美雪が初陣を終えた深夜。
 日付が変わった頃――紅遠は、夢を見ていた。
(……また、この夢か。近頃は見なくなったというのに)
 国主となってから暫く、うなされてきた悪夢だ。
『紅遠。そのような遅い剣では、怪異どころか羽虫も斬れんぞ』
 銀狼の妖人である銀柳は白銀の長髪を靡かせ、風に揺れる柳の枝のようにヒラリと身を躱す。
『銀柳殿、その足裁きは教わってない!』
『教わるのではない、盗め。口答えをしている暇はあるのか? 首と胴が離れるぞ?』
『くそぉおおおっ! 僕は、強い鬼人になるんだ! 父上に、安心して国を任せられると言ってもらえるように!』
 重要な同盟国として、山凪国と紅浜国の社交パーティが終わると――紅遠は、こうして庭園で銀柳から剣を習っていた。
(楽しかった時など……。今の私には振り返っている余裕がないというのに。父上から託された国を護らねばならぬというのに。何故、この悪夢は私に付きまとう……)
 未練や過去は捨て、今後を生き抜く思い出――いや、決意へと変えたはずの過去だった。
『おいおい、紅遠。――敵が一人とは限らないぜ?』
『なっ!? 父上!? 熱、熱い!』
『はっはっは! 早く妖力で消化しないと、火だるまになるぞ~』
『ふむ、戦場では油断が命取り。紅遠よ、朱栄の言葉を魂に刻むのだぞ』
 幼い子にしか見えない、十一歳の紅遠を大人の二人が笑みを浮かべながら攻撃している姿は、傍目には異質だった。
 しかし、それも実力社会を生き抜くための愛だと紅遠は分かっていた。
『妖力を相殺……。これで、どうだ! よし、銀柳殿! 父上、もう油断はしないよ!』
『はっはっは! やるな~。我が子ながら、将来有望だ。妖力の扱いが上手い』
『親バカという奴か。……いや、確かにな。紅遠は剣に関しても、天賦の才がある。――磨きたくなる子だ。うちの馬鹿息子にも、爪の垢を煎じて飲ませたい。願わくば、手を取り合い共に成長してほしいものだ』
『上から目線で、また僕を! すぐに一本取ってやるからな!』
 威勢の良い幼子だった。
 着物姿の朱栄と銀柳は、互いに見合いながら笑みを交わし――。
『そんなら、いっちょ俺様が分からせてやるかな~』
『うむ。己が未熟さを知り、糧とせよ。その生意気な口が、いつまで叩けるかな?』
『僕が二人を倒すまで、ずっとだ!』
 結局、妖力を駆使した戦闘の達人である朱栄と、剣術を駆使した戦闘の達人である銀柳の愛情溢れる指導が長々と続き――。
『畜生……。次は、次は負けない。鍛錬を積んでやるから、また来いよ銀柳殿!』
『天を仰ぎ地に伏せながらも、口は減らないか。……それでこそ我が愛弟子にして最愛の友だ』
『はっはっは! 身体が成熟する年齢の頃には、本当に俺様たちがやられてるかもな。鬼のような成長速度だぜ』
『僕は、最強の鬼人になるんだ! すぐに、明日にでも二人を超えてやる!』
 鍛錬が終わると、言葉遊びで交流を深める三人は、友として笑い声を響かせた。
 そこへ艶やかな黒髪をした一人の女性が、紅遠の視界に映る。
『――今日も鍛錬、お疲れ様でした。はい紅遠様、手拭いですよ。汗をお拭きください』
『ありがとう、正子さん』
 幼い紅遠は漲る妖力と闘志を引っ込めずに、正子と呼ばれた女性から手拭いを受け取ろうとして――。
「――私に触れるな!」
 視界が、移り変わった。
 城の庭園であったはずの景色は、小さな六畳程度の和室になっている。
 部屋の隅では、西洋から輸入した振り子時計が揺れている。
 はぁはぁと荒い息を整え、夜着である黒い浴衣で寝汗を拭う。
「……美雪と正子を、重ねるな」
 ぼそりと、紅遠は呟く。
(美雪は、自由に生きればいい。私に構わず、紅浜国と己の利になるよう生きればいい。……理不尽な仇討ちなどという私情で、国益を損ねてはならない)
 それは、自分自身に言い聞かせているようでもあった。
 時計に目を見やると、怪異が再び活発となる丑三つ時までは、まだ時間がある。
 しかし眼が醒めて――悪夢の続きを見たくない紅遠は、今を生きることにした。
 布団を片付け、畳んであった洗い立ての軍服へ身を包む。
 渡り廊下を通り洋館に入ったところで。懐中時計を確認する。
 時計の針を見つめ少し考えてから、眠っている人間を起こさないよう静かにドアを開け巡邏へ出た――。
 美雪の初陣から、翌早朝。
 車と早馬を飛ばし、訪問の許可を取り戻ってきた使者の言葉を確認してから美雪と紅遠は山凪国へと向かう。
 それぞれ、別の車。別の馬車でだ。
 それを美雪は、やはり寂しく思う。
(形式ばかりの夫婦である。嫁御巫としての必要に迫られた時以外は近付くな、と……。そういう意思表示でしょうか……)
 山凪国へ向かうとあって、折檻されてばかりだった頃を思い出し卑屈になっている節もある。
(あの頃に比べれば、これぐらい遠ざけられられことは何でもないはずなのに……。何故、こうも心が揺れるのでしょう。やはり、自由の範疇を拡大解釈して御迷惑をかけておりますよね……)
 湧き上がる感情に美雪は戸惑う。
 この覚えのない感情による我が儘にも似た言動のせいで、自己嫌悪のような感情に陥る。
 それでも込み上がる言動は止められないのが、どうしようもなく申し訳なく思っていた。
「いっそ、また山凪国で折檻をされれば……。あの頃のように感情を押し込めるのでしょうか」
 本心から望んで出た言葉ではない。
 紅浜国で過ごした時間はごく短時間なのに、以前とは考えられないほどに充実している。
 不安定な自分の心が理解できず、答えの出ない思案を巡らせている間に、山凪国へと着いた。
 順序としては先に国主就任の祝いを述べるのが先なのだが、壬夜銀から指定された時間の都合上、朝原家へ先に婚礼の挨拶に向かうことになった。
 馬車から朝原の屋敷前で降りると
「遠路はるばる紅浜国から足をお運びいただき、ありがとうございます。紅遠様」
「荒ら屋ではございますが、どうぞ中へ」
 朝原家の当主にして美雪の祖父である冬雅と、次代当主である双次が出迎える。
 美雪の方には視線すら向けず、貼り付けたような笑みを浮かべていた。
「出迎え、痛み入る。それでは、暫しお邪魔させていただこう」
 黒い羽織袴を纏う紅遠は無表情で返答し、先導する二人に続く。
「…………」
 美雪は、怪異を前にした時と同じ――いや、それ以上に足が重かった。
(自分で言いだしたことです。……怖じ気づいては、いけません。逃げるなんて、許されません)
 美雪は白い喪服越しに自らの足の皮をギュッと抓り一歩を踏み出し、屋敷の敷居を跨ぐ。
 そうして先導する冬雅と双次、こちらへ半身で視線を向けている紅遠の元へと急いだ。
 通された豪奢な応接間には、古い名家らしく真新しい畳によるイ草の香りや、豪奢な花瓶に掛け軸が飾られていた。
「遅くなったが、これは結納金と我が国特産の絹織物だ。朝原家は神州伝統の文化を大切にすると見受けられる。着物にでも使ってくれ」
「これは……。何と見事な。ありがたく頂戴致しましょう」
 自分は結納品などを美雪に持たせていないのにも拘わらず、冬雅は紅遠の差し出した金と贈り物を迷うことなく受け取った。
 美雪は、感情を押し殺した暗い顔で
(朝原が名家と呼ばれたのも、昔の話。名家としての暮らしを維持する金子に困っているなど、私でも知っております。お爺様の振る舞いが恥ずかしい……。紅遠様も呆れられているでしょう)
 美雪は紅遠の顔を見ることもできず、大人しく正座して空気と化していた。
 嫁入りするはずなのに、話を振られることもない。
 冬雅や双次は、ひたすら紅遠に紅浜国とはどういう国、文化的特徴や政治情勢、怪異からの防衛体制があるのかと尋ねている。
 国家に仕え政治に関わる立場で、継承者や嫁御巫を排出している家系であるから、同盟国の訪問者に尋ねるのが全くの筋違いとは言えない。――だが婚礼とは、一切関係ない。
 まるで、深い内情を知りたいかのような必死さだった。
「――ところで、この場にいる育て親とも呼べる二人に、美雪のことで聞きたいことがある」
 紅遠が尋ねた瞬間、空気が凍った。
 全員が動きを止め、やがて慌てたように冬雅が頭を下げた。
「申し訳ございません! うちの孫は本当に無能で、迷惑をかけてばかりかと思います!」
「し、しかし! 嫁御巫見習い、使用人以下で働きも出来ない姪を選ばれたのは紅遠様です。どうか、我が家の責は問わないでいただきたい!」
「ええ! 不要であれば、また朝原の家で引き取ります故、何卒!」
 媚びるように頭を下げる冬雅と双次の言葉に、美雪は――ここ数日、温まっていた心が急速に冷えていくのを感じた。
(そうでした。私は、調子に乗っていたのでしょう。これこそが、本来受けるべき私の評価……。不要で、たらい回しにされる物も同然の存在。分かっていたはずなのに……)
 顔を沈鬱に項垂れる。はらりと、耳にかかっていた長い黒髪が滑り落ちた。
「勘違いをするな。美雪は嫁御巫としてよくやっている」
「……ぇ?」
 美雪は、思わず声を漏らした。
「先日の怪異との戦闘では、重症者を後遺症も傷跡もなく治癒させた。嫁御巫全体としてみれば、確かに力は弱いのかもしれない。――だが、見習い以下。使用人以下の扱いを受けるような非才さではない」
 紅遠の言葉に、居並ぶ面々は目を剥いている。
「嫁としても、だ。家事や学ぶべきことに対し精力的に取り組んでいると、使用人頭から報告が来ている。……とても、そなたらに無能やクズと悪し様に呼ばれる娘とは思えん」
 美雪の瞳が、じわりと滲んだ。
