美雪は、夢を見ていた。
(ああ……。また、この夢。それとも、走馬灯でしょうか?)
 幼い頃より何度も見てきた悪夢。何時もなら、すぐに跳ね起きる。
 しかし、自分が身の丈に合わぬ超常の力を駆使した自覚がある。
 きっと、もう目覚めることはなく……。この悪夢にうなされながら、母と同じ地獄へ行くのだろうと、覚悟だけはできていた。
『貴様の母は、我が国を揺るがしたのだ。愚かな真似をしたせいで、積み上げてきた朝原の家名も終わりだ……』
『よりにもよって、他国の幼い妖人と不貞を働くとは……。銀柳様も、未だに大層嘆かれている。文子も、あれの妹とは……。俺は婿入り先を間違えた……』
『ちょっと、双次さん!? 二歳の娘を国元へ残して他の妖人と不貞を働く淫売と、私を同じにしないでくれる!?』
 三人の憎しみが籠もった瞳が、自分に注がれている。
(分かっています。自分の母が……。如何に嫁御巫として、一人の女として罪深きことをしたかなんて理解しています。……もう、痛いほどにこの身や心に刻まれております……)
 何度も夢でまで言い聞かせなくても、現実で幾度となく分からされてきた。
 その処遇から、何から……。
 三人の手が、美雪で鬱憤を晴らそうと伸びてきたとき――。
『――そなたの母が私にしたことは、お前には関係ない』
 葬儀会場で紅遠の告げた言葉が、美雪の悪夢を打ち払った。
「――ぇっ!?」
 身体を跳ねさせ、美雪の視界が朝原の屋敷から移り変わる。
(夢から、覚めたのですか? ここは、これは……。私は、生き残ったのですか?)
 絶望的な身体状況だったはずだ。
 何故、と美雪は自分の身体や周囲の状況を確認する。
(血だらけの白い喪服、毛布、見たこともない部屋、それに……。これは、ソファーでしょうか?)
 自分は座ったこともない西洋の文化を取り入れた貴重品に、寝かされていたようだ。
 恐る恐る、手で触れて感触を確かめていると
「目が醒めたようだな」
 背後から聞こえた――凜とした声音に、美雪は肩を跳ねさせる。
 慌ててソファーから立ち上がり声のした方へ視線を向ければ、そこには執務机で書類へ視線を落としている紅遠の姿が映った。
(く、紅遠様? まさか私は、尊き妖人――鬼人様、旦那様となる御方の前で、のんきに寝ていたというのですか!?)
 とんでもない失態を犯したと血の気が引いていく。
「血に塗れた白い喪服姿で寝ているのは縁起がよくない。とても嫁入りした当日の娘とは思えんな」
 抑揚や感情を消しているような声、目線すら向けてもらえない事実。
 更には、黒い軍服姿で言われたものだから……。
(白い喪服で嫁入りだけでも非常識なのに、血に塗れさせた挙げ句……。紅遠様の執務室で眠っていただなんて……。私は、何ということをしでかしてしまったのでしょうか)
 美雪は紅遠に、とんでもない無礼の数々を働いてしまったと、折檻を覚悟した。
「尊き鬼人様の前で大変なご無礼の数々、誠に申し訳がございません!」
 頭を下げる美雪に、紅遠の姿は見えない。
 敷かれた紅い絨毯が、身を焦がす炎の草原のように目へ映る。
 謝罪の言葉に反応がなかった美雪は、慌てて嫁入りの際に言おうとしていた言葉を繋ぐ。
「ご慈悲により、本日より嫁御巫の一人として、紅遠様の元へ嫁がせていただくことに相成りました。何ごとも至らぬ不束者ではございますが、お役目を――」
「――口先ばかりの挨拶はいらぬ」
「…………」
「私の民を……。かつての民を救ってくれたそうだな。礼を言う」
 冷たい声音でかけられた言葉を、何度も反芻してから美雪は頭を上げた。
(私は今……。お礼を言われたのですか? もう必要ない、何も求めてないと……捨てられずに済んだのですか?)
 何度、脳内で反芻して考えても信じられなかった。
 執務机に向かう紅遠は、背筋を伸ばしながら鋭い眼差しを向けている。
「……私の勝手な行いを、お咎めにならないのでしょうか? あの方たちは現在、隣国である山凪国の民であるとお窺いしておりますが」
「……政治的な事情で振り回された被害者だ。何を咎める必要がある。尊いのは妖人が為政者だからではない。真に尊き、罪なき人命を救ったことに礼を尽くさずして、何が為政者だろうか」
「…………」
 美雪は、何と返答していいのか分からなかった。
 同じ執務室の中でも、美雪のいるソファーと紅遠の執務机の距離はそれなりに離れている。顔色や目からは、どんな心情が本音か窺えない。そうでなくとも真意や感情なんて理解できない。
 噂では、『傾国の鬼人』とも『奇人』とも噂される妖人だ。
 真意を計りかね押し黙っていると
「……だが、美雪を信じたわけではない。私は銀柳殿の遺志に従ったのみだ。私に関わるな」
 冷たく突き放す言葉が返ってきた。
 スッと、美雪の心に暗い影が差す。
 それと同時に、疑問も湧いてきた。
「関わるなとの御言葉ですが、私は夜の慰みものになるのでは……」
 壬夜銀が葬儀会場で放った『玩具にでもするか、慰みものとして甚振るのか』という言葉が、脳裏に過る。
 実際――美雪からすると、自分に深い恨みを抱いてるであろう紅遠が嫁御巫として欲する理由として最も妥当だろうと思っていた。
 しかし、紅遠は――。
「――二度と、そのような悍ましいことを口にするな。私の閨に立ち入れば、容赦なく斬る」
 無表情であった顔に、露骨なまでの嫌悪感を滲ませて言った。
 ほっと安心すると同時に、美雪は肝が冷えた。
 自分が誰かに不快感を与えた場合、どうなるか――今までの人生で身に染みているからだ。
「……美雪自身に何も罪がないのは知っている」
 すっと、紅遠は椅子から立ち上がり、横に置いていた鞄を手に執務机から離れた。
 コッコッと革靴が踏み鳴らす無味乾燥な音が、静かな執務室を更に重く厳かに感じさせる。
「だが、形ばかりの夫婦になったからと、お互いに心を許せる浅い因縁でもなかろう」
「…………」
 自分の横を、ソファー越しに通り過ぎようとする紅遠の言葉に――美雪は沈黙するしかない。
(仰る通り……。紅遠様が、どれほどに辛い半生を歩まれたか……。噂話を聞いただけでも、心を許していただけるとは思えません)
 自分の母親と、紅遠の父親――いや、紅遠自身の境遇を考えれば、何も言えなかった。
 もしも自分の母親が過ちを犯さなければ……自分には別の人生が待っていたのだろうかと美雪は考えながら、顔を俯かせる。
 颯爽と過ぎた靴音が、ドアの前で止まる。
「俺の妖力で補完したとはいえ、体調は優れないだろう。今日は大人しく休め」
「……そのように、甘えるわけには参りません。形式ばかりとはいえ、紅遠様の元へ嫁御巫として嫁いだ身です。乏しき力を精一杯使い、求めに応じた勤めを果たします」
「……未だに銀柳殿へ操を立てる、白い喪服姿で嫁入りしたのに、か」
「銀柳様が崩御されても、命を救われた恩義は忘れません。それに、この服装は私が初めて誰かに認めてもらった大切な服装でした。……他者へ操を立てながら嫁入りする私を、ご不快に思われますか?」
 紅遠の方へ視線は向けられない。
 自分が天上の妖人に対して、失礼なことを言っている自覚が美雪にはある。
 嫁御巫とはいえ、普通は何十といるうちの一人に過ぎない。次代の妖人や、血の力から超常の力を発現させる継承者、嫁御巫を産み出すために数多くいる嫁の一人だ。
 それが常識であり、自分を特別だと思うなど……正妻や側室として認められ、寵愛を受けた者以外には許されない。
 通常の夫婦と違い、長寿で国の柱となる妖人に口答えするなど、分を弁えていない愚行だ。
 それでも、美雪は僅かでもいい。どんな汚れ仕事でもいいから誰かに求められ、役に立たなければ落ち着かない。それ以外の生き方を、知らなかった。
(何度も死を覚悟している人生です。……あの子のように、救える人がいるのなら。私は、誰かを救うために生きて、死にたい)
 そう思えば、妖人に意見する恐れよりも嫁御巫としての使命感が勝った。
 暫しの沈黙の後、紅遠は
「好きにしろ」
 そう返した。
 美雪がほっと息を吐くと、ドアを開く音と一緒に更なる言葉が聞こえてくる。
「倒れん範囲でな。……美雪を殺すとしたら、それは俺でなくては気が晴れん」
「……承知致しました」
 そう言って、ドアが閉じられる。
 執務室で立ちつくしていると、ドア越しに紅遠の声が聞こえた。
「菊、盗み聞きしていたのだろう。……あれだけ白に身を包みたいと望むのだ。俺の私財から白い喪服や服装を揃えてやってくれ。私はいつも通り官公庁へいる。何か問題があったら呼べ」
「承知致しました、紅遠様」
「岩鬼は、美雪の着替えが済んだら国内を案内してやれ。今日の執務は私が受け持つ。これから官公庁で引き継ぎをしてくれ」
「はっ! 承りました!」
 ドア越しに老婆と思しき声と、岩鬼のハキハキした声が美雪の耳へ届く。
(わ、私のような者のために、紅遠様の私財を!? そんな、いけません!)
 そう執務室で慌てていると、再びドアが開いた。
 中に入ってきたのは、女中の格好をした老婆であった。
「美雪様、初めまして。私は木村菊と申します」
「あ、あの。初めまして、朝原美雪と申します。あの……木村様は、御先代か紅遠様の嫁御巫なのでしょうか?」
「ほっほっほ! ご冗談を。私は、使用人頭ですよ。菊とお呼びください」
「あ……。そう、ですか」
 菊の歳は、どう見ても六十歳を越えているように美雪には見えた。
 もしや先代紅浜国の国主から仕える嫁御巫か、紅遠の母親ではないかと予想していたのだ。
 使用人頭ならば、美雪としても接しやすい。朝原の屋敷でも最下級の使用人として、使用人頭と接しながら家事をする機会は多かった。
「それでは、美雪様。どうぞ、こちらへ。湯浴みをされてから、お部屋にご案内致します」
「あ、ありがとうございます。……あの、私に敬語は、おやめください。敬われるような者では、ございませんので……」
「ふむ……。紅遠様の嫁御巫に対して、本来なら不敬なんですが……。他ならぬ美雪さんが、その方が接し易そうだものね。分かったわ」
「……はい。我が儘を申し上げ、すみません」
 物腰柔らかな菊の対応に、美雪は何とも心が落ち着いた。
 虐げられるわけでも無さそうだと、安心して菊の後をついていき湯で身体を清める。
 そうしてる間に、喪服ではないが――白い着物が用意された。
(死に装束……より、模様が入っていて可愛い。私に似合うのでしょうか?)
