王妃の元を離れ、私とカイルはバルコニーへと移動する。
 人目の届かない場所まで来ると、私はへなへなと手すりへ崩れ落ちた。
「緊張した~……」
「お疲れ」
 カイルは私の頭に軽くぽんぽんと触れる。
「漏らすかと思った」
「漏らすな」
「いやだって、王妃陛下は人間じゃないよ、女神だよ」
「確かにオーラ凄かったな」
 ピクニックの時は距離があったため、そこまで委縮することはなかったが。
「……あの人に並び立とうとしてるんだ、私」
 ぶるぶるっと身震いをする。
「私ごときが」
「まぁ、そう卑下するな。大勢の貴族が集うこの宴の席でも、お前はしっかりと輝いているぞ」
「カイルはそうやってすぐ適当なことを言う」
「適当じゃないさ」
 カイルの唇が、私の耳元に寄せられた。
「俺は嘘は言わん。ミューリ、お前は魅力的だ。自信を持て」
「っ!」
 カイルの低い声に背筋が甘く痺れる。反射的に跳ね起きた私にカイルはいたずらっぽく歯を見せ、室内へと戻っていった。「シャンパンを取ってくる」とだけ言い残して。

「ふぅ」
 私はバルコニーに肘をつき夜空を眺める。
(よく分からない……)
 それはカイルのことであり、自分のことでもあった。
 カイルは私を褒めてくれる。それはカイルが私に教えてくれた、『褒め方』に添った言葉に過ぎないのかもしれない。それでもたまに思うのだ。もしかしてカイルは私に愛情を注いでくれているのではないかと。
 一方の私も、カイルの言葉に心を乱されることが増えた。
(私が好きなのは、国王陛下なのに……)
 一つため息をつき睫毛を伏せた時だった。
「そこにいるのはいつぞやの湖の精霊ではないか?」
(え?)

 心臓が大きく跳ねた。背後から飛んで来たその声に、聞き覚えがありすぎた。
(まさか……)
 私はおずおずと振り返る。
「へい、か……」
「地上は息苦しいか? 湖に戻りたくなってしまったか?」
 子どもの頃から憧れ続けてきた人、結ばれたいと願っていた人が、今、目の前に立っていた。
(あ……)
 私は慌てて膝を曲げ、頭を下げる。
「よい、顔を上げよ」
 ふいに顎を捕らえられ、やや強引に仰向かせられる。目の前には整った顔があった。
「そなた、名を何と申す」
「ミューリ・キサットと申します」
 夢を見ているようだ。
 今、陛下の指が私に触れ、その瞳の中に私が映っている。
「ミューリ・キサット」
 低く甘い声が、私の名を呼ぶ。魔法にかけられたように、心が絡め取られたのを感じた。
「やはりそうであったか。近頃、芸術家の間で名高い子爵令嬢ミューリ・キサット」
「お、畏れ多いことでございます」
「ははは、どうしたミューリ嬢。湖でのそなたは余を翻弄する堂々たる振る舞いであったに。今はまるで子リスのように震えているではないか」
「も、申し訳……」
「だが、そこもまた初々しくて良い」
 陛下は背後をふり返ると、軽く手を振る。すぐに二つのシャンパンが運ばれてきて、一つを手渡された。
「再会を祝おうではないか」
 そう言うと陛下は中身をぐっと飲み干す。私もそれに倣いグラスを空にした。

「さぁ、噂のその唇で紡いでくれぬか。余を讃える言葉を」
(陛下を讃える言葉?)
 咄嗟のことで何も思いつかない。
(陛下は、月? ううん、太陽? それとも、世界?)
 どれもぴったり来ず、私はうつむく。
「どうした? 芸術家に恩恵を与える妖精、ミューリ・キサットよ」
「……いのち」
「うん?」
「我が命、そして我が愛、私を動かす力そのもの。それが陛下でございます」
「おぉ」
「尊きその声が、愛の深いその眼差しが、私の中に染み入り、指の先まで行き渡る。私を動かす熱い生命と力、それこそが私にとっての陛下でございます」
 この言葉は嘘じゃない。私の中で12年もの間抱き続けていた気持ちだった。
「なるほど、心地よい」
 陛下は目を細め、フッと笑う。そして流れるような動きで私の手を取った。
「一曲相手をしてもらおうか。ミューリ・キサット。シラーヴにインスピレーションを与えた軽やかな足取りを、余にも見せてくれ」
「お、仰せのままに」
「そのドレス、あの日の湖を思い出す色だな」
(え……)
このドレスはカイルが用意したものだ。カイルはそこまで考えてこの色を選んだのだろう。

 陛下に手を取られ、私は再び室内へと戻される。
(あ……)
 柱の陰にシャンパンを二つ持って立つカイルの姿が見えた。
 目が合うとカイルはにっこりと笑う。
(カイル……)
 妻を奪われた夫の表情としては不自然だが、カイルに関しては何も不思議ではない。私が陛下に気に入られれば、カイルは出世の夢が叶うのだから。
 陛下の手が私の腰にかかる。曲に合わせ、私は大きく一歩足を踏み出した。