幻燈ショー ~苦いだけの恋じゃない~

「楓がバスケ頑張ってるの、ずっと見てきた……。9年、見てきたんだよ」

気づけば堪えていたはずの涙は溢れ出していて、声の震えを抑えるには、ボリュームを上げるしかなかった。

「私が好きになったのは、バスケ馬鹿の楓だもん! 私がっ……私が楓の障害になるのだけは、イヤだった」

顔を上げると、目の前にあった色素の薄い瞳からも涙が零れた。

ほらね、やっぱりカンナは泣く。
だから嫌だったんだ。だから、隠しておきたかったのに。

「……ごめん、内緒にしてて。カンナに相談したら、私の決心が揺らぐ気がしてた。だって、カンナは私のことを一番に考えてくれるでしょ?」

唇をきゅっと結んだままのカンナに、しっかりと微笑む。

「別れたのは、楓への気持ちの証明だと思ってる。つらくても、大切な思い出なんだよ」

先生達の言葉を無視できなかったのは、いつも心のどこかで、楓に釣り合っているか不安があったからだ。ただ私は、先生達からどう見えていようと、楓の努力が報われるように誰よりも願ってた。

「アホだね芙由は。その話聞いてたら、別れるのは間違ってるって言うよ? でもさ……本当に好きだからなんだって、ウチはわかるよ」

怒っているような口調だったカンナが笑う。その笑顔が妙に心地よくて、でも顔を見合わせて笑い返すのは照れくさくて、髪を耳に掛ける仕草で誤魔化した。

文化祭準備に追われている生徒達の声に紛れて、2人して鼻をすする。

熱っぽい風が横切り、濡れた頬を乾かしていく。


――もし私が品行方正な優等生だったら、と後悔せずに済んだのは、いまの私の側にはカンナがいるからだ。お互いの髪を染めて、ピアスを開けて、授業をサボって怒られて。カンナと過ごしてきた時間は、もしも話でも失いたくなかった。

「……よしっ! ちょっと自販機行ってくる! 芙由と春先生は何がいい?」

飛び跳ねる勢いで立ち上がったカンナにハッとして、フェンスの方へ視線を振る。

「ブラックコーヒーをお願いします」
「がってん! アイスだよね。芙由は?」
「えっ、あ、カフェオレ?」

リクエストが出揃うと、カンナは一瞬にして階段の下へと消えていった。限界まで開け放たれて止まったままのドアにも気づいていない。

本来のカンナが戻ってきたのは嬉しい。だが、参った。一糸先生の存在を完全に忘れていた。

突然訪れた気まずさを紛らわすために、折り畳んでいた足を伸ばす。ゆっくりと立ち上がり、屈伸してみる。さして関心はないけど、フェンスに歩み寄り、遠目にグラウンドを眺めてみる。

「悪かった」

それは、雨の最初の一滴に似た謝罪だった。姿勢悪くフェンスにもたれながらも、一糸先生の瞳はしっかりとこちらを見ていた。

「なんの話ですか?」
「くだらないって言ったこと」

ふいと流れた一糸先生の視線が、記憶を遡っているかのように空を仰ぐ。

「前に、綺麗な涙ってなに?って訊いたけど、さっきお前を見てて分かったよ。あの絵はたぶん、綺麗な涙で正解」
「……なに言ってんですか」

唐突過ぎる話題を笑い飛ばそうとしても、端麗な横顔はピクリとも笑わない。

初対面のモッさんは、私の想いを『くだらない』と一蹴した。だから私は、一糸先生は信用に足らない、と判断し続けていた。

私にとっては全てを否定する一言。でもこの人にとっては、記憶にも残らないほどの些細な一言。――勝手にそう思い込んでいた。
「なんつーかさ、虚勢を張ってでも守りたいって、凄いことだよ」

