人の産まれは平等ではなく、人の人生は産まれた家や生まれ持った能力により変わる。
 天は人の上に人を造らずとも、人は人の上に人を造る。
(銀柳様……。誇り高き銀狼の妖人様。卑しき私を、貴女様が拾って頂いた温情に感謝致します。どうか、ご冥福を……)
 長い黒髪を垂らしながら、朝原美雪は家事で傷だらけになった手を合わせ祈った。
 広大な山凪国城の敷地内、何畳あるのかも分からない畳張りの葬儀会場中を焼香の香り、現世と隠り世の境界を曖昧にするように立ち上がる煙が包む。
 美雪は焼香さえ、あげさせてもらえなかった。それでも……せめてもと、人が焼香している僅かな隙に、一緒に冥福を祈らせてもらう。
 そんな美雪の小さな挙動には気づかず、家臣団は柩や国主であった銀柳の写真に向け、哀しみの視線を向けている。
 居並ぶ数百を超える列席者は黒い喪服の和装や最近流行りの黒のスーツに身を包み、故人であり偉大なる国主の崩御を惜しんでいた。
 遠い海の外にある国から渡ってきたカメラで撮影したモノクロ写真。気高き狼のように白銀の髪、白銀の瞳を持つ男――山凪国の先代国主である銀柳は、遺影の中でも誇り高く凜々しい表情で、列席してる者たちへ鋭い眼差しを向けているように見える。
「ああ、銀柳様……。我らは惜しい主を亡くしました。五百年の長きに渡り山凪国の国主として、実に御立派であられた……」
「うむ……。葬儀の場で申すのもなんだが……。銀柳様の御代しか存じぬ我らは、果たしてこれから、他国や怪異から国を護れるだろうか」
 かつて一つであった神州国内が五十近くの国家に分裂した動乱の時代。
 外の国からの文化や兵器が急速に流れこみ日々様変わりしていく不安な世において、絶対的な力を持つ存在は強く求められているのだ。
「黙って喪に服そうではないか……。我らには、お世継ぎの壬夜銀様がおられる。今はまだ国主として銀柳様には及ばずとも、銀柳様の魂刀を受け継いだ暁には……。それに、残った嫁御巫も多数おろう」
「そうじゃ。嫁御巫は銀柳様の補佐で実務を経験しておる。雑草のように湧き出る怪異やら、他国の脅威など退けるのには慣れておる。我が国の未来は、この先も盤石じゃ」
 古来より子々孫々受け継がれてきた魂刀と妖力を操り、絶大な力を誇ってきた妖人と、妖人の異能を預り国家国民を護る、嫁巫女という存在が実在するなら、尚更だ。
 万の兵を屠り天寿は五百年前後と伝えられる妖人。その助力として日々、民を襲う怪異が国内へ跋扈するのを防ぐ――嫁御巫。
 明確な上下関係、尊き者とそれ以外の構造が成り立つのも自然な成り行きであった。
「嫁御巫、か。勿論、感謝と敬意は抱いている。次代である壬夜銀様の正妻候補、燈園寺家の和歌子殿や、側室候補の朝原玲樺殿を筆頭にな。だが……極一部、のう」
「それは……。銀柳様の戯れだろうて。壬夜銀様の御代になれば、不適合者は正しき処罰を下されるだろう」
 だが――産まれが尊き者とて、その力は平等ではない。
 上に立つような人間の中にも、鬱屈とした上下関係は産み出される。ストレスをぶつけられる弱き存在を、常に人は欲しているのだ。
 その能力、出自によって弱者と認定されれば――。
「――見て、玲樺。私を差し置いて、あの無能者の服装。――白の喪服だなんて、そんなに目立ちたいのかしら。品性が下劣ね」
「和歌子様。アレはゴミです。従姉妹として、恥ずかしい限りですよ」
「あら、そうでしたわね。玲樺はアレの母――稀代の淫売が御母に当たるのでしたわね。……貴女は淫売の血を引いていないのですわよね?」