 袖を通した肌触りが滑らかだ。
 見た目だけでなく、高級品なのではと少し躊躇う。
(そうは申しても、血だらけの服装で岩鬼様にご案内をお願いするわけには参りませんよね……)
 漏れ聞こえてきた紅遠との会話からすると、この後に岩鬼が紅浜国を案内してくれるらしい。
 観光気分では決してない。
 自分が何処で暮らし、どのように紅遠の役に立てるか。
 形式ばかりとはいえ嫁や嫁御巫として嫁いだのだ。出来ること求められることを探ろうと美雪は考えた。
「じゃあ、岩鬼様がご到着されるまでに、この館を案内するわね」
 そう言う菊に「よろしくお願いします」と美雪は後ろを着いていく。
 洋館の廊下は、綺麗に整っていると言えば聞こえは良いが、国主の住む屋敷にしては飾り気が一切感じられなかった。
 それどころか、人の気配すら感じられないほどに静まり返っている。
(窓から差す光……。私は、一晩も寝こんでしまっていたのですね)
 朝陽がガラス窓から入り込み、床と白い壁を照らしている。
 美雪は慣れない西洋文化の建物内を、キョロキョロと見回しながら歩く。
「ここが美雪さんのお部屋ね」
「こ、こんなに大きなお部屋……。他に何名の方と暮らすのでしょうか?」
 広々とした室内に清潔なベッド、鏡や箪笥など、美雪は自分が今まで物置のような部屋に暮らしていた格差から、目眩がする思いだった。
「一人よ。……正確には、この洋館に一人で住むことになるわね」
「え?」
「紅遠様がお仕事中に来る通いの使用人なら、他にもいるんだけどねぇ。さ、岩鬼様を待たせるわけにはいかないわ。先に案内をしちゃうわね」
「は、はい」
 苦笑する菊に置いていかれないよう、美雪は早足で着いていく。
(この洋館に、一人で? 紅遠様は主用の母屋に住んでいるとしても……。他の嫁御巫や、使用人の方はどうしたのでしょうか?)
 頭の中に疑問は湧いてくるが、面倒だと放り出されたら困るので口には出せない。
 その後も掃除用具などが置かれた物置や、先程寝かされていた応接室、ダンスホールなどを案内された。
 そうして厨房に入るが、人は誰もいない。
 それどころか、ここまで誰とも顔を合わせることがなかった。
「あの……。お尋ねしても、よろしいでしょうか?」
 流石に不審に思った美雪は、恐る恐る菊へ声をかける。
「何かしら?」
「その、他の嫁御巫様や使用人の皆様に御挨拶をと思ったのですが……。この御館ではなく、母屋などにお住まいなのでしょうか?」
 菊は何とも言えない、困ったような表情を浮かべた。
「屋敷は、ここだけなのよ。ここには、他に誰も住んでいないわ」
「……え?」
 驚きに、思わず声を上げてしまった。
 これでは、朝原の屋敷の方が遙かに大きい。それぐらい質素で、小さな館だった。
「先代が崩御された十七年前から間もなく、殆どの者に暇を出されたのよ」
「あ……」
 十七年前。それは十九歳になる美雪にとって、物心が付いてないほどに前の話だ。
 それでも、その年にあった出来事は忘れない。忘れようがないぐらい、身に刻まれ続けた。
「当時十一歳だった坊ちゃん……。紅遠様が国主を襲名されてねぇ。最初は嫁御巫と力を合わせて国を護ろうと苦心されていたんだけど……」
「だけど……何があったのでしょう?」
 言い淀む菊に美雪が尋ねると、菊は小さく首を振った。
「ごめんなさいね。喋り過ぎたわ。……そのことは、紅遠様がいつか……。いつか、美雪さんにお話くださると信じてるわ」
「はぁ……」
「美雪さん、期待しているからね。……どうか、紅遠様を裏切らないであげてね」
 菊の瞳は、哀しみを帯びていた。
 当然、美雪は裏切るつもりなどない。母と同じ轍を踏まないと決意を込め頷いた。
「この炊事場でもね、紅遠様への料理は作らなくていいわ。作っても、決して口にしないから。ここは自分が食べるものを、自分で作る場所よ」
「え?」
 それでは嫁としてどう支えればいいのだろうか、役に立てばいいのだろうかと美雪は困惑する。
 外に出て働く夫を、嫁や使用人が家事や社交の場、来客へのもてなしで支える。
 この乱世では……。特に夫の稼ぎが良い良家では、当然の常識だと思っていたのだ。
「朝早くと夜遅くには、ここへ入らない方が良いわ。……多分、お怒りになるから」
「は、はぁ……」
 菊の言葉が、美雪には全く理解できない。
 自分の常識は、紅浜国の文化では通用しないのかと混乱してくる。
「さ、それじゃ最後に大切な場所……。近寄ってはいけない場所を案内するわね」
「……かしこまりました」
 近寄ってはいけない場所というのが気にかかるが、先程から尋ねてばかりだと美雪は自制する。
 そうして菊に着いていくと、洋式だった館から、慣れ親しんだ和風の廊下へ移り変わる渡り廊下があった。
 そこだけ新たに作られたように、他より新しく見える。
 だが――。
「――結界、ですか? 何故、ここに……」
 明らかに妖術で施された結界が、行く手を阻んでいた。
 相当に強い術式なのが、曲がりなりにも嫁御巫である美雪には分かる。
 渦巻く炎のような薄い壁が、侵入者を防いでいる。
(ここを通れるのは、術者が許した者のみというような術式ですね……)
「ここから先はね、紅遠様の住む離れなのよ」
「紅遠様が、離れに? 手入れなどは、どうされているのでしょうか? この結界があっては……」
「お掃除も、洗濯も炊事も、紅遠様は一人でやられてるわ。……この先の小さな離れには、もう十七年間……。紅遠様が二十八歳になった今でも、誰も入ることを許されてないの」
 その言葉に、美雪は呆然とした。
 結界の向こうに見える廊下は、清潔に保たれている。
(まさか、本当に天上の存在である妖人が……。家事などをされているのですか?)
 そうとしか思えない。
 家屋が風化するのは早い。手入れを怠れば、埃などですぐに汚れるものだ。
「紅遠様のお屋敷ではね、使用人は私を含めて全員が通いよ。年頃の男女は、使用人として奉公することも認められてないの」
「何故、そのようなことに……」
「……紅遠様は、もう誰一人として信じて寄せ付けない。いいえ、寄せ付けられない……。そんな孤独な宿命を背負われているとだけ、お嫁に入られた美雪さんには伝えておきますね」
 そう言われては、美雪としてもこれ以上突っ込むわけにはいかない。
(きっと、その件も……。いつか紅遠様が話される日がくると返されるのでしょう)
 そう納得しながら、美雪は自分がどうすれば信じてもらえるのか。この屋敷の家人として、嫁御巫として役に立つ手段はないか。
 頭の中で考えながら、車に乗り館前までやってきた岩鬼の元へ向かった――。

 美雪が車中から見る紅浜国の景色は、山凪国とは全く異なっていた。
(凄い街並み……。山凪国の王都には殆どなかった街灯が、当たり前にあるなんて。街道もこれほど綺麗で凹凸なく整備されていて……。街並みだって、西洋式の建物がそこらにある。人々も、ハイカラなお洋服を着こなしている人がこんなに)
 山が広がり、古来より続く和風建築が主流だった山凪国とは違う。
 まるで西洋と神州が融合し調和しているような、時代と文化が移り変わる境界にいるように感じる雰囲気だ。美雪は落ち着かない中で、何処かそんな空気に心を弾ませていた。
(単調で、苦しみと少し苦しくない時間が延々と繰り返される日常が……。この街並みのように移り変わっていくような気分です。……少々、困惑してしまいます)
 洋式の靴に、絹織物の衣服を羽織った女性が目に入る。
 靴は何処かへ向かい、歩くための道具だ。
(私もこの国で新たな人生、役割を見つけて変われるのでしょうか? いえ……変わりたい。嫁御巫として一人前に、紅遠様や民を支える人間に、変わってみたい。そう願うのは、身の程知らずで浮かれているのかもしれませんが……)
 ここに和歌子や玲樺がいれば、すぐに「身の程を弁えろ」と叱責してくるだろう。
 美雪は浮かれかけた心を静め、岩鬼が「是非とも、ご覧いただきたい」と告げた目的地に車が停まるまで、静かに座り続けた。
「――さぁ、着きましたぞ」
 運転手が開けてくれたドアから、岩鬼と一緒に降りる。
 美雪は――ブワッと吹かれる、嗅いだことのない香りの混じる風に目を見開いた。
「これは……。まさか、海ですか?」
「ええ、我が紅浜国が誇る貿易港です。山凪国で生まれ育った美雪殿は、海を見るのも初めてでしょう」
「はい……。凄く、大きな船。膨大な荷の数々に、果ての見えない海原……」
 思わず、美雪は感嘆の息を吐いてしまう。
 少しだけベタ付く風に乱された髪を整えると、白い着物の袖が陽光に煌めいて見えた。
 目に映る全てが新鮮で、水面に照り返される陽光のようにキラキラと耀いてると感じる。
「本当に、美しい……。これが、噂に聞く西洋と神州を結ぶ貿易港なのですね」
 震えた歓喜の声は、潮風に美雪の声が消えて行くように小さい。大きな声が出ないほどに、衝撃的だった。
 そんな美雪の姿を見て、岩鬼は誇らしげに笑う。
「久遠様の御代になってからは養蚕業と製糸工場を大幅拡大して輸出に力を注いでるのですよ。賭けとも言えるべきほどの国策としてです」
「国策……。紅遠様が国主となられたのは、十一歳の頃でしたよね。本当に、御凄い方……」
「ええ。若くして聡明で……。港という地理を活かし、時流を読む力にも長けておられました」
 幼い頃の紅遠を思い浮かべ、岩鬼は懐かしむような瞳を浮かべてから、港で忙しく取引される貨物へと目を向けた。
「現在は得られた大量の外貨から輸入も盛んで、絹織物工場や建設に必要な機械を使った軽工業などが主要な産業となっております。他には、輸出入品の関税や観光収入が紅浜国の大きな収入源ですな」
「そうなのですね。街の景観や人々の衣服は、紅浜国の政策による影響が強いのですね」
「その通りです。――しかし事業が上手くいっても……問題は、常に付き纏います」
 苦々しく険しい表情へ変えた岩鬼の姿からは、歴戦の猛者といった雰囲気が溢れだしている。
 海風で短い髪を僅かに揺らしながら遠くを眺める瞳には、確かな憂いが感じ取れる。
 美雪は、自分も紅浜国の力となるべく問題を共有したいと思い
「よろしければ……。その問題について私にも、お聞かせ願えませんか?」
 そう聞いてみた。
 岩鬼は重々しく頷き、ゆっくりと口を開く。
「一つ目は、土地と人材の不足です。大量に製品を加工しようにも、材料が無くては不可能です。材料を生産する地、そして食料品などを生産する土地の多くは、売り払わざるを得ませんでした」
 そういえばと、美雪は思い出す。
 ここは王都の中心に近いからだと思っていたが、農地などは殆ど目にしていない。
(駐屯地からの間にはあるのかもしれないですが、商家や工場ばかりが建ち並んでおりましたね。ですが、人材……。人口も、減っているのでしょうか?)
 疑問に思う点もあったが、まずは説明を聞こうと岩鬼の言葉に耳を傾ける。
「二つ目は、立地ですな。かつて東京と呼ばれた神州の中心地はご存知ですかな?」
「東京……。かつて神州を統一された偉大な妖人が、神州全土の首都として設置してた場所だと聞き及んでおります」
「その通りですな。……六百年ほど前のクーデターにより、廃墟と憎悪が渦巻く魔都と化した東京と隣接していることで、大量の怪異が常に国を脅かすのです。……この防衛にかかる人員、予算が膨大でしてな。久遠様の武力が無ければ、あっという間に紅浜国も廃墟と化すでしょう」
 なるほど、と美雪は納得した。
 怪異の発生には諸説あるものの、有力なのは『人の負の感情や怨念から生まれる』という説だ。
 クーデターにより大量の人が亡くなり、様々な感情が入り交じっていたことだろう。混乱の中では供養だって不十分だったはずだ。
 かつては首都と呼ばれた人口密集地で、そのようなことが起きたのなら、未だに大量の怪異が発生するのも頷ける話だった。
「最後の問題は、久遠様です」
「……え?」
 耳を疑った。
 他国との貿易の成功など、名君としての面しか聞かされていない美雪からすると、紅浜国が抱える問題が紅遠自身にある理由なんて想像も付かない。
 まだ二度しか目にしていないが、見目も端麗で人がついてきそうな強いリーダーシップも感じる。
(冷たい印象は受けましたが……。それは恨みのある私に対してだけではなかったのでしょうか?)