(そのように評価していただけてる様子なんて、まるでなかったのに……。近付くな、関わるなと仰っていて……。こんな庇うような発言をしていただけるなんて、思ってもみませんでした……)
 あぐあぐと、何を喋っていのか分からない様子の二人に、なおも紅遠は言葉を繋ぐ。
「私が問いたかったのは、美雪の教育についてだ。……これだけ立派な屋敷を持つ名家の出自でありながら、美雪は淑女教育を一切受けていなかった。何故だ?」
「そ、それは……。我が孫は、その……」
「……やはり、母親の罪で差別をしていたのか? それとも、この家の娘は全員が教育不足か?」
「我が娘、玲樺は違います! 立派な淑女です!」
「それでは、やはり美雪だけ差別していたとの認識で相違ないな? 事件当時、二歳であった娘に……母親の犯した罪で差別をした。それでよいのだな?」
 詰問するような紅遠の口調に、冬雅や双次は答えられない。
 忌々しげに口元を歪めるだけだ。
 そんな時――。
「――ご歓談中、失礼します。壬夜銀様の使いが参りました」
 一人の使用人が、正座しながら襖を開き要件を告げた。
 瞳に炎を宿していた紅遠は、小さく息を吐く。
「美雪、行くぞ」
「は、はい」
 美雪を伴い、去ろうとする。
 それを止めたのは、使用人の言葉だった。
「し、失礼ながら、壬夜銀様より紅遠様のみ通すようにと仰せつかっております」
「……何?」
 僅かに声を低くした紅遠に、使用人は平伏して震えながら、必死に伝言を伝える。
「国主同士お二人だけで話したいと! 妻や嫁御巫とはいえ、余人を立ち入らせたくないとのことです! どうか、どうかお許しを!」
 紅遠は少し悩んだ後、頷いた。
「分かった。国主と面会が叶うのは、国主のみ。それが壬夜銀殿の言い分か。事前に文で二人参ると伝え、了承したのを覆すのはいただけないが、それはそなたに言っても仕方がない。……郷に入っては郷に従おう」
 ほっと、空気が緩んだ。
「そ、それでは! ワシら二人が城までの案内を致します!」
「ええ、国賓に無礼があったら、壬夜銀様にお叱りを受けますので!」
「……承知した。美雪、先に馬車で待っていてくれ」
「……かしこまりました」
 ぺこぺこ頭を下げる冬雅と双次に促され、紅遠たちは応接間から出て行く。
 美雪は、まるで使用人のように三つ指ついて紅遠を見送った――。

 美雪が紅遠を見送り、座布団から立ち上がろうとすると
「随分と、あの傾国の鬼人に取り入ったみたいね。流石は、売女の娘といったところかしら?」
「あらあら、そのように言っては可哀想よ。鬼人様も妻として娶った手前、顔を立てないわけにはいかなかったのではなくて?」
「……玲樺さん、和歌子様。いらしたのですね」
 美雪の従姉妹であり壬夜銀の側室の玲樺と、正室の和歌子が入室してきた。
「当たり前でしょう。ここは私の家なのですから。……もっとも、今日は何処かの恥知らずが家に戻ると聞いたから、和歌子様と笑いに来たのですけどね」
「興が削がれましたわ。もっと泣きながら捨てないでと縋る、みっともない嫁御巫紛いの姿が見られると思っておりましたのに。……貴女のような半人前以下と、同じ嫁御巫扱いされるだけでも我慢なりませんわ」
「…………」
 美雪は暗い瞳で、机の上に残された茶を見つめる。
(このお二方は、私を嬲って憂さ晴らしをしたいだけ。私が我慢していれば、いずれ飽きて去るでしょう)
 この家にいると、美雪はどうしても思い出す。
 甚振られて当然。反抗することも許されず、自傷しようとしても治されて――自由に生きる権利も死ぬ権利も与えられなかった日々を。
「何とか言ったらどうなの? 和歌子様が話しかけてくださってるのよ?」
 美雪は、何も言葉を発しない。
 どんなことを言ったところで、無駄だと知っている。苛立ちをぶつけたいがために来た者に何を言っても、神経を逆なでする取られ方をすると学んできた。物心がついた時から、文字どおり身に刻まれている。
(私は紅遠様をお護りするために来たというのに……。城にも入れず、一体何をしているのでしょうか)
 心の中で自分に問いかけても――自己嫌悪に陥るだけだった。
 未来は誰にも分からないとはいえ、ここまで役立たずで不毛な結果になるなどとは予想していなかった。
(せめて、盾ぐらいにはと思っていましたが……。自ら傷口に塩を塗るだけとは。愚かで無能な嫁御巫と言われても、当然ですね)
 無反応な美雪の反応がつまらなかったのか、玲樺と和歌子は忌々しげに顔を歪めた。
「その白い喪服は、何のつもり? 嫁いだというのに、まだ銀柳様へ操を立てて一途です~と主張でもするつもりなの? 汚らわしい」
「本日は婚礼の挨拶で朝原家へいらしたのですよね? それなのに喪服だなんて、無礼だとは思わなかったのかしら?」
 紅遠から買い与えられた白い喪服を馬鹿にされ、美雪は一瞬ピクリと反応してしまう。
 場違いなのは理解していても、大切にしたかった――お気に入りの服だったから。
 そんな美雪の反応を、二人は目聡く見つめた。
「あらあら~、玲樺さん。よく見れば、無能な嫁御巫様には似つかわしくない上質な布だとは思いませんか?」
「ええ、和歌子様。豚に真珠とも言います。相応しいように正すべきだと思いますね」
「そうですよねぇ~。どうしましょうか。引き裂くというのも、芸がないですわよね」
「……それだけは、どうかご勘弁をお願い致します」
 美雪が土下座をして懇願した。
「私を折檻なさりたいのであれば、喜んで裸になります。……どうか、この白い喪服だけはお許しください」
 必死に懇願する美雪を見て、玲樺と和歌子は声を上げて笑った。
「冗談ですわよ、私たちがそんなに酷いことをするわけがないじゃないですか」
「そうですよね。この朝原家の面汚しは私たちをどのような悪人だと思っているのでしょうかね」
 畳の上を歩き周り、二人は色々な角度から土下座する美雪を見下ろす。
 自分の耳のそばを摺る足音に耳を傾けていると
「あっ、座布団に躓いてしまったわ」
 わざとらしい玲樺の声が聞こえ――美雪の頭を伝い、温くなった茶が畳に零れ落ちていく。
「あらあら、玲樺さん。大丈夫ですか? こんなところに座布団があるのがいけないですわね」
「ええ、和歌子様。事故で、たまたま下にあった白い喪服へお茶が零れたのも座布団のせいです」
 土下座を続けていた美雪の口に、茶の味が広がった。
 悔しさと紅遠への申し訳なさで開いた口に、垂れてくる茶が入り込んだのだ。
「玲樺さんのお陰で、白い喪服が芸術的に染まったじゃありませんか。これはむしろ、お礼を言われるべきなのでは?」
「そうですよね、和歌子様。芸術が気に入らないのなら、早く国へ帰って着物を洗うべきでしょうね」
「それがいいですわね。――さて、満足です。私たちは、これで失礼しますわね」
 廊下に出て高笑いをする二人に、美雪は畳へ顔を伏せるように脱力する。
(ああ……。私は、紅浜国で何を調子の乗っていました……。必要とされている、お役に立てるだなんて思い上がりを……。私の生涯など、こんなものだと刻み込まれていたはずでしたのに……。紅遠様、折角のいただき物を汚してしまい、申し訳ございません……)
 初めて誰かに与えられた贈り物すら、自分は護り通せなかった。
 こんな有様で何が国や人を護る嫁御巫だと、美雪は声を押し殺して泣いた――。
 
 美雪が文子と玲樺、和歌子から嬲られ涙しているのと、ほぼ同じ頃。
 山凪国の城では壬夜銀と紅遠が君主同士、顔を付き合わせていた。
 座敷の座布団に胡座をかいて座る壬夜銀。国主に対する礼節を弁え、正座する紅遠。
 壬夜銀の態度は、紅浜国は対等な同盟国ではない。属国紛いの格下だと言わんばかりの横柄さであった。
「……壬夜銀殿。此度は段取りを飛ばした性急なこととはいえ、先ずは国主への就任にお祝い申し上げる」
 そう述べる紅遠の声に、壬夜銀はニヤリと笑った。
「親父殿の葬儀では世話になったな紅遠殿。山凪国主が代々受け継いできた魂刀は、無事に俺の魂刀と合一化を果たした。もう貴殿に妖力で遅れをとることもない」
「魂刀が受け入れた以上、私から何かを言うことはない。……今日はただ、同盟国として国主襲名の挨拶に来たのみ」
「何だ、つまらん。――妖人として、俺とどちらが上か勝負してみたくはないのか?」
「興味がない。国主である私は、国家国民の安寧へ尽くすのみだ」
 挑発する壬夜銀の言葉に、紅遠は乗せられない。
 淡々と語る紅遠の貫禄に、壬夜銀は面白くなさそうな顔を浮かべる。
「そういえば、紅遠殿。俺から奪った嫁御巫とは、楽しんだか? それとも、もう壊したか?」
「……美雪は、私とは離れて暮らしている」
「はっはっは! 婚礼の挨拶も兼ねて山凪国へ来たと聞いたが、思った以上にあのゴミへ執着しているらしいな」
「私がいつ、そのようなことを言った?」
 紅遠の問いに壬夜銀は――灰色の妖気を滲ませ口を開く。
「その瞳から溢れる妖力に聞いたらどうだ? 妖人としての誇りを挑発しても乗らなかった鬼人殿が、一人の嫁御巫を貶された程度で瞳に怒りを滾らせているのだからな」
「…………」
 紅遠は、自覚していなかった。
(こんな男に魂刀を託さざるを得なかったとはな……。銀柳殿の魂も苦渋の選択だったことだろう。銀柳殿が馬鹿息子と表現し憂いていた気持ちが、痛いほどに分かる)
 銀柳から稽古をつけてもらう度、紅遠は毎回のように跡継ぎについて思い悩む銀龍の言葉を耳にしていた。
 国力に差があるとはいえ、この無礼な態度を見れば――虚け者だと理解するには十分だ。
「紅遠殿、知っているか? 俺は何でも手に入れたく、誰かに物を奪われるのが嫌いでなぁ」
