傾国の鬼人と喪服の嫁御巫

 蔑まれ、惨めに生涯を終えると思っていた人生が一変したのは
「私が最も愛した男と、最も難き女の子よ。――私の嫁に来い」
この強引な言葉が切っ掛けだった。
 因果とは数奇なもので、何処でどのように繋がるかは分からない。
 妖力による圧倒的な武力を持ち、国主として君臨する妖人。
 そして妖人の妖力を授かり、守護や治癒の結界で怪異の脅威を退ける補佐を成す嫁御巫。
 神州全土を統一する国家がなく、異国の文化が入り込み日々様変わりする世においても、両者の繋がりが国家安寧に大きく関与するのは変わりない。
 《傾国の鬼人》と呼ばれる絶世の美男子――鬼の妖人が「嫁に来い」と、言い放った言葉。
 操を立てるのを誓う白い喪服姿で葬儀に参列していた――無能と蔑まれる嫁御巫は、その命令に対して
「これは、復讐でしょうか」
 そう、尋ねる。
 力関係から、嫁御巫に拒否権はない。それでも、尋ねずにはいられなかった。
 氷のように冷たい表情、焔のように紅い瞳。娶ると宣言した妖人は、返答すらしない。
 この日――傾国の鬼人が、白い喪服の嫁御巫を娶るという異常事態が起きた。
 血の因果で憎み合うべき者たちが交わる事件が、やがて神州全土を巻き込む炎となる――。

 人の産まれは平等ではなく、人の人生は産まれた家や生まれ持った能力により変わる。
 天は人の上に人を造らずとも、人は人の上に人を造る。
(銀柳様……。誇り高き銀狼の妖人様。卑しき私を、貴女様が拾って頂いた温情に感謝致します。どうか、ご冥福を……)
 長い黒髪を垂らしながら、朝原美雪は家事で傷だらけになった手を合わせ祈った。
 広大な山凪国城の敷地内、何畳あるのかも分からない畳張りの葬儀会場中を焼香の香り、現世と隠り世の境界を曖昧にするように立ち上がる煙が包む。
 美雪は焼香さえ、あげさせてもらえなかった。それでも……せめてもと、人が焼香している僅かな隙に、一緒に冥福を祈らせてもらう。
 そんな美雪の小さな挙動には気づかず、家臣団は柩や国主であった銀柳の写真に向け、哀しみの視線を向けている。
 居並ぶ数百を超える列席者は黒い喪服の和装や最近流行りの黒のスーツに身を包み、故人であり偉大なる国主の崩御を惜しんでいた。
 遠い海の外にある国から渡ってきたカメラで撮影したモノクロ写真。気高き狼のように白銀の髪、白銀の瞳を持つ男――山凪国の先代国主である銀柳は、遺影の中でも誇り高く凜々しい表情で、列席してる者たちへ鋭い眼差しを向けているように見える。
「ああ、銀柳様……。我らは惜しい主を亡くしました。五百年の長きに渡り山凪国の国主として、実に御立派であられた……」
「うむ……。葬儀の場で申すのもなんだが……。銀柳様の御代しか存じぬ我らは、果たしてこれから、他国や怪異から国を護れるだろうか」
 かつて一つであった神州国内が五十近くの国家に分裂した動乱の時代。
 外の国からの文化や兵器が急速に流れこみ日々様変わりしていく不安な世において、絶対的な力を持つ存在は強く求められているのだ。
「黙って喪に服そうではないか……。我らには、お世継ぎの壬夜銀様がおられる。今はまだ国主として銀柳様には及ばずとも、銀柳様の魂刀を受け継いだ暁には……。それに、残った嫁御巫も多数おろう」
「そうじゃ。嫁御巫は銀柳様の補佐で実務を経験しておる。雑草のように湧き出る怪異やら、他国の脅威など退けるのには慣れておる。我が国の未来は、この先も盤石じゃ」
 古来より子々孫々受け継がれてきた魂刀と妖力を操り、絶大な力を誇ってきた妖人と、妖人の異能を預り国家国民を護る、嫁巫女という存在が実在するなら、尚更だ。
 万の兵を屠り天寿は五百年前後と伝えられる妖人。その助力として日々、民を襲う怪異が国内へ跋扈するのを防ぐ――嫁御巫。
 明確な上下関係、尊き者とそれ以外の構造が成り立つのも自然な成り行きであった。
「嫁御巫、か。勿論、感謝と敬意は抱いている。次代である壬夜銀様の正妻候補、燈園寺家の和歌子殿や、側室候補の朝原玲樺殿を筆頭にな。だが……極一部、のう」
「それは……。銀柳様の戯れだろうて。壬夜銀様の御代になれば、不適合者は正しき処罰を下されるだろう」
 だが――産まれが尊き者とて、その力は平等ではない。
 上に立つような人間の中にも、鬱屈とした上下関係は産み出される。ストレスをぶつけられる弱き存在を、常に人は欲しているのだ。
 その能力、出自によって弱者と認定されれば――。
「――見て、玲樺。私を差し置いて、あの無能者の服装。――白の喪服だなんて、そんなに目立ちたいのかしら。品性が下劣ね」
「和歌子様。アレはゴミです。従姉妹として、恥ずかしい限りですよ」
「あら、そうでしたわね。玲樺はアレの母――稀代の淫売が御母に当たるのでしたわね。……貴女は淫売の血を引いていないのですわよね?」
「はい。母は罪なく高貴な血のままです! あの使用人以下……罪人同然の美雪と違い、私は名門朝原家と高貴なる武家……妖人の御力を一部でも宿す継承者の娘です。能力、血筋ともに親族と呼ぶことさえ嫌なぐらいですよ」
 銀柳の血を引く家臣団や嫁御巫は弔問客に挨拶をするべく一番前列へ居並ぶ中では、小声でそのようなやり取りがされていた。
 国主が崩御しても、国は終わらない。
 もう既に次代の国主支配下における権力闘争が始まっているのが――嫁御巫というものである。
 正妻候補として筆頭の燈園寺家の和歌子と、堕ちた名門朝原家の才女として名高い玲樺は、黒い喪服に身を包みながら、ひそひそと嫁御巫末席に立つ異物へ言葉の刃を向けていた。
 謂われのない暴言に対しても美雪は、長年の生活から謝罪がクセになっている。
 とにかく、謝るべく口を開こうとすると――。
「あら。まさか下民が、山凪国建国以来の超名門、燈園寺家の許しなく口を聞くつもり?」
 玲樺の吐く毒のような言葉に、美雪は俯き口を引き結んだ。
(やはり、白の喪服は目立ちましたか……。いいのです、黒の喪服か白の喪服か。選択肢を与えていただけたで十分。私のような者が、お見送りの場に立てただけでも感謝しないといけません)
 数十といる嫁御巫に、膨大な黒い家臣集団。
 そんな中、一人だけ白い喪服に身を包む美雪には、蔑視が向けられていた。
 それは何も、服装のことだけではないと美雪は理解している。
(仕方のないことです。……私の出自、能力では、何もお役に立てない。葬儀が終わり壬夜銀様が魂刀を受け継ぎ襲名の儀を終えれば、追放でしょうか。或いは、怪異を誘き寄せる餌として使い捨てられるでしょうか。……どちらにせよ、私の辿る結末は変わらない)
 近い将来訪れるであろう自身の死を悟る美雪は何も――自分の死に装束として白を選んだわけではない。
 周囲は、そのように「死に装束か」、「後追いで殉職するつもりか」、「巫女見習いが殉職したとしても、壬夜銀様とて喜ばないであろう……。特別な事情があれど」と、勝手な噂話をしている。
「参列してるワシ等まで、気分が悪くなるわ」
「銀柳様の最大の失敗は、あのような売女の娘を……見習いとはいえ嫁御巫に加えたことだな」
「聞けば微量の妖力しか操れず、小さな結界すらも張れぬそうではないか」
「そもそも、だ。いくら妖人の血を濃く受け継ぐ嫁御巫や継承者が求められるとは申せども、あの娘を嫁に迎えるのは……」
 もはや美雪は、何も言い返さない。暗い瞳で俯くのみだ。
 物心ついた頃から、十九歳になる現在まで――明確に下へ位置する人間として生きてきた。
 十二歳の頃、妖人が放った妖力を吸収して扱えるのか。嫁御巫としての資格を万民が受ける資格を与えられる場で、僅かばかりにでも素養を示し、美雪は銀柳に拾ってもらった。
(お陰で家族に殺されず、下働き以下の生活から嫁御巫見習いとして下働き並みの生活ができたのです。たとえ針の筵に座らせられているように苛烈なイジメがあれど……。今まで私が生きてこられたのは銀柳様のお陰。一度としてお手にも触れてない嫁御巫でも感謝は忘れません)
 浴びせられる視線や暴言に慣れた美雪は、亡き恩人にひたすら感謝と死後の安らぎを祈っていた。
 すると――。
「――おお、親父殿の魂刀が顕現したぞ!」
 次期当主の壬夜銀が、巨体とダークグレーの尾を揺らして瞠目した。
 脈々と受け継がれた妖力を宿す器、魂刀。
 妖人が長い生涯で数多く残す子の中で魂刀を自身でも顕現可能な者こそが、次代の国主である。
 国の数だけ――あるいは国家を失うか、そもそも自国を持たない者を含めれば、もっと存在すると噂される妖人の、絶対のルールがそれであった。
 自身の妖力の塊であり魂でもある魂刀――そこに何千年、何代にも渡り受け継がれてきた妖力と魂の宿る先代の魂刀とを融合させる。
 親から子へ脈々と受け継がれ増幅してきた絶大な妖力こそが、妖人を頂点たらしめる力である。
 同時に、魂刀を失うことは――国主として、妖人の死を意味する。
 絶大な妖力で己を高みに登らせる魂刀が眼前に浮かび上がれば、野心溢れる壬夜銀が親の死を悼む心すら忘れ顔をにやけさせるのも、無理はないのかもしれない。
 だが――。
「――銀柳様の喪を弔う態度すら、次代である壬夜銀様が見せぬとは……。山凪国の未来は……」
「……お主が国を憂う心は分かる。だが、不敬じゃぞ」
「先代から魂刀が受け継がれる場など、人間の身では目にする機会無く生涯終えるのが当然だ。心を乱すなというのも無理な話よ……」
「それは四十九日法要の後にある襲名の儀でやればよい。今は喪に服すべきであろう。……大丈夫、じきに壬夜銀様は、大国である山凪国を率いる御自覚へ目覚めるだろう」
 数百年に渡り名君と呼ばれ君臨した銀狼の妖人――銀柳。
 偉大で頼りになる国主しか見たことがない家臣団は、口々に不安を口にしては、自分に大丈夫だ言い聞かせるよう呟く。
 しかし壬夜銀の年齢は既に百歳を超えており、父である銀柳から厳しく叱責され続けた。
(お立場が人を変えるとは申しますが……。いえ、私のような下級の者が考えるべきことではありませんでしたね)
 美雪は粗暴な壬夜銀の治める国家と未来を想像し、考えるのを止めた。自分の立場からすれば、考えるだけ無意味だと思ったのだ。
(身の程を弁えず、無礼なことを考えてしまいました。……お爺さまや玲樺さん、叔母様に折檻されるでしょうね)
 葬儀後のことを思えば、また朝原家の屋敷にある蔵で折檻されるだろうと、美雪は暗い気分になる。
 だが、すぐに気持ちを持ち直して白い喪服を揺らしながら、次々と焼香する人々へ礼をする。
 やがて家臣団や弔問客が姿を消し、葬儀も終わりの雰囲気が漂い始めた頃――。
「――壬夜銀様、ご報告致します!」
「何だ、葬儀の場で騒々しいぞ! 冬雅!」
 会場受付をしていた一人の老人……美雪の祖父である朝原冬雅が、黒い喪服を激しく乱れさせながら駆け込んできた。みっともない姿に、壬夜銀は怒りを纏った鈍色の妖力を発っする。
「も、申し訳……」
「み、壬夜銀様。動転している義父に代わり申しあげます」
 壮年の男性――朝原双次が恭しく頭を下げた。
 美雪にとっては、叔母である文子の夫――婿養子入りした叔父に当たる。
「お爺さま、お父様? な、何を? 家名に泥を塗られたら、私の側室への道が……。嫁御巫にも明確な上下関係があるというのに。一体、何をなさってるのですか……」
 玲樺は慌てたように呟きながら、自身の血族の様子を見つめる。
「ふん……。貴様は、朝原家に婿入りした双次か。親子共々、かつては我が銀狼妖人を象徴する牙と爪の名を与えられたというのに、な。堕ちた名家の二人が、慌てて何の用だ? 貴様らは、受付すらできない無能なのか?」
 侮蔑する壬夜銀の言葉に、冬雅と双次の二人がギュッと拳を握る。
 一瞬、殺気を込めた視線が美雪に向けられるが――美雪は微動だにしない。ただ、暗い表情で視線を俯かせているだけだ。
(銀柳様を失い、後ろ盾のない私は……。今度こそ、葬られるのでしょうね)
 それは己の運命を嘆くでもなく――その扱いが当然と受け入れている無に等しい感情だった。
 怒りを向けていた冬雅は、ハッと重大なことを思い出したように口を開く。
「た、他国の要人が弔問に参られました」
「……何? 今更だと? 無礼者めが、何処の国の大臣が弔問の使者として訪れた?」
「べ、紅浜国から……」
「紅浜国、だと? あの吹けば飛ぶような、貿易港しか取り柄がない斜陽の小国か。……確かにな。あんな事件があったとは言え、未だ我が国との同盟関係は続いていたか。……あの件で親父殿と忌々しい男との交流が絶てたというのに」
 壬夜銀は、憎々しげにボソリと語った。
「だが、同盟関係とはいえ国力差は明白だ。その大臣とやらに、礼儀を教えてやらねばならんな」
「参られたのは、大臣ではございません……」
「……どういうことだ? ああ、そうか。あの国は怪異からの防衛もままならず早晩消えると囁かれる国だ。手が足りず雑兵でも使者に送ってきたか? 愚王が治める国らしいじゃないか」
 侮るように、吐き捨てる。
 家臣団からも「傾国の主なら、さもありなん」、「かの国でまともなのは、国務の一切を取り仕切る岩鬼殿ぐらいだ。他の大臣や長官は補佐や飾りに過ぎんからな」、「格上相手なら、亡国を覚悟しても宰相格が来るのが当然だろうに」と嘲笑が漏れる。
 しかし、そんな薄い笑いが包む空間で冬雅は
「い、いえ! それが……。紅浜国の国主、紅遠様が――お一人で弔問に参られました!」
 まるで悲鳴のような声で、伝えた。
「何だと!? 妖人――鬼人が自ら、一人で異国に!? 正気か!?」
「ま、間違いなく、お一人です! 継承者らしき供もおりません!」
「……愚かな。魂刀を奪われれば終わりだというのに。流石は――傾国の鬼人と呼ばれる愚王、か」
 確かな侮蔑の言葉と同時に、壬夜銀は苛立ちを見せた。
 妖人を打倒できる者など――一流の継承者や嫁御巫の海の如き軍団か、同じ妖人ぐらいだ。
 当然、この葬儀の場にはズラリと並んでいる。
 そんな中、単身乗り込んでくるなど――『自分は貴様らには負けない、強き妖人だ』と宣言しているに等しい。
 家臣団からも「傾国の鬼人様が、無謀な……」、「銀柳様とは師弟関係だったと窺っているが、剛気を超えた蛮勇も良いところ」、「このようなことは、前代未聞だ。傾国の鬼人、いや奇人との噂は誠であったか」とざわめきが止まらない。
 当然、居並ぶ嫁御巫側も――。
「――愚かな国主に嫁がなくて、よかったですわ。ねぇ、玲樺さん?」
「はい、和歌子様。……もっとも、その愚かな傾国の鬼人へ入れ込んで身を滅ぼした、暗愚な女の娘もいるようですが」
「あら、そうでしたわね。これは失敬」
 美雪の方を見て、和歌子と玲樺は袖で口元を隠している。いや、二人だけではない。山凪国の嫁御巫たちは、皆が同じようにくすくすと笑っている。
(……件の鬼人様は、銀柳様に義理立てをしたのでしょうか。私にとっては、顔も知らぬ縁深き御方ですが……)
 一層、顔を俯かせて美雪は思いに耽る。
 早くこの場が済み、なるようになればいい。恩義がある銀柳を弔えたのだから、もうどうでもいい。私には自由などなく、命令された役割をこなすのみだ。
 そんな諦めの感情を美雪が抱いていると――。
「――失礼する」
 会場のざわめきを、一瞬で掻き消す――凜と澄んだ男性の声が響いた。
「私の生涯の師であり、最愛の友を弔いにきた。焼香をさせていただこう」
 圧倒的な美しさ、存在感に――異論を挟む者はいない。
 壬夜銀ですら、息を飲んで男を見つめている。
 焼香台へと歩むのは黒の喪服、後ろだけ少し伸びた黒の髪、焔のような紅き瞳を宿した美麗な男性――紅遠だ。
「あ、あれが……。何という妖気、美しさだ。かつて無双の美童と謳われていたが、もう立派な美青年ではないか」
「傾国の鬼人……。その美しさから、男女問わず他国の妖人が手に入れようと躍起になるのも頷ける話だ」
「世に類なき容顔美麗なるのみならず、知勇兼ね備えた紅蓮の鬼人様とは聞いていたが……。これは……」
「……おい、しっかりしろ。あまり見つめるな。いつかの事件のようなことを貴殿も起こしたいのか」
 蔑み嘲笑う声は――ただ、紅遠が前を通るだけで消えた。
 紅遠は嫁御巫集に目線すら合わせず、軽く一礼する。
 それに合わせ、嫁御巫集が返礼すると――。
「――お美しいですわ……」
「何という、気高さ」
 焼香台で瞳を閉じ、何ごとかを祈ってる紅遠の横顔を見つめ、和歌子や玲樺は呆けたような声を口にした。
(……銀柳様。ご友人に送られて、よかったですね。喜んでいるのが、伝わって参ります)
 美雪は、会場でただ一人……紅遠に視線も向けず、銀柳の柩の上へ浮かぶ魂刀に注目していた。僅かながらにでも嫁御巫として妖力を操れる美雪は、その魂刀の反応を見つめる。
 銀の刃紋に、山野を見下ろし天を駆ける狼が刻まれた地肉彫の刀が、僅かに明滅している。
(銀柳様とは一度しか、お顔を合わせておりませんが……。私と深き因縁のある、この御方をとても大切にしておられたんですね)
 儚いほどに薄い繋がりであった嫁御巫だが、美雪にとって主は主。嫁候補は、嫁候補だ。
(私は見習い。銀柳様の伴侶に選ばれたわけでもない……。それでも、喜ぶべきなのでしょうね)
 自らの特別で複雑な身の上を鑑み、感情ではなく理性で、ここは喜ぶべきと美雪は判断した。
 美雪とて未婚の嫁御巫という、極めて矛盾した自分の立ち位置に多少、思う所はある。
 それでも、銀柳のお陰で苛烈さを増す折檻やイジメから逃れ、生き長らえた。感謝すべき恩人なのは、揺るがない事実なのだから、と。
 やがて焼香が終わった紅遠は――銀柳の遺影を背に、一通の書状を懐から取りだした。
「――私が直々に参ったのは、亡き友の冥福を祈るためだけではない。――これは私へと託された、銀柳殿による最期の願いが記された文だ」
「親父殿が!? 傾国の……紅遠殿に、最期の言葉を残しただと!? まさか、遺言状だとでも言うのか!」
 紅遠の雰囲気に飲まれ、水を打ったように静まり返っていた会場に――波のような響めきが広がる。
 壬夜銀が慌てるのも、至極当然だ。
 神州全体に古くからある仕来りによれば――四十九日の法要で襲名の儀が済むまでは、国主は銀柳のままだ。妖人の魂は魂刀に落ち着かず、浮世に残っていると伝わるのだから。
 壬夜銀は、まだ次期当主に過ぎない。
 銀柳が遺言に記してる内容は――即ち、国家の主の勅命。内容によっては、自身や山凪国の進退に関わる重要事項だ。
 そんな重要な遺言状を、実子である自分ではなく僅かな期間、剣を教えた弟子に過ぎない紅遠に教えていたことに――壬夜銀は腸が煮えくりかえる思いだった。
「認めぬ、俺は認めぬぞ鬼人!」
「……壬夜銀殿。貴殿はまだ、国主ではない。国主である鬼人に、そのような無礼な態度を取るのは品位に欠けるな。銀柳殿も貴殿の態度を深く憂いていたと文にあったが……。国主である私への態度が他の同盟国に知れ渡れば山凪国の信用に関わるであろう。礼儀を教えてやろうか?」
「な、ぐ……」
 先程、紅遠が会場へ入ってくる前に冬雅や双次と交わした言葉を聞かれていた。貿易で西洋文化が日夜取り入れられ情勢不安定な中、他国の国主へ身分も弁えぬ無礼を働いた。
 力持つ隣国へこの事実が知れ渡った時の損失と――国主を喪中で国が纏まらない混迷の未来を考え、壬夜銀は歯噛みして怒りを飲み込んだ。
「さて、銀柳殿が私に託した願いだが……。それは、ここに記されている通りだ。――そこに居並ぶ嫁御巫の中から一人、私に娶れとのことだ」
「お、俺の物を……。俺の嫁御巫を奪う、だと?」
「まだ貴殿の嫁ではない。銀柳殿の嫁御巫だ」
 稀少な嫁御巫を渡すなど、壬夜銀は承服できなかった。
「親父殿と、紅遠……殿の間には、ただならぬ絆があったとは聞いている。だが、ここまでとは……。俺と極めて血が近い嫁御巫を引き渡し、借しを作るという親父殿の策か? 確かに紅浜国は、軽工業と貿易だけは中々だが……」
 百歳を越える壬夜銀だが、嫁御巫の中には血縁があまりにも近すぎて、子を成すには危険な相手もいる。
 嫁御巫としての能力を十全に発揮してもらうには、額にある神眼という妖気の出入り口への接吻などの接触は、最低でも避けられない。
 妖人の血が濃い子を成すのは大切だが、壬夜銀としても扱いに困る嫁御巫がいたのは事実だ。貸しにしてやるのもありか、と。独占欲が強く利己的な壬夜銀は渋々考えるが――やはり、面白くない。自分の意思ではないのに、自分の手に入るはずだった者が奪われるのは許せなかった。
「さて……」
 あからさまに気の進まぬ様子で、紅遠は嫁御巫の方へ視線を向け一歩近付いてきた。
 嫁御巫たちは居住まいを正し、手ぐしで髪を整え「私ね」、「あの美麗な妖人様なら……」と、頬を染めている。絶世の美男子を前にしているのだから、やむを得ないのかもしれないがと美雪は思う。
(葬儀の場だというのに、故人の嫁がこの有様では……。晩年の嫁で絆が浅いとは言え、銀柳様が浮かばれないのではないでしょうか)
 美雪は周囲の嫁御巫の反応に、小さく肩を落とす。
 紅遠は数十の嫁御巫を前にゆっくり歩き始め、嘆息しながら関心の薄い瞳で見渡すと――。
「――お前、は……」
 美雪の前へとやって来て目が合った瞬間――紅遠は目を見開いた。
 自分の前で動きを止めた紅遠を、美雪も見つめ返す。
(天をも焦がす焔が如き真紅の瞳と相反する、冷淡な表情と白雪のような美しきお肌……。この美麗で尊き御方が……母を狂わせたのですね。何処か納得してしまいます)
 マジマジと紅遠の顔を見つめ、美雪は冷静に思考を巡らせる。
 同じように紅遠も、暫し逡巡してから――決意の籠もった鋭い瞳を向けた。

「私が最も愛した男と、最も難き女の子よ。――私の嫁に来い」

 極めて真剣で重い声が――静まり返っている葬儀会場に、よく響いた。
 だが数秒ほどすると、言葉の意味を理解した山凪国の者たちは――一様に驚愕の言葉を交わし始める。
 漏れ聞こえる声の中には「あのような売女の娘、力なき嫁御巫を欲するなどとは! やはり傾国の奇人か」と、紅遠の正気を疑う声まである。
 その言葉には、美雪も同意だった。
「……大変なご無礼と承知の上で、お窺いさせてくださいませ」
「何だ?」
「私の服装の意味は、ご理解いただけておりますでしょうか?」
「……白の喪服、か。貞女は両夫に見えず。夫が他界しても、他家には嫁がないという意思表示だな。急速に欧化している現代社会において、西洋の黒い喪服文化に染まらず古い因習を持ち出すとは驚きだ。……お前は、さぞかし銀柳殿に想いを募らせていたのだろう。いや、あるいは感謝か」
 実際には、美雪は銀柳に嫁いでいたわけではない。未亡人でもない。
 それでも下級使用人に服装を選ぶよう迫られ、感謝を示したく自ら白の喪服を手に取った。
 他家に嫁がないというよりは、嫁ぐ機会など、ないだろうと思っていた節はある。
 それに加え恩人である銀柳が他界したことへの、深い悲しみを示す意味合いも強かった。銀柳の死と同時に、自分も死んだも同然だという決意を胸に、この白い喪服へと身を包んだのだ。
 美雪の中で、自分は既に――役割を終え、苦しみから冥府へ旅立ってるも同然だった。
 そんな白い喪服の意味を理解しながら何故、紅遠は自分を娶るというのか。疑問に思わずにはいられない。
「……服装の意味を御理解なさっていながら、白の喪服で参列する私を何故、貴方様の嫁御巫に迎えなどと仰るのでしょうか。無能で罪深き私より、貴方様のような妖人に相応しき女性がいらっしゃるのではございませんか?」
「…………」
「……これは、復讐でしょうか?」
 俯きながら問う美雪に、紅遠の眼差しが一層鋭くなる。
 周囲の嫁御巫――特に和歌子と玲樺の、くすくす笑う声が響いて来た。
 しかし、そんな声は――妖気を漂わせる鬼人の睥睨で止まる。
 紅遠は、視線を美雪に戻し――。
「――そなたの母が私にしたことは、お前には関係ない。これは……おそらく、銀柳殿の遺志だ。不可解だった、私へ嫁御巫を一人迎えよとの言葉。そして――銀柳殿と難き女の実子である、そなたが嫁御巫に名を連ねていたこと……。これが偶然のはずがない」
 そう語った。
 紅遠の手には、大切そうに銀柳の花押が描かれた遺言状が握られている。
「そなたは不服だろうが、私は生涯の師であり最愛の友の願いを果たす。……そなた、名はなんと申す?」
「……朝原、美雪でございます」
「そうか。美雪、この話に否はない。銀柳殿に恩義を感じて白の喪服へ身を包んでいるならば、その遺志に殉じろ」
「……承知、致しました」
 元から明確な上の存在――天上の存在とも呼ぶべき、妖人に逆らうことなど許されない。
 美雪は、静々と頭を下げた。
 白い喪服の袖を揺らしながら、深々と下げられる美雪の頭を暫し眺めた紅遠は、小さく頷くと――。
「――近いうちに、迎えを寄越す」
 それだけ告げて、葬儀会場を去って行った。
 圧倒的な存在感を放つ傾国の鬼人が去ると、雰囲気に飲み込まれたようになっていた山凪国の者たちは、徐々に我を取り戻していった。
「がっはっは! 俺の嫁御巫を奪うと聞いた時は、どうなるかと思ったが! 寄りにも寄って、何の役にも立たない嫁御巫を娶るとはな! 余程、国を早く滅亡させたいようだ!」
 代々続く魂刀の混合が行われておらず、妖力は紅遠に遠くおよばない壬夜銀だが――今、この会場に居並ぶ中では、誰よりも強い力を持つ。
「いや、玩具にでもするか、慰みものとして甚振るのか。流石は、かつて強大であった紅浜国を瞬く間に小国へと堕とした傾国の鬼人殿だ。全く、大した審美眼を持っているようだな!」
 そんな存在が――残った紅遠の妖力や言霊を吹き払うように強気な発言をしたのだから、会場の空気は一気に美雪や紅遠を嘲笑する方向へと流れた。
「よかったですわね、美雪さん。遠からず滅亡するとはいえ、嫁入りの経験ができますわよ」
「ふふっ。本当、あなたに相応しい国を滅ぼす愚王だけどね。精々、旦那様との僅かな一時を大切にしなさい」
 先程の紅遠に見入っていた姿は、どこへやら。
「国が滅びる前の憂さ晴らしですか。良いご趣味の殿方と巡り会えましたわね」
「相応しきご結婚、おめでとう。美雪さん」
 和歌子と玲樺は、わざとらしく美雪の足をぐりぐりと踏み躙り――去って行く。
(銀柳様……。本当に、これが貴方様の御意志なのでしょうか?)
 銀柳の柩の上で、ふよふよと浮かぶ魂刀に向かい、胸中で美雪は尋ねる。
 本日の主役であり厳粛に弔われる筈だった銀柳は――これで満足なのだろうか、と。
 再度、両手を合わせて冥福を祈った後、人がまばらになった葬儀会場へ視線を巡らせた。
 ふと、棒立ちになって美雪を睨む冬雅と双次の姿が映る。
(お爺様と、叔父様の顔……。恥をかかされ、朝原の家名にまた泥を塗ったも同然。叔母様も、話を聞けばお怒りになるでしょう。私は、生きて紅浜国の血を踏めるでしょうか……)
 冬雅と双次の向ける目を見て、美雪は諦めたように俯いた――。

 紅浜国から、嫁御巫を迎える使者が来ると伝えられた日。
 朝原家の屋敷の一隅にある蔵の中では、目を覆いたくなるような光景が広がっていた。
「あの売女のせいで、私の人生まで台無しだわ!」
「申し訳、ございません……」
「ここまで生かしてやったのが間違いでしたわ! あの愚王と名高い傾国の鬼人に嫁入り!? 壬夜銀様の不興を買って朝原家を潰したいのですか、この疫病神!」
「申し訳、ございません……。叔母様」
 パァンと、美雪の頬が叩かれた。
「誰が貴女の叔母ですか! 貴女は他人以下……使用人にも劣る害悪! 菌やカビの類いですわ!」
「申し訳、ございません……」
「あらあら、お母様。お手が腫れておりますよ? 今、治癒の妖術をかけますね」
「……ええ、頼むわ玲樺。このゴミ親子のせいで、私は痛んでばかりよ。身も心もね」
 にやにやと笑いながら見ていた玲樺は、美雪の叔母――文子の手を包む。
 嫁御巫としての守護の力により、ぽっと銀色の灯りが灯ったかと思うと――すぐに手は傷も腫れも無い状態へ落ち着く。
「貴女も、玲樺を少しは見習ったらどうなの? 出来損ないの嫁御巫擬き」
「あらあら、お母様。――ゴミを踏まれては、最先端の靴が汚れてしまいわすわ。物の汚れは、流石の私の妖術でも取れませんよ?」
「靴の一つや二つ、また買えばいいですわ。このゴミを甚振れるのも、今日が最後なのですから。まぁ、場所が変わるだけです。どうせ国を傾ける奇人の玩具になるのでしょうけどね」
 輸入された流行している靴のヒールで、文子は縛られ蹲る美雪の頭を踏みにじる。
 その目には、果てない憎悪が滲んでいた。
(息苦しい。……生き苦しい。何故、私は生き続けているのでしょう。何を目的に、生き続けようとしているのでしょうか)
 紅遠から嫁になれと宣言された日から、美雪はずっと蔵で折檻を受け続けていた。
 粗末な薄着を一枚着せられただけなのは、肌が傷付く様子を見て憂さを晴らしたいという朝原家の面々による蛮行だ。
 使用人たちが痛ましそうに目を伏せるのも構わず、折檻をする側の者たちは水や拷問器具の運搬を命じていた。
 最低限の水を飲ませる――という名の、意識が遠のいた美雪へ桶の水をかけるという作業と、暴言や暴力に晒される繰り返しの時間だ。
 美雪の心は、既に折れる所がないぐらいに粉々であった。
 幼い頃から幾度となく折檻はされているが、これだけ昼夜問わず連日責め立てられるのは初めてだ。心身は衰弱しきっており、舌を噛んでしまおうかとすら美雪は思う。
(いえ、無駄ですね……。死を選ぼうとしたところで、たちまち玲樺さんに治されてしまいます。無駄に苦痛が増えるだけ)
 死ぬ自由すら与えられない、暗い絶望と蝋燭に火だけが照らす蔵の扉が開かれ――。
「――文子。もうすぐ迎えが来る時間だ。それを洗い、新しい服へ着替えさせねば」
「双次さん……。口惜しいですが、分かりましたわ。でも、これだけで終わるのもね……」
「お母様、私に良い考えがありますわ」
 悪辣な笑みを浮かべた玲樺は、ひそひそと文子へ耳打ちする。
 そうして文子は、話を聞いていくうちに――口を三日月のように歪めた。
「それは素晴らしい、流石は私の娘ですわ。――誰か、来なさい!」
「は、はい! 若奥様!」
 祖母は既に他界している為、朝原家に若奥様も何もない。だが文子は、そう呼ばれないと使用人を折檻する。
 慌てた女中が着物の裾を乱しながら駆け寄り、青ざめた表情で蔵の中の美雪へ視線を向ける。
 文子から伝えられる命令に涙目で頷くと、服が汚れるのも構わずに美雪の拘束を解いた。
「ふん、二度と顔を見たくないわ。まぁ、国ごと滅びるか、怪異か鬼人の贄に消えてくれるでしょうけどね」
「さようなら。ああ、安心してください。このまま紅浜国へ渡したら、我が家の名が不当に貶められてしまう可能性もありますからね。ちゃんと、傷は治してさしあげますよ」
 玲樺が美雪へ向かい手を向けると、銀色の光とともに――目に見える傷は、たちまち癒えた。
 目に見えない心の傷は、全く癒えてない。苦痛から解放された美雪は、自力で立ち上がろうとして――上手く力が入らず倒れてしまう。
 文子と玲樺が満足そうに美雪のあがく様子を眺め蔵から立ち去ると、女中は小さく「ごめんなさい」と呟き、美雪に肩を貸した。
「……良いのです。私は、誰のお役にも立てませんから。こちらこそ、嫌な仕事をさせてしまい申し訳ございません」
 謝罪をする美雪の横で、女中の瞳から一筋の雫が落ちた。
 そのまま美雪は女中に介抱されながら入浴を終え、替えの着物を手渡される。
「これは……。白い喪服、ですか」
「ごめんなさい、若奥様のご命令なの」
 顔を伏せる女中に、美雪は察した。
(玲樺さんが叔母様に耳打ちしていたのは、この嫌がらせを思いついたからなのですね)
 嫁入り衣装が白の喪服など、聞いたこともない。
 それでも美雪は、淡々と白の喪服へと袖を通していく。
(……私に自由な意思を持つ権利も、選択肢もありません。考えようによっては、紅遠様の仰っていた通りですね。銀柳様の遺志に殉ずる覚悟を示すのには、最適な服装かもしれません)
 葬儀の場で紅遠が言ってくれた言葉が、何となく嬉しかったのだ。
 白い喪服には、死と再生という意味合いもある。
 紅遠の『銀柳殿への恩義を感じて白の喪服に身を包んでいるならば、その遺志に殉じろ』という言葉は、美雪にとって自由な意思をも認められた気分になった。
 銀柳へ対して深い恩義を抱えているのも事実だ。
(好きにしていいと言うのは、選択肢を与えられたり強要されるより悩みますが……)
 刷り込みや洗脳にも近いほど虐げられ続けてきた美雪にとっては、紅遠の言葉に戸惑いも多い。
 しかし、あの一件から白の喪服は――美雪にとって初めて誰かから認められたものとして、お気に入りですらある。
何にせよ、今は白の喪服へ身を包む以外に選択肢が与えられていない。
 非礼に当たる不快な思いをさせたら、謝罪して折檻を受ければ良い。最悪、処断されても構わない。
 そんな心持ちで美雪は、小さな握り飯と少量の水を与えられ朝原家の門の前へと移動した――。

 朝原家の屋敷前に、立派な馬車が停まった。
 西洋の装いに身を包んだ御者が馬車の扉を開けると、中からは軍装に身を包んだ大柄な初老の男性が降りてくる。如何にも軍人と言った、厳かな風格を醸し出していた。
 怪訝な表情を浮かべる男性に美雪が軽く頭を下げると、男が
「失礼、こちらは朝原家の屋敷で相違ありませんかな?」
 そう美雪に尋ねた。
「ええ、間違いありません」
「……その、白の喪服。もしや貴女が、紅遠様の嫁御巫となる美雪殿でしょうか?」
「はい。何ごとも至らぬ無能者ではありますが、どうぞよろしくお願い致します」
「何と……。嫁入りに際し、見送りや使用人の一人もいないとは」
 深々と頭を下げる美雪に、驚愕したような声が聞こえてきた。
 また怒られるのではと、思わず美雪の肩がビクリと震える。
「お顔を上げて下さい。初めまして、某は紅浜国で国務大臣をしている岩鬼真登と申します」
「朝原美雪と申します。岩鬼様、お目にかかれて光栄です」
 美雪は良家の生まれではあるが、淑女教育を受けていない。十二歳の頃から嫁御巫見習いとしての修行はさせてもらっているが、礼節などは使用人の見よう見まねだ。
 そんな美雪の作法を見て、岩鬼は顎を撫でて困惑の表情を浮かべる。
(立派な装い、ピシッと伸びた背筋……。そういえば葬儀会場でも、紅浜国の岩鬼様は立派な御仁だと噂話が聞こえていたような。国務大臣という役職は聞いたことがありませんが……。国務の一切を取り仕切る、御国の要でしょうか? そのように重要な役目を持たれた方が、私なんかを迎えにご足労くださるなんて……)
 恐縮してしまい、美雪は何を話していいか分からない。
 そんな美雪の様子を察したのか、岩鬼は表情を和らげ
「朝原家への挨拶だけして参ります。……美雪殿は、馬車の中の方がよいですかな?」
「……いえ。挨拶は不要と、当主である祖父から承っておりますので」
「御代が変わるとはいえ、仮にも我が国と山凪国は同盟関係なのですがな……。それでは、せめて文だけでも失礼致します」
 岩鬼は御者に申しつけると、サラサラとペンで紙に挨拶文を書いていく。
 国務大臣という役職なだけあり、普段から書類仕事には慣れていると分かる早さで書き記すと、木で出来た門の扉へ書状を挟んだ。
「それでは、参りましょう。道中、怪異が出るかもしれません。お気を付けて」
「はい。怪異の一つも退けられぬ未熟な嫁御巫で、申し訳ございません」
 頭を下げてばかりの美雪に、岩鬼は頭を掻きむしる。どうしたものかと言わんばかりの様子だ。
 そのまま誰に挨拶を述べるでもなく、二人を乗せた馬車は紅浜国へ向け走り始めた。
 遠ざかる朝原家の屋敷を見ても、特に感傷はない。美雪がこれまでの人生を振り返っても、何一つ良い思い出なんか浮かんでこなかった。
 浮かぶのは、使用人より下に扱われながら家事へ奔走した日々と、近付くだけで震える蔵の記憶ばかりだ。
 徒歩とは比較にならない速度で過ぎゆく街並みに目を向けながら、ふと美雪は気づいた。
(思えば、他国どころか……王都以外に出るのも、初めての体験ですね)
 籠の中の鳥や深窓の令嬢など、可愛がられる存在とは違う。
 まるで産まれながらに囚人のようだと、美雪は感じた――。
 
