「俺は今から陛下を散歩道へと誘導する。お前は湖の中に入って待て」
「はぁ!? 湖の中に、入る!?」
「あの地点だ」
 カイルが指差したのは、散歩道から近い、湖面が木漏れ日を跳ね返し輝いている場所だった。
「そこでお前は……」
 カイルが私の耳元へ口を寄せ、作戦内容をささやいた。
「そんな、上手くいくわけ……」
「上手くやるんだよ、お前が。それとも陛下への想いは偽物か?」
「! 偽物じゃない!」
「なら、作戦開始だ。お前があの地点に到着したらマントを枝に掛けろ。それを合図に俺も行動に移る。ほら、行け」
(本当にこんなので上手くいくの?)

 私はカイルに言われた地点に到着すると、羽織っていたマントを枝に掛け、思い切って水の中へと足を入れた。
(少し冷たい。けど、慣れれば問題なさそう)

 どれほどの時が経っただろうか、こちらへ近づく二つの足音が耳に届いた。
「陛下にぜひ見ていただきたい景色がございまして」
 カイルの声だ。
 私は水音を立てぬようにそっと滑り降り、胸の辺りまで水に浸かる。
「ああっと、これはいけない。どうやら忘れ物をしてきてしまったようです。急いで取りに戻ってまいりますので、陛下はそちらの木陰にあるベンチでお待ちください」
 足音が一つ遠ざかる。
「ふむ、ベンチとはこれか」
「っ!!」
 心臓が跳ね上がった。低く深く甘い、陛下の声だ。土を踏みしめる足音がゆっくりと近づいてくる。
(もう少し、あと少し……)
 私は水の中で、うるさく高鳴る胸を押さえる。舞台袖で出番を待つ女優とは、いつもこんな思いをしているのだろうか。震える指を固く組み、私は物音に耳を澄ませる。
 やがて、ぎしりとベンチのきしむ音がした。
 カイルの立てた作戦通り、私はその瞬間を逃さなかった。

 パッシャア!

 私は大きく背を逸らし、両手で水をはね上げながら伸びあがった。水面にはねる魚のように。
「ぬっ?」
 陛下の驚く声が聞こえる。だが、私はそれに気づかないふりをする。
「ふふふっ」
 出来るだけ無邪気に笑いながら、私は指先で水面(みなも)をなぶり、飛沫を上げる。腰から下は水に浸かった状態で、ダンスをしながら。首の角度、腕の広げ方、指先の動き、視線の運び方、全てワッザーに教わった『妖精のような動き』を忠実に守って。
 飛沫が木漏れ日を跳ね返し、キラキラと輝く。
 カイルの仕立ててくれたドレスは、水に濡れても胸や腰が透けぬよう、工夫がされていた。それだけでなく、水の中でものびのびと動けるよう特別にあつらえられたものだと、この時になって理解した。つまりこれはただのドレスではなく、ドレスのようなフォルムの水着だったのだ。
 ひとしきり舞った後、私は水面をすべるように泳ぐ。顔を濡らさぬよう注意しながら。

「水の中は気持ち良いか」
 突如投げかけられた陛下の声に、心臓が口から飛び出しそうになる。
(は、話しかけられた!! 陛下が、私に!?)
 私は、初めて陛下の存在に気付いたように振り返り、口を押さえ目をしばたかせる。
「……あっ」
 ドレスは二重構造になっていて、外側の部分は水面に浮かび、妖精の羽のような形になる。
「こ、国王陛下……!」
 すっと目を逸らし、恥じ入るようなしなを作る。頬が赤くなっているのは演技ではないが。
「お、お恥ずかしいところをお見せしました」
「いや、構わぬ」
 陛下は目を細め、クックッと喉の奥で笑う。
「この美しい湖を司る、女神に出会ったかと思ったぞ」
「お戯れを」
「さぁ、我が手を取り上がってくるがよい。名は何と申す?」
(名前、聞かれた!!)
 陛下が私に手を差し伸べてくれている。ずっと触れたかった憧れの人の手。
 その手を取りたい、名前を答えたい。
 けれど私はカイルの立てた作戦に従った。
「私は……、湖の精霊でございます」
「うん?」
「失礼いたします」
 鏡の前で繰り返し練習した、一番の笑顔を返し、私は湖の中へと身を沈める。そして教えられたルートを通って物陰へと身を隠した。
「……」
「陛下、お待たせいたしました」
 カイルの戻ってきた声がした。
「いかがなされました?」
「いや」
 国王陛下の楽しそうな声が聞こえる。
「麗しい、湖の精霊に出会うたのよ」
「はぁ、湖の精霊でございますか」
 二人の足音が完全に遠ざかったのを確認し、私は船着き場へとよじ登る。
(これで、本当にいいのよね?)