 美雪が頭を悩ませていると、岩鬼は寂しそうな表情を浮かべる。
「美雪殿は……耳にしたことはないですか? 傾国の鬼人という呼称を」
 岩鬼の発した『傾国の鬼人』という単語に、美雪は思い出す。
 銀柳の葬儀会場で、そして文子や玲樺から何度も発せられた呼称だ。
 詳しく尋ねることなど、当然できなかったが……。
「傾国の鬼人、とは……。一体、どうして、紅遠様はそのように呼ばれているのでしょうか? 浅学な私には、とても国を傾けるような国主様とは思えないのですが……」
 岩鬼ならば、聞いても『口を開くな』と折檻したりしないだろうと思い口にしてみる。
 岩鬼は、どう説明したらいいかと少し考え、慎重に語り始めた。
「傾国とは、その美しさに君主が心を奪われて国を危うくすることです。通常は女性に対して用いられる言葉で、歴史上では男性の君主が絶世の美女に傾倒し過ぎた結果に起こるものでしたが……。お労しいことに久遠様の容姿と妖力の特異性は、男女問わないものでした」
 男女問わないという部分に、美雪は少し驚く。
 しかし、思えば葬儀会場で乱入にも近い登場をして……。苦言で罵詈雑言を浴びせられてもおかしくない振る舞いをしていたというのに、誰もそのような言葉は発せなかった。
 同じ妖人の壬夜銀ですら、圧倒されていたように思う。
(もしや魂刀を引き継いでいない壬夜銀様の妖力では、紅遠様の放つ妖力の特異性に抗いきれなかった?)
 嫁御巫たちは女性だから、突然に『娶る』と言われても、あの容姿にみとれるのは理解できた。
 しかし家臣団や壬夜銀の不可解な様子は、今思い返してみると不可解だった。
 その謎が、岩鬼の説明で解明された気がする。
「見かけ上の同盟国も含み、裏表の手段双方から久遠様を手籠にしようと躍起になっております。怪異は、妖人や嫁御巫の力でも生み出せるのはご存知でしたか?」
「いえ、寡聞にも存じあげておりませんでした。……まさか、この国を襲う怪異の中に?」
「ええ、ご推察の通りです。……紅浜の生み出す富と絶世の美男子である妖人を狙う国々。日々、国が消えては生まれていくといわれる、この乱世。我が国を取り巻く環境は、安定とは程遠い。予断を許さない状況です」
 美雪は、想像してみる。
(怪異を送り込むだけでなく、嫁御巫の結界の張り方を工夫すれば、紅浜国へ誘導すらできるのでは……。妖魔は、結界に触れると消失するだけでなく、極端に恐れて避ける習性があると聞きます。……私たちが暮らしている裏で、そのような国家間のやり取りがあったなど、露とも知りませんでした)
 まさか銀柳は、同盟国である紅浜国に対して――そのようなことをやっていないと信じたい。
 とにかく今、紅浜国が窮状に陥ってることは痛いほどに理解ができた。
「そんなことが、起きているのですね」
 深手を負い息も絶え絶えだった子供の姿が、美雪の脳裏を過る。
 紅遠が『民を救ってくれたらしいな。礼を言う』と告げた言葉も、そのような成り行きがあったのなら納得だ。旧領とはいえど、自分に差し向けられたかもしれない怪異によって人が傷付いているのだから、心苦しく思っていても不思議ではない。
「だからこそ、君主である久遠様ご自身が身を粉にして国家国民のために働かれる毎日なのですよ。……誠に悔しきことですが」
 そこで言葉を切った岩鬼に、美雪は省かれた説明について補足を願う。
「あの、失礼ながら人材の不足については……。まだご説明をいただいていないのですが」
「……申し訳ありません。そちらは、私の口からは申し上げにくい問題なのです。美雪殿が、久遠様に信を置かれることがあれば……。直接、お話もいただけるかとは思います」
「……そう、ですか。分かりました」
 また、紅遠に信を置いてもらえればかと思いながらも、美雪は頷いた。
(私は、まだ紅浜国にとっては外様……。一員と思っていただけるよう、尽力しなければなりません。込み入ったお話を聞く権利などないのも当然ですね)
 紅浜国の抱える問題も概ね分かった。文字通りの微力ではあるが、協力できるように努力せねばと気持ちを高める。
「一つ、私の口から申し上げられる人材不足については……。通常なら、いくつもの省庁に分かれるべき国務を統括し、私が国務大臣などという幅が広すぎる役職についてることから御察しください」
「……政治のことは、無知で分からず申し訳がございません」
「はっはっは。良いのですよ、ちょっとした愚痴もありましたからな。美雪殿には、美雪殿のお役目がありましょう」
 自分ができることは何かと、嫁いだからには全力を尽くすべく決意し、美雪は岩鬼とともに館へ向かう車へ向かった。
 そうして館の前に停車した車から降りると、岩鬼が一つの洋式建築物を指差した。
 それは館の敷地の何倍もあり、建物の陰に国主である紅遠の居宅が隠れてしまうぐらいだった。
「あれは、紅遠様や役人が詰めている官公庁です。かつては紅遠様や父君である朱栄様が住まわれていた母屋があった敷地をいただき、丸々造り替えたのです」
「え? そ、それでは……。あの御館は?」
「あれは、元は使用人が使用していた館です」
 通りで朝原家の屋敷よりも小さいはずだと美雪は思う。
 だが紅遠の住んでいた離れも、話に聞く限りは小さいはずだ。
「あの、お城は何処なのでしょうか? 銀柳様や壬夜銀様もでしたが、国主は広大なお城に住んでいるものかと思うのですが……」
「ふむ……。それは、今夜にでも紅遠様へ直接お尋ねになられるとよろしいでしょうな。夫婦が交わす会話の種にもなりましょう」
「……はい」
「それでは、某はこれで失礼致します」
 そう告げて、岩鬼は官公庁へと入っていく。
 頭を下げて見送った美雪は、菊の元へと向かう。
 家事の役目を与えて欲しいと菊に懇願して、一緒に掃除をしながら紅遠の帰宅を待った――。

 夜更けになって、やっと邸宅の扉が開かれた。
「お帰りなさいませ」
「……何をしている?」
 紅い絨毯が敷かれた床に正座をして、美雪は三つ指つき紅遠を出迎えた。
 白い和服に紅い絨毯という異質さ、何より大仰な出迎えに、紅遠は怪訝そうに尋ねた。
「遅くまで働かれた紅遠様を、妻として出迎えようと……」
「不要だ。私を待たず、眠って身体を休めていろ」
「そういうわけには……」
「私がいらないと言っている」
 有無を言わさない紅遠に、美雪は「申し訳ございませんでした」と立ち上がる。
 冷たい反応の紅遠に何か声をかけなければと思い、岩鬼から尋ねてみろと言われた言葉を思い出す。
「あの……。お疲れの中、申し訳ございません。一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「……何だ」
「居城は、どうなされたのでしょうか?」
「国に売った。今は観光地であり国の収入源だ」
 さらりと言ってのけた言葉に、美雪は言葉を失った。
「それは、何故なのでしょうか? 妖人の住まわれる象徴かと聞き及んで降りますが……」
「ふん……。紅浜は海の外の人間を始め、多くから収入を得られる地だ。今では日に日に外の国の文明による建築様式が林立していく。いずれ、あの城は物珍しい観光源として国の経済を支えるはずだ。そもそも大砲やガトリングガンのような兵器の前には、あの城の防備など意味をなさない」
 西洋から入ってきた武具では怪異相手には無意味だが、対国家戦闘では非常に殺生能力の高い武具だ。
 美雪は名前しか耳にしたことがないので、城の防備を相手に意味をなさないと言われても、いまいちピンとこない。
「貴重な妖術が兵科の主軸として運用され、嫁巫女による守護の力が盤石だった頃ならばいざ知らず、今や権威の象徴以外に意味を成さない張りぼての城だ。私のような国主には過ぎた物であり、無用の長物でもある」
 不要なものと有用なものを切り分け、必要であれば常識さえ平然と打ち破る決断を下す。
 美雪は改めて、眼前の鬼人が……妖人としてのそれ以上に、自分とは異なる存在だと感じた。
「過去の権威を誇り、時代に取り残されるような張りぼての虚栄を後生大切にしても仕方がない。執務や貴賓の応接なら、官公舎で行えば良いのだ。事業を始めるにしても、元手となる資金が必要であったのもあるが」
 何もかもが規格外……。先進的であり、奇想天外な妖人だと美雪は痛感する。
 言っていることは納得できるが……。生まれ育った城を売り払い、国の発展への投資に用いるなど、並大抵の覚悟ではできないことだろう。
「母屋まで売り払い、官公庁へと変えたのは……。そのような御深慮によるものだったのですね」
「ああ。……もうよいか?」
「はい。お引き留めしてしまい、申し訳ございませんでした」
「よい。……だが、不用意に私へ近付くな。これは警告だ」
 一度として目線も合わせてもらえず、浴びせられる言葉は冷たい。
 紅遠はツカツカと規則的な靴音を立て、自身の住む離れへ向かい去って行く。
(求められた役割と期待に応えなければなのに……。菊さんや岩鬼様は、私が紅遠様に信を置かれることをご期待してくださってる。それに……恐らく、妖術の過剰使用で死に瀕していた私を救ってくれたのは――妖人である紅遠様です。……どうすれば、私は紅遠様のお役に立てるのでしょうか。嫁御巫として、曲がりなりにも嫁として……)
 考えた挙げ句、美雪は炊事場へと向かった。
 竈に火を入れ、何時でも使用可能な状態へ準備しておく。
(一応、お味噌汁なども温め直したものの……)
 菊の忠告が、脳裏に過る。
(君子厨房に入らず……。尊き方を厨房に入れてはいけないと習ってきたのですが……。紅浜国の常識や文化は、山凪国とは異なるのでしょうか)
 そうしていると、黒の浴衣姿になった紅遠がやってきた。
 風呂上がりのためか髪は湿り、鎖骨が出るほどに着崩している。
 その色香に、美雪は僅かながらも目を奪われた。
「……何をしている。私が身体を休めろと言ったのが、聞こえなかったのか?」
「夕食を、お作りしたのですが……」
「菊から聞かなかったか?」
「……いえ、お窺いしております。紅遠様は、人の作られた料理を口にはしない、と」
 美雪は悔しさからギュッと腕を掴み、視線を俯かせる。
 紅遠は崩れていた浴衣を整えながら、美雪には近付かず食材と調理器具を用意し始めた。
「ならば、そういうことだ。……自分の夜食か朝食にでも、回すといい」
 汚れないように浴衣を前腕の中ほどまで捲り上げながら、紅遠は言う。西洋より渡ってきたエプロンを身につける姿は、料理に慣れているように見える。
 妖人の引き締まった肉体や浮き出た血管に、美雪は見てはいけないものを見ているような気分で目線を逸らした。