「…………」
「特に、俺から奪った相手が、それを大切に扱っているのを見ると――壊してやりたくなるんだ」
 にたりと笑う壬夜銀には、誇り高き銀狼の妖人らしさはなかった。まるで犬型をした怪異のようであると、紅遠は顔を顰めた。
「貴様は、歪んでいるな。銀柳殿も、さぞかし嘆いていることだろう」
「はっはっは! まさに鬼の様な妖力、これだ! 鬼人の怒りが心地良いと感じるとは、やはり俺は強くなった! 親父殿や先祖には、感謝しているぞ!」
「誇りを繋いできた魂刀を、己の妖力増幅装置としかみていないとはな。長い縁のある同盟国として……。同じ国主としても、貴様には成長してほしいものだ」
 紅遠は、要件は済んだとばかりに立ち上がる。
 元々、国主就任の祝いを述べれば同盟国としての義理は果たしたことになるのだ。これ以上、長居をすれば――血気に逸り、手が出るかもしれないと感じた。
「これで私は失礼する」
「何だ、もう帰るのか? いや、惜しいと感じさせる辺り――流石、傾国の鬼人と呼ばれるだけはあるか。成長した俺でも、その妖力を浴びれば精神に多少なり影響を受けるのだからな。美しい顔、佇まい、声――妖力。噂通り、これはたまらんなぁ」
「……私を煽っても無駄だ」
「いや、すまないな。俺はただ、本心を話しただけなんだが?」
 余計に気味が悪いと、紅遠は返答もせず出口へ向かい身を翻す。
「傾国の鬼人という二つ名の由来は、変わり者の奇人と、その容姿の端麗さのみではないな。――力関係も弁えない愚人。それさが新たに加わり、伝えられるだろう」
「……何とでも言うがよい」
「――たとえ魂刀を失い妖人としての価値がなくなったとしても、その魅力的な妖力は惜しいな。亡国の鬼人なった際には、俺が可愛がってやろうじゃないか」
 醜悪な言葉に、押さえ込もうとしても紅遠の妖力が溢れてくる。
 妖力を漲らせれば漲らせるほど、この狂った銀狼の新国主を悦ばせるだけだと理解しているのに、紅遠は止められない。
(同盟国としても、同じ国主としても耳を疑う言葉ばかりだ。……早く国元へ帰り、今後のことを再検討せねばならんか)
 足早に去る紅遠の背中へ、壬夜銀は
「またな、傾国の鬼人殿」
 そう声をかけた。
 紅遠はもう振り返ることも返答することもなく、無言で城を後にした――。

 城の前まで迎えに来た馬車の前では、美雪が顔を俯かせ待っていた。
 喪服姿で顔を青ざめさせている姿に、紅遠は怪訝に思う。
(不要だと言っても頭を下げてきたり、どうだったか尋ねてくるかと予想していたが……)
 美雪が頭を下げて紅遠を迎えられないのは、背中に染みてしまった茶の跡を見せたくなかったからだ。
 朝原家で何が起きたかなど、紅遠は知りようがない。
「そのような暗い顔をして、どうした?」
「……元から、このような顔でございます」
「そんなことはない。紅浜国を出る際は、もっと晴れやかな顔をしていた」
「……お恥ずかしい限りです。せめて顔を俯かせ、ご不快な顔をお見せしないようにしたく思います」
 明らかに元気を失っている美雪に、紅遠は何があったか尋ねて元気づけようと一歩踏み出して――我に返る。
(私が行えば、逆効果だな。思いやりを言動に移すのは、菊や岩鬼に任せればよい。……過ちを、繰り返してはならない)
 グッと歯を食いしばり、紅遠は美雪から視線を外して自分用の馬車へ乗り込む。
 山凪国へ婚礼の挨拶も兼ねた外遊は、訪れた二人の胸に靄をかけて終わった――。

 紅遠と美雪が紅浜国への帰路についている頃、山凪国の城では冬雅と双次の男が恐怖に全身を震わせ平伏していた。
「紅浜国の内情を探る前に、話を打ち切られた、だと?」
「も、申し訳がございません壬夜銀様! 可能な限り、あの鬼人から情報を引き出そうとしたのですが……。あの不出来な孫について、思った以上に深く尋ねられまして!」
「あのままでは鬼人が怒り、我々は斬られていたやもしれません! そんなことになれば、山凪国と紅浜国の戦争の火種となりかねず……。黙るしか選択肢がございませんでした!」
「鬼人の怒りが、どうした? 戦争だ? 望むところだろうが」
 声を弾ませる壬夜銀の言葉に、冬雅と双次は思わず視線を僅かに上げる。
「し、失礼ながら、今……。何と申されたのでしょうか?」
 冬雅の言葉に、壬夜銀は大きく溜息を吐いた。
 こんなことも分からないのかと呆れたような息一つで、二人は冷や汗を更に吹き出す。
「戦争とは、奪い合いだ。互いに欲しいものや護りたいもの、譲れないこと、自分に都合のいいことを押しつけ合うことだ。それが個人か、国家かの違いだけだろうが。勝者は敗者から全てを奪い、押しつける権利を得る。相手が傾いた弱小国で旨味があるなら――戦争なんざ、むしろ望むところだろうが」
 壬夜銀の御代となって、銀柳の国内の政治経済、軍事力を盤石に整える方針が大きく変わったことは、山凪国内で大きな話題となっている。
 古い名家とはいえ、今は重要な役職にも就いてない朝原家の二人は、壬夜銀の苛烈なまでの国土拡大政策、野心の大きさに驚愕せずにはいられなかった。
「国主の意も汲めない無能さとはな。……朝原家は、もっと没落したいらしいなぁ」
「め、滅相もございませぬ! 粉骨砕身、山凪国と壬夜銀様のために、この老骨と朝原の家は尽くします!」
 必死の形相で、悲鳴のような声を冬雅が発する。
 そんな様子に鼻を鳴らしながら、壬夜銀は胡座を解いて立ち上がり――。
「――俺の方針は、欲しい物は奪う。誰にも俺の物を奪わせないだ。それが神州全土だろうと、国を傾ける美貌を持つ妖人だろうと、ゴミ同然の嫁御巫だろうとだ。……後は、分かるな?」
 二人の返答も聞かず、一方的に告げ壬夜銀はズカズカと足音を鳴らし去って行った。
 禍々しいまでの妖力と重圧感が去り、やっと冬雅と双次は安心して息を吸える。
「……双次。壬夜銀様の御言葉、我々はどう動くべきだと思う?」
「策略を練らねばならないでしょう。……まずは、取りやすい駒から取る。そして、取りやすく盤面を動かすのが定石です」
「つまりは、何故か美雪などを気に入ってるあの奇人に、心変わりを起こさせる……か」
「ええ。あるいは、美雪という駒が孤立せざるを得ない状況を作り出すなど……。それで本命が釣り出すのが定石かと」
 家の存亡、自身の命。
 朝原家を背負う二人は、生き残りの為に思索を巡らせ続けた――。

 山凪国から帰国してから数日が経った早朝。
 美雪は山凪国で虐げられていた悪夢にうなされ、陽が昇るよりも早く目覚めた。
 洗濯を終えた大切なもの――白い喪服へと身を包み、美雪は厨房に向かう。
「おはようございます、紅遠様」
「……ああ」
 軍服の裾を泥で汚した紅遠が、少しだけ振り向き返答をする。
 丑三つ時に活性化した怪異を退ける戦闘に、美雪は参戦を許されていない。
 岩鬼の監視の目がある逢魔が時の際にのみ、何とか同行させてもらっている現状だ。
(私が信用なんて、されるはずがございませんよね……。菊さん、岩鬼様。ご期待に添えない、役立たずで申し訳がございません。……紅遠様は、ゆっくり寝る間もなく毎日奔走されているのに、私は信用されることも求められることも……)
 連日、紅遠が館にいる時間は極めて少ない。
 菊が、いくら人智を超えた妖人といえども心配だと言っていたのも納得できる働き方だ。
 これでは――妖力が貯まる暇がない。それどころか、いずれは尽きてしまうのではないかと美雪でも不安に思う。
 国を護る役目のため、己の全てを犠牲にする覚悟で戦う紅遠の生き様に――美雪は、強い憧れと敬意を抱いていた。
「妖人を支える嫁御巫でありながら、主君より遅く目覚めてしまい申し訳ございません」
「つまらぬことを気にするな。寝不足では、今日の逢魔が時を乗り切れんかもしれんぞ」
 心なしか疲れた声で、紅遠は返答をした。
(やはり……お疲れのご様子。ここ数日、以前にも増して怪異が増えているせいでしょうか)
 昨日の逢魔が時、岩鬼から美雪が聞いた情報だ。
 理由は定かではないが、怪異が明らかに以前よりも多く紅浜国へと押し寄せているらしい。
 本来なら防衛を破られていたかもしれないが、紅遠が身体強化にも妖力を用い単身で戦場を駆け回っているお陰で、ギリギリ持ち堪えられているとのことだ。
(私の力も大きいなどと言ってはくださいましたが……。もう、調子に乗るような真似は致しません。図々しく口を挟まず、いただけた役目を全力で果たします)
 山凪国で自分の無力さと立ち位置を再確認させられたことが、美雪の心にへばり付いて離れない。
 虐げられることには慣れていても、大切なものがそもそも無かった美雪だ。大切と思えたものを護れなかったことが、経験したことがないほどに強く心を傷付けた。
 やがて料理を作り終えた紅遠は、見守っていた美雪の前を通り過ぎる際に
「家事に淑女教育、巫女修行も、山凪国から戻ってから一層と励んでいるようだな。休める時には、休め。……逢魔が時の防衛でも、倒れることは許さん」
「ありがとう、ございます」
「礼は不要だ。美雪の命を散らすのが許されるのは――その身に流れる血に恩讐を抱く俺だけだ。ゆめゆめ忘れるな」
「……はい」
 美雪の返答を聞き再び歩きだした紅遠の持つ盆に、乗せていた味噌汁が少し零れた。
 足下のふらつきを見ると、相当に疲弊していることが分かる。
 思わず支えようと手が出る美雪だったが
『これ以上、私に近付くな』
 紅遠から告げられた言葉が脳の中で再度聞こえ、手を止める。
 美雪はそのまま無言で、離れまで去って行く紅遠を見送る。
