入学式が終わり、息つく間もなく催された宿泊研修の最終日。生徒達が全員帰路に着くと同時に、教師陣の顔が一斉に緩んだ。
「春先生も慰労会行きますよね」
「すみません、週末は予定が入ってまして。朝が早いので今回は遠慮しておきます」
適当な言い訳を並べ、今日最後の作り笑いを桜井先生へ返す。
サービス残業なんて冗談じゃない。
荷物を車へ放り込むと、まずは一服。肺の奥深くまで浸透していくスモークを2度堪能してから、エンジンをかけて走り出す。
ガキ共と過ごす2泊3日は地獄も同然だったが、個人的な収穫はあった。
椎名芙由はおそらく、例の女の子と同一人物だ。こちらを一切信用していない態度からして、ほぼ間違いない。
その一方で、椎名芙由はこちらに気づいていない可能性が高い。警戒しているわりには焼き鳥屋の話題は出ないので、表面上、普通に接していれば今後もバレないだろう。
ただ、今回の宿泊研修では新たな問題も発生した。
早くも精神的問題児っぷりを発揮しはじめた、椎名芙由。
本人が詳しく話したがらない以上、いくら追求しても無意味なのは分かっている。それでも、なかった事にはできない。
――――気に食わねぇ。
消化不良な感情を持て余したままアトリエへ着くと、駐車スペースの一角に見覚えのある車が停まっていた。
「いつから待ってた?」
「さっきだよ。今日帰るって言ってたから、土産話を聞きに来た」
近づいてきた晴士が、両手に持った半透明のビニール袋を掲げる。ずっしりと中身が詰まっているそれは、たぶん、ビールとつまみだろう。
「で? 女子高生とあまーい体験はしましたか?」
部屋へ入りお互いがソファの定位置に沈むと、さっそく晴士からの詮索が始まった。
「例の生徒、やっぱ同一人物っぽい」
「うわっまじで!? まぁ、とりあえず乾杯」
ビール缶を突き出す晴士に、同じ仕草を返す。
喉の奥へと一気に流し込んだそれは、冷え具合がやや物足りなかった。それでも、思わず笑みが零れるほどに美味い。
晴士が『さっき来た』と言えるような奴だからこそ、今があるのだろう。
「悪い晴士、ちょっと場所移動する」
「えっ、いきなりどしたの?」
「しばらく筆握ってないから、描きながら話そう」
作業部屋へ移ると、まずは隅に寄せていたテーブルと椅子を持ち出し、簡易的な宴席を作る。
「で、もしかしてイットの本性がバレたの?」
「いやバレてない。でも、ちょっと厄介」
幾度となく同じ状況を経験してきた晴士を相手に、今更指示なんて必要ない。会話を続けながらも、テーブルセッティングは滞りなく進んでゆく。
「厄介ってさ、“一糸先生にとって”ってこと?」
「そう。ある先生のタバコが紛失したんだけど、例の子が持ってたんだよ」
呑みの席が完成したら、次は作業スペースだ。
テーブルから少し離れた場所にイーゼルを設置すると、隣に丸椅子を2つ並べ、その上にパレットと溶き油を置く。これで準備完了。
一息つくためにテーブル側の椅子へ腰を下ろし、もう一度晴士と缶ビールをかち合わせる。
「それで? 失くなったタバコ、その女の子が盗ったってこと?」
「簡潔に説明すると、先生のタバコが失くなった。ある生徒達が、トイレでタバコの匂いがするって報告してきた。荷物検査をする直前で例の子が、自分が持ってると言い出した。って感じ」
改めて振り返ってみても、やはり辻褄が合わない。晴士も何かしら違和感を覚えたのか、大事そうに両手で握っていた缶ビールを手放し、頬杖へ切り替えた。
「単なる不良少女ではないんだよね?」
「たぶん椎名は吸ってない」
数秒の沈黙ののち、晴士がいつぶりかのため息を吐く。
付き合いが長いと、その分だけ共通する記憶も多い。
きっと晴士は、高校時代の一片を顧みているのだろう。とはいえ自分達が高校1年のときに遭遇したのは、もっとシンプルな不良の違反行為だったが。
「……椎名ちゃんねぇ」