「はい。母は罪なく高貴な血のままです! あの使用人以下……罪人同然の美雪と違い、私は名門朝原家と高貴なる武家……妖人の御力を一部でも宿す継承者の娘です。能力、血筋ともに親族と呼ぶことさえ嫌なぐらいですよ」
 銀柳の血を引く家臣団や嫁御巫は弔問客に挨拶をするべく一番前列へ居並ぶ中では、小声でそのようなやり取りがされていた。
 国主が崩御しても、国は終わらない。
 もう既に次代の国主支配下における権力闘争が始まっているのが――嫁御巫というものである。
 正妻候補として筆頭の燈園寺家の和歌子と、堕ちた名門朝原家の才女として名高い玲樺は、黒い喪服に身を包みながら、ひそひそと嫁御巫末席に立つ異物へ言葉の刃を向けていた。
 謂われのない暴言に対しても美雪は、長年の生活から謝罪がクセになっている。
 とにかく、謝るべく口を開こうとすると――。
「あら。まさか下民が、山凪国建国以来の超名門、燈園寺家の許しなく口を聞くつもり?」
 玲樺の吐く毒のような言葉に、美雪は俯き口を引き結んだ。
(やはり、白の喪服は目立ちましたか……。いいのです、黒の喪服か白の喪服か。選択肢を与えていただけたで十分。私のような者が、お見送りの場に立てただけでも感謝しないといけません)
 数十といる嫁御巫に、膨大な黒い家臣集団。
 そんな中、一人だけ白い喪服に身を包む美雪には、蔑視が向けられていた。
 それは何も、服装のことだけではないと美雪は理解している。
(仕方のないことです。……私の出自、能力では、何もお役に立てない。葬儀が終わり壬夜銀様が魂刀を受け継ぎ襲名の儀を終えれば、追放でしょうか。或いは、怪異を誘き寄せる餌として使い捨てられるでしょうか。……どちらにせよ、私の辿る結末は変わらない)
 近い将来訪れるであろう自身の死を悟る美雪は何も――自分の死に装束として白を選んだわけではない。
 周囲は、そのように「死に装束か」、「後追いで殉職するつもりか」、「巫女見習いが殉職したとしても、壬夜銀様とて喜ばないであろう……。特別な事情があれど」と、勝手な噂話をしている。
「参列してるワシ等まで、気分が悪くなるわ」
「銀柳様の最大の失敗は、あのような売女の娘を……見習いとはいえ嫁御巫に加えたことだな」
「聞けば微量の妖力しか操れず、小さな結界すらも張れぬそうではないか」
「そもそも、だ。いくら妖人の血を濃く受け継ぐ嫁御巫や継承者が求められるとは申せども、あの娘を嫁に迎えるのは……」
 もはや美雪は、何も言い返さない。暗い瞳で俯くのみだ。
 物心ついた頃から、十九歳になる現在まで――明確に下へ位置する人間として生きてきた。
 十二歳の頃、妖人が放った妖力を吸収して扱えるのか。嫁御巫としての資格を万民が受ける資格を与えられる場で、僅かばかりにでも素養を示し、美雪は銀柳に拾ってもらった。
(お陰で家族に殺されず、下働き以下の生活から嫁御巫見習いとして下働き並みの生活ができたのです。たとえ針の筵に座らせられているように苛烈なイジメがあれど……。今まで私が生きてこられたのは銀柳様のお陰。一度としてお手にも触れてない嫁御巫でも感謝は忘れません)
 浴びせられる視線や暴言に慣れた美雪は、亡き恩人にひたすら感謝と死後の安らぎを祈っていた。
 すると――。
「――おお、親父殿の魂刀が顕現したぞ!」
 次期当主の壬夜銀が、巨体とダークグレーの尾を揺らして瞠目した。
 脈々と受け継がれた妖力を宿す器、魂刀。