「かしこまりました。差し出がましい真似をしてしまい、申し訳ございませんでした」
 素気ない言葉が返ってくることなど、予測できていた。
 折檻されないだけ幸せだとばかりに、美雪は炊事場の入口へ静々と移動し、石像のように息を潜めて立つ。
 トントンと小気味よいリズムで包丁を使い、手際よく調理をしていた音がピタリと止まった。
 紅遠の口からハァと溜息が漏れた。
「……何故、そこで立っている? あれほど冷たくされてなお、分からぬか?」
「せめて、何かあればいつでもお手伝いができるよう控えております」
「……好きにしろ。だが、決して私に近付くな。あまり直視もするな」
「はい」
 視ることすら嫌がられる関係というのは、夫婦にしては冷め切っている。だが、美雪は自分と紅遠の因縁では仕方がないと割り切る。
 結局、一度も手伝いをする機会すらなく紅遠は調理を終え、調理器具の洗い物すら自分でやってしまった。
 盆に乗せた食事を運ぶ際にも、目線すら合わさず美雪の横を通り過ぎ――。
「――これで分かっただろう。まともな夫婦や嫁御巫としての関係など、期待するな。明日からは、早く休むことだな」
 背を向けながら、そう言い残して結界を抜け離れへと去って行った。
 その背を美雪は、ただ見送ることしかできない。
 すごすごと一人しかいない洋館に与えられた――広すぎて寂しい自室へ戻ると、美雪は重い手取りで夜着へと着替える。
「どうすればよいでしょうか……。私に流れる血の因果と罪は、紅遠様を未だに傷付けているのでしょう……。皆様に、申し訳が立ちません……。いえ、まだ初日なのに音を上げるのは情けなさすぎますね。とにかく、できることを探して全力で取り組まなくては」
 ふかふかで広く慣れないベッドに包まり、目を閉じながら明日からの行動指針を考える。
 心身は疲弊していたのか、悩みがあれど気がつけば深い眠りに落ちていた。
 紅遠は、離れにある六畳程度の間に敷かれた座布団の上に正座して食事へ箸を進める。
 時間をかけずに作れるものに限っているから、もう食べ飽きた味だ。
(……これでよい。食事など、動くためのエネルギー摂取に過ぎないのだ)
 味気ないと思うのは、とうに止めた。
 今更、食事に対して思うことなど紅遠にはない。そのはずだった。
(十七年前、十一歳の頃に――自ら父を斬ってからの日々で、私は独りで生きると決意したのだろう。……このような感傷を今更感じるのは、銀柳殿と同じような目で見られたせいか)
 最愛の友人であり、生涯の師と仰いだ人物の名残が強く顕れている美雪を思い出し、多忙な責務に追われ蓋をしていた感情が顔を覗かせようとしている。
「銀柳殿、父上……」
 紅遠の脳裏に思い起こされるのは、幼い紅遠が剣の達人であった銀柳にしごかれ、妖術が巧みであった父である朱栄に鍛え抜かれた日々だ。
(強き妖人になるよう、息も絶え絶えになった後に入る風呂。一緒に食べた食事は美味かった……)
 二度とは返って来ない日々。
 幾度思い出し、懐かしさと同時に理不尽な恨みを抱いたか分からない。
(悲劇の原因は――あの女が嫁御巫の交換留学に来たことと、私の妖力の爆発的な成長が重なった偶然にある。そんなことは、理解しているが……)
 ちゃぶ台の上で、握られた拳が震える。
 肉に爪が食い込み、ちゃぶ台の上に赤い染みが広がった。
 自分から全てを奪う切っ掛けになった難き女と、最愛の師であり友の面影を深く宿す存在――美雪の顔が浮かぶ。
「銀柳殿……。貴殿は私に、何を求めていたのだ? 私に、美雪を娶らせるよう誘導して……。その先に、何を望んでいたのですか?」
 簡潔な『自分の残した嫁御巫の中から、一人を紅遠に娶ってほしい』と綴られた遺言状を思い出す。銀柳の実子であり裏切りの嫁御巫の子である美雪が銀柳の嫁御巫入りしていたなど、紅遠は聞いていなかった。
(ともに鍛錬へ励んだ際には、自身の不出来な子供……。壬夜銀の成長と、国の行く末を嘆くような言動もあったが……)
 五百年の歳月を妖人としての責務を果たし立派に生きた銀柳には、子供や孫、ひ孫なども含めて大量の継承者や嫁御巫、そして唯一魂刀を顕現させるに至った妖人の子がいる。
 国家安寧のために尽力し、子供と言っても誰のことをさしているか分からない。
 自分は国力増強のための道具と割り切り、子の顔さえ殆ど見られなかっただろう。美雪を頼むと直接的に言われてないのは、二歳の頃から十年以上も美雪と会ってなかったため、銀柳も確証がなかったかもしれない。
(それでも、あれだけ父親と母親の特色を色濃く継ぐ子だ。十二歳の女子へ妖力を送り見定める選定の儀で、実子であると疑ってもおかしくない。内包する妖力は全く似なかったようだが……)
 幾ら考えても、恩人の真意は見えない。
 美雪は紅遠から見ても、嫁御巫として生きるには力が異常なまでに乏し過ぎた。
(到着が遅いと迎えに一走りしてみれば、妖術の過剰使用で死にかけているのだからな……。白の喪服よりも白い顔で、今にも命の灯火が去りそうな有様)
 紅遠は、その時を思い出し困惑した。
 嫁御巫としての力を期待したわけではない。今更、そんな存在を紅遠が求めるのは間違いだと自覚している。美雪を娶ったとはいえ、嫁御巫としても妻としても役割を果たしてほしいなどと思っていない。
 それでも美雪は、嫁御巫や妻として務めを果たそうとしてくる。
 これが、紅遠にとっては――非常に苛立たしかった。
 幼い頃から植え付けられ続けた、数々のトラウマと裏切りの日々が蘇ってくる。
(美雪が気を失ってから妖力を与えた。だから大丈夫なはずだ。だが、可能性がないとは言えん)
 恭しく三つ指突いて迎えてくれたり、食事を作ろうとしてくれた姿も、既に影響を受けているからではないかと、紅遠は疑わしく思う。
「夜は怪異と、人の欲望が強まる魔の時間だ。信じられるものか……」
 紅遠が人を信じて、食事に妙な媚薬や物体を仕込まれたことなんて数知れない。
 狂気に達した愛情から、死罪にせざるを得ないほどの情欲……色欲で襲いかかられたことも数え切れない。
 目が合うだけでも危険。意識がある中で優しい言葉をかけたり、触れるなどもっての外だ。
 こんな自分が、まともな夫になどなれるはずもない。ましてや、強力な力を持っている嫁御巫と夫婦関係になるなどと……。
「……厄介の種ではないか。銀柳殿……」
 相手が銀柳でなければ紅浜国を揺るがすために嫁御巫を強制で娶らせたとしか思えない話だった。
「傾国の鬼人、か……。誰が望んで、そのような者になりたいなどと……」
 一見献身的な美雪の姿が、いつ狂気に変わり――彼女の人生を崩壊させるのか。
 先細りの紅浜国と美雪のことを考えると、紅遠は頭が痛んだ――。
 
 朝陽が登ってすぐ、美雪は身形を整え厨房に立つ。
 白い割烹着を着て、食べてはもらえないかもしれないが紅遠に食事を作ろうと思ってだ。
(食べていただけなければ、私が食べればいいだけです)
 そう思いながら、食材を吟味して朝食を作っていく。昨夜遅く帰ってきて疲労しているだろうから、なるべく体力のつく食べ物を、と。
「――このような早朝に、何をしている?」
「く、紅遠様? おはようございます」
「……ああ」
 美雪が目を剥き振り返ると、軍服姿の紅遠が炊事場の入口にいた。
 入って来た方角を考えれば、それは紅遠の住む離れとは逆。館の出入り口の方だ。
 それも、紅遠の靴や裾は泥で汚れている。今から出勤という様相ではなかった。
「何故、そちらから? それに、泥で汚れた衣服……。まさか、あの後……。深夜にも、お勤めへ出られたのですか?」
「気にするな。私を気に掛けるな」
「……失礼、致しました。竈は温めてあります。湯は、すぐに準備をしてまいりますので」
「良い。休んでいろ」
 炊事場を去ろうとする美雪に、紅遠は『何もするな』とばかりに声をかける。
 だが、美雪はそのようなことはできなかった。
 長年、使用人同然の生き方をしてきたのもあるが、岩鬼や菊、そして紅遠の在り方を少しでも聞いてからは、何かしら役目を果たしていなければ落ち着かない。
 尊き妖人に対して、畏れ多いとは思いつつも――。
「――好きにしてよいと、昨日仰せつかりました」
 紅遠が美雪の好きなようにすればいいと告げた言葉を、そう拡大解釈して伝えてみた。
 紅遠は少し驚き目を剥いてから、小さく息を吐いた。
「……口が達者な娘だ」
「生意気を申し上げ、誠に申し訳ございません」
「怪しい気配があれば、すぐに湯を抜く。私への面通しも、以後は禁じる。それでも良いな?」
 美雪は俯かせていた顔を上げ、紅遠の艶やかな黒髪を見つめた。
「はい!」
 条件は付けられたが、自分の意思が尊重されるのは――美雪にとって、非常に嬉しかった。
 自分で考え、行動する。
 そのような経験、ほとんどなかった。
 このままでは迷子のように、何をしてもいいのか分からないと思い悩んでいた美雪は、少しでも紅遠の役に立てると足を弾ませ浴場の方へと向かった。
「……難儀な娘だ」
 炊事場に残った紅遠は、野菜の皮を剥きながら思う。
(人の心情は、分からない。私は、何を信じて良いのか……。いや、信じようなどとは思うな)
 頑なに自分の感情に蓋をしながらも、紅遠はどうにも居心地が悪い思いをしていた。
(何故、このような早朝に起きて私のような者の世話を焼こうなどと考える。やはり、既に……。いや、それにしては反抗的すぎるか。……分からぬ。薬を盛られた気配もないというのに、胸が妙にザワつくのは、何故だ)
 屋敷の管理や運営は菊を始めとする通いの使用人に任せていた。だが、自分の食事や住居の手入れ、服や衛生管理などは全て自身で行うのが当然だったのだ。
 この十七年間、当たり前の日常が美雪を嫁御巫として娶ったことで崩れている。
 これが良い変化なのか悪い変化なのかは、天上の存在と言われる妖人をもってしても判断がつかない。自分の心情など、最も理解と管理が難しいと紅遠は感じた。
(誰かに世話をされっぱなしというのは、気分が悪い)
 そう感じた紅遠は、作りかけの食事に目を向ける。
「……何もしないよりは、マシだろう」
 曲がりなりにも、美雪は嫁御巫だ。
 神眼と呼ばれる妖力を吸収する額――そこへ口づけなり、直接嫁御巫の口へ接吻するなりの粘膜接触が、最も嫁御巫へ妖力が伝わり能力を高める。
 極めて摂取効率が悪いとは知りつつも、紅遠は自身の妖力を注いだ食材を、作りかけだった美雪の食事に一部加えた――。
 
 美雪が入浴の準備を整えて炊事場に戻ると、今まさに割烹着に身を包もうとしている菊がいた。
