幻燈ショー ~苦いだけの恋じゃない~


「晴士、もう焼き鳥屋着いてる?」
『いま来たとこ。状況はおっちゃんに聞いてるから大丈夫だよー』
「悪いな、もう少ししたら戻るから」
『ほーい! じゃあ後で』

電話を切ると、自販機でブラックコーヒーとカフェオレを買う。冷たい外気に晒され続けていたせいか、缶コーヒーの暖かさがじんわりと痛かった。

10代半ばの女の子を一人で公園に残しているので、モタモタしている暇はない。

「何やってんだか」

公園への道を引き返しながら、頭に浮かんだ言葉を呟いてみる。吐き出した分だけ深く息を吸うと、微かに残っていた酔いまで醒めていく。


店の外へ出たのは、晴士に電話するためだった。すぐに戻るつもりだった。アイツが店先で泣いていなければ、今頃は旨い飯とビールと、他愛もない会話を楽しんでいたはずだった。

今後は毎日のように、こんなガキ共の相手をするんだ。……想像しただけで気が滅入る。

さきほどより大きくため息を吐いたところで、状況は変わらない。空気の冷たさも変わらないから、歩く速度も変えられない。

見限るタイミングは何度もあった。

でも、そうしなかったのは自分だ。


公園へ戻り、2本目のカフェオレを渡し、頃合いになったら焼き鳥屋への道をまた戻る。
大人しくついて来ているかと振り返ると、例の女の子は、店先で会った時よりもスッキリとした表情をしていた。

他人に怒りをぶつけた後なのだから、当然といえば当然。でもまあ、キレられ損にならなくて良かった、と思うことにする。


――なぜ、彼女を放っておけなかったのか。
それは多分、少しだけ同調したから。

人付き合いの中で、作られた自分を演じる人間は少なくない。本心を隠して上辺だけで会話を繋ぐ人もいれば、コミュニティに合わせて自身の雰囲気から何から変える人もいる。
でもそれは、ラクだから、という前提ありきの話だ。

彼女が演じる“彼女”は、見ているこっちが顔をしかめたくなるくらいに、息苦しそうだった。

身に覚えがあるからこその衝動、とでも言うのだろうか。気づけば手を伸ばしていたし、去り際にまで余計な世話を焼いてしまった。

『……背伸びは良いけど無理すんな』

ガキなんて好きじゃない。恋人と別れた程度でビービー泣くなんてくだらない。ついでに、自分のことばかり責めるようなクソ真面目な奴も、見ていて気分が悪い。



「おつかれー! 先にやってるよ」
「ああ」

店の中へと戻ると、上着はそのままに晴士の隣へ腰を下ろす。数十分前まで座っていたカウンター席は、さも最初から2人組で来店していたかのようにゴチャついているが、まあいい。

「とあちゃん、ありがとな!」
「どういたしまして」

お礼と一緒に差し出されたビールジョッキは、霜がビッシリと付着していた。

流し込んだビールに身震いするほどの寒さを感じたのは一瞬で、すぐにそれは火照りへと変わる。

「で、可愛い女の子との進展は?」
「キレられて、缶コーヒーを2本奢っただけ」
「え、意味わかんない」
「同じく」
適当な相槌の後で、ビールをもう一口。

晴士が詮索するときは、単にからかいたいだけで、答えに興味があるわけではない。たとえビニール製の女の子を彼女として紹介しても、思う存分笑ってから『イットが良いなら、良いと思うよ』と言うタイプだ。