「……命じられた役割を、こなす。私のように能力不足な者が余計な真似をすれば、大切なものを失うだけ。……そう、ですよね?」
 洗濯をしても染みが少し残った白い喪服を擦りながら、美雪は紅遠の去った方角へ呟くように尋ねた。
 自分がどうすべきかも分からず、美雪は迷子のように顔へ不安を滲ませた――。
 
 忙しい日課を終え、今日も逢魔が時がやってきた。
 連日、数を増す怪異であったが――。
「――この数は、どうなっているのだ!? 美雪殿、もっと安全な後方で負傷者の治療をお願いします! 某の後ろからは、決して前に出てはなりませぬ!」
「は、はい。岩鬼様」
 この日は、美雪から見ても異常な数の怪異が押し寄せているのが分かった。
 黒い靄の怪異は地平線の彼方まで続き、黒い闇が大地を塗りつぶしているようにも見える。
 空を飛ぶ怪異は雲のようで、合間から差し込む逢魔が時の黄昏色の光がまるでカーテンのように地上へ降り注ぐ。
 岩鬼の中で貴重な嫁御巫として戦力に数えられている美雪は、それなりに激しい猛攻に晒される場にも参陣するようになった。
 それでも――この数は、歴戦の岩鬼ですら対応が困難なほどの異常性だった。
 半開きにした門の前で、最後の壁として立ち塞がる岩鬼も肩で息をするほどに疲弊している。
「くそ、この数では……。他の駐屯地の状況は!? 継承者をこちらへ回せぬのか!?」
「ダメです! 何処もギリギリのようで、こちらへ回す余力はありません!」
「くそっ! 持ち堪えろ! 倒そうと思うな、遅滞戦闘に努めよ!」
 岩鬼の指揮に、継承者たちは連携して押し寄せる怪異を押しとどめようとする。
 負傷兵が出れば、徐々に壁のように立ち向かっていた者が減る。
 怪異は着々と、門まで近付いてきていた。
「ぐっ……。畜生、畜生……」
「美雪様、お願い致します!」
 半開きになった門の後ろで待機していた美雪の元へ、重傷を負った継承者が運ばれてくる。
「は、はい」
 美雪はすぐに手に紅い妖力を込め、鮮血が溢れ出る傷口へ手を当てる。
 直接、美雪の手から治癒の妖術を受けた継承者の傷は、みるみる塞がっていく。
「お、俺は、助かったのか……。ありがとうございます、白き嫁御巫様。貴女様は、命の恩人だ」
「いえ……。私など、大した力はございません」
 血に染まった手を握りながら、美雪は卑屈なまでに謙遜をする。
 傷が塞がった継承者は、寝ている間は無いとばかりにすぐに立ち上がり、軍刀を抜いて門から飛び出す。ピストルを撃ちながら、再び戦列へと戻った。
 そうして負傷者が運び込まれてはすぐに戦線復帰してを繰り返していく――。
(――そこまでして皆が戦うのは……。紅浜国に、いえ……。紅遠様に厚き忠誠心があるからなのですね)
 戦場の至る所から、檄を飛ばす声が聞こえる。
「紅遠様の国に、貴様らを立ち入らせてなるものか!」
「我が祖国、我らが主の盾となって散るのは本望よ!」
「あの方がされている労を思えば、この程度の戦は何てことない!」
 紅遠が、如何に継承者や軍人たちから支持されているのか、美雪は皆の奮戦で理解する。
(ここまで慕われるなんて……。一体、紅遠様は彼らにとって、どのような存在なのでしょう。妖人というだけでは、ここまで人々は付いてこないはずです)
 人望厚き名君と謳われた銀柳に従う者たちでさえ、ここまで己が命を捧げる者は多くなかったはずだ。
 美雪は、紅遠がここまで敬服されるに至った経緯、半生すら教えてもらえない寂しさを打ち消すように、ひたすら治癒と守護の結界で補佐を続けた。
 そうして、しばらくが経過した頃――。
「――何だ、これは……。怪異たちが、一斉に進む方角を変えていくだと? このような現象……通常ではないぞ」
 門を打ち破ろうと進んできた黒い靄が、一斉に別の方角へと向かう。
 岩鬼が驚愕の声を発するのと同時に、美雪も肌に強い違和感を覚えていた。
「岩鬼様、僭越ながら……。少々、別の妖気が混じった術の気配のような、肌がひりつく感覚がいたします」
「何者かの妖術の気配を感じる……と? 分かりました。皆、警戒を怠るな! 今のうちに負傷者は治療を! 妖力を込めた銃弾も補充をしておけ! 何時、怪異が戻って来るか分からぬぞ!」
 美雪の言葉を疑うことなく信じた岩鬼は、声を張り上げてすぐさま指示を飛ばす。
 これが勘違いだったらと心苦しくなる美雪を余所に、継承者たちは水を補給したり武具の手入れをしたり、体力の回復をしながらも警戒を続ける。
 だが逢魔が時が終わり夜の闇が訪れても――怪異が再び姿を顕すことはなかった。
(私の、勘違い? やっぱり足手まといで場を引っかき回すしか、私には出来ないのですね……。余計な口を挟んだばかりに……)
 警戒を続けず素直に休息を取っていれば、丑三つ時の防戦が楽になったはずなのに。
 美雪が、そう自分を責めていると――。
「――伝令です! い、岩鬼殿! 今すぐ官公庁へお戻りください!」
「どうした、その慌てようは。何があったのだ? まさか……何処かの駐屯地が破られたか!?」
 車から駆け下りてきた、位の高そうな徽章を付けた軍服の男は――辺りを見廻し、岩鬼に顔を近づける。
「動揺を招くので、決して他者へ聞こえぬように……。御言葉にはしにくいのですが――紅遠様が怪異にやられ……棺に入ってお帰りになられました」
「なん、だと……。馬鹿な、紅遠様が……。どういう、ことだ? あの御方の力で、敗れるなどとは――」
「――そん、な。……それは本当、なのですか?」
 岩鬼のそばを離れるなという指示を忠実に護ろうとした美雪は、その声が聞こえてしまった。
 美雪は顔面を真っ青に変え、膝からアスファルトへ崩れ落ちる。
「……美雪様。残念ながら、事実でございます」
 伝令の軍人は、歯噛みしながら告げた。
 信じたくない言葉を告げられた美雪は、瞳を夜闇よりも暗くし首を振る。
「……棺に入って、紅遠様が戦場から? そんな、ことが……。私が、私が盾になれる、一人前の嫁御巫だったら……。こんな、こんな無能で役立たずな嫁御巫で、申し訳が……」
「……美雪殿」
「他の、他の嫁御巫様は!? 私では無理でも他の一人前の嫁御巫様なら、治癒の妖術が使えるはずです! 遠隔の地を護られているとしても、すぐに連れ戻せば――」
「――美雪殿!」
 半狂乱になるほどに動揺している美雪の肩を、岩鬼が掴む。
 肩に食い込むほどの力に、美雪は僅かながらも平静をとり戻した。
「今は動揺している間も惜しい。とにかく一秒でも早く駆けつけねば!」
「私は、合わせる顔が……。紅遠様のお顔を見る資格が……」
「弱気になられるな! 美雪殿も、某と共に行くのだ! 早く!」
「は、はい……」
 腰の抜けたように脱力した美雪は、岩鬼に引きずられるように車へと乗せられる。
 とんでもない速度で道路を走りガタガタ揺れる車内で美雪の脳内は真っ白になっていた――。

 官公庁の前では、物々しい装いをした一般兵が数十と警備をしている。
 そんな間を通り、岩鬼と美雪は駆ける。
「こちらです、お早く!」
 息が切れても美雪は疲れなど感じない。まるで宙を浮いているかのような不思議な感覚だった。
 岩鬼に腕を引かれ、汚れた白い喪服の裾を乱しながら全力で最上階を目指す。
 そうして紅い絨毯が敷かれた一室に
「紅遠様!」
 岩鬼が叫びながら、ノックもなしに駆け込んだ。
 室内では、白衣に身を包んだ医師やスーツ姿、軍服姿の高官が居並んでいる。
 一つの棺を囲むように立つ。その姿は、まるで葬儀のようだった。
 美雪は、ふらふらと幽鬼のような足取りで――。
「――紅遠……様?」
 棺の中で、傷だらけになり横たわる紅遠の顔を見て、棺の縁へ手をついてへたり込む。
 傷だらけになり目を閉じている姿は、青白い顔となっても――美しかった。
「一体……どういうことだ!? 何故、紅遠様が敗れる! この御方は、史上最強と謳われた鬼人様だぞ!? 何があったのだ!?」
 岩鬼の雄叫びが、部屋の調度品を震わせる。
 戦場の土埃で軍服を汚した男が一人、悔しげに拳を握り前にでる。
 重々しく口を開くと
「怪異の群れを紅遠様は、お一人で……。その結果が、これです」
「ふざけるな! たかが怪異の群れ如きに紅遠様が遅れを取るわけがなかろう!?」
「最も怪異が押し寄せた山凪国側の要塞へ、巡回されていた紅遠様が駆けつけられた時でした。他の門に押し寄せていた怪異も全て一斉に紅遠様の元へ……。膨大な妖力を消費して魂刀を顕現させられました」
「あの大軍……国中の門を襲っていた全てが紅遠様の元へだと!? それを、お一人で……。しかも魂刀を振るわれたとは……。それでは、連日すり減らしていた妖力が……」
 妖力とて無尽蔵ではない。
 海のように終わりの見えない大軍に対し、身体強化にも妖力を用いて駆け回った紅遠の妖力が付き――妖術を使えなくなる中、蹂躙されながらも奮戦する紅遠の姿が容易に想像できた。
「逢魔が時が終わる迄、妖力が尽きてなお奮戦し、殆どの怪異を単身討ち滅ぼされたのですが……。負った傷は、甚大でした。怪異に向かい立ったまま……」
 その背に紅浜国の民を背負い、最期まで――地に背を伏せることはなかった。
「目立たぬよう、殉死した将兵と同様に棺に入れて運べと指示された後、もう目を覚まさないのです……」
「ご、ご存命なのか!?」
「今は、まだ……。治療の甲斐も虚しく、徐々に妖力と呼吸が弱まっております。このままでは……」
「何という、ことだ……」
 岩鬼も両膝を床に突き、拳を振るわせている。
(まだ、生きて……いらっしゃるのですか?)
