(想像していた以上だった!)
ショーアイ公爵夫人のサロンに足を踏み入れた瞬間、耳に入って来たのは下品な胴間声だった。招待客の女性を捕まえては、一人一人に胸のサイズや形がどうの、腰つきがどうのと品評し、相手が顔を赤らめ唇を噛み涙を浮かべるのを見て、ゲラゲラ笑っている。
小一時間も経たぬうち、私のフラストレーションは限界に達しつつあった。
ストレスをためているのは当然私だけではない。他の招待客たちも、ショーアイ夫人の顔を立て不満を口にはしないものの、鼻白み不快そうに眉を顰めて彼を睨んでいる。
私がここへ招待されたのは、コダールが私に会いたがっているという理由のはずだった。
しかし彼は、私を見るなり吐き捨てるように言ったのだ。
「なんだ、ただのちんちくりんだな。噂とはあてにならんもんだ」
いきなり!
初対面から、これ!
「ダンサーのように軽やかで? 詩人のように言葉が巧みで? 女優のようで? 女神のようでもある? ギャッハッハッハ! これが? ウァッハッハッハ!!」
腹を揺すって笑うな、オッサン!!
いや、私だってその噂は大袈裟と思うよ? けど、本人目の前にそれはなくない?
けれど私も大人だ。目的のためには自分を抑えられる。
私は奥歯を噛みしめ、コダールにただにっこりと微笑みを返した。
「そういえばミューリ嬢、私の著作は読んでおられますかな?」
「えぇ、勿論」
事前に数冊読んだが、確かに彼の作品は素晴らしいものだった。こんな奴が書いたとは到底思えないほどに。ただ、全く心に響いては来なかったが。
「貴方の作品は……」
苛立ちを抑え込み、彼の作品を賛美する言葉を並べようとした時だった。
「いや、結構! 私の崇高なる作品が、女の頭で理解できようはずもありませんからな!」
は?
あまりの言葉に、一瞬頭の中が真っ白になる。
今、なんて? は?
「貴女にはあれだ、子どもの妄言のようなシュージンあたりのフワフワした空っぽ作品が丁度いい」
なんて?
「もしくはぺらっぺらの言葉を並べ立て、ろくな思想もないクァンズなどがピッタリだ」
はい?
「そういえばアイダンがお気に入りでしたかな? 女に都合のいい妄想そのものの奴の作品は、夫に愛されぬ女が一人寂しく我が身を慰めるのに良さそうですなぁ」
おぉおん!?
「ウィヒッツ夫人の作品は、まぁ、女が書いたにしては読めなくもないが、所詮は女の作品。生意気にも小説らしきものの形にだけはなっているが、我らの手慰みの落書きにも劣る」
あぁあぁああぁあ!?
「おや、気を悪くされましたかな?」
私の顔が強張っているのに気づいたのだろう、コダールは楽しそうにニッタリと笑った。
「ははは、仕方ないですなぁ! まぁ、男は理性の生き物、女は感情の生き物と言いますからなぁ! 男のように頭でちょっと考えれば理解できようものが、女はお気持ちだけですぐにキーキーとわめきたてる」
キレた。
ブチ切れた。
「まぁ、面白いことをおっしゃる方」
私は扇で口元を覆い、目を細める。
「確かに私は心で考える傾向にあるかもしれませんわ。でも、貴方は頭で考える方でしたのね? てっきり下半身で考えているお方だと思いましたわ」
私の言葉に、コダールが固まった。
招待客たちも皆、毒気を抜かれて私たちを見ている。
やがて徐々にコダールの顔が赤く染まり、顔つきはガーゴイルのごとき醜悪なものとなった。
「き、貴様ぁ!!」
唾を飛ばしながら、コダールが私に掴みかかろうとした。私は幼少期からカイルと繰り返していた剣戟ごっこの際の足取りで、さっとそれを躱す。
目標を失ったコダールは、バランスを崩したたらを踏む。
その瞬間、招待客の間から「ぷっ」と吹き出す声が聞こえて来た。
「誰だ?」
コダールは招待客をふり返り、肩を怒らせる。
「今笑った奴は誰だ!?」
だが、彼に辟易していたサロンの女性陣は、もう彼の機嫌を取る気になれなかったのだろう。くすくすという笑いはさざ波のように部屋中に広がった。
「くっ、ぐぅう……っ」
コダールは悪鬼の形相で私を睨む。やがて
「不愉快だ!!」
そう言い捨てると、足を踏み鳴らしながら部屋から出て行ってしまった。
扉が派手な音を立てて閉まる。
その瞬間、私は我に返った。
(やってしまった……!!)