 妖人が長い生涯で数多く残す子の中で魂刀を自身でも顕現可能な者こそが、次代の国主である。
 国の数だけ――あるいは国家を失うか、そもそも自国を持たない者を含めれば、もっと存在すると噂される妖人の、絶対のルールがそれであった。
 自身の妖力の塊であり魂でもある魂刀――そこに何千年、何代にも渡り受け継がれてきた妖力と魂の宿る先代の魂刀とを融合させる。
 親から子へ脈々と受け継がれ増幅してきた絶大な妖力こそが、妖人を頂点たらしめる力である。
 同時に、魂刀を失うことは――国主として、妖人の死を意味する。
 絶大な妖力で己を高みに登らせる魂刀が眼前に浮かび上がれば、野心溢れる壬夜銀が親の死を悼む心すら忘れ顔をにやけさせるのも、無理はないのかもしれない。
 だが――。
「――銀柳様の喪を弔う態度すら、次代である壬夜銀様が見せぬとは……。山凪国の未来は……」
「……お主が国を憂う心は分かる。だが、不敬じゃぞ」
「先代から魂刀が受け継がれる場など、人間の身では目にする機会無く生涯終えるのが当然だ。心を乱すなというのも無理な話よ……」
「それは四十九日法要の後にある襲名の儀でやればよい。今は喪に服すべきであろう。……大丈夫、じきに壬夜銀様は、大国である山凪国を率いる御自覚へ目覚めるだろう」
 数百年に渡り名君と呼ばれ君臨した銀狼の妖人――銀柳。
 偉大で頼りになる国主しか見たことがない家臣団は、口々に不安を口にしては、自分に大丈夫だ言い聞かせるよう呟く。
 しかし壬夜銀の年齢は既に百歳を超えており、父である銀柳から厳しく叱責され続けた。
(お立場が人を変えるとは申しますが……。いえ、私のような下級の者が考えるべきことではありませんでしたね)
 美雪は粗暴な壬夜銀の治める国家と未来を想像し、考えるのを止めた。自分の立場からすれば、考えるだけ無意味だと思ったのだ。
(身の程を弁えず、無礼なことを考えてしまいました。……お爺さまや玲樺さん、叔母様に折檻されるでしょうね)
 葬儀後のことを思えば、また朝原家の屋敷にある蔵で折檻されるだろうと、美雪は暗い気分になる。
 だが、すぐに気持ちを持ち直して白い喪服を揺らしながら、次々と焼香する人々へ礼をする。
 やがて家臣団や弔問客が姿を消し、葬儀も終わりの雰囲気が漂い始めた頃――。
「――壬夜銀様、ご報告致します!」
「何だ、葬儀の場で騒々しいぞ! 冬雅!」
 会場受付をしていた一人の老人……美雪の祖父である朝原冬雅が、黒い喪服を激しく乱れさせながら駆け込んできた。みっともない姿に、壬夜銀は怒りを纏った鈍色の妖力を発っする。
「も、申し訳……」
「み、壬夜銀様。動転している義父に代わり申しあげます」
 壮年の男性――朝原双次が恭しく頭を下げた。
 美雪にとっては、叔母である文子の夫――婿養子入りした叔父に当たる。
「お爺さま、お父様? な、何を? 家名に泥を塗られたら、私の側室への道が……。嫁御巫にも明確な上下関係があるというのに。一体、何をなさってるのですか……」
 玲樺は慌てたように呟きながら、自身の血族の様子を見つめる。
「ふん……。貴様は、朝原家に婿入りした双次か。親子共々、かつては我が銀狼妖人を象徴する牙と爪の名を与えられたというのに、な。堕ちた名家の二人が、慌てて何の用だ? 貴様らは、受付すらできない無能なのか?」
 侮蔑する壬夜銀の言葉に、冬雅と双次の二人がギュッと拳を握る。
 一瞬、殺気を込めた視線が美雪に向けられるが――美雪は微動だにしない。ただ、暗い表情で視線を俯かせているだけだ。