ぽつりと呟いた晴士を一瞥してから、テーブルの端に置いていたタバコへ手を伸ばす。一口目を吐き出した瞬間に目が合ったが、晴士は小さく微笑んだだけだった。
「俺が感じた矛盾は一つなんだけど、答え合わせする?」
「事前告知、だろ」
「さっすがぁ!」
生徒から密告があった場合、荷物検査の事前説明はまずない。今回も、トイレでタバコの匂いがする、と報告が入ったことは椎名には伝えていない。
だがアイツは、荷物検査という言葉を聞いただけで、『自分が持ってる』と言い出した。
「でもさ、それだけじゃ吸ってた可能性を否定できないよね。罪悪感があったから、荷物検査とタバコが直結しただけかもよ?」
確かに、深夜のロビーで対面するまでは、可能性はまだゼロじゃなかった。
晴士への説明では端折ったが、矛盾点は他にもある。
タバコを所持している背景は主に2つ。自分で持ち込んだか、もしくは、先生のタバコを拾ったか盗ったか。
椎名は最初、『私のです』としか言わなかった。だが『沢村先生に返しておく』とカマをかけたら、納得していた。つまりは、『私のです』という言葉は、“誰の私物か”を指しているわけじゃない。
「先生のタバコが行方不明なのは椎名も知ってた。いくらでも嘘がつける状況で、でも、『自分のだ』って言い張ったんだよ。そんなんさ、全て解った上で『誰かを庇ってます』って言ってるようなもんだろ」
納得したと言わんばかりに晴士が頷いたので、残りの言い分はビールで流し込む。
アイツはタバコの香りに興味を示さない。
――何年もの間、上手く隠せているつもりのお前と違って。
「何で正直に話さないのかな?」
「わからん」
晴士に関しては口を出せる立場じゃないのでいい。いま考えるべきは、椎名芙由についてだ。
残り短かったタバコを灰皿へ押し付けると、キャンバスの前へと移る。
「話さない理由に心当たりは?」
「なくはない」
まずは黒。
「その子は誰かを庇ってるんだよね」
「相手は察しがつくけど、そいつもタバコ吸うとは思えない」
そして青。
「下手したら停学でしょ。今どき喫煙で箔が付くわけでもないだろうに、やってない罪を被るかなー?」
「そこなんだよ、問題は」
最後も黒。……いや、白? 塗り直しを想定するなら、白がラクか。
「理由がわかんねぇから面倒くさい」
キャンバス全体に色を伸ばし終えると、晴士の向かい側へと戻る。
「イットが関心を示す子、ね。お気にちゃんだね!」
「違うだろ」
「確かその子、綺麗系って話だったよね。会いたいなー」
「一生会うことはないだろうな」
鼻で笑い飛ばせるほどのくだらない戯れ言。そう思っていたのに、『一生』が覆されるまであまり時間はかからなかった。
――晴士と椎名芙由が顔を合わせてしまったのは、奇しくも正体がバレた日。
「ちょっと! 送るとしても遅すぎじゃない? 梱包まで全部一人で終わったんだけど」
「ああ、悪い」
椎名芙由を途中まで送った後、焼き鳥屋で一息ついてアトリエへと戻ると、晴士は休憩室で既にビール缶を2本空けていた。
「まさか本当に送りオオカミ」
「違う。つかお前、なんであんな来るの早かったの?」
「だからさぁ、間に合いそうだよ、って電話入れたんですけどー。出なかったのはそっちじゃん!」
手土産として包んで貰った焼き鳥をキッチンに置き、ソファへ腰掛けるよりも先にタバコへ火を点ける。
「……あの赤ずきんちゃんが例の子でしょ」
確かにアイツの頭は赤いが、童話の主人公みたいな初々しさはない。ついでに、狼に襲われてもいない。
「ガードが硬そうだね。元彼でも引きずってるパターンかな」
「お前のそれ、わざとだろ」
笑いながら腰を上げた晴士は、冷蔵庫から2本の缶ビールを持って戻って来た。電話の件とイタズラと、これで手打ちってことで、乾杯してからビールを開ける。
「にしても、イットがあんな庇い方するとはね」
「人のことからかって、さぞ楽しかっただろうな」
「イットがあからさまに嫌そうな顔するから、ついね」
何がつい、だ。