 美雪は、そろそろと紅遠に向かい手を伸ばし――。
「――美雪殿! 紅遠様に触れられては……。いや、妖力の尽きかけた今なら問題ないのか?」
「……岩城様。他に手がないというのなら、もう一度だけ我が儘をお許し下さいませんか?」
 山凪国で嫌というほど――思い上がっていた自分を叩きのめされた。
 自由意志など持つべきではなく、言われた通りにしていろ。喋るな、首を垂れて従え。余計な真似をしなければ、大切なものを穢されずに済むのだ。
 そう心に刻まれたが――結果はこうなった。何もしなかったとしても、失ってしまう。
 美雪は鎖に絡め取られたように鈍く、そろそろと紅遠の頬に両手を当てる。
「力至らぬ嫁御巫でも……。どうか、どうか! この御方だけは!」
 自分を山凪国という牢獄から――引きずり出してくれた美しき人。
 あらゆる鎖を断ち切り、大切な何かや考えること、未知の感情を教えてくれた――恩人。
「紅遠様、皆が……」
 単身、大海原の如き怪異の群れにも負けず、己が役割を遂げる――敬愛すべき鬼人様。
「皆が、貴方様をお待ちしております! どうか、帰ってきてください!」
 美雪の涙が雫となって顎先から落ち、紅遠の頬へぽとりと落ちる。
 身体中の血液を掌から全て注ぐような、銀混じり紅い妖力が――紅遠の身体へ流れていく。
「いくら美雪殿が癒やしの妖術を使える嫁御巫といえど……。やはり、難しいか」
 妖人の身体は、妖力の塊だ。
 人の身である嫁御巫が治癒を施したとして、焼け石に水。軽傷ならいざ知らず、命の灯火が付きかけているのでは……と、皆が目を伏せた。
 穴の空いた桶に、水鉄砲の水を注いだ所で……妖力が抜け落ちていくのは、防げない。
 それでも――美雪は諦めなかった。
「紅遠様、逝かせません! まだ、私の料理すら食べてないではないですか! まだ、港を案内していただいたり、街を練り歩いたこともないではないですか! まだ、一緒に戦ったこともございません! 嫁を岩鬼様に任せて……旦那様としての役目も、果たされてください!」
 慟哭とも呼べる声を上げ、ありったけの妖力を振り絞る。
 そうして一層――銀の多く混じった妖力が、紅遠の身体を包む。
「こ、この妖力は!? 懐かしき、この妖力は……」
 目を大きく見開いた岩鬼は、遠き思い出を振り返っていた。
 在りし日の……眩しい銀色の妖力を振りまきながら、紅遠と剣を交える銀柳。
 紅遠にとって、生涯で唯一人の師にして――最愛の友。
 銀柳の妖力を思い起こすほどに強く、類似した力を発した後――。
「――美雪殿!? 美雪殿、しっかりしてください!」
 意識を失い、崩れ落ちた。
 棺に横たわる紅遠に、白い喪服姿で涙を流す美雪が覆い被さるような光景だった――。

 紅遠は、遠き――辛い過去の最中にいた。
(私は今……走馬灯を見ているのだな。よもや、この思い出を最期にみせられようとは……)
 傾国の鬼人が誕生した瞬間。
 無意識に、大罪と――紅浜国を傾けるような事件を起こした瞬間だった。
『正子! 僕に何をするつもりだ!』
『……紅遠様。紅遠様のために、私の全てを……』
 正気じゃない瞳で、城の――紅遠の閨に這いよる正子。
『止めろ、こんなことをして許されると思っているのか!?』
 十一歳の紅遠が、恐怖に絶叫の声を上げ部屋の隅まで後ずさる。
 それでも正子は――微笑みながら、愛おしそうに紅遠の元へ這いよっていく。
 その瞳に理性はなく、意思もない。
 紅い妖力に――正気を奪われているのが、紅遠にも理解ができた。
『正子、落ち着け! 山凪国と紅浜国の……。いや、朝原家も唯では済まなくなるぞ!? 生まれたての娘が国で待っていると言ってたじゃないか!』
『ぁ……』
 一瞬、正子の動きが止まる。
 瞳では正気の優しい黒色と、紅い妖力が――せめぎ合っていた。
『朝原家の麒麟児として課せられた、この交換留学を終えて戻った時……。娘が覚えていてくれるか、また腕に抱かせてくれるか。不安そうに、それでも愛おしそうに僕へ語っただろう!?』
『ぅ、ぅう……』
『……さぁ、誇り高く優秀な嫁御巫として……母としての役割を思い出せ。正子、そなたは……よい母だろう?』
 それは、紅遠の優しさだった。
 最高の同盟国として山凪国で随一の――麒麟児とまで称される嫁御巫、正子を銀柳は交換留学生として紅浜国へ送り出してくれた。
 それからは愛おしい娘の分まで可愛がるかのように、紅遠を我が子の如く世話してくれた。
 炊事に洗濯、先日の稽古の時にあった、汗を拭くような些細なことまでだ。
 そんな優しい正子が正気に戻ってくれると信じて――紅遠は、慈愛の籠もった瞳で正子を見つめる。
 動きを止めようと、葛藤に藻掻き苦しむ正子の肩に優しく触れ――。
『――ぁ、ぁあああ! 愛おしき紅遠様……。紅遠様に、私の全てを捧げたいのです!』
 その瞳が、完全に紅く染まった。
『正子、止めろ! 離せ! 本当に、僕はお前を斬るぞ!?』
『愛おしき紅遠様の手でなら、斬られても満足です。私の全ては、紅遠様のもの……』
『止めろ、止めろぉおおお! 正子、僕が愛おしいというなら正気に戻れ! 戻ってくれ!』
 紅遠の絶叫が、城に響き渡る。
 すると、ドタドタと廊下を走る音が響き――。
『紅遠様、何ごとで――ま、正子殿!? 紅遠様に何をなされている!?』
 岩鬼が腰に佩いた軍刀を抜刀しながら尋ねた。
(岩鬼……。そうか、十七年前は、まだこうも若かったか)
 最早、命はない。最期の走馬灯だと諦めの境地にある紅遠は――ふっと笑いながら、この光景を黙って回顧する。
(私は……愚かだった。傾国の鬼人、奇人、愚人と嘲笑されても仕方がない。このような逆効果で……正子も、美雪も、父上や紅浜国さえ不幸のどん底へと陥れたのだからな)
 抜刀した岩鬼は、戸惑いながらも正子を紅遠から引き剥がそうとする。
『邪魔をしないで! 紅遠様は、私が護るんです!』
『く……。一体どうされたと言うのだ!?』
『紅遠様を護る邪魔をするお前は、敵……』
『な、攻撃型の妖術!? 紅遠様の前で、それを使わせるわけにはいかん。――正子殿、御免!』
 そうして――岩鬼は、正子を斬った。
『ぁ……。紅遠、様。愛おしき、我が主……』
 命が果てる、その瞬間まで……正子は、紅遠の元へ這いずろうとしていた。
 他の家臣達や紅遠の父である朱栄が駆けつけるまで、紅遠と岩鬼は途方に暮れて正子の亡骸を見つめた――。
 そうして、走馬灯に映る場面は移り変わる。
 正子の出身であった山凪国と、紅浜国の重鎮が検分役として居並ぶ。離れたところでは、両国の軍人が山ほど見守る大地。
 銀柳もまた、凜とした瞳を浮かべて床几に座していた。その視線の先には、二人の親子がいる。
 桜の花弁が舞う下、白い死に装束に身を包み畳の上に正座する朱栄。
 そして己の産み出せる、焔のような紋様が飾り彫された白刃の魂刀を抜く――幼き紅遠。
『……父上、これで本当に満足、ですか?』
『何を言ってやがる、紅遠。当たり前じゃねぇか。俺様はな、これから世界一格好良い責任の取り方をするんだぜ?』
『…………』
『麒麟児を失い、戦意が高まる山凪国。次代国主になるの妖人を手籠めにされかけたと、軍備を整えている紅浜国。アホなことで血を流す戦争を止めるには、これしかねぇのよ。国主である俺様が、文字どおり身を切って意志を示すってな』
 切腹という死の間近だというのに、朱栄は飄々とした様子を崩さない。
 紅遠は知っていた。誰よりも陽気であっけらかんとしていた父が、誰よりも真剣に国を護ろうと必死だったことを。
『父上……。最期に、辞世の句を』
『おいおい、紅遠。俺様が句を詠むのが下手くそだって、分かって言ってるのか?』
『……父上の言葉を、今後数百年の記憶に刻みたいのです』
『……はっ。いいぜ、紅遠には俺様の国を急に任せることになっちまうんだ。我が子の我が儘、遊びに付き合ってやるのも、これが本当に最後だしな』
 涙をグッと堪え、紅遠は父の――最後の雄姿から目を離さない。
 朱栄は、舞い散る桜の花弁と紅遠、そうして遙か遠くに見える紅浜国を見つめ――
『――紅浜の地に、縛るる親心、散りにし後ぞ、君やまもらむ。……どうだ? 才能ねぇだろ?』
 紅浜の国を護るために縛りつけた親心は、私が死んだ後にこそ紅遠を護るだろう。
 紅遠が要約すると、句の意味はこうなる。
 それは今生に別れを告げると同時に、自分が死んだ後も魂刀となって紅遠を護るという想いとして伝わる。
 決して死で終わりではなく、しがらみだらけの今生でみせた親心は――散った後にこそ、お前を護り続けられるぞという意志の籠もった句だった。
 幼くして実の父を介錯する息子の心や人生を護るという決意は、亡くなる人が生涯をどう生きたかを現す句として相応しくはないのかもしれない。
 それでも、親として死んでも魂刀となり紅遠を護るという最期の宣言。
 深い父親からの愛情を感じた紅遠は、胸が締め付けられる思いだった。
『……才能とか関係ない。僕は――私は、父上の跡を継ぐ者として、しかと胸に刻みました』
『はっ。それなら良かった。……紅遠、お前は俺様や銀柳より、遙かにデカくなる男だ。……紅浜国を、俺様の大切な国家国民を頼むな。紅遠になら、安心して任せられるぜ』
『死力を尽くすと、お約束します』
『……けっ。最期に大人びた姿を見せやがって。はなたれ小僧が……親を泣かせるんじゃねぇよ。――さぁ、やるぞ。国を、民を護る第一歩だ。覚悟を決めろ』
 頷いた紅遠が、震える小さな手で――魂刀を上段に構える。
 カタカタと震える魂刀を見て、朱栄は笑いながら己の魂刀を手に持ち――腹を、横一文字に裁いた。