 土を整備した道を馬車で進むこと、約五時間。
 既に日は傾き、もうすぐ太陽が山の間に沈んでいく。
 逢魔が時――怪異たちが活発になると言われる時刻である。
「美雪殿。ここで乗り換えです」
「え?」
 馬車についた窓から外を眺めるが、まだ街並みは広がっていない。
 山凪国の山林ばかりの地ほどではないが、小さな村らしき集落が遠くに見えるぐらいだ。
 美雪は逆らう権利などないと、岩鬼に続いて馬車から降りる。
 すると
「こ、これは……。凄い建物、ですね」
 馬車が二台通れるぐらいの道に、突如として大木より高い巨大な建造物が建っている。
 見慣れた木造の建築物ではない。
 山凪国で重要施設や、城の周りの街道に使われているアスファルトのような壁だ。
 馬車についた小さな窓からは死角になっていたのだと美雪は気がつく。
 呆気に取られた美雪に、岩鬼はカラカラと笑いながら先導して歩く。
「これは怪異などから国境を護る要塞であり、関所でもあり、継承者や兵士の駐屯地へも通じる門ですな」
「つまり、この建物から先が……」
「はい。ここまでは山凪国ですが、あの門から先は紅浜国の領土になりますな」
 山凪国の国土が想像以上に広いことを、美雪は知らなかった。
 これだけ王都から離れ人里離れているような地にまで支配が広がっていたことは、城と屋敷周辺しか出歩いたことのない美雪にとっては新鮮で、少し信じ難くもある。
(山凪国だけで、馬車で何時間もかかるなんて……。神州全体なら、どれだけ広いのでしょうか。これだけ広い地を、銀柳様や嫁御巫様たちは管理なされてたのですね)
 改めて、その力になれなかった自分が情けない。
 一般的な嫁御巫がどれだけの範囲を守護できるのかは分からないが、少なくとも自分の力なんて――人を一人護り、癒やすのも可能なのか怪しいレベルだと沈鬱な気分になる。
「駐屯地より先は、自動車での移動です」
「自動車とは……。確か近年、尊い方々の間で移動手段として普及してきた高級品ですか?」
「尊いかはともかく、安くはないですな。手入れも難しく整備された道路でしか使えないのが難点ですが、速度は速いです。自動車に乗り換えれば、もう紅遠様の元へは目と鼻の先といってもよろしいかと」
 どきりと、美雪の胸が鼓動した。
 ほんの少し会っただけなのに、紅遠という名前が出ただけで胸がおかしくなる。
 それだけ紅遠という妖人や彼の放った言葉は、美雪の心に深く刻まれていた。
 岩鬼に続き、紅浜国へ向かい歩いていると
「ん? あれは……」
 門の前で、粗末な服を着た何人かの村人が門衛に向かい大声で何かを訴えかけていた。
 一人の人物が抱える、血に塗れた子供を見て――岩鬼が走り始めた。
 美雪も続いて、白い喪服の裾を乱しながら全力で駆ける。
「何ごとだ!?」
「岩鬼様! いえ、この者たちが――」
「――娘を助けてください! 怪異に襲われて、血が止まらないんです! 金なら、いくらでも売れるものを売って工面致しますから」
「これは、酷い傷だ……。何とかしてやりたいが……。お前たち、山凪国の住民だな?」
 必死に訴えかける人を見て、岩鬼は尋ねた。
 この門より先が、やっと紅浜国。つまり、門の前にいるということは、他国の民ということになる。
 本来なら、自国の治療院や嫁御巫に助けを請うような状況だが、彼らはそうしなかった。
 辛そうに顔を歪めながら
「そ、そうです……。しかし私たちは、ここから目と鼻の先にある、紅浜国の旧領の住民です!」
 振り絞るように、血だらけの子を愛しそうに抱きしめながら叫んだ。
(旧領……。どういう、ことでしょうか? 山凪国と紅浜国は、数百年にわたり同盟国だったはずです。戦争での領土紛争があったなんて、聞いたこともありませんが……)
 美雪が戸惑っていると、岩鬼は深く頷いた。
「おい、ありったけの治療物資を持ってくるのだ!」
「は、はい! しかし、連日の怪異との戦闘で備蓄が……。それに、この傷ではもう……」
「それでもだ! せめて、やれる限り手を施してやれ! 何とかできるような状況であれば……。口惜しい」
 岩鬼も門衛も、理解していた。
 この傷は致命傷であり、西洋の最先端医術を用いても命が助かるかは怪しい。
 まして、医療物資が万年的に枯渇気味の紅浜国では――とても救えない、と。
 そんな彼らの表情と、絶望的に泣き崩れる親たち。そして苦しみ虫の息となっている子供の姿を見た美雪は、指先を震えさせながら――一歩を踏み出した。
「美雪殿、何を? 血だらけの子を抱いては、折角の白いお召し物が!?」
「――私の妖術で、癒やしの妖力を注がせてはくださいませんか?」
「なっ!? まさか貴女は、嫁御巫様なのですか!? お願いします、どうか娘を!」
 必死に懇願する親の声に、美雪は勇気を奮い立たせる。
(何のために、私は嫁御巫修行を七年間も続けてきたのですか。岩鬼様の望みに役立ないと、捨てられてしまう。怪異にやられ苦しむ子を一人ぐらい、護れる嫁御巫として役に立ちたい!)
 岩鬼も、美雪に任せて見ようと思ったのか止めない。
 白い喪服が汚れることも厭わず、美雪は親と一緒に子を抱きしめる。
(お願い致します。……どうか、届いてください。銀柳様、未熟な私に、どうかご加護を……)
 美雪の全身に、ぽっと銀色の光が灯る。
 それは風に吹かれる小さな蝋燭のように弱々しく、灯っては消えてを繰り返すような光だ。
「届いてください、どうか! どうかこの子を救う、癒やしの妖術を……」
 涙を滲ませながら、未熟で乏しい嫁御巫の力を振り絞り――。
「――血が、止まったか?」
 岩鬼が子供の傷を見て、呟くように言った。
 致命傷で、どくどくと血が流れていたのが止血された。
 玲樺や、それ以上と噂される和歌子のような術は使えない。
 嫁御巫としての力量の乏しさは、美雪だけでなく岩鬼でも理解した。
 それでも――。
「――美雪殿の厚意を無駄にするな! すぐにこの子を軍医へ診せるのだ!」
「は、はい!」
 門衛は慌てて、親子を連れて行く。
(救えた……のでしょうか? 私は、お役に立てたのでしょうか?)
 霞む視界の中、美雪はこちらへ向かい頭を下げながら駆ける親子を眺めた。
「美雪殿、お陰様で――……。美雪殿!?」
 岩鬼の声が遠ざかる中、美雪の目には――黄昏色と闇が混ざり合う空が見えた。
 身体の感覚が遠のいていく。
 連日、昼夜問わずの折檻から間を置かず長旅。そして――限界を超えた妖力の駆使。
(ああ……。私は、倒れてしまったのですね。本当に、嫁御巫と名乗るのも烏滸がましい力量……。いえ、一人の子を救えただけでも、よしとしないとですね)
「しっかりしてくだされ! 何ということだ……。折角、紅遠様が娶られた御方だというのに! 誰か、早く車の用意を!」
 岩鬼の切羽詰まった声が、要塞のような駐屯地へ響く。
 たちまち門が開き、車のエンジン音とタイヤが地を駆ける気配が近付いてくる。
 美雪は何とか意識を手放さないようにしながら、抱き起こしてくれる岩鬼の目を見つめた。
「……これが、未熟な私の限界でした。役立たずの力なき嫁御巫で、申し訳ございません」
「紅遠様の民……元民を、尊き子の命を護られたのです。もっと誇られよ! 何という顔色か……」
 紅遠の名を耳にした美雪は、燃え盛るような瞳と冷たく端麗な鬼人の顔を思い出し――。
「――紅遠様……。貴方様の手で斬られ、この命を散らせる役目すら叶わず……。申し訳がございません」
 美雪は、自身の死を覚悟した。
(ああ……。役目も自分の存在意義もなくなる。無の世界、自由へ投げ出される死が……怖いです。きっと私は、誰かに何か指示してもらい求められないと、冥府でも迷い続けてしまう……)
 全身の感覚が遠のき限界を超えた妖術を駆使したせいで、心臓の拍動が弱まっている気すらする。
 知らない虚無の世界で誰のために何をすれば良いか分からないのが、美雪には堪らなく怖く感じる。常に役目を与え続けられ休む暇も自由も与えられなかった美雪は、歪んでいた。
「美雪殿、しっかりしてくだされ! 紅遠様は、美雪殿を――」
「――よくやった。そこをどけ、岩鬼」
「な……。何故、ここに!?」
 もはや周囲の色は見えず、輪郭が僅かにぼやけて認識できる程度。
 それでも、美雪には分かった。
 後ろ髪が少し長い黒髪に、整った顔の輪郭と――紅く垂れた耳飾り。
 何より、人の心を滾らせるような――圧倒的な妖力。
「紅遠、さ……」
 絞り出すような声を最後に、美雪は意識を失った――。


 美雪は、夢を見ていた。
(ああ……。また、この夢。それとも、走馬灯でしょうか?)
 幼い頃より何度も見てきた悪夢。何時もなら、すぐに跳ね起きる。
 しかし、自分が身の丈に合わぬ超常の力を駆使した自覚がある。
 きっと、もう目覚めることはなく……。この悪夢にうなされながら、母と同じ地獄へ行くのだろうと、覚悟だけはできていた。
『貴様の母は、我が国を揺るがしたのだ。愚かな真似をしたせいで、積み上げてきた朝原の家名も終わりだ……』
『よりにもよって、他国の幼い妖人と不貞を働くとは……。銀柳様も、未だに大層嘆かれている。文子も、あれの妹とは……。俺は婿入り先を間違えた……』
『ちょっと、双次さん!? 二歳の娘を国元へ残して他の妖人と不貞を働く淫売と、私を同じにしないでくれる!?』
 三人の憎しみが籠もった瞳が、自分に注がれている。
(分かっています。自分の母が……。如何に嫁御巫として、一人の女として罪深きことをしたかなんて理解しています。……もう、痛いほどにこの身や心に刻まれております……)
 何度も夢でまで言い聞かせなくても、現実で幾度となく分からされてきた。
 その処遇から、何から……。
 三人の手が、美雪で鬱憤を晴らそうと伸びてきたとき――。
『――そなたの母が私にしたことは、お前には関係ない』
 葬儀会場で紅遠の告げた言葉が、美雪の悪夢を打ち払った。
「――ぇっ!?」
 身体を跳ねさせ、美雪の視界が朝原の屋敷から移り変わる。
(夢から、覚めたのですか? ここは、これは……。私は、生き残ったのですか?)
 絶望的な身体状況だったはずだ。
 何故、と美雪は自分の身体や周囲の状況を確認する。
(血だらけの白い喪服、毛布、見たこともない部屋、それに……。これは、ソファーでしょうか?)
 自分は座ったこともない西洋の文化を取り入れた貴重品に、寝かされていたようだ。
 恐る恐る、手で触れて感触を確かめていると
「目が醒めたようだな」
 背後から聞こえた――凜とした声音に、美雪は肩を跳ねさせる。
 慌ててソファーから立ち上がり声のした方へ視線を向ければ、そこには執務机で書類へ視線を落としている紅遠の姿が映った。
(く、紅遠様? まさか私は、尊き妖人――鬼人様、旦那様となる御方の前で、のんきに寝ていたというのですか!?)
 とんでもない失態を犯したと血の気が引いていく。
「血に塗れた白い喪服姿で寝ているのは縁起がよくない。とても嫁入りした当日の娘とは思えんな」
 抑揚や感情を消しているような声、目線すら向けてもらえない事実。
 更には、黒い軍服姿で言われたものだから……。
(白い喪服で嫁入りだけでも非常識なのに、血に塗れさせた挙げ句……。紅遠様の執務室で眠っていただなんて……。私は、何ということをしでかしてしまったのでしょうか)
 美雪は紅遠に、とんでもない無礼の数々を働いてしまったと、折檻を覚悟した。
「尊き鬼人様の前で大変なご無礼の数々、誠に申し訳がございません!」
 頭を下げる美雪に、紅遠の姿は見えない。
 敷かれた紅い絨毯が、身を焦がす炎の草原のように目へ映る。
 謝罪の言葉に反応がなかった美雪は、慌てて嫁入りの際に言おうとしていた言葉を繋ぐ。
「ご慈悲により、本日より嫁御巫の一人として、紅遠様の元へ嫁がせていただくことに相成りました。何ごとも至らぬ不束者ではございますが、お役目を――」
「――口先ばかりの挨拶はいらぬ」
「…………」
「私の民を……。かつての民を救ってくれたそうだな。礼を言う」
 冷たい声音でかけられた言葉を、何度も反芻してから美雪は頭を上げた。
(私は今……。お礼を言われたのですか? もう必要ない、何も求めてないと……捨てられずに済んだのですか?)
 何度、脳内で反芻して考えても信じられなかった。
 執務机に向かう紅遠は、背筋を伸ばしながら鋭い眼差しを向けている。
「……私の勝手な行いを、お咎めにならないのでしょうか? あの方たちは現在、隣国である山凪国の民であるとお窺いしておりますが」
「……政治的な事情で振り回された被害者だ。何を咎める必要がある。尊いのは妖人が為政者だからではない。真に尊き、罪なき人命を救ったことに礼を尽くさずして、何が為政者だろうか」
「…………」
 美雪は、何と返答していいのか分からなかった。
 同じ執務室の中でも、美雪のいるソファーと紅遠の執務机の距離はそれなりに離れている。顔色や目からは、どんな心情が本音か窺えない。そうでなくとも真意や感情なんて理解できない。
 噂では、『傾国の鬼人』とも『奇人』とも噂される妖人だ。
 真意を計りかね押し黙っていると
「……だが、美雪を信じたわけではない。私は銀柳殿の遺志に従ったのみだ。私に関わるな」
 冷たく突き放す言葉が返ってきた。
 スッと、美雪の心に暗い影が差す。
 それと同時に、疑問も湧いてきた。
「関わるなとの御言葉ですが、私は夜の慰みものになるのでは……」
 壬夜銀が葬儀会場で放った『玩具にでもするか、慰みものとして甚振るのか』という言葉が、脳裏に過る。
 実際――美雪からすると、自分に深い恨みを抱いてるであろう紅遠が嫁御巫として欲する理由として最も妥当だろうと思っていた。
 しかし、紅遠は――。
「――二度と、そのような悍ましいことを口にするな。私の閨に立ち入れば、容赦なく斬る」
 無表情であった顔に、露骨なまでの嫌悪感を滲ませて言った。
 ほっと安心すると同時に、美雪は肝が冷えた。
 自分が誰かに不快感を与えた場合、どうなるか――今までの人生で身に染みているからだ。
「……美雪自身に何も罪がないのは知っている」
 すっと、紅遠は椅子から立ち上がり、横に置いていた鞄を手に執務机から離れた。
 コッコッと革靴が踏み鳴らす無味乾燥な音が、静かな執務室を更に重く厳かに感じさせる。
「だが、形ばかりの夫婦になったからと、お互いに心を許せる浅い因縁でもなかろう」
「…………」
 自分の横を、ソファー越しに通り過ぎようとする紅遠の言葉に――美雪は沈黙するしかない。
(仰る通り……。紅遠様が、どれほどに辛い半生を歩まれたか……。噂話を聞いただけでも、心を許していただけるとは思えません)
 自分の母親と、紅遠の父親――いや、紅遠自身の境遇を考えれば、何も言えなかった。
 もしも自分の母親が過ちを犯さなければ……自分には別の人生が待っていたのだろうかと美雪は考えながら、顔を俯かせる。
 颯爽と過ぎた靴音が、ドアの前で止まる。
「俺の妖力で補完したとはいえ、体調は優れないだろう。今日は大人しく休め」
「……そのように、甘えるわけには参りません。形式ばかりとはいえ、紅遠様の元へ嫁御巫として嫁いだ身です。乏しき力を精一杯使い、求めに応じた勤めを果たします」
「……未だに銀柳殿へ操を立てる、白い喪服姿で嫁入りしたのに、か」
「銀柳様が崩御されても、命を救われた恩義は忘れません。それに、この服装は私が初めて誰かに認めてもらった大切な服装でした。……他者へ操を立てながら嫁入りする私を、ご不快に思われますか?」
 紅遠の方へ視線は向けられない。
 自分が天上の妖人に対して、失礼なことを言っている自覚が美雪にはある。
 嫁御巫とはいえ、普通は何十といるうちの一人に過ぎない。次代の妖人や、血の力から超常の力を発現させる継承者、嫁御巫を産み出すために数多くいる嫁の一人だ。
 それが常識であり、自分を特別だと思うなど……正妻や側室として認められ、寵愛を受けた者以外には許されない。
 通常の夫婦と違い、長寿で国の柱となる妖人に口答えするなど、分を弁えていない愚行だ。
 それでも、美雪は僅かでもいい。どんな汚れ仕事でもいいから誰かに求められ、役に立たなければ落ち着かない。それ以外の生き方を、知らなかった。
(何度も死を覚悟している人生です。……あの子のように、救える人がいるのなら。私は、誰かを救うために生きて、死にたい)
 そう思えば、妖人に意見する恐れよりも嫁御巫としての使命感が勝った。
 暫しの沈黙の後、紅遠は
「好きにしろ」
 そう返した。
 美雪がほっと息を吐くと、ドアを開く音と一緒に更なる言葉が聞こえてくる。
「倒れん範囲でな。……美雪を殺すとしたら、それは俺でなくては気が晴れん」
「……承知致しました」
 そう言って、ドアが閉じられる。
 執務室で立ちつくしていると、ドア越しに紅遠の声が聞こえた。
「菊、盗み聞きしていたのだろう。……あれだけ白に身を包みたいと望むのだ。俺の私財から白い喪服や服装を揃えてやってくれ。私はいつも通り官公庁へいる。何か問題があったら呼べ」
「承知致しました、紅遠様」
「岩鬼は、美雪の着替えが済んだら国内を案内してやれ。今日の執務は私が受け持つ。これから官公庁で引き継ぎをしてくれ」
「はっ! 承りました!」
 ドア越しに老婆と思しき声と、岩鬼のハキハキした声が美雪の耳へ届く。
(わ、私のような者のために、紅遠様の私財を!? そんな、いけません!)
 そう執務室で慌てていると、再びドアが開いた。
 中に入ってきたのは、女中の格好をした老婆であった。
「美雪様、初めまして。私は木村菊と申します」
「あ、あの。初めまして、朝原美雪と申します。あの……木村様は、御先代か紅遠様の嫁御巫なのでしょうか?」
「ほっほっほ! ご冗談を。私は、使用人頭ですよ。菊とお呼びください」
「あ……。そう、ですか」
 菊の歳は、どう見ても六十歳を越えているように美雪には見えた。
 もしや先代紅浜国の国主から仕える嫁御巫か、紅遠の母親ではないかと予想していたのだ。
 使用人頭ならば、美雪としても接しやすい。朝原の屋敷でも最下級の使用人として、使用人頭と接しながら家事をする機会は多かった。
「それでは、美雪様。どうぞ、こちらへ。湯浴みをされてから、お部屋にご案内致します」
「あ、ありがとうございます。……あの、私に敬語は、おやめください。敬われるような者では、ございませんので……」
「ふむ……。紅遠様の嫁御巫に対して、本来なら不敬なんですが……。他ならぬ美雪さんが、その方が接し易そうだものね。分かったわ」
「……はい。我が儘を申し上げ、すみません」
 物腰柔らかな菊の対応に、美雪は何とも心が落ち着いた。
 虐げられるわけでも無さそうだと、安心して菊の後をついていき湯で身体を清める。
 そうしてる間に、喪服ではないが――白い着物が用意された。
(死に装束……より、模様が入っていて可愛い。私に似合うのでしょうか?)
 袖を通した肌触りが滑らかだ。
 見た目だけでなく、高級品なのではと少し躊躇う。
(そうは申しても、血だらけの服装で岩鬼様にご案内をお願いするわけには参りませんよね……)
 漏れ聞こえてきた紅遠との会話からすると、この後に岩鬼が紅浜国を案内してくれるらしい。
 観光気分では決してない。
 自分が何処で暮らし、どのように紅遠の役に立てるか。
 形式ばかりとはいえ嫁や嫁御巫として嫁いだのだ。出来ること求められることを探ろうと美雪は考えた。
「じゃあ、岩鬼様がご到着されるまでに、この館を案内するわね」
 そう言う菊に「よろしくお願いします」と美雪は後ろを着いていく。
 洋館の廊下は、綺麗に整っていると言えば聞こえは良いが、国主の住む屋敷にしては飾り気が一切感じられなかった。
 それどころか、人の気配すら感じられないほどに静まり返っている。
(窓から差す光……。私は、一晩も寝こんでしまっていたのですね)
 朝陽がガラス窓から入り込み、床と白い壁を照らしている。
 美雪は慣れない西洋文化の建物内を、キョロキョロと見回しながら歩く。
「ここが美雪さんのお部屋ね」
「こ、こんなに大きなお部屋……。他に何名の方と暮らすのでしょうか?」
 広々とした室内に清潔なベッド、鏡や箪笥など、美雪は自分が今まで物置のような部屋に暮らしていた格差から、目眩がする思いだった。
「一人よ。……正確には、この洋館に一人で住むことになるわね」
「え?」
「紅遠様がお仕事中に来る通いの使用人なら、他にもいるんだけどねぇ。さ、岩鬼様を待たせるわけにはいかないわ。先に案内をしちゃうわね」
「は、はい」
 苦笑する菊に置いていかれないよう、美雪は早足で着いていく。
(この洋館に、一人で? 紅遠様は主用の母屋に住んでいるとしても……。他の嫁御巫や、使用人の方はどうしたのでしょうか?)
 頭の中に疑問は湧いてくるが、面倒だと放り出されたら困るので口には出せない。
 その後も掃除用具などが置かれた物置や、先程寝かされていた応接室、ダンスホールなどを案内された。
 そうして厨房に入るが、人は誰もいない。
 それどころか、ここまで誰とも顔を合わせることがなかった。
「あの……。お尋ねしても、よろしいでしょうか?」
 流石に不審に思った美雪は、恐る恐る菊へ声をかける。
「何かしら?」
「その、他の嫁御巫様や使用人の皆様に御挨拶をと思ったのですが……。この御館ではなく、母屋などにお住まいなのでしょうか?」
 菊は何とも言えない、困ったような表情を浮かべた。
「屋敷は、ここだけなのよ。ここには、他に誰も住んでいないわ」
「……え?」
 驚きに、思わず声を上げてしまった。
 これでは、朝原の屋敷の方が遙かに大きい。それぐらい質素で、小さな館だった。
「先代が崩御された十七年前から間もなく、殆どの者に暇を出されたのよ」
「あ……」
 十七年前。それは十九歳になる美雪にとって、物心が付いてないほどに前の話だ。
 それでも、その年にあった出来事は忘れない。忘れようがないぐらい、身に刻まれ続けた。
「当時十一歳だった坊ちゃん……。紅遠様が国主を襲名されてねぇ。最初は嫁御巫と力を合わせて国を護ろうと苦心されていたんだけど……」
「だけど……何があったのでしょう?」
 言い淀む菊に美雪が尋ねると、菊は小さく首を振った。
「ごめんなさいね。喋り過ぎたわ。……そのことは、紅遠様がいつか……。いつか、美雪さんにお話くださると信じてるわ」
「はぁ……」
「美雪さん、期待しているからね。……どうか、紅遠様を裏切らないであげてね」
 菊の瞳は、哀しみを帯びていた。
 当然、美雪は裏切るつもりなどない。母と同じ轍を踏まないと決意を込め頷いた。
「この炊事場でもね、紅遠様への料理は作らなくていいわ。作っても、決して口にしないから。ここは自分が食べるものを、自分で作る場所よ」
「え?」
 それでは嫁としてどう支えればいいのだろうか、役に立てばいいのだろうかと美雪は困惑する。
 外に出て働く夫を、嫁や使用人が家事や社交の場、来客へのもてなしで支える。
 この乱世では……。特に夫の稼ぎが良い良家では、当然の常識だと思っていたのだ。
「朝早くと夜遅くには、ここへ入らない方が良いわ。……多分、お怒りになるから」
「は、はぁ……」
 菊の言葉が、美雪には全く理解できない。
 自分の常識は、紅浜国の文化では通用しないのかと混乱してくる。
「さ、それじゃ最後に大切な場所……。近寄ってはいけない場所を案内するわね」
「……かしこまりました」
 近寄ってはいけない場所というのが気にかかるが、先程から尋ねてばかりだと美雪は自制する。
 そうして菊に着いていくと、洋式だった館から、慣れ親しんだ和風の廊下へ移り変わる渡り廊下があった。
 そこだけ新たに作られたように、他より新しく見える。
 だが――。
「――結界、ですか? 何故、ここに……」
 明らかに妖術で施された結界が、行く手を阻んでいた。
 相当に強い術式なのが、曲がりなりにも嫁御巫である美雪には分かる。
 渦巻く炎のような薄い壁が、侵入者を防いでいる。
(ここを通れるのは、術者が許した者のみというような術式ですね……)
「ここから先はね、紅遠様の住む離れなのよ」
「紅遠様が、離れに? 手入れなどは、どうされているのでしょうか? この結界があっては……」
「お掃除も、洗濯も炊事も、紅遠様は一人でやられてるわ。……この先の小さな離れには、もう十七年間……。紅遠様が二十八歳になった今でも、誰も入ることを許されてないの」
 その言葉に、美雪は呆然とした。
 結界の向こうに見える廊下は、清潔に保たれている。
(まさか、本当に天上の存在である妖人が……。家事などをされているのですか?)
 そうとしか思えない。
 家屋が風化するのは早い。手入れを怠れば、埃などですぐに汚れるものだ。
「紅遠様のお屋敷ではね、使用人は私を含めて全員が通いよ。年頃の男女は、使用人として奉公することも認められてないの」
「何故、そのようなことに……」
「……紅遠様は、もう誰一人として信じて寄せ付けない。いいえ、寄せ付けられない……。そんな孤独な宿命を背負われているとだけ、お嫁に入られた美雪さんには伝えておきますね」
 そう言われては、美雪としてもこれ以上突っ込むわけにはいかない。
(きっと、その件も……。いつか紅遠様が話される日がくると返されるのでしょう)
 そう納得しながら、美雪は自分がどうすれば信じてもらえるのか。この屋敷の家人として、嫁御巫として役に立つ手段はないか。
 頭の中で考えながら、車に乗り館前までやってきた岩鬼の元へ向かった――。

 美雪が車中から見る紅浜国の景色は、山凪国とは全く異なっていた。
(凄い街並み……。山凪国の王都には殆どなかった街灯が、当たり前にあるなんて。街道もこれほど綺麗で凹凸なく整備されていて……。街並みだって、西洋式の建物がそこらにある。人々も、ハイカラなお洋服を着こなしている人がこんなに)
 山が広がり、古来より続く和風建築が主流だった山凪国とは違う。
 まるで西洋と神州が融合し調和しているような、時代と文化が移り変わる境界にいるように感じる雰囲気だ。美雪は落ち着かない中で、何処かそんな空気に心を弾ませていた。
(単調で、苦しみと少し苦しくない時間が延々と繰り返される日常が……。この街並みのように移り変わっていくような気分です。……少々、困惑してしまいます)
 洋式の靴に、絹織物の衣服を羽織った女性が目に入る。
 靴は何処かへ向かい、歩くための道具だ。
(私もこの国で新たな人生、役割を見つけて変われるのでしょうか? いえ……変わりたい。嫁御巫として一人前に、紅遠様や民を支える人間に、変わってみたい。そう願うのは、身の程知らずで浮かれているのかもしれませんが……)
 ここに和歌子や玲樺がいれば、すぐに「身の程を弁えろ」と叱責してくるだろう。
 美雪は浮かれかけた心を静め、岩鬼が「是非とも、ご覧いただきたい」と告げた目的地に車が停まるまで、静かに座り続けた。
「――さぁ、着きましたぞ」
 運転手が開けてくれたドアから、岩鬼と一緒に降りる。
 美雪は――ブワッと吹かれる、嗅いだことのない香りの混じる風に目を見開いた。
「これは……。まさか、海ですか?」
「ええ、我が紅浜国が誇る貿易港です。山凪国で生まれ育った美雪殿は、海を見るのも初めてでしょう」
「はい……。凄く、大きな船。膨大な荷の数々に、果ての見えない海原……」
 思わず、美雪は感嘆の息を吐いてしまう。
 少しだけベタ付く風に乱された髪を整えると、白い着物の袖が陽光に煌めいて見えた。
 目に映る全てが新鮮で、水面に照り返される陽光のようにキラキラと耀いてると感じる。
「本当に、美しい……。これが、噂に聞く西洋と神州を結ぶ貿易港なのですね」
 震えた歓喜の声は、潮風に美雪の声が消えて行くように小さい。大きな声が出ないほどに、衝撃的だった。
 そんな美雪の姿を見て、岩鬼は誇らしげに笑う。
「久遠様の御代になってからは養蚕業と製糸工場を大幅拡大して輸出に力を注いでるのですよ。賭けとも言えるべきほどの国策としてです」
「国策……。紅遠様が国主となられたのは、十一歳の頃でしたよね。本当に、御凄い方……」
「ええ。若くして聡明で……。港という地理を活かし、時流を読む力にも長けておられました」
 幼い頃の紅遠を思い浮かべ、岩鬼は懐かしむような瞳を浮かべてから、港で忙しく取引される貨物へと目を向けた。
「現在は得られた大量の外貨から輸入も盛んで、絹織物工場や建設に必要な機械を使った軽工業などが主要な産業となっております。他には、輸出入品の関税や観光収入が紅浜国の大きな収入源ですな」
「そうなのですね。街の景観や人々の衣服は、紅浜国の政策による影響が強いのですね」
「その通りです。――しかし事業が上手くいっても……問題は、常に付き纏います」
 苦々しく険しい表情へ変えた岩鬼の姿からは、歴戦の猛者といった雰囲気が溢れだしている。
 海風で短い髪を僅かに揺らしながら遠くを眺める瞳には、確かな憂いが感じ取れる。
 美雪は、自分も紅浜国の力となるべく問題を共有したいと思い
「よろしければ……。その問題について私にも、お聞かせ願えませんか?」
 そう聞いてみた。
 岩鬼は重々しく頷き、ゆっくりと口を開く。
「一つ目は、土地と人材の不足です。大量に製品を加工しようにも、材料が無くては不可能です。材料を生産する地、そして食料品などを生産する土地の多くは、売り払わざるを得ませんでした」
 そういえばと、美雪は思い出す。
 ここは王都の中心に近いからだと思っていたが、農地などは殆ど目にしていない。
(駐屯地からの間にはあるのかもしれないですが、商家や工場ばかりが建ち並んでおりましたね。ですが、人材……。人口も、減っているのでしょうか?)
 疑問に思う点もあったが、まずは説明を聞こうと岩鬼の言葉に耳を傾ける。
「二つ目は、立地ですな。かつて東京と呼ばれた神州の中心地はご存知ですかな?」
「東京……。かつて神州を統一された偉大な妖人が、神州全土の首都として設置してた場所だと聞き及んでおります」
「その通りですな。……六百年ほど前のクーデターにより、廃墟と憎悪が渦巻く魔都と化した東京と隣接していることで、大量の怪異が常に国を脅かすのです。……この防衛にかかる人員、予算が膨大でしてな。久遠様の武力が無ければ、あっという間に紅浜国も廃墟と化すでしょう」
 なるほど、と美雪は納得した。
 怪異の発生には諸説あるものの、有力なのは『人の負の感情や怨念から生まれる』という説だ。
 クーデターにより大量の人が亡くなり、様々な感情が入り交じっていたことだろう。混乱の中では供養だって不十分だったはずだ。
 かつては首都と呼ばれた人口密集地で、そのようなことが起きたのなら、未だに大量の怪異が発生するのも頷ける話だった。
「最後の問題は、久遠様です」
「……え?」
 耳を疑った。
 他国との貿易の成功など、名君としての面しか聞かされていない美雪からすると、紅浜国が抱える問題が紅遠自身にある理由なんて想像も付かない。
 まだ二度しか目にしていないが、見目も端麗で人がついてきそうな強いリーダーシップも感じる。
(冷たい印象は受けましたが……。それは恨みのある私に対してだけではなかったのでしょうか?)
 美雪が頭を悩ませていると、岩鬼は寂しそうな表情を浮かべる。
「美雪殿は……耳にしたことはないですか? 傾国の鬼人という呼称を」
 岩鬼の発した『傾国の鬼人』という単語に、美雪は思い出す。
 銀柳の葬儀会場で、そして文子や玲樺から何度も発せられた呼称だ。
 詳しく尋ねることなど、当然できなかったが……。
「傾国の鬼人、とは……。一体、どうして、紅遠様はそのように呼ばれているのでしょうか? 浅学な私には、とても国を傾けるような国主様とは思えないのですが……」
 岩鬼ならば、聞いても『口を開くな』と折檻したりしないだろうと思い口にしてみる。
 岩鬼は、どう説明したらいいかと少し考え、慎重に語り始めた。
「傾国とは、その美しさに君主が心を奪われて国を危うくすることです。通常は女性に対して用いられる言葉で、歴史上では男性の君主が絶世の美女に傾倒し過ぎた結果に起こるものでしたが……。お労しいことに久遠様の容姿と妖力の特異性は、男女問わないものでした」
 男女問わないという部分に、美雪は少し驚く。
 しかし、思えば葬儀会場で乱入にも近い登場をして……。苦言で罵詈雑言を浴びせられてもおかしくない振る舞いをしていたというのに、誰もそのような言葉は発せなかった。
 同じ妖人の壬夜銀ですら、圧倒されていたように思う。
(もしや魂刀を引き継いでいない壬夜銀様の妖力では、紅遠様の放つ妖力の特異性に抗いきれなかった?)
 嫁御巫たちは女性だから、突然に『娶る』と言われても、あの容姿にみとれるのは理解できた。
 しかし家臣団や壬夜銀の不可解な様子は、今思い返してみると不可解だった。
 その謎が、岩鬼の説明で解明された気がする。
「見かけ上の同盟国も含み、裏表の手段双方から久遠様を手籠にしようと躍起になっております。怪異は、妖人や嫁御巫の力でも生み出せるのはご存知でしたか?」
「いえ、寡聞にも存じあげておりませんでした。……まさか、この国を襲う怪異の中に?」
「ええ、ご推察の通りです。……紅浜の生み出す富と絶世の美男子である妖人を狙う国々。日々、国が消えては生まれていくといわれる、この乱世。我が国を取り巻く環境は、安定とは程遠い。予断を許さない状況です」
 美雪は、想像してみる。
(怪異を送り込むだけでなく、嫁御巫の結界の張り方を工夫すれば、紅浜国へ誘導すらできるのでは……。妖魔は、結界に触れると消失するだけでなく、極端に恐れて避ける習性があると聞きます。……私たちが暮らしている裏で、そのような国家間のやり取りがあったなど、露とも知りませんでした)
 まさか銀柳は、同盟国である紅浜国に対して――そのようなことをやっていないと信じたい。
 とにかく今、紅浜国が窮状に陥ってることは痛いほどに理解ができた。
「そんなことが、起きているのですね」
 深手を負い息も絶え絶えだった子供の姿が、美雪の脳裏を過る。
 紅遠が『民を救ってくれたらしいな。礼を言う』と告げた言葉も、そのような成り行きがあったのなら納得だ。旧領とはいえど、自分に差し向けられたかもしれない怪異によって人が傷付いているのだから、心苦しく思っていても不思議ではない。
「だからこそ、君主である久遠様ご自身が身を粉にして国家国民のために働かれる毎日なのですよ。……誠に悔しきことですが」
 そこで言葉を切った岩鬼に、美雪は省かれた説明について補足を願う。
「あの、失礼ながら人材の不足については……。まだご説明をいただいていないのですが」
「……申し訳ありません。そちらは、私の口からは申し上げにくい問題なのです。美雪殿が、久遠様に信を置かれることがあれば……。直接、お話もいただけるかとは思います」
「……そう、ですか。分かりました」
 また、紅遠に信を置いてもらえればかと思いながらも、美雪は頷いた。
(私は、まだ紅浜国にとっては外様……。一員と思っていただけるよう、尽力しなければなりません。込み入ったお話を聞く権利などないのも当然ですね)
 紅浜国の抱える問題も概ね分かった。文字通りの微力ではあるが、協力できるように努力せねばと気持ちを高める。
「一つ、私の口から申し上げられる人材不足については……。通常なら、いくつもの省庁に分かれるべき国務を統括し、私が国務大臣などという幅が広すぎる役職についてることから御察しください」
「……政治のことは、無知で分からず申し訳がございません」
「はっはっは。良いのですよ、ちょっとした愚痴もありましたからな。美雪殿には、美雪殿のお役目がありましょう」
 自分ができることは何かと、嫁いだからには全力を尽くすべく決意し、美雪は岩鬼とともに館へ向かう車へ向かった。
 そうして館の前に停車した車から降りると、岩鬼が一つの洋式建築物を指差した。
 それは館の敷地の何倍もあり、建物の陰に国主である紅遠の居宅が隠れてしまうぐらいだった。
「あれは、紅遠様や役人が詰めている官公庁です。かつては紅遠様や父君である朱栄様が住まわれていた母屋があった敷地をいただき、丸々造り替えたのです」
「え? そ、それでは……。あの御館は?」
「あれは、元は使用人が使用していた館です」
 通りで朝原家の屋敷よりも小さいはずだと美雪は思う。
 だが紅遠の住んでいた離れも、話に聞く限りは小さいはずだ。
「あの、お城は何処なのでしょうか? 銀柳様や壬夜銀様もでしたが、国主は広大なお城に住んでいるものかと思うのですが……」
「ふむ……。それは、今夜にでも紅遠様へ直接お尋ねになられるとよろしいでしょうな。夫婦が交わす会話の種にもなりましょう」
「……はい」
「それでは、某はこれで失礼致します」
 そう告げて、岩鬼は官公庁へと入っていく。
 頭を下げて見送った美雪は、菊の元へと向かう。
 家事の役目を与えて欲しいと菊に懇願して、一緒に掃除をしながら紅遠の帰宅を待った――。