 既に紅遠の姿はなく、洗い終えた食器が並んでいる。
(また洗い物まで、ご自分で……。本当に、誰の力も頼ろうとなさらない方なのですね。御立派にも感じますが、寂しくも感じてしまいます。……私も、お役に立たなければ)
「あら、おはよう美雪さん。早いわね」
「おはようございます、菊さん。夕食や朝食の用意をしたかったのですが、やはり紅遠様にとってはご迷惑だったようです。役目の果たせない嫁、そして嫁御巫で申し訳ございません」
 その言葉と美雪の表情で、菊は何があったか察したらしい。
 柔和な笑みを浮かべながら美雪に近寄ると
「人の信用は、積み重ねる石のようなものよ。……簡単には積み上がらず、焦ると崩れる。だから、ゆっくり慎重にね」
「……はい」
「心配せずとも、憎まれてはいないわよ。紅遠様は、美雪さんを気に掛けてらっしゃるわ」
「紅遠様が私を、ですか? とても、そのようには……」
 昨夜から今朝にかけての、辛辣なまでに突き放された会話を美雪は思い出す。
(いえ、突き放すというよりは……。一定距離以上に踏み込むなと、分厚い壁を立てられているようでした……)
 初めて自分を認めてくれた――それが白い喪服を着る自由という何でもない内容であったとしても、割り切れない血の因縁があるとしても、美雪にとって紅遠は特別な存在だ。
 嫁御巫として仰ぐべき主君であり、補佐をしなければならない。それだけでなく、形式上だけでも妻なのだ。
(他にも正妻や側室、妾の嫁御巫が離れた屋敷などにいるのでしょうが……。少なくとも今、おそばに住む妻として力になりたいです)
 こうなってくると、美雪は使用人以下であろうと常に人足として求められた山凪国時代の方が何かしらの役に立っており、生きている実感があったようにさえ感じる。
 自由を与えられたとしても、何も求められないのは辛い。
「本当に、気に掛けてらっしゃるのよ? 先程も、私に美雪さんの淑女教育を施すよう言われたわ」
「え? 私のような者に、淑女教育をですか?」
「ええ。御巫としての鍛錬もあるでしょうし、家事もあるから合間でだけどね。紅浜国は外国と最も近い神州。貴賓との社交界に美雪さんと参加する未来も想定しているのではないかしら?」
 社交界という名前事態は聞いたことがある。
 同盟国や取引上の尊い方々が集い交流をする、パーティーと呼ばれる異国の文化だ。
 神州に入ってくるなり早々に根付き、パーティー用の会場を他国に負けじと作ったとの噂も聞き及んでいる。
(こちらの洋館の一階にダンスホールがあったのは、そういった理由でしょうか。私のお部屋は、尊い方がお休みになる客室……。そのような所に、私のように穢れた血を引く無能者が暮らしていてもよいのでしょうか)
 合理主義で不要なものは冷酷に斬り捨てる人柄に見えた紅遠が、一人で住むには余りにも大きすぎる洋館を残している理由が理解できた。
「それだけじゃないのよ? 後で、ご自分の部屋に行ってみなさい? 紅遠様の申しつけで、白いお洋服を沢山買ってあるから。白と合う袴とか、ハイカラなブーツもあるわ。『金に糸目はつけるな。良い生地の服を買ってやれ』と言われたのよ」
「え、私は着られれば、それで十分ですのに。そのような贅沢を……」
「いいのよ。これが紅遠様ができる……いえ、やってもいい精一杯の感謝なの。受け取ってあげてね?」
 菊の『やってもいい』という表現が、美雪には気に掛かった。
(昨日、紅遠様が信を置かれたら話してくださると仰った内容と重複しているのでしょうか……。果たして、そのように信用していただける日が来るのか、分かりません)
 美雪には、紅遠の真意が全く測れない。
 嫌われているのか、嫌われていないのか。避けられていることは間違いないが、このまま尽力していけば、いつかは……。そう気持ちを持ち直す。
「だけど、本当に良かったのかしら? 白い喪服を用意しろって言われたけど……。普段着として喪服を着るの?」
「……お許しいただけるのならば。白い喪服は、私が初めて紅遠様に認めてもらえた……。勝手にそう思ってるだけかもしれませんが、私にとって特別な着物なのです」
「ふふっ。そう……。それなら、何も言わないわ。ただ、普段から喪服ってのも縁起が悪いから、お洒落に簪とか巾着みたいな小物も揃えなさい? いつか、紅遠様とね」
「……そのようなご機会を、いただけるのであれば」
 現状、美雪が紅遠と街を歩く光景なんて想像ができなかった。まして、自分がお洒落をするために買い物をするなんて考えられない。
 紅浜国の、西洋の異国情緒と神州の文化が入り混じる街並みを歩けたらとは思うが、それは望みすぎだ。今まで街を歩くというのは、誰かのために買い出しへ命じられて出るだけの場所だったのだから。
 話ながらも、朝食の準備の手は緩めない。
 そうして料理の仕上げをしながら、美雪は菊に尋ねてみた。
 どうしても気になっていたことを、だ。
「あの、菊様。今朝方……日の出から間も無い時間に、紅遠様がお帰りになられたのですが……。まさか、夜間も働きに出られているのでしょうか? 昨夜帰ってから、殆ど時が経ってないかと思うのですが」
「ええ……。夕暮れの逢魔が時、そして丑三つ時は怪異が活発になる時間ですからね。防衛戦力の乏しい紅浜国では、紅遠様が自ら国境を走り回って怪異を退けてるわ」
「毎日、ですか? お身体は大丈夫なのでしょうか? 妖力も、無尽蔵というわけでは……」
「あの方は、並みの妖人ではないわ。お父君の朱栄様も、銀柳様もそう仰せられてた。……とはいえ、やっぱり日に日にお疲れが蓄積しているように見えるわ……。紅浜国を護ろうと、心まで鬼にして全てを捨て取り組んでこられたけど、心配よね。昼は国政で官公庁に詰めておられるし、いくら人智を超えた妖人といえども……。いえ、これは不敬だったわね。聞かなかったことにしてちょうだい」
 国主が自ら、国境に押し寄せる怪異を撃退するために参戦する。
 そんなことは、山凪国では考えられなかった。
(岩鬼様の言っておられたように、防衛戦力が逼迫されているのですね……。他の嫁御巫の守護も、間に合っていないのでしょうか?)
 国境や怪異が頻発する場所には嫁御巫が住み、そこを妖人が定期的に回って妖力を補充する。それは神眼への接吻だったり、あるいは子を成す行為だったりもする。
 そうして国は安寧を保ち続けるのが、美雪の教えられた嫁御巫の常識だった。
(先任の嫁御巫は妊娠中とか……。そうであれば、妖力は使えないはずですから)
 子を身ごもっている間は、嫁御巫としての力も駆使できない。
 授かり物である子を孕んでいるとしたら、紅遠が無理をして走り回っているのも、親であり国主としての責務なのかもしれないと美雪は思った。
(紅遠様の御子……。寵愛、ですか)
 焔のような紅い瞳、氷のように冷徹な態度からは想像もできない。
 しかし、その行為は妖人としての役目。嫁御巫としての責務。
 自分もそうなるのかと考えた時、微弱過ぎる嫁御巫の力では求められることもないだろうと思い直した。そもそも閨に近付けば斬るとさえ言われた、割り切れない因縁を持つ相手だ。
(何ででしょう……。少し、寂しく感じてしまうのは。きっと自分の役割が、果たせないから……でしょうね)
 軋む胸を押さえ、美雪はそう結論付けた。
「さっ。朝食が出来ましたよ。食べてお掃除。それから淑女教育に……美雪さんは、嫁御巫の鍛錬ね。今日も私たちにできることをしましょう」
「はい。私たちにできることを、精一杯」
 手を合わせて、美雪と菊は炊事場の一角に置かれた机で食事を摂る。
「美味しいです……。人と食べる食事は、こうも内側から熱くなるものなのですね」
「そうね。誰かと食べる温かな食事は、いいわよね」
 美雪は、朝原家に仕える使用人の中でも特殊な立ち位置だった。朝原の血を継ぎつつも、下級使用人以下の罪人扱い。嫁御巫の中でも忌避される存在であり、誰かと食卓へつくなど、あり得ない境遇を過ごして来た。
(本当に、温かい……。まるで内側から、ぽかぽかと温められて気力が湧いてくるようです)
 思わず、じんわりと視界が滲む。
 何とも言えない、感じたこともない奇妙で心地良い感覚に身を任せ、美雪は紅浜国への恩に報いねばと再度決意を固めた――。

 官公庁の最上階、西洋の華美なイスとテーブルをモチーフに、紅浜国の伝統技巧を調和させた地味ながらも質の高い調度品が揃う会議室に、黒い軍服姿とスーツ姿の男たちが集っていた。
 最奥の上座には、紅遠。
 そうしてイス4つ分の空白を空けて、岩鬼や大臣、副大臣たちなど国政の中枢を担う高官が居並んでいる。
 国主である紅遠の周りに誰も近付かない光景は、端から見ると奇妙な光景であった。
 しかし誰一人として気にする様子もなく、当たり前の配置として議論は開始される。
「岩鬼大臣。山凪国から嫁いだ嫁御巫、朝原美雪様についての報告をお願い致します」
「山凪国へ事前に問い合わせた情報と、某が実際に目にした美雪殿について、ご報告を致します」
 司会進行役の声に合わせ、岩鬼が書類を手に起立する。
 ピンと伸びた背筋に、歴戦の風格が漂う渋い姿。戦闘能力の高い継承者でもあり、頭脳としても紅浜国の統治に欠かせない大黒柱。その一挙手一投足に、居並ぶ紅遠の臣下たちは真剣な目を向ける。
 いや、それは何も発言者が岩鬼だからというだけが理由ではない。
 紅遠が娶った嫁御巫――美雪についての詳細な報告は、国政に携わる全員が喉から手が出るほどに欲する情報だった。
 連日続く怪異の猛攻で滅亡へにじり寄る紅浜国にとって、希望の光たり得る存在なのか、と。
「山凪国側からの情報は、嫁御巫としての能力は非常に乏しく見習い扱いだったという一言のみでした。情報を裏付けるように、某が共に紅浜国へ入国した際、怪異によって致命傷を負った子供を一人助け、妖力の過剰使用により瀕死に陥っております。今すぐ嫁御巫として十全な働きを求めるのは、少々過大な要求かと思いますな」
 その情報を聞いた者たちは、一様に落胆を顕わにした。
 絶望的な表情で、顔を覆う者さえいる。
 そんな者たちの反応を観察しながら、紅遠は
「嫁御巫としての能力は、永久不変ではない。たとえ鍛錬で伸びずとも、案ずるな。これからも私が紅浜国の守護を果たしてみせよう」
 揺るぎない、確定した安寧な未来を伝えるように言葉を放った。
 妖人の妖力がこもった言霊に、居並ぶ家臣は僅かに落ち着きを取り戻す。
 だが、妖力への抵抗性が高い継承者は――意変に気がついていた。