公爵夫人お抱えの作家を。
国王陛下お気に入りの作家を。
(怒らせてしまった……!!)
蒼ざめる私に、一つの足音が近づく。振り返れば、そこに立っていたのはショーアイ夫人だった。
「も、申し訳ございません!」
私は慌てて跪き許しを請おうとした。しかし彼女は私の腕を掴み、それを止めた。
「ショーアイ公爵夫人?」
「く……くくく……」
ショーアイ夫人は口を押さえて笑っていた。
「お、おかしくって……」
公爵夫人は扇で顔を覆う。
「あの傲慢な男が、あんなに取り乱して……ぷっ、くくく……」
「あ、あの……」
「ごめんなさいね、不愉快な思いをさせてしまって」
「い、いえ、こちらこそ」
ショーアイ夫人の反応に、私は戸惑う。
「その、怒っておられないのですか?」
「いいえ、胸のすく思いがいたしましたわ」
ショーアイ夫人は肩をすくめる。
「確かに私は彼の支援者です。けれどあの男は年を経るごとに増長し、もううんざりしていましたの。何かと言えば、女、女と下に見て、私にまで暴言を吐く始末。支援を切ろうと思いましたけど、国王陛下のお気に入り故、それも簡単ではなくて」
「あ……」
「貴女をサロンへ招待するよう私に強く勧めたのも、近頃評判の高い貴女を皆の前でこき下ろすことで、優越感を得たかっただけなのでしょう。嫌な思いをさせてごめんなさいね」
「いえ、そんな」
「今日のことは、あの男にもいい薬になったでしょう。あなたは何も気になさらなくていいわ」
「は、はい、すみませんでした」
「ねぇ、皆様もそう思いましたでしょ?」
ショーアイ夫人が私と腕を組み、招待客へと向き直る。すると彼女らからは大きな拍手が沸き起こった。
(た、助かった……)
足の力が抜けそうになるのを、何とか耐える。
(公爵夫人の機嫌を損ねることは免れたけれど)
コダールは、国王陛下のお気に入りだ。
(悪い評判、陛下に届いちゃうだろうなぁ……)
■□■
ミューリの公爵家での一件は、貴族の間で面白おかしく語られた。元々庶民出身のコダールが不遜な態度で王宮を闊歩していることを、面白く思わない貴族も大勢いたのだ。特に夫人方に対して、不愉快な発言の多い男だったのもあった。
噂はガレマ11世の元へも届いていた。
「全くけしからんことですぞ!」
コダールはガレマ11世の執務室に乗り込み、大いに毒づいていた。
「頭空っぽの女が、この私を! 陛下の朋輩たるこの私を! 虚仮にしたのですぞ! 確か、そう、キサット、ミューリ・キサット! たかだか子爵家の女風情が生意気な!!」
憤るコダールの言葉を半分聞き流しつつ、ガレマ11世は執務を続ける。
「聞いておられるのですか、陛下! あの女は何と、男は下半身で物を考える生き物だと言い放ったのですぞ!? 男を見下しているのです! つまり陛下、貴殿もそこに含まれておるのですぞ!」
「噓はいけないな、コダール」
ガレマ11世が、仕事の手を止める。
「余の耳には、彼女は『男は』ではなく『貴方は』と言ったと届いておるぞ」
「ぐっ、で、ですが!」
「すまないな、我が朋輩コダール。余は仕事中なのだ。退出してもらえぬだろうか」
ガレマ11世の思いがけぬ素っ気ない態度に、コダールは不承不承と言った風で部屋を後にする。
部屋に一人となったガレマ11世は、目を細め楽し気に呟いた。
「中々に興味深い女であることだな。ミューリ・キサットなる者は」
コダールとの諍いの件を報告すると、カイルは額に手をやりため息をついた。
しかし、すぐにカイルは喉の奥でクックッと笑い出す。
「まぁ、無理もないよなぁ。腹立つもんなぁアイツ。俺だって目の前で身内をそんな風に言われたら、黙っていられたかどうか」
「咎めないの?」
カイルは大きく息をつきながら、椅子にドスンと腰を下ろした。
「確かに陛下と親交の深い人間を怒らせてしまったのは悪手だが、同時に公爵夫人を含む女性陣からすれば痛快な出来事だったわけだからな」
カイルの青い瞳が私を見る。
「五分五分ってところか」
「つまり?」
「分からん」
カイルが首を横に振ると、栗色の前髪がさらりと揺れた。
「吉と出るか凶と出るか。それはもうじき開催される、王妃タバフ=エッダカッハの生誕を祝う舞踏会に招待されるかどうかでわかるだろう」
「……招待されなかった場合は?」
「残念ながら、王の褥への道は絶たれたことになる」
「そんなぁ」
王妃様の生誕を祝うパーティーには、国中のありとあらゆる貴族が招待される。私も社交界デビュー以来毎年招かれている、盛大な舞踏会だ。
それに招待されないのは、王家からよほどの不興を買ったという証明に他ならない。当然ながら、他の貴族たちからもあまりいい目では見られなくなる。ここまで積み上げて来たものが水の泡だ。
「ど、どうしよう! もしも招待状が届かなかったら」
「今更じたばたしても始まらん」
カイルは立ち上がると、すり抜けざまに私の頭をそっと撫でる。
「祈りながら待つとしようぜ」