 夜更けになって、やっと邸宅の扉が開かれた。
「お帰りなさいませ」
「……何をしている?」
 紅い絨毯が敷かれた床に正座をして、美雪は三つ指つき紅遠を出迎えた。
 白い和服に紅い絨毯という異質さ、何より大仰な出迎えに、紅遠は怪訝そうに尋ねた。
「遅くまで働かれた紅遠様を、妻として出迎えようと……」
「不要だ。私を待たず、眠って身体を休めていろ」
「そういうわけには……」
「私がいらないと言っている」
 有無を言わさない紅遠に、美雪は「申し訳ございませんでした」と立ち上がる。
 冷たい反応の紅遠に何か声をかけなければと思い、岩鬼から尋ねてみろと言われた言葉を思い出す。
「あの……。お疲れの中、申し訳ございません。一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「……何だ」
「居城は、どうなされたのでしょうか?」
「国に売った。今は観光地であり国の収入源だ」
 さらりと言ってのけた言葉に、美雪は言葉を失った。
「それは、何故なのでしょうか? 妖人の住まわれる象徴かと聞き及んで降りますが……」
「ふん……。紅浜は海の外の人間を始め、多くから収入を得られる地だ。今では日に日に外の国の文明による建築様式が林立していく。いずれ、あの城は物珍しい観光源として国の経済を支えるはずだ。そもそも大砲やガトリングガンのような兵器の前には、あの城の防備など意味をなさない」
 西洋から入ってきた武具では怪異相手には無意味だが、対国家戦闘では非常に殺生能力の高い武具だ。
 美雪は名前しか耳にしたことがないので、城の防備を相手に意味をなさないと言われても、いまいちピンとこない。
「貴重な妖術が兵科の主軸として運用され、嫁巫女による守護の力が盤石だった頃ならばいざ知らず、今や権威の象徴以外に意味を成さない張りぼての城だ。私のような国主には過ぎた物であり、無用の長物でもある」
 不要なものと有用なものを切り分け、必要であれば常識さえ平然と打ち破る決断を下す。
 美雪は改めて、眼前の鬼人が……妖人としてのそれ以上に、自分とは異なる存在だと感じた。
「過去の権威を誇り、時代に取り残されるような張りぼての虚栄を後生大切にしても仕方がない。執務や貴賓の応接なら、官公舎で行えば良いのだ。事業を始めるにしても、元手となる資金が必要であったのもあるが」
 何もかもが規格外……。先進的であり、奇想天外な妖人だと美雪は痛感する。
 言っていることは納得できるが……。生まれ育った城を売り払い、国の発展への投資に用いるなど、並大抵の覚悟ではできないことだろう。
「母屋まで売り払い、官公庁へと変えたのは……。そのような御深慮によるものだったのですね」
「ああ。……もうよいか?」
「はい。お引き留めしてしまい、申し訳ございませんでした」
「よい。……だが、不用意に私へ近付くな。これは警告だ」
 一度として目線も合わせてもらえず、浴びせられる言葉は冷たい。
 紅遠はツカツカと規則的な靴音を立て、自身の住む離れへ向かい去って行く。
(求められた役割と期待に応えなければなのに……。菊さんや岩鬼様は、私が紅遠様に信を置かれることをご期待してくださってる。それに……恐らく、妖術の過剰使用で死に瀕していた私を救ってくれたのは――妖人である紅遠様です。……どうすれば、私は紅遠様のお役に立てるのでしょうか。嫁御巫として、曲がりなりにも嫁として……)
 考えた挙げ句、美雪は炊事場へと向かった。
 竈に火を入れ、何時でも使用可能な状態へ準備しておく。
(一応、お味噌汁なども温め直したものの……)
 菊の忠告が、脳裏に過る。
(君子厨房に入らず……。尊き方を厨房に入れてはいけないと習ってきたのですが……。紅浜国の常識や文化は、山凪国とは異なるのでしょうか)
 そうしていると、黒の浴衣姿になった紅遠がやってきた。
 風呂上がりのためか髪は湿り、鎖骨が出るほどに着崩している。
 その色香に、美雪は僅かながらも目を奪われた。
「……何をしている。私が身体を休めろと言ったのが、聞こえなかったのか?」
「夕食を、お作りしたのですが……」
「菊から聞かなかったか?」
「……いえ、お窺いしております。紅遠様は、人の作られた料理を口にはしない、と」
 美雪は悔しさからギュッと腕を掴み、視線を俯かせる。
 紅遠は崩れていた浴衣を整えながら、美雪には近付かず食材と調理器具を用意し始めた。
「ならば、そういうことだ。……自分の夜食か朝食にでも、回すといい」
 汚れないように浴衣を前腕の中ほどまで捲り上げながら、紅遠は言う。西洋より渡ってきたエプロンを身につける姿は、料理に慣れているように見える。
 妖人の引き締まった肉体や浮き出た血管に、美雪は見てはいけないものを見ているような気分で目線を逸らした。
「かしこまりました。差し出がましい真似をしてしまい、申し訳ございませんでした」
 素気ない言葉が返ってくることなど、予測できていた。
 折檻されないだけ幸せだとばかりに、美雪は炊事場の入口へ静々と移動し、石像のように息を潜めて立つ。
 トントンと小気味よいリズムで包丁を使い、手際よく調理をしていた音がピタリと止まった。
 紅遠の口からハァと溜息が漏れた。
「……何故、そこで立っている? あれほど冷たくされてなお、分からぬか?」
「せめて、何かあればいつでもお手伝いができるよう控えております」
「……好きにしろ。だが、決して私に近付くな。あまり直視もするな」
「はい」
 視ることすら嫌がられる関係というのは、夫婦にしては冷め切っている。だが、美雪は自分と紅遠の因縁では仕方がないと割り切る。
 結局、一度も手伝いをする機会すらなく紅遠は調理を終え、調理器具の洗い物すら自分でやってしまった。
 盆に乗せた食事を運ぶ際にも、目線すら合わさず美雪の横を通り過ぎ――。
「――これで分かっただろう。まともな夫婦や嫁御巫としての関係など、期待するな。明日からは、早く休むことだな」
 背を向けながら、そう言い残して結界を抜け離れへと去って行った。
 その背を美雪は、ただ見送ることしかできない。
 すごすごと一人しかいない洋館に与えられた――広すぎて寂しい自室へ戻ると、美雪は重い手取りで夜着へと着替える。
「どうすればよいでしょうか……。私に流れる血の因果と罪は、紅遠様を未だに傷付けているのでしょう……。皆様に、申し訳が立ちません……。いえ、まだ初日なのに音を上げるのは情けなさすぎますね。とにかく、できることを探して全力で取り組まなくては」
 ふかふかで広く慣れないベッドに包まり、目を閉じながら明日からの行動指針を考える。
 心身は疲弊していたのか、悩みがあれど気がつけば深い眠りに落ちていた。
 紅遠は、離れにある六畳程度の間に敷かれた座布団の上に正座して食事へ箸を進める。
 時間をかけずに作れるものに限っているから、もう食べ飽きた味だ。
(……これでよい。食事など、動くためのエネルギー摂取に過ぎないのだ)
 味気ないと思うのは、とうに止めた。
 今更、食事に対して思うことなど紅遠にはない。そのはずだった。
(十七年前、十一歳の頃に――自ら父を斬ってからの日々で、私は独りで生きると決意したのだろう。……このような感傷を今更感じるのは、銀柳殿と同じような目で見られたせいか)
 最愛の友人であり、生涯の師と仰いだ人物の名残が強く顕れている美雪を思い出し、多忙な責務に追われ蓋をしていた感情が顔を覗かせようとしている。
「銀柳殿、父上……」
 紅遠の脳裏に思い起こされるのは、幼い紅遠が剣の達人であった銀柳にしごかれ、妖術が巧みであった父である朱栄に鍛え抜かれた日々だ。
(強き妖人になるよう、息も絶え絶えになった後に入る風呂。一緒に食べた食事は美味かった……)
 二度とは返って来ない日々。
 幾度思い出し、懐かしさと同時に理不尽な恨みを抱いたか分からない。
(悲劇の原因は――あの女が嫁御巫の交換留学に来たことと、私の妖力の爆発的な成長が重なった偶然にある。そんなことは、理解しているが……)
 ちゃぶ台の上で、握られた拳が震える。
 肉に爪が食い込み、ちゃぶ台の上に赤い染みが広がった。
 自分から全てを奪う切っ掛けになった難き女と、最愛の師であり友の面影を深く宿す存在――美雪の顔が浮かぶ。
「銀柳殿……。貴殿は私に、何を求めていたのだ? 私に、美雪を娶らせるよう誘導して……。その先に、何を望んでいたのですか?」
 簡潔な『自分の残した嫁御巫の中から、一人を紅遠に娶ってほしい』と綴られた遺言状を思い出す。銀柳の実子であり裏切りの嫁御巫の子である美雪が銀柳の嫁御巫入りしていたなど、紅遠は聞いていなかった。
(ともに鍛錬へ励んだ際には、自身の不出来な子供……。壬夜銀の成長と、国の行く末を嘆くような言動もあったが……)
 五百年の歳月を妖人としての責務を果たし立派に生きた銀柳には、子供や孫、ひ孫なども含めて大量の継承者や嫁御巫、そして唯一魂刀を顕現させるに至った妖人の子がいる。
 国家安寧のために尽力し、子供と言っても誰のことをさしているか分からない。
 自分は国力増強のための道具と割り切り、子の顔さえ殆ど見られなかっただろう。美雪を頼むと直接的に言われてないのは、二歳の頃から十年以上も美雪と会ってなかったため、銀柳も確証がなかったかもしれない。
(それでも、あれだけ父親と母親の特色を色濃く継ぐ子だ。十二歳の女子へ妖力を送り見定める選定の儀で、実子であると疑ってもおかしくない。内包する妖力は全く似なかったようだが……)
 幾ら考えても、恩人の真意は見えない。
 美雪は紅遠から見ても、嫁御巫として生きるには力が異常なまでに乏し過ぎた。
(到着が遅いと迎えに一走りしてみれば、妖術の過剰使用で死にかけているのだからな……。白の喪服よりも白い顔で、今にも命の灯火が去りそうな有様)
 紅遠は、その時を思い出し困惑した。
 嫁御巫としての力を期待したわけではない。今更、そんな存在を紅遠が求めるのは間違いだと自覚している。美雪を娶ったとはいえ、嫁御巫としても妻としても役割を果たしてほしいなどと思っていない。
 それでも美雪は、嫁御巫や妻として務めを果たそうとしてくる。
 これが、紅遠にとっては――非常に苛立たしかった。
 幼い頃から植え付けられ続けた、数々のトラウマと裏切りの日々が蘇ってくる。
(美雪が気を失ってから妖力を与えた。だから大丈夫なはずだ。だが、可能性がないとは言えん)
 恭しく三つ指突いて迎えてくれたり、食事を作ろうとしてくれた姿も、既に影響を受けているからではないかと、紅遠は疑わしく思う。
「夜は怪異と、人の欲望が強まる魔の時間だ。信じられるものか……」
 紅遠が人を信じて、食事に妙な媚薬や物体を仕込まれたことなんて数知れない。
 狂気に達した愛情から、死罪にせざるを得ないほどの情欲……色欲で襲いかかられたことも数え切れない。
 目が合うだけでも危険。意識がある中で優しい言葉をかけたり、触れるなどもっての外だ。
 こんな自分が、まともな夫になどなれるはずもない。ましてや、強力な力を持っている嫁御巫と夫婦関係になるなどと……。
「……厄介の種ではないか。銀柳殿……」
 相手が銀柳でなければ紅浜国を揺るがすために嫁御巫を強制で娶らせたとしか思えない話だった。
「傾国の鬼人、か……。誰が望んで、そのような者になりたいなどと……」
 一見献身的な美雪の姿が、いつ狂気に変わり――彼女の人生を崩壊させるのか。
 先細りの紅浜国と美雪のことを考えると、紅遠は頭が痛んだ――。
 
 朝陽が登ってすぐ、美雪は身形を整え厨房に立つ。
 白い割烹着を着て、食べてはもらえないかもしれないが紅遠に食事を作ろうと思ってだ。
(食べていただけなければ、私が食べればいいだけです)
 そう思いながら、食材を吟味して朝食を作っていく。昨夜遅く帰ってきて疲労しているだろうから、なるべく体力のつく食べ物を、と。
「――このような早朝に、何をしている?」
「く、紅遠様? おはようございます」
「……ああ」
 美雪が目を剥き振り返ると、軍服姿の紅遠が炊事場の入口にいた。
 入って来た方角を考えれば、それは紅遠の住む離れとは逆。館の出入り口の方だ。
 それも、紅遠の靴や裾は泥で汚れている。今から出勤という様相ではなかった。
「何故、そちらから? それに、泥で汚れた衣服……。まさか、あの後……。深夜にも、お勤めへ出られたのですか?」
「気にするな。私を気に掛けるな」
「……失礼、致しました。竈は温めてあります。湯は、すぐに準備をしてまいりますので」
「良い。休んでいろ」
 炊事場を去ろうとする美雪に、紅遠は『何もするな』とばかりに声をかける。
 だが、美雪はそのようなことはできなかった。
 長年、使用人同然の生き方をしてきたのもあるが、岩鬼や菊、そして紅遠の在り方を少しでも聞いてからは、何かしら役目を果たしていなければ落ち着かない。
 尊き妖人に対して、畏れ多いとは思いつつも――。
「――好きにしてよいと、昨日仰せつかりました」
 紅遠が美雪の好きなようにすればいいと告げた言葉を、そう拡大解釈して伝えてみた。
 紅遠は少し驚き目を剥いてから、小さく息を吐いた。
「……口が達者な娘だ」
「生意気を申し上げ、誠に申し訳ございません」
「怪しい気配があれば、すぐに湯を抜く。私への面通しも、以後は禁じる。それでも良いな?」
 美雪は俯かせていた顔を上げ、紅遠の艶やかな黒髪を見つめた。
「はい!」
 条件は付けられたが、自分の意思が尊重されるのは――美雪にとって、非常に嬉しかった。
 自分で考え、行動する。
 そのような経験、ほとんどなかった。
 このままでは迷子のように、何をしてもいいのか分からないと思い悩んでいた美雪は、少しでも紅遠の役に立てると足を弾ませ浴場の方へと向かった。
「……難儀な娘だ」
 炊事場に残った紅遠は、野菜の皮を剥きながら思う。
(人の心情は、分からない。私は、何を信じて良いのか……。いや、信じようなどとは思うな)
 頑なに自分の感情に蓋をしながらも、紅遠はどうにも居心地が悪い思いをしていた。
(何故、このような早朝に起きて私のような者の世話を焼こうなどと考える。やはり、既に……。いや、それにしては反抗的すぎるか。……分からぬ。薬を盛られた気配もないというのに、胸が妙にザワつくのは、何故だ)
 屋敷の管理や運営は菊を始めとする通いの使用人に任せていた。だが、自分の食事や住居の手入れ、服や衛生管理などは全て自身で行うのが当然だったのだ。
 この十七年間、当たり前の日常が美雪を嫁御巫として娶ったことで崩れている。
 これが良い変化なのか悪い変化なのかは、天上の存在と言われる妖人をもってしても判断がつかない。自分の心情など、最も理解と管理が難しいと紅遠は感じた。
(誰かに世話をされっぱなしというのは、気分が悪い)
 そう感じた紅遠は、作りかけの食事に目を向ける。
「……何もしないよりは、マシだろう」
 曲がりなりにも、美雪は嫁御巫だ。
 神眼と呼ばれる妖力を吸収する額――そこへ口づけなり、直接嫁御巫の口へ接吻するなりの粘膜接触が、最も嫁御巫へ妖力が伝わり能力を高める。
 極めて摂取効率が悪いとは知りつつも、紅遠は自身の妖力を注いだ食材を、作りかけだった美雪の食事に一部加えた――。
 
 美雪が入浴の準備を整えて炊事場に戻ると、今まさに割烹着に身を包もうとしている菊がいた。
 既に紅遠の姿はなく、洗い終えた食器が並んでいる。
(また洗い物まで、ご自分で……。本当に、誰の力も頼ろうとなさらない方なのですね。御立派にも感じますが、寂しくも感じてしまいます。……私も、お役に立たなければ)
「あら、おはよう美雪さん。早いわね」
「おはようございます、菊さん。夕食や朝食の用意をしたかったのですが、やはり紅遠様にとってはご迷惑だったようです。役目の果たせない嫁、そして嫁御巫で申し訳ございません」
 その言葉と美雪の表情で、菊は何があったか察したらしい。
 柔和な笑みを浮かべながら美雪に近寄ると
「人の信用は、積み重ねる石のようなものよ。……簡単には積み上がらず、焦ると崩れる。だから、ゆっくり慎重にね」
「……はい」
「心配せずとも、憎まれてはいないわよ。紅遠様は、美雪さんを気に掛けてらっしゃるわ」
「紅遠様が私を、ですか? とても、そのようには……」
 昨夜から今朝にかけての、辛辣なまでに突き放された会話を美雪は思い出す。
(いえ、突き放すというよりは……。一定距離以上に踏み込むなと、分厚い壁を立てられているようでした……)
 初めて自分を認めてくれた――それが白い喪服を着る自由という何でもない内容であったとしても、割り切れない血の因縁があるとしても、美雪にとって紅遠は特別な存在だ。
 嫁御巫として仰ぐべき主君であり、補佐をしなければならない。それだけでなく、形式上だけでも妻なのだ。
(他にも正妻や側室、妾の嫁御巫が離れた屋敷などにいるのでしょうが……。少なくとも今、おそばに住む妻として力になりたいです)
 こうなってくると、美雪は使用人以下であろうと常に人足として求められた山凪国時代の方が何かしらの役に立っており、生きている実感があったようにさえ感じる。
 自由を与えられたとしても、何も求められないのは辛い。
「本当に、気に掛けてらっしゃるのよ? 先程も、私に美雪さんの淑女教育を施すよう言われたわ」
「え? 私のような者に、淑女教育をですか?」
「ええ。御巫としての鍛錬もあるでしょうし、家事もあるから合間でだけどね。紅浜国は外国と最も近い神州。貴賓との社交界に美雪さんと参加する未来も想定しているのではないかしら?」
 社交界という名前事態は聞いたことがある。
 同盟国や取引上の尊い方々が集い交流をする、パーティーと呼ばれる異国の文化だ。
 神州に入ってくるなり早々に根付き、パーティー用の会場を他国に負けじと作ったとの噂も聞き及んでいる。
(こちらの洋館の一階にダンスホールがあったのは、そういった理由でしょうか。私のお部屋は、尊い方がお休みになる客室……。そのような所に、私のように穢れた血を引く無能者が暮らしていてもよいのでしょうか)
 合理主義で不要なものは冷酷に斬り捨てる人柄に見えた紅遠が、一人で住むには余りにも大きすぎる洋館を残している理由が理解できた。
「それだけじゃないのよ? 後で、ご自分の部屋に行ってみなさい? 紅遠様の申しつけで、白いお洋服を沢山買ってあるから。白と合う袴とか、ハイカラなブーツもあるわ。『金に糸目はつけるな。良い生地の服を買ってやれ』と言われたのよ」
「え、私は着られれば、それで十分ですのに。そのような贅沢を……」
「いいのよ。これが紅遠様ができる……いえ、やってもいい精一杯の感謝なの。受け取ってあげてね?」
 菊の『やってもいい』という表現が、美雪には気に掛かった。
(昨日、紅遠様が信を置かれたら話してくださると仰った内容と重複しているのでしょうか……。果たして、そのように信用していただける日が来るのか、分かりません)
 美雪には、紅遠の真意が全く測れない。
 嫌われているのか、嫌われていないのか。避けられていることは間違いないが、このまま尽力していけば、いつかは……。そう気持ちを持ち直す。
「だけど、本当に良かったのかしら? 白い喪服を用意しろって言われたけど……。普段着として喪服を着るの?」
「……お許しいただけるのならば。白い喪服は、私が初めて紅遠様に認めてもらえた……。勝手にそう思ってるだけかもしれませんが、私にとって特別な着物なのです」
「ふふっ。そう……。それなら、何も言わないわ。ただ、普段から喪服ってのも縁起が悪いから、お洒落に簪とか巾着みたいな小物も揃えなさい? いつか、紅遠様とね」
「……そのようなご機会を、いただけるのであれば」
 現状、美雪が紅遠と街を歩く光景なんて想像ができなかった。まして、自分がお洒落をするために買い物をするなんて考えられない。
 紅浜国の、西洋の異国情緒と神州の文化が入り混じる街並みを歩けたらとは思うが、それは望みすぎだ。今まで街を歩くというのは、誰かのために買い出しへ命じられて出るだけの場所だったのだから。
 話ながらも、朝食の準備の手は緩めない。
 そうして料理の仕上げをしながら、美雪は菊に尋ねてみた。
 どうしても気になっていたことを、だ。
「あの、菊様。今朝方……日の出から間も無い時間に、紅遠様がお帰りになられたのですが……。まさか、夜間も働きに出られているのでしょうか? 昨夜帰ってから、殆ど時が経ってないかと思うのですが」
「ええ……。夕暮れの逢魔が時、そして丑三つ時は怪異が活発になる時間ですからね。防衛戦力の乏しい紅浜国では、紅遠様が自ら国境を走り回って怪異を退けてるわ」
「毎日、ですか? お身体は大丈夫なのでしょうか? 妖力も、無尽蔵というわけでは……」
「あの方は、並みの妖人ではないわ。お父君の朱栄様も、銀柳様もそう仰せられてた。……とはいえ、やっぱり日に日にお疲れが蓄積しているように見えるわ……。紅浜国を護ろうと、心まで鬼にして全てを捨て取り組んでこられたけど、心配よね。昼は国政で官公庁に詰めておられるし、いくら人智を超えた妖人といえども……。いえ、これは不敬だったわね。聞かなかったことにしてちょうだい」
 国主が自ら、国境に押し寄せる怪異を撃退するために参戦する。
 そんなことは、山凪国では考えられなかった。
(岩鬼様の言っておられたように、防衛戦力が逼迫されているのですね……。他の嫁御巫の守護も、間に合っていないのでしょうか?)
 国境や怪異が頻発する場所には嫁御巫が住み、そこを妖人が定期的に回って妖力を補充する。それは神眼への接吻だったり、あるいは子を成す行為だったりもする。
 そうして国は安寧を保ち続けるのが、美雪の教えられた嫁御巫の常識だった。
(先任の嫁御巫は妊娠中とか……。そうであれば、妖力は使えないはずですから)
 子を身ごもっている間は、嫁御巫としての力も駆使できない。
 授かり物である子を孕んでいるとしたら、紅遠が無理をして走り回っているのも、親であり国主としての責務なのかもしれないと美雪は思った。
(紅遠様の御子……。寵愛、ですか)
 焔のような紅い瞳、氷のように冷徹な態度からは想像もできない。
 しかし、その行為は妖人としての役目。嫁御巫としての責務。
 自分もそうなるのかと考えた時、微弱過ぎる嫁御巫の力では求められることもないだろうと思い直した。そもそも閨に近付けば斬るとさえ言われた、割り切れない因縁を持つ相手だ。
(何ででしょう……。少し、寂しく感じてしまうのは。きっと自分の役割が、果たせないから……でしょうね)
 軋む胸を押さえ、美雪はそう結論付けた。
「さっ。朝食が出来ましたよ。食べてお掃除。それから淑女教育に……美雪さんは、嫁御巫の鍛錬ね。今日も私たちにできることをしましょう」
「はい。私たちにできることを、精一杯」
 手を合わせて、美雪と菊は炊事場の一角に置かれた机で食事を摂る。
「美味しいです……。人と食べる食事は、こうも内側から熱くなるものなのですね」
「そうね。誰かと食べる温かな食事は、いいわよね」
 美雪は、朝原家に仕える使用人の中でも特殊な立ち位置だった。朝原の血を継ぎつつも、下級使用人以下の罪人扱い。嫁御巫の中でも忌避される存在であり、誰かと食卓へつくなど、あり得ない境遇を過ごして来た。
(本当に、温かい……。まるで内側から、ぽかぽかと温められて気力が湧いてくるようです)
 思わず、じんわりと視界が滲む。
 何とも言えない、感じたこともない奇妙で心地良い感覚に身を任せ、美雪は紅浜国への恩に報いねばと再度決意を固めた――。

 官公庁の最上階、西洋の華美なイスとテーブルをモチーフに、紅浜国の伝統技巧を調和させた地味ながらも質の高い調度品が揃う会議室に、黒い軍服姿とスーツ姿の男たちが集っていた。
 最奥の上座には、紅遠。
 そうしてイス4つ分の空白を空けて、岩鬼や大臣、副大臣たちなど国政の中枢を担う高官が居並んでいる。
 国主である紅遠の周りに誰も近付かない光景は、端から見ると奇妙な光景であった。
 しかし誰一人として気にする様子もなく、当たり前の配置として議論は開始される。
「岩鬼大臣。山凪国から嫁いだ嫁御巫、朝原美雪様についての報告をお願い致します」
「山凪国へ事前に問い合わせた情報と、某が実際に目にした美雪殿について、ご報告を致します」
 司会進行役の声に合わせ、岩鬼が書類を手に起立する。
 ピンと伸びた背筋に、歴戦の風格が漂う渋い姿。戦闘能力の高い継承者でもあり、頭脳としても紅浜国の統治に欠かせない大黒柱。その一挙手一投足に、居並ぶ紅遠の臣下たちは真剣な目を向ける。
 いや、それは何も発言者が岩鬼だからというだけが理由ではない。
 紅遠が娶った嫁御巫――美雪についての詳細な報告は、国政に携わる全員が喉から手が出るほどに欲する情報だった。
 連日続く怪異の猛攻で滅亡へにじり寄る紅浜国にとって、希望の光たり得る存在なのか、と。
「山凪国側からの情報は、嫁御巫としての能力は非常に乏しく見習い扱いだったという一言のみでした。情報を裏付けるように、某が共に紅浜国へ入国した際、怪異によって致命傷を負った子供を一人助け、妖力の過剰使用により瀕死に陥っております。今すぐ嫁御巫として十全な働きを求めるのは、少々過大な要求かと思いますな」
 その情報を聞いた者たちは、一様に落胆を顕わにした。
 絶望的な表情で、顔を覆う者さえいる。
 そんな者たちの反応を観察しながら、紅遠は
「嫁御巫としての能力は、永久不変ではない。たとえ鍛錬で伸びずとも、案ずるな。これからも私が紅浜国の守護を果たしてみせよう」
 揺るぎない、確定した安寧な未来を伝えるように言葉を放った。
 妖人の妖力がこもった言霊に、居並ぶ家臣は僅かに落ち着きを取り戻す。
 だが、妖力への抵抗性が高い継承者は――意変に気がついていた。
「で、ですが……。紅遠様も、長年に渡り休む間のなき防衛への奔走で、妖力が乏しくなっているのでは……」
「そ、そうですな。今までであれば、この距離を空けても我々に疑念を持たれぬような――」
「――ほう、そうか。……お前らは、私の包み隠さぬ力を体感したいのだな?」
 紅遠の瞳孔に宿る焔が、更なる輝きと鋭さを増した。
「かつて去った者たちのようになりたい。お前らは、そう望むのだな?」
 スッと立ち上がり、一歩離れて座っていた者たちへ近付こうとすると
「も、申し訳ございませんでした!」
「不敬をお許しください! どうか、どうか、そればかりは!」
 美雪の情報で落胆し紅遠の言葉にも懐疑的だった面々は、慌てて片膝を付き謝罪を述べた。
 紅遠は暫し、その様子を眺めると小さく息を吐き席へと座り直す。
「……よい、私としても望むことではない。岩鬼、時間が勿体ない。報告を続けてくれ」
「はっ!」
 冷や汗を流しながら、岩鬼は軽く礼をした。
 そうして一度咳払いをしてから、言葉を続ける。
「現状の能力としては、確かに一人前の嫁御巫とは申しがたい。――しかし、そのお人柄は真に優しく、国の問題を一緒に解決したいという誠実さを感じました。嫁御巫として、妖人との相性もありましょう。銀柳様の妖力では乏しかった能力も、これから紅遠様の妖力に適合して伸びる可能性もゼロとは言い切れません」
 会議室内に、僅かながら期待の籠もった空気が広がった。
 反対に表情を険しくしたのは、紅遠である。
「その人柄を確認したのは、美雪が倒れた後か? 私が妖力を充填した後か?」
「紅浜国の問題を一緒に解決したいと申したのは、その通りです。しかし、入国前から幼子のために命を捧げたのは、紅遠様もご存知の通りです」
「……そうか」
 椅子の背にもたれ、顎に手を当てた紅遠は小声で呟く。
「子供は個人的な善良な感情……。私や国を憂い行動を開始したのは、私の妖力の影響を受けてからか……。つまり、そういうことだったというわけか」
 一人で思案に耽る紅遠の姿に、会議室は動揺が広がる。高官たちは隣に座る者へ目を合わせながら、何が起きているか分からないと首を振るう者までいる。
 皆は、即断即決で冷静沈着な、まさに鬼人と呼ぶべき働きぶりの紅遠ばかり見てきた。
 幼い頃――君主に成りたての頃を知る者や、父の補佐をしていた頃を知らない臣が、見たこともない君主の姿に動揺するのも無理はない。
 紅遠の抱く心情を思い、痛ましそうな瞳を浮かべた岩鬼は
「……我が国に、戦力を遊ばせておく余裕は一切ございません。軽傷を治癒する能力であっても、貴重でありがたい窮状なのが現実です。――そこで、某から提案がございます」
「……何?」
「実務面での助力としても、修行としての意味でも……。美雪殿に、嫁御巫として怪異への防衛活動参戦を依頼したく思います。あくまで後方支援として、衛生兵としてです」
 紅遠が鋭い眼差しを向けると――岩鬼が一瞬、ぐらりとよろめいた。
 それでも岩鬼は、足に力を込め踏ん張った。表情を引き締め紅遠から視線を外さない。
 交差する視線の火花、会議室内へせめぎ合う両者の妖気。
 一歩も引かず、己の意思を貫く立ち居振る舞いをした岩鬼に――
「――分かった」
 紅遠は、重々しく頷いた。
 ふっと空気が緩む。やっと空気が吸えたとばかりに、高官たちは深呼吸をした。君主と国家を支える大黒柱――継承者の妖気は、並みの者では呼吸すら辛い影響を与える。
「美雪殿のご成長を期待し、某の献策を受け入れていただき感謝申し上げます」
「私は岩鬼の国を憂う気持ちに応えただけだ。この提案を、美雪が心から望み承諾するなら許可しよう。――ただし、条件付きだ」
「条件、ですか?」
「ああ。――美雪を殺すのは……。あの白い喪服を死に装束へと変えるのは、私だ」
 過去、そして血の因縁を知る岩鬼は、息を飲んで紅遠の発する条件へと耳を傾けた――。

 昼過ぎ。
 家事と淑女教育を受けた美雪は、お気に入りの白の喪服へと着替え、日課となっている嫁御巫としての鍛錬をして――強い違和感を抱いた。
(両手の間に渦巻く妖力が……増している? 今日は、調子がいいのでしょうか)
 精神を研ぎ澄ませながら、両掌の中央へ球のように妖力を凝縮させる鍛錬。
 山凪国にいた頃の銀色の妖力と違い、紅い妖力が綺麗な球体として留まり続けている。
(これまでならば、私の妖力など豆のようで……。すぐに霧散したはずなのに)
 一般的な嫁御巫のように、大きな真円を作り回転させられるほどの妖力や操作力はない。
 未だ未熟な嫁御巫としての妖術であることには変わりがない。
 それでも美雪からすれば、考えられないような成長――いや、躍進であった。
「失礼します。美雪殿は……ここに、おられましたか」
「岩鬼様? どうかなされたのですか?」
「ええ。実は、美雪殿に大切なお話……。いえ、ご依頼があってきました」
「岩鬼様が、私にご依頼ですか? お受け致します」
 美雪に否などはない。依頼内容は聞いてなくても、岩鬼が持ってくる依頼が悪いものとは思えない。それに、依頼や提案に対し拒否権がある人生などは生きてこなかった。
 意思を述べるだけ無駄、抵抗するだけ無駄ということもあり、話も聞かずに承諾するクセができていたのだ。
 勿論、誰かの役に立つ依頼や役割であるというのが前提である。 
 お世話になった人に対して不利益になる……誰の役にも立てないような行動を依頼されれば、後から頭をさげて勘弁を願うつもりであった。
「安請け合いは個人的にも、紅遠様の嫁御巫としてもお勧め致しませんが……。それでは、官公庁へと付いてきてくださいませんかな?」
「官公庁……。紅遠様の勤める、国の中枢。山凪国でいう城に、ですか?」
「ええ。そこで詳しい依頼内容をお話致します。……どうか、正気を保ってくだされ」
 岩鬼の放つ言葉の後半は、願い縋るようでもあった――。
 美雪は岩鬼の後を付いて、紅遠の館からそばにある官公庁へと足を踏み入れた。
 忙しなく働く職員ばかりの階を抜け、上階へと進むにつれ厳かな雰囲気へと変わっていく。
 そうして、一室を岩鬼がノックして――。
「――美雪殿をお連れしました」
『入れ』
 紅遠の声に、美雪は少し目を剥いた。
(まさか、紅遠様が私にご依頼を? 私を求めて……いただけた?)
 途端に緊張する手足を動かし、岩鬼に続いて室内へと入る。
「ぇ……」
 そこには、軍服に身を包む人物が立ち並んでいた。
 誰も彼もが継承者と思しき洗練された妖力を身に纏い、軍刀を佩いている姿は物々しい。
 上座の執務机へ両肘を突き、冷淡で厳しい面持ちを浮かべた紅遠は
「体調は回復したか?」
 そう、美雪に尋ねた。
 炎を包み込んだガラス玉のような眼光。歴戦の軍人たちの視線が集う中、美雪は身を硬くしながらも素直に答える。
「はい、お陰様で今日は絶好調でございます」
「……嫁御巫としての役目は、果たせそうか?」
「私は元より、微量な妖力しか駆使できない半人前以下の嫁御巫でございます。十分なお役目は果たせないかとは思いますが……。命じられれば、死力を尽くしてご奉公致します」
「……そうか」
 紅遠は俯き――何かを諦めたかのように、大きな溜息を吐いた。
(何故、そのような反応をなされるのでしょうか? 私が奉公しようとすると、紅遠様は何故、お辛そうにされるのでしょう……)
 その理由が美雪には、幾ら考えても分からない。嫌われ避けられているにしては、贈り物を贈られたりもする。紅遠の言動の理由を知りたくても、全く理解ができないことに口惜しさを感じていた。
(この身に流れる血の罪を、少しでも贖罪させていただきたいのに……)
 そう願う一心で美雪は――どんな依頼であろうと受け、身を挺して臨もうと再度覚悟を決めた。たとえそれが、群衆の前で首を跳ねられる役目であっても、だ。
「今日の逢魔が時――夕暮れに訪れる怪異出現に際し、美雪にも参戦してほしい」
「……私が、怪異との実戦に」
「ああ。当然、死ぬ危険性もある。……それでも、やるか?」
「勿論でございます。紅遠様に死ねと命じられれば、死ぬ。それが私の……役目でございます。嫁御巫として、血の因果として……」
 唇を噛み締めながらも、美雪の決意は変わらない。
 怪異と対峙するなど、未体験の恐怖だ。それでも――死んでもいい、死ぬべきだとすら思った命。殺されても仕方がない人の命令で散らすなら、それも血の運命と贖罪の形だと受け入れた。
 そんな美雪に向かい、椅子から立ち上がった紅遠はコツコツと革靴の踵を踏みならして近付く。
「美雪を殺していいのは、私だけだ」
「紅遠様……」
 近付いたことのないほどに目の前で、紅遠が美雪の瞳を見つめる。
(ふわっと漂う香り、吸い込まれそうな瞳へ惑わされそうになりますが……。そのような浮ついたことを考えているような状況ではありません。私も紅遠様や紅浜国の危機を救わなければ)
 美雪は、紅遠の期待に応えたい。怪異に命を奪われるわけにはいかないと、勇気付けられた。
「……これより、神眼へ妖力を注ぐ」
「神眼へ妖力……。まさか、御心の儀でごさいましょうか?」
 御心の儀。それは妖人が嫁御巫に対し、神眼のある額へ接吻など粘膜接触をして妖力を注ぎ、守護の力を授ける神聖な儀式だ。
 直接大量の妖力を注いでもらい、嫁御巫を怪異から広範に渡り退ける結界を生み出す力を与えるような、一人前と認める証でもある。
 それでも十分な力を示せなければ――嫁御巫として次の機会は長く与えられない。
「御心の儀の前段階だ。……だが、強い危険は伴う」
「……危険、ですか?」
 御心の儀で、嫁御巫や妖人の身が危うくなるなどとは聞いたことがない。美雪が少し目を剥きながら尋ねると、紅遠は――その掌を美雪の額へ向けてきた。
「止めるなら、今のうちだ。……本当に、覚悟は良いか?」
「はい」
「……そうか」
 前段階とは、こういうことかと美雪は納得する。接吻ではなく、強く妖力を発する手掌から近い距離で神眼に注ぐ。それで嫁御巫としての敵性を確かめるということなのだろう、と。
(しかし……。私に覚悟を問うているはずなのに、紅遠様の指が震えていらっしゃるのは、何故でしょうか?)
 疑問に思いながらも、美雪は口にしない。
 平静に、妖力を受け入れる心持ちを整える。
「眼を瞑れ」
「はい」
 紅遠の声に従い、目を閉じる。妖力が注入される額へ神経を集中させ、永遠にも感じられる数秒がすると――。
「――ぁ……」
 美雪の額から全身に、妖力が迸る。
(これは、この内から暴れ脈打つ感覚は!? 意識が、遠のく……。ダメ、負けてはいけない! 力に飲まれず、内側に留めなければ!)
 身体の内側からドクドクと駆け巡り鼓動を揺らす感覚に、美雪は舌を噛みながら自分に言い聞かせる。
 それでも、まるで内側から刃物で切りつけられ――脳が、貧血で倒れる寸前のように白く染まり始める。
(いや……。私は、誰かの役に立ちたい。ずっとゴミ扱いされていた私を求めてくださる菊さん、岩鬼様、紅遠様の期待に応えたい! 銀柳様、どうか私に御力を……)
 一度しか顔を合わせたことがない――初めて恩義を感じた相手の顔を思い出す。
 ドクドクと胸を突き破らんばかりに荒れ狂っていた鼓動が、徐々にトクントクンと落ち着いてくる。
 宙に立っていたような浮遊感も治まり、美雪はハァハァと荒い息をしながら耐え抜いた。
「貴重な妖力を、ありがとうございました……」
「……何とも、ないのか?」
 冷静な表情を、初めて紅遠は崩した。
 驚愕に目を剥き、美雪を見つめている。
 美雪は紅遠の言葉に、両手掌で妖力の球を練る。
「……申し訳ございません。折角の御力をいただいたのに……。何とも、ないようです。一人前の嫁御巫とは、なれませんでした。た、ただ! 明らかに妖力をいただく前よりも、大きく自在な妖術を駆使できるようにはなっております! これからも尽力致しますので、どうか見捨てないでください!」
「…………」
 嫁御巫としての素養なしと山凪国に返されるか、あるいは不要と国外追放となり、野盗に嬲られた挙げ句に野垂れ死ぬ未来を想像し、美雪は必死に懇願する。
 その様子を、唖然とした表情で紅遠は見つめていた。
「……紅遠様? いかがなさいましたか?」
「……いや、何でもない。――岩鬼、美雪を連れて防衛に当たれ。条件通りでだ」
「はっ! 承知致しました!」
「しっかりと監視をしておけ。……この言葉の意味は、理解しているな?」
 ドスの利いた声音で、紅遠は言う。
 その言葉は、これから戦場に出て命の奪い合いをするような――強い覚悟を孕むものだと、美雪は身を震わせた。
 岩鬼も流石に迫力に気圧されたのか、僅かに口を震えさせながら
「……はっ。もしもの時は紅遠様よりお窺いした条件通りに、対処させていただきます」
 そう答えた。
 紅遠は重々しく頷くと、居並ぶ軍人たちへ視線を巡らせる。
「分かっているなら、よい。――私は、最も怪異が出現すると予測される側から回って行く! それ以外の者は継承者たちを率い配置に付け! 各駐屯地から、十全に動ける者のみだ!」
 紅遠の指示に、軍人たちは敬礼をして素早く行動を開始した。
 背筋を整えながらも早足で行動する姿は、美雪が思わずみとれるほどに統制がとられた動きだった。
(実戦経験を豊富に積んだ方々の、訓練の賜物……。私も一員として、微力を尽くさなければ)
 不合格を突き付けられず安堵している場合ではないと、気を引き締める。
「美雪殿。私に付いてきてくだされ。外で車に乗り、駐屯地へと向かいます」
「はい。……紅遠様、どうかご無事で」
「……ああ。美雪も、諸々気を付けるといい。……いや、覚悟を決めておけと言うべきか」
 美雪に背を向けた紅遠は、窓から紅浜の街並みを見渡しながら返事をした。
 紅遠の声は、戸惑いつつも何処か寂しげな印象として美雪の耳に響いた。
(いただいたお役目を、精一杯こなしていって……。いつか、紅遠様にも信じてもらえるようにならなければ)
 そのようなことを考えながら、美雪は岩鬼に続いて外へと出た――。
 