「で、ですが……。紅遠様も、長年に渡り休む間のなき防衛への奔走で、妖力が乏しくなっているのでは……」
「そ、そうですな。今までであれば、この距離を空けても我々に疑念を持たれぬような――」
「――ほう、そうか。……お前らは、私の包み隠さぬ力を体感したいのだな?」
 紅遠の瞳孔に宿る焔が、更なる輝きと鋭さを増した。
「かつて去った者たちのようになりたい。お前らは、そう望むのだな?」
 スッと立ち上がり、一歩離れて座っていた者たちへ近付こうとすると
「も、申し訳ございませんでした!」
「不敬をお許しください! どうか、どうか、そればかりは!」
 美雪の情報で落胆し紅遠の言葉にも懐疑的だった面々は、慌てて片膝を付き謝罪を述べた。
 紅遠は暫し、その様子を眺めると小さく息を吐き席へと座り直す。
「……よい、私としても望むことではない。岩鬼、時間が勿体ない。報告を続けてくれ」
「はっ!」
 冷や汗を流しながら、岩鬼は軽く礼をした。
 そうして一度咳払いをしてから、言葉を続ける。
「現状の能力としては、確かに一人前の嫁御巫とは申しがたい。――しかし、そのお人柄は真に優しく、国の問題を一緒に解決したいという誠実さを感じました。嫁御巫として、妖人との相性もありましょう。銀柳様の妖力では乏しかった能力も、これから紅遠様の妖力に適合して伸びる可能性もゼロとは言い切れません」
 会議室内に、僅かながら期待の籠もった空気が広がった。
 反対に表情を険しくしたのは、紅遠である。
「その人柄を確認したのは、美雪が倒れた後か? 私が妖力を充填した後か?」
「紅浜国の問題を一緒に解決したいと申したのは、その通りです。しかし、入国前から幼子のために命を捧げたのは、紅遠様もご存知の通りです」
「……そうか」
 椅子の背にもたれ、顎に手を当てた紅遠は小声で呟く。
「子供は個人的な善良な感情……。私や国を憂い行動を開始したのは、私の妖力の影響を受けてからか……。つまり、そういうことだったというわけか」
 一人で思案に耽る紅遠の姿に、会議室は動揺が広がる。高官たちは隣に座る者へ目を合わせながら、何が起きているか分からないと首を振るう者までいる。
 皆は、即断即決で冷静沈着な、まさに鬼人と呼ぶべき働きぶりの紅遠ばかり見てきた。
 幼い頃――君主に成りたての頃を知る者や、父の補佐をしていた頃を知らない臣が、見たこともない君主の姿に動揺するのも無理はない。
 紅遠の抱く心情を思い、痛ましそうな瞳を浮かべた岩鬼は
「……我が国に、戦力を遊ばせておく余裕は一切ございません。軽傷を治癒する能力であっても、貴重でありがたい窮状なのが現実です。――そこで、某から提案がございます」
「……何?」
「実務面での助力としても、修行としての意味でも……。美雪殿に、嫁御巫として怪異への防衛活動参戦を依頼したく思います。あくまで後方支援として、衛生兵としてです」
 紅遠が鋭い眼差しを向けると――岩鬼が一瞬、ぐらりとよろめいた。
 それでも岩鬼は、足に力を込め踏ん張った。表情を引き締め紅遠から視線を外さない。
 交差する視線の火花、会議室内へせめぎ合う両者の妖気。
 一歩も引かず、己の意思を貫く立ち居振る舞いをした岩鬼に――
「――分かった」
 紅遠は、重々しく頷いた。
 ふっと空気が緩む。やっと空気が吸えたとばかりに、高官たちは深呼吸をした。君主と国家を支える大黒柱――継承者の妖気は、並みの者では呼吸すら辛い影響を与える。
「美雪殿のご成長を期待し、某の献策を受け入れていただき感謝申し上げます」
「私は岩鬼の国を憂う気持ちに応えただけだ。この提案を、美雪が心から望み承諾するなら許可しよう。――ただし、条件付きだ」
「条件、ですか?」
「ああ。――美雪を殺すのは……。あの白い喪服を死に装束へと変えるのは、私だ」
 過去、そして血の因縁を知る岩鬼は、息を飲んで紅遠の発する条件へと耳を傾けた――。

 昼過ぎ。
 家事と淑女教育を受けた美雪は、お気に入りの白の喪服へと着替え、日課となっている嫁御巫としての鍛錬をして――強い違和感を抱いた。
(両手の間に渦巻く妖力が……増している? 今日は、調子がいいのでしょうか)
 精神を研ぎ澄ませながら、両掌の中央へ球のように妖力を凝縮させる鍛錬。
 山凪国にいた頃の銀色の妖力と違い、紅い妖力が綺麗な球体として留まり続けている。
(これまでならば、私の妖力など豆のようで……。すぐに霧散したはずなのに)
 一般的な嫁御巫のように、大きな真円を作り回転させられるほどの妖力や操作力はない。
 未だ未熟な嫁御巫としての妖術であることには変わりがない。
 それでも美雪からすれば、考えられないような成長――いや、躍進であった。
「失礼します。美雪殿は……ここに、おられましたか」
「岩鬼様? どうかなされたのですか?」
「ええ。実は、美雪殿に大切なお話……。いえ、ご依頼があってきました」
「岩鬼様が、私にご依頼ですか? お受け致します」
 美雪に否などはない。依頼内容は聞いてなくても、岩鬼が持ってくる依頼が悪いものとは思えない。それに、依頼や提案に対し拒否権がある人生などは生きてこなかった。
 意思を述べるだけ無駄、抵抗するだけ無駄ということもあり、話も聞かずに承諾するクセができていたのだ。
 勿論、誰かの役に立つ依頼や役割であるというのが前提である。 
 お世話になった人に対して不利益になる……誰の役にも立てないような行動を依頼されれば、後から頭をさげて勘弁を願うつもりであった。
「安請け合いは個人的にも、紅遠様の嫁御巫としてもお勧め致しませんが……。それでは、官公庁へと付いてきてくださいませんかな?」
「官公庁……。紅遠様の勤める、国の中枢。山凪国でいう城に、ですか?」
「ええ。そこで詳しい依頼内容をお話致します。……どうか、正気を保ってくだされ」
 岩鬼の放つ言葉の後半は、願い縋るようでもあった――。
 美雪は岩鬼の後を付いて、紅遠の館からそばにある官公庁へと足を踏み入れた。
 忙しなく働く職員ばかりの階を抜け、上階へと進むにつれ厳かな雰囲気へと変わっていく。
 そうして、一室を岩鬼がノックして――。
「――美雪殿をお連れしました」
『入れ』
 紅遠の声に、美雪は少し目を剥いた。
(まさか、紅遠様が私にご依頼を? 私を求めて……いただけた?)
 途端に緊張する手足を動かし、岩鬼に続いて室内へと入る。
「ぇ……」
 そこには、軍服に身を包む人物が立ち並んでいた。
 誰も彼もが継承者と思しき洗練された妖力を身に纏い、軍刀を佩いている姿は物々しい。
 上座の執務机へ両肘を突き、冷淡で厳しい面持ちを浮かべた紅遠は
「体調は回復したか?」
 そう、美雪に尋ねた。
 炎を包み込んだガラス玉のような眼光。歴戦の軍人たちの視線が集う中、美雪は身を硬くしながらも素直に答える。
「はい、お陰様で今日は絶好調でございます」
「……嫁御巫としての役目は、果たせそうか?」
「私は元より、微量な妖力しか駆使できない半人前以下の嫁御巫でございます。十分なお役目は果たせないかとは思いますが……。命じられれば、死力を尽くしてご奉公致します」
「……そうか」
 紅遠は俯き――何かを諦めたかのように、大きな溜息を吐いた。
(何故、そのような反応をなされるのでしょうか? 私が奉公しようとすると、紅遠様は何故、お辛そうにされるのでしょう……)
 その理由が美雪には、幾ら考えても分からない。嫌われ避けられているにしては、贈り物を贈られたりもする。紅遠の言動の理由を知りたくても、全く理解ができないことに口惜しさを感じていた。
(この身に流れる血の罪を、少しでも贖罪させていただきたいのに……)
 そう願う一心で美雪は――どんな依頼であろうと受け、身を挺して臨もうと再度覚悟を決めた。たとえそれが、群衆の前で首を跳ねられる役目であっても、だ。
「今日の逢魔が時――夕暮れに訪れる怪異出現に際し、美雪にも参戦してほしい」
「……私が、怪異との実戦に」
「ああ。当然、死ぬ危険性もある。……それでも、やるか?」
「勿論でございます。紅遠様に死ねと命じられれば、死ぬ。それが私の……役目でございます。嫁御巫として、血の因果として……」
 唇を噛み締めながらも、美雪の決意は変わらない。
 怪異と対峙するなど、未体験の恐怖だ。それでも――死んでもいい、死ぬべきだとすら思った命。殺されても仕方がない人の命令で散らすなら、それも血の運命と贖罪の形だと受け入れた。
 そんな美雪に向かい、椅子から立ち上がった紅遠はコツコツと革靴の踵を踏みならして近付く。
「美雪を殺していいのは、私だけだ」
「紅遠様……」
 近付いたことのないほどに目の前で、紅遠が美雪の瞳を見つめる。
(ふわっと漂う香り、吸い込まれそうな瞳へ惑わされそうになりますが……。そのような浮ついたことを考えているような状況ではありません。私も紅遠様や紅浜国の危機を救わなければ)
 美雪は、紅遠の期待に応えたい。怪異に命を奪われるわけにはいかないと、勇気付けられた。
「……これより、神眼へ妖力を注ぐ」
「神眼へ妖力……。まさか、御心の儀でごさいましょうか?」
 御心の儀。それは妖人が嫁御巫に対し、神眼のある額へ接吻など粘膜接触をして妖力を注ぎ、守護の力を授ける神聖な儀式だ。
 直接大量の妖力を注いでもらい、嫁御巫を怪異から広範に渡り退ける結界を生み出す力を与えるような、一人前と認める証でもある。
 それでも十分な力を示せなければ――嫁御巫として次の機会は長く与えられない。
「御心の儀の前段階だ。……だが、強い危険は伴う」
「……危険、ですか?」
 御心の儀で、嫁御巫や妖人の身が危うくなるなどとは聞いたことがない。美雪が少し目を剥きながら尋ねると、紅遠は――その掌を美雪の額へ向けてきた。
「止めるなら、今のうちだ。……本当に、覚悟は良いか?」
「はい」
「……そうか」
 前段階とは、こういうことかと美雪は納得する。接吻ではなく、強く妖力を発する手掌から近い距離で神眼に注ぐ。それで嫁御巫としての敵性を確かめるということなのだろう、と。
(しかし……。私に覚悟を問うているはずなのに、紅遠様の指が震えていらっしゃるのは、何故でしょうか?)
 疑問に思いながらも、美雪は口にしない。
 平静に、妖力を受け入れる心持ちを整える。
「眼を瞑れ」
「はい」
 紅遠の声に従い、目を閉じる。妖力が注入される額へ神経を集中させ、永遠にも感じられる数秒がすると――。
「――ぁ……」
 美雪の額から全身に、妖力が迸る。
(これは、この内から暴れ脈打つ感覚は!? 意識が、遠のく……。ダメ、負けてはいけない! 力に飲まれず、内側に留めなければ!)
