王妃から公妾の件を打診されてから数日経ったある日のことだった。
「ミューリ」
王妃の呼び声に私は馳せ参じる。
「ハンカチを落としてしまったの、困ったわ」
王妃は窓から中庭を指差す。
「取ってきてもらえるかしら」
「は、はい」
(中庭って言ったって!)
広々した見事な庭園に、私は呆然となる。
(どこ? 王妃様の部屋はあそこよね? あの窓から落ちたとなれば、着地点は植え込みあたり? 風にのって遠くに飛ばされてなきゃいいけど。と言うか、何色のハンカチ?)
そんなことを思いつつ、植え込みを探す。
(ん? あれかな?)
立木の枝に引っ掛かっている、白い布が見えた。繊細なレースと上品な刺繍が見えるので、おそらくあれが落としたハンカチだろう。
「んっ! もう少しで届きそうだけど、あとちょっと! 踏み台でも借りてきた方がいいかな」
ぶつぶつと呟きながら、ハンカチへ手の伸ばしぴょんぴょんと飛んでいた時だった。背後から伸びてきた腕が、ひょいとそれを摘まみ取った。
「え? カイル!?」
「ん」
カイルは取ったハンカチを私に渡してくる。
「あ、ありがとう」
受け取る瞬間、指先が触れた、トクンと胸が弾む。
「どうしてここに?」
王宮は、よほど怪しい人間でない限りは出入り可能だ。いくらかの通行量は払うことになるが。だから彼がいてもおかしくはないのだが。
「兄から聞いてな」
次期スネイドル伯爵であるカイルのお兄さんは、王宮によく出入りをしている。
「最近のお前にあまりキレがないというか、元気がないって噂を耳にしたらしい」
(あ……)
否定できない。
公妾の話が出てから、以前より思うように言葉が出てこなくなってしまったのだ。
「それで、ちょっと心配になって様子を見に来た」
「カイル……」
じわっと目頭が熱くなる。私は両手を伸ばし、カイルにしがみついた。
「ミューリ? おい、どうした急に!」
「ごめん、ちょっとだけ……」
「……泣いてるのか?」
「……」
「大丈夫か? 何があった? 誰かに嫌がらせでもされたか?」
「カイル、私ね、陛下から公妾の話が来たんだよ」
「え……」
息を飲む音が微かに聞こえた。
一呼吸の後、やけに明るい声が耳に届く。
「本当か? やったな、ミューリ!」
「……」
「なんだよ。嫌な事でもあったかと思えば、歓喜の涙か。夢が叶ったんだな!」
「カイル」
私は腕を緩め、カイルの目を見つめる。
「私がこの話を受ければ、カイルにはトダーユ侯爵の名前とその土地が与えられるって」
「それは、すごいな。断絶したとはいえ、トダーユ侯爵家の領地は広大だ」
「……嬉しい?」
「あぁ、当然だ」
「そう」
私はカイルから腕をはずす。
そう、私はこのひと押しが欲しかったのだ。
自分を納得させるために。
「じゃあ私、この話を受けるね。カイルのために」
その言葉を口にした瞬間、涙がぼろぼろと溢れた。
「え? どうした、ミューリ」
カイルの声に、困惑が混じる。
「お前、幸せじゃないのか? 子どもの頃からの夢が叶ったんだよな? 陛下の恋人に、しかも国家公認の愛妾になれるんだよな?」
「……そう、願いは叶ったの。私は今すっごく幸せなはず、なのに」
涙が止まらない。
「私、カイルといるときの方が幸せなの!」
「!?」
言ってしまった。
カイルは口をぽかんと開けている。
「わかってる、今更だよね」
私は何とか笑って見せる。
「大丈夫。私、この話を受けるよ。だってカイルの夢が叶うんだから。そのためなら私……」
「待て、ミューリ!」
カイルが私の両肩を掴んだ。
「待て、ちょっと待て。確認するぞ? ……お前、陛下の恋人になるより、俺といる方が幸せだって言ったか?」
彼の目をまっすぐに見て、私はうなずく。
「だけどそんなの言えた義理じゃないよね。カイルの夢を潰すわけにはいかないもの……」
「俺のことは考えなくていい!」
カイルが私を抱き寄せ、大きな手が後頭部を包んだ。
「……俺は、ただ、お前の夢を叶えたかったんだ。陛下と結婚したいというお前の願いを、叶えてやろうとしただけだったんだ」
(え?)