一糸先生の視線が再びこちらへ返ってくる。私がモッさんの前で大泣きしていたときは、こんな風にしっかりと目が合ったことはなかった。

「別れを選べるほどの、その想いの深さとか純粋さとか。そういう真っ直ぐな感情って、意として得られるもんじゃないだろうし、馬鹿にする方がバカだよな」

一糸先生がゆっくりと紡いでいく言葉に、しかと耳を傾ける。
こんな謝罪も感想も欲していない。全てを理解したかのように寄り添って欲しいわけじゃない。それでも――。

堪らず瞼を閉じると、必然的に涙が零れた。

「お前が悪態をついてくるのも、宿泊研修の一件で何も話そうとしなかった理由(わけ)も、今ならなんとなく分かる」
「……すみませんでした」
「いや、悪いのはこっちだし。大事なもんを傷つけておいて、信用しろってのが無理な話だろ」

決して揺らがない、切れ長で鋭い目。横一線に引かれた、薄い唇。
私がぎこちなく笑い返してみても、一糸先生が表情を緩めることはない。

――だからこそ、一歩踏み出せた。

「一糸先生、それは本心ですか?」
「本心だよ。お前が相手だと繕う意味もないしな」

過去の経験は消えない。でもからめ捕られないように、静かに息を吐き切る。

「じゃあ私も。今後はちょっとだけ、一糸先生を信用することにします」
「……好きにして下さい」

たった一言で心が凪ぐ。夏空の下にいても、乾いた温風が髪をさらっても、身体の奥でくすぶっていた熱が引いていく。

相変わらず無愛想な言い方だったが、口元が少しだけ綻んだ瞬間を、私は見逃さなかった。一糸先生が本心だと言ったのだから、きっとこれが、一糸春が初めて見せた“本物の笑顔”だ。


「ちょーっと待った!」

背後から甲高い声が響き渡り、驚いて出入り口を振り返る。
そこには、閉め忘れていたドアの代わりに、両手に飲み物を抱えたカンナが仁王立ちしていた。

「2人共さ、ウチに何か隠してるでしょ。やたら親しげじゃん!」

どこまでも開放的なはずの空間が、一瞬で凍りついた。ぐんぐんと近づいてくるカンナだけは、その限りではないが。

「カンナ……いつから居たの」
「ん? 芙由は春先生を信じるんだよね? そんで、春先生のことは好きにしてイイんだよね?」

なんだかニュアンスが違って聞こえるけど、今は突っ込んでる場合じゃない。

「冗談なしにどこから聞いて――」
「ストップ! 春先生ってさ、もしかして芙由と公園にいた人? 似てるよね、シルエットとか」

カンナが口にした疑問に、体感温度までもが急激に下がっていく気がした。

なんで? いやいや、おかしい。カンナが知るはずな――い、けど、どうやら知っているらしい。得意げにニヤつく顔が、そう言っている。

「卒業パーティーの日ね、実は芙由を探しに行ったんだよ。萩原は『帰った』って言うのに、電話に出ないからさ」

――――え。

「いや、もし家に帰ったんじゃなかったら心配じゃん。萩原の事もあったし。んで公園に入っていく芙由を見つけたの」

カンナは平然と語るが、私は何にどう反応すればいいのか、固まってしまった。

「でも男の人といるしさー、様子見ながら試しにもう一回電話したけど出ないし。ヤバい状況になったらウチ一人じゃムリだから、とりあえず店に戻って。そこでオジチャンから事情を聞いた、ってわけ」
思いもよらない告白に、一糸先生と顔を見合わせる。

「……お前が情緒不安定なせいでバレたじゃん、ふぅ最悪」
「ちょッ――!」

またこんなタイミングで! しかも人のせいにするとか。相手が一糸先生じゃなければ、そして振り出しへ戻る、だ!