 身体の内側からドクドクと駆け巡り鼓動を揺らす感覚に、美雪は舌を噛みながら自分に言い聞かせる。
 それでも、まるで内側から刃物で切りつけられ――脳が、貧血で倒れる寸前のように白く染まり始める。
(いや……。私は、誰かの役に立ちたい。ずっとゴミ扱いされていた私を求めてくださる菊さん、岩鬼様、紅遠様の期待に応えたい! 銀柳様、どうか私に御力を……)
 一度しか顔を合わせたことがない――初めて恩義を感じた相手の顔を思い出す。
 ドクドクと胸を突き破らんばかりに荒れ狂っていた鼓動が、徐々にトクントクンと落ち着いてくる。
 宙に立っていたような浮遊感も治まり、美雪はハァハァと荒い息をしながら耐え抜いた。
「貴重な妖力を、ありがとうございました……」
「……何とも、ないのか?」
 冷静な表情を、初めて紅遠は崩した。
 驚愕に目を剥き、美雪を見つめている。
 美雪は紅遠の言葉に、両手掌で妖力の球を練る。
「……申し訳ございません。折角の御力をいただいたのに……。何とも、ないようです。一人前の嫁御巫とは、なれませんでした。た、ただ! 明らかに妖力をいただく前よりも、大きく自在な妖術を駆使できるようにはなっております! これからも尽力致しますので、どうか見捨てないでください!」
「…………」
 嫁御巫としての素養なしと山凪国に返されるか、あるいは不要と国外追放となり、野盗に嬲られた挙げ句に野垂れ死ぬ未来を想像し、美雪は必死に懇願する。
 その様子を、唖然とした表情で紅遠は見つめていた。
「……紅遠様? いかがなさいましたか?」
「……いや、何でもない。――岩鬼、美雪を連れて防衛に当たれ。条件通りでだ」
「はっ! 承知致しました!」
「しっかりと監視をしておけ。……この言葉の意味は、理解しているな?」
 ドスの利いた声音で、紅遠は言う。
 その言葉は、これから戦場に出て命の奪い合いをするような――強い覚悟を孕むものだと、美雪は身を震わせた。
 岩鬼も流石に迫力に気圧されたのか、僅かに口を震えさせながら
「……はっ。もしもの時は紅遠様よりお窺いした条件通りに、対処させていただきます」
 そう答えた。
 紅遠は重々しく頷くと、居並ぶ軍人たちへ視線を巡らせる。
「分かっているなら、よい。――私は、最も怪異が出現すると予測される側から回って行く! それ以外の者は継承者たちを率い配置に付け! 各駐屯地から、十全に動ける者のみだ!」
 紅遠の指示に、軍人たちは敬礼をして素早く行動を開始した。
 背筋を整えながらも早足で行動する姿は、美雪が思わずみとれるほどに統制がとられた動きだった。
(実戦経験を豊富に積んだ方々の、訓練の賜物……。私も一員として、微力を尽くさなければ)
 不合格を突き付けられず安堵している場合ではないと、気を引き締める。
「美雪殿。私に付いてきてくだされ。外で車に乗り、駐屯地へと向かいます」
「はい。……紅遠様、どうかご無事で」
「……ああ。美雪も、諸々気を付けるといい。……いや、覚悟を決めておけと言うべきか」
 美雪に背を向けた紅遠は、窓から紅浜の街並みを見渡しながら返事をした。
 紅遠の声は、戸惑いつつも何処か寂しげな印象として美雪の耳に響いた。
(いただいたお役目を、精一杯こなしていって……。いつか、紅遠様にも信じてもらえるようにならなければ)
 そのようなことを考えながら、美雪は岩鬼に続いて外へと出た――。
 
 車に乗り美雪と岩鬼がやってきたのは、最も怪異の出現数が少ないと言われる場所だった。
(初めて怪異と対峙する私に、ご配慮をいただいてしまったということですね)
 より人の気配や、過去に凄惨な戦場となった場所に怪異は吸い寄せられる。例外はあるが、稀だ。そういった例外に対処するために、いつでも出動できる継承者部隊も待機している。
 街から少し離れて出現する怪異を、万全な防衛体制の場所へ誘き寄せる役目も込め、駐屯地は建てられていた。
「この駐屯地は紅遠様が最初に対処される難所から、最も遠く離れた場所です。お互いに無事ならば、逢魔が時の攻勢を乗り越えた際に再会できましょう。……美雪殿。くれぐれも気を強く持たれよ」
「はい。お心遣いをいただき、感謝申し上げます」
 美雪は、純白の喪服を揺らしながら一礼した。
 駐屯地の兵士や継承者たちは、緊張感を保ちつつも笑みを浮かべる余裕もある。常に緊迫していては精神が持たないと、防衛戦の中で学んでいる。
 連日、怪異の侵攻を乗り越えている者たちの有り様を見て、美雪の不安な心も幾分か和らいだ。
「む、来るぞ! 空中からの敵に対処する弾の備蓄は!?」
「妖力を込めた弾の配備も滞りありません。既に迎撃配置についております岩鬼様!」
「よし、門を開けろ! 陸行の怪異へは打って出ろ!」
 岩鬼の指揮に、重厚な金属で出来た門が開く。
 美雪は駐屯地内の高所から指揮を執る岩鬼とともに、要塞内外の様子を見て目を剥く。
(黒い靄、禍々しくも悍ましい……。蠢く塊が、押し寄せてくる。暗い妖気と怨念を凝縮して、動物や人間を象ったような……。何て冒涜的な存在、悪意の塊、これが怪異なのですね)
 嫁御巫としての美雪の目には、酷く汚い邪悪な存在が――列挙して押し寄せているように映った。
 必ず互いの背後を補いながら、統制の取れた動きで軍刀を振るいピストルで迎撃する紅浜国軍兵に対し、怪異には人を害そうという単純な意思しかない。作戦も何もない純粋な破壊の化身と言った様相だ。
 空中から襲おうとする怪異には、高台から西洋から渡り紅浜国で研究と製造された銃を構える軍人が対処している。妖力を事前に込めた弾で打ち抜き――怪異を霧散させていく。
(熊より大きな怪異にも、打ち克つ……。自分たちの何倍もいる……いえ、数なんて分からないぐらい湧き出る怪異との戦闘にも腰が引けていない。護るべき民を背負う継承者や軍人とは、何て勇ましいのでしょう)
 合計しても百名程度しかいない紅浜国軍兵に対し、蠢く怪異は――少なくとも、千はいるように見える。暗き影が次々と産まれてくるから、実際はもっと多いのかもしれない。
「……ふむ。怪異も奇襲をかける様子はなく、この陣容で力押しのままでしょうな。それならば、某がこれ以上ここで指揮を執る必要もない。……美雪殿、お覚悟はよろしいか?」
 瞳に戦意を込めた岩鬼の言葉に、美雪は震える手を隠して頷く。
「はい。……微力を尽くさせていただきます」
「期待しておりますぞ。……くれぐれも、私から離れず。お心を、自我を強く持たれよ」
 後半の言葉は、頼み込むようだった。
 訝しく思った美雪だが、戦場の狂気や恐怖に飲まれるなという意味だろうと理解し、岩鬼に続いて開いた門の前にまで来る。
「一般兵は、負傷者を連れて下がれ!」
「はいっ!」
 街の巡邏や治安維持、対人相手では活躍する一般兵――妖力を持たない兵士も、怪異との戦闘では補助に徹する以外に役目はない。
 妖力や邪気の集合体には、物理的な攻撃のみでは霧散した妖力もすぐに再凝集してしまう。怪異は斬られようが爆破されようが、再び蠢く影として活動を始めるのだ。
 妖人の血を何処かで引き、覚醒させることに成功した継承者――そして嫁御巫のみが、怪異に抗える剣にして盾。
 豊富な実戦の中で鍛えられた継承者たちは、数で劣ろうとも怯むことはない。
 数十分と闘いが繰り広げられ、日も沈み逢魔が時が終わりかけた頃だった。
「衛生兵! こいつを連れて、門の中で治療してくれ! 重傷だ!」
 腕と片脚に、野犬か狼の爪にでも引き裂かれたかのような深い裂傷を負う兵士が、背負われ運ばれてきた。
 背を向け門の中へ駆け込もうとするが、その背後には猪のような怪異が迫り――。
「――ぬん!」
「い、岩鬼様!?」
「負傷者の移送は、某が補佐する! 気を緩めるな!」
 軍刀を抜いた岩鬼からは、妖力が漲っている。
 他の継承者より圧倒的な――火のようなオーラが漂う姿に、前線で戦う継承者たちの闘志も触発された。命にかかわる致命傷や即死でさえなければ、安心して衛生兵の元へと下がれる。
 その確信を得られるだけの存在感が、岩鬼にはあった。
「あ、ありがとうございます! おい、しっかりしろ! もうすぐだ!」
 痛みに呻く継承者を背負った兵士が門の前――案山子のように立ちつくす美雪の前にまで辿り着き、駆け出てきた衛生兵へと引き渡す。
 応急処置として止血をしてから担架に乗せ、継承者を門の中へ運び込もうとするが……。
「……俺は、まだ戦える。紅浜国を、紅遠様を護るのは……。俺たち継承者しかいないんだ」
「この傷では無理だ! 暴れるな!」
 うわごとのように呟く使命感溢れる継承者を見て、美雪は胸の前で手をギュッと握り絞めた。
(己の役目を見定め、傷も厭わず戦い続ける。……紅浜国や紅遠様のために尽くそうとされている。私も……嫁御巫として役目をいただき、お役に立たないと)
 鉛のように重く、震える足に力を込め――一歩を踏み出した。
「私に、治療をさせてください! 私は微弱な力しか持たないとはいえ、仮にも嫁御巫です!」
「な、何だって!? 紅遠様が嫁御巫を娶られたという噂は、実だったのか!?」
「美雪殿!? 勝手なことは――ぬぅうんっ! 退けい、雑魚どもが!」
 門の前に兵を固めて展開しているとはいえ、素早く小さな獣型の怪異が隙間から抜けてくる。
 岩鬼はそれらの相手を一手に担い、門の中へ近づけないよう立ち塞がり奮闘していた。
 決意を胸に、たすき掛けをして袖や袂を固定した美雪が――治癒の妖術をかけ始めるのを止めるのが間に合わないほどにだ。
「美雪殿! どうか紅遠様の力に、飲まれないでくだされ!」
 遠くから響く岩鬼の怒声を耳にしながら、美雪は深く息を吸い込み。
「私は……もう、何もできないゴミでいたくないのです。無能で生きる意味もない空虚な存在でいたくありません。不甲斐ない自分を、変えたい」
 出血で意識も遠のく中、傷を負ってない手で自分の軍刀を探す継承者に触れ――。
「――傷付いても戦う尊き方を、癒やしたい!」
 美雪は、治癒の妖術を用いた。
 薄く紅と銀をまぶしたように輝く妖力の膜が――傷付いた兵士を覆う。
(私の力では、精々止血が精一杯……。そのようなことは理解しています。それでも、全力で!)
 皆が華々しく先達の嫁御巫から手ほどきを受けて修行している中、隅で独り修行をしていた日々を思い出す。水や泥をかけられながらも、役目だからと手を抜かず長年続けた日々を。
(修行の成果を……。今出さずして、いつ出すというのですか!)
 誰かに命じられた役割ではない。
 美雪自らの強い意志で動き――精神を研ぎ澄ませた。
 暴走しそうに暴れる体内の妖力を、掌と治癒対象に集中させる。
「おお……。これは、凄い。傷が――跡形もなく癒えていく」
「――ぇ」
 その効果に誰よりも驚愕したのは、美雪だ。今までの自分では、考えられない治癒効果。
(全ては……紅遠様のお陰ですね。あの方のご期待に、私は応えたい!)