「じゃ、じゃあ、出世は? 望んでないの?」
「そりゃ、出来るに越したことはないけど」
カイルの手が、あやすように私の背を撫でる。
「俺はキサット家の婿って立場、結構満足してんだよ、これでも」
「私を差し出す見返りの土地が欲しいって話は……」
「そう言っとけば、お前は俺に気兼ねすることなく夢を叶えられるだろうが。国王陛下の恋人になるには人妻であることが必須だが、お前はそのために誰かを利用するなんてできないだろ」
「カイル……」
私は顔を上げる。
「なぜそこまで、私のためにしてくれたの?」
「お前が好きだからだよ。それに……」
カイルが少し眉を下げる。
「こんな理由をつけてでも、お前と結ばれたかった。はは、ずるいよな、俺も」
「カイル」
再び視界が滲む。
「ぶはっ。ひっどい顔だな、ぐっしゃぐしゃだ」
カイルの優しい声が聞こえて来た。
「これが貴族界隈で話題の、芸術家にインスピレーションを与える女神で妖精か? 子どもみたいに涙でべとべとだ」
「う、うぅう~っ!」
カイルの胸に、私は顔をこすりつける。
「鼻水拭いてやる~っ!」
「お、おい、馬鹿! やめろ!」
私たちは怒りながら笑い、笑いながら泣いたのだ。
数日後、私は王宮から退出した。
「残念だわ」
退出の希望を伝え、理由を説明すると、王妃は一つため息をついた。
「貴女の紡ぐ言葉は毎日の楽しみの一つだったのに」
「申し訳ございません」
けれど王妃はすぐに微笑み、こう言ってくれた。
「貴女は体調を崩し田舎での静養が必要な状態、そう伝えておくわ」
ここの所、トークに冴えも切れもなかったので、納得するだろうとのことだった。
「サロンの招待状を出すわ」
王妃はにっこりと笑う。
「私のサロン、ぜひ来てちょうだい。そこでまた、色々と語り合いましょう。貴女の言葉はとても心地よいから」
私は生家であるキサットの屋敷に戻った。
再び、ここでカイルとの生活が始まる。
「ミューリ」
カイルは私の手を取り、馬車へと誘う。
「領地の見回りに行くぞ」
「うん!」
大きくてあたたかな愛しい手を、私はギュッと握り返した。
――了――
「ミューリ」
王妃の呼び声に私は馳せ参じる。
「ハンカチを落としてしまったの、困ったわ」
王妃は窓から中庭を指差す。
「取ってきてもらえるかしら」
「は、はい」
(中庭って言ったって!)
広々した見事な庭園に、私は呆然となる。
(どこ? 王妃様の部屋はあそこよね? あの窓から落ちたとなれば、着地点は植え込みあたり? 風にのって遠くに飛ばされてなきゃいいけど。と言うか、何色のハンカチ?)
そんなことを思いつつ、植え込みを探す。
(ん? あれかな?)
立木の枝に引っ掛かっている、白い布が見えた。繊細なレースと上品な刺繍が見えるので、おそらくあれが落としたハンカチだろう。
「んっ! もう少しで届きそうだけど、あとちょっと! 踏み台でも借りてきた方がいいかな」
ぶつぶつと呟きながら、ハンカチへ手の伸ばしぴょんぴょんと飛んでいた時だった。背後から伸びてきた腕が、ひょいとそれを摘まみ取った。
「え? カイル!?」
「ん」
カイルは取ったハンカチを私に渡してくる。
「あ、ありがとう」
受け取る瞬間、指先が触れた、トクンと胸が弾む。
「どうしてここに?」
王宮は、よほど怪しい人間でない限りは出入り可能だ。いくらかの通行量は払うことになるが。だから彼がいてもおかしくはないのだが。
「兄から聞いてな」
次期スネイドル伯爵であるカイルのお兄さんは、王宮によく出入りをしている。
「最近のお前にあまりキレがないというか、元気がないって噂を耳にしたらしい」
(あ……)
否定できない。
公妾の話が出てから、以前より思うように言葉が出てこなくなってしまったのだ。
「それで、ちょっと心配になって様子を見に来た」
「カイル……」
じわっと目頭が熱くなる。私は両手を伸ばし、カイルにしがみついた。
「ミューリ? おい、どうした急に!」
「ごめん、ちょっとだけ……」
「……泣いてるのか?」
「……」
「大丈夫か? 何があった? 誰かに嫌がらせでもされたか?」