「スタートから猫かぶってるほうが悪いんじゃないですか。私だってモッさ――あの時の人が一糸先生だったなんて、未だに信じられませんけどっ!」
「榎本は『似てる』って言ってたぞ」

2人でいがみ合っていると、高らかな笑い声と2本のコーヒーが割って入った。

「ウチの名推理に乾杯とかしちゃう?」
「しねぇよ」

一糸先生に一刀両断され、今度はカンナが凍りつく。青みがかった髪が陽の光で淡くきらめいて――うん、よく似合ってる。

「……口わっる! こんな春先生ヤダー!」
「カンナ、これが平常運転だよ」

たしかに口は悪いし、第一印象も最悪だった。だが、最悪な出会いではなかった、と今は思える。


カンナとはいつか、一糸先生が話してくれた違う形の“しんゆう”になりたい。



「そうだ、とあちゃん。前に送ってくれた子、夏休みの間だけうちでバイトして貰ってんだよ。タイミング合えば、今度改めてお礼言わせるから」

そう告げた焼き鳥屋の店主が、カウンター越しにビールジョッキを2つ置く。

高校が夏休みに入り、プライベートにも余裕が出てきた今日このごろ。久しぶりに羽を伸ばせる場で、最初の話題がこれか。

「えっ、それって芙由ちゃんのことだよね?」
「よく名前覚えてんなぁ、ハルくんは会ってもないのに」
「まあね……ていうかこの人、いま芙由ちゃんの担任のセンセーだよ」

高笑いする悪趣味な2人をよそに、アトリエから熱帯夜を歩いてきた身体へビールを流し込む。

――――椎名芙由がバイト、ね。

そういえば、夏休み中も文化祭準備が連日行われているが、アイツの顔は見かけていない気がする。バイトには出勤しているのなら、健康上の問題ではない。とすれば、残る理由は一つ。

夏休みの初日、屋上で鉢合わせた椎名芙由は、いつも勝ち気なその瞳に涙を浮かべていた。

『泣いてません!』

目一杯の強がりはいとも容易く見抜ける。じゃじゃ馬を手懐ける手段としては、心の穴につけ入るのが手っ取り早い。

でもこの件に限っては、打算というより、感情的知性が働いたと表現するべきなのだろう。

『今回は喚き散らさないのか?』
『何を喚けばいいか、それすらわかりません』

人の相談に乗るのは得意ではない。元より時間の無駄。

ただでさえ無駄だからこそ、風に攫われそうな声を拾い損ねないように、アイツの一言一句にしっかりと耳を傾けた。


「どしたのイット、すっごい険しい顔してるけど」
「散々笑っといてよく言うな」

晴士をひと睨みしてから、再びビールで喉を潤す。

――晴士との関係は、言い表すなら“親友”なのだろう。だがアイツ等のように口論したところで、どうにかしようとまでは思わない。もし結果的に絶縁状態になっても、仕方ないと割り切れる。要はただの腐れ縁だ。

何でも話せるが、お互いに、自分から何でも話すわけじゃない。タイミングだってある。

「珍しくハイペースだね」
「……まあな」

首を傾げる晴士に言われて初めて、手にしていたジョッキが空なことに気づいた。

おかわりを待つ間に、タバコへ火を点ける。

「なあ晴士、椎名芙由と連絡とってる?」
「とってないよ。イット本当に渡してくれた?」
「ああ」

ちゃんと渡した。晴士の連絡先も、自分のも。

あくまでもホットラインだったし、とっくに処分した可能性もある。まあ、手元に残していたところで、そう易易と他人に相談するタイプでもないだろうけど。……相手が“信用できない人”なら尚更、か。

なんにせよ、いち教師ができることはたかが知れている。わざわざ面倒事に首を突っ込む必要もない。


――そう自己解決したはずなのに、数日経っても、旧校舎で一服しながら考えるのは椎名芙由のことだった。



屋上(ここ)へ来る途中で渡されたピンクの封筒を一瞥し、息が続く限り紫煙を吐き切る。
アイツにもこれくらいの可愛らしさがあれば、どれだけ扱いやすかったことか。
「よかった、春先生いた……」