 死に装束に、紅い色が染まっていく。
 実の父親であり、常に背を追ってきた存在が血に染まっていく様子に――紅遠の握る魂刀が、更にカタカタと激しい音を立て震える。
『くお、ん……。迷うな、躊躇うな……』
 痛む腹に耐え、絞り出す朱栄の声に、紅遠の瞳から涙が溢れる。
『国を、民を……。お前が大切に想うものを、護ると……。――覚悟を示せ!』
『ぁ、ぁああああああッ!』
 父をなるべく苦しめないよう紅遠は――渾身の一振りを打ち下ろす。
 皮肉なことに、銀柳と死力を尽くして磨いた、大切なものを護るための剣術が初めて斬った相手は――紅遠の父となった。
『……見事な最期であった。我が最愛の友、朱栄。そして、紅遠。――皆も、我が友の立派な最期と意志を耳にしたであろう!? 此度の件は、これにて済んだことだ。よもや、同盟の継続に異議を唱えるものはおらぬな!?』
 咆哮のような銀柳の声に、誰も異を唱える者はいない。
 それぞれの義によって戦火を燃やそうとしていた両軍も、居並ぶ重鎮も、嗚咽を上げて頷くことが答えだった。
 銀柳は立派な最期を遂げた盟友である朱栄の首を、大切に首箱へと納める。
 そして、血に濡れた魂刀を未だに震わせ佇む紅遠を、そっと抱きしめた。
『紅遠……。よく頑張った。お前の妖力は強く、異質だ。ワシを除けば、他の妖人だろうと触れられて抗える者は少なかろう。故に、人肌の温もりを感じられるのも……これが最後かも知れぬ。存分に、甘えるといい』
 いつも厳しく鍛錬をつけてきた銀柳の優しい声音に、紅遠は片手を回そうとして、止めた。
『銀柳、殿……。ありがとう。だが、僕は……。いや、私は――強い国主として、歩まねばならないのです。どんな孤独にも、耐えてみせます』
 銀柳が紅遠を抱きしめる力が、一層強くなった。
 肩を振るわせ顔を自分の背に埋める銀柳は、泣いているのだろうと紅遠は感じる。
 身を寄せ合う二人の横で、朱栄の亡骸から――溶岩のような紅い魂刀が浮かび上がる。
 代々紅浜国へ伝わり、朱栄が受け継いだ魂刀――朱栄の魂だ。
 覚悟を決めた紅遠は、銀柳の優しい温もりから離れ
『ご先祖様、父上……。私に、愛しき全てを護る目的と果たす手段を……。残された意志を果たす何者をも焼き尽くす刃、何者からも護り得る盾を、お預けください』
 己の魂刀を、朱栄の魂刀へ重ねる。
 途端、溢れんばかりの紅い妖力が広がり、桜の花弁が旋風に吹かれたかのように舞う。
『……お認めくださり、ありがとうございます』
 紅遠の手には、新たな魂刀が握られている。
 沈む夕陽のような哀しくも胸を焦がす黄昏色に、焔の如き飾り彫が刻まれていた。
 それは――襲名の儀が無事に終わった証であった。
『この魂刀は、父上が最期に残した御言葉のように……。国や民、大切な者を護る時にのみ振るわせていただきます』
 新たに産み出た魂刀を胸に当て――自分の魂へとしまい込んだ。
(父上……。銀柳殿、私は……何も護れぬ弱き国主でした。あの世で二人に詫びたいのに、二人の魂は刀に宿ったまま……)
 思い出さないようにしていた幼い頃の光景を見せられた紅遠は、心の中で詫びた。
 これで紅浜国も、象徴である魂刀を失い滅びるだろう。
 生涯の師であり、最愛の友である銀柳の魂が籠もった魂刀も――力に溺れた壬夜銀の手に渡ってしまった。
 それが口惜しく、何も成せず死ぬことが惜しい。
 そう感じている時――何か、頬の辺りに妙な感覚がした。
(何だ、この温もりは? 頬を伝う感触は、一体……)
 その温もりに触れた時、紅遠の視界は過去から去った――。

 紅遠が次に目にした最初の光景は、西洋から渡ってきたシャンデリアの下がる天井だった。
「……ここは?」
「――紅遠様!? おお、まさか本当に……」
「紅遠様が目覚められたぞ!」
「奇跡だ……。我らが主、そして嫁御巫様は、荒れた神州を救う神の顕現だ!」
 騒がしい。
 そう感じた紅遠が起き上がろうとした時――。
「――美雪?」
 自分に覆い被さる重みを感じ目を向けると――美雪が胸の上で眠っていた。
「……何故、私に触れて……。いや、この温もりは……」
 自分が触れているのが――走馬灯のような中で掴んだのは、頬に触れた美雪の手の温もりだったのだ。そう紅遠は、悟った。
「美雪殿が、死の淵に立たされる紅遠様を引き戻されたのです。癒やしの妖術を……。銀柳様の御力を感じる妖力を振り絞って……」
「……私に触れて、命を投げ打ったということか」
「違います。美雪殿は……正気の瞳、発言をしておられました。あの時とは、違います」
「…………」
 岩鬼は、正気を失った正子を知っている。
 だからこそ、その言葉を紅遠も信じられた。
 同時に――驚愕で言葉が出ない。
 偉大なる妖人である銀柳が、自分に触れて抗うことができる者はいないだろう。人肌の温もりを感じることは、もうないだろうと言っていたのだ。
(いや……。私が死に瀕して、妖力を失っていたからか)
 それならば、一応の納得がいく。
(人肌の温もりなど、十七年振りだ……。だが、このままでは……)
 紅遠が触れた美雪の手は、冷たい人形のようになっていく。このままでは、間もなく死ぬであろうことは目に見えて明らかであった。
(また限界を超えた妖術を……。美雪は、何故そう何度も自分の命を自分の意思で投げ打てるのだ。……強い娘だ)
 何としても命の恩人である美雪を救いたいと、紅遠は思う。
 そっと美雪の髪を掻き分け額――気の出入りする神眼を露出させた。
(こうするしか、美雪を救う手立てはない。……賭けではあるが、見殺しにはできん)
 去りゆく命を救うため、妖気を込めた手を美雪の額に近づける。父を斬った時のような震えが、止まってくれない。
 走馬灯の中で、肩に触れた瞬間に正気を失った正子の姿が――紅遠の脳裏に過る。
「美雪。……負けるなよ」
 それは、自身に対しても言った言葉だったのかもしれない。
 紅遠は――恐怖に打ち克ち美雪の神眼に手を当て、妖気を流し込む。
 命を救うだけ、必要最低限の妖力に留めたつもりだ。それでも――直接触れて、紅遠の妖気を感じたことには変わらない。
 美雪が正気を失っていた時、自分は果たして刃を振るえるだろうかと紅遠が不安を抱いていると――。
「――ん……。紅遠、様?」
 美雪が、紅遠の胸の上で目を開いた。
「紅遠様! ご無事だったのですね!? 命が助かって……。本当に、本当に……よかった」
「美雪……。大切な問いだ。答えよ」
「……はい」
「私に触れて、どう思う?」
 初陣を終えた後に紅遠から問われた謎の問いと、ほぼ同じだ。
 だが以前の戸惑うような声音ではなく――紅遠の声に、強い不安が混じっていた。
 美雪は、言葉を選ぶように
「怪異の群れも恐れずに命をかけて紅浜国を救う、立派な鬼人様かと思います。私のような、自由にすると場を掻き乱し、罪を犯した血を引く人間を迎えてくださる、奇特な方かと……」
「……他は? 私への不満や文句はないのか?」
「えっと……。家事では少しお役に立てるかと思いますので、もう少し休んでいただきたいのが本音です。あとは、国民を動揺されないためとはいえ、棺に入れさせて運ぶのもお控えいただければと思います。……目にした時、心臓が止まるかと思いました」
「そうか。そうか……。冷静に苦言も呈することが、できるのだな」
 心から安堵した様子で、ほっと紅遠は呟く。
「あ……。私はまた、差し出がましいことを申しました。申し訳ございません」
「こんな女性、いや……。人間は初めてだ」
「ぶ、無礼でございましたよね。本当に、何とお詫びすればよいか……」
「美雪、後で話がある」
 折檻されるのを覚悟して、美雪は身を強ばらせる。
「館へ戻ったら、私のいる離れに来てくれ」
「え……。私が入っても、よろしいのでしょうか?」
「よい。結界も、解いておく」
「ぁ……。はい、承知しました」
 やっと少し、紅遠との距離が縮まったのかと――美雪は声が弾む。
 紅遠は花に触れるような優しい手つきで美雪を身体から離し、棺から立ち上がる。
 姿勢を正すと居並ぶ国家の重役たちに向け、国主としての冷静な眼差しを向けた。
「皆、此度は心配をかけたな。だが、怪異の大半は打ち破った。警戒は解けぬが、暫くは侵攻も和らぐだろう。よくやってくれた」
 国主が顕在であると示し労を労う言葉に、皆が片膝を付いて瞳を滲ませる。
 岩鬼は顔を上げ、紅遠に向かい朗らかな笑みを向けた。
「紅遠様が直接、御自ら護ってくださったお陰でございます。今後の対応や怪異対策は某たちが行います。どうか暫し、お身体と妖力の回復にお勤めください」
「……分かった。岩鬼の言う通りだな。――美雪、行くぞ」
「あ……。はい」
 礼を尽くし頭を下げている人の中を歩く居心地の悪さを感じつつも、美雪は紅遠の後ろに続いて官公庁から出る。
「紅遠様! ご無事だ!」
「何だ、噂なんて当てにならないな」
「誰だよ、紅遠様が崩御されたなんて噂を流した馬鹿は」
 官公庁から出ると、何処から噂が漏れたのか――民衆が多く集っていた。
 国民の不安を払拭するように紅遠は皆に手を向け、顕在さをアピールする。
 あえてゆっくりと歩きながら、美雪と一緒に館へ戻った――。

 風呂に入り身を清めた美雪は、綺麗な白い着物を着て離れへと繋がる廊下の前へ来ていた。
「菊さん。どこか変なところはないでしょうか?」
「ないわよ。とても綺麗で……。白無垢を着て嫁入りした花嫁かと勘違いしちゃうわ」
「ありがとうございます。洗濯や家事をお任せしてしまい、申し訳ございません」