「まぁあれはやりすぎだったかな、ごめんね。――てことで、次はイットの番」
「は? 電話に気づかなかったから謝れって?」
「違うでしょ! 服に匂いが染み付いてるよ!」
「ああ。シンクのとこに土産置いてる」
晴士は不満げに鼻を鳴らすと、手近にあった紙とペンを取り、スマホを弄りだした。
「これ、芙由ちゃんに渡しといて」
一度折り畳まれた紙を、また開く。そこに書かれていたのは、晴士の連絡先だった。
「なんで」
「口実は何でもいいよ。俺が仲良くなれたら、芙由ちゃんが秘めてるものを引き出せるかもよ? イットよりも適任だと思わない?」
晴士の意見は、たぶん正しい。
少し距離が縮まったと思っても態度は変わらないし、椎名芙由には絶対的なラインがあるようだった。アイツの扱い方が分かるなら、頭を悩ます必要もなくなる。
「余計なちょっかい出さないって保証は?」
「俺がイットの敵に回ったことある?」
悪い話……では、ないか。
「渡すだけ、だからな」
衣替えの移行期間が終了し、梅雨真っ只中。なんでも今年は空梅雨らしく、登下校だけでじんわりと汗ばむ日もある。
とはいえ、冷暖房が完備されている教室だと、窓際の席は日差しが心地いい。
――ただ、問題が一つ。
ふとした時に視界へ入ってくる空模様だけは、どうしても好きになれない。
既に夏空と呼べそうな青と、掴めそうなくらいの質量を感じる白。このコントラストを見ると、否が応でも一糸先生の絵を思い出してしまう。
『晴士が悪かったな』
一糸先生がそう呟いたのは、あの日の帰り道。街灯に照らされた一本道を歩きながら、隣にあった先生の顔を盗み見たときのこと。
「あの……訊いてもいいですか?」
「なに」
「環境に応じて変化できる、ってどういう意味ですか? 焼き鳥屋では『とあちゃん』だったのに、何で晴士さんは『イット』なんですか?」
「質問多いな」
面倒くさそうにこちらを見下ろした先生は、いきなり私の肩を押し、ここ左――と進路変更を促す。
私達の会話は、まるで独り言を言い合っているようだった。少しの沈黙で夜道に解け消えて、やはりこの質問も有耶無耶にされるのか、と思った。
「人付き合いとかそういうの。周りの環境によって、一番ラクなキャラクターってあるだろ」
半歩ほど前を歩いていた先生が、角を曲がった先の自販機で立ち止まる。
「お前が知ってる一糸先生も、親しまれやすさを考慮した上でのキャラって感じ。とりあえず上手くいってるし、本性バラすのだけはやめて。あ、これ、飲む用じゃなくて暖とる用な」
先生から差し出されたのは、モッさんが買ってくれたカフェオレと同じだった。
「あとは何だっけ? あだ名?」
「あっ、はい」
「えーっと、元々が『イット』で、高校に入ってから『とあちゃん』になった。簡単に言うと、『とあちゃん』も都合のいいキャラってやつだよ」
淡々と話す先生にならい、一旦止めた足を再び踏み出す。両手で缶コーヒーを握りしめると、指先から熱が伝い、足取りまでわずかに軽くなる。
「……いくつもあだ名あるんですね」
「羨ましいか?」
「そういう意味じゃないです」
「あっそ。素直じゃねぇな」
嫌味ったらしく口角を上げる先生を見て、思わず顔を背けていた。
「お前が愛嬌ってのを覚えたらまた呼んでやるよ」
先生の余計な一言で、その『また』が頭の中で繰り返される。
ある意味、晴士さんの冗談よりタチが悪い。いまこの人はモッさんなのか、一糸先生なのか。それともイットか、とあちゃんか。
――結局この奇妙なシチュエーションは、見知った公園を素通りし、いつかと同じ道を辿り、焼き鳥屋まで続いた。
「では、終礼は以上です。あっ椎名さん、ちょっといいですか?」
名前を呼ばれて教壇へ目を向けると、一糸先生がにっこりと微笑んだ。
既に本性を知っている身としては、もうため息すら出ない。
生徒達が続々と帰っていくなか、渋々教卓を挟んで立った私に、先生は教師然とした態度を貫く。
「この後、いつもの場所で待ってます」
――――は?