 車に乗り美雪と岩鬼がやってきたのは、最も怪異の出現数が少ないと言われる場所だった。
(初めて怪異と対峙する私に、ご配慮をいただいてしまったということですね)
 より人の気配や、過去に凄惨な戦場となった場所に怪異は吸い寄せられる。例外はあるが、稀だ。そういった例外に対処するために、いつでも出動できる継承者部隊も待機している。
 街から少し離れて出現する怪異を、万全な防衛体制の場所へ誘き寄せる役目も込め、駐屯地は建てられていた。
「この駐屯地は紅遠様が最初に対処される難所から、最も遠く離れた場所です。お互いに無事ならば、逢魔が時の攻勢を乗り越えた際に再会できましょう。……美雪殿。くれぐれも気を強く持たれよ」
「はい。お心遣いをいただき、感謝申し上げます」
 美雪は、純白の喪服を揺らしながら一礼した。
 駐屯地の兵士や継承者たちは、緊張感を保ちつつも笑みを浮かべる余裕もある。常に緊迫していては精神が持たないと、防衛戦の中で学んでいる。
 連日、怪異の侵攻を乗り越えている者たちの有り様を見て、美雪の不安な心も幾分か和らいだ。
「む、来るぞ! 空中からの敵に対処する弾の備蓄は!?」
「妖力を込めた弾の配備も滞りありません。既に迎撃配置についております岩鬼様!」
「よし、門を開けろ! 陸行の怪異へは打って出ろ!」
 岩鬼の指揮に、重厚な金属で出来た門が開く。
 美雪は駐屯地内の高所から指揮を執る岩鬼とともに、要塞内外の様子を見て目を剥く。
(黒い靄、禍々しくも悍ましい……。蠢く塊が、押し寄せてくる。暗い妖気と怨念を凝縮して、動物や人間を象ったような……。何て冒涜的な存在、悪意の塊、これが怪異なのですね)
 嫁御巫としての美雪の目には、酷く汚い邪悪な存在が――列挙して押し寄せているように映った。
 必ず互いの背後を補いながら、統制の取れた動きで軍刀を振るいピストルで迎撃する紅浜国軍兵に対し、怪異には人を害そうという単純な意思しかない。作戦も何もない純粋な破壊の化身と言った様相だ。
 空中から襲おうとする怪異には、高台から西洋から渡り紅浜国で研究と製造された銃を構える軍人が対処している。妖力を事前に込めた弾で打ち抜き――怪異を霧散させていく。
(熊より大きな怪異にも、打ち克つ……。自分たちの何倍もいる……いえ、数なんて分からないぐらい湧き出る怪異との戦闘にも腰が引けていない。護るべき民を背負う継承者や軍人とは、何て勇ましいのでしょう)
 合計しても百名程度しかいない紅浜国軍兵に対し、蠢く怪異は――少なくとも、千はいるように見える。暗き影が次々と産まれてくるから、実際はもっと多いのかもしれない。
「……ふむ。怪異も奇襲をかける様子はなく、この陣容で力押しのままでしょうな。それならば、某がこれ以上ここで指揮を執る必要もない。……美雪殿、お覚悟はよろしいか?」
 瞳に戦意を込めた岩鬼の言葉に、美雪は震える手を隠して頷く。
「はい。……微力を尽くさせていただきます」
「期待しておりますぞ。……くれぐれも、私から離れず。お心を、自我を強く持たれよ」
 後半の言葉は、頼み込むようだった。
 訝しく思った美雪だが、戦場の狂気や恐怖に飲まれるなという意味だろうと理解し、岩鬼に続いて開いた門の前にまで来る。
「一般兵は、負傷者を連れて下がれ!」
「はいっ!」
 街の巡邏や治安維持、対人相手では活躍する一般兵――妖力を持たない兵士も、怪異との戦闘では補助に徹する以外に役目はない。
 妖力や邪気の集合体には、物理的な攻撃のみでは霧散した妖力もすぐに再凝集してしまう。怪異は斬られようが爆破されようが、再び蠢く影として活動を始めるのだ。
 妖人の血を何処かで引き、覚醒させることに成功した継承者――そして嫁御巫のみが、怪異に抗える剣にして盾。
 豊富な実戦の中で鍛えられた継承者たちは、数で劣ろうとも怯むことはない。
 数十分と闘いが繰り広げられ、日も沈み逢魔が時が終わりかけた頃だった。
「衛生兵! こいつを連れて、門の中で治療してくれ! 重傷だ!」
 腕と片脚に、野犬か狼の爪にでも引き裂かれたかのような深い裂傷を負う兵士が、背負われ運ばれてきた。
 背を向け門の中へ駆け込もうとするが、その背後には猪のような怪異が迫り――。
「――ぬん!」
「い、岩鬼様!?」
「負傷者の移送は、某が補佐する! 気を緩めるな!」
 軍刀を抜いた岩鬼からは、妖力が漲っている。
 他の継承者より圧倒的な――火のようなオーラが漂う姿に、前線で戦う継承者たちの闘志も触発された。命にかかわる致命傷や即死でさえなければ、安心して衛生兵の元へと下がれる。
 その確信を得られるだけの存在感が、岩鬼にはあった。
「あ、ありがとうございます! おい、しっかりしろ! もうすぐだ!」
 痛みに呻く継承者を背負った兵士が門の前――案山子のように立ちつくす美雪の前にまで辿り着き、駆け出てきた衛生兵へと引き渡す。
 応急処置として止血をしてから担架に乗せ、継承者を門の中へ運び込もうとするが……。
「……俺は、まだ戦える。紅浜国を、紅遠様を護るのは……。俺たち継承者しかいないんだ」
「この傷では無理だ! 暴れるな!」
 うわごとのように呟く使命感溢れる継承者を見て、美雪は胸の前で手をギュッと握り絞めた。
(己の役目を見定め、傷も厭わず戦い続ける。……紅浜国や紅遠様のために尽くそうとされている。私も……嫁御巫として役目をいただき、お役に立たないと)
 鉛のように重く、震える足に力を込め――一歩を踏み出した。
「私に、治療をさせてください! 私は微弱な力しか持たないとはいえ、仮にも嫁御巫です!」
「な、何だって!? 紅遠様が嫁御巫を娶られたという噂は、実だったのか!?」
「美雪殿!? 勝手なことは――ぬぅうんっ! 退けい、雑魚どもが!」
 門の前に兵を固めて展開しているとはいえ、素早く小さな獣型の怪異が隙間から抜けてくる。
 岩鬼はそれらの相手を一手に担い、門の中へ近づけないよう立ち塞がり奮闘していた。
 決意を胸に、たすき掛けをして袖や袂を固定した美雪が――治癒の妖術をかけ始めるのを止めるのが間に合わないほどにだ。
「美雪殿! どうか紅遠様の力に、飲まれないでくだされ!」
 遠くから響く岩鬼の怒声を耳にしながら、美雪は深く息を吸い込み。
「私は……もう、何もできないゴミでいたくないのです。無能で生きる意味もない空虚な存在でいたくありません。不甲斐ない自分を、変えたい」
 出血で意識も遠のく中、傷を負ってない手で自分の軍刀を探す継承者に触れ――。
「――傷付いても戦う尊き方を、癒やしたい!」
 美雪は、治癒の妖術を用いた。
 薄く紅と銀をまぶしたように輝く妖力の膜が――傷付いた兵士を覆う。
(私の力では、精々止血が精一杯……。そのようなことは理解しています。それでも、全力で!)
 皆が華々しく先達の嫁御巫から手ほどきを受けて修行している中、隅で独り修行をしていた日々を思い出す。水や泥をかけられながらも、役目だからと手を抜かず長年続けた日々を。
(修行の成果を……。今出さずして、いつ出すというのですか!)
 誰かに命じられた役割ではない。
 美雪自らの強い意志で動き――精神を研ぎ澄ませた。
 暴走しそうに暴れる体内の妖力を、掌と治癒対象に集中させる。
「おお……。これは、凄い。傷が――跡形もなく癒えていく」
「――ぇ」
 その効果に誰よりも驚愕したのは、美雪だ。今までの自分では、考えられない治癒効果。
(全ては……紅遠様のお陰ですね。あの方のご期待に、私は応えたい!)
 ドクンドクンと、心臓から全身を巡る血脈のように――身体を破らんと妖力が暴れまわる。
 頭が割れそうなほどに迸る妖力を気力で抑え込み続け――継承者の傷は、完治した。
「……嫁御巫様だ。紛れもなく、嫁御巫様の御力だ!」
「凄い、これが……。本物、だ。紅浜国に、希望の火が灯ったぞ!」
 様子を見ていた衛生兵や、駐屯地で待機していた兵士から――歓喜の声が上がる。
 美雪が肩で息をして項垂れる中――。
「――美雪殿! 皆の者、そこを離れろ!」
 怪異を退けた岩鬼が駆け寄り、美雪に向かい軍刀を構えた。片手はピストルに添えられており、安全装置も外れている。何時でも美雪に向かい撃てる準備は整っていた。
「い、岩鬼様!? 何故、嫁御巫様に剣を向けるのですか!?」
「問答は後だ! 黙って美雪殿から離れよ!」
 語気を強めた岩鬼の迫力に、兵士たちは一目散に美雪から去る。
 残されたのは横たわる継承者と、荒い息の美雪に剣呑な瞳を向ける岩鬼のみだ。
「美雪殿……。貴殿にとって紅遠様は、どのような存在か?」
 剣を向けている場面には相応しくない、岩鬼の問い。
 美雪はゆっくりと立ち上がり、顔を上げると――目をカッと剥いた。
 目にも止まらぬ早さで妖力を掌に込め、美雪は両手を岩鬼へ向ける。
「くそっ! 恐れていた事態が起きたか! 最悪だ!」
 岩鬼は顔を歪める。
 軍刀へ妖力を込め、じりっと地を踏みしめて美雪に闘気を向け――。
「――岩鬼様、危ないです!」
 美雪の手が一層、銀と紅が混じったように灯り――岩鬼の背後に、盾のように小さな結界が突如として出現する。
「なっ!? なん、だと!?」
 高所から落とした荷物が衝突で破裂したような轟音に、岩鬼は背後を振り返る。 
 そこには、結界へ吸い込まれ消失していく霧散した黒い塊があった。
 怪異が嫁御巫の張る守護の結界により、消滅した証だ。
(某を、護った? それならば、美雪殿は……)
 天敵とも呼べる守護の結界を恐れ、にじり寄っていた他の怪異も遠くへ逃げ去って行く。
 岩鬼は改めて、美雪へと視線を戻す。
「……何とも、ないのですか? 美雪殿、貴女は……」
「岩鬼様、ご無事で良かったです。私も、紅浜国や紅遠様の……。皆様の、お役に立てたでしょうか?」
「紅浜国、皆……。そうか、そうか! 美雪殿、乗り越えられたか! やはり貴女様は……」
 そこまで口にすると、岩鬼は剣呑だった瞳に優しい光を宿し――涙を湛えた。
 逢魔が時の、黄昏れ色の光りが消え、空は暗く染まる。
 前線で戦っていた妖魔たちの勢いは衰え、いずこかへと去って行く。
 今日も逢魔が時の戦闘を乗り越えた。死者も、戦闘続行不能な者もいない。
 それどころか、沈む陽光に変わり――紅浜国に新たな光が顕れたと皆が歓喜の雄叫びを天にまで轟かせる。
 もじもじと、美雪が自分はどうすべきか迷っていると――。
「――状況を報告せよ」
 剣を降ろし涙を拭う岩鬼の真横へ突如巻き起こった砂塵が晴れると――紅遠が立っていた。
 妖人としての超常の力を用い、目にも止まらぬ早さで疾駆してきたのは、泥だらけの革靴や服の裾からも見てとれる。
 紅遠の姿を視認した瞬間、岩鬼を始め全ての軍人が、仕事を遂げた国主へ最上級となる臣下の礼をとるべく片膝を付いた。
「紅遠様、ご報告を致します! 美雪殿は、妖術を駆使してなお――正気です!」
「……誠か?」
「はっ! 間違いがございません! 治癒、そして結界の妖術を使ってなお、紅浜国全体や兵士の身を案じておりました!」
「…………」
 沈黙を続けていた紅遠が、ゆっくりと美雪の方へ視線を向ける。
 信じられないものを見ているとでも言いたげな顔をして、美雪と目が合った。観察でもされているかのような視線に耐えきれず、おずおすと美雪が口を開く。
「……あの、紅遠様? 私は岩鬼様の許可も得ず、自らの意思で勝手なことをしてしまいました。咎めならば、甘んじてお受け致します」
「……私を目の前に見て、どう思う?」
「え?」
「大切な問いだ。答えよ。それによっては――斬る」
 剣呑なことを言っているはずなのに、凜とした紅遠の声は心なしか上擦っている。
 長い睫が頻繁に瞬きを繰り返しており、動揺しているのを美雪は察した。山凪国にいた頃ならば『紅遠様は私などが推し量るべきではない、偉大な御方です』と謙遜しながら、心なく形式的に相手を立てる発現をしていただろう。
(何で、でしょう……。嘘を吐きたくありません。多少、不敬でも……。正直にお答えしたい)
 無礼者と叱られるかもしれないが、美雪は紅遠に抱いている正直な印象を述べる。
「その……。尊き妖人様かと。御国や暮らす民のために尽力なさる、傾国なんて異名が付くのが信じられない、御立派で責任感のお強い鬼人様かと思います。お料理を口にしてくださらなかったり、お部屋やご自身へ近寄らせてもいただけない冷淡な部分はございますが……。それも国主としての強い警戒と責任感。自身の成すべき任へ懸命に取り組まれているが故の、美徳かと……」
 思っていたよりも口が動いてしまったと、美雪は口元に手を当てた。
 妻としてこうあるべきなのに信用してもらえない悲しさが、まるで苦言のように溢れ出てしまった。美雪がそう気がついて弁明しようとすると。
「そう、か。……良かった」
 紅遠は優しい声音で予想外の言葉を発し――小さく笑みを浮かべた。
(何て、美しい笑顔なのでしょうか……。普段は厳めしく冷たいお顔ばかりなのに。紅遠様は、そのような表情も浮かべるのですね)
 美雪が鳥のように目を見開いたのを見て、紅遠の表情がハッとする。
 紅遠が軽く周囲を見渡せば、片膝を付いている軍人たちも安堵の表情で、岩鬼に至っては涙を流している。
 紅遠が片手で顔を覆い、小さく顔を振った。
 そうして、表情を引き締めなおした紅遠が口を開く。
「良くやってくれた。そこの者も、血塗れなのに傷が塞がっている。美雪が救ってくれたのだろう?」
「紅遠様より授かった妖力のお陰でございます。普段の私の妖術では、とても……」
「……そうか。それでも、実績は実績だ。この者が今後も後遺症なく生きられるのは、美雪がいたという事実があったからだろう」
 紅遠の言葉に、美雪は胸がじんわりと熱くなる。
(こんなにも……。自分がした何かを誰かに認めていただけて、お褒めいただけるなんて……。こんな感情は、初めてです)
 感じたこともない温もり、感情。潤む瞳から涙がこぼれ落ちないように耐えていると――。
「――だからこそ、これ以上は私に近付くな」
「……ぇ」
 やっと認めてもらえる。信用してもらえる糸口を見つけた。
 そう思っていた美雪は――魂の抜けたような声を漏らす。たちまち身に纏う喪服のように顔色が真っ白になっていく。
「これは忠告だ。異論は許さない」
 どういうことなのか、美雪には理解ができない。
 嫁御巫として一人前とは言わないまでも、認められる功績を立てたはずだったのに。返って遠ざけるような発言を突き付けられてしまった。
(やはり、先程の発言が不敬だったから……。謝罪して、許していただかないと!)
 美雪がショックによろめきながらも、紅遠へ頭を下げようとすると――。
「――紅遠様、岩鬼国務大臣! ここにいらっしぃましたか……。外務省より、急報がございます!」
 急ブレーキをかけた車から飛び出るように降りてきたスーツ姿の男が、紅遠の前へ駆け寄って来た。
 その様子を見て岩鬼は礼を解いて立ち上がり、紅遠と男の間に立つ。
「外務長官殿ではないか。そのように慌てて、どうされた?」
「山凪国で――壬夜銀様が正式な国主へ就任しました! 襲名の儀を強行したとのことです!」
「なんと!? 銀柳様の四十九日法要どころか、崩御後まだ数日だぞ!?」
 死した妖人の魂が魂刀へ根付き安らぐまでの四十九日間は、喪に服するのが常識だ。
 それを無視して襲名の儀を執り行った。――壬夜銀自身の産み出せる魂刀に、山凪国の国主が脈々と魂や妖力を繋いできた魂刀を合一化させたのだ。
 国家間の戦争などにより国主不在が存亡の危機になる状況であれば、前例はある。
 だが、山凪国は危急の状況にはない。
 落ち着いて天寿を全うした銀柳の魂が安らぎ魂刀として定着する前に、己の魂刀へ取り込むなど――祖霊への敬意を欠く、有り得ない行為。国内のみならず、国外からも強い反発が予想されるほどの冒涜的行為だ。
「そのような暴挙を行った妖人に、家臣団は付いてくるのか? 年若い臣や不遇を被っていた一部はともかく、名君と謳われた銀柳殿を慕う者は相当に多いはずだ」
「そ、そこまでは……。内偵の情報が入っておらず、あくまで急報のみですので」
「やむを得んな。……肌がざわつく。嫌な時代の潮流がする予感、か」
 怪異の去った戦場を、そして遠き山々を見渡し紅遠は呟く。
 銀柳を生涯の師であり、最愛の友であると公言していたのを知っている岩鬼は、主の無念を思い切なげな表情を浮かべた。
 声をかけることは躊躇われるが、一国の政治を一手に任される責務から岩鬼は
「紅遠様……。壬夜銀様の御代になられたとはいえ、山凪国は同盟国です。正式に国主となられた以上、早急に挨拶へと赴かねばなりません」
 そう、紅遠に上申した。
 感情を押し殺した岩鬼の声に、紅遠も頷く。
「ああ、そうだな」
「ここは、国務大臣として国家の大事を預かる某が再び――」
「――私が行こう」
 岩鬼の言葉を遮る紅遠の言葉は、有無を言わさぬ力強いものだった。
 それでも、岩鬼は再度確認せずにはいられない。それだけ信じられない言葉だったから。
「……失礼ながら、今なんと仰りましたか?」
「私が行くと申したのだ。銀柳殿は、壬夜銀の行く末を案じていた。直接話し、過ちを犯しそうなら一度忠告をすべきだろう」
「で、ですが! もし壬夜銀殿が同盟を急遽破棄し、紅遠様に襲いかかれば! 御身や魂刀が破壊されれば――」
「――周辺国にも、大々的に宣言しよう。国主になったことへの祝いだけではない。朝原家に、婚礼の挨拶をしに参る、とな」
 結婚とは、家と家の結びつきでもある。
 それは妖人と嫁御巫であっても変わらない。
 むしろ嫁御巫と妖人の絆は、非常に重要視されることから――遺恨なく挨拶も行う必要があるとされてきた。
 古来よりの伝承で、嫁御巫が御巫ではなく嫁と称されるのは――その関係性が、嫁御巫の操る妖術にも関与すると伝えられてきたからこその風習だ。
 それだけに婚礼の挨拶とは神聖な儀式であり、誰も邪魔するべきではないと暗黙の掟がある。
「何と!? た、確かに……。それならば、事前に美雪殿の嫁入りを認めていた山凪国は手を出せない。もしも新郎として義を果たすべく参る紅遠様に手を掛ければ、周辺国は全て山凪国の敵に回る。銀柳様への不義理に加え、そのように筋違いな真似をすれば……。妙案、かもしれませんな」
 岩鬼が唸りながら、承諾する。
 だが岩鬼の中には、壬夜銀が想像を絶する愚物だった場合の懸念もある。
 四十九日法要を無視して襲名の儀を強行するような妖人だ。後先考えず、短慮に走る可能性も捨てきれない。
 そんな中、話を聞いていた美雪が
「私も、紅遠様と一緒に参りたく存じます」
 自主的に、そんな発言をした。
「美雪殿、それは危険です!」
「岩鬼様は、私が未熟ながらも守護の結界を張れたのをご覧になっていたかと思います。いざという時には、事を荒立てず紅遠様の盾にもなれるのではないかと……」
「それは、そうではありますが……」
「……誰かに命じられた役割ではなく、私も自身の意思で皆様のお役に立ちたいのです。差し出がましい申し出ですが、ご検討をいただけないでしょうか?」
 美雪は紅遠と婚礼を結ぶ当事者だ。婚礼の挨拶というのであれば、夫婦揃って朝原家へ行くのが通常の流れではある。
(あの家に行くのは身が震えますが……。せっかくいただけた役目から逃げたくはありません。紅遠様に、もっと信用していただくためにも、勇気を出さなければ)
 岩鬼はメリットとデメリットを秤にかけ、何も言葉を発せない。弱り切った表情で紅遠へと視線を向ける。
「美雪、私の言葉が聞こえていなかったのか? これ以上は、私に近付くなと言っただろう」
 ドスの利いた声、射竦めるような眼差しに、美雪の身体が強ばる。
 それでも美雪は
「承っておりました。……同時に、私の好きにしろという御言葉も頂戴していたかと……。ダメ、でしょうか」
 自由に生きていい。好きに生きていいと申しつけられた生き方に戸惑っていて、さじ加減が分からない自覚が美雪にはある。
(私の発言が自由の範疇を超えて我が儘であったならば、教えていただきたいです……)
 悲しそうに視線を俯かせる美雪と紅遠の間に、静寂の時間が流れる。
 やがて紅遠は、美雪の横を通り過ぎ紅浜国へと繋がる門へ歩みを進め――。
「――美雪の好きに生きろ」
 そう、告げた。
 小さくとも、よく通る紅遠の言葉に美雪はバッと顔を上げる。
「はい! ありがとうございます!」
 心なしか弾んだ声で、紅遠の背にそう返事をした。
 夜の闇も徐々に濃くなっていく。
 初陣を終えた美雪は、岩鬼と共に自動車で館へと戻った――。


 美雪が初陣を終えた深夜。
 日付が変わった頃――紅遠は、夢を見ていた。
(……また、この夢か。近頃は見なくなったというのに)
 国主となってから暫く、うなされてきた悪夢だ。
『紅遠。そのような遅い剣では、怪異どころか羽虫も斬れんぞ』
 銀狼の妖人である銀柳は白銀の長髪を靡かせ、風に揺れる柳の枝のようにヒラリと身を躱す。
『銀柳殿、その足裁きは教わってない!』
『教わるのではない、盗め。口答えをしている暇はあるのか? 首と胴が離れるぞ?』
『くそぉおおおっ! 僕は、強い鬼人になるんだ! 父上に、安心して国を任せられると言ってもらえるように!』
 重要な同盟国として、山凪国と紅浜国の社交パーティが終わると――紅遠は、こうして庭園で銀柳から剣を習っていた。
(楽しかった時など……。今の私には振り返っている余裕がないというのに。父上から託された国を護らねばならぬというのに。何故、この悪夢は私に付きまとう……)
 未練や過去は捨て、今後を生き抜く思い出――いや、決意へと変えたはずの過去だった。
『おいおい、紅遠。――敵が一人とは限らないぜ?』
『なっ!? 父上!? 熱、熱い!』
『はっはっは! 早く妖力で消化しないと、火だるまになるぞ~』
『ふむ、戦場では油断が命取り。紅遠よ、朱栄の言葉を魂に刻むのだぞ』
 幼い子にしか見えない、十一歳の紅遠を大人の二人が笑みを浮かべながら攻撃している姿は、傍目には異質だった。
 しかし、それも実力社会を生き抜くための愛だと紅遠は分かっていた。
『妖力を相殺……。これで、どうだ! よし、銀柳殿! 父上、もう油断はしないよ!』
『はっはっは! やるな~。我が子ながら、将来有望だ。妖力の扱いが上手い』
『親バカという奴か。……いや、確かにな。紅遠は剣に関しても、天賦の才がある。――磨きたくなる子だ。うちの馬鹿息子にも、爪の垢を煎じて飲ませたい。願わくば、手を取り合い共に成長してほしいものだ』
『上から目線で、また僕を! すぐに一本取ってやるからな!』
 威勢の良い幼子だった。
 着物姿の朱栄と銀柳は、互いに見合いながら笑みを交わし――。
『そんなら、いっちょ俺様が分からせてやるかな~』
『うむ。己が未熟さを知り、糧とせよ。その生意気な口が、いつまで叩けるかな?』
『僕が二人を倒すまで、ずっとだ!』
 結局、妖力を駆使した戦闘の達人である朱栄と、剣術を駆使した戦闘の達人である銀柳の愛情溢れる指導が長々と続き――。
『畜生……。次は、次は負けない。鍛錬を積んでやるから、また来いよ銀柳殿!』
『天を仰ぎ地に伏せながらも、口は減らないか。……それでこそ我が愛弟子にして最愛の友だ』
『はっはっは! 身体が成熟する年齢の頃には、本当に俺様たちがやられてるかもな。鬼のような成長速度だぜ』
『僕は、最強の鬼人になるんだ! すぐに、明日にでも二人を超えてやる!』
 鍛錬が終わると、言葉遊びで交流を深める三人は、友として笑い声を響かせた。
 そこへ艶やかな黒髪をした一人の女性が、紅遠の視界に映る。
『――今日も鍛錬、お疲れ様でした。はい紅遠様、手拭いですよ。汗をお拭きください』
『ありがとう、正子さん』
 幼い紅遠は漲る妖力と闘志を引っ込めずに、正子と呼ばれた女性から手拭いを受け取ろうとして――。
「――私に触れるな!」
 視界が、移り変わった。
 城の庭園であったはずの景色は、小さな六畳程度の和室になっている。
 部屋の隅では、西洋から輸入した振り子時計が揺れている。
 はぁはぁと荒い息を整え、夜着である黒い浴衣で寝汗を拭う。
「……美雪と正子を、重ねるな」
 ぼそりと、紅遠は呟く。
(美雪は、自由に生きればいい。私に構わず、紅浜国と己の利になるよう生きればいい。……理不尽な仇討ちなどという私情で、国益を損ねてはならない)
 それは、自分自身に言い聞かせているようでもあった。
 時計に目を見やると、怪異が再び活発となる丑三つ時までは、まだ時間がある。
 しかし眼が醒めて――悪夢の続きを見たくない紅遠は、今を生きることにした。
 布団を片付け、畳んであった洗い立ての軍服へ身を包む。
 渡り廊下を通り洋館に入ったところで。懐中時計を確認する。
 時計の針を見つめ少し考えてから、眠っている人間を起こさないよう静かにドアを開け巡邏へ出た――。
 美雪の初陣から、翌早朝。
 車と早馬を飛ばし、訪問の許可を取り戻ってきた使者の言葉を確認してから美雪と紅遠は山凪国へと向かう。
 それぞれ、別の車。別の馬車でだ。
 それを美雪は、やはり寂しく思う。
(形式ばかりの夫婦である。嫁御巫としての必要に迫られた時以外は近付くな、と……。そういう意思表示でしょうか……)
 山凪国へ向かうとあって、折檻されてばかりだった頃を思い出し卑屈になっている節もある。
(あの頃に比べれば、これぐらい遠ざけられられことは何でもないはずなのに……。何故、こうも心が揺れるのでしょう。やはり、自由の範疇を拡大解釈して御迷惑をかけておりますよね……)
 湧き上がる感情に美雪は戸惑う。
 この覚えのない感情による我が儘にも似た言動のせいで、自己嫌悪のような感情に陥る。
 それでも込み上がる言動は止められないのが、どうしようもなく申し訳なく思っていた。
「いっそ、また山凪国で折檻をされれば……。あの頃のように感情を押し込めるのでしょうか」
 本心から望んで出た言葉ではない。
 紅浜国で過ごした時間はごく短時間なのに、以前とは考えられないほどに充実している。
 不安定な自分の心が理解できず、答えの出ない思案を巡らせている間に、山凪国へと着いた。
 順序としては先に国主就任の祝いを述べるのが先なのだが、壬夜銀から指定された時間の都合上、朝原家へ先に婚礼の挨拶に向かうことになった。
 馬車から朝原の屋敷前で降りると
「遠路はるばる紅浜国から足をお運びいただき、ありがとうございます。紅遠様」
「荒ら屋ではございますが、どうぞ中へ」
 朝原家の当主にして美雪の祖父である冬雅と、次代当主である双次が出迎える。
 美雪の方には視線すら向けず、貼り付けたような笑みを浮かべていた。
「出迎え、痛み入る。それでは、暫しお邪魔させていただこう」
 黒い羽織袴を纏う紅遠は無表情で返答し、先導する二人に続く。
「…………」
 美雪は、怪異を前にした時と同じ――いや、それ以上に足が重かった。
(自分で言いだしたことです。……怖じ気づいては、いけません。逃げるなんて、許されません)
 美雪は白い喪服越しに自らの足の皮をギュッと抓り一歩を踏み出し、屋敷の敷居を跨ぐ。
 そうして先導する冬雅と双次、こちらへ半身で視線を向けている紅遠の元へと急いだ。
 通された豪奢な応接間には、古い名家らしく真新しい畳によるイ草の香りや、豪奢な花瓶に掛け軸が飾られていた。
「遅くなったが、これは結納金と我が国特産の絹織物だ。朝原家は神州伝統の文化を大切にすると見受けられる。着物にでも使ってくれ」
「これは……。何と見事な。ありがたく頂戴致しましょう」
 自分は結納品などを美雪に持たせていないのにも拘わらず、冬雅は紅遠の差し出した金と贈り物を迷うことなく受け取った。
 美雪は、感情を押し殺した暗い顔で
(朝原が名家と呼ばれたのも、昔の話。名家としての暮らしを維持する金子に困っているなど、私でも知っております。お爺様の振る舞いが恥ずかしい……。紅遠様も呆れられているでしょう)
 美雪は紅遠の顔を見ることもできず、大人しく正座して空気と化していた。
 嫁入りするはずなのに、話を振られることもない。
 冬雅や双次は、ひたすら紅遠に紅浜国とはどういう国、文化的特徴や政治情勢、怪異からの防衛体制があるのかと尋ねている。
 国家に仕え政治に関わる立場で、継承者や嫁御巫を排出している家系であるから、同盟国の訪問者に尋ねるのが全くの筋違いとは言えない。――だが婚礼とは、一切関係ない。
 まるで、深い内情を知りたいかのような必死さだった。
「――ところで、この場にいる育て親とも呼べる二人に、美雪のことで聞きたいことがある」
 紅遠が尋ねた瞬間、空気が凍った。
 全員が動きを止め、やがて慌てたように冬雅が頭を下げた。
「申し訳ございません! うちの孫は本当に無能で、迷惑をかけてばかりかと思います!」
「し、しかし! 嫁御巫見習い、使用人以下で働きも出来ない姪を選ばれたのは紅遠様です。どうか、我が家の責は問わないでいただきたい!」
「ええ! 不要であれば、また朝原の家で引き取ります故、何卒!」
 媚びるように頭を下げる冬雅と双次の言葉に、美雪は――ここ数日、温まっていた心が急速に冷えていくのを感じた。
(そうでした。私は、調子に乗っていたのでしょう。これこそが、本来受けるべき私の評価……。不要で、たらい回しにされる物も同然の存在。分かっていたはずなのに……)
 顔を沈鬱に項垂れる。はらりと、耳にかかっていた長い黒髪が滑り落ちた。
「勘違いをするな。美雪は嫁御巫としてよくやっている」
「……ぇ?」
 美雪は、思わず声を漏らした。
「先日の怪異との戦闘では、重症者を後遺症も傷跡もなく治癒させた。嫁御巫全体としてみれば、確かに力は弱いのかもしれない。――だが、見習い以下。使用人以下の扱いを受けるような非才さではない」
 紅遠の言葉に、居並ぶ面々は目を剥いている。
「嫁としても、だ。家事や学ぶべきことに対し精力的に取り組んでいると、使用人頭から報告が来ている。……とても、そなたらに無能やクズと悪し様に呼ばれる娘とは思えん」
 美雪の瞳が、じわりと滲んだ。
(そのように評価していただけてる様子なんて、まるでなかったのに……。近付くな、関わるなと仰っていて……。こんな庇うような発言をしていただけるなんて、思ってもみませんでした……)
 あぐあぐと、何を喋っていのか分からない様子の二人に、なおも紅遠は言葉を繋ぐ。
「私が問いたかったのは、美雪の教育についてだ。……これだけ立派な屋敷を持つ名家の出自でありながら、美雪は淑女教育を一切受けていなかった。何故だ?」
「そ、それは……。我が孫は、その……」
「……やはり、母親の罪で差別をしていたのか? それとも、この家の娘は全員が教育不足か?」
「我が娘、玲樺は違います! 立派な淑女です!」
「それでは、やはり美雪だけ差別していたとの認識で相違ないな? 事件当時、二歳であった娘に……母親の犯した罪で差別をした。それでよいのだな?」
 詰問するような紅遠の口調に、冬雅や双次は答えられない。
 忌々しげに口元を歪めるだけだ。
 そんな時――。
「――ご歓談中、失礼します。壬夜銀様の使いが参りました」
 一人の使用人が、正座しながら襖を開き要件を告げた。
 瞳に炎を宿していた紅遠は、小さく息を吐く。
「美雪、行くぞ」
「は、はい」
 美雪を伴い、去ろうとする。
 それを止めたのは、使用人の言葉だった。
「し、失礼ながら、壬夜銀様より紅遠様のみ通すようにと仰せつかっております」
「……何?」
 僅かに声を低くした紅遠に、使用人は平伏して震えながら、必死に伝言を伝える。
「国主同士お二人だけで話したいと! 妻や嫁御巫とはいえ、余人を立ち入らせたくないとのことです! どうか、どうかお許しを!」
 紅遠は少し悩んだ後、頷いた。
「分かった。国主と面会が叶うのは、国主のみ。それが壬夜銀殿の言い分か。事前に文で二人参ると伝え、了承したのを覆すのはいただけないが、それはそなたに言っても仕方がない。……郷に入っては郷に従おう」
 ほっと、空気が緩んだ。
「そ、それでは! ワシら二人が城までの案内を致します!」
「ええ、国賓に無礼があったら、壬夜銀様にお叱りを受けますので!」
「……承知した。美雪、先に馬車で待っていてくれ」
「……かしこまりました」
 ぺこぺこ頭を下げる冬雅と双次に促され、紅遠たちは応接間から出て行く。
 美雪は、まるで使用人のように三つ指ついて紅遠を見送った――。