「いいのよ。本来、私の仕事だもの。嫁御巫として頑張った美雪さんは、紅遠様とゆっくりしてちょうだい。……訃報を聞いた時はどうなるかと思ったけど、今日は本当に素晴らしい日として終えられそうだわ」
 菊は、しわくちゃになった顔にポロポロと涙を流している。
 その視線の先には、結界を解かれた離れが見えた。
 紅遠が誰かを自分の生活拠点に入れるなど、もう二度とないと思っていたのだ。
 本当に紅遠の信用を勝ち取ってみせた美雪に、菊は何度も「ありがとう」とお礼を言っている。
 人に礼を言われても、どう対応したらよいのか美雪は分からない。
 あたふたとして、紅遠の住む離れへ向かい歩きだした――。
「――来たか」
「はい、お呼びにより参りました」
「廊下の上に正座していては、身体が痛むだろう。そこに座ってくれ」
「は、はい。ありがとうございます。失礼、致します」
 緊張しながらも、美雪は紅遠の前に用意された座布団の上へ正座する。
「先ずは、礼を言わせてくれ。美雪がいなければ、私は間違いなく世を去っていた。ありがとう」
「そんな!? どうか頭をお上げください! 私は、私に出来る与えられた役割……。いえ、紅遠様に申しつけられた通り、好きなようにさせていただいたのみです」
「これは私の気持ちだ」
「そ、そんなことを申したら! 私に自由を与えてくださった紅遠様にこそ、お礼を言いたいのです! 囚人のように生きる私を朝原の家から救ってくださり、ありがとうございました!」
 美雪は手を突いて頭を下げ、言葉を繋ぐ。
「その……。私は、紅遠様にとって決して許せぬ血が流れておりますのに……。嫁御巫の一人に加え、こうまでよくしていただき、どう感謝の言葉を言えばよいのか分かりません……」
「そうだな……。その件で、話がしたかったのだ」
「…………」
「美雪は――母の敵である私を、殺したくないか?」
 紅遠の真剣な声に、美雪は頭を上げ首を振る。
「滅相もございません。……全ての非は、私の母にあると聞き及んでおります」
 美雪の言葉を聞いた紅遠は、ゆっくり口を開き
「美雪の母、正子は――ある意味、被害者だ。加害者は、私だな」
 自嘲するように、そう告げた。
「……ぇ」
「傾国の鬼人。そう私が呼ばれているのは既に耳にしているだろう。……由来は知っているか?」
「その、岩鬼様からお窺いした知識によると、他国の妖人様でさえ、容姿端麗な紅遠様を手に入れようと躍起になられるからと……」
「その通りだな。だが――それだけではない」
 紅遠の言葉に、美雪は考える。
 岩鬼の話だと、紅遠を手に入れようとした妖人が、自国の嫁御巫が張る結界を利用して紅浜国へ怪異を誘導していると思っていた。
 その美しさから数多の国から怪異を向けられ国を傾ける――故に、傾国の鬼人。
 今まで、他の理由を考えたことなどなかった。実際、それだけ紅遠の美しさと勇ましさは浮世離れしていると、美雪も感じていたからだ。
 今も頭を巡らせたところで、他の答えは思い浮かばない。
「……浅学な私では、他の理由が分かりません」
「おかしいとは思わなかったか? 我が国の重臣であろうと、私とは距離を取って話す。これまで美雪が他の嫁御巫の一人とも顔を合わせていない状況。怪異の侵略には妖人が自ら参戦している現実を、妙だとは感じなかったか?」
「それは……。はい、違和感を抱いておりました」
「そうだろうな。――全ての原因は、私の持つ妖力の特異性にある」
「妖力の……特異性、ですか?」
 美雪の言葉に、紅遠は哀しげに笑みを浮かべた。
「魅了だ。……私の発する妖力に触れただけで、普通の人間は魅了される。直接触れれば、妖人すら抗するのに多大な妖力を使うだろう。嫁御巫でも同じだ。酷ければ正気を失い、自我すらをもなくす」
「そのような、ことが……」
 信じられないという面持ちで呟きながらも、美雪には心当たりがある。
 思えば、最初に紅遠と出会った葬儀の時からおかしかった。
 乱入してきた紅遠に対し、会場は反発するでもなく受け入れた。
 突如として誰か一人を娶ると言われた際に、品定めされている嫁御巫は――格下である紅浜国へ行くかもしれないというのに、紅遠へ恋するかのような熱い目と蕩けた声を発していた。
(あれが全て、紅遠様が見つめただけで妖力により魅了されていたのなら……)
 それは、怖ろしくも――哀しく孤独な力だと美雪は思った。
 どんな好意的な言葉を述べられても、疑心暗鬼に陥るだろう。
「その美しさで国を傾ける傾国の美女。それに対し傾国の鬼人は、鬼畜生と言われても仕方がない欠陥国主だったというわけだ」
「しかし、魅了だけで傾国の鬼人と蔑まれる謂われは――」
「――ここで、美雪以外が嫁御巫を紅浜国で見たことがない件に繋がるのだ。本来、嫁御巫が妖人から妖力をもらい受けるのに必要な過程を思い出せ」
「……御心の儀。神眼のある額への接吻。軽くても神眼への肉体接触、最大限に力を発揮するのならば、夫婦の営み……でございます」
 美雪の言葉に、紅遠は頷いた。
「そうだ。嫁巫女が不在でも護れる範囲は限られる。私は国土を売り、民まで減らした。愛着のある土地から移住を拒む住民は、他国の民となると知りながらだ。……傾国の鬼人という二つ名がつくのも、当然の話だな」
 国土を減らしたのが苦渋の選択だったと分かる、苦々しい表情で紅遠は語る。
「美雪とて、例外とは断言できない。……どうやら美雪は、私の魅了への抵抗性が非常に強いようだが、これから……。いや、これまでも影響を受けてないと断言はできない」
「それは……」
「感情など、分からんだろう? 人の感情は勿論、自分の感情もだ。――私はもう、美雪を斬りたくない」
 美雪は、自分を思い出し――怖くなった。
(紅遠様が仰る通り、私は……少なからず魅了の影響を受けていた可能性も否定しきれません。紅浜国へ来た際に妖力の過剰使用で倒れた際、紅遠様の妖力を授かった。……山凪国で言いなりの人形のようだった私が、紅浜国で自由意志を持ち暴走と呼べるような行動をしていた時期とと一致してしまいます。あれが……魅了の影響は完全にない。自分の意思で紅遠様のためにと見境がなくなっていたと、どうして断言ができましょう。人形が急に変わるのには、それなりに大きな理由が必要でしょうに……)
 紅遠のためにと、よい思い出など一つもない山凪国へ足を運ぶと言いだしたのは、美雪の中で記憶に新しい。
 考えれば考えるほど、自分が紅遠の妖力特性に影響されていないと断言ができなくなる。
「素直に話そう。――私はな、怖いのだ。……触れて妖力を贈るまでは、これまで正気を保ってくれたように映る。本来なら命を救われた礼に額へ接吻――御心の儀を行い、多大な妖力を繋ぐ恩返しぐらいはするべきなのだろう」
 それは紅遠が、初めて美雪に見せた本心であった。
 妖力が急激に成長し、無意識でも正子から正気を奪ってしまった。そうして起きた父親の死後、誰にも漏らすことのなかった――心の内だった。
 話すことで、紅遠は腹に溜まった濁りが薄らいだ気分になる。その礼をしたかった。
 しかし――。
「――粘膜接触は、指で触れる比ではないほどに妖力を与えられる一方、魅了の影響も強く出るだろう。故に私は、美雪に対して夫婦の睦みごとはおろか、甘い言葉の一つも気安くかけてやれない。子を成そうとしない妖人など、義務を半分放棄しているようなものだというのにな」
「…………」
 優しい言葉の一つかけられず、目を合わせることすら危険をはらむ。
 そんな紅遠が、ここまでは大丈夫だろうと、遂に信頼をして話した弱音だ。
「とんでもない欠陥を持つ男の元へ嫁ぐことになり、美雪には申し訳ないと思う」
「私は……。それでも、紅遠様と……」
 美雪は目線を泳がせながらも、紅遠への敬意を――親愛と呼んでも過言ではない気持ちを伝えようとする。
 だが、言えなかった。
 恋や愛はおろか、親愛の情すら抱いたことがなかった。銀柳への恩義は感じたことあれど、慕う感情に類する想いさえ知らない。
 だからこそ今、胸のうちにある感情が――魅了の影響を受けていない、曇り無き気持ちだと伝えるのは躊躇われた。いい加減なことを、美雪は紅遠に対して告げたくなかったのだ。
 まごつく美雪の顔を見て、紅遠は儚げな笑みを浮かべた。
「……無理をするな。自分が魅了され、自分じゃない性格になっていないか、怖いのだろう?」
「……申し訳が、ございません。私には、自分の気持ちが分かりません。このような嫁御巫で、妻で……。誠に申し訳がございません」
「気にするな、これまで通りの距離感でよい。美雪に、母と同じ轍は踏ませたくない。私とて、また……。美雪にまで裏切られれば、この心は壊れてしまうかもしれぬ」
 話ながら寂しそうな笑みに移り変わっていく紅遠の表情に――ズキンと、美雪の胸が痛んだ。
「長々と話してしまったな。美雪も、今夜は疲れただろう。もう戻って、休んでくれ」
「……はい。紅遠様も、ゆっくりお休みください。丑三つ時も、岩鬼様から救援要請がない限りは、妖力の回復にお勤めくださいね」
 美雪の言葉に、紅遠は暫し目を丸め
「はっはっは! 分かった、そうさせてもらおう。……こうして注意をされる関係も、よいものだ」
 紅遠は嬉しそうに笑い、美雪を館まで送り届けた――。

 翌早朝。
 日の出とほぼ同時刻、炊事場では美雪が料理を作っていた。
「美雪、今日も早いな」
「紅遠様、おはようございます。少し、お顔の血色が戻られましたか?」
「ああ、おはよう。……これだけゆくりと眠れたのは、一体いつぶりだったか。皆のお陰だ」
 初対面の頃の冷徹な表情が嘘のように、紅遠は朗らかに笑って見せた。