吸い殻を携帯灰皿へ押し込んだ直後、ゆっくりとドアを開けて現れたのは榎本カンナだった。

似つかわしくない神妙な面持ち、覇気のない声。それらが意味するものは、なんとなく察しがついた。

「どうしました?」
「……芙由と仲直りするにはどうしたらいいと思う?」
「喧嘩したんですか?」
「うん。ウチが悪いんだけどね」

対面していた榎本カンナが、らしくない笑顔を残して視線を下げる。

「……中学のときね、嫌がらせされてんのを誰にも言えなくてさ。でも気づいた芙由がやめろって、堂々と庇ってくれたんだ。だからウチも、芙由がしんどいときは絶対助けたい、けど……バカすぎて上手くできなかった」

再びこちらを見上げた榎本カンナは、寂しそうに笑った。

生徒からの相談なんて、適当にそれらしいことを返しておけばいい。仲介役なんて柄じゃない。
――でも、この笑顔にそっくりな(ツラ)が、脳裏を過ってしまった。

「では明日のお昼、この屋上に集合しましょうか。椎名さんは責任持って連れてきますよ」

榎本カンナと別れると、さっそく目当ての人物に電話をかける。
無機質なコール音は、4回目が鳴り終える前に途切れた。

「なあ、親友に求めることってなに?」
『……は? いきなりなんなの?』

学生時代、晴士は事ある毎にあの笑い方をした。当時は気づかないフリをしていたが、助言を求めるとしたら、コイツ以外いない。

『あのさ、俺にとってのそういうポジ(●●●●●●)ってイットだし、本人に言うの小っ恥ずかしいんだけど』

晴士の言い回しに、だよな、と無言の相槌をうつ。応えを待つ間に2本目のタバコを咥えたとき、スマホの奥で一際大きな吐息が聞こえた。

『イットに絞って話すなら、お前がお前らしくあることだよ。イットらしくいるために俺が必要なら嬉しいし、必要ない場合はそれでいい。お前が荒れてた時期もずっとそう思ってたけど? これでいい?』

不機嫌な声のせいで込み上げてきた笑いを、紫煙に混ぜて吐き出す。

晴士に『お前』と呼ばれたのはいつぶりだろうか。

親の仕事の関係で、晴士とは幼少から互いの家を行き来する仲だった。引っ越しを期に中学の途中から同じ学区になったが、クラスが被ったのは高校の2年間だけ。白と黒、もしくは明と暗と対照的に比喩され、なぜ仲がいいのか、よく疑問に思われていた。

「親友って何なんだろうな」
『んー。センセーってのも大変そうだね』

この腐れ縁は、晴士が手綱を握っているようなもんだ。だからこそ唯一無二と思える。でもアイツらが望んでいる“親友”は、相思相愛の類だろう。

――――しんゆう、か。

「なぁ、今日の夜ひま? 焼き鳥屋行かね?」
『18時には仕事終わるから、そのあとアトリエ向かうよ』
「悪いな」
『いいけど、キモチワルイ話は今回限りにしてよね。じゃまた後で!』

電話を切ると、改めて自分の立場を顧みる。

初めて椎名芙由に会ったとき、どこか自分と近いものを感じた。そして榎本カンナが今日、いつかの晴士と同じように笑った。それならば、教師という建前は関係なしに、首を突っ込む意味はあるのかもしれない――。



暗躍した夜が明けて、計画当日。2人の和解を見届けたものの、同時に、自分の愚かさを突きつけられてフェンスにもたれた。
あの日、店先で泣き崩れている椎名芙由を、ガキの色恋だと邪険に扱った。だが全ての事情を知ってしまうと、あの時見た光景が一変する。