「ラブの予感はなかったの? おっちゃんからはキレイな子だって聞いたけど?」
「綺麗……まぁ大人びてはいたかもな」

一連の出来事を酒の肴にするのは違う気がして、枝豆をつまむ。

「てっきり野生化して遅くなるかと思ったよ」
「送り狼てきな?」
「そうそう。合コンにも参加しないし?」
「相手は中坊だぞ。犯罪に走るほど飢えてねぇよ」

戯言をモラルでかわすと、晴士は感心したように頷いた。どこまで本気なんだか。

「ところでさ、一糸先生はいつからスタート?」
「2週間とか……3週間?」
「イットにとっては地獄の幕開けだね」

ニヤニヤと楽しそうな晴士を横目に、咥えたタバコへ火を点ける。コイツが茶化しにかかっても乗る気はない。既に、そんな間柄ではない。

「でもさ、お気に入りの生徒とか作ったら、ちょっとは楽しくなるんじゃない?」
「無理。ガキと価値観合わせるだけでも一苦労なのに、親しくなろうとか、どうかしてる」

もし何かが起きて、万が一絆されたとしても……。

――――いや、ないな。


帰り際、『お気にちゃんが出来たら報告してね!』と満面の笑みで念押しされたが、あるわけないと一笑した。タラレバすら成り立たないのだから、晴士の期待に添えるわけがない。

一糸先生(●●●●)のキャラを保てば平穏は守られる。不毛な日々に厄介事はゴメンだ。



――そして迎えた入学式当日、新任教師1日目。

仕事を終えてアトリエへ着くと、いつものようにジャケットを脱ぎ捨て、タバコに火を点けながらソファへ腰を下ろす。
呆ける暇もなく今日の光景が頭を過り、鬱積した感情とともに紫煙を限界まで吐き出した。

ギャーギャーと一向に止まない騒音。教壇から見る烏合の衆。その中で目に止まった、赤みがかった長い髪。

意思が強そうな目元に凝視され、思わず視線を外してしまった。
確信はない。あの時は暗がりだったし、生徒一覧の写真は不自然なほどの黒髪だったから気づきもしなかった。

――――椎名芙由。

――――フユ。

もし、公園で喚き散らした女の子と同一人物なら、アイツは“面倒くさい生徒”確定だ。

見てくれに騙される奴や、先生というだけで従順な奴らは扱いやすい。非常勤としてのたかが1年の経験則だが、大半の生徒がこれに該当する。
でも、彼女は違う。

涙ながらに敵意剥き出しで噛み付いてきたあの子は、大人に反感を抱いていた。もし同一人物なら、“扱いやすい”の真逆をいく、“精神的問題児”がうちのクラスにいることになる。

2度目の白く長い嘆息を洩らした瞬間、無音だった空間に着信音が響いた。
スマホ画面に映る【晴士】の文字に、紫煙を吹きかける。ほんと、タイミングのいい奴だ。

「はい」
『やほー。初日はどうだった?』
「なんか面倒な事になりそうな感じ」
『なにそれ!』

ただでさえ陽気な晴士の声が弾む。電話越しでも、目を輝かせながら面白がっている姿を容易に想像できた。
「……前に送った女の子、たぶん受け持ちの生徒」
『焼き鳥屋の? イット的には最悪じゃん!』
「まだ確定じゃないけど」
『んじゃ、とりあえず探り入れなきゃだ?』

晴士は笑い混じりに話すが、なにも面白くない。なんせこっちは、あの時本性を晒してしまっている。

『あっ、かわい子ちゃんが呼んでるから切るね。順次報告よろしく!』

一方的に切れたスマホをひと睨みして、灰皿の上でタバコを弾く。

探るとは言っても、どうしたものか。
手っ取り早く解決したいが、直球勝負はリスクしかない。もし同一人物であっても、相手が気づいていなければ問題ないのだ。

まずは距離を縮めることから、か。

――そう結論付けた矢先、昨日の今日で早速チャンスが訪れた。


「椎名さんはいつも口数が少ないタイプですか?」

手始めに人柄をチェック――と思ったが、そんな簡単にいくわけもなく。彼女がばら撒いた宿泊研修のしおりを拾っている間に、攻守が変わった。
否、明らかに話題の矛先を替えられた。

だが神様は、まだ見放していなかったらしい。

昨年、講師として雇われていた時から休憩所にしていた旧校舎の屋上。いつものように終業後の一服へ向かうと、そこには椎名芙由が居た。

知りたいのは一つだけ。でも、攻めに転ずるきっかけすらなかなか掴めない。

友人である榎本カンナとは対照的に、椎名芙由はそもそもあまり喋らない。おまけに、こちらを品定めしているかのような、疑いの目を向けてくる始末。
この視線は、人としての査定なのか。はたまた、以前会った人物かの確認か。