部屋を出ていくカイルののんきな後姿を見送りながら、私は少し不思議に思う。
(カイル、怒らないの? 私が陛下に嫌われれば、カイルの夢も断たれるのに)
王宮から舞踏会への招待状が無事届いたのは、それから二週間ほど経った日のことだった。
舞踏会当日、私はカイルとともに王宮へと参じた。
今日の私は、碧いドレスを着ている。カイルの見立てだ。
「ミューリ嬢」
フロアに足を踏み入れた私に声をかけてきたのは、女流作家のウィヒッツ侯爵夫人だった。
型通りのあいさつを交わしながらも、私の心はフワフワと浮き立つ。社交界では、目下から声をかけることは許されない。目上の人間から話しかけられ、初めて会話をすることが許されるのだ。今までこういった場で侯爵夫人クラスから話しかけられることがなかったため、サロンに参加したことの意味を改めて思い知った。
「さぁ、こちらにいらして。王妃様が貴女に会いたがっているわ」
「お、王ヒッ!? さま!?」
いきなりトップに君臨する女性からのご指名とあり、声がひっくり返る。
隣をふり返ると、カイルは満足気にうなずいた。
ウィヒッツ夫人に誘導され、私たちは会場内を進む。
途中、聞き覚えのあるがなり耳に飛び込みふり返る。予想過たず、そこに立っていたのは作家のコダールだった。気づかれぬよう、さっさとそこを通り過ぎる、刺すような視線が背中に飛んできた気がしたが、気のせいだと思うことにした。
やがてひときわ典雅な輝きを放つ一団のところへと辿り着く。
その中央に立っていたのは、本日の主役である王妃タバフ=エッダカッハであった。
(女神……!)
間近に見る王妃陛下の放つ圧倒的存在感に私は息を飲む。
慌てて頭を下げたものの、心臓は激しく鼓動を打っていた。
(格が違う……)
自分はこの人の夫からの寵愛を望んでいる。それを思うと、今更ながらひどく罰当たりで畏れ多い気持ちがしてきた。
「ミューリ嬢、並びにロード・カイル、私の生誕の宴によく来てくださいましたね」
柔らかで高貴な声。顔を上げると神々しい眼差しが私を見下ろしていた。
「本日はお招きにあずかり、光栄に存じます」
「ふふふ、そう固くならないで、ミューリ嬢。あなたの評判は私の耳に届いておりますわよ」
(評判!)
なんとなくギクリとなる。私が『陛下と結婚する』と言っていたことは、カイルしか知らないはずだ。けれど、天上の存在であるかのような王妃に言われると、全てを見透かされているような気持ちになってしまった。
私はカイルを盗み見る。カイルは涼しい顔で、静かに隣に控えていた。
ふいに、私の両手が優美な掌に包まれる。
「っ!」
王妃に手を取られたことに、私は息を飲んだ。
「貴女の唇はとても豊かな言葉を紡ぎ出すそうね。数多の芸術家が、貴女からインスピレーションを得ているともっぱらの評判よ。この国の芸術の発展のために、これからもよろしくお願いするわね」
「は、はい!」
「それから」
王妃はウィヒッツ夫人を一度見やる。それに対し侯爵夫人は口端を上げうなずいた。
「ウィヒッツ夫人からの推薦なのだけど、貴女さえよければ私の側に仕えてくれると嬉しいわ。一度考えておいてくださいましね」
側に仕える、つまり王妃の侍女となるよう直々に言われたのだ。
「勿体なきお言葉」
膝が震える。
「感謝に堪えません」
王妃の元を離れ、私とカイルはバルコニーへと移動する。
人目の届かない場所まで来ると、私はへなへなと手すりへ崩れ落ちた。
「緊張した~……」
「お疲れ」
カイルは私の頭に軽くぽんぽんと触れる。
「漏らすかと思った」
「漏らすな」
「いやだって、王妃陛下は人間じゃないよ、女神だよ」
「確かにオーラ凄かったな」
ピクニックの時は距離があったため、そこまで委縮することはなかったが。
「……あの人に並び立とうとしてるんだ、私」
ぶるぶるっと身震いをする。
「私ごときが」
「まぁ、そう卑下するな。大勢の貴族が集うこの宴の席でも、お前はしっかりと輝いているぞ」
「カイルはそうやってすぐ適当なことを言う」
「適当じゃないさ」
カイルの唇が、私の耳元に寄せられた。
「俺は嘘は言わん。ミューリ、お前は魅力的だ。自信を持て」
「っ!」
カイルの低い声に背筋が甘く痺れる。反射的に跳ね起きた私にカイルはいたずらっぽく歯を見せ、室内へと戻っていった。「シャンパンを取ってくる」とだけ言い残して。
「ふぅ」
私はバルコニーに肘をつき夜空を眺める。
(よく分からない……)
それはカイルのことであり、自分のことでもあった。
カイルは私を褒めてくれる。それはカイルが私に教えてくれた、『褒め方』に添った言葉に過ぎないのかもしれない。それでもたまに思うのだ。もしかしてカイルは私に愛情を注いでくれているのではないかと。
一方の私も、カイルの言葉に心を乱されることが増えた。
(私が好きなのは、国王陛下なのに……)
一つため息をつき睫毛を伏せた時だった。
「そこにいるのはいつぞやの湖の精霊ではないか?」
(え?)