(銀柳様を失い、後ろ盾のない私は……。今度こそ、葬られるのでしょうね)
 それは己の運命を嘆くでもなく――その扱いが当然と受け入れている無に等しい感情だった。
 怒りを向けていた冬雅は、ハッと重大なことを思い出したように口を開く。
「た、他国の要人が弔問に参られました」
「……何? 今更だと? 無礼者めが、何処の国の大臣が弔問の使者として訪れた?」
「べ、紅浜国から……」
「紅浜国、だと? あの吹けば飛ぶような、貿易港しか取り柄がない斜陽の小国か。……確かにな。あんな事件があったとは言え、未だ我が国との同盟関係は続いていたか。……あの件で親父殿と忌々しい男との交流が絶てたというのに」
 壬夜銀は、憎々しげにボソリと語った。
「だが、同盟関係とはいえ国力差は明白だ。その大臣とやらに、礼儀を教えてやらねばならんな」
「参られたのは、大臣ではございません……」
「……どういうことだ? ああ、そうか。あの国は怪異からの防衛もままならず早晩消えると囁かれる国だ。手が足りず雑兵でも使者に送ってきたか? 愚王が治める国らしいじゃないか」
 侮るように、吐き捨てる。
 家臣団からも「傾国の主なら、さもありなん」、「かの国でまともなのは、国務の一切を取り仕切る岩鬼殿ぐらいだ。他の大臣や長官は補佐や飾りに過ぎんからな」、「格上相手なら、亡国を覚悟しても宰相格が来るのが当然だろうに」と嘲笑が漏れる。
 しかし、そんな薄い笑いが包む空間で冬雅は
「い、いえ! それが……。紅浜国の国主、紅遠様が――お一人で弔問に参られました!」
 まるで悲鳴のような声で、伝えた。
「何だと!? 妖人――鬼人が自ら、一人で異国に!? 正気か!?」
「ま、間違いなく、お一人です! 継承者らしき供もおりません!」
「……愚かな。魂刀を奪われれば終わりだというのに。流石は――傾国の鬼人と呼ばれる愚王、か」
 確かな侮蔑の言葉と同時に、壬夜銀は苛立ちを見せた。
 妖人を打倒できる者など――一流の継承者や嫁御巫の海の如き軍団か、同じ妖人ぐらいだ。
 当然、この葬儀の場にはズラリと並んでいる。
 そんな中、単身乗り込んでくるなど――『自分は貴様らには負けない、強き妖人だ』と宣言しているに等しい。
 家臣団からも「傾国の鬼人様が、無謀な……」、「銀柳様とは師弟関係だったと窺っているが、剛気を超えた蛮勇も良いところ」、「このようなことは、前代未聞だ。傾国の鬼人、いや奇人との噂は誠であったか」とざわめきが止まらない。
 当然、居並ぶ嫁御巫側も――。
「――愚かな国主に嫁がなくて、よかったですわ。ねぇ、玲樺さん?」
「はい、和歌子様。……もっとも、その愚かな傾国の鬼人へ入れ込んで身を滅ぼした、暗愚な女の娘もいるようですが」
「あら、そうでしたわね。これは失敬」
 美雪の方を見て、和歌子と玲樺は袖で口元を隠している。いや、二人だけではない。山凪国の嫁御巫たちは、皆が同じようにくすくすと笑っている。
(……件の鬼人様は、銀柳様に義理立てをしたのでしょうか。私にとっては、顔も知らぬ縁深き御方ですが……)
 一層、顔を俯かせて美雪は思いに耽る。
 早くこの場が済み、なるようになればいい。恩義がある銀柳を弔えたのだから、もうどうでもいい。私には自由などなく、命令された役割をこなすのみだ。
 そんな諦めの感情を美雪が抱いていると――。
「――失礼する」
 会場のざわめきを、一瞬で掻き消す――凜と澄んだ男性の声が響いた。
「私の生涯の師であり、最愛の友を弔いにきた。焼香をさせていただこう」