何気ない会話の中で様子をうかがってみたが、唯一知れたのは、カフェオレを好む点が同じ、ということくらいだった。



高校生活2日目にして、オリエンテーション宿泊研修初日。朝からジャージで登校した私達は、1時間ほどバスで揺られながら宿泊施設へ向かった。

荷物をそれぞれの部屋へ置くと、すぐに体育館のような場所に集められ、入学式と代わり映えしない話が始まる。
開始から30分も経っていないのに、退屈なことこの上ない。

「バスで爆睡だったね」

密かに聞こえてきた声は、隣に座っていた爽やかイケメンくんのものだった。

私と同じく、委員決めで白紙を引いた人。名前は――――何だっただろうか。

「あ……っと、見られてた?」
(カナメ)が隣で寝ちゃったから、他のヤツと話してたときにチラッとね」

末広な二重の、親しみやすそうな瞳が後ろへ流れる。つられた先で目が合ったのは、両サイドを刈り上げた黒髪の男子生徒だった。

「……かなめ、くん?」
桐谷(キリタニ)要です」

ペコリと会釈した彼を見て、私も慌てて頭を下げる。

「あ、椎名芙由です」
「うん、知ってる。(ミナミ)がそう言ってた」

そうだミナミくん! 白紙の爽やかイケメンくんは、南くんだ。

「南くんと要くんは同中なの?」

要くんのナイスアシストを心の中で称賛しながら、自然に南くんの名前を呼ぶ。あたかも初めから知っていたかのように。

「オレと要は、中学ってか小学校から一緒。な!」

再び後ろへと向けられた視線に、要くんが無言のまま頷く。

「へぇ、じゃあ私とカンナと同じ感じだね」

微笑んだ直後、前に座っていたカンナがこちらへ寄り掛かってきた。

「なになに? いま呼んだ?」

私より何倍も社交的なカンナが加わり、コソコソ話が一層盛り上がっていく。
要くんは物静かなタイプだが、南くんは見た目通りフランクで話しやすい。……なんとなくだけど、2人の関係性だけでなく、その空気感も私達に近い気がする。

2時間ほど続いた先生達のつまらない話の傍ら、すっかり打ち解けた私達は、昼食の約束をして一旦解散した。



「午後から選択授業のお試しじゃん、何にするか決めてる?」
「それ悩むよね」

カンナの質問に応えながら、賑やかな食堂を見渡す。
1年生のみの行事とはいえ、生徒だけでも270名以上の大所帯だ。4人で喋るならできるだけ静かな、長テーブルの端がいい。

「オレ、音楽だけは無理だわ」
「ウチもー! やっぱ春先生の美術かな」

2人の意見に要くんが頷く。個人的には、書道が無難なんだけど。

「ねぇねぇ、一緒にいい?」

私達が食事をはじめてすぐ、昼食トレーを持った3人組の女子が横に立った。その軽やかで明るい声に、カンナがノリよく応じる。
まだまだ空席があるなかで声をかけるということは、同じクラスだろうか。

「なに話してたのー?」
「選択どーする?って言ってたとこ!」
「へぇ。南くん達はもう決めてるの?」
「オレ? いや、やっぱこのあとの体験次第かな」

南くんの返答に、そうだよねーっと彼女達が笑顔で互いに見合う。
どうやら、目的は彼ららしい。

――――2人ともカッコいいもんね。
楓の側で何度も体験してきたから分かる。こういうグイグイ系は、下手したらこちらへ攻撃をしてくるタイプだ。彼らに関心がないなら、必要以上に親しくしないほうが身のため。