心臓が大きく跳ねた。背後から飛んで来たその声に、聞き覚えがありすぎた。
(まさか……)
私はおずおずと振り返る。
「へい、か……」
「地上は息苦しいか? 湖に戻りたくなってしまったか?」
子どもの頃から憧れ続けてきた人、結ばれたいと願っていた人が、今、目の前に立っていた。
(あ……)
私は慌てて膝を曲げ、頭を下げる。
「よい、顔を上げよ」
ふいに顎を捕らえられ、やや強引に仰向かせられる。目の前には整った顔があった。
「そなた、名を何と申す」
「ミューリ・キサットと申します」
夢を見ているようだ。
今、陛下の指が私に触れ、その瞳の中に私が映っている。
「ミューリ・キサット」
低く甘い声が、私の名を呼ぶ。魔法にかけられたように、心が絡め取られたのを感じた。
「やはりそうであったか。近頃、芸術家の間で名高い子爵令嬢ミューリ・キサット」
「お、畏れ多いことでございます」
「ははは、どうしたミューリ嬢。湖でのそなたは余を翻弄する堂々たる振る舞いであったに。今はまるで子リスのように震えているではないか」
「も、申し訳……」
「だが、そこもまた初々しくて良い」
陛下は背後をふり返ると、軽く手を振る。すぐに二つのシャンパンが運ばれてきて、一つを手渡された。
「再会を祝おうではないか」
そう言うと陛下は中身をぐっと飲み干す。私もそれに倣いグラスを空にした。
「さぁ、噂のその唇で紡いでくれぬか。余を讃える言葉を」
(陛下を讃える言葉?)
咄嗟のことで何も思いつかない。
(陛下は、月? ううん、太陽? それとも、世界?)
どれもぴったり来ず、私はうつむく。
「どうした? 芸術家に恩恵を与える妖精、ミューリ・キサットよ」
「……いのち」
「うん?」
「我が命、そして我が愛、私を動かす力そのもの。それが陛下でございます」
「おぉ」
「尊きその声が、愛の深いその眼差しが、私の中に染み入り、指の先まで行き渡る。私を動かす熱い生命と力、それこそが私にとっての陛下でございます」
この言葉は嘘じゃない。私の中で12年もの間抱き続けていた気持ちだった。
「なるほど、心地よい」
陛下は目を細め、フッと笑う。そして流れるような動きで私の手を取った。
「一曲相手をしてもらおうか。ミューリ・キサット。シラーヴにインスピレーションを与えた軽やかな足取りを、余にも見せてくれ」
「お、仰せのままに」
「そのドレス、あの日の湖を思い出す色だな」
(え……)
このドレスはカイルが用意したものだ。カイルはそこまで考えてこの色を選んだのだろう。
陛下に手を取られ、私は再び室内へと戻される。
(あ……)
柱の陰にシャンパンを二つ持って立つカイルの姿が見えた。
目が合うとカイルはにっこりと笑う。
(カイル……)
妻を奪われた夫の表情としては不自然だが、カイルに関しては何も不思議ではない。私が陛下に気に入られれば、カイルは出世の夢が叶うのだから。
陛下の手が私の腰にかかる。曲に合わせ、私は大きく一歩足を踏み出した。
舞踏会の夜から数日が経過したが、私は未だ夢を見ているような心持ちだった。
十二年もの間、恋焦がれていた相手と直接言葉を交わし、見つめ合い、ダンスに誘われたのだ。
布越しとはいえ、陛下の手がこの体に触れたのだ。
(ガレマ11世国王陛下……)
ベッドの上で身悶えする。思い出すほどに、胸が切なく締め付けられる。頭はシャンパンにすっかり酔わされたように、うまく回らなかった。
「ミューリ」
ノックの音と共に、カイルの私を呼ぶ声が聞こえて来た。
部屋に入って来たカイルは、一つの封筒を手にしていた。
「王宮から、お前にだ」
ベッドの上で身を起こし、受け取って中身を確認する。
王妃から、女官として王宮に入るようにとの、正式な要請だった。
「やったな、ミューリ」
カイルもベッドに腰かけ、私の髪を撫でる。
「ついにここまで来たぞ。王宮に入れば、陛下が部屋を訪れることもある。つまり、お前は陛下と恋ができるんだ」