いつもの場所って、旧校舎の屋上? なんで? 放課後にわざわざ? カンナがいたらマズイ話?
先生は何の説明もせずいなくなるし、わけがわからない。……けど。
帰り支度中だったカンナに声をかけて、教室を出る。
自分勝手な誘いなんて無視すればいい。先生が本当に、自分勝手な人なら。
『アトリエにあった青い絵、途中って話でしたけど、何をイメージして描いてるんですか?』
――あの帰り道、私はもう一つだけ質問した。
夜道を並んで歩きながら、先生が一瞬こちらを見た気配がした。
『それ答えただろ。まだ構想中だから、自分でも何をどう描きたいのかハッキリしてない。強いて言えば、人の中にある何か。あると分かってるけど、見えないからわからない何か』
想定外な反応に、私は首を傾げた。
『構想中って……あれ、答えだったんですか……?』
『は? 質問されたんだから、答え以外に返すもんなんて無いだろ』
私もその通りだと思う。でも、大人達は必ずしもそうじゃない。
あの日、先生は全ての質問に真っ直ぐな答えをくれた。2度目の質問に呆れはしても、なに一つ有耶無耶にはされなかった。
だから、一糸先生が人目を避けてまで呼び出すのなら、私は旧校舎へ行く。
この程度なら、素直に応じても惜しくはない。
毎日のように開閉している、屋上への重い鉄扉。これは、どれだけ慎重に押し開けてもギーッと鈍く唸る。こちらの都合なんてお構いなしだ。
「椎名さん。呼び出してすみません」
至る所から聞こえる喧騒のなかで、一人分の声だけが輪郭を保ったまま耳に触れる。つまりは、ほんとに2人きりということ。
フェンスに背を預けていた一糸先生の横に並ぶと、私は黙って景色を眺めた。
「……雨降らないまま7月になりそうですね」
「そうですね」
「期末が終わればあっという間に夏休みですし、文化祭の準備も始まりますねぇ」
一糸先生はタバコも吸わず、よそよそしい世間話を続ける。
まさかただの暇潰し……なワケないだろうけど。まあ、とりあえずは流れに乗る。
「私達のクラス、お客さんが殺到しそうですね」
「殺到、しますか?」
「だって陽平と先生、体育祭の後から人気急上昇みたいですし」
ひと月ほど前に終わった体育祭で、青組は惜しくも総合2位だったが、ラストの組対抗リレーでは多くの生徒達を湧かせた。
3人ごぼう抜きを披露した陽平と、上位接戦を単独首位へと変えた一糸先生。ついでに、アンカーとして1位を守りきった成弥くん。この3人の名前は、今でも様々な場面で耳にする。
だから本来ならば、こんな形で2人きりにはなりたくない。
「先生、一つ訊いてもいいですか?」
「どーぞ」
「送り狼、ってなんですか?」
私からの質問に、彫刻のようだった横顔が歪んだ。
「……この前からさ、お前ばっかり質問して不公平じゃない?」
持ち前の眼力でチラリと威嚇した一糸先生が、ズボンの後ろポケットからタバコを取り出す。
実のところ、『送り狼』については既に調べた。だから今回は有耶無耶も許す。この建前だらけの空気を変えられれば十分。
「そういえば、あのあと晴士さん怒ってませんでした?」
笑いを堪えて話題を変えると、今度は目尻だけがピクッ、とよくわからない反応をした。
「別に。からかった晴士への仕返しだし、お前が気にすることじゃねぇよ」
あの日、アトリエで作業を続ける晴士さんを放って、一糸先生は焼き鳥屋の中へ消えた。私が知っているのはここまでだが、触れないほうがよかっただろうか?
