「そうだ、とあちゃん。前に送ってくれた子、夏休みの間だけうちでバイトして貰ってんだよ。タイミング合えば、今度改めてお礼言わせるから」
そう告げた焼き鳥屋の店主が、カウンター越しにビールジョッキを2つ置く。
高校が夏休みに入り、プライベートにも余裕が出てきた今日このごろ。久しぶりに羽を伸ばせる場で、最初の話題がこれか。
「えっ、それって芙由ちゃんのことだよね?」
「よく名前覚えてんなぁ、ハルくんは会ってもないのに」
「まあね……ていうかこの人、いま芙由ちゃんの担任のセンセーだよ」
高笑いする悪趣味な2人をよそに、アトリエから熱帯夜を歩いてきた身体へビールを流し込む。
――――椎名芙由がバイト、ね。
そういえば、夏休み中も文化祭準備が連日行われているが、アイツの顔は見かけていない気がする。バイトには出勤しているのなら、健康上の問題ではない。とすれば、残る理由は一つ。
夏休みの初日、屋上で鉢合わせた椎名芙由は、いつも勝ち気なその瞳に涙を浮かべていた。
『泣いてません!』
目一杯の強がりはいとも容易く見抜ける。じゃじゃ馬を手懐ける手段としては、心の穴につけ入るのが手っ取り早い。
でもこの件に限っては、打算というより、感情的知性が働いたと表現するべきなのだろう。
『今回は喚き散らさないのか?』
『何を喚けばいいか、それすらわかりません』
人の相談に乗るのは得意ではない。元より時間の無駄。
ただでさえ無駄だからこそ、風に攫われそうな声を拾い損ねないように、アイツの一言一句にしっかりと耳を傾けた。
「どしたのイット、すっごい険しい顔してるけど」
「散々笑っといてよく言うな」
晴士をひと睨みしてから、再びビールで喉を潤す。
――晴士との関係は、言い表すなら“親友”なのだろう。だがアイツ等のように口論したところで、どうにかしようとまでは思わない。もし結果的に絶縁状態になっても、仕方ないと割り切れる。要はただの腐れ縁だ。
何でも話せるが、お互いに、自分から何でも話すわけじゃない。タイミングだってある。
「珍しくハイペースだね」
「……まあな」
首を傾げる晴士に言われて初めて、手にしていたジョッキが空なことに気づいた。
おかわりを待つ間に、タバコへ火を点ける。
「なあ晴士、椎名芙由と連絡とってる?」
「とってないよ。イット本当に渡してくれた?」
「ああ」
ちゃんと渡した。晴士の連絡先も、自分のも。
あくまでもホットラインだったし、とっくに処分した可能性もある。まあ、手元に残していたところで、そう易易と他人に相談するタイプでもないだろうけど。……相手が“信用できない人”なら尚更、か。
なんにせよ、いち教師ができることはたかが知れている。わざわざ面倒事に首を突っ込む必要もない。
――そう自己解決したはずなのに、数日経っても、旧校舎で一服しながら考えるのは椎名芙由のことだった。
屋上へ来る途中で渡されたピンクの封筒を一瞥し、息が続く限り紫煙を吐き切る。
アイツにもこれくらいの可愛らしさがあれば、どれだけ扱いやすかったことか。