(陛下と、恋が……)
カイルは歯を見せて笑い、私の顔をのぞき込む。
「どうした、もっと喜べよ。お前の夢だったんだろう?」
「う、うん。でも……」
「でも?」
「なんだか、怖くて……」
「アホ」
カイルは私の額を軽く小突く。
「怖気づくなよ。お前は陛下からダンスに誘われた、王妃様から気に入られもした。あとは飛び込むだけなんだ。ここまで来て尻尾巻いて逃げるなんてありえないだろう?」
「そう、だけど……」
長年の恋が実るかもしれない、それは本当に嬉しい。
だがそれ以上に、何か大きなものを失う気がしてならないのだ。
「カイル、私、やっぱり……」
「行けよ、ミューリ」
その声の思わぬ固さに、瞬時に頭の奥が冷える。
だが目を上げた先にあったのは、カイルのいつもの明るい笑顔だった。
「気を抜くな、ミューリ。公妾候補者はお前以外にもいる。絶対に勝ちあがれ。そして」
カイルの大きな手が、そっと私の頬に触れた。
「俺を出世させてくれ」
「……うん」
私はカイルの手に自分の手を重ねる。
「その約束で結婚したんだもの。わかってる」
夜が訪れた。
すっかり眠る準備を整え、ベッドに入ろうとした時、控えめなノックの音が聞こえて来た。
「誰?」
扉が開くと、カイルが滑り込んでくる。
カイルは慎重に扉を閉めると、歩み寄ってきた。
「何? こんな夜更けに」
カイルは怖いほど真剣な眼差しをしていた。
「ミューリ、俺はお前を抱く」
「!?」
私は息を飲み、飛び退る。
「急に何を?」
「王宮に入るのに、処女のままだとまずいだろう」
(あ……!)
この国では、既婚者同士であれば『大人の自由恋愛』とされるが、未婚のものに手を出せば国王とはいえ罪になる。
「俺たちは結婚をしているから、お前は人妻で間違いない。ただ、そうなるとお前が処女であることを王が不審がるだろう。それにお忙しい身の上の方だ。初めての女を一から手ほどきするのは面倒に思うかもしれない。ついでに言えば、技巧に優れている他の愛妾たちから後れを取る可能性がある」
「そ、そうね……」
カイルに返事をしながらも、声が上ずる。
そういうことを全く考えなかったわけじゃない。
ただ、ロマンティックな恋を夢見ていたら、突然生々しい男女の現実を突きつけられ、落差に軽いショックを受けたのだ。
「……急に言われても、心の準備が必要だよな」
カイルは頭をバリバリと掻くと背を向けた。
「まぁ、今すぐって話じゃない。王宮に上がるまで、まだ少し日がある。心の準備が出来たら言え」
立ち去ろうとするカイルのシャツを、私は掴んだ。
「なんだ」
「お願いします」
「え?」
「今から、その、閨のレッスンをお願いします」
カイルが僅かに息を飲んだ。
シャツを掴んだ私の手に、カイルはそっと触れる。
「……無理するな、ミューリ。指先、冷たいぞ」
「大丈夫」
「それに震えている」
「大丈夫、だから!」
私は叫ぶように伝える。
「……カイルなら、信頼して身を任せられるから」
「……」
カイルがベッドに腰を下ろす。
そして身を寄せると私の唇をそっと奪った。
「無理ならすぐ言えよ、ミューリ」
「……わかった」
カイルの掠れた低い声に、私はうなずいた。
その夜、私はカイルのしるしを刻まれ、カイルに満たされる幸せを知ったのだ。
王宮内に部屋をあてがわれた私は、王妃付きの女官として働くことになった。
「ミューリ」
読書好きな王妃は、身の回りの世話をしている間にも、最近読んだ本や好きな作家についての話を振ってくる。私の女官への起用は、ここで気の利いた返しができることを期待されてのことだった。
(ふぅ……)
部屋に戻ると、私はベッドに倒れ込む。けれど、このまま寝ることはできない。王妃の話について行けるだけの知識を取り入れるべく、勉強をする必要があった。
(カイルのレッスンを受けていた頃よりハードじゃない?)
