――中学卒業と同時に、私は初恋を葬ることにした。



「落ち着いたか?」

中学の卒業パーティーから(のが)れ、街灯が灯る公園でピクニックベンチに突っ伏して数分。視界を遮るように置かれたのは、文字が逆さまのカフェオレだった。

私が体勢を戻すと、モッさん(●●●●)は向かい側へ回り、椅子を跨ぐように腰掛けた。

「3月も半分過ぎたのに夜はまだ寒ぃな。……暖とるもんでもなきゃ、くだらねぇ話に付き合うのしんどいわ」

気怠そうに頬杖をついたモッさんが、咥えたタバコへ火を点ける。暖をとるはずのブラックコーヒーは、開けるだけ開けて、ほったらかしにされていた。

「……なんで戻ってきたんですか?」
「は? そら戻るよ、コーヒー買いに行っただけなんだから」

そんな事情、私は知らない。
この人はただ、恋の終わりに偶然居合わせただけ。それが私にとっては一世一代の恋だったとしても、泣こうが喚こうが、初対面のおじさんには何の関係もないはずだ。

「そもそもさ、ビービー泣いてるガキを夜の公園に放置して帰れねぇだろ」

――自分は大人ですから、って言いたいの?

嫌みは心で呟くだけにして、2個目の(●●●●)カフェオレに手を伸ばす。これ以上ガキだと思われるのも癪だし。

カフェオレを飲む素振りで、ちらりとモッさんをうかがう。
街灯に縁取られた横顔。モサモサヘアと同化しつつある黒縁メガネの奥を、2回、3回と盗み見る。

お礼のタイミングを逃した挙げ句、大通りから外れているせいで、車の音すら遠い。やけに長い沈黙のなか、カフェオレの熱が胸の辺りにじんわりと広がっていく。

焼き鳥屋の前でうずくまっていた私を助けたり、公園へ連れ出したり、この人は一体何がしたいのか。

……私の恋愛を『くだらねぇ』と罵ったくせに。

「お前さ、ほんとめんどくせぇ」
「あなたは終始口悪いですね」

つい反撃してしまったが最後、また夜の静けが帰ってきた。
そして静寂が続く限り、自分のガキっぽさを反省する。

「なんでアイツにちゃんと言わなかったんだ?」
「……え?」
「結局のところ、あの彼氏と別れたくなかったって話だろ。後になって泣き喚くくらいなら、平気なフリしなきゃよかったんじゃねぇの?」

そんな単純な話じゃない。あなたに関係ない。
私がどれも言えずにいると、コートからスマホを出したモッさんは、おもむろに立ち上がった。

「もう9時回ったし、頃合いだろ。これ以上ダラダラしてたら今度は他の奴らと出くわすぞ」

テーブルに放られた白いハンカチを見て、はっと顔を上げる。しかしモッさんは既に公園の出口へと歩き出しており、私はハンカチを掴んで慌てて後を追った。

「あのっ、なんで公園に行ったんですか?」
「は? 泣いてるの、知り合いにバレたくなかったんじゃねぇの?」

……そ、それはそう、だけど。

街灯の下を通るたびに浮き彫りになる背中は、それ以降、焼き鳥屋の前へ戻って来るまで何も言わなかった。



「じゃ、気ぃつけて」
「あ、あの、これっ――」
「必要ないなら捨てれば?」

モッさんの突き放すような言い草に、そーですか、とハンカチへ視線を落とす。

真っ白で、アイロンまでかけられていて……モサモサ頭に似合わなすぎて、キモチワルイ。無愛想なくせに。口悪いくせに。なんにも知らない、知ってるフリが得意なだけのオトナなくせに――。
「あ……あのっ!」

焼き鳥屋の引き戸へ手を伸ばしていたモッさんに頭を下げる。

「八つ当たりして、すみませんでした」

大人なんて好きじゃない。モッさんが『くだらねぇ』と嘲ったことも許してない。でも私は、“ガキっぽい椎名(シイナ)芙由(フユ)”はもっとキライ。

「……ひとつだけ」

低い声に顔を上げると、モッさんが振り返っていた。

ドキリと心臓が跳ねる。トキメキとかじゃなく、緊張感という意味で。
モッさんのメガネには前髪が被っているのに、なぜかその視線は、しっかりと私の目を捉えているような気がした。