「そういえば、南くんと桐谷くんってバスケやってたんでしょ?」
「うん、ジュニアからね。高校でもやる予定だよ」

にこやかに答える南くんと、ただ頷き返す要くん。そんな2人の反応に、心がざわついた。

近隣の中学出身らしいので、“もしかしたら”の可能性を考えずにはいられない。

「試合あるとき教えてね、応援行くよ!」
「マジ? でもオレ達1年だし、すぐは出れないと思うよ?」
「いいじゃん! 行く行く!」

楽しげな彼女達をよそに、席を立つための理由を探す。

彼女達のあからさまな態度に引いているのか、普段は底なしに明るいカンナも、いつの間にか黙って箸を動かしていた。

「あ、訊きたかったんだけど、椎名さんと榎本さんって萩原(●●)と同じ中学だよね?」

――――ああ。

最も回避したかった話題をぶっ込んだ南くんは、きょとんと首を傾げた。

なぜだろう。ふと湧き起こる不安は、避けたい思いが強いときほど現実になる。
こんなとき、“神様はいない”と思うか、“神様は意地悪だ”と思うか。私は前者だ。

――私の大切なモノに、これ以上他人を介入させたくない。それが神様でも。

「南くん達も知ってるほど有名なんだ? 萩原もやるねぇ」

心なしか、カンナの声はいつもより落ち着いていた。

「そうそう! 萩原ってすげーバスケ上手いよな」
「高校もバスケの推薦だったはずだよ」
「ウワサで聞いた! また試合できるの楽しみなんだよなー、なっ要!」

カンナのおかげで会話はスムーズに流れているのに、心が淀んでいく。

コート上の楓は輝いていた。余裕綽々で笑っているかと思えば、気迫に満ちた指示を出し、フリースローを打つ前はフッと表情を消す。その頼もしさの裏にあった先輩との亀裂も、重責への葛藤も、周りには悟らせないようにしていた。

楓の努力が評価されるのは嬉しい。でも今は、どうしても虚しさが勝ってしまう。
まるで、大切な思い出が黒く塗り潰されていくみたいだ。

麦茶を飲んで誤魔化してみても、気を抜いたら涙が溢れそうで、怖い。


――――えっ?

賑やかな会話がただの喧騒に変わっていくなかで、ふいにジャージの裾をクイっと引っ張られた。

太腿に触れる“何か”に、さり気なく視線を落とす。そこにあったカンナの手は、憩いの場所探しへ出発した時と同じく、親指を立てたGOサインだった。

「ゴメン、なんか食欲ないから先戻るね」
「え、椎名さん大丈夫?」
「うん。ゴメンね」

トレーを手に立ち上がると、こちらを見上げたカンナが優しい表情で微笑む。

「芙由、イケメンだらけのクラスになったからダイエット?」

わざとらしく茶化すカンナを腰で軽く小突き、私はそのまま席を離れた。

GOサインに対する解釈が正しかったのかはわからない。分からないけど、心強かった。

昨日までの『ハギワラ』発言はさておき、カンナはカンナなりに気を遣ってくれたのだろう。楓との出来事は未だにはぐらかしたままだが、それでもやっぱり、カンナは特別な存在だ。

……だからこそ、その優しさに触れると、嘘をついていることが後ろめたい。
宿泊棟へ戻りながら、立ち話していた生徒達を避けて窓の景色を眺める。
ふと、遊歩道脇に置かれた雨ざらしのベンチが目に入り、思わず足を止めてしまった。

錆びたベンチといえば、私にとっては、背中に真一文字の線が引かれた楓の白いユニフォームだ。慌てて洗ったが乾かす方法まで考えておらず、他校の校内を『ドライヤーありませんかー?』と必死に探し回ったことがある。

改めて思い返しても、自分達のアホさ加減を笑わずにはいられない。ほんとに、本当にかけがえのない時間だったのだと、今なら痛いほどわかる。

――ベンチだけじゃない。木々が風でざわめく姿も、清々しい青空も。私が見ている世界は、全て楓のカケラで出来ているとさえ感じる。


「椎名さん」

控えめな呼び声に振り返ると、待ち構えていたのは一糸先生だった。

「体調悪いって聞いたんですが、大丈夫ですか?」

先生がゆっくりと距離を詰め、近づいた分だけ私の防護壁が高くなる。

「……カンナから、ですか?」
「あ、いえ、昼食を結構残されていたので、榎本さん達に僕が尋ねたんです」

作り笑顔は得意だったはずなのに、こちらを見下ろす顔が真剣そのもので、私までつられてしまった。

僕が、と強調したのは、たぶん意図的だろう。カンナを悪者にしないように。

「午後の体験授業ですけど、うちのクラスは美術からなので1時間休んでもいいですよ?」
「え、でも」
「僕の授業ですからね、どうとでもなります。ただ、救護室に強制連行ですが」