(きっと、こちらこそが紅遠様の本当のお姿なのですね。私が、この家が……紅遠様が常に本心で心を休ませ過ごせる場になれれば良いのですが……。この気持ちは、何なのでしょう)
 高鳴る胸に、美雪はやはり自分も魅了の影響を受けているのではないかと不安になる。
 それでも、紅遠に安らいでほしい。これまで無理を続けてきた分、少しでも休んで欲しいと願う気持ちは嘘偽りなかった。
「あの……紅遠様。こういうと、またご不快を与えてしまうかもしれませんが……」
「何だ?」
「私の朝食を、一緒に召し上がりませんか? その、私がお作りしたものを……信じて食べていただけるのであれば、ですが」
「…………」
 紅遠は暫し、押し黙った。
 美雪の作っている食事を見つめ、過去のことを思い出す。
 愛の行き過ぎた使用人や、当時はまだ父の嫁御巫が残っていた。その時に出された食事には、何らかの異物が混入されていたのだ。
 媚薬であったり、あるいは口に出すのも憚られるようなもの。
 そんなことを思い出しながらも紅遠は
「ダメだな」
「そ、そうですよね……。やはり私が作ったものなど――」
「――美雪も、私と一緒に食べるのだ」
「……ぇ」
 美雪はキョトンとした表情で、首を傾げる。拒絶されたものだと思っていた。
 だが紅遠の言葉は、心が許されたと思ってもいいものだと感じる。
「同じ物を食べるならば、美雪も妙な物は混ぜられないだろう?」
「わ、私は食べ物を粗末にするような真似は致しません」
「ふっ。分かっている、冗談だ。さて、それならば私も手伝うとしよう。二人の方が効率が良かろう」
 美雪が止める間もなく、紅遠は自分のエプロンを手に調理を始めてしまう。
 君子台所に入らずという美雪の常識とはかけ離れているが、紅遠は元から全て自分で料理を作っていた。
 今更のことかと、美雪は表情を和らげ一緒に朝食を作る。
 そうして離れに盆を運び、一緒に食事を摂ると
「食事とは……こうも身体の内から温かく、味がするものだったのだな」
 染み入るように呟く紅遠の顔が、美雪には幸せそうに映る。
 そんな表情を見る度に、また美雪の胸は感じたこともない痛みに襲われた――。

 紅遠が軍服を着て官公庁で内政業務を行うため出仕した後、美雪は新たな役目をもらっていた。
「――はい、次の方どうぞ」
「ありがとうございます、嫁御巫様! これで俺も、また前線に出られる!」
 軍病院において、治癒の妖術を用いる役目だ。
 今朝、妖力が回復してきた紅遠に、額へ手を当てられ分けてもらった妖力を使い、先の戦闘で負傷した継承者や軍人の治療を行いたいと懇願したのだ。
 当初は美雪の身を案じ渋っていた紅遠も、美雪の自由意志を尊重したい。自分から離れて活動する意思表示をできるのは、正気を保っている証拠だからと賛同してくれた。
「凄い。本当に治った。もう二度と、軍刀は振るえないと言われてたのに!」
「流石は紅遠様の見初められた嫁御巫だ。仁が厚くていらっしゃる」
 人々の役に立っている。
 喜びの声を聞く度、美雪は嬉しくなった。
 そうして役目を終え、館に戻ると
「お帰りなさい、美雪さん。文が届いていたから、お部屋に置いておいたわよ」
「私に文、ですか? 分かりました。ありがとうございます、菊さん」
 美雪の分まで家事をしていた菊が、そう伝えてくれる。
 人の役に立っているという喜びで弾む足で、自分の部屋に戻る。
 机の上に置かれている文を取り――美雪は、一気に表情が凍った。
「いつも、そう……。私が浮かれる度、こうして諫めるように現実へ戻されるのですね」
 中身を見た美雪は、ぽそりと呟き俯く。
 書かれていたのは
『思い上がるな売女の娘』
『一族の名を堕とし、山凪国と紅浜国を混乱に導く悪女が幸せになれると思うな』
『胃の中の蛙。嫁御巫を知らない地で、一端の嫁御巫を名乗る烏滸がましい存在。出家しろ』
 そんな罵詈雑言であった。
 宛名を先に見れば良かったと、美雪は後悔する。
(玲樺さん、御母様、和歌子様……。私は一生、過去を断ち切れない。身の程を弁えろと諫められ続けるのでしょうね……)
 有り難くもあり、紅遠と対等な関係性の嫁御巫になれないと、悔しくもある。
 破って捨てるべきなのかもしれないが、調子に乗った時の戒めにもなると美雪は感じた。
「……この棚に置いておけば、普段は目にしなくて済む。……破る勇気も、浮かれて軽はずみな言動もしないと言えない未熟な私を、どうかお許しください」
 姿もない紅遠に謝罪しながら、美雪は鍵の付いた頑丈な棚へと文をしまった――。

 美雪が罵詈雑言の書かれた文に傷付いている頃、官公庁の会議場は荒れていた。
「美雪殿を誹謗中傷する流言が、国中で流れております」
「……岩鬼。どういうことだ」
「はっ。流言の内容は主に、美雪殿の母である正子の件や、山凪国で不能者と言われた嫁御巫としての能力についてです。……内容から察するに、山凪国が離間工作を仕掛けてきているかと」
「私と美雪の仲をか。それとも、軍人からの信を無くすためか……。壬夜銀は、思ったよりも姑息な手を使ってくるな。力押しに攻めてくる可能性は想定していたが……」
 紅遠が呻ると同時に、美雪の働きぶりを知っている高官たちも頭を悩ませる。
 上から圧力をかけたところで、噂は止まらない。
 むしろ、そんなことをすれば疚しいところがあるのではと噂が加速するのが予測できる。
 紅遠との仲が決裂する心配は、現状ない。
 だが、美雪のことを知らない軍人もいる。
 そうして悪評が広まることで、嫁御巫としての活動が阻害されてしまうのは、紅浜国にとって大きな損失と言える。
 待望の嫁御巫が誕生したというのに、また以前の――じり貧で滅亡へ向かう紅浜国へ戻ってしまうのは何としても避けたい。
「山凪国側の門の出入りを厳しく致しますか?」
「いや、それは無駄だろう。先日発生した大量の怪異による侵略が山凪国側からのみなら有効だろう。しかし、他国との国境側にも多数の怪異が紛れていたからな」
「紅遠様は、先日の不可解な怪異の進行に山凪国以外の国家が組みしていたと考えておられるのですか?」
「積極的に呼応したとは考えにくいが、山凪国は大国だ。圧力をかけられたら、国力差から秘密裏に応じざるを得ない国もあるだろう。直接的でなく、嫁御巫の結界による操作で偶然を予想ことも可能だろうからな。弾劾できない妙手だ」
 相当に策を練った者がいるに違いないと、紅遠は感心さえしてしまう。
「岩鬼殿、どうしたものでしょうか。他国との貿易は、我が国の財政の要です。産業も、素材を輸入できなければ……。失業者も増えて暴動が起きます」
「軍部としても、怪異だけでなく兵を多方面から向けられては……。戦力も物資も不足しております」
「食糧問題も深刻です。我が国は、輸入で殆どの食料をまかなっておりますから。海の外の国からの食品だけでは、すぐに干上がってしまいます」
「ここは山凪国と、外交的な融和を図るしかないのでないでしょうか?」 
 高官たちが様々な意見を交わす。
 一人、離れた場所に座る紅遠は、首を振る。
「未だ同盟が続いているとはいえ、山凪国は不穏だ。先日、私が自ら訪問した時でさえ武力衝突をチラつかせてきた。壬夜銀は欲しいものは全て奪うと公言する銀狼だ。……融和を図るには、こちらが相当な譲歩をせねば不可能だろう。最悪、使者の首を跳ねて同盟破棄をやりかねない男だ」
 紅遠の言葉に、皆が再び呻る。
 こうなってくると先日、国主となった壬夜銀へ自ら祝いを述べに行ったのは幸いだったと紅遠は思う。時間を無駄にせずに済む上に、人が無闇に殺されるのを防げるのだから。
 難しい顔で、紅浜国の生き残る道を探す高官たちに、紅遠は自分の予測を述べる。
「壬夜銀は、そう我慢強い男ではない。おそらく、献策した者の絡め手をいくつか潰せば――力尽くでくるだろう。紅浜国にとって一番厳しいのは、じわじわと経済や食糧を締め付けられることだが、奴はそんなに待てる性分ではないはずだ」
「直接的……。紅遠様、それは軍を差し向けてくるということですかな?」
「ああ。それまでは、海の外の国からの輸入を増やしつつ、軍備も固めておくのがいいだろう。国庫から予備予算を引き出してでも、壬夜銀がじれるのを待つのが良策だ」
「幸いなことに、我が国は軽工業で成功し、蓄えがありますからな。かしこまりました。それでは、流言に関する抑制は行わず様子をみて、備えの手筈を整えましょう」
 国務大臣である岩鬼の言葉で、一先ず空気が緩む。
 しかし――紅遠が議論を締めようとした時だった。
「会議中に失礼致します!」
「ノックの返事も待たず、どうした?」
 会議室に駆け込み膝を付いた若き軍人に、岩鬼は眉をしかめる。
「も、申し訳がございません! 山凪国側駐屯地より、火急の知らせがございます!」
「何があった?」
 紅遠が問いかけると、若き軍人は一層頭を下げながら
「も、門の前に大量の山凪国の民と元軍人を名乗る者が殺到しております! 通常の入国手続きでは処理しきれない数であり、その異質さからご報告と相談に参りました!」
 差し迫った状況に混乱した声で、そう述べる。
 高官たちは顔を見合わせ、動揺した。
「なるほど、良い手だ。食糧や物資の問題、流言による内患を抱えさせた中で、移民を送ってくるか。……策を巡らせたのが誰かは知らぬが、やってくれる」
 紅遠は口では褒めながらも、内心で苛立ちを募らせる。
 こうも絡め手を使われて国政にばかり手が掛かり、国民の不安を誘発されては、美雪に対する流言飛語を止める手立てが乏しくなってくる。
 皆の努力で妖気を回復させてくれている心遣いを無駄にしないよう、怒りで妖気を発しないように紅遠は怒気を抑えつけた――。