「ギャンギャン喚き散らしたことを恥じてんだろうけど、こっちからしてみれば年相応ってやつだから。……背伸びは良いけど無理すんな」

温かな光が漏れる店内へと人影が消えるのを待ち、ぼそりと呟く。

「……年相応がイヤなんだっつーの」

まだ夜風の冷たさを感じる瞼へハンカチをあてがうと、どういうわけか、よく知っている(●●●●●●●)香水と同じ匂いがした――。



「ただいまー」

玄関からリビングへ声をかけながら、ブーツにシューキーパーを押し込み、真っ直ぐ自分の部屋へと向かう。

階段を数段登ったところで、背後でドアが開く音がした。

「芙由ぅ、お風呂はー?」
「あとでいい」
「じゃあお土産!」
「あるわけないじゃん、ただの卒業パーティーだよ?」

母親との会話は背中越し。泣いたことを悟られないように、冗談にもちゃんと笑って応える。
でも、ドアを閉めてしまえばここは私の城だ。

ジャケットを脱ぎ捨てると、なだれるようにベッドへ寝転ぶ。着替えはあと。冷え切った部屋を温める代わりに、布団をかぶった。

ベッドから腕だけを伸ばして、ショルダーバッグを手繰り寄せる。

何も言わずに帰ってきてしまったせいだろう。ひんやりと冷たくなったスマホには、カンナからの着信が2件も入っていた。

……あとは(カエデ)からのメッセージが1件、か。

質問攻めにされそうだが、意を決してカンナへ電話を折り返す。

「もしもしカン――」
『芙由っ! だいじょーぶ? 体調悪くて帰ったってオジチャンに聞いたよ!』

ああ、そっか。
私が店先でうずくまっていたとき、心配して店主のおじちゃんが様子を見にきた。そして、一部始終を知っていたモッさんが咄嗟に嘘を――。

「うん。2回も電話貰ってたのにごめん、もう平気だから」
『そかそか。んじゃまた明後日ね! スカートの長さ調整しよーね!』
「了解。じゃーね」

終話ボタンを押すと、メッセージアプリに付いた“1”の赤い数字が際立った。

こんなとき、真っ先に思い浮かべるのは送り主の顔だろう。でも目を閉じると、あの野暮ったいモサモサ頭が邪魔をする。それから、低く無愛想な声も。

――――あれ? そういえば。

カツッ、コツッと夜道に響く靴音。焼き鳥屋から漏れる明かりで黒光りしていたあれは、たぶん革靴だった。それから、ロング丈のモッズコートを羽織る前に見た姿――白のロングTシャツ一枚に、スリムタイプっぽいフォルムのスラックス――。

一体、モッさんは何者だったのか。
むくりとベッドから起き上がり、ジャケットに突っ込んでいた例のハンカチを出す。

私はなぜあの人を疑いもせず、大人しく公園までついていったのか。分かっている事といえば、不覚にもモッさんに助けられた事実だけ。

…………。よし、やめよう。忘れよう。
号泣してしまったことも、大声で当たり散らしたことも、全部忘れる。どうせ2度と会うことはない相手だ。

致し方なく持ち帰ってしまったハンカチを握りしめて、立ち上がる。お風呂へ行く前に、やるべきことがもう一つ。

枕元に置いていたスマホは、もう大して冷たくはなかった。

【芙由も高校がんばれよ】

楓から届いていた10文字の言葉を、刻み込むように読み返す。階段を降りながら、最後に見た楓の笑顔と一緒に反芻する。返信はしない。できない。

でも、泣くのは今日が最後だ。


これは悲しい別れじゃない。これは、大事だからこその、正しい選択だ――。



長いようで短かった春休みが終わり、入学式を経ての週明け、高校生活1日目。真新しい紺色の制服を着てリビングへ降りると、そこにはなぜか、ダイニングでトーストにかじりついているカンナが居た。

「カンナおはよ、早いね」
「んはよーっ」

飲みかけていたカフェオレのカップを手に取り、綺麗に染まっているオリーブ色のウェーブヘアを見下ろす。

カンナとは斜向いのご近所さんとして、先に支度が出来た方が迎えに行く、を丸9年繰り返してきた。階段下から元気な挨拶が聞こえてきても、自分の身支度を優先するくらいには“日常”になっている。