専門スキルを期待されての起用には、こういった苦労がつきまとう。
同じく女官仲間の1人も、ファッションセンスを期待されてここに入ったため、常に流行の最先端を見逃すまいと神経をとがらせている。そちらはそちらで大変そうだった。
女官の仕事は思ったよりハードだ。ここへ来て数日間は仕事を覚えるのに必死で、それ以外のことを考えることがほとんどなかった。
仕事を終え、読書をして布団に入る。
目を閉じると、カイルと結婚してからの日々が懐かしく思い出された。
「寂しいな……」
無意識のうちに口から零れた言葉に、自分で驚く。
何を言っているのだろう。私は国王陛下の恋人となるため、カイルは見返りで出世するために結婚したのだ。目標達成まであと少し。私は陛下の愛を勝ち取ることだけを考えて頑張らなければならないのだ。
(今日もくたくた……)
一日の仕事を終え、私は部屋に戻る。寝る前の準備を整えると、私は椅子に座り本を取り出した。
(最近ペースが落ちているから、ちょっとは読み進めないと……)
そう思うのに上下の瞼がくっつきそうになる。文字を目で追おうとしても二重にぶれて見えるうえ、内容が頭に入ってこない。
(勉強、しなきゃ、いけないのに……)
ふっと意識が遠ざかる。それに気づいて慌てて姿勢を正す。幾度それを繰り返したのだろうか。いつの間にか私は眠りに落ちてしまっていた。
遠くでノックの音がした気がした。
(ん……)
身を起こして確認しなくてはいけない、そう思うのに体が動かない。
扉の閉じる音、空気の揺れる気配、衣擦れの音。
(誰か、入って来た?)
やがてベッドのきしむ音が耳に届く。
続いて聞こえてきたのは、低く甘い声だった。
「ミューリ・キサット」
そのたった一言で、私の意識は眠りの世界から引きずり出された。
「へ、陛下!?」
いつの間にか部屋の明かりは消え、月の光が憧れの人の姿を蒼白く浮かび上がらせていた。
「随分と疲れているようだな、ミューリ嬢」
「いえ、滅相もございません」
陛下がいる、私の部屋に、こんな夜更けに。
私のベットに。
その意味が分からないほど子どもではない。
一方で「まさか」「嘘でしょ」という思いがぬぐえない。
十二年もの間、恋焦がれつつもほとんど接点のなかった雲上人が、私を求めるはずなどない。
「驚かせてしまったようだな」
「えぇ、驚きました」
訓練しつくした表情筋が、慣れた笑顔を作り上げる。
「月の明かりが人の姿を持って、私の前に現れたのかと」
頭にしみ込んだ言葉が、なめらかに舌を動かす。
「ふふ、なるほどな」
言ったかと思うと、陛下は私の手を取り、強引に自分の方へと引き寄せた。
「っ!」
雄の匂いの立ち上る逞しい胸。衣服の胸元がはだけ、その肌が直に私の頬に触れる。
「陛下……」
「月の明かりが人の姿を取りし者の相手として、湖の精霊は実に相応しい、そう思わんか」
「え、えぇ……」
戸惑いながらも私はうなずく。
そんな私の様子に、陛下は楽しげな声を上げた。
「落ち着いた物言いをしておるが、これだけ肌を触れ合わせていれば、速い鼓動が直に聞こえてくる。……そなた、怖いのか?」
「……はい」
カイルは言っていた。嘘は言うなと。本当の気持ちを最大限に飾って伝えろと。
(カイル……)
「落ち着いた物言いをしておるが、これだけ肌を触れ合わせていれば、速い鼓動が直に伝わってくる。……そなた、怖いのか?」
「……はい」
カイルは言っていた。嘘は言うなと。本当の気持ちを最大限に飾って伝えろと。
(カイル……)
今、私の長年の夢が叶おうとしている。それに、
(私が陛下の恋人になれば、カイルが出世できる)
それが頭に浮かんだ瞬間、言葉は自然と口をついて出た。
「ずっと恋焦がれておりました、陛下。幼き少女の頃から」
「ほぉ」
「幾度も何年も夢想した陛下の甘い腕の中に、今、囚われているのです。これほどの幸せが私ごときの身に訪れるなど、世の全ての女の妬みを買ってしまいそうで」
私は涙を浮かべ、陛下に微笑みかける。
「それがとても、怖いのでございます」
「何、これは月の光と湖の睦み合いよ」
陛下の手が私の衣服にかかる。