自分を繕っている部分が似てる?
――ありえない。

椎名芙由が気丈に振る舞っていたのは、自分以外の誰かのためだ。ラクだから、という理由で外面を繕っている人間とは全然違う。

『つらくても、大切な思い出なんだよ』

そう微笑んだ拍子に目尻から落ちた涙は、これまでのどんな涙よりも美しく見えた。あの絵を“綺麗な涙”だと表現できたのは、椎名芙由だからこそ、かもしれない。

「悪かった」

隣に並んだ椎名芙由をしかと見据え、その危うくも強い姿に敬意を払う。
弁明は得意ではないが、2つ3つと重ねていくと、ゆっくりと瞬いた彼女の瞳からまた涙が零れた。

――これは、他人が(けが)していいものではないし、汚されないように守るべきモノだ。

教職に就いて、1年と数ヵ月。目の前で絶えず零れ落ちていく涙を眺めながら、初めて、教師のような感情が自然と湧いた。

「今後はちょっとだけ、一糸先生を信用することにします」

そう言った椎名芙由が、目を伏せながら静かに笑う。
大人びた顔が少しだけ綻ぶと、少女らしい愛らしさが垣間見えた。

榎本は納得していたようだが、コイツは結局、“今まで話さなかった理由”を最後まで隠しきった。きっとその判断も誰か、おそらく榎本のためなんだろう。

椎名芙由は強い人間だ。
ただ、深い傷を負わせた教師達が見過ごしていたものに、自分は気づいた。表面からは見え難い彼女の良さを、せめて教師でいる間は大事にしてやりたい。

多少の面倒くささは、椎名芙由の将来への投資。コイツがこれからどう成長していくのか、少しばかり楽しみだ。



滞りなく催された文化祭が終わると、程なくして2度目の衣替え期間に突入した。通学路の街路樹はごくごく一部だけ色づき始めているが、日中の日差しはまだ強い。

壁に掛けておいた夏服と冬服を交互に睨むこと数分。スマホのメッセージ画面を開き、カンナへ相談を入れる。

文化祭準備へ再び顔を出すようになってからは、1日1日が早く感じた。
夏休みが明けると同時にバイトが終わり、文化祭の片付けとともにイベントムードも一掃され、今の高校生活はいい意味で平凡。

ベッドに腰掛けてカンナの返事を待っていると、先に鳴ったのは玄関のインターホンだった。いつもならスルーするが、今日ばかりは足早に階段を降りる。

「カンナおは――」
「残念。おはよう芙由」

ドアを開けながらの挨拶は、キラキラと輝くクリーム色の頭に遮られた。

「え? なんで成弥くん?」
「とりあえず着替えてこいよ、遅刻するぞ」
「え、あっ、ちょっと待ってて」

慌てて部屋へ戻りスマホを確認するが、カンナからの返事はない。どうしよう。

季節感が正反対の制服達を一瞥し、再び階段を駆け下りる。

「成弥くんって冬服……だよね」
「一応な。服装に悩んでんなら、俺と一緒でいいから早くしろ」

玄関に佇んでいた成弥くんは、両手を軽く広げてみせた。
ベースは冬服。藍色のネクタイに、シャツの上にはグレーの前開きカーディガンのみ。ブレザーはなし。

「ありがと。すぐに着替えてくる」

簡単にお礼を言い、急いで支度を再開する。
冬用の制服にベーシュのカーディガンを羽織り、全身鏡の前でネクタイを調整。カンナは年中リボン派だが、私はこの濃い朱色のネクタイが好き。



「で、カンナはどうしたの?」

成弥くんと並んで歩き出すと、私は軽く袖を捲りながら、さっそく本題を切り出した。

「カンナは熱出して寝込んでる。バカでも風邪ひくらしいから、芙由も気をつけろよ」
「ご心配どーも」
「あ、このノート、今日提出だからって遺言」
「提出物で稼がないとカンナは成績ヤバいからね。私と違って!」