「……からかわれたの、私ですけど」
「これ以上なにか訊きたいなら、まずはお前が答えろ。タバコの件について」
これ見よがしに、薄い唇の間から白いモヤが吐き出される。胡散臭い教師の仮面を剥がすのには成功したが、この流れは予期していなかった。
少しばかり、現実を見失っていた気がする。
一糸先生はあくまでもオトナで、先生だ。私の大事なモノを、くだらないと切り捨てた人だ。どれだけ対等に扱ってくれていても、同じ目線で物事を捉えてくれるわけじゃない。
「……じゃあいい加減、本題に入ってくれませんか」
じんわりと沸き上がってきた苛立ちが、フェンスを握る手に伝っていく、
先生が空を仰ぐと、フェンスが軋み、握ったままの左手が微かに引っ張られた。
「本題はこれ」
ストライプシャツの胸ポケットから出てきたのは、ヨレた2つ折りのメモ用紙だった。中身は、携帯番号とメールアドレス、SNSのID。そして右下に【晴士】の文字も――。
「どういう事ですか」
「渡せって言われた」
意味がわからない。
「連絡くれってことですか?」
「好きにすれば」
端的なやり取りを繰り返していた横顔が、一拍おいて吐息を漏らす。
「それと、これ」
またもや先生は、次はタバコの外装フィルムからメモ紙を引き抜いた。さきほどよりもピンと真新しく、書かれている携帯番号もメールアドレスも違う。
「もし晴士に連絡するなら、先にこっちに報告入れて」
つまり、この走り書きは先生の連絡先らしい。
「晴士は悪い奴じゃないし善悪も弁えてるけど、まあ念のため」
言い終えると、先生は残り短いタバコを口へ運んだ。相変わらずの無表情だが、一応は心配してくれているのだろうか。
「たぶん、一生連絡しないと思いますけど」
「どうだろうな」
鼻で笑いながら、先生がタバコを携帯灰皿に押し込む。
「あ。それ、プライベート用だからバラすなよ」
「……私に教えていいんですか?」
「一応担任だし、子守りする義理があんだろ。じゃ、お疲れ」
片手を上げて去っていく先生を、今度は私が一笑してやった。
フワフワと風に揺れる暗髪と、スマートな後ろ姿。いつだか私を庇うように立ちはだかった広い背中が、いまは似て非なるものに見える。
――――なにが子守りだ。
屋上に来てよかった。教師とは親しくなれないと、改めて実感できた。
隠したい一面を知っているのはお互い様なのだから、要はプラマイゼロ。一糸先生らしく、そして椎名芙由らしく在るには、互いに干渉しなければいいだけ。
私は家へ帰ると、貰った2枚の紙を自室のキャビネットに封印した。
これで全て元通り。
実際、夏休みまでの約1ヵ月の間に、この日の出来事は頭の片隅で薄らいでいった。
「カンナ、カタログ貰ってきたよ」
「芙由パシってごめん! マジで助かる!」
「衣装の生地、発注ミスだけは気をつけろって」
終業式を終え、待望の夏休みがスタートしてから30分と少し。
自席で数枚のプリントと睨み合っていたカンナは、大げさに顔をしかめながら、月刊誌ほどの分厚いカタログを受け取った。
「午後から文化祭の打ち合わせだよね? 待ってようか?」
私が尋ねると、カンナは顔を伏せて力なく手を振った。
「何時に終わるかわかんねーのさ。それより明日からの準備、ちょっとでいいから手伝って?」
眉尻を下げ、大きな瞳がこちらを見上げてくる。私の返事は分かりきっているのに、わざわざその答えを引き出そうとする顔だ。
「はいはい、じゃあ明日ね」
「やったーッ! 朝迎えに行く!」
満面の笑みに見送られながら、文化祭委員であるカンナを残して教室を出る。
高校初日に委員決めのクジをしたとき、イベント実行委員は期間限定の役回りで魅力的だった。私の結果は“白紙”だったわけだが、今のカンナを見ていると、ならなくて良かったとつくづく思う。
9月中旬に行われる我が校の文化祭は、漫画さながらの最大級イベントと言っても過言じゃない。各所に割り当てられた経費が多い分、催しの自由度が高く、週末3日間を通して大勢のお客さんが訪れる。