凛とした瞳を見返す。この人の心の奥が微塵も読めない。

「……じゃあ、そうします」

先生の気遣いに便乗して思わぬラッキーを拾ったものの、いざ横になっても、頭から毛布を被ってみても、なかなか寝付けそうになかった。

普通、いち生徒をここまで気にかけるだろうか。相手は担任なので当然といえば当然だけど、でも、カンナの純粋な優しさとは違う気がする。

――先生の気遣いは、素直に受け入れきれない。

考えても時間のムダ。でもすっぱりと割り切れない。気づけば貴重な1時間が終わっていたが、ため息一つで諦めがつくくらいに、私には大きな問題だった。



「ふーゆー!」

救護室を出てすぐにカンナの声が聞こえてきて、ほっと胸を撫で下ろす。
よかった、迷わずに済んだ。……一糸先生も一緒なのは全く嬉しくないけど。

「ねぇ芙由、ウチが描いた絵見る?」
「顔色は悪くないですね。椎名さん、次からは大丈夫そうですか?」
「そだ! もう大丈夫?」

好き勝手に話す2人から顔を逸し、笑いを堪える。

よくよく考えてみると、カンナが一人で救護室へ来られるわけがない。ここは先生に感謝すべきなのだろう。

「先生、授業すみませんでした。次から出ます」

しかと見据えた端整な顔は、微笑みながら頷いた。

「では、僕は養護の先生に挨拶してきますので」
「春先生バイバーイ!」

カンナの大きな腕振りに、先生の軽やかな黒髪がふわりと揺れる。

「春先生がね、芙由の様子を見に行きませんか?って誘ってくれたんだよ」

カンナの密やかな声が妙にくすぐったい。
「……親切だね」
「うん、カッコいい! 春先生の授業休むとか、芙由は勿体ないことしたねー」

カンナの足取りを見るに、どうやら美術の授業は相当楽しかったらしい。それを裏付けるように、次の書道体験が始まっても、ヒソヒソ声での報告が延々続いた。

私は惜しいことをしたのか。それとも、下手に感化されなくてよかった、と安心するべきか。
自分でもよくわからない感情を混ぜ合わせて、墨を摩る。

「てかさ、ゴメンね。話を上手く逸らせなくて」
「え?」
「ほら……芙由って自分のことはあんま話さないけどさ、でも元彼の話って楽しくはないじゃん?」

真剣な口ぶりでそう言ったカンナは、筆をプルプルと震わせながら、真っ白なままの半紙と睨み合っていた。

「最初にバスケの話を出したの、あの子達じゃん」
「ん……うん。でもさ、なんて、ゆーかさ……よしっ、できた!」

カンナが満足気に筆を置くのを見届けてから、今度は私が筆を走らせる。

「あの子らってさ、南くん達のこと狙ってるっぽいよね」
「あ、……カンナも気づいた?」
「だって芙由がいなくなってからも、ずーっと2人を質問攻めだよ? 南くんのアイコンタクト的には、ウンザリって感じだった」

面白いくらいに、その時の光景が目に浮かぶ。

「ウンザリじゃなくて、助けてかもよ?」

筆を硯の横へ置きながら返事をすると、カンナの大きな瞳が縦に開かれた。

「えぇー。それは言ってくんなきゃ助けらんないよー」

肩を落として嘆くカンナは、一体どうやって助けるつもりだったのか……?
気にはなるけど、ここは黙って流す。カンナは心の赴くままに動くタイプなので、からかい続けても面倒くさくなるのがオチだろう。