遠回しに反論しつつ、ノートを受け取る。こちらを見下ろしていた成弥くんの視線は、小馬鹿にしたような笑みを残して進行方向へ戻った。

2人だけで話すのは久しぶりだが、流れる空気は昔から変わらない。
通行人を避けて瞬間的に肩を抱かれようと、私にとっては、王子様になりえない。

「そういえば、ミスターコン残念だったね。3連覇したかったんでしょ?」

何気なく口にした文化祭の話題に、成弥くんの足がピタリと止まった。

「あれさ、ありえなくね?」
「ある意味伝説だよ。てか歩いて、本当に遅刻するよ」
「……そっか。まあ、伝説ならいいや」

数回頷いた成弥くんが、顔の中央に凝縮されていた不満を解く。

「伝説かぁ。でも、中止より3連覇の方がカッコイイよな」

――――し、しつこい。

今年の文化祭でミスター・ミスコンテストが開催されなかったのは、2年連続で圧倒的な得票数を集めた誰かさんのせいだ。それでも成弥くんは惜しいと嘆く。
『キング』やら『3連覇』やらの称号に、一体どんな価値があるというのか。

「あのさ、ミスコンが隔年に変更されたのは、開催しなくても結果が分かり切ってたからでしょ」
「じゃあ事実上は俺が3連覇?」
「だね。おめでとう」
麗しい王子フェイスが微笑むと、推定1位が確信へと変わる。結局のところ、この(きら)やかさに勝てる男子生徒なんていない。

日頃からカンナが隣にいるので当たり前になっているが、すれ違う人々は、芸能人でも見ているかのように榎本兄妹を目で追う。
今だってそうだ。同じ制服を着て同じ方向へ歩いている学生ですら、わざわざ立ち止まり、私より頭一つ分高い位置へ視線を向ける。

「あっ、あの!」

ふいに背後から聞こえてきたのは、控えめで可愛らしい声だった。

「あのっ、榎本先輩の彼女さん……ですか」

振り向きざまに成弥くんと顔を見合わせ、彼女の悩ましげな瞳につられて、王子の反応をまたうかがう。

「…………」
「ちょっと成弥くん、早く否定しなよ」
「あー、いや、芙由が彼女とかウケるなぁって想像してた」

一応は口元を拳で隠しているが、頬も目尻も、成弥くんの表情筋全てが“楽しい”を描いていた。悪気がないのは分かっているけど、マイペースも大概にして欲しい。

「こいつは彼女じゃないよ」

――――でたよ、黒王子スマイル。

「そうなんですね! ありがとうございますっ!」

一礼した女の子は艶っぽい唇を吊り上げ、軽い足取りで私達の横を通り過ぎていく。

何が嬉しいのか。何が『ありがとうございます』なのか。その答えはなんとなく想像できるが、同情しか湧かない。

「成弥くんってさ、女の子と歩いてるときはいつもこんな?」
「あたりまえじゃん。男と歩いててもこんな」

ほらね。

この人は、常に自分が主役で、楽しければそれで良くて。テキトーな上に軽薄で。外見の良さを強みに、好き勝手振る舞って。おとぎ話でいえば当て馬キャラ、隣国のオレ様王子こそが真の成弥くんだ。

ため息と一緒に、冷ややかな視線を成弥くんへ送る。
当の本人はというと、学校へと続く道の先を真っ直ぐに見ていた。

人混みの隙間で、さきほどの女の子が友人2人と合流し、楽しそうにはしゃいでいる。私の身長でも見えているので、成弥くんの視界にも当然映っているはず……。

素顔を知らない人間からすれば、危険な香りが漂う絶対的な王子様。私から見たその人は、身勝手な自信家。
ただ、極稀にだが、それとは合致しない姿を垣間見ている気がする。

「てかさ、芙由は来年どうすんの? お前らのチャンスは1回だろ」
「またミスコンの話? 出るとしてもカンナでしょ」
「アイツは俺の妹だから上位確定。でも、芙由なら張り合えると思うけど」