――おかげで、というか受験生への配慮もあり、準備は任意参加で夏休みから始まる。らしい。
まあ、なんだかんだ準備の方が楽しかったりするし、できる限りの手伝いはしたい。と……思っている……けど。
翌朝、いつも通りの時間に来たカンナに起こされ、少しだけ殺意を覚えた。
「ねえカンナ、今日って何するの?」
学校までの道すがら、まずは本日の予定を確認する。
「芙由は衣装担当だよ。ウチと一緒!」
「ん? 生地の発注もまだだよね?」
「だから生地決めから手伝って貰いたいの! あとね、パターン?ってのが用意されてるから、実際の生地が届くまでの間に色々と練習するってさ」
カンナの話を要約するに、私は最初から最後まで手伝う、ということらしい。
「段取りとかは昨日決めといたから、カンペキ!」
親指を立てて、カンナがニカッと笑う。これだけで、まあいいか、と思えてしまうから不思議だ。
教室へ入ると、真っ先に目についたのは、黒板に書かれた役割分担表だった。
私達のクラスは協議と抽選の結果、和風カフェを行うことになった。
飲食系は当日が大変だとウワサで聞いたが、衣装に装飾にメニュー考案にと、準備段階でも結構な人手が必要らしい。役割り表を見た限りでは、の話だが。
快適な空調のおかげで火照りが引いていくのを感じつつ、教室内を見回す。半数ほど集まっているクラスメイトの中には、裏ボス達の姿もあった。
あの3人組が手伝いに参加するなんて意外……でもないか。陽平や要と会える機会を逃すはずがない。
だが、裏ボス達の思惑は外れたようで、残念ながら彼らの姿は見当たらなかった。
「ねえカンナ、陽平と要は部活?」
「うん! 昨日、ゴメンねってメッセージ貰ったよ。時間が空いたら顔出すって」
「そっか」
各々のロッカーにバッグを突っ込むと、教室の後方に集まっていた衣装班へ加わる。裏ボス達はメニュー班のようだが、これはカンナの配慮だろうか。
「ねぇねぇ、芙由ちゃんは誰かと回るの?」
作業を始めてわずか10数分。ひとりの女子生徒から、至極自然な流れで話を振られた。
イベント前に盛り上がる話題といえば、大体決まっている。誰々くんを誘ってみるとか、後夜祭で告白するとか、せめて接点だけでも作りたいとか、それぞれに計画があるようだ。
「んー、たぶんカンナと一緒じゃないかな?」
「ウチはムリでーす」
隣で壁を背にだらしなく座っていたカンナが、生地カタログから視線を上げる。
「実行委員の忙しさナメんなよぉ?」
「そんな大変なんだ」
「ウチは委員なわけよ。他の人より責任あるし、当日も頑張らないと! でしょ」
見た目に反した真面目さに、思わず口元が緩んだ。
クラスメイトは『早速フラれたね』と笑い話へ変えるが、私としては、カンナの良さに注目して欲しいところ。
カンナの場合、外見の派手さが際立ってしまうけど、彼女の魅力はそこだけじゃない。整いすぎた顔のせいで敵も作りやすいが、敵になる女子は、決まって中身まで見ようとしない。
「ってことなんで、芙由チャンは他に回る相手見つけてね。たとえばぁ……」
「例えば?」
「陽平とか要とかさ。あ、この柄可愛くない?」
何を言うかと思えば。今回の班分けは裏ボス達を意識したわけではなく、ただの偶然だったのだろう。
切り替えるべく静かに息を吐き、カンナの横からカタログを覗き込む。
「……あと、はぎわら」
「えっ?」
ふいに聞こえた名前は予想外なもので、反射的に視線をカンナへ戻した。
「萩原達とかさ、中学ん時の友達って誘ってないの?」
「うん。楓とは連絡も取ってないし。別れたんだから、それが普通じゃない?」
私の問いかけに応えるように、カンナも遅れてこちらを見返す。でもそこには、無邪気な笑顔が標準装備の、私が知っているカンナはいなかった。
「今まで触れずにきたけどさ、何かあったよね?」
ガラス玉のような瞳にじっと見つめられ、心臓がドクンと反応する。
「……え? 何が?」