 美雪が紅遠を見送り、座布団から立ち上がろうとすると
「随分と、あの傾国の鬼人に取り入ったみたいね。流石は、売女の娘といったところかしら?」
「あらあら、そのように言っては可哀想よ。鬼人様も妻として娶った手前、顔を立てないわけにはいかなかったのではなくて?」
「……玲樺さん、和歌子様。いらしたのですね」
 美雪の従姉妹であり壬夜銀の側室の玲樺と、正室の和歌子が入室してきた。
「当たり前でしょう。ここは私の家なのですから。……もっとも、今日は何処かの恥知らずが家に戻ると聞いたから、和歌子様と笑いに来たのですけどね」
「興が削がれましたわ。もっと泣きながら捨てないでと縋る、みっともない嫁御巫紛いの姿が見られると思っておりましたのに。……貴女のような半人前以下と、同じ嫁御巫扱いされるだけでも我慢なりませんわ」
「…………」
 美雪は暗い瞳で、机の上に残された茶を見つめる。
(このお二方は、私を嬲って憂さ晴らしをしたいだけ。私が我慢していれば、いずれ飽きて去るでしょう)
 この家にいると、美雪はどうしても思い出す。
 甚振られて当然。反抗することも許されず、自傷しようとしても治されて――自由に生きる権利も死ぬ権利も与えられなかった日々を。
「何とか言ったらどうなの? 和歌子様が話しかけてくださってるのよ?」
 美雪は、何も言葉を発しない。
 どんなことを言ったところで、無駄だと知っている。苛立ちをぶつけたいがために来た者に何を言っても、神経を逆なでする取られ方をすると学んできた。物心がついた時から、文字どおり身に刻まれている。
(私は紅遠様をお護りするために来たというのに……。城にも入れず、一体何をしているのでしょうか)
 心の中で自分に問いかけても――自己嫌悪に陥るだけだった。
 未来は誰にも分からないとはいえ、ここまで役立たずで不毛な結果になるなどとは予想していなかった。
(せめて、盾ぐらいにはと思っていましたが……。自ら傷口に塩を塗るだけとは。愚かで無能な嫁御巫と言われても、当然ですね)
 無反応な美雪の反応がつまらなかったのか、玲樺と和歌子は忌々しげに顔を歪めた。
「その白い喪服は、何のつもり? 嫁いだというのに、まだ銀柳様へ操を立てて一途です~と主張でもするつもりなの? 汚らわしい」
「本日は婚礼の挨拶で朝原家へいらしたのですよね? それなのに喪服だなんて、無礼だとは思わなかったのかしら?」
 紅遠から買い与えられた白い喪服を馬鹿にされ、美雪は一瞬ピクリと反応してしまう。
 場違いなのは理解していても、大切にしたかった――お気に入りの服だったから。
 そんな美雪の反応を、二人は目聡く見つめた。
「あらあら~、玲樺さん。よく見れば、無能な嫁御巫様には似つかわしくない上質な布だとは思いませんか?」
「ええ、和歌子様。豚に真珠とも言います。相応しいように正すべきだと思いますね」
「そうですよねぇ~。どうしましょうか。引き裂くというのも、芸がないですわよね」
「……それだけは、どうかご勘弁をお願い致します」
 美雪が土下座をして懇願した。
「私を折檻なさりたいのであれば、喜んで裸になります。……どうか、この白い喪服だけはお許しください」
 必死に懇願する美雪を見て、玲樺と和歌子は声を上げて笑った。
「冗談ですわよ、私たちがそんなに酷いことをするわけがないじゃないですか」
「そうですよね。この朝原家の面汚しは私たちをどのような悪人だと思っているのでしょうかね」
 畳の上を歩き周り、二人は色々な角度から土下座する美雪を見下ろす。
 自分の耳のそばを摺る足音に耳を傾けていると
「あっ、座布団に躓いてしまったわ」
 わざとらしい玲樺の声が聞こえ――美雪の頭を伝い、温くなった茶が畳に零れ落ちていく。
「あらあら、玲樺さん。大丈夫ですか? こんなところに座布団があるのがいけないですわね」
「ええ、和歌子様。事故で、たまたま下にあった白い喪服へお茶が零れたのも座布団のせいです」
 土下座を続けていた美雪の口に、茶の味が広がった。
 悔しさと紅遠への申し訳なさで開いた口に、垂れてくる茶が入り込んだのだ。
「玲樺さんのお陰で、白い喪服が芸術的に染まったじゃありませんか。これはむしろ、お礼を言われるべきなのでは?」
「そうですよね、和歌子様。芸術が気に入らないのなら、早く国へ帰って着物を洗うべきでしょうね」
「それがいいですわね。――さて、満足です。私たちは、これで失礼しますわね」
 廊下に出て高笑いをする二人に、美雪は畳へ顔を伏せるように脱力する。
(ああ……。私は、紅浜国で何を調子の乗っていました……。必要とされている、お役に立てるだなんて思い上がりを……。私の生涯など、こんなものだと刻み込まれていたはずでしたのに……。紅遠様、折角のいただき物を汚してしまい、申し訳ございません……)
 初めて誰かに与えられた贈り物すら、自分は護り通せなかった。
 こんな有様で何が国や人を護る嫁御巫だと、美雪は声を押し殺して泣いた――。
 
 美雪が文子と玲樺、和歌子から嬲られ涙しているのと、ほぼ同じ頃。
 山凪国の城では壬夜銀と紅遠が君主同士、顔を付き合わせていた。
 座敷の座布団に胡座をかいて座る壬夜銀。国主に対する礼節を弁え、正座する紅遠。
 壬夜銀の態度は、紅浜国は対等な同盟国ではない。属国紛いの格下だと言わんばかりの横柄さであった。
「……壬夜銀殿。此度は段取りを飛ばした性急なこととはいえ、先ずは国主への就任にお祝い申し上げる」
 そう述べる紅遠の声に、壬夜銀はニヤリと笑った。
「親父殿の葬儀では世話になったな紅遠殿。山凪国主が代々受け継いできた魂刀は、無事に俺の魂刀と合一化を果たした。もう貴殿に妖力で遅れをとることもない」
「魂刀が受け入れた以上、私から何かを言うことはない。……今日はただ、同盟国として国主襲名の挨拶に来たのみ」
「何だ、つまらん。――妖人として、俺とどちらが上か勝負してみたくはないのか?」
「興味がない。国主である私は、国家国民の安寧へ尽くすのみだ」
 挑発する壬夜銀の言葉に、紅遠は乗せられない。
 淡々と語る紅遠の貫禄に、壬夜銀は面白くなさそうな顔を浮かべる。
「そういえば、紅遠殿。俺から奪った嫁御巫とは、楽しんだか? それとも、もう壊したか?」
「……美雪は、私とは離れて暮らしている」
「はっはっは! 婚礼の挨拶も兼ねて山凪国へ来たと聞いたが、思った以上にあのゴミへ執着しているらしいな」
「私がいつ、そのようなことを言った?」
 紅遠の問いに壬夜銀は――灰色の妖気を滲ませ口を開く。
「その瞳から溢れる妖力に聞いたらどうだ? 妖人としての誇りを挑発しても乗らなかった鬼人殿が、一人の嫁御巫を貶された程度で瞳に怒りを滾らせているのだからな」
「…………」
 紅遠は、自覚していなかった。
(こんな男に魂刀を託さざるを得なかったとはな……。銀柳殿の魂も苦渋の選択だったことだろう。銀柳殿が馬鹿息子と表現し憂いていた気持ちが、痛いほどに分かる)
 銀柳から稽古をつけてもらう度、紅遠は毎回のように跡継ぎについて思い悩む銀龍の言葉を耳にしていた。
 国力に差があるとはいえ、この無礼な態度を見れば――虚け者だと理解するには十分だ。
「紅遠殿、知っているか? 俺は何でも手に入れたく、誰かに物を奪われるのが嫌いでなぁ」
「…………」
「特に、俺から奪った相手が、それを大切に扱っているのを見ると――壊してやりたくなるんだ」
 にたりと笑う壬夜銀には、誇り高き銀狼の妖人らしさはなかった。まるで犬型をした怪異のようであると、紅遠は顔を顰めた。
「貴様は、歪んでいるな。銀柳殿も、さぞかし嘆いていることだろう」
「はっはっは! まさに鬼の様な妖力、これだ! 鬼人の怒りが心地良いと感じるとは、やはり俺は強くなった! 親父殿や先祖には、感謝しているぞ!」
「誇りを繋いできた魂刀を、己の妖力増幅装置としかみていないとはな。長い縁のある同盟国として……。同じ国主としても、貴様には成長してほしいものだ」
 紅遠は、要件は済んだとばかりに立ち上がる。
 元々、国主就任の祝いを述べれば同盟国としての義理は果たしたことになるのだ。これ以上、長居をすれば――血気に逸り、手が出るかもしれないと感じた。
「これで私は失礼する」
「何だ、もう帰るのか? いや、惜しいと感じさせる辺り――流石、傾国の鬼人と呼ばれるだけはあるか。成長した俺でも、その妖力を浴びれば精神に多少なり影響を受けるのだからな。美しい顔、佇まい、声――妖力。噂通り、これはたまらんなぁ」
「……私を煽っても無駄だ」
「いや、すまないな。俺はただ、本心を話しただけなんだが?」
 余計に気味が悪いと、紅遠は返答もせず出口へ向かい身を翻す。
「傾国の鬼人という二つ名の由来は、変わり者の奇人と、その容姿の端麗さのみではないな。――力関係も弁えない愚人。それさが新たに加わり、伝えられるだろう」
「……何とでも言うがよい」
「――たとえ魂刀を失い妖人としての価値がなくなったとしても、その魅力的な妖力は惜しいな。亡国の鬼人なった際には、俺が可愛がってやろうじゃないか」
 醜悪な言葉に、押さえ込もうとしても紅遠の妖力が溢れてくる。
 妖力を漲らせれば漲らせるほど、この狂った銀狼の新国主を悦ばせるだけだと理解しているのに、紅遠は止められない。
(同盟国としても、同じ国主としても耳を疑う言葉ばかりだ。……早く国元へ帰り、今後のことを再検討せねばならんか)
 足早に去る紅遠の背中へ、壬夜銀は
「またな、傾国の鬼人殿」
 そう声をかけた。
 紅遠はもう振り返ることも返答することもなく、無言で城を後にした――。

 城の前まで迎えに来た馬車の前では、美雪が顔を俯かせ待っていた。
 喪服姿で顔を青ざめさせている姿に、紅遠は怪訝に思う。
(不要だと言っても頭を下げてきたり、どうだったか尋ねてくるかと予想していたが……)
 美雪が頭を下げて紅遠を迎えられないのは、背中に染みてしまった茶の跡を見せたくなかったからだ。
 朝原家で何が起きたかなど、紅遠は知りようがない。
「そのような暗い顔をして、どうした?」
「……元から、このような顔でございます」
「そんなことはない。紅浜国を出る際は、もっと晴れやかな顔をしていた」
「……お恥ずかしい限りです。せめて顔を俯かせ、ご不快な顔をお見せしないようにしたく思います」
 明らかに元気を失っている美雪に、紅遠は何があったか尋ねて元気づけようと一歩踏み出して――我に返る。
(私が行えば、逆効果だな。思いやりを言動に移すのは、菊や岩鬼に任せればよい。……過ちを、繰り返してはならない)
 グッと歯を食いしばり、紅遠は美雪から視線を外して自分用の馬車へ乗り込む。
 山凪国へ婚礼の挨拶も兼ねた外遊は、訪れた二人の胸に靄をかけて終わった――。

 紅遠と美雪が紅浜国への帰路についている頃、山凪国の城では冬雅と双次の男が恐怖に全身を震わせ平伏していた。
「紅浜国の内情を探る前に、話を打ち切られた、だと?」
「も、申し訳がございません壬夜銀様! 可能な限り、あの鬼人から情報を引き出そうとしたのですが……。あの不出来な孫について、思った以上に深く尋ねられまして!」
「あのままでは鬼人が怒り、我々は斬られていたやもしれません! そんなことになれば、山凪国と紅浜国の戦争の火種となりかねず……。黙るしか選択肢がございませんでした!」
「鬼人の怒りが、どうした? 戦争だ? 望むところだろうが」
 声を弾ませる壬夜銀の言葉に、冬雅と双次は思わず視線を僅かに上げる。
「し、失礼ながら、今……。何と申されたのでしょうか?」
 冬雅の言葉に、壬夜銀は大きく溜息を吐いた。
 こんなことも分からないのかと呆れたような息一つで、二人は冷や汗を更に吹き出す。
「戦争とは、奪い合いだ。互いに欲しいものや護りたいもの、譲れないこと、自分に都合のいいことを押しつけ合うことだ。それが個人か、国家かの違いだけだろうが。勝者は敗者から全てを奪い、押しつける権利を得る。相手が傾いた弱小国で旨味があるなら――戦争なんざ、むしろ望むところだろうが」
 壬夜銀の御代となって、銀柳の国内の政治経済、軍事力を盤石に整える方針が大きく変わったことは、山凪国内で大きな話題となっている。
 古い名家とはいえ、今は重要な役職にも就いてない朝原家の二人は、壬夜銀の苛烈なまでの国土拡大政策、野心の大きさに驚愕せずにはいられなかった。
「国主の意も汲めない無能さとはな。……朝原家は、もっと没落したいらしいなぁ」
「め、滅相もございませぬ! 粉骨砕身、山凪国と壬夜銀様のために、この老骨と朝原の家は尽くします!」
 必死の形相で、悲鳴のような声を冬雅が発する。
 そんな様子に鼻を鳴らしながら、壬夜銀は胡座を解いて立ち上がり――。
「――俺の方針は、欲しい物は奪う。誰にも俺の物を奪わせないだ。それが神州全土だろうと、国を傾ける美貌を持つ妖人だろうと、ゴミ同然の嫁御巫だろうとだ。……後は、分かるな?」
 二人の返答も聞かず、一方的に告げ壬夜銀はズカズカと足音を鳴らし去って行った。
 禍々しいまでの妖力と重圧感が去り、やっと冬雅と双次は安心して息を吸える。
「……双次。壬夜銀様の御言葉、我々はどう動くべきだと思う?」
「策略を練らねばならないでしょう。……まずは、取りやすい駒から取る。そして、取りやすく盤面を動かすのが定石です」
「つまりは、何故か美雪などを気に入ってるあの奇人に、心変わりを起こさせる……か」
「ええ。あるいは、美雪という駒が孤立せざるを得ない状況を作り出すなど……。それで本命が釣り出すのが定石かと」
 家の存亡、自身の命。
 朝原家を背負う二人は、生き残りの為に思索を巡らせ続けた――。

 山凪国から帰国してから数日が経った早朝。
 美雪は山凪国で虐げられていた悪夢にうなされ、陽が昇るよりも早く目覚めた。
 洗濯を終えた大切なもの――白い喪服へと身を包み、美雪は厨房に向かう。
「おはようございます、紅遠様」
「……ああ」
 軍服の裾を泥で汚した紅遠が、少しだけ振り向き返答をする。
 丑三つ時に活性化した怪異を退ける戦闘に、美雪は参戦を許されていない。
 岩鬼の監視の目がある逢魔が時の際にのみ、何とか同行させてもらっている現状だ。
(私が信用なんて、されるはずがございませんよね……。菊さん、岩鬼様。ご期待に添えない、役立たずで申し訳がございません。……紅遠様は、ゆっくり寝る間もなく毎日奔走されているのに、私は信用されることも求められることも……)
 連日、紅遠が館にいる時間は極めて少ない。
 菊が、いくら人智を超えた妖人といえども心配だと言っていたのも納得できる働き方だ。
 これでは――妖力が貯まる暇がない。それどころか、いずれは尽きてしまうのではないかと美雪でも不安に思う。
 国を護る役目のため、己の全てを犠牲にする覚悟で戦う紅遠の生き様に――美雪は、強い憧れと敬意を抱いていた。
「妖人を支える嫁御巫でありながら、主君より遅く目覚めてしまい申し訳ございません」
「つまらぬことを気にするな。寝不足では、今日の逢魔が時を乗り切れんかもしれんぞ」
 心なしか疲れた声で、紅遠は返答をした。
(やはり……お疲れのご様子。ここ数日、以前にも増して怪異が増えているせいでしょうか)
 昨日の逢魔が時、岩鬼から美雪が聞いた情報だ。
 理由は定かではないが、怪異が明らかに以前よりも多く紅浜国へと押し寄せているらしい。
 本来なら防衛を破られていたかもしれないが、紅遠が身体強化にも妖力を用い単身で戦場を駆け回っているお陰で、ギリギリ持ち堪えられているとのことだ。
(私の力も大きいなどと言ってはくださいましたが……。もう、調子に乗るような真似は致しません。図々しく口を挟まず、いただけた役目を全力で果たします)
 山凪国で自分の無力さと立ち位置を再確認させられたことが、美雪の心にへばり付いて離れない。
 虐げられることには慣れていても、大切なものがそもそも無かった美雪だ。大切と思えたものを護れなかったことが、経験したことがないほどに強く心を傷付けた。
 やがて料理を作り終えた紅遠は、見守っていた美雪の前を通り過ぎる際に
「家事に淑女教育、巫女修行も、山凪国から戻ってから一層と励んでいるようだな。休める時には、休め。……逢魔が時の防衛でも、倒れることは許さん」
「ありがとう、ございます」
「礼は不要だ。美雪の命を散らすのが許されるのは――その身に流れる血に恩讐を抱く俺だけだ。ゆめゆめ忘れるな」
「……はい」
 美雪の返答を聞き再び歩きだした紅遠の持つ盆に、乗せていた味噌汁が少し零れた。
 足下のふらつきを見ると、相当に疲弊していることが分かる。
 思わず支えようと手が出る美雪だったが
『これ以上、私に近付くな』
 紅遠から告げられた言葉が脳の中で再度聞こえ、手を止める。
 美雪はそのまま無言で、離れまで去って行く紅遠を見送る。
「……命じられた役割を、こなす。私のように能力不足な者が余計な真似をすれば、大切なものを失うだけ。……そう、ですよね?」
 洗濯をしても染みが少し残った白い喪服を擦りながら、美雪は紅遠の去った方角へ呟くように尋ねた。
 自分がどうすべきかも分からず、美雪は迷子のように顔へ不安を滲ませた――。
 
 忙しい日課を終え、今日も逢魔が時がやってきた。
 連日、数を増す怪異であったが――。
「――この数は、どうなっているのだ!? 美雪殿、もっと安全な後方で負傷者の治療をお願いします! 某の後ろからは、決して前に出てはなりませぬ!」
「は、はい。岩鬼様」
 この日は、美雪から見ても異常な数の怪異が押し寄せているのが分かった。
 黒い靄の怪異は地平線の彼方まで続き、黒い闇が大地を塗りつぶしているようにも見える。
 空を飛ぶ怪異は雲のようで、合間から差し込む逢魔が時の黄昏色の光がまるでカーテンのように地上へ降り注ぐ。
 岩鬼の中で貴重な嫁御巫として戦力に数えられている美雪は、それなりに激しい猛攻に晒される場にも参陣するようになった。
 それでも――この数は、歴戦の岩鬼ですら対応が困難なほどの異常性だった。
 半開きにした門の前で、最後の壁として立ち塞がる岩鬼も肩で息をするほどに疲弊している。
「くそ、この数では……。他の駐屯地の状況は!? 継承者をこちらへ回せぬのか!?」
「ダメです! 何処もギリギリのようで、こちらへ回す余力はありません!」
「くそっ! 持ち堪えろ! 倒そうと思うな、遅滞戦闘に努めよ!」
 岩鬼の指揮に、継承者たちは連携して押し寄せる怪異を押しとどめようとする。
 負傷兵が出れば、徐々に壁のように立ち向かっていた者が減る。
 怪異は着々と、門まで近付いてきていた。
「ぐっ……。畜生、畜生……」
「美雪様、お願い致します!」
 半開きになった門の後ろで待機していた美雪の元へ、重傷を負った継承者が運ばれてくる。
「は、はい」
 美雪はすぐに手に紅い妖力を込め、鮮血が溢れ出る傷口へ手を当てる。
 直接、美雪の手から治癒の妖術を受けた継承者の傷は、みるみる塞がっていく。
「お、俺は、助かったのか……。ありがとうございます、白き嫁御巫様。貴女様は、命の恩人だ」
「いえ……。私など、大した力はございません」
 血に染まった手を握りながら、美雪は卑屈なまでに謙遜をする。
 傷が塞がった継承者は、寝ている間は無いとばかりにすぐに立ち上がり、軍刀を抜いて門から飛び出す。ピストルを撃ちながら、再び戦列へと戻った。
 そうして負傷者が運び込まれてはすぐに戦線復帰してを繰り返していく――。
(――そこまでして皆が戦うのは……。紅浜国に、いえ……。紅遠様に厚き忠誠心があるからなのですね)
 戦場の至る所から、檄を飛ばす声が聞こえる。
「紅遠様の国に、貴様らを立ち入らせてなるものか!」
「我が祖国、我らが主の盾となって散るのは本望よ!」
「あの方がされている労を思えば、この程度の戦は何てことない!」
 紅遠が、如何に継承者や軍人たちから支持されているのか、美雪は皆の奮戦で理解する。
(ここまで慕われるなんて……。一体、紅遠様は彼らにとって、どのような存在なのでしょう。妖人というだけでは、ここまで人々は付いてこないはずです)
 人望厚き名君と謳われた銀柳に従う者たちでさえ、ここまで己が命を捧げる者は多くなかったはずだ。
 美雪は、紅遠がここまで敬服されるに至った経緯、半生すら教えてもらえない寂しさを打ち消すように、ひたすら治癒と守護の結界で補佐を続けた。
 そうして、しばらくが経過した頃――。
「――何だ、これは……。怪異たちが、一斉に進む方角を変えていくだと? このような現象……通常ではないぞ」
 門を打ち破ろうと進んできた黒い靄が、一斉に別の方角へと向かう。
 岩鬼が驚愕の声を発するのと同時に、美雪も肌に強い違和感を覚えていた。
「岩鬼様、僭越ながら……。少々、別の妖気が混じった術の気配のような、肌がひりつく感覚がいたします」
「何者かの妖術の気配を感じる……と? 分かりました。皆、警戒を怠るな! 今のうちに負傷者は治療を! 妖力を込めた銃弾も補充をしておけ! 何時、怪異が戻って来るか分からぬぞ!」
 美雪の言葉を疑うことなく信じた岩鬼は、声を張り上げてすぐさま指示を飛ばす。
 これが勘違いだったらと心苦しくなる美雪を余所に、継承者たちは水を補給したり武具の手入れをしたり、体力の回復をしながらも警戒を続ける。
 だが逢魔が時が終わり夜の闇が訪れても――怪異が再び姿を顕すことはなかった。
(私の、勘違い? やっぱり足手まといで場を引っかき回すしか、私には出来ないのですね……。余計な口を挟んだばかりに……)
 警戒を続けず素直に休息を取っていれば、丑三つ時の防戦が楽になったはずなのに。
 美雪が、そう自分を責めていると――。
「――伝令です! い、岩鬼殿! 今すぐ官公庁へお戻りください!」
「どうした、その慌てようは。何があったのだ? まさか……何処かの駐屯地が破られたか!?」
 車から駆け下りてきた、位の高そうな徽章を付けた軍服の男は――辺りを見廻し、岩鬼に顔を近づける。
「動揺を招くので、決して他者へ聞こえぬように……。御言葉にはしにくいのですが――紅遠様が怪異にやられ……棺に入ってお帰りになられました」
「なん、だと……。馬鹿な、紅遠様が……。どういう、ことだ? あの御方の力で、敗れるなどとは――」
「――そん、な。……それは本当、なのですか?」
 岩鬼のそばを離れるなという指示を忠実に護ろうとした美雪は、その声が聞こえてしまった。
 美雪は顔面を真っ青に変え、膝からアスファルトへ崩れ落ちる。
「……美雪様。残念ながら、事実でございます」
 伝令の軍人は、歯噛みしながら告げた。
 信じたくない言葉を告げられた美雪は、瞳を夜闇よりも暗くし首を振る。
「……棺に入って、紅遠様が戦場から? そんな、ことが……。私が、私が盾になれる、一人前の嫁御巫だったら……。こんな、こんな無能で役立たずな嫁御巫で、申し訳が……」
「……美雪殿」
「他の、他の嫁御巫様は!? 私では無理でも他の一人前の嫁御巫様なら、治癒の妖術が使えるはずです! 遠隔の地を護られているとしても、すぐに連れ戻せば――」
「――美雪殿!」
 半狂乱になるほどに動揺している美雪の肩を、岩鬼が掴む。
 肩に食い込むほどの力に、美雪は僅かながらも平静をとり戻した。
「今は動揺している間も惜しい。とにかく一秒でも早く駆けつけねば!」
「私は、合わせる顔が……。紅遠様のお顔を見る資格が……」
「弱気になられるな! 美雪殿も、某と共に行くのだ! 早く!」
「は、はい……」
 腰の抜けたように脱力した美雪は、岩鬼に引きずられるように車へと乗せられる。
 とんでもない速度で道路を走りガタガタ揺れる車内で美雪の脳内は真っ白になっていた――。

 官公庁の前では、物々しい装いをした一般兵が数十と警備をしている。
 そんな間を通り、岩鬼と美雪は駆ける。
「こちらです、お早く!」
 息が切れても美雪は疲れなど感じない。まるで宙を浮いているかのような不思議な感覚だった。
 岩鬼に腕を引かれ、汚れた白い喪服の裾を乱しながら全力で最上階を目指す。
 そうして紅い絨毯が敷かれた一室に
「紅遠様!」
 岩鬼が叫びながら、ノックもなしに駆け込んだ。
 室内では、白衣に身を包んだ医師やスーツ姿、軍服姿の高官が居並んでいる。
 一つの棺を囲むように立つ。その姿は、まるで葬儀のようだった。
 美雪は、ふらふらと幽鬼のような足取りで――。
「――紅遠……様?」
 棺の中で、傷だらけになり横たわる紅遠の顔を見て、棺の縁へ手をついてへたり込む。
 傷だらけになり目を閉じている姿は、青白い顔となっても――美しかった。
「一体……どういうことだ!? 何故、紅遠様が敗れる! この御方は、史上最強と謳われた鬼人様だぞ!? 何があったのだ!?」
 岩鬼の雄叫びが、部屋の調度品を震わせる。
 戦場の土埃で軍服を汚した男が一人、悔しげに拳を握り前にでる。
 重々しく口を開くと
「怪異の群れを紅遠様は、お一人で……。その結果が、これです」
「ふざけるな! たかが怪異の群れ如きに紅遠様が遅れを取るわけがなかろう!?」
「最も怪異が押し寄せた山凪国側の要塞へ、巡回されていた紅遠様が駆けつけられた時でした。他の門に押し寄せていた怪異も全て一斉に紅遠様の元へ……。膨大な妖力を消費して魂刀を顕現させられました」
「あの大軍……国中の門を襲っていた全てが紅遠様の元へだと!? それを、お一人で……。しかも魂刀を振るわれたとは……。それでは、連日すり減らしていた妖力が……」
 妖力とて無尽蔵ではない。
 海のように終わりの見えない大軍に対し、身体強化にも妖力を用いて駆け回った紅遠の妖力が付き――妖術を使えなくなる中、蹂躙されながらも奮戦する紅遠の姿が容易に想像できた。
「逢魔が時が終わる迄、妖力が尽きてなお奮戦し、殆どの怪異を単身討ち滅ぼされたのですが……。負った傷は、甚大でした。怪異に向かい立ったまま……」
 その背に紅浜国の民を背負い、最期まで――地に背を伏せることはなかった。
「目立たぬよう、殉死した将兵と同様に棺に入れて運べと指示された後、もう目を覚まさないのです……」
「ご、ご存命なのか!?」
「今は、まだ……。治療の甲斐も虚しく、徐々に妖力と呼吸が弱まっております。このままでは……」
「何という、ことだ……」
 岩鬼も両膝を床に突き、拳を振るわせている。
(まだ、生きて……いらっしゃるのですか?)
 美雪は、そろそろと紅遠に向かい手を伸ばし――。
「――美雪殿! 紅遠様に触れられては……。いや、妖力の尽きかけた今なら問題ないのか?」
「……岩城様。他に手がないというのなら、もう一度だけ我が儘をお許し下さいませんか?」
 山凪国で嫌というほど――思い上がっていた自分を叩きのめされた。
 自由意志など持つべきではなく、言われた通りにしていろ。喋るな、首を垂れて従え。余計な真似をしなければ、大切なものを穢されずに済むのだ。
 そう心に刻まれたが――結果はこうなった。何もしなかったとしても、失ってしまう。
 美雪は鎖に絡め取られたように鈍く、そろそろと紅遠の頬に両手を当てる。
「力至らぬ嫁御巫でも……。どうか、どうか! この御方だけは!」
 自分を山凪国という牢獄から――引きずり出してくれた美しき人。
 あらゆる鎖を断ち切り、大切な何かや考えること、未知の感情を教えてくれた――恩人。
「紅遠様、皆が……」
 単身、大海原の如き怪異の群れにも負けず、己が役割を遂げる――敬愛すべき鬼人様。
「皆が、貴方様をお待ちしております! どうか、帰ってきてください!」
 美雪の涙が雫となって顎先から落ち、紅遠の頬へぽとりと落ちる。
 身体中の血液を掌から全て注ぐような、銀混じり紅い妖力が――紅遠の身体へ流れていく。
「いくら美雪殿が癒やしの妖術を使える嫁御巫といえど……。やはり、難しいか」
 妖人の身体は、妖力の塊だ。
 人の身である嫁御巫が治癒を施したとして、焼け石に水。軽傷ならいざ知らず、命の灯火が付きかけているのでは……と、皆が目を伏せた。
 穴の空いた桶に、水鉄砲の水を注いだ所で……妖力が抜け落ちていくのは、防げない。
 それでも――美雪は諦めなかった。
「紅遠様、逝かせません! まだ、私の料理すら食べてないではないですか! まだ、港を案内していただいたり、街を練り歩いたこともないではないですか! まだ、一緒に戦ったこともございません! 嫁を岩鬼様に任せて……旦那様としての役目も、果たされてください!」
 慟哭とも呼べる声を上げ、ありったけの妖力を振り絞る。
 そうして一層――銀の多く混じった妖力が、紅遠の身体を包む。
「こ、この妖力は!? 懐かしき、この妖力は……」
 目を大きく見開いた岩鬼は、遠き思い出を振り返っていた。
 在りし日の……眩しい銀色の妖力を振りまきながら、紅遠と剣を交える銀柳。
 紅遠にとって、生涯で唯一人の師にして――最愛の友。
 銀柳の妖力を思い起こすほどに強く、類似した力を発した後――。
「――美雪殿!? 美雪殿、しっかりしてください!」
 意識を失い、崩れ落ちた。
 棺に横たわる紅遠に、白い喪服姿で涙を流す美雪が覆い被さるような光景だった――。

 紅遠は、遠き――辛い過去の最中にいた。
(私は今……走馬灯を見ているのだな。よもや、この思い出を最期にみせられようとは……)
 傾国の鬼人が誕生した瞬間。
 無意識に、大罪と――紅浜国を傾けるような事件を起こした瞬間だった。
『正子! 僕に何をするつもりだ!』
『……紅遠様。紅遠様のために、私の全てを……』
 正気じゃない瞳で、城の――紅遠の閨に這いよる正子。
『止めろ、こんなことをして許されると思っているのか!?』
 十一歳の紅遠が、恐怖に絶叫の声を上げ部屋の隅まで後ずさる。
 それでも正子は――微笑みながら、愛おしそうに紅遠の元へ這いよっていく。
 その瞳に理性はなく、意思もない。
 紅い妖力に――正気を奪われているのが、紅遠にも理解ができた。
『正子、落ち着け! 山凪国と紅浜国の……。いや、朝原家も唯では済まなくなるぞ!? 生まれたての娘が国で待っていると言ってたじゃないか!』
『ぁ……』
 一瞬、正子の動きが止まる。
 瞳では正気の優しい黒色と、紅い妖力が――せめぎ合っていた。
『朝原家の麒麟児として課せられた、この交換留学を終えて戻った時……。娘が覚えていてくれるか、また腕に抱かせてくれるか。不安そうに、それでも愛おしそうに僕へ語っただろう!?』
『ぅ、ぅう……』
『……さぁ、誇り高く優秀な嫁御巫として……母としての役割を思い出せ。正子、そなたは……よい母だろう?』
 それは、紅遠の優しさだった。
 最高の同盟国として山凪国で随一の――麒麟児とまで称される嫁御巫、正子を銀柳は交換留学生として紅浜国へ送り出してくれた。
 それからは愛おしい娘の分まで可愛がるかのように、紅遠を我が子の如く世話してくれた。
 炊事に洗濯、先日の稽古の時にあった、汗を拭くような些細なことまでだ。
 そんな優しい正子が正気に戻ってくれると信じて――紅遠は、慈愛の籠もった瞳で正子を見つめる。
 動きを止めようと、葛藤に藻掻き苦しむ正子の肩に優しく触れ――。
『――ぁ、ぁあああ! 愛おしき紅遠様……。紅遠様に、私の全てを捧げたいのです!』
 その瞳が、完全に紅く染まった。
『正子、止めろ! 離せ! 本当に、僕はお前を斬るぞ!?』
『愛おしき紅遠様の手でなら、斬られても満足です。私の全ては、紅遠様のもの……』
『止めろ、止めろぉおおお! 正子、僕が愛おしいというなら正気に戻れ! 戻ってくれ!』
 紅遠の絶叫が、城に響き渡る。
 すると、ドタドタと廊下を走る音が響き――。
『紅遠様、何ごとで――ま、正子殿!? 紅遠様に何をなされている!?』
 岩鬼が腰に佩いた軍刀を抜刀しながら尋ねた。
(岩鬼……。そうか、十七年前は、まだこうも若かったか)
 最早、命はない。最期の走馬灯だと諦めの境地にある紅遠は――ふっと笑いながら、この光景を黙って回顧する。
(私は……愚かだった。傾国の鬼人、奇人、愚人と嘲笑されても仕方がない。このような逆効果で……正子も、美雪も、父上や紅浜国さえ不幸のどん底へと陥れたのだからな)
 抜刀した岩鬼は、戸惑いながらも正子を紅遠から引き剥がそうとする。
『邪魔をしないで! 紅遠様は、私が護るんです!』
『く……。一体どうされたと言うのだ!?』
『紅遠様を護る邪魔をするお前は、敵……』
『な、攻撃型の妖術!? 紅遠様の前で、それを使わせるわけにはいかん。――正子殿、御免!』
 そうして――岩鬼は、正子を斬った。
『ぁ……。紅遠、様。愛おしき、我が主……』
 命が果てる、その瞬間まで……正子は、紅遠の元へ這いずろうとしていた。
 他の家臣達や紅遠の父である朱栄が駆けつけるまで、紅遠と岩鬼は途方に暮れて正子の亡骸を見つめた――。
 そうして、走馬灯に映る場面は移り変わる。
 正子の出身であった山凪国と、紅浜国の重鎮が検分役として居並ぶ。離れたところでは、両国の軍人が山ほど見守る大地。
 銀柳もまた、凜とした瞳を浮かべて床几に座していた。その視線の先には、二人の親子がいる。
 桜の花弁が舞う下、白い死に装束に身を包み畳の上に正座する朱栄。
 そして己の産み出せる、焔のような紋様が飾り彫された白刃の魂刀を抜く――幼き紅遠。
『……父上、これで本当に満足、ですか?』
『何を言ってやがる、紅遠。当たり前じゃねぇか。俺様はな、これから世界一格好良い責任の取り方をするんだぜ?』
『…………』
『麒麟児を失い、戦意が高まる山凪国。次代国主になるの妖人を手籠めにされかけたと、軍備を整えている紅浜国。アホなことで血を流す戦争を止めるには、これしかねぇのよ。国主である俺様が、文字どおり身を切って意志を示すってな』
 切腹という死の間近だというのに、朱栄は飄々とした様子を崩さない。
 紅遠は知っていた。誰よりも陽気であっけらかんとしていた父が、誰よりも真剣に国を護ろうと必死だったことを。
『父上……。最期に、辞世の句を』
『おいおい、紅遠。俺様が句を詠むのが下手くそだって、分かって言ってるのか?』
『……父上の言葉を、今後数百年の記憶に刻みたいのです』
『……はっ。いいぜ、紅遠には俺様の国を急に任せることになっちまうんだ。我が子の我が儘、遊びに付き合ってやるのも、これが本当に最後だしな』
 涙をグッと堪え、紅遠は父の――最後の雄姿から目を離さない。
 朱栄は、舞い散る桜の花弁と紅遠、そうして遙か遠くに見える紅浜国を見つめ――
『――紅浜の地に、縛るる親心、散りにし後ぞ、君やまもらむ。……どうだ? 才能ねぇだろ?』
 紅浜の国を護るために縛りつけた親心は、私が死んだ後にこそ紅遠を護るだろう。
 紅遠が要約すると、句の意味はこうなる。
 それは今生に別れを告げると同時に、自分が死んだ後も魂刀となって紅遠を護るという想いとして伝わる。
 決して死で終わりではなく、しがらみだらけの今生でみせた親心は――散った後にこそ、お前を護り続けられるぞという意志の籠もった句だった。
 幼くして実の父を介錯する息子の心や人生を護るという決意は、亡くなる人が生涯をどう生きたかを現す句として相応しくはないのかもしれない。
 それでも、親として死んでも魂刀となり紅遠を護るという最期の宣言。
 深い父親からの愛情を感じた紅遠は、胸が締め付けられる思いだった。
『……才能とか関係ない。僕は――私は、父上の跡を継ぐ者として、しかと胸に刻みました』
『はっ。それなら良かった。……紅遠、お前は俺様や銀柳より、遙かにデカくなる男だ。……紅浜国を、俺様の大切な国家国民を頼むな。紅遠になら、安心して任せられるぜ』
『死力を尽くすと、お約束します』
『……けっ。最期に大人びた姿を見せやがって。はなたれ小僧が……親を泣かせるんじゃねぇよ。――さぁ、やるぞ。国を、民を護る第一歩だ。覚悟を決めろ』
 頷いた紅遠が、震える小さな手で――魂刀を上段に構える。
 カタカタと震える魂刀を見て、朱栄は笑いながら己の魂刀を手に持ち――腹を、横一文字に裁いた。
 死に装束に、紅い色が染まっていく。
 実の父親であり、常に背を追ってきた存在が血に染まっていく様子に――紅遠の握る魂刀が、更にカタカタと激しい音を立て震える。
『くお、ん……。迷うな、躊躇うな……』
 痛む腹に耐え、絞り出す朱栄の声に、紅遠の瞳から涙が溢れる。
『国を、民を……。お前が大切に想うものを、護ると……。――覚悟を示せ!』
『ぁ、ぁああああああッ!』
 父をなるべく苦しめないよう紅遠は――渾身の一振りを打ち下ろす。
 皮肉なことに、銀柳と死力を尽くして磨いた、大切なものを護るための剣術が初めて斬った相手は――紅遠の父となった。
『……見事な最期であった。我が最愛の友、朱栄。そして、紅遠。――皆も、我が友の立派な最期と意志を耳にしたであろう!? 此度の件は、これにて済んだことだ。よもや、同盟の継続に異議を唱えるものはおらぬな!?』
 咆哮のような銀柳の声に、誰も異を唱える者はいない。
 それぞれの義によって戦火を燃やそうとしていた両軍も、居並ぶ重鎮も、嗚咽を上げて頷くことが答えだった。
 銀柳は立派な最期を遂げた盟友である朱栄の首を、大切に首箱へと納める。
 そして、血に濡れた魂刀を未だに震わせ佇む紅遠を、そっと抱きしめた。
『紅遠……。よく頑張った。お前の妖力は強く、異質だ。ワシを除けば、他の妖人だろうと触れられて抗える者は少なかろう。故に、人肌の温もりを感じられるのも……これが最後かも知れぬ。存分に、甘えるといい』
 いつも厳しく鍛錬をつけてきた銀柳の優しい声音に、紅遠は片手を回そうとして、止めた。
『銀柳、殿……。ありがとう。だが、僕は……。いや、私は――強い国主として、歩まねばならないのです。どんな孤独にも、耐えてみせます』
 銀柳が紅遠を抱きしめる力が、一層強くなった。
 肩を振るわせ顔を自分の背に埋める銀柳は、泣いているのだろうと紅遠は感じる。
 身を寄せ合う二人の横で、朱栄の亡骸から――溶岩のような紅い魂刀が浮かび上がる。
 代々紅浜国へ伝わり、朱栄が受け継いだ魂刀――朱栄の魂だ。
 覚悟を決めた紅遠は、銀柳の優しい温もりから離れ
『ご先祖様、父上……。私に、愛しき全てを護る目的と果たす手段を……。残された意志を果たす何者をも焼き尽くす刃、何者からも護り得る盾を、お預けください』
 己の魂刀を、朱栄の魂刀へ重ねる。
 途端、溢れんばかりの紅い妖力が広がり、桜の花弁が旋風に吹かれたかのように舞う。
『……お認めくださり、ありがとうございます』
 紅遠の手には、新たな魂刀が握られている。
 沈む夕陽のような哀しくも胸を焦がす黄昏色に、焔の如き飾り彫が刻まれていた。
 それは――襲名の儀が無事に終わった証であった。
『この魂刀は、父上が最期に残した御言葉のように……。国や民、大切な者を護る時にのみ振るわせていただきます』
 新たに産み出た魂刀を胸に当て――自分の魂へとしまい込んだ。
(父上……。銀柳殿、私は……何も護れぬ弱き国主でした。あの世で二人に詫びたいのに、二人の魂は刀に宿ったまま……)
 思い出さないようにしていた幼い頃の光景を見せられた紅遠は、心の中で詫びた。
 これで紅浜国も、象徴である魂刀を失い滅びるだろう。
 生涯の師であり、最愛の友である銀柳の魂が籠もった魂刀も――力に溺れた壬夜銀の手に渡ってしまった。
 それが口惜しく、何も成せず死ぬことが惜しい。
 そう感じている時――何か、頬の辺りに妙な感覚がした。
(何だ、この温もりは? 頬を伝う感触は、一体……)
 その温もりに触れた時、紅遠の視界は過去から去った――。