 ドクンドクンと、心臓から全身を巡る血脈のように――身体を破らんと妖力が暴れまわる。
 頭が割れそうなほどに迸る妖力を気力で抑え込み続け――継承者の傷は、完治した。
「……嫁御巫様だ。紛れもなく、嫁御巫様の御力だ!」
「凄い、これが……。本物、だ。紅浜国に、希望の火が灯ったぞ!」
 様子を見ていた衛生兵や、駐屯地で待機していた兵士から――歓喜の声が上がる。
 美雪が肩で息をして項垂れる中――。
「――美雪殿! 皆の者、そこを離れろ!」
 怪異を退けた岩鬼が駆け寄り、美雪に向かい軍刀を構えた。片手はピストルに添えられており、安全装置も外れている。何時でも美雪に向かい撃てる準備は整っていた。
「い、岩鬼様!? 何故、嫁御巫様に剣を向けるのですか!?」
「問答は後だ! 黙って美雪殿から離れよ!」
 語気を強めた岩鬼の迫力に、兵士たちは一目散に美雪から去る。
 残されたのは横たわる継承者と、荒い息の美雪に剣呑な瞳を向ける岩鬼のみだ。
「美雪殿……。貴殿にとって紅遠様は、どのような存在か?」
 剣を向けている場面には相応しくない、岩鬼の問い。
 美雪はゆっくりと立ち上がり、顔を上げると――目をカッと剥いた。
 目にも止まらぬ早さで妖力を掌に込め、美雪は両手を岩鬼へ向ける。
「くそっ! 恐れていた事態が起きたか! 最悪だ!」
 岩鬼は顔を歪める。
 軍刀へ妖力を込め、じりっと地を踏みしめて美雪に闘気を向け――。
「――岩鬼様、危ないです!」
 美雪の手が一層、銀と紅が混じったように灯り――岩鬼の背後に、盾のように小さな結界が突如として出現する。
「なっ!? なん、だと!?」
 高所から落とした荷物が衝突で破裂したような轟音に、岩鬼は背後を振り返る。 
 そこには、結界へ吸い込まれ消失していく霧散した黒い塊があった。
 怪異が嫁御巫の張る守護の結界により、消滅した証だ。
(某を、護った? それならば、美雪殿は……)
 天敵とも呼べる守護の結界を恐れ、にじり寄っていた他の怪異も遠くへ逃げ去って行く。
 岩鬼は改めて、美雪へと視線を戻す。
「……何とも、ないのですか? 美雪殿、貴女は……」
「岩鬼様、ご無事で良かったです。私も、紅浜国や紅遠様の……。皆様の、お役に立てたでしょうか?」
「紅浜国、皆……。そうか、そうか! 美雪殿、乗り越えられたか! やはり貴女様は……」
 そこまで口にすると、岩鬼は剣呑だった瞳に優しい光を宿し――涙を湛えた。
 逢魔が時の、黄昏れ色の光りが消え、空は暗く染まる。
 前線で戦っていた妖魔たちの勢いは衰え、いずこかへと去って行く。
 今日も逢魔が時の戦闘を乗り越えた。死者も、戦闘続行不能な者もいない。
 それどころか、沈む陽光に変わり――紅浜国に新たな光が顕れたと皆が歓喜の雄叫びを天にまで轟かせる。
 もじもじと、美雪が自分はどうすべきか迷っていると――。
「――状況を報告せよ」
 剣を降ろし涙を拭う岩鬼の真横へ突如巻き起こった砂塵が晴れると――紅遠が立っていた。
 妖人としての超常の力を用い、目にも止まらぬ早さで疾駆してきたのは、泥だらけの革靴や服の裾からも見てとれる。
 紅遠の姿を視認した瞬間、岩鬼を始め全ての軍人が、仕事を遂げた国主へ最上級となる臣下の礼をとるべく片膝を付いた。
「紅遠様、ご報告を致します! 美雪殿は、妖術を駆使してなお――正気です!」
「……誠か?」
「はっ! 間違いがございません! 治癒、そして結界の妖術を使ってなお、紅浜国全体や兵士の身を案じておりました!」
「…………」
 沈黙を続けていた紅遠が、ゆっくりと美雪の方へ視線を向ける。
 信じられないものを見ているとでも言いたげな顔をして、美雪と目が合った。観察でもされているかのような視線に耐えきれず、おずおすと美雪が口を開く。
「……あの、紅遠様? 私は岩鬼様の許可も得ず、自らの意思で勝手なことをしてしまいました。咎めならば、甘んじてお受け致します」
「……私を目の前に見て、どう思う?」
「え?」
「大切な問いだ。答えよ。それによっては――斬る」
 剣呑なことを言っているはずなのに、凜とした紅遠の声は心なしか上擦っている。
 長い睫が頻繁に瞬きを繰り返しており、動揺しているのを美雪は察した。山凪国にいた頃ならば『紅遠様は私などが推し量るべきではない、偉大な御方です』と謙遜しながら、心なく形式的に相手を立てる発現をしていただろう。
(何で、でしょう……。嘘を吐きたくありません。多少、不敬でも……。正直にお答えしたい)
 無礼者と叱られるかもしれないが、美雪は紅遠に抱いている正直な印象を述べる。
「その……。尊き妖人様かと。御国や暮らす民のために尽力なさる、傾国なんて異名が付くのが信じられない、御立派で責任感のお強い鬼人様かと思います。お料理を口にしてくださらなかったり、お部屋やご自身へ近寄らせてもいただけない冷淡な部分はございますが……。それも国主としての強い警戒と責任感。自身の成すべき任へ懸命に取り組まれているが故の、美徳かと……」
 思っていたよりも口が動いてしまったと、美雪は口元に手を当てた。
 妻としてこうあるべきなのに信用してもらえない悲しさが、まるで苦言のように溢れ出てしまった。美雪がそう気がついて弁明しようとすると。
「そう、か。……良かった」
 紅遠は優しい声音で予想外の言葉を発し――小さく笑みを浮かべた。
(何て、美しい笑顔なのでしょうか……。普段は厳めしく冷たいお顔ばかりなのに。紅遠様は、そのような表情も浮かべるのですね)
 美雪が鳥のように目を見開いたのを見て、紅遠の表情がハッとする。
 紅遠が軽く周囲を見渡せば、片膝を付いている軍人たちも安堵の表情で、岩鬼に至っては涙を流している。
 紅遠が片手で顔を覆い、小さく顔を振った。
 そうして、表情を引き締めなおした紅遠が口を開く。
「良くやってくれた。そこの者も、血塗れなのに傷が塞がっている。美雪が救ってくれたのだろう?」
「紅遠様より授かった妖力のお陰でございます。普段の私の妖術では、とても……」
「……そうか。それでも、実績は実績だ。この者が今後も後遺症なく生きられるのは、美雪がいたという事実があったからだろう」
 紅遠の言葉に、美雪は胸がじんわりと熱くなる。
(こんなにも……。自分がした何かを誰かに認めていただけて、お褒めいただけるなんて……。こんな感情は、初めてです)
 感じたこともない温もり、感情。潤む瞳から涙がこぼれ落ちないように耐えていると――。
「――だからこそ、これ以上は私に近付くな」
「……ぇ」
 やっと認めてもらえる。信用してもらえる糸口を見つけた。
 そう思っていた美雪は――魂の抜けたような声を漏らす。たちまち身に纏う喪服のように顔色が真っ白になっていく。
「これは忠告だ。異論は許さない」
 どういうことなのか、美雪には理解ができない。
 嫁御巫として一人前とは言わないまでも、認められる功績を立てたはずだったのに。返って遠ざけるような発言を突き付けられてしまった。
(やはり、先程の発言が不敬だったから……。謝罪して、許していただかないと!)
 美雪がショックによろめきながらも、紅遠へ頭を下げようとすると――。
「――紅遠様、岩鬼国務大臣! ここにいらっしぃましたか……。外務省より、急報がございます!」
 急ブレーキをかけた車から飛び出るように降りてきたスーツ姿の男が、紅遠の前へ駆け寄って来た。
 その様子を見て岩鬼は礼を解いて立ち上がり、紅遠と男の間に立つ。
「外務長官殿ではないか。そのように慌てて、どうされた?」
「山凪国で――壬夜銀様が正式な国主へ就任しました! 襲名の儀を強行したとのことです!」
「なんと!? 銀柳様の四十九日法要どころか、崩御後まだ数日だぞ!?」
 死した妖人の魂が魂刀へ根付き安らぐまでの四十九日間は、喪に服するのが常識だ。
 それを無視して襲名の儀を執り行った。――壬夜銀自身の産み出せる魂刀に、山凪国の国主が脈々と魂や妖力を繋いできた魂刀を合一化させたのだ。
 国家間の戦争などにより国主不在が存亡の危機になる状況であれば、前例はある。
 だが、山凪国は危急の状況にはない。
 落ち着いて天寿を全うした銀柳の魂が安らぎ魂刀として定着する前に、己の魂刀へ取り込むなど――祖霊への敬意を欠く、有り得ない行為。国内のみならず、国外からも強い反発が予想されるほどの冒涜的行為だ。
「そのような暴挙を行った妖人に、家臣団は付いてくるのか? 年若い臣や不遇を被っていた一部はともかく、名君と謳われた銀柳殿を慕う者は相当に多いはずだ」
「そ、そこまでは……。内偵の情報が入っておらず、あくまで急報のみですので」
「やむを得んな。……肌がざわつく。嫌な時代の潮流がする予感、か」
 怪異の去った戦場を、そして遠き山々を見渡し紅遠は呟く。
 銀柳を生涯の師であり、最愛の友であると公言していたのを知っている岩鬼は、主の無念を思い切なげな表情を浮かべた。
 声をかけることは躊躇われるが、一国の政治を一手に任される責務から岩鬼は
「紅遠様……。壬夜銀様の御代になられたとはいえ、山凪国は同盟国です。正式に国主となられた以上、早急に挨拶へと赴かねばなりません」
 そう、紅遠に上申した。
 感情を押し殺した岩鬼の声に、紅遠も頷く。
「ああ、そうだな」
「ここは、国務大臣として国家の大事を預かる某が再び――」
「――私が行こう」
 岩鬼の言葉を遮る紅遠の言葉は、有無を言わさぬ力強いものだった。
 それでも、岩鬼は再度確認せずにはいられない。それだけ信じられない言葉だったから。
「……失礼ながら、今なんと仰りましたか?」
「私が行くと申したのだ。銀柳殿は、壬夜銀の行く末を案じていた。直接話し、過ちを犯しそうなら一度忠告をすべきだろう」
「で、ですが! もし壬夜銀殿が同盟を急遽破棄し、紅遠様に襲いかかれば! 御身や魂刀が破壊されれば――」
「――周辺国にも、大々的に宣言しよう。国主になったことへの祝いだけではない。朝原家に、婚礼の挨拶をしに参る、とな」
 結婚とは、家と家の結びつきでもある。
 それは妖人と嫁御巫であっても変わらない。
 むしろ嫁御巫と妖人の絆は、非常に重要視されることから――遺恨なく挨拶も行う必要があるとされてきた。
 古来よりの伝承で、嫁御巫が御巫ではなく嫁と称されるのは――その関係性が、嫁御巫の操る妖術にも関与すると伝えられてきたからこその風習だ。
 それだけに婚礼の挨拶とは神聖な儀式であり、誰も邪魔するべきではないと暗黙の掟がある。
「何と!? た、確かに……。それならば、事前に美雪殿の嫁入りを認めていた山凪国は手を出せない。もしも新郎として義を果たすべく参る紅遠様に手を掛ければ、周辺国は全て山凪国の敵に回る。銀柳様への不義理に加え、そのように筋違いな真似をすれば……。妙案、かもしれませんな」
 岩鬼が唸りながら、承諾する。
 だが岩鬼の中には、壬夜銀が想像を絶する愚物だった場合の懸念もある。
 四十九日法要を無視して襲名の儀を強行するような妖人だ。後先考えず、短慮に走る可能性も捨てきれない。
 そんな中、話を聞いていた美雪が
「私も、紅遠様と一緒に参りたく存じます」
 自主的に、そんな発言をした。
「美雪殿、それは危険です!」
「岩鬼様は、私が未熟ながらも守護の結界を張れたのをご覧になっていたかと思います。いざという時には、事を荒立てず紅遠様の盾にもなれるのではないかと……」
「それは、そうではありますが……」
「……誰かに命じられた役割ではなく、私も自身の意思で皆様のお役に立ちたいのです。差し出がましい申し出ですが、ご検討をいただけないでしょうか?」
 美雪は紅遠と婚礼を結ぶ当事者だ。婚礼の挨拶というのであれば、夫婦揃って朝原家へ行くのが通常の流れではある。
(あの家に行くのは身が震えますが……。せっかくいただけた役目から逃げたくはありません。紅遠様に、もっと信用していただくためにも、勇気を出さなければ)
 岩鬼はメリットとデメリットを秤にかけ、何も言葉を発せない。弱り切った表情で紅遠へと視線を向ける。
「美雪、私の言葉が聞こえていなかったのか? これ以上は、私に近付くなと言っただろう」
 ドスの利いた声、射竦めるような眼差しに、美雪の身体が強ばる。
 それでも美雪は
「承っておりました。……同時に、私の好きにしろという御言葉も頂戴していたかと……。ダメ、でしょうか」
 自由に生きていい。好きに生きていいと申しつけられた生き方に戸惑っていて、さじ加減が分からない自覚が美雪にはある。
(私の発言が自由の範疇を超えて我が儘であったならば、教えていただきたいです……)
 悲しそうに視線を俯かせる美雪と紅遠の間に、静寂の時間が流れる。
 やがて紅遠は、美雪の横を通り過ぎ紅浜国へと繋がる門へ歩みを進め――。
「――美雪の好きに生きろ」
 そう、告げた。
 小さくとも、よく通る紅遠の言葉に美雪はバッと顔を上げる。
「はい! ありがとうございます!」
 心なしか弾んだ声で、紅遠の背にそう返事をした。
 夜の闇も徐々に濃くなっていく。
 初陣を終えた美雪は、岩鬼と共に自動車で館へと戻った――。