「昨日、学校の帰りに萩原に会ったんだよね。芙由は元気かって聞かれたよ」
カンナは無意識なのかもしれない。けど、普段よりも威圧的な喋り方が、神経を逆撫でる。
「別れた相手を真っ先に気にするなんてさ、まだ気持ちがあるってことだよね?」
「さぁね。楓の気持ちなんて知らないよ」
視線をカタログへ落とすと、湧き上がってくる感情を掻き分け、冷静さを引っ張り出す。これ以上、この話を引き延ばしたくない。
「萩原が『嫌いで別れたわけじゃない』って言ってたんだから、フッたのは芙由だよね」
――――やめて。
「ずっと側で見てきたから思うのかもしんないけど、……高校が離れるから別れるって話、正直信じてない」
「そんなこと言われても困るんだけど」
にぎやかな教室内でカンナの声だけが徐々に温度を失っていき、同調するかのように、私の言葉まで冷たくなる。
「芙由はさ、萩原との関係をすごく大切にしてたじゃん。だからこそ付き合うまでに時間かかったんでしょ?」
――――やめて。やめて、聞きたくない。
「不安ってだけで一方的に終わらせるとか、ありえない。ウチが知ってる芙由は、そうならないように動く人だもん」
強情でカンナらしくない声が、これでもかと心を掻き乱す。
別れる以外、私にできることはなかった。そう打ち明けたらどんな反応が返ってくるか、簡単に想像できる。
本当のことは言えない。言いたくない。
「……私が自分の都合で動くのって、そんなに変かな?」
何も面白くないけど、全ての感情を打ち消して笑顔を作る。
たった2つだ。どんなに思いを巡らせたところで、当時も今も、私が守りたいのは楓とカンナだけ。
「そういうことじゃない。……せめて、相談して欲しかったって話だよッ!」
荒々しく言い放たれたカンナの胸中は、最も聞きたくなかった言葉――私の弱さを突く言葉だった。
楓の中にはまだ私がいる。その事実が、嬉しい。苦しい。イタイ。
カンナに見透かされていたことが、恥ずかしい。嬉しい。申し訳ない。
――これ以上は、もう抱えきれない。
「……なんで全部話さなきゃいけないの」
「え?」
「カンナには関係ないでしょ」
頭も心臓もやけに冷静で、ロッカーからバッグを取る余裕すらあった。
「芙由ッ!?」
カンナの声、周囲のどよめき、全てを突っぱねて教室を出る。
一応は夏休みだが、文化祭の準備に部活に、校内はどこも人が溢れている。ひとりになれる場所は、私が知っている限り一か所しかない。
相変わらず鈍く唸るドアを押し開けると、一面を覆う鮮やかな青空に目を細め、その熱気の中へと踏み入る。
「どうした?」
突然聞こえた声にビクッと肩がすくみ、反射的に顔を左へ振った。
「……なにがですか」
ドア沿いの壁にもたれていた一糸先生が、気怠そうに空を仰ぎ、煙を吐く。
この人が最悪なタイミンで登場するのは、これが初めてじゃない。だが生憎と、今はお上品に振る舞う気力もない。
「何がって、泣いてんじゃん」
「泣いてません!」
きっぱりと否定してから、先生と距離を取るべく、フェンスへ向かって歩き出す。
程なくして、ギィッ、と情けない音が背後で鳴った。その余韻が消えるまで待ち、目元を拭う。
……カンナは、どう思っただろうか。怒っているだけならまだいい。でも、もし心配させていたら。
自分が不甲斐なさ過ぎて、フェンスを握る手に力がこもる。
7月らしい熱を孕んだ風。嫌でも聞こえてくる、生徒達の楽しげな声。その一つ一つを肌で感じながら、込み上げてくる悔しさを鎮めるために、目を閉じる。
――直後、背後でまたドアが唸った。
先生は既に出て行ったので、これは誰かが来た音だ。それがカンナかもしれないと思うと、振り返るのが怖い。
身動きとれずにいると、掴んでいたフェンスが軋み、人の気配が左に並ぶ。
諦め半分で隣を盗み見て、唖然とした。
「何でいるんですか?」
「お前には弱み握られてるようなもんだし、優しくしとかないとな」
フェンスに背を預けて佇む一糸先生が、視線だけをチラリと向ける。
「落ち着いたか?」