 紅遠が次に目にした最初の光景は、西洋から渡ってきたシャンデリアの下がる天井だった。
「……ここは?」
「――紅遠様!? おお、まさか本当に……」
「紅遠様が目覚められたぞ!」
「奇跡だ……。我らが主、そして嫁御巫様は、荒れた神州を救う神の顕現だ!」
 騒がしい。
 そう感じた紅遠が起き上がろうとした時――。
「――美雪?」
 自分に覆い被さる重みを感じ目を向けると――美雪が胸の上で眠っていた。
「……何故、私に触れて……。いや、この温もりは……」
 自分が触れているのが――走馬灯のような中で掴んだのは、頬に触れた美雪の手の温もりだったのだ。そう紅遠は、悟った。
「美雪殿が、死の淵に立たされる紅遠様を引き戻されたのです。癒やしの妖術を……。銀柳様の御力を感じる妖力を振り絞って……」
「……私に触れて、命を投げ打ったということか」
「違います。美雪殿は……正気の瞳、発言をしておられました。あの時とは、違います」
「…………」
 岩鬼は、正気を失った正子を知っている。
 だからこそ、その言葉を紅遠も信じられた。
 同時に――驚愕で言葉が出ない。
 偉大なる妖人である銀柳が、自分に触れて抗うことができる者はいないだろう。人肌の温もりを感じることは、もうないだろうと言っていたのだ。
(いや……。私が死に瀕して、妖力を失っていたからか)
 それならば、一応の納得がいく。
(人肌の温もりなど、十七年振りだ……。だが、このままでは……)
 紅遠が触れた美雪の手は、冷たい人形のようになっていく。このままでは、間もなく死ぬであろうことは目に見えて明らかであった。
(また限界を超えた妖術を……。美雪は、何故そう何度も自分の命を自分の意思で投げ打てるのだ。……強い娘だ)
 何としても命の恩人である美雪を救いたいと、紅遠は思う。
 そっと美雪の髪を掻き分け額――気の出入りする神眼を露出させた。
(こうするしか、美雪を救う手立てはない。……賭けではあるが、見殺しにはできん)
 去りゆく命を救うため、妖気を込めた手を美雪の額に近づける。父を斬った時のような震えが、止まってくれない。
 走馬灯の中で、肩に触れた瞬間に正気を失った正子の姿が――紅遠の脳裏に過る。
「美雪。……負けるなよ」
 それは、自身に対しても言った言葉だったのかもしれない。
 紅遠は――恐怖に打ち克ち美雪の神眼に手を当て、妖気を流し込む。
 命を救うだけ、必要最低限の妖力に留めたつもりだ。それでも――直接触れて、紅遠の妖気を感じたことには変わらない。
 美雪が正気を失っていた時、自分は果たして刃を振るえるだろうかと紅遠が不安を抱いていると――。
「――ん……。紅遠、様?」
 美雪が、紅遠の胸の上で目を開いた。
「紅遠様! ご無事だったのですね!? 命が助かって……。本当に、本当に……よかった」
「美雪……。大切な問いだ。答えよ」
「……はい」
「私に触れて、どう思う?」
 初陣を終えた後に紅遠から問われた謎の問いと、ほぼ同じだ。
 だが以前の戸惑うような声音ではなく――紅遠の声に、強い不安が混じっていた。
 美雪は、言葉を選ぶように
「怪異の群れも恐れずに命をかけて紅浜国を救う、立派な鬼人様かと思います。私のような、自由にすると場を掻き乱し、罪を犯した血を引く人間を迎えてくださる、奇特な方かと……」
「……他は? 私への不満や文句はないのか?」
「えっと……。家事では少しお役に立てるかと思いますので、もう少し休んでいただきたいのが本音です。あとは、国民を動揺されないためとはいえ、棺に入れさせて運ぶのもお控えいただければと思います。……目にした時、心臓が止まるかと思いました」
「そうか。そうか……。冷静に苦言も呈することが、できるのだな」
 心から安堵した様子で、ほっと紅遠は呟く。
「あ……。私はまた、差し出がましいことを申しました。申し訳ございません」
「こんな女性、いや……。人間は初めてだ」
「ぶ、無礼でございましたよね。本当に、何とお詫びすればよいか……」
「美雪、後で話がある」
 折檻されるのを覚悟して、美雪は身を強ばらせる。
「館へ戻ったら、私のいる離れに来てくれ」
「え……。私が入っても、よろしいのでしょうか?」
「よい。結界も、解いておく」
「ぁ……。はい、承知しました」
 やっと少し、紅遠との距離が縮まったのかと――美雪は声が弾む。
 紅遠は花に触れるような優しい手つきで美雪を身体から離し、棺から立ち上がる。
 姿勢を正すと居並ぶ国家の重役たちに向け、国主としての冷静な眼差しを向けた。
「皆、此度は心配をかけたな。だが、怪異の大半は打ち破った。警戒は解けぬが、暫くは侵攻も和らぐだろう。よくやってくれた」
 国主が顕在であると示し労を労う言葉に、皆が片膝を付いて瞳を滲ませる。
 岩鬼は顔を上げ、紅遠に向かい朗らかな笑みを向けた。
「紅遠様が直接、御自ら護ってくださったお陰でございます。今後の対応や怪異対策は某たちが行います。どうか暫し、お身体と妖力の回復にお勤めください」
「……分かった。岩鬼の言う通りだな。――美雪、行くぞ」
「あ……。はい」
 礼を尽くし頭を下げている人の中を歩く居心地の悪さを感じつつも、美雪は紅遠の後ろに続いて官公庁から出る。
「紅遠様! ご無事だ!」
「何だ、噂なんて当てにならないな」
「誰だよ、紅遠様が崩御されたなんて噂を流した馬鹿は」
 官公庁から出ると、何処から噂が漏れたのか――民衆が多く集っていた。
 国民の不安を払拭するように紅遠は皆に手を向け、顕在さをアピールする。
 あえてゆっくりと歩きながら、美雪と一緒に館へ戻った――。

 風呂に入り身を清めた美雪は、綺麗な白い着物を着て離れへと繋がる廊下の前へ来ていた。
「菊さん。どこか変なところはないでしょうか?」
「ないわよ。とても綺麗で……。白無垢を着て嫁入りした花嫁かと勘違いしちゃうわ」
「ありがとうございます。洗濯や家事をお任せしてしまい、申し訳ございません」
「いいのよ。本来、私の仕事だもの。嫁御巫として頑張った美雪さんは、紅遠様とゆっくりしてちょうだい。……訃報を聞いた時はどうなるかと思ったけど、今日は本当に素晴らしい日として終えられそうだわ」
 菊は、しわくちゃになった顔にポロポロと涙を流している。
 その視線の先には、結界を解かれた離れが見えた。
 紅遠が誰かを自分の生活拠点に入れるなど、もう二度とないと思っていたのだ。
 本当に紅遠の信用を勝ち取ってみせた美雪に、菊は何度も「ありがとう」とお礼を言っている。
 人に礼を言われても、どう対応したらよいのか美雪は分からない。
 あたふたとして、紅遠の住む離れへ向かい歩きだした――。
「――来たか」
「はい、お呼びにより参りました」
「廊下の上に正座していては、身体が痛むだろう。そこに座ってくれ」
「は、はい。ありがとうございます。失礼、致します」
 緊張しながらも、美雪は紅遠の前に用意された座布団の上へ正座する。
「先ずは、礼を言わせてくれ。美雪がいなければ、私は間違いなく世を去っていた。ありがとう」
「そんな!? どうか頭をお上げください! 私は、私に出来る与えられた役割……。いえ、紅遠様に申しつけられた通り、好きなようにさせていただいたのみです」
「これは私の気持ちだ」
「そ、そんなことを申したら! 私に自由を与えてくださった紅遠様にこそ、お礼を言いたいのです! 囚人のように生きる私を朝原の家から救ってくださり、ありがとうございました!」
 美雪は手を突いて頭を下げ、言葉を繋ぐ。
「その……。私は、紅遠様にとって決して許せぬ血が流れておりますのに……。嫁御巫の一人に加え、こうまでよくしていただき、どう感謝の言葉を言えばよいのか分かりません……」
「そうだな……。その件で、話がしたかったのだ」
「…………」
「美雪は――母の敵である私を、殺したくないか?」
 紅遠の真剣な声に、美雪は頭を上げ首を振る。
「滅相もございません。……全ての非は、私の母にあると聞き及んでおります」
 美雪の言葉を聞いた紅遠は、ゆっくり口を開き
「美雪の母、正子は――ある意味、被害者だ。加害者は、私だな」
 自嘲するように、そう告げた。
「……ぇ」
「傾国の鬼人。そう私が呼ばれているのは既に耳にしているだろう。……由来は知っているか?」
「その、岩鬼様からお窺いした知識によると、他国の妖人様でさえ、容姿端麗な紅遠様を手に入れようと躍起になられるからと……」
「その通りだな。だが――それだけではない」
 紅遠の言葉に、美雪は考える。
 岩鬼の話だと、紅遠を手に入れようとした妖人が、自国の嫁御巫が張る結界を利用して紅浜国へ怪異を誘導していると思っていた。
 その美しさから数多の国から怪異を向けられ国を傾ける――故に、傾国の鬼人。
 今まで、他の理由を考えたことなどなかった。実際、それだけ紅遠の美しさと勇ましさは浮世離れしていると、美雪も感じていたからだ。
 今も頭を巡らせたところで、他の答えは思い浮かばない。
「……浅学な私では、他の理由が分かりません」
「おかしいとは思わなかったか? 我が国の重臣であろうと、私とは距離を取って話す。これまで美雪が他の嫁御巫の一人とも顔を合わせていない状況。怪異の侵略には妖人が自ら参戦している現実を、妙だとは感じなかったか?」
「それは……。はい、違和感を抱いておりました」
「そうだろうな。――全ての原因は、私の持つ妖力の特異性にある」
「妖力の……特異性、ですか?」
 美雪の言葉に、紅遠は哀しげに笑みを浮かべた。
「魅了だ。……私の発する妖力に触れただけで、普通の人間は魅了される。直接触れれば、妖人すら抗するのに多大な妖力を使うだろう。嫁御巫でも同じだ。酷ければ正気を失い、自我すらをもなくす」
「そのような、ことが……」
 信じられないという面持ちで呟きながらも、美雪には心当たりがある。
 思えば、最初に紅遠と出会った葬儀の時からおかしかった。
 乱入してきた紅遠に対し、会場は反発するでもなく受け入れた。
 突如として誰か一人を娶ると言われた際に、品定めされている嫁御巫は――格下である紅浜国へ行くかもしれないというのに、紅遠へ恋するかのような熱い目と蕩けた声を発していた。
(あれが全て、紅遠様が見つめただけで妖力により魅了されていたのなら……)
 それは、怖ろしくも――哀しく孤独な力だと美雪は思った。
 どんな好意的な言葉を述べられても、疑心暗鬼に陥るだろう。
「その美しさで国を傾ける傾国の美女。それに対し傾国の鬼人は、鬼畜生と言われても仕方がない欠陥国主だったというわけだ」
「しかし、魅了だけで傾国の鬼人と蔑まれる謂われは――」
「――ここで、美雪以外が嫁御巫を紅浜国で見たことがない件に繋がるのだ。本来、嫁御巫が妖人から妖力をもらい受けるのに必要な過程を思い出せ」
「……御心の儀。神眼のある額への接吻。軽くても神眼への肉体接触、最大限に力を発揮するのならば、夫婦の営み……でございます」
 美雪の言葉に、紅遠は頷いた。
「そうだ。嫁巫女が不在でも護れる範囲は限られる。私は国土を売り、民まで減らした。愛着のある土地から移住を拒む住民は、他国の民となると知りながらだ。……傾国の鬼人という二つ名がつくのも、当然の話だな」
 国土を減らしたのが苦渋の選択だったと分かる、苦々しい表情で紅遠は語る。
「美雪とて、例外とは断言できない。……どうやら美雪は、私の魅了への抵抗性が非常に強いようだが、これから……。いや、これまでも影響を受けてないと断言はできない」
「それは……」
「感情など、分からんだろう? 人の感情は勿論、自分の感情もだ。――私はもう、美雪を斬りたくない」
 美雪は、自分を思い出し――怖くなった。
(紅遠様が仰る通り、私は……少なからず魅了の影響を受けていた可能性も否定しきれません。紅浜国へ来た際に妖力の過剰使用で倒れた際、紅遠様の妖力を授かった。……山凪国で言いなりの人形のようだった私が、紅浜国で自由意志を持ち暴走と呼べるような行動をしていた時期とと一致してしまいます。あれが……魅了の影響は完全にない。自分の意思で紅遠様のためにと見境がなくなっていたと、どうして断言ができましょう。人形が急に変わるのには、それなりに大きな理由が必要でしょうに……)
 紅遠のためにと、よい思い出など一つもない山凪国へ足を運ぶと言いだしたのは、美雪の中で記憶に新しい。
 考えれば考えるほど、自分が紅遠の妖力特性に影響されていないと断言ができなくなる。
「素直に話そう。――私はな、怖いのだ。……触れて妖力を贈るまでは、これまで正気を保ってくれたように映る。本来なら命を救われた礼に額へ接吻――御心の儀を行い、多大な妖力を繋ぐ恩返しぐらいはするべきなのだろう」
 それは紅遠が、初めて美雪に見せた本心であった。
 妖力が急激に成長し、無意識でも正子から正気を奪ってしまった。そうして起きた父親の死後、誰にも漏らすことのなかった――心の内だった。
 話すことで、紅遠は腹に溜まった濁りが薄らいだ気分になる。その礼をしたかった。
 しかし――。
「――粘膜接触は、指で触れる比ではないほどに妖力を与えられる一方、魅了の影響も強く出るだろう。故に私は、美雪に対して夫婦の睦みごとはおろか、甘い言葉の一つも気安くかけてやれない。子を成そうとしない妖人など、義務を半分放棄しているようなものだというのにな」
「…………」
 優しい言葉の一つかけられず、目を合わせることすら危険をはらむ。
 そんな紅遠が、ここまでは大丈夫だろうと、遂に信頼をして話した弱音だ。
「とんでもない欠陥を持つ男の元へ嫁ぐことになり、美雪には申し訳ないと思う」
「私は……。それでも、紅遠様と……」
 美雪は目線を泳がせながらも、紅遠への敬意を――親愛と呼んでも過言ではない気持ちを伝えようとする。
 だが、言えなかった。
 恋や愛はおろか、親愛の情すら抱いたことがなかった。銀柳への恩義は感じたことあれど、慕う感情に類する想いさえ知らない。
 だからこそ今、胸のうちにある感情が――魅了の影響を受けていない、曇り無き気持ちだと伝えるのは躊躇われた。いい加減なことを、美雪は紅遠に対して告げたくなかったのだ。
 まごつく美雪の顔を見て、紅遠は儚げな笑みを浮かべた。
「……無理をするな。自分が魅了され、自分じゃない性格になっていないか、怖いのだろう?」
「……申し訳が、ございません。私には、自分の気持ちが分かりません。このような嫁御巫で、妻で……。誠に申し訳がございません」
「気にするな、これまで通りの距離感でよい。美雪に、母と同じ轍は踏ませたくない。私とて、また……。美雪にまで裏切られれば、この心は壊れてしまうかもしれぬ」
 話ながら寂しそうな笑みに移り変わっていく紅遠の表情に――ズキンと、美雪の胸が痛んだ。
「長々と話してしまったな。美雪も、今夜は疲れただろう。もう戻って、休んでくれ」
「……はい。紅遠様も、ゆっくりお休みください。丑三つ時も、岩鬼様から救援要請がない限りは、妖力の回復にお勤めくださいね」
 美雪の言葉に、紅遠は暫し目を丸め
「はっはっは! 分かった、そうさせてもらおう。……こうして注意をされる関係も、よいものだ」
 紅遠は嬉しそうに笑い、美雪を館まで送り届けた――。

 翌早朝。
 日の出とほぼ同時刻、炊事場では美雪が料理を作っていた。
「美雪、今日も早いな」
「紅遠様、おはようございます。少し、お顔の血色が戻られましたか?」
「ああ、おはよう。……これだけゆくりと眠れたのは、一体いつぶりだったか。皆のお陰だ」
 初対面の頃の冷徹な表情が嘘のように、紅遠は朗らかに笑って見せた。
(きっと、こちらこそが紅遠様の本当のお姿なのですね。私が、この家が……紅遠様が常に本心で心を休ませ過ごせる場になれれば良いのですが……。この気持ちは、何なのでしょう)
 高鳴る胸に、美雪はやはり自分も魅了の影響を受けているのではないかと不安になる。
 それでも、紅遠に安らいでほしい。これまで無理を続けてきた分、少しでも休んで欲しいと願う気持ちは嘘偽りなかった。
「あの……紅遠様。こういうと、またご不快を与えてしまうかもしれませんが……」
「何だ?」
「私の朝食を、一緒に召し上がりませんか? その、私がお作りしたものを……信じて食べていただけるのであれば、ですが」
「…………」
 紅遠は暫し、押し黙った。
 美雪の作っている食事を見つめ、過去のことを思い出す。
 愛の行き過ぎた使用人や、当時はまだ父の嫁御巫が残っていた。その時に出された食事には、何らかの異物が混入されていたのだ。
 媚薬であったり、あるいは口に出すのも憚られるようなもの。
 そんなことを思い出しながらも紅遠は
「ダメだな」
「そ、そうですよね……。やはり私が作ったものなど――」
「――美雪も、私と一緒に食べるのだ」
「……ぇ」
 美雪はキョトンとした表情で、首を傾げる。拒絶されたものだと思っていた。
 だが紅遠の言葉は、心が許されたと思ってもいいものだと感じる。
「同じ物を食べるならば、美雪も妙な物は混ぜられないだろう?」
「わ、私は食べ物を粗末にするような真似は致しません」
「ふっ。分かっている、冗談だ。さて、それならば私も手伝うとしよう。二人の方が効率が良かろう」
 美雪が止める間もなく、紅遠は自分のエプロンを手に調理を始めてしまう。
 君子台所に入らずという美雪の常識とはかけ離れているが、紅遠は元から全て自分で料理を作っていた。
 今更のことかと、美雪は表情を和らげ一緒に朝食を作る。
 そうして離れに盆を運び、一緒に食事を摂ると
「食事とは……こうも身体の内から温かく、味がするものだったのだな」
 染み入るように呟く紅遠の顔が、美雪には幸せそうに映る。
 そんな表情を見る度に、また美雪の胸は感じたこともない痛みに襲われた――。

 紅遠が軍服を着て官公庁で内政業務を行うため出仕した後、美雪は新たな役目をもらっていた。
「――はい、次の方どうぞ」
「ありがとうございます、嫁御巫様! これで俺も、また前線に出られる!」
 軍病院において、治癒の妖術を用いる役目だ。
 今朝、妖力が回復してきた紅遠に、額へ手を当てられ分けてもらった妖力を使い、先の戦闘で負傷した継承者や軍人の治療を行いたいと懇願したのだ。
 当初は美雪の身を案じ渋っていた紅遠も、美雪の自由意志を尊重したい。自分から離れて活動する意思表示をできるのは、正気を保っている証拠だからと賛同してくれた。
「凄い。本当に治った。もう二度と、軍刀は振るえないと言われてたのに!」
「流石は紅遠様の見初められた嫁御巫だ。仁が厚くていらっしゃる」
 人々の役に立っている。
 喜びの声を聞く度、美雪は嬉しくなった。
 そうして役目を終え、館に戻ると
「お帰りなさい、美雪さん。文が届いていたから、お部屋に置いておいたわよ」
「私に文、ですか? 分かりました。ありがとうございます、菊さん」
 美雪の分まで家事をしていた菊が、そう伝えてくれる。
 人の役に立っているという喜びで弾む足で、自分の部屋に戻る。
 机の上に置かれている文を取り――美雪は、一気に表情が凍った。
「いつも、そう……。私が浮かれる度、こうして諫めるように現実へ戻されるのですね」
 中身を見た美雪は、ぽそりと呟き俯く。
 書かれていたのは
『思い上がるな売女の娘』
『一族の名を堕とし、山凪国と紅浜国を混乱に導く悪女が幸せになれると思うな』
『胃の中の蛙。嫁御巫を知らない地で、一端の嫁御巫を名乗る烏滸がましい存在。出家しろ』
 そんな罵詈雑言であった。
 宛名を先に見れば良かったと、美雪は後悔する。
(玲樺さん、御母様、和歌子様……。私は一生、過去を断ち切れない。身の程を弁えろと諫められ続けるのでしょうね……)
 有り難くもあり、紅遠と対等な関係性の嫁御巫になれないと、悔しくもある。
 破って捨てるべきなのかもしれないが、調子に乗った時の戒めにもなると美雪は感じた。
「……この棚に置いておけば、普段は目にしなくて済む。……破る勇気も、浮かれて軽はずみな言動もしないと言えない未熟な私を、どうかお許しください」
 姿もない紅遠に謝罪しながら、美雪は鍵の付いた頑丈な棚へと文をしまった――。

 美雪が罵詈雑言の書かれた文に傷付いている頃、官公庁の会議場は荒れていた。
「美雪殿を誹謗中傷する流言が、国中で流れております」
「……岩鬼。どういうことだ」
「はっ。流言の内容は主に、美雪殿の母である正子の件や、山凪国で不能者と言われた嫁御巫としての能力についてです。……内容から察するに、山凪国が離間工作を仕掛けてきているかと」
「私と美雪の仲をか。それとも、軍人からの信を無くすためか……。壬夜銀は、思ったよりも姑息な手を使ってくるな。力押しに攻めてくる可能性は想定していたが……」
 紅遠が呻ると同時に、美雪の働きぶりを知っている高官たちも頭を悩ませる。
 上から圧力をかけたところで、噂は止まらない。
 むしろ、そんなことをすれば疚しいところがあるのではと噂が加速するのが予測できる。
 紅遠との仲が決裂する心配は、現状ない。
 だが、美雪のことを知らない軍人もいる。
 そうして悪評が広まることで、嫁御巫としての活動が阻害されてしまうのは、紅浜国にとって大きな損失と言える。
 待望の嫁御巫が誕生したというのに、また以前の――じり貧で滅亡へ向かう紅浜国へ戻ってしまうのは何としても避けたい。
「山凪国側の門の出入りを厳しく致しますか?」
「いや、それは無駄だろう。先日発生した大量の怪異による侵略が山凪国側からのみなら有効だろう。しかし、他国との国境側にも多数の怪異が紛れていたからな」
「紅遠様は、先日の不可解な怪異の進行に山凪国以外の国家が組みしていたと考えておられるのですか?」
「積極的に呼応したとは考えにくいが、山凪国は大国だ。圧力をかけられたら、国力差から秘密裏に応じざるを得ない国もあるだろう。直接的でなく、嫁御巫の結界による操作で偶然を予想ことも可能だろうからな。弾劾できない妙手だ」
 相当に策を練った者がいるに違いないと、紅遠は感心さえしてしまう。
「岩鬼殿、どうしたものでしょうか。他国との貿易は、我が国の財政の要です。産業も、素材を輸入できなければ……。失業者も増えて暴動が起きます」
「軍部としても、怪異だけでなく兵を多方面から向けられては……。戦力も物資も不足しております」
「食糧問題も深刻です。我が国は、輸入で殆どの食料をまかなっておりますから。海の外の国からの食品だけでは、すぐに干上がってしまいます」
「ここは山凪国と、外交的な融和を図るしかないのでないでしょうか?」 
 高官たちが様々な意見を交わす。
 一人、離れた場所に座る紅遠は、首を振る。
「未だ同盟が続いているとはいえ、山凪国は不穏だ。先日、私が自ら訪問した時でさえ武力衝突をチラつかせてきた。壬夜銀は欲しいものは全て奪うと公言する銀狼だ。……融和を図るには、こちらが相当な譲歩をせねば不可能だろう。最悪、使者の首を跳ねて同盟破棄をやりかねない男だ」
 紅遠の言葉に、皆が再び呻る。
 こうなってくると先日、国主となった壬夜銀へ自ら祝いを述べに行ったのは幸いだったと紅遠は思う。時間を無駄にせずに済む上に、人が無闇に殺されるのを防げるのだから。
 難しい顔で、紅浜国の生き残る道を探す高官たちに、紅遠は自分の予測を述べる。
「壬夜銀は、そう我慢強い男ではない。おそらく、献策した者の絡め手をいくつか潰せば――力尽くでくるだろう。紅浜国にとって一番厳しいのは、じわじわと経済や食糧を締め付けられることだが、奴はそんなに待てる性分ではないはずだ」
「直接的……。紅遠様、それは軍を差し向けてくるということですかな?」
「ああ。それまでは、海の外の国からの輸入を増やしつつ、軍備も固めておくのがいいだろう。国庫から予備予算を引き出してでも、壬夜銀がじれるのを待つのが良策だ」
「幸いなことに、我が国は軽工業で成功し、蓄えがありますからな。かしこまりました。それでは、流言に関する抑制は行わず様子をみて、備えの手筈を整えましょう」
 国務大臣である岩鬼の言葉で、一先ず空気が緩む。
 しかし――紅遠が議論を締めようとした時だった。
「会議中に失礼致します!」
「ノックの返事も待たず、どうした?」
 会議室に駆け込み膝を付いた若き軍人に、岩鬼は眉をしかめる。
「も、申し訳がございません! 山凪国側駐屯地より、火急の知らせがございます!」
「何があった?」
 紅遠が問いかけると、若き軍人は一層頭を下げながら
「も、門の前に大量の山凪国の民と元軍人を名乗る者が殺到しております! 通常の入国手続きでは処理しきれない数であり、その異質さからご報告と相談に参りました!」
 差し迫った状況に混乱した声で、そう述べる。
 高官たちは顔を見合わせ、動揺した。
「なるほど、良い手だ。食糧や物資の問題、流言による内患を抱えさせた中で、移民を送ってくるか。……策を巡らせたのが誰かは知らぬが、やってくれる」
 紅遠は口では褒めながらも、内心で苛立ちを募らせる。
 こうも絡め手を使われて国政にばかり手が掛かり、国民の不安を誘発されては、美雪に対する流言飛語を止める手立てが乏しくなってくる。
 皆の努力で妖気を回復させてくれている心遣いを無駄にしないよう、怒りで妖気を発しないように紅遠は怒気を抑えつけた――。


 紅浜国への入国を希望しているという場へ、紅遠や岩鬼、高官たちは直接出向くことにした。
 そうして実際、やってきた者たちを目にすると――。
「――これは、また……。何という、人数でしょうか……。我が国の一都市に匹敵する人数ですぞ」
 岩鬼は、その数の多さに呆然とした。
 これだけの人数を受け入れるとなると、食糧だけではなく治安の問題や衛生の問題が付きまとう。住居にも空きはない。
 入国を拒み、門の外に置いておけば怪異の餌食になる。人道的側面からも悩ましい問題だ。
 そんな時、身形意のいい男が集団の前に出た。
「わ、私は銀柳様に忠誠を誓った継承者です。ご無理を申し上げてるのは承知の上で、何卒……。我々を受け入れてはいただけないでしょうか!? もう壬夜銀様には、ついていけないのです!」
 門の前、土を塗り固めた道路に、額を叩き付けている。その必死さは、縁起には見えない。
 岩鬼が一歩前に出ようとするのを、紅遠が手で制した。
「そなた、銀柳殿に忠誠を誓っていると言ったな。何故、銀柳殿の魂が籠もった刀が選んだ後継者である壬夜銀を見放す?」
「山凪国は現在、割れております。四十九日法要を待たず、襲名の儀を強行した横暴。壬夜銀様の行いに反対する者の不審死。使途不明の金銭や、壬夜銀様を指示する者たちの暗躍……。旧紅浜国領の住民には急に課税が増し、民にも影響が出ております。誰もが、明日はどうなるのか、誰が敵なのかと疑心暗鬼の状況……。銀柳様は、壬夜銀様が立場に伴い成長されることをご期待されていました」
「ほう、身形がいいとは思ったが、そなたは山凪国でそれなりの地位にありそうだな」
「はっ。畏れ多くも、銀柳様直系の血を引く継承者でございまして……。壬夜銀様の御代で没落致しましたが、朱栄様が切腹なされた時には、立ち合いが許される立場でありました。……恥ずかしながら、あの時の……御国や民を想う意志を見せた紅遠様の御慈悲に縋りたく参った次第です!」
 朱栄が切腹した時、十一歳だった紅遠の行動を実際に近くで見ている者。
 それならば、この十七年間かなり高い地位にいたのは間違いない。銀柳の子だからといって、確実に父のような人格者だとは限らない。
 しかし銀柳が高く用いた者ということで、紅遠はこの者を信用してもよいと判断した。
「我が生涯の師であり、最愛の友である銀柳殿が信を置いた者の言葉だ。受け入れてやりたいが……。それだけ高い地位にいたのなら、これだけの民が急に移民するのが一体どんな問題を引き起こすか、分かるだろう?」
「そ、それは……。誠に、申し訳ございません! なるべく多くの者を救いたいと秘密裏に声をかけていたところ、これだけの数に膨れ上がってしまいました!」
「…………」
 それだけ、銀柳の頃の善政と比較し壬夜銀の治政に耐えかねてる者が多いということかと紅遠は察する。
 最初から辛い治政しか知らなければ、あるいは耐えられたかもしれない。だが、一度幸せな状況を知ってしまえば――奪われるのは辛い。
(大切なものや、生活の質が目に見えて悪くなり、日々体感していく……。もし私が、再び手にした幸せな時間……。美雪と食事を摂れる生活を、理不尽に奪われたらどうだ)
 紅遠は、美雪との生活が奪われるのを想像し、胸に靄が込み上げた。
(この者たちの気持ちは分かる。……だが、これは明らかな山凪国の工作だ。国外逃亡者を、あえて紅浜国まで見逃したとしか思えん。……為政者は、時として鬼にならねばならぬか)
 紅遠は歯軋りして、山凪国と紅浜国の国境付近に自治区を作ることを考える。自活と防衛に関する支援は当然、必要となるだろうが、国内に入れるより問題は起きない。
(妖人が護らぬ自治区など、安定するまでに犠牲者は必ず出る。……それでも、自国を護ると俺は父上や祖霊にに約束をした。……やむを得んな)
 紅遠が溜息を吐いて、辛い言葉を発しようとした時――。
「――お願い致します! 私たちのほとんどは、旧紅浜国の民です! 紅遠様が門内への移住を促された時に応じなかったのが間違いでした!」
「あの時の過ちは、心から謝罪します! 俺たちが死ぬのは、自業自得です! ですが……この子は、紅遠様の御代になられた時に産まれてもおりませんでした!」
「どうか、子供だけでもお救いください! あの嫁御巫様に救っていただいた命に、どうか御慈悲を!」
「……何? 美雪が救った命……子供と申したか?」
 紅遠は、粗末な衣服に身を包む親子に目を向ける。
 すると、岩鬼が一歩前に出た。
「なるほど……。覚えがある顔です。美雪殿が嫁いだ初日、怪異により致命傷を負った子供を救ったのはご存知ですな? あの時の子供、そして親です」
「……美雪が、嫁いだ初日に死にかけてまで救った子か」
 幼い娘は、クリクリとした目を不安そうに彷徨わせている。
(私が嫁御巫を娶り、守護の結界を張れなかったからこそ生じた犠牲者か。何の罪もない、選択を誤ってない子にまで、咎が及ぶことになるとは……。耐えがたい理不尽だな)
 暫し子供を見つめていた紅遠は、一緒に来ていた紅浜国の高官へ向き直る。
「――国庫から、ありったけの支援をする。この者たちを一角に集めて、仮設住宅へ住まわせろ。……無論、怪異の脅威を防げる門の中でだ」
 揺るがぬ瞳で指示を下す紅遠。その燃えるように赤い瞳の輝きを見れば、意志の固さが伝わって来た。高官たちは、不安を抱えつつも頭を下げて従う。
 皆の疑問を代表するように、岩鬼は厳めしい顔で紅遠に問いかけた。
「紅遠様、本当によろしいのですかな? それでは、みすみす山凪国の策に乗ることになるでしょう。国内も、荒れるやも知れませぬ」
「この者たちは、私の力不足により山凪国の民となった者ばかりだ。……悪手だとは分かっている。だが、壬夜銀の性格だ。この者たちが帰れば、良くて鉱山などでの過酷な作業へ強制従事。動けない者は、処刑されるだろう」
「情に流され、国主として鬼にはなれなかったと?」
「至らぬ為政者だった頃に投げ出した者たちへの償いだ。国主としての責務でもある。山凪国の内部情報は、目下の最優先情報だ。状況が落ち着けば、この者たちは愛国心の高い民となろう。子供は未来の宝だ。人が減る国、去る国に待つのは――緩やかな滅亡のみだ。……ことを上手く運べなければ、即座に国を傾ける選択だとは理解している。その上で国主として臣下の皆へ、紅浜国の更なる発展への決断に、協力を要請する」
 力強い紅遠の言葉に、高官たちや見ていた門衛も言葉を発さない。
 押し寄せていた民たちは、固唾を呑んで紅遠の言動を注視していた。
 反応が返ってこない静かな時間に、紅遠は言葉を繋ぐ。
「……傾国の鬼人。いや、愚人を君主に持ち、そなたたちには迷惑をかけるな。――他国へ逃亡するのも、今なら咎めん」
 真面目に告げる紅遠に、岩鬼が笑みを浮かべる。
「紅遠様、逃亡するような賢い者は、とうに逃げておりまする。……敬愛する国主の御意志を果たせるよう、全力を尽くすと致します」
 岩鬼の言葉に続いて、居並ぶ高官や門衛たちは更に頭を深々と下げることで同意を示した。
「そうか……。揃いも揃って、私と同じく国を傾けかねない賭けを支持する者ばかりが残ったものだな。……ありがたい話だ。――よいか、流言を加速させないよう、一般兵の監視を付け保護と自主自立を促せ」
「はっ! この国難に、我ら一丸となって当たりましょうぞ!」
 岩鬼の反応に満足し頷いた紅遠は、山凪国の民たちへと視線を向ける。
 紅い目をした鬼人の迫力に、何人かは冷や汗を垂らし手足を震わせていた。
「人民を保護する対価として、山凪国の内情を知る者は、包み隠さず全我が国のルールを護れぬ者は、即座に追放されるものと考えよ!て話せ! 継承者など、戦える者には戦ってもらう! そうでない者は、仕事を見つけろ! これを護れる者のみ、紅浜国の民として受け入れる!」
 紅遠の言葉に、行き場を失った民たちは涙を流し歓喜に震えた――。

 官公庁に戻った紅遠は、すぐさま出入りの大商社の会長と面会していた。
「生活必需品と食糧の購入量を、大量に引き上げたい。相場より高くても構わん」
「ふむ……。金銭、ですか。紅遠様、在庫には限りがございます。既存の流通先国家もございますからな……。すぐさまというのは、我々も中々に難しいのです。特に食糧は、急に生産量が増えるわけでもない。困難を極めますな」
 商人は利で動く。
 そのようなこと、紅遠は熟知していた。困難を極めると言っているが、不可能とは言ってない。
 腹に一物抱える、やり手の商人や財閥の長であれば――この言葉の裏には真の要求がある。
「……貴殿の会社は、貿易での世界的拠点進出を図っているな? この件を成就してくれれば、我々の港での関税の減免と、港近くに大規模倉庫を提供しよう」
「ほう……」
「同時に、この件へ協力してくれた問屋には、新たに設立予定だった公設市場で販売する優先権を与えよう。農家には、貴重となっている人手と、怪異から護る継承者の派遣だ。貴殿のような人物なら、情報には聡いだろう。今、紅浜国では就労先を求める人材が多数いる。農業経験者も多いだろう。本人が望むなら、雇用関係を結んでくれ。支度金は出す」
 紅遠の絹糸や絹織物の貿易政策により、食べられもしない金銭は国庫に余っている。多少の大盤振る舞いは、痛くもない。
 問題は、金銭と換える物資や食糧の確保だった。
 紅遠の提案を聞いた会長は、朗らかな笑みを浮かべる。
「なるほど、なるほど……。いや、流石は紅遠様です。我々にとって何が一番必要か分かっていらっしゃる。流石は一代で紅浜国に産業ブームをもたらし、工業国としての地盤を固めただけはありますな」
 満足そうに言う会長は、握手をしようと紅遠に近付き――紅遠の眼光に足を止めた。
 妖人が、内心では怒りを溜め込んでいることに気がついたのだ。
 そして想わぬ利益で一瞬、紅遠の持つ魅了という妖力特性を忘れていた。
「そ、そういえば紅遠様! 遂に嫁御巫様を一人、娶られたそうですな! 何故か白い喪服に身を包まれた、ミステリアスで美しき方だと! 遅ればせながら、おめでとうございます!」
「……ああ」
「つ、付きましては我々よりお祝いの品を献上できればと思います! 黒髪と白い着物に似合う簪を、いくつか持参致しました!」
 会長が手を叩くと、ドアの外に控えていたスーツ姿の男性が恭しく礼をして入室してくる。
 片膝を付き、開いたケースの中には、いくつもの高価そうな簪が入っていた。
 軍服についた金糸の飾緒を揺らしながら、紅遠は簪に目を見やり――。
「――これを買わせてもらおう」
「……は? いえいえ、これは全て献上品です。全て納めいただければと!」
「私は、私の得た私財から妻へ贈りたいのだ。……感謝するぞ、市場へ出るわけにはいかないからな。代金は家の者に後々、運ばせる形で良いか? 嫌なら、この金の飾緒と交換でどうだ?」
「そそ、それはいただけません! そのような、国主である者しか身に着けられぬ証など……。た、大変なご無礼を致しました!」
 紅遠の内に蠢く怒りが、自分が儲けすぎた為だと考えた会長は、指定された簪を机に置き早足に応接室から飛び出した。
 その背を見送った紅遠は、小さく息を吐く。紅遠が怒りを溜めていたのは、国主として内政の負担が大きくなったからだけではない。
 山凪国が送り込んだ民の中に――どのような罠が仕組まれているか、予想がついていたからだ。
 そして、その罠を持つ者を見極める手段も無ければ、止める手立ても――思いつかない。
「……美雪」
 これから、多大な嵐に見舞われるかもしれない嫁御巫を救う手立てが思いつかない自分の不甲斐なさが、何より腹立たしかった。
 紅遠は簪を手に持つと、美雪の美しい黒髪と白い喪服と調和した姿を想像し頬を緩める。
 然るべき時に渡そうと、そっと内ポケットへとしまった――。
 