カンナの手元にある半紙の、生き生きとした【色男】の文字に関しても同じ。誰のことか想像できる以上、あえて追求はしない。

「芙由、機嫌なおったみたいだね」

私が半紙に書いた【飯】を見て、カンナが笑う。

この唐突な、飛び石のような会話もそうだ。改めて訊かなくても分かる。聞かなくても、なんとなく伝わる。――たぶん、お互いにそんな感覚を持っている。


夕食の時間になり、食堂の入り口で例の女子3人組と鉢合わせてしまった瞬間も、その“なんとなく”が発動した。

「椎名さん、カンナちゃん! また一緒に食べない?」
「いーよー。席空いて……あっ、南くん達は誘ってないし、5つでいいのか!」

カンナから伝わってくる冷ややかな温度に、頬が上がらないよう唇を引き結ぶ。嫌味まで披露するなんて珍しいので、気を抜いたら笑いが漏れかねない。

「2人ってさ、もしかして、南くんか桐谷くんを狙ってんの?」

5人揃って腰を下ろすと、私の正面に座った子が真っ先に口を開いた。

ああ、そういう事か。
いきなりの牽制には驚いたが、おかげで分かった。ミディアムボブを上品なダークカラーに染めているこの子が、3人組のボスだ。

「ないない。ウチも芙由も、もっと上を狙うからね」
「上って? もしかして一糸先生?」
「それはアリ! 春先生カッコいいよねー」

ダークカラーのボブヘア……ボブ美、暗子、キノコ・ハラグロ。……キノハラさん?

「一糸先生は無理だよぉ。子どもの相手なんてしないって」
「でもさ、先生と生徒って憧れるじゃん!」

私がボスのあだ名を考えている間に、カンナの声が弾んでいく。
まぁ、これでこそカンナだ。
「ねぇ、椎名さんは?」
「え?」

聞き手に徹していた私を名指ししたのは、カンナの向かいに座っていた子だった。

艷やかな黒髪ロングヘアに、同じく黒々とした睫毛と瞳。カンナの美しさを“洋”とするなら、彼女は“和”だ。
たぶんこの子も、自分の容姿に相当の自信を持っているタイプだろう。

「椎名さんの気になる人、南くん?桐谷くん? それとも春先生?」

箸を手放した和風美人が頬杖をつくと、他の2人は瞬時に押し静まった。

んー。どうやら私の読みはハズレで、こっちが本当のボスらしい。……というか、裏ボス?

「私もイケメンの彼氏は欲しいけど、あんま話してないし、よくわかんないかな」

こんなときは当たり障りない返答で濁す。無意味に敵視されるのだけは避けたい。

「ハハッ! だよね、仲良くならなきゃ分かんないよねッ」

キノハラさんの軽い相槌が入り、カンナがテーブルの下で私の足を小突く。言いたいことは分かるよ、と小突き返した時、意図せず裏ボスと視線がぶつかった。

彼女は何も言わず、ぽってりとした唇に笑みを浮かべるだけ。

……なんだろう。虫が好かない。



夕食後の自由時間で分かったことだが、宿泊棟は各クラス男女2部屋ずつに分かれており、私とカンナは裏ボス達と一緒だった。しかし、彼女達は消灯間際まで部屋へ戻らず、暗がりでのお喋りも直接は絡んでいない。

寝息の合唱がはじまって程なくして、つま先立ちでそっと部屋を出る。
消灯後の徘徊は禁止でも、お手洗いなら許されるだろう。

「春先生、巡回終わりました?」
「あ、桜井(サクライ)先生。お疲れさまです」

物音一つしない通路に響いてきた先生達の声。咄嗟に、というか本能的に、ロビーへと続く曲がり角で身を潜める。

べつに悪い事をしているわけではないが、接触は極力避けたい。
あの担任がこの先で待ち構えているなら尚更だ。

「春先生って熱心ですよね。相変わらず人気だし、子ども達の扱いも上手いし」
「いや、人気なら桜井先生でしょ」
「私はナメられてるだけですよー」
「僕も似たような感じですよ。なかなか難しいです」