成弥くんの自信ありげな顔は、どの言葉に対してのものだろうか。

「暫定のクイーンも卒業だし、お前らで1位争いとか楽しくない?」

無敗の王者だからこそ許される戯言(たわごと)だ。

私がカンナと張り合えるわけがないし、そもそも出る気もない。1位を獲るなんて、もっての外。

「ま、芙由はもう少し自信持てよ。俺の彼女って勘違いされる程度には美人なんだから」

成弥くんの人気はルックスが支えているのだと、つくづく思う。ここまでの自意識過剰っぷりは、もはや才能かもしれない。

「遅刻より告白イベントが多い人に言われてもね。半年でゼロの私が、どーやって自信持てばいいの」
「芙由の場合は、近づき難いオーラ出てるからだろ。お前を可愛いって言ってるやついるよ? 調子乗ったらうざいし、誰かは教えてやんねーけど」

睨み返すと、成弥くんが小さく舌を出す。
私を元気づけているつもりなのか、茶化したいだけか。凡人の私には、王子様の考えなんて計れない。成弥くんと付き合う子はきっと心が広いか、もの好きだ。

人気がある先輩はなにもこの人だけじゃない。それこそ成弥くん界隈の人たちは、学校生活で自然と名前や顔を覚えるほど、生徒たちの話題に挙がる。だが一軍筆頭は紛れもなく成弥くんであり、靴箱につくと、自ずと肩の力が抜けた。

「じゃあな。カンナの遺言よろしくー」
「はいはい」
「あっ、芙由!」

飛び交う朝の挨拶を分け入るように、私の名前が昇降口に響く。

「俺はけっこー好きだよ!」

成弥くんの声は、そのへんの誰よりも大きかった。
周囲から一瞬だけ音が消え、波紋を描くようにどよめきが広がっていく。

――――はあ?
信じられない。なに考えてんだ、このバカ王子は!

自分の影響力を自覚している成弥くんだからこそ、タチが悪い。百歩譲って天然発言だったとしても、待ち受ける結果は決まっている。

案の定、この一件は伝言ゲームのごとく巡り巡っているらしく、休み時間の廊下が普段より騒がしくなった。



昼休みが始まると、すぐさま購買部を経由して、旧校舎の屋上へと逃げる。
バカ王子のせいで最悪だ。

屋上へのドアも、今日はより一層重く感じる。劣化とか、向かい風だからとかじゃない。全ては成弥くんのせい。……いや、自由奔放な兄を頼ったカンナのせいか?

買ってきたサンドイッチとカフェラテを置き、私も大の字になって空を仰ぐ。

薄っすらと白んだ青空の軽やかさに反して、身も心も重い。“注目の的の隣”は慣れていても、人目に晒されるのがこんなにも疲れるとは、想像もしていなかった。

「お、話題の人じゃん」

嫌みったらしい低音ボイスから少し遅れて、バタンッ、とドアが閉まる。偶然か拾い損ねただけか、いつもの鈍い開閉音は聞こえなかった。

「喧嘩を買う元気はありませんよ」

返事をしながら身体を起こす。
この人が購買部のポリ袋を提げているのは、初めてかもしれない。

「ここでご飯ですか?」
「榎本は休みだし、今日は長居しても問題ないかと思って」
「もう正体バレてるのに」

一糸先生がタバコを咥えたことで、私の突っ込みは秋風に流された。

夏休み以来の、2人きりの屋上。でも、フェンスに背を預けながら隣で佇むこの人も、この距離間も沈黙も、今ではなんら疎ましくない。

「お前スゲェな」
「ふぁい?」

カフェラテのストロー穴に照準を定めていたせいか、頭上から降ってきた唐突な褒め言葉に、変な声が出た。

「フッ……いや、1年の椎名芙由が王子を落としたって噂だけど」
「嘘でしょ! そこまで話が膨らんでるんですか」

首の可動域限界まで見上げると、一糸先生はブハッと煙玉を吐き出し、顔を背ける。

「……何がおかしいんですか」
「色々と。でもまあ、ありえないよな。つい最近まで元彼のことでビービー泣いてたのに」

認めたくはなかったが、そうですね、と答えるしかない。
この人の前では、既に2度泣いている。私にとってそれは失態で、でも、だからこそ『ありえない』と理解してくれる存在になった。

「ふぅは意外と一途だもんな」