ないかな……」
「い、いえ!綾城とか露雪とか関係なく、わたしにはちゃんと味方がいたんだって思えて……すごく嬉しいです」
 わたしが笑顔で言うと、その人も嬉しそうに笑った。
「お嬢さまとは血縁関係もなにもないですが、いつでもお嬢さまの味方です……そうだ、お嬢さま。このラピスラズリには石言葉がたくさんあります、私が好きな石言葉は……『人生を正しい方向に導く』お嬢さまならきっと大丈夫でしょう」
 わたしと敵対していた露雪家のあやかしとは思えないほどいい人だった。
 わたしは派手すぎないラピスラズリのネックレスを買った。



 翌日、眠りから覚めると茅都くんが横で寝ていた。
 寝ているからバレないだろうと茅都くんにそっと抱きつく。
(──朝から可愛すぎない?なんなの、この天使)
 わたしはバッと顔を上げる。
「お、起きてたの?」
「うん、こんなふうにされたら起きるよね」
 わたしは急いで離れようとするが茅都くんはそれを阻止するようにわたしの腰に腕を回した。
「ちょ、ちょっと離してよ……!」
「なんで?仕掛けたのはそっちでしょ?」
 茅都くんは意地悪く笑った。
 茅都くんから逃げるため、布団から足を出す。
「さ、寒い……っ」
 寒いのにどうしても慣れないわたしは布団にもぐる。
「冬はやっぱり寒いね。僕と抱き合ってれば暖かいよ?」
 茅都くんはわたしを力強く抱きしめた。
「うぅ……」
 わたしは恥ずかしさのあまり、唸り声をあげる。
「……付き合ってしばらく経つのにまだこういうの慣れないの?一緒に寝てるのに?」
 一緒に寝るだけならお互いに寝ているからなにをしても気づかないこともある。
 けれど、抱き合ったりキスをしたりするのは意識がハッキリとしているときだ。
 そんなの慣れるわけがないのだ。
「あ、そうだ。……妃翠、クリスマスの日、デートしない?」
 茅都くんの胸に埋めていた顔を上げる。
「デート?」
「そう、デート。せっかくのクリスマスだし」
 わたしは喜んで承諾した。
 茅都くんは実家に用事があると言って出かけて行った。
 わたしは茅都くんがいない間に茅都くんの誕生日プレゼントをどう渡すか考えていた。
 考えているうちにどんどん一日は過ぎていった。



 聖なるクリスマス当日。
 午前中はわたしと茅都くんは大学があったのでデートは午後からということになった。
「妃翠ちゃん、あんた今日デートなんやろ?」
「そうなのよ……」
「え~!じゃあ、うららが妃翠ちゃんのこと可愛くしてあげる!」
 うららちゃんが楽しそうにわたしに近づいた。
「うららちゃん、今日ライブじゃないの?」
「……あ、それなら夕方からだから安心して?」
 大学の講義が終わり、わたしと結璃ちゃんはうららちゃんの家に遊びに行くことにした。
「本気でこれを着ろって言うのかしら?」
 うららちゃんから渡された服は普段のわたしなら絶対に着ないであろう白のニットワンピースだった。
「可愛いやん。こんな格好で妃翠ちゃんが待ってたら茅都、デートどころじゃないやん」
 結璃ちゃんはわたしを見るなり、おもしろそうに笑った。
「妃翠ちゃん!ここに座って!」
 うららちゃんに言われ、ドレッサーの目の前に座る。
 うららちゃんは鏡を見ながらわたしの髪をヘアアイロンで巻いている。
 ヘアアイロンなんか今回が初めてなものだからどんどんくるくるになっていく髪を見てわたしはドキドキしている。
「……できた!」
 鏡を見ればまるで別人のようなわたしが映っていた。
「すごいわ……うららちゃん、ありがとう」
 わたしがうららちゃんに礼を言うとうららちゃんは得意げに胸を張った。
「いいえ~!妃翠ちゃん、いつもと違うから色んな人に声掛けられちゃうかもねっ」
「茅都は妃翠ちゃんにドキドキしてたまらないんやろな~。うちも妃翠ちゃんとデートしたかったわ~」
「わ、わたしとのデートなのね……」
 結璃ちゃんのことだから仕事のできそうな人とのデートかと思っていたらまさかのわたしとのデートがしたいと言い出すので反応に困った。
「せや、そろそろ時間じゃないの?茅都のところに行かなくてええの?」
 結璃ちゃんに言われ、時計を見る。
「時間だわ……!二人とも、ありがとう」
 わたしは二人に礼を言い、待ち合わせ場所に行く。
「茅都くん……!」
 待ち合わせ場所にすでに来ていた茅都くんに慌てて駆け寄る。
「……え?妃翠?」
 茅都くんは目を見開いていた。
「え?そうだけど……」
 わたしはなにか変なものがあったのかと不安になる。
(──え?なにこれ、本当に妃翠なの?いつもと雰囲気違いすぎて見間違えるわ。今日本当にこれでデートすんの?僕の心臓絶対壊れるって)
 茅都くんの心の声はいつも以上に饒舌だった。
 デート自体はいつものようなショッピングだった。
 買い物に集中しているといつの間にか外は暗くなっていた。
「……妃翠、イルミネーション見に行かない?」
 茅都くんの大きな手に包まれながら、わたしは外に行く。
 ショッピングモールの中から外に行くと、空は星で彩られていて、並木道にはイルミネーションで木が飾られていた。
「本当に綺麗ね……」
 イルミネーションに夢中になっていると茅都くんの手に力がこもった。
「……?どうかなさったの?」 
 わたしが聞くと、茅都くんは幸せそうな笑みを浮かべていた。
「だって、妃翠が可愛すぎて」
 わたしの顔に体中の熱が集まる。
「今日はたくさんありがとう」
 わたしは茅都くんにそっとキスをした。
「……もっとすごいのしたいから、そろそろ家に帰ろっか」
 茅都くんはそう言い、わたしの手を優しく包み込んだ。
 家に帰って来て、わたしは早速茅都くんに話しかけた。
「……ねぇ、茅都くん。これ、喜んでくれるかしら?」
 わたしはネックレスが入っている箱を茅都くんに渡した。
「……?なにこれ?」
「開けてみてほしいわ」
 わたしがそう言うと茅都くんはすぐに箱を開けた。
「これ、ネックレス……?」
 茅都くんはネックレスについている宝石を見た。
「ラピスラズリ?」
「そうよ。誕生日おめでとう、茅都くん」
 わたしが笑顔で祝うと茅都くんは驚きを隠せなかったようで。
「なんで誕生日……」
「結璃ちゃんから教えてもらったわ。わたしの誕生日を盛大に祝ってくれたからなにかお返しをしたかった──」
 わたしが話している途中だというのに、茅都くんはわたしをぎゅっと抱きしめた。
 この温もりがとても安心する。
「ありがとう、最高の誕生日だ」
 茅都くんはすごく嬉しそうにしていた。
 茅都くんの笑顔を見ていると、このネックレスをおすすめしてくれた露雪家のあやかしの言葉を思い出した。
『石言葉は……『人生を正しい方向に導く』お嬢さまならきっと大丈夫でしょう──』
 茅都くんとなら、きっと正しい方向に行けるだろう。
「茅都くん、大好きよ」
「僕も大好き」
 この先なにがあるかわからないが、今わたしが愛を誓うのは茅都くんだけ──。


 

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