桜井先生というのはたしか、4組担任の若い美人先生だったはず。私に言わせれば、ちょっと女度が強めの準ミスタイプ、ってところ。

「あの、良かったら今度一緒に――」

どうやら、ロビーにいるのは一糸先生と桜井先生の2人。おまけに桜井先生の方は、女モード全開みたいだ。

…………アホらしい。

嘲るように息を吐くと、ロビー横にあるお手洗いへと再び歩き出す。邪魔しないように、なんて配慮するだけムダなので、足音も気にしない。

担任が誰と何をしていようと、どうでもいい。
――どうでもいいが、用を済ませて部屋までの道中、ガラス張りの壁面越しに中庭を眺めていて、また足を止めてしまった。

街灯の下でベンチに座る人影――それは、黒のロングTシャツにスウェットパンツ姿の一糸先生だった。問題なのは、先生がひとりだということ。

周囲を警戒した矢先、桜井先生の気配を見つけるよりも先に、一糸先生がこちらを向いた。

…………タイミング最悪。

ベンチから腰を上げた先生が手招きして、ガラスを隔てて距離を縮める。
私が微動だにしないと、今度は左手に持ったタバコを示し、そして通路の先を指差した。
緑の非常灯があるということは、中庭へ続くドアもあるのだろうけど――。

何度目かわからないため息を吐き、渋々従う。こうなったら、大人しく説教を受けるしかない。

私が中庭へ出ると、先生は灰皿を経由したのちに、一度広がった2人の距離をゆっくりと埋めていく。

「昼間休んだせいで眠れませんか?」
「……そうですね」
「体調は?」
「大丈夫です」

予想とは違う、穏やかな低音ボイス。相変わらずこの人は掴めない。

「それが訊きたくて呼んだんですか?」
「あ、すみません。タバコに火を点けたばっかりだったので。あと、これ」

そう言って差し出されたのは、【のど飴レモン味】とプリントされた1粒のキャンディだった。
私はこれに対して、どう反応すれば良いのだろう……。

「それ桜井先生に貰ったんですけど、椎名さん体調崩してたし、よければどうぞ」
「はぁ」
「というか、ハッカ系に味が付いてるの、実は苦手なんですよね」

気まずさを誤魔化すように笑った先生は、顔を背け、タバコを口へと運ぶ。

「私も好きではないです」
「え、じゃあチョコミントは?」

それは、真剣な眼差しでする質問だろうか。

「……基本苦手です」

先生は一緒ですね、と微笑むが、この人が何をしたいのか全くわからない。懐かない生徒の好感度アップが目的? それとも本当に、生徒思いの先生なのか。

「そういえば桜井先生は?」
「…………。もしかして、ロビーでの会話聞いてました?」

灰皿へと向かう先生の背中から目を逸らす。質問を質問で返すのは、ズルい。

「えっと――」
「ああいうの、面倒くさいですよね」

私の声に被せられた呟きに、一瞬耳を疑った。

「恋は盲目って言いますけど、色恋に関係なく、いくつになっても場を(わきま)えない人っていますからねぇ」

私は一糸先生のことをよく知らない。でも、一糸先生らしくない発言に聞こえた。

「あ、呼び止めてすみません。これで風邪ひかせたら意味ないですね」
「……いえ。じゃあ戻ります」
「はい。のど飴は誰かにあげちゃってください」

軽く頭を下げると、先生を残して部屋へと戻る。

温かみをチラつかせる瞳に、柔らかい笑みを形作る口元。優しい物腰も加われば、信頼の置ける人かもしれない――と勘違いさせるには十分だ。

でも私は、そんな人も簡単に手のひらを返すと知っている。

私達の価値観は、大人には受け入れられない。いくら親しくなったと感じても、相手が大人である以上、平等な友好関係は存在しない。
私は絶対に、一糸先生に手懐けられたりはしない――。



オリエンテーション宿泊研修2日目。誰かさんのせいで寝不足な私は、歩行訓練という名の登山に、開始直後から音を上げそうになっていた。

「ふたりともおはよーっ」

生徒の列が次第にばらけてきたころ、背後から声をかけてきたのは、この眩しい新緑がよく似合う南くん、と要くんだった。

「朝からちょー元気だね!」
「榎本さんもじゃん! 椎名さんは体調平気?」
「うん、心配かけちゃってごめんね」