 紅遠が官公庁へ詰め切りで、僅かな食事の時間しか過ごせなくなった日々。美雪は部屋に置かれた新しい封筒を見つめ――暗い瞳をしていた。
(また、叔母様や玲樺さん、和歌子様から……。もう、身の程は知っているというのに)
 中身を一瞬だけ目を通し、棚へしまう。
 封の開いていない自分宛の封筒をそのままにすると、どうしても気持ちが悪くなるのだ。中には、もしかしたらこれまでの罵詈雑言を謝罪し、和解するような手紙が入っているかもしれない。
 限りなく低い可能性だとは知りながら、美雪はどうしても――そうあってくれと願い、自ら封を切ってしまった。
「……また、ですか。私が生きていることが、如何に山凪国と紅浜国にとって不利益か……。ひたすら言われなくても、もう自覚しておりますのに……」
 このところ、紅遠は家にほとんど帰ってこれていない。
 山凪国からの国外逃亡者が押し寄せ、対応に追われていることは美雪の耳にも届いている。
 風邪の噂としてだけではない。
「美雪さん? 大丈夫?」
「き、菊さん!? すみません、すぐに淑女教育のお稽古に戻りますので!」
 自室のドア越しに、菊の心配そうな声が聞こえてきた。
 美雪は慌てて棚へと文を突っ込み、急ぎ外へと出る。
「……大丈夫? 顔色が悪いけど、最近頻繁に来る文、ご家族様からと思って渡してるけど……。何か、嫌なことでもあった?」
「い、いえ……。お心遣い、ありがとうございます」
「そう? それなら……。やっぱり、お仕事でのことかしら? あんな噂、気にしないでね」
「あ……」
 菊の言葉に、美雪は――軍の医療施設や民間人へ治癒の妖術を用いた時、そして行き帰りで耳に挟んだ噂を思い出す。
『山凪国では使い物にならなかった嫁御巫が、紅遠様に取り入り情報を流している』
『朱栄様が亡くなった原因である嫁御巫の娘』
『親子揃って、紅浜国に不幸をもたらそうとしている』
『白い喪服は、銀柳に未だ操を立ててる証拠。嫁入りしたクセに、紅遠様へ心を許さないという意志表示を続けている悪女』
 一部、事実が混じるだけに美雪の心を軋ませた。
 それでも、いただいた役目だからと全力で取り組んではいる。しかし、最近では美雪の妖術で治療を受けたがらない人も増えた。
 実際に治療を受けてくれた人の反応も、最初より薄くなっている。
 気まずそうな顔で『ありがとうございました』と小さく呟いたり、中には無言で頭を下げるだけの人もいた。
(紅遠様へ忠誠を誓い慕う方からしたら、私を警戒するのも当然のお話ですよね……)
 冷たい対応を取られても、美雪は別に心は痛まない。
 山凪国では当然の対応だったから、今の反応は別に当然だ。
「紅遠様や菊さん、岩鬼様……。私へ良くしてくれてる方々にご心配をかけてしまい、心苦しいです」
「気にしないでいいのよ。私たちは、美雪さんを信じてるからね」
「……あの、噂なのですが」
「何?」
 真っ直ぐな瞳で見つめられると、美雪は話す勇気が出ない。
 紅遠の父である朱栄が切腹する原因となったのが自分の母の責任という噂は、事実だということを……美雪は話せない。
 これだけ良くしてくれる方が――文子のように桶の水をかけるように変貌したらと、折檻ばかり受けていた美雪は考えてしまう。
 仲良くなったからこそ関係が壊れるのが怖くなることすら、美雪は初めて知った。
(ダメ……。黙っているのは、裏切りかもしれない。嫌われてでも、嘘を吐いてるような状況でいたくない)
 
「あの、菊さん」
「ん? どうしたの?」
「じ、実は……私」
 美雪が白い喪服の前で、震える手をギュッと握る。
 意を決して美雪が口を開こうとした時――
「――美雪殿、すぐにご避難を!」
 切迫した表情、声で岩鬼が飛び込んできた。
「い、岩鬼様!? そのように慌てられて、私は何かやってしまいましたでしょうか?」
「美雪殿が悪いわけではないのですが――デモ隊が、こちらへ向け押し寄せようとしております」
「……ぇ」
「美雪殿、そして菊殿も、すぐに警備が厳重な官公庁へとご一緒に。……過激なデモに発展すれば、美雪殿を処刑しろと叫ぶ民衆が暴徒化する可能性もございます」
 紅遠を慕い、一丸となっていた紅浜国。
 それが、美雪の存在のせいで大衆がデモを起こすほどに過熱してしまった。
「私は……。文に書かれた通り、でした……。菊さん、岩鬼様。そして紅遠様を――不幸にする女……」
 顔を真っ青にして震える美雪の腕と菊の腕を「御免!」と岩鬼は引っ張り、官公庁の中まで逃げ込んだ――。

 美雪たちが官公庁の最上階、厳重な警備が敷かれた一室へ逃げ込んでから数十分。
「朱栄様が死んだ罪人の子を出せ! 紅遠様まで殺す気か!」
「紅遠様を護れ! それでも紅浜国の民か、退けお前ら!」
「怪異の異常襲撃も無能な嫁御巫が原因だと聞いたぞ! 不幸を呼ぶ女を追放しろ!」
「他人に操を立てる白い喪服姿で嫁ぐなんて、この恥知らず! 死に装束に変えてやるわ!」
 夜の官公庁前には、通りを埋め尽くすほどの民衆が溢れかえり、怒声を上げていた。
 多数の継承者や軍人が防備を固めているため、今は侵入を防げてはいる。
 だが、何か火種があれば――すぐに血が流れる事態となる、一触即発の様相だ。
 菊が寄り添う形で、美雪が部屋の隅で俯いていると――。
「――そんな顔をするな、美雪」
 凜とした軍服姿の紅遠が、キビキビとした足並みで部屋へとやってきた。
「紅遠様……。このようなことになってしまい、私は……」
「よい」
「い、今からでも、私が皆の望むように処刑されれば……。紅浜国は、また一丸と――」
「――私は、良いと言ったんだ。二度と、そのようなことを申すな」
 厳めしい表情で言う紅遠に、美雪は叱られた気分になる。
「……申し訳ございません」
 自分の発言が紅遠を不快にしてしまったこと。それだけではない。今、招いている状況など全てに対しての謝罪であった。
 紅遠はテラスの外から響くデモ隊の声に向かい、カツカツと革靴の音を鳴らして歩く。
「岩鬼、ピストルを貸してくれ。妖力の籠もってない通常弾でよい」
「はっ!」
 自分が相違していたピストルを机の上に置き、岩鬼は一歩下がる。
 紅遠は妖力が漏れ出ないよう、ここ最近は特に注意を払っていた。しかし、確実に岩鬼に影響を与えないとは限らない。
 岩鬼が離れたのを確認した紅遠は、ピストルを取り、テラスへ通じる戸を開く。
 すぐ下で響く怒声に躊躇うことなくテラスに出た紅遠は、夜空に向けピストルを構えると――引き金を引いた。
 西洋と紅浜国の文化が入り混じる街並みに、その炸裂音はよく響いた。
 狂気の熱で狂う民衆が、銃声の発生源――紅遠に目を向け、僅かに静まる。
「ここに押しかけた愛する民たちよ、私の問いに答えよ。――何の為に父上が腹を切り、私が首を跳ねたと思っている?」
 決して大きな声では無い。それでも凜とした、よく耳に残る声で、紅遠は問いかける。
「紅浜国の民を護る。その一心でした父上の決断と、私の覚悟を無に帰すつもりか?」
 紅遠の問いに、集っていた民衆は戸惑う。
 自分たちは紅遠のために、怪しい嫁御巫を追い出そうとしたのだ。それを何故、咎められなければいけないのかと不満にも思う。
「あ、あの嫁御巫は、紅遠様を陥れようとしています! 朱栄様が死ななければいけなくなった女の娘だと! 紅遠様は、騙されているのです!」
「美雪は、私が自ら山凪国から娶ってきた。美雪本人の意思など関係なく、有無を言わさずだ。美雪は確かに、父上が死んだ原因となる女の血も引いているかもしれない。だが同時に――我が最愛の師であり、生涯の友である銀柳殿の子でもある」
 デモ隊の一人が放った言葉に、紅遠は淡々と答える。
 紅遠と銀柳の仲は、紅浜国では有名だ。四方八方から狙われる紅遠の唯一の理解者にして、最愛の友。
 そんな紅浜国にとっても慕うべき男の血を、件の嫁御巫――美雪が引いているなど、デモ隊の誰一人として知らなかった。
「父の死因となった罪人の子だと? そんなことは承知の上で、私自身が美雪を読め御巫に選んだのだ」
 部屋で紅遠の演説を聴いていた美雪は、紅遠と初めて会った時のことを思い返す。
『私が最も愛した男と、最も難き女の子よ。――私の嫁に来い』
 今でも一言一句として忘れない。
 白い喪服で俯く自分に、新たな人生を与えてくれた――強引な言葉だ。
「私が護るべき、愛する国民たちよ。人の善悪は、血筋のみで決まるのか? 血が受け継がれれば、罪も受け継がれるのか? ならば、お前らの先祖に罪を犯した者が一人もいないと断言できる者のみ前に出よ!」
 身振りも交え、民衆を見渡すと――顔を見合わせるだけで、前に出る者はいなかった。
 自分が罪を犯したかどうかは、自分自身で分かる。
 だが、自分の親や先祖まで問われると、確かめようがない。
 紅遠の発現に、高まっていた民衆たちの熱は徐々に冷めていく。
「お前たちは、美雪が実際に紅浜国で何を成してきたか、本当に何も知らぬのか? 人の良い行いは、見て見ぬ振りをしていないか?」
 美雪の母の行いばかりに目が行っていた。美雪自身が、どのような人物かなど――噂話を信じ、確かめずに動いていた。
「知らぬのならば私が――改めて美雪の行いを、私情を交えず教えよう。他ならぬ、最も難き女の娘である美雪が紅浜国で成してきたことをな」
 紅遠は、ゆっくりと語り出す。
「初日、我が旧領の民であった子供を、美雪は未熟ながら命を賭して治癒の妖術で救った。次に、怪異との闘いにおいて、紅浜国を護る誇り高き軍人が死の危機に瀕しているのを救った。今でも、軍の治療施設で傷付いた軍人や民に治癒の妖術を施している。それは皆も、その目で見てきたことじゃないのか?」
 心当たりのある者がデモ隊に混じっていたようで、恥ずかしそうに顔を俯かせた。
「先日の怪異の大襲撃において、私は――妖力が枯渇し、致命傷を負った。私が棺に入り官公庁へ運び込まれたと、耳にした者もいるのではないか?」
 一部の者を除き、秘匿されていた情報である。
 押し黙っていた民衆たちは、まさかとざわめき始める。
「あの噂は事実だ。医者も治療できないで死を待つ私を救ったのが――他ならぬ美雪だ! どこの世界に、葬ろうとする相手の命を救う馬鹿がどこにいる!?」
 声を張り上げ、遙か遠くにいる者にも聞こえるように紅遠は言葉を発する。
 紅い目に見据えられた者、声が届いた者たちは――紅遠の尤もな言葉に、自分たちの軽率な行動を恥じた。
「傾国の鬼人と蔑まれる私を信じ、ここまで付いてきてくれる民たちよ! 他国の卑劣な流言に踊らされるな! 人とは――発した言葉で信じるのではない。成してきた行動で信じるのだ!」
 美雪は、紅遠の言葉に瞳を滲ませる。
 自分のしてきたことは無駄じゃなかった。紅遠が、そう告げてくれているように感じたのだ。
「それでも、万が一……本当に美雪が本当に私を裏切れば、他ならぬ私が美雪を斬る! 私以外の誰にも、美雪を殺す役割は渡さん!」
 歪な関係だ。
 生涯の師であり、最愛の友の子。同時に、最も難き――父の死因を生み出した女の血も引いている。たとえ紅遠の暴走した妖力により、正子が正気を失っていたとしても、正子が紅遠へ不用意に近付かなければ、あのような凄惨な事件は起こらなかったのだから。
 自分以外の誰にも、美雪に手出しをさせないという言葉は――歪な愛にも思えた。
 どうでもいい相手なら、野垂れ死のうが構わない。だが美雪は、たとえ復讐の相手であったとしても、紅遠にとってどうでも良い相手ではない。それだけで、幸せに思えた。
「私がここまで言っても分からぬ愛国心なき者は、傾いても残ってくれた民にはいないと、信じている! お前たちは、私の言葉より影も踏ませぬ卑劣な噂話を信じるのか!? どうなのだ!?」
 ざわめきは――徐々に紅遠の投げかけた言葉への賛同に変わっていく。
「私は紅遠様を信じます!」
「俺たちが間違っていました。紅遠様の選択に付き従うと心に決めたはずなのに!」
 口々にそのような言葉が聞こえ、紅遠は満足気に頷く。
「それでこそ、傾国に残る選択を選んだ――誇り高き、傾国の鬼人の民である! 皆、解散して各々の暮らしに戻るのだ。流言に惑わされず、私と友に強き国を作ってくれ!」
 怒りの声を上げ集っていた民衆が――まるで祝勝パレードにでも参加しているかのような叫び声を響かせた。
 暫し、その声を聞いていた紅遠は、やがて身を翻して室内へと戻る。
 立派な主の姿に、岩鬼や高官たちは頭を下げて迎える。
 そんな中を通り、紅遠は美雪の前まで歩き、息が届きそうな距離で立ち止まった。
「美雪、痛感したであろう。……信用なぞ、儚く脆いものだ。積み上げてきた信頼も、簡単に崩れ去る。それでも崩れぬ強固な信頼を築ける相手を、見つけよ」
「紅遠様、本当に……。私は、生きていてもよいのでしょうか? 御迷惑しかかけてない役立たずの私なんか、誰も求めて――」
「――動くな」
 紅遠が懐に手を入れたのを見て、美雪は目を閉じる。
 懐刀やピストルで殺されるのかと思い、覚悟を決めたのだ。
 しかし、感じたのは――髪に何かが付けられる感触。
 目を開けた美雪が、髪に触れると、硬い何かがある。
「……これは?」
 丸い目で紅遠に問う。
 紅遠は、それまでの冷徹な表情、紅い目を細め――微笑みを浮かべた。
「簪だ。美雪に付けてほしいと思い、買っておいた。……想像通り、美しいな」
「紅遠、様……」
「私はな、美雪以外にこうして……温もりを感じながら話せる相手がいないのだ。夫婦として当然な行動をできなくても、私は美雪を求めている。……この行動だけでは、伝わらぬか? 美雪が生きている理由としては足りないか?」
「いえ……。十分でございます。一人だけでも、私を求めてくれるなら、それで……」
 万感の想いに、美雪の声は涙混じりとなっている。
 そんな美雪の頭を優しく撫でると、紅遠はそっと美雪の肩を掴む。
「どうやら、一人だけではないようだぞ? 後ろを振り返ってみよ」
 美雪が後ろに振り向くよう、紅遠が手で誘導する。
 すると、美雪の目には――
「――岩鬼様、菊さん……」
 涙ぐむ岩鬼と、菊の姿が映った。
(そうだった……。私、菊さんに話せてなかった。紅遠様の父君、私は朱栄様の仇の娘だったって……。裏切られたって、思われていますよね)
 どう謝罪したものかと唇を震わせていると、岩鬼が先んじて口を開く。
「美雪殿は、間違いなく紅浜国に必要な方です。紅遠様の嫁御巫は、美雪殿以外には務まりませんからな」
 自分が必要とされている。山凪国で無能のゴミと罵られ、蔵で嬲られるぐらいしか役割がなかった自分が――換えの効かない存在のように、思って貰えている。
 全ての真相を知ってもなお、そう告げられると――美雪の瞳が、じわりと滲む。
「……美雪さん。よく似合ってるわよ。……辛かったわね。貴女の悩み……抱えていた血の因果に気づいてあげられなくて、ごめんなさいね」
 しわくちゃになった手で、菊は美雪を抱きしめた。
 優しく抱き寄せる力、温もりに――涙を湛える美雪は、いよいよ頬を伝うほどに溢れ出してきた。
「菊さん、私、私……」
「何も言わなくていいわ。……今は、私をお母さんと思って泣いてね」
「こんな温もり、感じたことが……。本当に、本当にごめんなさい」
「ごめんなさいって謝られるよりも、ありがとうって一回言われる方が嬉しいのよ?」
 優しく諭すような言葉だった。
 頷いた美雪は、ありったけの想いを込めて
「菊さん、本当に……。ありがとうございます」
 囁くように、感謝を伝えた。
 居並ぶ者たちが胸を熱くする中――一人の軍人が、室内に駆け込んできた。
 紅遠は、山凪国の民が押し寄せてきた時と似た光景に、何が起きたか悟る。
「紅遠様へ、ご報告を申し上げます! 山凪国より、突然の同盟破棄の宣言と書状が!」
「やはり、来たか」
「さ、更に! 国境を目指して、数万の軍勢が押し寄せてきているとの報告が!」
 その報告に、感動に胸を熱くしていた面々は驚愕に鼓動を高める。
 岩鬼は、思わず
「数万だと!? そのような軍勢を、即座に動かせる筈がない。山凪国め……。どれだけ前から準備をしていたのだ!」
 忌々しげに、そう叫んで机を拳で叩いた。
 山凪国の国主が壬夜銀に代替わりしてから起きていた、数々の異変が――全て、この時のためだったのだ。紅浜国内部を弱らせ、力尽くで奪う。
 準備は、遙か前から着々と進んでいたのに、自分たちは何も有効な手を打てなかったと、表情を歪める。
 そんな中、紅遠は
「無理やり攫われた自国民の保護という名目か。……壬夜銀め、内部からの煽動工作が失敗したからと、遂に力押しにでたな」
 書状に目をとおしながら、静かながらも昂揚したような声で言う。
 全員の視線が紅遠に集中する中で、紅遠はぐしゃりと書状を握りつぶした。
 そうして、待ちかねたように瞳を紅く輝かせ――
「――ならば、私も鬼人の力を見せてやろうではないか」
 闘志を燃やし、そう宣言した――。
 
 デモ隊への対策本部は、すぐに軍事作戦本部へと名前を変えることになった。
 美雪や菊などは館へと帰し、紅遠は軍部の上層部を中心に作戦を練る。
 まず最初に指示をしたのは、敵軍の数や兵科、継承者らしき人物や嫁御巫の存在などである。
 数万の大軍の行軍速度など、遅い。騎兵隊のみで構成できる人数ではなく、間違いなく歩兵の速度に合わせているはずだ。
 偵察兵が急行すれば、その詳細が分かるはずだ。
 そうして、偵察兵が戻ってくると――。
「――岩鬼は継承者たちを指揮し、丑三つ時の怪異侵攻へ備えよ。山凪国側は無視してよい」
「はっ! それでは紅遠様が自ら、山凪国軍へ対抗する兵の指揮を執られるということでしょうか?」
「いや、そのようなものは不要だ。……一般兵、及び残った継承者は、国内の警戒に当たらせろ。既に埋伏の毒は、一度デモの煽動という形で起きた。不穏な動きをした者は、捕らえろ」
「そ、それでは山凪国軍は放置ですか!? 山凪国側の駐屯地だけでは、数万の軍勢に一飲みにされてしまうと意見具申致します!」
 一つの駐屯地には、一般兵を合わせても軍人が千人程度しかいない。職業軍人のみではなく、国民を動員して防衛に当てようにも物資が不足している。
 とても数万の大軍に対して対抗できるとは思えなかった。
 紅遠は、揺るがぬ瞳で岩鬼に答える。
「勘違いをするな、放置はしない」
「……どういう、ことでしょうか?」
 敵軍に対して軍は派遣しないが、放置はしない。
 どうやって数万の大軍を食い止めるのか、方法が思い浮かばなかった。
「岩鬼。……私が何日、妖力を溜め込んだと思っている? 岩鬼の知る限り、私が妖力を爆発的に向上させてから、最大何日妖力を溜め込んだ?」
「それは……。これまでは、丸一日もなかったかと。……紅遠様、まさかとは思いますが」
 紅遠が国主に就いてからのことを、岩鬼は振り返る。
 嫁御巫の助力を得られない紅遠は、自身の妖力を用いて国中を駆け回り最低でも一日一回は防衛に参加していた。
 それが、ここのところは全く参加していない。妖力は、かつてないほどに充填されているだろう。
 そのことを、ここで口にするということは
「岩鬼の予想通りだ。申したであろう――鬼人の力を見せてやるとな」
鬼の妖人である自分が、単身で大軍に立ち向かうということを意味していた。
 つい最近、怪異の大軍により市の危機に瀕した紅遠を目にしている岩鬼は止めたい。
 だが、紅遠の声には、一歩も譲らないという意思が籠もっていた。
 信頼した国主が、意見を聞いた上で決定したことならば従わざるを得ない。
「我が主を信じ、もしもの時は――後を追わせていただきます」
「もしもなど、起きようもない」
「それは、何故でしょうか?」
「本当に、岩鬼も分からぬのか? いや、岩鬼は仕方ない。だが壬夜銀は相当に私を侮っているか、暗君だな」
 嘲るように、紅遠は口にする。
 そうして、心なしか低い声で
「――妖人が万全の力を振るった時、人間に抗う力はない。妖力を持つ嫁御巫だろうと継承者だろうと、脈々と力を増し受け継がれてきた魂刀も無しには無力だ。だからこそ、どの国も妖人が君主になっているのだろう。これは不条理なまでの決定的な武力差。種族の差という世の摂理だ」
 居並ぶ皆に説明した。
 これまで万全の紅遠を目にしたことがない人々は、わすれていたのかもしれない。
 朱栄や銀柳といった偉大な妖人でさえ、幼い紅遠を見て自分を超える。そう言わしめる、理不尽の権化であったことを。
「最強の鬼人様を侮るような発現をしたこと、謹んでお詫び申し上げます」
 頭を下げ、岩鬼は眼前の主を信じる。
 魅了の妖力にばかり目が行きがちだが、十一年前の時点で朱栄と銀柳を相手に渡り合っていたのだ。
 それが――まともに休む間もないほど、怪異との実戦を一七年間も続けていたら?
 妖力が万全となった紅遠の見えない強さを想像し、冷や汗すら流れる。
 そうしていると、会議室のドアがノックされた。
 入室を許可すると、一人の若い軍人が片膝を付いて
「申し上げます。敵兵の一人……一軍の司令官である坂柳という者が単身で投降してきた為、拘束した上で連行して参りました。手土産を持ち、紅遠様へのお目通りを願っております」
 そう報告をした。
 紅遠は、銀柳と同じ『柳』の文字が入る名字を記憶から探る。
「坂柳……。山凪国の老将、銀柳殿が深く信を置く人物として語られていたのを聞いたことがある。自身の名を一文字分け与えるほどに、重用していたとな。……いいだろう、投降を受け入れる。通せ」
 先日、直接話した逃亡兵が裏切ってデモを煽動していたかのは分からない。だが、不用意に会うのは間違いかも知れない。そうとは知りつつも、紅遠の直感が会うべきだと告げていた。
 やがて入ってきたのは、後ろ手を縛られ継承者二人に連行される総白髪の軍人だった。縫い付けられた徽章から、身分が高いことが窺える。
 縛られながらも、坂柳は頭を下げた。
「面を上げよ。坂柳と申したな。紅浜国へ投降したいとのことだが、何故だ? この情勢なら、山凪国が有利ではないのか?」
 坂柳は、笑みを浮かべながら首を振る。
「紅遠様。ご冗談で老人を試されずとも、手前は裏切るつもりなどありませぬ。山凪国が有利など、有り得ない話でございます。壬夜銀様が総指揮を執り、紅遠様が戦場に出たら戦うのなら、まだ僅かに可能性はあったかもしれませんがねぇ」
「……ほう。傾国の鬼人という二つ名で蔑まれる私を、侮らないのか」
「ご冗談を。侮っているのは、壬夜銀様や今回の総司令官を務める朝原親子でしょうな。私は、銀柳様の片腕として幼き紅遠様が立派に父上の介錯を務め――魂刀に認められた場に立ち合っております。あの力を見て、直接戦闘を挑むなど愚行ですなぁ。……そう、お諫めしたのですが、無念です」
 その言葉から、銀柳の跡を継いだ壬夜銀に諫言を呈したのが窺える。
 同時に紅遠は、総司令官役が――美雪の実家である朝原家なことに強い違和感を抱いた。
「朝原家は、それほど壬夜銀に重用されているのか? 十七年前の事件以降、没落の一途を辿っていると認識していたが」
「仰る通り、家臣団の強い反対で権力の中枢から遠ざけられておりました。……しかし、このところは頻回に壬夜銀様と謀を企てていた様子ですな。追い詰められた旧名家が、最も何をするか分からない。そういうおつもりかもしれませぬ」
 坂柳の言葉に、紅遠は頷いた。
 手を縛っている縄を解くよう指示をする。
 自由になった坂柳は――懐から一冊の手記を取り出し、捧げるように突き出した。
 岩鬼伝いに、紅遠が手記を手にする。
「これは?」
「手土産にございます。……銀柳様の手記で、自分の死後――美雪様を選ばれたら、紅遠様へと。壬夜銀様の目があり、お渡しするのが遅れて申し訳ございません」
「銀柳殿の手記……。私が美雪を娶ったら渡すよう、事前に指示をしていただと?」
「ええ。……どうぞ、出陣を前にでもお読みくだされ」
 坂柳は、やっと役目を果たせたとばかりに頬を緩ませる。
 紅遠はゆっくり頷くと、手記を懐にしまった。
「――それでは、各自行動に移れ。丑三つ時に行動開始だ」
 居並ぶ一同が了承したのを確認した紅遠は一旦、館へと足を進める。
 誰もいない場所で、銀柳の残した想いを確認したかった――。

 風呂で身を清めた後、紅遠は戦闘まで身体を休めようと浴衣に着替え離れに戻る。
 座布団に正座しながら、銀柳の残した手記を読むと――書いてあったのは、美雪と十二歳の選定の儀で会ってからの見解ばかりであった。
「……選定の儀での妖術発露は微弱なれど、その神眼の底が知れぬ面妖さがある。自分の血を引く子の中で、最も己と似た力を感じさせた。自分と同じであれば、私の妖力にも魅了されない可能性があるものの、正子の血も継いでいることから嫁入りさせるよう踏み切れなかったか……」
 能力不足の美雪を、銀柳が無理やり嫁御巫見習いに引き上げたとは耳にしたことがあった。
 だが、何故か紅遠に魅了されない美雪の可能性にまで、銀龍が気がついているとは思わなかった。結局、自分の考察だけでは確証を得るには至ってなかったようだが――。
「――だから、私自身が一人の嫁御巫を選択して娶るよう、遺言状を届けたのだな……。銀柳殿。我が生涯の師であり、最愛の友よ……」
 銀柳は、残され誰の温もりにも触れられず――数百年という天寿を生きる紅遠を、案じてくれていたのだ。同時に、紅遠ならばきっと美雪を選ぶと思っていたに違いない。
(どこまで思い描いていたのだ……。銀柳殿、あなたは凄い銀狼だ……)
 壬夜銀の魂刀となった友を思い、紅遠は唇を噛む。
 もう会えない友と、また語りたい。もう剣を交えられない師と、また武を高めたい。
 そんな想いに胸を痛め、思考を銀柳の残した美雪に移す。
(美雪の体質は、銀柳殿の血による特異性だったのか。……だが、一度魅了されている正子と血を分けた子だ。……どこまで私の妖力に耐えられるかなど、試してみねば分からぬが……)
 美雪の献身的な行動と、銀柳の見解を照らし合わせる。
「……もしかすると――美雪は正気でありながらも、私に尽くすよう既に魅了で誘導されているのかもしれない」
 紅遠の中で、もっとも可能性が高く――最も、嫌な予想が頭に浮かんだ。
(正子のように自我を失わず正気を保てたのは、銀柳殿の妖力を受け継いでいるからだろう。……だが、私のような至らぬ夫に、奇妙なまでに尽くそうとしてくれてるのは、常に優しかった正子と重なる。両者の力が混ざり合えば、正気は保ちつつ私へ尽くそうとする――自由とは程遠い、操り人形のような存在へなり果ててしまうのではないか?)
 いってしまえば、自分の都合がいいように動く――催眠だ。
 紅遠は、今までの美雪の言動を思い返し、美雪には自分の意思で生きてもらいたい。
(疑いながら接するなど、美雪に対しても無礼だ。……それならば、魅了されない確実な距離を保てばいい。ただ時折、話せるだけでも……私は幸せだ)
 美雪はどうだろうか、と紅遠は考えた。
 止まった時の中にいるように、思考をぐるぐると巡らせ続けていると――。
「――紅遠様、入ってもよろしいでしょうか?」
 襖の外から、美雪の声が聞こえた。
 紅遠は慌てて手記を浴衣の袖に隠す。
「ああ」
 己の心情、この胸に広がる感情をどう表現していいか分からず、ぶっきらぼうに返事をした。
 静々と襖を開け、髪を簪で飾り白い喪服に身を包んだ美雪は紅遠の近くへ座る。
「夜分に申し訳ございません。……閨に近付けば、斬ると仰っておりましたのに」
「……そのようなことも、申したな。遠きことのように思えるが、あれは美雪がきた初日か」
「はい。……言いつけを破り、申し訳がございません。不埒な考えではなく、紅遠様のお役に立てないかと参りました」
「…………」
 紅遠の役に立つ。
 一見、正気を保っているようには見えるが、中身は分からない。
(人間の心とは……本当に難しいものだ)
 注意されれば言いつけを護りつつも、自分に尽くすことは止めない美雪を見て、紅遠は思う。
「紅遠様は、この後で山凪国との戦へ出られるのですよね?」
「そうだ」
「私も、一緒に連れて行ってはいただけませんか? その、治癒の妖術がありますので、盾には慣れずとも包帯や薬の代わりにはなれるかと……」
「……何故だ」
 紅遠は、辛そうに呟く。
 美雪は、紅遠の様子が変だと思い
「何故、とは?」
 恐る恐る、そう尋ねた。
 暫し沈黙していた紅遠は、ゆっくり言葉を選ぶように口を開く。
「美雪は何故、死ぬかも知れない戦場にまでついてきて、私に尽くしたいと言うのだ? 嫁御巫としての責務か、血の因果による罪悪感からか?」
 問われて目を丸くする美雪に、紅遠は
「それとも――私へ、愛情を抱いているのか?」
 紅い目を一直線に向けながら、美雪に尋ねた。
 美雪は、心の中で紅遠の問いに自分なりの答えを探す。
(……分からない。私の胸を疼かせる、この感情は……。一体、何なのでしょう。何か答えなければ、失望させてしまう。ですが……いい加減なことを、紅遠様に答えたくありません)
 胸を押さえながら俯き、葛藤を続ける。
 二人の間に、気まずい沈黙の時間が流れ続ける。
 やがて、紅遠はスッと立ち上がり――軍服を取りだした。
「……時間だ。私は着替える。美雪は館へ戻っていろ」
「ぁ……。紅遠様、申し訳ございません。どうか、私も一緒に連れていってください!」
 危険な戦場へ、紅遠が一人で行ってしまうと思った美雪は、腕を引き紅遠を引き留めようとするが――紅遠は、その手を避けた。触れられることさえ、嫌ったかのように。
「安全なところで、大人しくしていろ。……やはり、私には必要以上に近寄るな」
 少し前の紅遠に戻ってしまったかのような、拒絶するような言葉。
 だが、どこか思いやりが籠もった語調に聞こえる。
(私が、優柔不断で自分の心情さえ分からないから……。嫌われてしまったのでしょうか)
 美雪は自分を責め「失礼致します」と、離れを去る。
 自室へ向かい歩きながら、美雪の頭には――紅遠と親しくなってかたの日々が次々と浮かんでくる。
(一緒に食べたお食事、いただいた簪……。自責の念で震える私の肩を……心を温かく包んでくれた温もり。あの時に感じた心すら言葉として表現できず、申し訳がございません)
 自分も、少なからず魅了の影響を受けているのかもしれない。
 一度そう考えてしまうと、軽々しく口にはできない。
 美雪は自室に戻り、ベッドへ腰掛けると
「お願いします。……どうか、ご無事に再会できますように」
 月明かりが差し込む部屋、白い喪服で祈りを捧げ姿は神聖さを感じさせた――。

 山凪国側の門前には、夜闇の中を行軍してきた数万の軍が押し寄せていた。
「雲霞の如き大軍、烏合の衆。……どう表現すれば適切か」
 門の上に立つ紅遠は、月明かりに照らされる山凪国軍を見て、風に吹かれながら呟く。
「早々に済ますとしよう」
 人差し指を突き立てると――指先に妖力込め、ぽっと小さな火が灯る。
 その小さな火に気がついた山凪国軍は
「傾国の鬼人が出たぞ!」
「継承者、一斉射撃準備! 嫁御巫様には、守護結界を張っていただけ!」
「ガトリングガンを前に! 妖力を込めた弾を、ありったけ撃ち込め!」
 口々にそう言いながら、慌ただしく動き出す。
「山凪国からここまで、わざわざガトリングガンを転がしてくるとはな。ご苦労なことだ」
 戯れとばかりに、紅遠は準備が整うのを待つ。
 嫁御巫による守護結界が、五重に発動した。数万の軍勢を覆う亀の甲羅にも似ている。
 銀柳の妖力が満ちていた美しい銀色をした妖力とは違う。くすんだ灰色のような妖力を目にして、紅遠は感傷に浸る。
「わっはっは! この数の結界は破れまい! 撃てぇえええ!」
 聞き覚えのある声――朝原冬雅の声に会わせ、弾丸が紅遠に向かって放たれた。
 立ちこめる煙に、硝煙の臭いが辺りに立ちこめる。
「はっはっは! 大物ぶりおって国を傾ける愚王が! 蜂の巣に――……」
 ありったけの弾を撃ち尽くした後、そこには
「……もう終わりか?」
 紅色の障壁により、無傷な紅遠が退屈そうに立っていた。
「ば、化け物か……。だが、貴様の攻撃はこちらへ届かん」
「おい、早く妖力を新しい弾に込め直せ!」
 冬雅や双次の声が、恐怖に戦く山凪国の軍勢に響く。
 紅遠は、火の灯る指先を――雲霞の如く押し寄せていた山凪国軍を囲うように動かす。
「馬鹿め! そのような小さな炎、何のことはないわ!」
「……燃え上がれ」
 呟くように紅遠が指示すると――炎の壁が天を目がけ燃え盛った。
 五重に張った守護結界を打ち破り、山凪国軍は炎の壁を前に一歩も動けなくなる。
「な、何だ……。何なのだ、これは!? 嫁御巫様、早く結界を!」
「張ってるわよ! でも、妖力が打ち消される! ダメ、私はもう逃げるわ!」
「逃げ場なんてないだろう!? いいから、全力、で……」
 炎の壁を睨みながら叫ぶように指示していた双次は、言葉が止まる。
 空に――炎の太陽が浮かんでいたからだ。
「武器を捨て、総司令官である朝原親子を私の前に連れて来い。十秒だけ待ってやる」
 この瞬間にも大きさを増していく妖力の塊――炎渦巻く太陽。
 指先に灯る小さな炎でさえ、火の壁で大軍を覆ったのだ。あんなものを、撃ち込まれたら……。灰すら残さず、死んだことにも気がつかない未来を浮かべ、絶望が広がった。
 人の上に位置する理不尽の権化である妖人、最強の鬼人。
 山凪国兵は我先にと銃や剣を捨てていく。
 遂には朝原親子を捕らえ「これでよろしいでしょうか!? どうか、命ばかりは!」と助命を請い始めた。
 紅遠は、炎の太陽に込めた妖力を自分の元へ再吸収することで、答えとした。
「あ、あれだけの妖力を自由自在に……」
「誰よ、傾国の鬼人は……国を危うくする無能とか言ったやつは。とんでもない、化け物じゃないの……」
「妖人の本気とは、ここまで怖ろしいものだったのか?」
 顔から表情を失い、呆けたように山凪国軍は呟く。
 たとえその身は業火に焼かれなくとも、心には決して消えない火傷のような跡が深々と刻まれた。
「お、お前ら! 総司令官であるワシに何てことをする!」
「止めろ、貴様らが足止めをしろ! 俺は、名門朝原家の次代当主だぞ!?」
 後ろ手に縛られた朝原親子が山凪国兵によって引き摺られ、紅遠の前へと投げ捨てられた。
 連れてきた軍人や嫁御巫は、平伏している。
「このまま武装を放棄して国へ帰るのであれば、命令されて動いた貴様らは見逃してやる。二度はない。よいな?」
「は、はい! ありがとうございます!」
「二度と、二度と紅浜国への手出しは致しません!」
「行け」
 弾かれたように、山凪国兵たちは逃げ去る。
 朝原親子も、腕を縛られたまま走って逃げようとするが――。
「――何処へ行く? 私は、貴様らに自由を許した覚えはない」
「……ひっ」
 行く先に、紅遠が立ち塞がる。
 恐怖に声が引き攣った。
「聞こえるか、門衛よ」
「は、はい! 聞こえます紅遠様!」
「こいつら二人は、牢に――……」
 紅遠が指示を出そうとした時だった。
 紅浜国の中心地で膨大な妖力が巻き上がり、轟音が国境沿いの門にまで響いて聞こえた。
 紅遠が慌てて振り返ると
「空を駆る、狼の怪異だと?」
 巨大な灰色の狼が、夜空を走っていた。回って山凪国側へと向かうように。
「まさか……嫁御巫の身体に生贄術を組み込んだか」
 人間と協力して国を護る、妖人として禁忌と呼べる術に、紅遠が忌々しげな眼差しを向ける。
「がっはっは! 我が事成れり! 最初から軍勢は囮よ!」
「逃げ込んだ民の中に、生贄となった嫁御巫が紛れ込んでいたのにも気がつかないとはな! やはり国を傾ける愚人か! 俺たち朝原の名は、これで永遠に語り継がれる!」
 血走った目で、狂ったように叫ぶ二人には目もくれず、紅遠は――空を駆る狼の口元を見て
「……美雪」
 呟くように、名前を呼んだ。
 白い喪服姿の美雪が、みるみる遠ざかっていく。
 いくら紅遠とはいえ、空は飛べない。あの狼に追いつくのは、不可能だった。
「わっはっは! ワシらの命なぞ、内部工作が終わった時点で捨てておったわ!」
「俺たちは、家の名誉を護った! 子々孫々、語り継がれる戦功だ!」
「……何故、美雪を攫う計画を立てた。答えよ」
「ふんっ! 壬夜銀様は自分の物を誰かに奪われるのを決して許さない! 美雪のようなゴミであってもだ! あのゴミに傾倒する貴様が苦しむと思えば、それこそ何でもするわ!」
 吐き捨てるような冬雅の言葉は、もう死という運命を受け入れていた。
 最期に言いたいことを全て言ってやるとばかりに、紅遠へ暴言を吐く。
 余りの無礼さに、門衛達が銃口を向けるが――紅遠は、手で制した。
「……この者たちの処分は、後々決める」
「で、ですが! 我らが主君に対して余りにも目に余る――」
「――二度、言わせるな」
 紅遠の怒りが、妖力を発さずとも門衛たちへ伝わる。
 いや、内に怒りと妖力をマグマのように込めているからこそ、より身震いするような恐ろしさであった。
「牢へ閉じ込め、生かしておけ。……処分は、美雪と共に決める」
「か、かしこまりました!」
 紅遠は一秒でも早く館へ戻りたい気持ちを抑え、駐屯地に停めてあった車に乗る。
 この先も見据え、妖力の消費を抑えた行動であった――。
 