――でも、この光景は珍しい。

「カンナさ、なんで(うち)でご飯食べてんの?」

時刻はまだ7時を過ぎたばかりだ。この時間に迎えに来るくらいなら、自分の家で済ませる余裕はあったはず。

由美(ユミ)ちゃんが、イケメンの前でお腹鳴ったら恥ずかしいよーって」
「……それで? お母さんは?」
「洗濯物干してくるってさ」
「ふーん」

カンナの邪魔にならない程度に、ダイニングテーブルへ寄り掛かるように浅く腰掛ける。

……ど、どうしよう。意味がわからない。かといって、深く突っ込むのもメンドクサイ。

「芙由もう出れる?」
「準備は出来たけど……早くない?」

カンナは即答せず、ごくりと喉を上下させてから、カップスープをすすった。影を落とすほど長いまつげの下で、グレーの瞳がキラキラとこちらを見返す。

この不自然な間。もう既にイヤな予感しかしない。

「芙由ッ! イケメン探すよっ!」
「…………ん?」
「だーかーらー、学校に1番乗りしてイケメン探しすんの」

――――ああ、なるほど。

要するに、登校してくる生徒を観察するためにこの時間に来た、と。それをうちの母親に話して、『イケメンの前でお腹が鳴る』になって、今の状況ってことか。

「芙由もやるっしょ?」
「えっ、あ、うん。別にいいけど」
「……なんかノリ悪くない? もう萩原(ハギワラ)とは別れ――」
「ちょっとカンナッ!」

元気が過ぎるカンナの声を、さらに大きな声で遮る。勢いよく腰を上げて、周囲を見渡してからため息を吐いた。

「もしかして、別れたこと由美ちゃんに言ってないの?」
「言うわけないじゃん。そもそも、付き合ってたのも報告したワケじゃないし」

なんとなく言い淀んでしまい、残りわずかなカフェオレに口をつける。

「じゃあさ、芙由の勘の良さって由美ちゃんの遺伝だね」
「……そんなことより、早くイケメン探しに行こうよ」
「お! 急に乗り気じゃーん!」

カンナが軽やかに立ち上がると、胸元で紅いリボンが跳ねた。

同じ高校に合格して同じ制服を着ていても、全てが一緒というわけじゃない。カンナはリボンを選ぶけど、私はネクタイを選ぶ。カンナはその時の気分で髪色を変えるけど、私は赤系の色でしか染めない。

……楓のこともそうだ。カンナは平然と名前を出すけど、私はまだ、あまり話題にしたくない。

「カンナ、スープ飲んじゃって。さっさと片付けて行こう」
「あ、ありがとっ」

“イケメン探し”に大して興味がなくても、カンナの気を逸らせるなら、それでいい――。

「そーいえば兄ちゃんがさ、クラス替えは3年の時だけって言ってたよ!」

人気のない校舎の階段に、カンナの陽気な声が響く。

「えっ、じゃあ」
「そう! 修学旅行とかも一緒だよ!」

各学年9クラスあるなかで、私とカンナは同じ1年2組だった。この話が本当なら、高校生活は出だし上々。こんなに嬉しいことはない。

……本当の話なら。

「カンナ、からかわれてないよね?」

同高の3年に知人がいるのは何かと心強い。でもそれがカンナの兄、成弥(ナルミ)くんなら話は少し変わってくる。

イケメンな先輩っている?と訊けば、『俺以上にモテる生徒なんていない』と返し、さっき家に来てたのは彼女?と訊けば、『俺の師匠』と返す。とにかく、一筋縄ではいかないタイプの人だ。

「ないない! それにほら、イケメン先生も挨拶のとき言ってたじゃん。『2年間(●●●)担任します』って!」

確かに、と頷きながら教室のドアに手を掛ける。が、開かない。

「カンナよかったね、確実に1ば――」

1番乗りだよ、と言いかけた口を閉じる。カンナのすぐ後ろ――声が届くであろう距離に、いつの間にか例のイケメン先生がいた。

「おはようございます、早いですね」
「おはよーございまーす。先生こそ早くないですかー?」
「今日はプリントが多いので、皆が来る前に多少配っておこうと思いまして」

2人の会話に紛れ、私も小さく挨拶を返す。

カンナの『イケメン先生』と呼ぶ声が聞こえていたはずなのに、素知らぬ顔で鍵を開ける先生の態度。さて、どう解釈するか。

「先生、プリント大量にあんの?」
「そうですね、両手が塞がる程度には。一旦鍵を開けに来たくらいなので」
「じゃあウチらも手伝おーか? ね、芙由」

――――はい?

まってまって、その笑顔はなに? うちら? ね、芙由?

教室へ入るやいなや、カンナはバッグを机へ放り出し、再びこちらを見た。

「芙由どーする?」
「……待ってる」
「だってさ! 先生いこっ!」

ひらひらと手を振って2人を見送ると、自分の席へ腰を下ろしながら、ふぅーっと大げさにため息を吐く。

肩に掛からない程度の、柔らかいウェーブがかかった黒髪。長身が映えるタイトなカジュアルスーツ。カンナいわく、『ガチのイケメンだよ! 切り捨てた女は数知れずだよ!』らしいけど、私にはそういう意味での興味はない。


――入学式の日、先生(あの人)は姿勢よく教壇に立つと、切れ長な目で私達を見据えてから自己紹介を始めた。

『2年間担任をします、漢数字の一に糸と書いて“いと”といいます』

全クラスメイトが注目するなか、黒板に綴られていく達筆な文字。一糸春。

『いち、いと、はると書いて、“いと あずま”です。簡単な漢字ばかりですが、読み的にはちょっと面倒な名前だったりします。何と呼んで貰っても構いませんが、正式名称だけは覚えておいて下さい』

初日に得た情報はこの名前と、担当が選択芸術の美術だということ。それから、去年は講師として勤務していたらしく、クラス担任は初めて。しかも、急遽穴埋めとして抜擢された代打、らしい。

『クラスを持つのは大学での実習以来です。正直凄く緊張していますが、僕も精一杯やりますので、何か不備があれば遠慮なく言って下さい。2年間、よろしくお願いします』