「わずらわしき人の世のことなど忘れ、ただ今は楽しもうではないか」
これは私の願いが叶った瞬間。
積み重ねた努力の実った瞬間。
私は幸せだ。
全てはこの瞬間のためだった。
これでカイルも幸せになれる。
私はカイルの役に立てる。
なんて私は幸せ者なんだろう。
頭の中で幾度も自分に言い聞かせる。
冷たく開いた心の空洞を、言葉の奔流で懸命に埋め尽くした。
その後もたびたび陛下の訪れはあった。
言葉遊びを繰り返すごとに、陛下の私への態度は明らかに甘いものへと変わっていく。
そしてやがてついにその時が来た。
「ミューリ」
それは王妃からの呼び出しだった。
「陛下が貴女を公妾にとお望みよ」
「……!」
「勿論、貴女の夫にしてみればあまり愉快な話ではないでしょう。見返りとして、今は断絶したトダーユ侯爵の土地を与え、その名を継ぐことを許します。いくらかのお金と共に」
ミッションコンプリートだ。
この話を受け入れれば、私たちの夢は完全に叶う。
――喜んで
私は微笑んでそう答えようとした。
なのに、なぜか言葉は喉の奥で貼りつく。
舌は強張ったように動かない。
(あ……)
困惑する私に、王妃は静かに言葉を続ける。
「返事は今すぐでなくても構わないわ。ただ公妾と言うのは、いざと言う時に王家の盾となり、民衆の憎悪の矢面に立つ役割」
「……!」
「大切な友人である貴女を、そんな立場にしたくないというのが、私の本音よ。王妃の立場としては、弁舌爽やかで機転の利く貴女が公の場に出てくれることは心強いのだけど」
「王妃、様……」
「あなたが公妾の立場を受け入れるのなら、私も反対はしません。ただ、もしも気乗りしないのであれば私に言いなさい。公妾は、王妃の許可なしには認定されませんから」
私は部屋に戻される。扉を背にしてもたれかかり、天井を仰いだ。
(どうすればいいの……)
そんなことは分かり切っている。
受け入れるのだ。
これまでの全ては、この瞬間のためだったのだから。
(カイル……!)
私は形ばかりの結婚をした夫の名を、心の中で呼ぶ。
(お願い、背中を押して。私ひとりで決めてしまうのは怖い……!)
王妃から公妾の件を打診されてから数日経ったある日のことだった。
「ミューリ」
王妃の呼び声に私は馳せ参じる。
「ハンカチを落としてしまったの、困ったわ」
王妃は窓から中庭を指差す。
「取ってきてもらえるかしら」
「は、はい」
(中庭って言ったって!)
広々した見事な庭園に、私は呆然となる。
(どこ? 王妃様の部屋はあそこよね? あの窓から落ちたとなれば、着地点は植え込みあたり? 風にのって遠くに飛ばされてなきゃいいけど。と言うか、何色のハンカチ?)
そんなことを思いつつ、植え込みを探す。
(ん? あれかな?)
立木の枝に引っ掛かっている、白い布が見えた。繊細なレースと上品な刺繍が見えるので、おそらくあれが落としたハンカチだろう。
「んっ! もう少しで届きそうだけど、あとちょっと! 踏み台でも借りてきた方がいいかな」
ぶつぶつと呟きながら、ハンカチへ手の伸ばしぴょんぴょんと飛んでいた時だった。背後から伸びてきた腕が、ひょいとそれを摘まみ取った。
「え? カイル!?」
「ん」
カイルは取ったハンカチを私に渡してくる。
「あ、ありがとう」
受け取る瞬間、指先が触れた、トクンと胸が弾む。
「どうしてここに?」
王宮は、よほど怪しい人間でない限りは出入り可能だ。いくらかの通行量は払うことになるが。だから彼がいてもおかしくはないのだが。
「兄から聞いてな」
次期スネイドル伯爵であるカイルのお兄さんは、王宮によく出入りをしている。
「最近のお前にあまりキレがないというか、元気がないって噂を耳にしたらしい」
(あ……)
否定できない。
公妾の話が出てから、以前より思うように言葉が出てこなくなってしまったのだ。
「それで、ちょっと心配になって様子を見に来た」
「カイル……」
じわっと目頭が熱くなる。私は両手を伸ばし、カイルにしがみついた。
「ミューリ? おい、どうした急に!」
「ごめん、ちょっとだけ……」
「……泣いてるのか?」
「……」
「大丈夫か? 何があった? 誰かに嫌がらせでもされたか?」