「カイル、私ね、陛下から公妾の話が来たんだよ」
「え……」
息を飲む音が微かに聞こえた。
一呼吸の後、やけに明るい声が耳に届く。
「本当か? やったな、ミューリ!」
「……」
「なんだよ。嫌な事でもあったかと思えば、歓喜の涙か。夢が叶ったんだな!」
「カイル」
私は腕を緩め、カイルの目を見つめる。
「私がこの話を受ければ、カイルにはトダーユ侯爵の名前とその土地が与えられるって」
「それは、すごいな。断絶したとはいえ、トダーユ侯爵家の領地は広大だ」
「……嬉しい?」
「あぁ、当然だ」
「そう」
私はカイルから腕をはずす。
そう、私はこのひと押しが欲しかったのだ。
自分を納得させるために。
「じゃあ私、この話を受けるね。カイルのために」
その言葉を口にした瞬間、涙がぼろぼろと溢れた。
「え? どうした、ミューリ」
カイルの声に、困惑が混じる。
「お前、幸せじゃないのか? 子どもの頃からの夢が叶ったんだよな? 陛下の恋人に、しかも国家公認の愛妾になれるんだよな?」
「……そう、願いは叶ったの。私は今すっごく幸せなはず、なのに」
涙が止まらない。
「私、カイルといるときの方が幸せなの!」
「!?」
言ってしまった。
カイルは口をぽかんと開けている。
「わかってる、今更だよね」
私は何とか笑って見せる。
「大丈夫。私、この話を受けるよ。だってカイルの夢が叶うんだから。そのためなら私……」
「待て、ミューリ!」
カイルが私の両肩を掴んだ。
「待て、ちょっと待て。確認するぞ? ……お前、陛下の恋人になるより、俺といる方が幸せだって言ったか?」
彼の目をまっすぐに見て、私はうなずく。
「だけどそんなの言えた義理じゃないよね。カイルの夢を潰すわけにはいかないもの……」
「俺のことは考えなくていい!」
カイルが私を抱き寄せ、大きな手が後頭部を包んだ。
「……俺は、ただ、お前の夢を叶えたかったんだ。陛下と結婚したいというお前の願いを、叶えてやろうとしただけだったんだ」
(え?)
「じゃ、じゃあ、出世は? 望んでないの?」
「そりゃ、出来るに越したことはないけど」
カイルの手が、あやすように私の背を撫でる。
「俺はキサット家の婿って立場、結構満足してんだよ、これでも」
「私を差し出す見返りの土地が欲しいって話は……」
「そう言っとけば、お前は俺に気兼ねすることなく夢を叶えられるだろうが。国王陛下の恋人になるには人妻であることが必須だが、お前はそのために誰かを利用するなんてできないだろ」
「カイル……」
私は顔を上げる。
「なぜそこまで、私のためにしてくれたの?」
「お前が好きだからだよ。それに……」
カイルが少し眉を下げる。
「こんな理由をつけてでも、お前と結ばれたかった。はは、ずるいよな、俺も」
「カイル」
再び視界が滲む。
「ぶはっ。ひっどい顔だな、ぐっしゃぐしゃだ」
カイルの優しい声が聞こえて来た。
「これが貴族界隈で話題の、芸術家にインスピレーションを与える女神で妖精か? 子どもみたいに涙でべとべとだ」
「う、うぅう~っ!」
カイルの胸に、私は顔をこすりつける。
「鼻水拭いてやる~っ!」
「お、おい、馬鹿! やめろ!」
私たちは怒りながら笑い、笑いながら泣いたのだ。
数日後、私は王宮から退出した。
「残念だわ」
退出の希望を伝え、理由を説明すると、王妃は一つため息をついた。
「貴女の紡ぐ言葉は毎日の楽しみの一つだったのに」
「申し訳ございません」
けれど王妃はすぐに微笑み、こう言ってくれた。
「貴女は体調を崩し田舎での静養が必要な状態、そう伝えておくわ」
ここの所、トークに冴えも切れもなかったので、納得するだろうとのことだった。
「サロンの招待状を出すわ」
王妃はにっこりと笑う。
「私のサロン、ぜひ来てちょうだい。そこでまた、色々と語り合いましょう。貴女の言葉はとても心地よいから」
私は生家であるキサットの屋敷に戻った。
再び、ここでカイルとの生活が始まる。
「ミューリ」
カイルは私の手を取り、馬車へと誘う。
「領地の見回りに行くぞ」
「うん!」
大きくてあたたかな愛しい手を、私はギュッと握り返した。
――了――