 館へと着き、車から降りた紅遠が目にしたものは――西洋の建物を真似て建てられた館が崩れ落ちた姿だった。
 そこには既に岩鬼を始めとした高官たちが集い、着物を汚した菊も立っていた。
「紅遠様……。お帰りなさいませ。美雪さんを護れず、私は……」
「菊は悪くない。犯人は分かっている」
「……はい。こちらの文が、崩れた建物から出てきました。棚に入っていたのを、見つけたのですが……」
 便箋の束を差し出す菊の手は、皮が捲れていた。
 一瞬で夜空へと去った怪異は見えず、美雪が瓦礫の下にいると思い素手で掘り起こした結果だろう。
 血と埃で汚れた便箋から文を取りだし、紅遠は目を通す。
「……家族とは、血の繋がりとは何なのだ」
 怒りを押し殺した声に、菊は頭を下げる。
「ご家族からの文と思い、美雪さんへ届けてしまった私に非があります。……思えば、文が届く度に美雪さんは表情を暗くしていたのに……」
「…………」
 紅遠は文を握り潰し、音を立てて引き裂いた。
 美雪が連れ去られた方角を見つめ
「山凪国を、落とす」
 そう宣言した。
 それは朱栄や銀柳が何としても護りたかった、両国の平和的友好関係を終わらせる宣言だ。
 壬夜銀の暴走で軍を差し向けられただけであれば、犠牲者も出ていない故に賠償や謝罪、二度と同盟を破棄しない条件で落ち着けようと紅遠は考えていた。
 しかし――壬夜銀は、やり過ぎた。
 岩鬼は、黄昏時のような紅い瞳を夜空へ向ける紅遠に、申し訳なさが滲み出ている声で語りかける。
「久遠様。恐れながら……。我が国には、国土を拡大させる余力がございません。無論、久遠様の妖人としての武力は疑いようのないものです。壬夜銀に敗れるなどとは欠片も考えておりませぬので、誤解なさらず」
 岩鬼として、心情では黙って紅遠の背を押してやりたい。
 だが、神座不足な国家の大事を一手に担う国務大臣として、言わないわけにはいかない。
「拡大した領土を治めるには人材という力が必要です。現状の紅浜国の領土維持ですら、じり貧なほどに乏しき人材。内政官の不足。そして何より嫁巫女様の御力がなき我が国では……。そこにたとえ、正気を保てた美雪殿が加わろうとも、です。一地方すら守護する結界をも張れぬ美雪殿お一人の妖術では……」
 苦しそうに語る岩鬼の言葉を、紅遠は遮る。
「皆まで言うな。分かっている。――私に、側室の嫁巫女や妾を多数取れと言うのだろう。私の妖力によって正気を無くすとしても、それを受け入れ利用しろ、と」
 嫁御巫が不在の国。
 それは、正子が暴走した件の二の轍を踏まないという理由もあるが――加減次第では、嫁御巫を意のままに動かすこともできてしまう。
 暴走しないように、それこそ銀龍の葬儀の場で紅遠の虜になった嫁御巫たちのようにだ。
 御心の儀を行えない以上、個々の力は他国より弱いだろう。
 それでも、数を揃えれば国境の守護結界ぐらいは張れるはずだった。
「……はっ。久遠様が望まぬ、誠に心苦しいことと知りながら」
「私は何でも、引き受けよう。これから先の一生、人を愛せず役割をこなす歯車になろうとも構わん。――二度と美雪に顔を合わせられぬ、鬼の所業。……それでも、よい」
「久遠様……。誠に、痛ましきことです。このような諫言を申す私に、如何様にも罰を……」
「よい。岩鬼は理屈に合った正しきことを申し、私が理屈に合わぬ愛しき感情を抑えられぬ子供であっただけだ。真の忠臣を罰する、愚かな主君にしてくれるな」
 岩鬼は涙を呑み、紅遠の言葉を胸に刻む。
 紅遠は儚げな顔、優しい声音で
「……美雪には二度と得られぬ感情、一生分の温もりと、愛を教えてもらった。それで十分、私は役割に徹することができよう。……皆も、それでよいな」
 そう問いかけた。
 敬愛する主が抱く胸の内を思えば、誰も異論など挟めない。
 再び得た幸せを、自ら放棄するかもしれない。
 それが、どれだけ辛い決断なのかは理解しているからだ。
「紅遠様……。嫁御巫である美雪殿への想いを自覚されてもなお、御身は想いを行動に移せない……。僭越ながら幼き頃より紅遠様の成長を目にしてきた某は、これが悔しく思います」
 多数の嫁御巫を迎えるにしても、美雪だけは特別だと言ってやれればよい。
 しかし、それをすれば――美雪をも、狂わせる可能性がある。
「……好きというだけが、想いではない。愛おしいと伝えるだけが、愛ではない。言葉にすべきこと、言葉にしてほしいことなど重々承知している。だが私は、軽々に言葉も発せぬ罪深き妖力を持った妖人。そんなことは、生まれ持った宿命だ。ならば――美雪のしないでほしいと願うことを、陰ながらでも叶え続けよう。……この想いは今後、永遠に行動で語り続ける」
 美雪を攫った壬夜銀と戦闘になるとすれば、紅遠の膨大な妖力を――美雪に対する想いを、間近で感じることになるだろう。
 一心に想ってしまった紅遠の妖力を受ければ、銀柳の力を強く引き継いでいたとしても影響を受けるかもしれない。
「菊。この館は建て直せばよい。だが……美雪はもう、ここに帰っては来られないかもしれない」
「…………」
「その時は、菊の家で面倒を見てやってはくれないか? 年齢のこともある。退職金は弾もう」
「新しくなった館で、これからも紅遠様のお世話をさせていただきます。美雪さんと一緒にです」
 しわくちゃな顔で、柔らかな笑みを浮かべながら菊は言う。
 美雪なら、紅遠の持つ魅了の妖力にも耐えられると、信じて疑っていない様子だ。
「美雪を、信じているのだな」
「あの子は、幸せになってほしい。報われてほしいと応援したくなる子ですからね。たとえ裏切られても、私はいいのです。何年かけてでも、笑ってほしいのですよ」
「……ふっ、そうだな。全く、その通り……。裏切られても、構わない。いや、そもそも裏切られたなどと被害者意識を持たなければ、美雪が裏切ったことにもならんか……」
 吹っ切れたように、紅遠は表情を和らげた。
 大切なのは、美雪が幸せになれるかどうかだ。
 己の妖力で正気を失ってしまったとしても、何をされたとしても……。それさえ、受け入れてやればいい。正気に戻るまで、待ってやればいい。
 そう思い直した紅遠は、カツカツと靴音を鳴らし車へと戻る。
「私は少々、国を出て来る。皆、後は任せたぞ」
 皆が頭を下げて見送る中、紅遠は単身山凪国へ向け出立した――。

 
 山凪国の城、その天守閣には――五名の人がいた。
「がっはっは! あの傾国の鬼人が悲痛に暮れていると思うと、酒が美味い」
 和歌子によって酌をされる壬夜銀は、眼前で繰り広げられる光景を肴に杯を傾ける。
「あんたのせいで、私まで未亡人だよ! 朝原家に不幸を呼ぶゴミ! この痴れ者! こんな簪で着飾って、色気づいてんじゃないよ!」
「お父様の仇です! 私が永遠に罪を叩き込んであげるわ!」
 縛られた美雪に、殴る蹴る水桶に顔を突っ込む。考えられる限りの暴力を、文子と玲樺は振るっていた。
 紅遠に与えられた簪も、床へ放り捨てられたしまう。
 折檻に苦しむ美雪は、ゲホゲホと苦しそうに息を吐く。治癒術の力を持ってしても、本当に死ぬかもしれないと美雪は感じる。これまで朝原家で受けた折檻を遙かに超えていた。
「ふん、あの傾国の鬼人は本当に愚かだな。身中に毒を招き入れ、国を傾けるのだから」
「ええ、壬夜銀様の仰る通りですわ。今頃、軍を動かしているのでしょうか?」
「そうなれば手っ取り早いな。叩き潰して、あの奇人には過ぎた貿易港や富を全て俺のものにできる! がっはっは! 早くこい、その手で自ら国を倒せ、鬼人よ! 国が滅ぶ、最高の祭りを早く俺に見せてくれ!」
 壬夜銀は大きな身体を揺らしながら、ご機嫌そうに笑う。
(……やめてください)
 水に濡れ、息も絶え絶えに美雪は思う。
「一番つまらんのは、国を憂い攻めてこないこと。外交的な決着を図ろうとしてくることか。長引くのは、退屈だな。……ふむ、もう少し煽るか?」
「あら、どんな手段でですか?」
「このゴミの首でも送れば、いけ好かない鬼人は出て来るだろう。曲がりなりにも嫁御巫が殺されるのだ。妙な義侠心を持つ鬼人ならば、動くはずだ」
「あらあら、それは名案ですわね! 流石は壬夜銀様ですわ!」
 和歌子と壬夜銀の計画が聞こえてきた時
「――やめて、ください」
 それまで、黙って折檻をされるだけだった美雪が、声を出して反抗した。
 これに驚いたのは、玲樺と文子である。
 山凪国にいた頃から、意思のない人形のように黙って嬲られていたのが――思い起こされる限りだと、初めて明確に反抗の言葉を口にしたのだから。
「ほう、命乞いか?」
「この見苦しい女が、何処まで叔母の顔に泥を塗るつもりなの! 壬夜銀様、すぐに黙らせます!」
「いや、これも一興だ。さぁ、命乞いを続けてみろ」
 慌てて美雪の顔を掴む文子を止め、壬夜銀はにたりと笑う。大きな八重歯が剥き出しになっている姿は獰猛な野生の狼のようだ。
「……私は、どうなろうと構いません。……どうか、どうか紅遠様にだけは御迷惑をかけないでくださいませ」
 振り絞るような美雪の声に、壬夜銀はつまらなそうに嘆息した。
「興醒めだ。結局、あの鬼人に魅了されてるだけじゃねぇか」
「違います!」
 大きな声で、美雪は否定した。
「私は……紅遠様に大切なことを教えていただきました。仲間、やり甲斐、喜び、そして自由」
 美雪は縛られながらも、悲鳴を上げる身体を無理やり起こす。
 そうして壬夜銀を見つめ紅遠について語る。
「紅遠様は、ご自身の身体が悲鳴を上げてるのを厭わず、国民の為にという役割を果たす素晴らし妖人です。私がデモ隊に処刑を求められ、他ならぬ私自身が処刑されても構わないと思っていたのに……自身が危険の矢面に立ち、愛する民を説得して護ってくださる。国民を危険に晒しながら、自分は安全な城で酒を飲む貴方が――馬鹿にしてよい御方じゃありません」
 美雪の瞳は、真っ直ぐに壬夜銀へと向けられる。
 不愉快だったのか、壬夜銀が杯を握り潰した。
「やはり魅了されて正気を失っているようだな。あの鬼人の良いところにしか目が行かず、自分の立場も分からないらしい」
 壬夜銀が顎で合図をすると、玲樺は頷いて部屋から出て行く。
「……私は、正気のつもりです」
「いや、女。貴様は魅了されている。その感情は、植え付けられた偽物だ」
「違います!」
 美雪の叫び声が、満月の照らす天守閣に響いた。
「……こうして会えなくなった時、この軋む心には感じるのは――恋しさという感情です」
 今まで、美雪には感情というものが理解できなかった。
 自身で抱いたことはなく、見聞きするもの。恋心なんて、感じたこともない。

「紅遠様にだって、悪いところはあります。人の葬儀で、相手の意思も関係なく嫁になれなんて、身勝手なことを申したり、近付くことを許されたかと思えばあっさり撤回もします。私が傷付く真似もする。……それに不満を抱くのも――お慕いするのも、私の自由な感情です!」
 感じたことのない感情を、何と表現していいか分からなかった。
 それでも、美雪は確証を持って言う。
「私は愚か者ですから、やっと気がつきました。正気か熱に浮かされているかなんて、誰にも判断しようがありません。……感情なんて、誰にも分からない。元より正確にこれだと断言できるものでも、永久に不変なものでもない。人の情は移ろいゆくものだと聞きました。それならば今、自分がこうだと感じるなら、それこそが正解なのです。……私は、自身を持って言います」
 肋骨が折れているのか、大きく息を吸うだけでも雷のような痛みが襲う。
 それでも美雪は、大きく息を吸い込み
「私は紅遠様をお慕いしています! 大好きで、愛しているからこそ無事でいてほしいと願うのです!」
 そう、言い放った。
「魅了なんて、仮にされていたとしも構いません。それでも、これこそが私が自由に抱いた真実で、素直なお気持ちなのですから」
 壬夜銀に訴えかける美雪の背後から、戻ってきた玲樺が歩み寄る。
 その手には、囲炉裏から持ってきた赤く焼けた鉄の火鉢棒が握られていた。
「だから、どうか……。私はどうなっても構いません。私の愛しき鬼人様だけには、どうかこれ以上の御迷惑をかける真似をしないでください。……同じ父を持つ身としても、伏してお願い申し上げます」
 壬夜銀は、同じ父と言われた顔を顰めた。
 言いたい放題言って、銀柳の名を出されたことが不快だったのだ。
 顎で玲樺に指図をすると、玲樺は微笑みながら頷いた。
 額をつけて懇願する美雪の横顔に真っ赤な火鉢棒の先端が近付き――
「――よくぞ申した、美雪」
 凜とした、紅遠の言葉が何処からか聞こえてきた。
 途端、五人は揃って辺りを見廻し――入口の戸が、轟音を立てて吹き飛んだ。
「気持ちは届いたぞ、この胸を焦がすほどにな」
 カツカツと、木製の床を革靴で踏みならし紅遠は美雪へ歩み寄る。
「貴様、鬼人が! どうやってここまで侵入してきた! 軍勢が迫ってるなど、俺に報告がきていないぞ!」
「一人で迎えに来たのだから、当然だ」
 壬夜銀の方など目線も向けず、軍服姿の紅遠が美雪の傍へと歩み寄る。
 美雪の隣へしゃがみ込むと
「く、紅遠様!? 何故、お一人でここに!?」
「決まっているだろう。――愛する妻を、迎えにだ」
 身の自由を制限していた縄を解き――床へ投げ捨てられた簪を刺し直した。
「新雪のように美しい肌、清純無垢な美雪の心の如き白い喪服には、やはりこれが似合うと思ったのだ」
「紅遠様……。私は、また御迷惑を……」
 謝罪しようとする美雪を手で制し、紅遠は立ち上がる。
「謝罪なんて必要ない。それ以上に語り合いたいことが山ほどあるが……まずは、邪魔なゴミを片付けてからだ。美雪、部屋の隅に下がっていてくれ」
「承知、致しました。どうか、ご武運を」
「運ではない、長年磨いた実力で、当然の勝利を掴むだけだ」
 頭を下げて、早足に去る美雪に紅遠は答える。
 そうして、壬夜銀へと向き直ると――
「――清々しい空気だな、今夜は。澄んだ空には満点の星々と満月が浮かび、野では虫が歌う。天井高くそびえ立つ城が、よく映えるというもの」
 詠うような美しい声で、天守閣内を歩く。
「こんな美しき夜こそ、貴様みたいな真のゴミには」
 窓から差し込む月光の光が、紅遠の横顔を照らす。
「紅蓮の業火に焼かれてもらおう」
 壬夜銀と一刀の間合いに近寄ると、右手に赤い炎のような妖力を込めた。
 暖炉のような暖色の光が――真に怒る鬼人の紅いを照らした。
 焔のような瞳に見据えられた壬夜銀は
「畜生が! 見張りは何をしていたぁあああ!?」
 天を駆ける地肉彫の狼に――鈍色の魂刀を右手へと生み出した。
 洗練された銀柳の魂刀とは違い、壬夜銀と混ざり合った魂刀は――鉈のように叩き斬ることのみを考えられ芸術性の乏しい野暮な刃として紅遠には映る。
「見張りなど、少し妖力を向けた俺が退けと言えば、その通りになる」
 魂刀が――泣いている。
 銀柳の魂が、過ちから解放されたいと叫んでいるように感じられた。
 紅遠も魂刀を生み出すような所作で、右手に妖力を込めると
「玲樺さん、今ですわ!」
「はい、和歌子様!」
 この場にいる嫁御巫二人が、結界を張る。これでこの場は、壬夜銀の妖力以外は通さない。
 その辺の嫁御巫ならいざ知らず、御心の儀を終え夫婦としての営みで能力を高めている二人だ。
 壬夜銀は、紅遠が余裕ぶって大きな過ちを犯したと思い
「くたばれぇえええ!」
 魂刀を握り締め、紅遠の脳天から叩き割るように振り下ろす。
 だが紅遠は
「この時を待っていた」
 そう言って、右腕を上げる。
 耳を劈くような金属同士の衝突音が轟く。
「な、何故だ!? 何故、魂刀が召喚できる!」
 目を剥いた壬夜銀は、ギチギチと紅遠の持つ魂刀と力比べをする。
 沈む夕陽なような哀しくも胸を焦がす黄昏色に、焔の如き飾り彫が刻まれた――紅遠の魂刀が、間違いなくそこにある。
 銀柳の魂を宿す魂刀と、朱栄の魂を宿す魂刀が――鍔迫り合いをしていた。
「和歌子、玲樺!? 貴様ら、俺を裏切ったのか!?」
「う、裏切ってなどおりません! 私は確かに、守護の結界を……」
「わ、私もです! 信じてください!」
「ならば、何故こいつは妖力を操れるというのだ!?」
 必死に両手から妖力を操作する和歌子と玲樺に、壬夜銀は血走った瞳を向ける。
「私は言ったはずだ。この時を待っていたとな。――この場にいる者は皆、端に寄れ。守護の結界は、解くな」
 ビクンと――和歌子や玲樺、そして文子は、部屋の端へと退く。守護の結界はそのままにだ。
 それは、紅遠に魅了され言いなりになっている証左であった。
「馬鹿な……。触れてもいないのに、俺の妖力を大量に貯め込んだ二人が魅了されるだと!? この、化け物が!」
「人間に言われるのは構わんが、同じ妖人に言われるのは不服だな。――単に貴様が、鍛錬不足の雑魚なだけであろう。銀柳殿も、さぞかし嘆いてるだろうな。成長を信じた息子が、このような盆暗になってしまったことに」
「黙れ、黙れ黙れ黙れぇえええ! 俺よりも親父殿に可愛がられていたお前は消す! これは絶対なのだ!」
 一度、大きく飛び退いた壬夜銀は、咆哮のように怨嗟の声を上げる。
 紅遠は、そのような私怨で自分を消すことに拘っていたのかと呆れた。
 銀柳に可愛がられたければ、紅遠よりも鍛錬をすればよかったのだ。剣の達人であった銀柳の子であるのに、体捌きもなってない力尽くの剣技を見て、紅遠は心底から呆れる。
 もう話す時間すら無駄。一刻も早く、銀柳の魂を解放してやりたいと
「人の大切な花嫁を強奪したのだ。恩人の子であろうと、貴様はやり過ぎた。滅ぼされようと、文句は言わせん」
 魂刀の鋒を向け、壬夜銀に言い放った。
「傾国の鬼人ごときが! 銀狼の妖人である俺に、偉そうに口を効くな! ゴミのような嫁御巫しか娶れない妖人のなり損ないの分際でぇえええ!」
「……貴様や嫁御巫の下劣な言動には、虫唾が走る。過去の言動を恥じ、散れ。最後の情けだ。――妖術は使わず、銀柳殿より習った剣術で葬ってやろう」
「鬼人がぁあああ! 減らず口を叩くなぁあああ!」
 壬夜銀は、負けじと刀に妖力を込め、妖力で高めた肉体で紅遠に迫る。
 目にも留まらぬ早さで、紅遠の身体を斬ろうと魂刀を振るい――。
「――なっ!?」
 魂刀で受けられることもなく、ひらりと風に舞う柳のように紅遠は避ける。
 渾身の力が込められた剣を避けた動きは、銀柳から盗んだ体捌きだった。
「隙だらけだ」
 ヒュッと、紅遠が魂刀を最小限の動きで振るう。
「ぐっぁあああ! 俺の腕が、腕がぁあああ!」
「右腕の腱を断ち切った。片腕では、もう刀は振るえまい。終わりだな、壬夜銀。……辞世の句でも詠むか? それぐらいの時間は与えてやろう」
 ヒュッと、刀にこびり付いた血を床へ吹き飛ばしながら、紅遠は語りかける。
 ぜぇぜぇと荒い息をしながら、壬夜銀はにたりと笑みを浮かべた。
「確かに、貴様は強いな。――だが、貴様の弱点を俺は知っている!」
 壬夜銀の視線が、部屋の隅に一瞬向く。壬夜銀の視線の先にいる存在。
 美雪を見た瞬間、紅遠は不味いと動き――
「――美雪ッ!」
「……ぇ」
 美雪に覆い被さり護るように、紅遠は壁に両手を付けている。
「……紅遠、様?」
「美雪、無事だな。……良かった」
 微笑む紅遠の口から、血が溢れ――顎先から滴る。
 美雪が何度拭っても、血は止まらない。
 唖然とした美雪が、視線を彷徨わせ。
「紅遠、様。……胸から、刀が生えて……。え? そんな……」
 現実を受け入れられないように、呟く。
 治癒の妖術をかけようとするが――結界により発動しない。
 仮に発動したとしても、だ。
 この妖人の胸を貫く魂刀の傷は、美雪――いや、一流の嫁御巫だろうと、どうにもならないものだった。
「がっはっは! 鬼人はやはり、愚人よ! 嫁御巫のような道具に入れ込むから、その身を滅ぼすのだ!」
 豪快な笑い声を上げ、壬夜銀は紅遠の胸を貫く魂刀を前後左右へと動かそうとする。
 だが――。
「――何だ、俺の魂刀が動かない。まさか、貴様!?」
 紅遠の身体の周りを桜吹雪のように火が舞う。
 全身から吹き上がる火の粉は、漏れ出た妖力が怒りとなり発露したものだった。
「銀柳殿……。そんなところで、何をしている?」
 己の胸を貫く、天を駆ける狼が彫られた魂刀を握り絞め――紅遠は問いかける。
 掌からは、ポタポタと血が流れ落ちていた。
「我が生涯の師にして、最愛の友よ! 魂となっても、その気高き精神を穢すな!」
 その血が刀身を伝わり、狼の溝へ貯まると――魂刀が、光を発した。
 紅遠の胸を貫いていたはずの――山凪国に脈々と伝わる、銀柳が所持していた際の洗練された魂刀が、紅遠の左手に握られていた。
「な、なん……だと? 俺の魂刀と、山凪国へ脈々と繋がる魂刀が……。分離されただと!? こんなことが、こんなことがあってたまるか!? 鬼人、どんな妖術を使った!?」
 紅遠が後ろに蹴りを放つと――壬夜銀は床を転がり、即座に耐性を立て直した。
「……妖術など、使っていない。ただ、問いかけ語っただけだ。……壬夜銀、貴様は後継に相応しくないと、魂刀に見放されたのだ」
 両手に持つ魂刀、胸から広がっていく血塗れの軍服。
 紅遠は、銀柳の魂刀を構える。
「まだ、まだだ! 俺には、自分の魂刀がぁ――」
「――終わりだ」
 妖力が落ちた肉体で、構えた魂刀ごと――壬夜銀を斬った。
「……妖人としては、な。魂刀を失い、抜け殻となって罪を詫び続けろ。数百年かけてな」
「が、ぁ……」
 傷は致命傷ではない。
 だが――妖人の魂を顕現させた魂刀を折られ、壬夜銀は意思失い人形のように倒れた。
「壬夜銀様!? ああ、身体が動かない! 何で、何でこんなことに!」
「嘘でしょ……。何で、何でこんなことになるのよ!?」
「あの鬼人が全て悪い! あいつがいたから、私は夫も姉も失ったのに! 何処まで邪魔をするか!」
 和歌子、玲樺、文子の三人は、現実を受け入れられず絶叫を上げていた。
 そんな中、美雪のみ――。
「――紅遠様! お気を確かに!」
 美雪だけが、紅遠に駆け寄る。
 美雪の無事を見届けた紅遠は――ふっと笑い、両手の魂刀を床へ落として崩れ落ちた。
「紅遠様!? しっかりなさってください! お願いします、死なないでください!」
 紅遠の身体を抱きあげ、必死に白い喪服を当て血を止めようとするが――無駄だった。
 白い喪服に、紅遠の紅い血が染みこんでいく。
「いや……。こんなの、嫌です……」
「そんなに、泣くな……。お前に泣かれると、私はどうしていいか分からない」
 美雪の頭を優しく、何度も紅遠は撫でた。
 困ったように笑う紅遠は、
「初めて会った時に、深雪は私に聞いたな。白の喪服の意味を知っているか、と……」
 これで最期だからとばかりに、過去の思い出を語り始める。
 美雪は、涙で震える喉から声を絞り出した。
「はい……。私はあの時、銀柳様に命を助けられた恩義として、白の喪服に身を包んでいると答えました」
「今度は、私から尋ねよう。今……私の最期を前に、白い喪服を着ている意味を……」
 そう問われると、美雪は笑みを浮かべた。
「私は……他家へ二度と嫁がない。傾国の鬼人と呼ばれた久遠様に、永遠の操を立てる。その意味で、白い喪服へ身を包んでおります」
 最初に紅遠と出会った時、白い喪服の意味を知っているか尋ねた、虚ろな表情とは違う。
 涙を流しながら、情感が溢れる笑みだった。
「そうか……。美しい笑顔だ。深雪は、そんな顔で笑うのだな。知らなかった。……未亡人にして、すまないな」
「未亡人なんて、言わないでください。何もない真っ白な私に、色づく世界を……生き甲斐や喜びを教えてくださったのは、久遠様なのですよ? どうかこれからも、まだ知らない世界を私に教えてください……」
 ふっと、紅遠が儚げに笑う。
 美雪とて分かっていた。それは――もう、叶わぬ願いなのだと。
「……深雪。結納品代わりに、受け取ってくれ」
 紅遠は、震える手を伸ばし床へ落ちた己の魂刀を握ると――妖力を振り絞り、形状を変えた。――短く、懐に仕舞っておけるような刀に。
「私の魂刀を……どうか懐剣としてほしい。これならば、喪服姿でも帯に差せよう」
 花嫁に懐剣を渡す意味を思い出し、美雪は唇を噛み締める。
「懐剣は、災いや運を切り開き幸せな家庭を築く縁起ものとして、親が持たせるものですよ。……愛する夫にいただくものではありません。私を置いて、逝かないでください……」
 懐剣を渡そうとする紅遠の手が震えないよう、そっと手を添えた。

「最期に、また幸せを……。初めての愛おしさを感じられた。何百年という妖人の天寿を全うしようと決して知り得ぬ充足感、最初で最後の特別な想いだ。――深雪、愛している」

 紅遠の口から初めて語られる、愛の言葉。
 ずっと胸の内に秘めておくしかなかった分、美雪の胸へ余計に響く、重くて貴重な言葉だった。
「私も……愛しております。誰よりも、お慕いしております!」
「私も父上と同様だ。死を感じだからこそ、永遠に君を護りたいと素直になれた。この世で唯一、愛した花嫁に抱かれて死ねる私は、果報者だ」
 美雪は、激しく後悔をした。
 何故、この愛する人ともっと早く出会っていなかったのか。寝る間を惜しんで、妖術の鍛錬に励んでこなかったのか。
 そうすれば、紅遠の――愛する人の傷を癒やす力だって、得られたかもしれないのに。
 そう、激しく後悔をした。

「最期に、私の全てを愛しき妻へ……」
 紅遠は懐剣を美雪の帯に差すと、両手で美雪の頬を掴む。
 紅遠の顔が近付いて来て、美雪は目を閉じた。
 直後、美雪が感じたのは――額への柔らかい感触と、身体の内を優しく燃え上がるような、紅遠の妖力だった。
 御心の儀。妖人が、信用の置ける嫁御巫と繋がり力を授ける――神聖な儀式だ。
「これで……。私は、思い残すことはない」
「久遠、様。……旦那様? 旦那様!?」
 紅遠は目を閉じ、白い喪服と同じぐらい肌から色が失われている。
 
「い、嫌……。嫌でございます! 私と一緒に、幸せになってください!」
 急に重くなった身体を揺すり、美雪は涙ながらに声をかけ続けた。
「人生でたった一人お慕いした旦那様を幸せにさせてください! 旦那様……。目を、空けてください……」
 美雪の涙が落ち、紅遠の頬を伝う。
 それでも反応がない紅遠に、美雪は――
「――お願いします、逝かないでください!」
 己の全ての妖力を振り絞るように、治癒の妖術をかける。
 いつか、紅遠が死に瀕していた時と同じようにだ。
 しかし、決定的に違うのが――。
「――な、何ですかこの妖力は!? 私の結界が破られる!?」
「そんな、あのゴミに私たち二人以上の妖力があるっていうの!?」
 御心の儀で、美雪の妖力が跳ね上がっていることだった。
「旦那様……。傷が……。お願い戻って、戻ってください!」
 美雪は、理解した。
 自分の力が跳ね上がる時――それは、いつも紅遠への好意的な感情が増した時だった。
 古来より、妖人と嫁御巫の繋がりが能力にも関与するとの伝承。
 それを美雪は、思い出していた。
「私は、旦那様を愛しています! 心を開き、真に深い繋がりで結ばれた夫婦だと思っております! 旦那様も、愛してると仰ってくださいました! それならば、魂刀でついた傷をも癒やす御力も、絶対にいただけてるはずです!」
 涙を流しながら、治癒の妖術に更なる力を注ぐ。
 薄れゆき意識の中、美雪は紅遠の身体を離さないように抱きしめる。
「帰って来てください、旦那様……」
 懐剣と化した魂刀と、銀柳の魂刀が――僅かに光った。
 美雪は、身体の中で銀柳の妖力と紅遠の妖力が溶け合うような感覚に陥り――。
「――……旦那、様?」
 紅遠が、僅かに目を開けた。
 辛そうに微笑みながら、紅遠は
「……まだ、こちらへ来るな。愛する人を護れと……銀柳殿や父上に叱られた気がする」
 それは、紅遠の見た夢幻だったのか。あるいは、魂刀の中で本当に起きた出来事だったのか。
 真実を知る術はない。
 ただ一つ、間違いのない真実なのは――。
「――お帰りなさい、旦那様」
「……ただいま、美雪」
 愛を知らなかった因縁の二人が、真に想い合う夫婦として結ばれたということだけだ――。


 妖力を取り戻し傷も癒えた紅遠は、美雪と一緒に山凪国の天守に残る者たちに目を向けた。
「さて……。どうしたものか。私の愛する妻を、長年に渡り甚振ってきたのだ。消し炭が妥当だろうか?」
 紅い眼光を飛ばし、紅遠が睨めつける。
「妖力をもって命じれば、美雪へ土下座させた姿勢で炭にすることもできるな」
 一切、躊躇わずに紅遠は実行するだろう。
 剣呑な紅遠の声に、和歌子と玲樺、文子の三人は――自ら進んで土下座をする。
「どうかお助けください! 壬夜銀様……いえ、壬夜銀の正妻だった私の妖術はお役に立てるはずです!」
「私はお父様やお母様から、美雪さんを甚振れと指示されただけです! どうか、お助けを!」
「玲樺!? 私こそ、父に朝原の家の為に美雪を甚振れと言われた被害者なのです! これまでのことはお詫びします。どうか、お助けくださいませ!」
 醜い罪の擦り付け合いをして懇願する三人に、紅遠の眼差しは氷のように冷たくなる。
「呆れたな……。美雪は、どうしてやりたい?」
「美雪様! これからは一緒に紅浜国を護りましょう!」
「そ、そうよ! 私たちが手を組めば、もっと国力を増大できるわ!」
「今までの分も、これからは叔母としてお世話させてちょうだい!」
 涙ながらに縋るような三人を見て、美雪は
「旦那様……。私が決めてよろしいのでしょうか?」
「ああ。好きにしろ」
 紅遠に尋ねてから深く頷く。
 そうして、胃を決したように
「因果応報とは申しますが、命までは奪いたくありません。もう過去に縛られず、旦那様との未来をみたいのです」
 そう自分の意思で願いを告げた。
 一瞬、パッと顔を明るくした三人だが、紅遠の眼光で再び頭を伏せる。
「……美雪の望み通りにしろと言ったのは、私だ。良いだろう。――だが、報いは受けてもらう」
 紅遠は掌を上に向け、ボッと炎を灯す。
 身震いして震える三人を尻目に、紅遠は美雪を抱き寄せ天守から物見まで移動し――。
「――あれか」
 一度だけ入った覚えのある朝原の屋敷に、火を付けた。
 使用人には被害が及ばないよう、妖力を調整しながら炎が燃え広がる。
「きゃあああ!? わ、私の屋敷が!? 財産が!?」
「何で、許してくれるのではなかったの!?」
 幼い頃から折檻され続けた蔵まで燃えるのを、美雪は紅遠に抱き寄せられながら眺める。
 燃え落ちるのを確認した紅遠は、三人に視線だけ向け――。
「――美雪に免じて、命だけは助けてやる。だが三人は資産の全てを没収。紅浜国の友好国へ、嫁いでもらう。夫を見殺しにした見習い御巫と、資産の全てを失った使用人として生きるがよい。今後、私たちの前に顔を見せるようなことがあれば、問答無用で消し炭だ」
 それは実質、この場で死ぬよりも辛い選択だったのかもしれない。
 これから始まる地獄のような日々への恐怖に、三人は腰を抜かした。
 もう興味はないとばかりに視線を戻した紅遠は、美雪と一緒に燃える朝原の屋敷や――広大な山凪国を照らす、満月に目を向ける。
「旦那様。この白い喪服の意味、少しだけ訂正させてください。他家へ嫁がないのは勿論ですが、これは紅遠様と友に世を去る覚悟を示す――死に装束でもあります」
 月夜に照らされながら、美雪は覚悟を伝える。
 紅遠は、美雪の瞳を見つめ苦笑した。
「物騒な話だな。――私には、花嫁が着る白無垢として映るぞ」
「その方が素敵ですね」
「そうであろう? 私も、その方が嬉しいからな」
 紅遠が一層強く抱き寄せ、美雪も紅遠の胸に頭を預けた。
「私が愛している女性は、お前だけだ。これからも美雪だけを生涯愛すると誓おう」
「はい。……私もです。紅遠様のみを夫として、お慕いし続けます」
 紅遠から御心の儀を受けようとも、こうして愛の言葉を囁かれようとも――美雪は、一切として魅了された様子はない。
 銀柳の手記に書かれていた予想が、望む方向で当たっていた。
 紅遠は、床に転がりこちらを見ているような魂刀へ、心の中で礼を言う。
 この得がたい存在、笑顔を護り続けたい。
 そう強く願った紅遠は
「決めたぞ、美雪。――私は美雪との幸せな夫婦生活を邪魔されないよう、神州を統一する」
 壮大にして、神州全体を揺るがすような発言を口にした。
 美雪は、幸せそうに微笑むと
「旦那様の補佐をするのが嫁御巫です。勿論、私も付いて行きます」
 弾む声で、そう返した。
「……危険なことは、してくれるなよ」
「それは旦那様次第です」
「全く……。私の唯一特別な花嫁は、強くなったものだな」
 苦笑しながらも、紅遠はもう止めない。
 空いている手で、美雪の手を握る。
 美雪はキュッと、手を握り返した。
 この先、国を傾けるどのようなことがあったとしても、この繋がれた関係を離さない。
 生涯たった一人にだけ操を立て、護り続けると心に誓い合った――。

作品を評価しよう!

ひとこと感想を投票しよう!

あなたはこの作品を・・・

と評価しました。
すべての感想数:27

この作品の感想を3つまで選択できます。

この作家の他の作品

メイクアップ、見知らぬ幼馴染との逆転関係
長久/著

総文字数/114,104

青春・恋愛5ページ

本棚に入れる
表紙を見る
表紙を見る
星に誓う、きみと僕の余命契約
  • 書籍化作品
長久/著

総文字数/85,666

青春・恋愛58ページ

本棚に入れる
表紙を見る

この作品を見ている人にオススメ

エラーが発生しました。

この作品をシェア