「カイル、私ね、陛下から公妾の話が来たんだよ」
「え……」
息を飲む音が微かに聞こえた。
一呼吸の後、やけに明るい声が耳に届く。
「本当か? やったな、ミューリ!」
「……」
「なんだよ。嫌な事でもあったかと思えば、歓喜の涙か。夢が叶ったんだな!」
「カイル」
私は腕を緩め、カイルの目を見つめる。
「私がこの話を受ければ、カイルにはトダーユ侯爵の名前とその土地が与えられるって」
「それは、すごいな。断絶したとはいえ、トダーユ侯爵家の領地は広大だ」
「……嬉しい?」
「あぁ、当然だ」
「そう」
私はカイルから腕をはずす。
そう、私はこのひと押しが欲しかったのだ。
自分を納得させるために。
「じゃあ私、この話を受けるね。カイルのために」
その言葉を口にした瞬間、涙がぼろぼろと溢れた。
「え? どうした、ミューリ」
カイルの声に、困惑が混じる。
「お前、幸せじゃないのか? 子どもの頃からの夢が叶ったんだよな? 陛下の恋人に、しかも国家公認の愛妾になれるんだよな?」
「……そう、願いは叶ったの。私は今すっごく幸せなはず、なのに」
涙が止まらない。
「私、カイルといるときの方が幸せなの!」
「!?」
言ってしまった。
カイルは口をぽかんと開けている。
「わかってる、今更だよね」
私は何とか笑って見せる。
「大丈夫。私、この話を受けるよ。だってカイルの夢が叶うんだから。そのためなら私……」
「待て、ミューリ!」
カイルが私の両肩を掴んだ。
「待て、ちょっと待て。確認するぞ? ……お前、陛下の恋人になるより、俺といる方が幸せだって言ったか?」
彼の目をまっすぐに見て、私はうなずく。
「だけどそんなの言えた義理じゃないよね。カイルの夢を潰すわけにはいかないもの……」
「俺のことは考えなくていい!」
カイルが私を抱き寄せ、大きな手が後頭部を包んだ。
「……俺は、ただ、お前の夢を叶えたかったんだ。陛下と結婚したいというお前の願いを、叶えてやろうとしただけだったんだ」
(え?)
「じゃ、じゃあ、出世は? 望んでないの?」
「そりゃ、出来るに越したことはないけど」
カイルの手が、あやすように私の背を撫でる。
「俺はキサット家の婿って立場、結構満足してんだよ、これでも」
「私を差し出す見返りの土地が欲しいって話は……」
「そう言っとけば、お前は俺に気兼ねすることなく夢を叶えられるだろうが。国王陛下の恋人になるには人妻であることが必須だが、お前はそのために誰かを利用するなんてできないだろ」
「カイル……」
私は顔を上げる。
「なぜそこまで、私のためにしてくれたの?」
「お前が好きだからだよ。それに……」
カイルが少し眉を下げる。
「こんな理由をつけてでも、お前と結ばれたかった。はは、ずるいよな、俺も」
「カイル」
再び視界が滲む。
「ぶはっ。ひっどい顔だな、ぐっしゃぐしゃだ」
カイルの優しい声が聞こえて来た。
「これが貴族界隈で話題の、芸術家にインスピレーションを与える女神で妖精か? 子どもみたいに涙でべとべとだ」
「う、うぅう~っ!」
カイルの胸に、私は顔をこすりつける。
「鼻水拭いてやる~っ!」
「お、おい、馬鹿! やめろ!」
私たちは怒りながら笑い、笑いながら泣いたのだ。
数日後、私は王宮から退出した。
「残念だわ」
退出の希望を伝え、理由を説明すると、王妃は一つため息をついた。
「貴女の紡ぐ言葉は毎日の楽しみの一つだったのに」
「申し訳ございません」
けれど王妃はすぐに微笑み、こう言ってくれた。
「貴女は体調を崩し田舎での静養が必要な状態、そう伝えておくわ」
ここの所、トークに冴えも切れもなかったので、納得するだろうとのことだった。
「サロンの招待状を出すわ」
王妃はにっこりと笑う。
「私のサロン、ぜひ来てちょうだい。そこでまた、色々と語り合いましょう。貴女の言葉はとても心地よいから」
私は生家であるキサットの屋敷に戻った。
再び、ここでカイルとの生活が始まる。
「ミューリ」
カイルは私の手を取り、馬車へと誘う。
「領地の見回りに行くぞ」
「うん!」
大きくてあたたかな愛しい手を、私はギュッと握り返した。
――了――