 圧倒的な美しさ、存在感に――異論を挟む者はいない。
 壬夜銀ですら、息を飲んで男を見つめている。
 焼香台へと歩むのは黒の喪服、後ろだけ少し伸びた黒の髪、焔のような紅き瞳を宿した美麗な男性――紅遠だ。
「あ、あれが……。何という妖気、美しさだ。かつて無双の美童と謳われていたが、もう立派な美青年ではないか」
「傾国の鬼人……。その美しさから、男女問わず他国の妖人が手に入れようと躍起になるのも頷ける話だ」
「世に類なき容顔美麗なるのみならず、知勇兼ね備えた紅蓮の鬼人様とは聞いていたが……。これは……」
「……おい、しっかりしろ。あまり見つめるな。いつかの事件のようなことを貴殿も起こしたいのか」
 蔑み嘲笑う声は――ただ、紅遠が前を通るだけで消えた。
 紅遠は嫁御巫集に目線すら合わせず、軽く一礼する。
 それに合わせ、嫁御巫集が返礼すると――。
「――お美しいですわ……」
「何という、気高さ」
 焼香台で瞳を閉じ、何ごとかを祈ってる紅遠の横顔を見つめ、和歌子や玲樺は呆けたような声を口にした。
(……銀柳様。ご友人に送られて、よかったですね。喜んでいるのが、伝わって参ります)
 美雪は、会場でただ一人……紅遠に視線も向けず、銀柳の柩の上へ浮かぶ魂刀に注目していた。僅かながらにでも嫁御巫として妖力を操れる美雪は、その魂刀の反応を見つめる。
 銀の刃紋に、山野を見下ろし天を駆ける狼が刻まれた地肉彫の刀が、僅かに明滅している。
(銀柳様とは一度しか、お顔を合わせておりませんが……。私と深き因縁のある、この御方をとても大切にしておられたんですね)
 儚いほどに薄い繋がりであった嫁御巫だが、美雪にとって主は主。嫁候補は、嫁候補だ。
(私は見習い。銀柳様の伴侶に選ばれたわけでもない……。それでも、喜ぶべきなのでしょうね)
 自らの特別で複雑な身の上を鑑み、感情ではなく理性で、ここは喜ぶべきと美雪は判断した。
 美雪とて未婚の嫁御巫という、極めて矛盾した自分の立ち位置に多少、思う所はある。
 それでも、銀柳のお陰で苛烈さを増す折檻やイジメから逃れ、生き長らえた。感謝すべき恩人なのは、揺るがない事実なのだから、と。
 やがて焼香が終わった紅遠は――銀柳の遺影を背に、一通の書状を懐から取りだした。
「――私が直々に参ったのは、亡き友の冥福を祈るためだけではない。――これは私へと託された、銀柳殿による最期の願いが記された文だ」
「親父殿が!? 傾国の……紅遠殿に、最期の言葉を残しただと!? まさか、遺言状だとでも言うのか!」
 紅遠の雰囲気に飲まれ、水を打ったように静まり返っていた会場に――波のような響めきが広がる。
 壬夜銀が慌てるのも、至極当然だ。
 神州全体に古くからある仕来りによれば――四十九日の法要で襲名の儀が済むまでは、国主は銀柳のままだ。妖人の魂は魂刀に落ち着かず、浮世に残っていると伝わるのだから。
 壬夜銀は、まだ次期当主に過ぎない。
 銀柳が遺言に記してる内容は――即ち、国家の主の勅命。内容によっては、自身や山凪国の進退に関わる重要事項だ。
 そんな重要な遺言状を、実子である自分ではなく僅かな期間、剣を教えた弟子に過ぎない紅遠に教えていたことに――壬夜銀は腸が煮えくりかえる思いだった。
「認めぬ、俺は認めぬぞ鬼人!」
「……壬夜銀殿。貴殿はまだ、国主ではない。国主である鬼人に、そのような無礼な態度を取るのは品位に欠けるな。銀柳殿も貴殿の態度を深く憂いていたと文にあったが……。国主である私への態度が他の同盟国に知れ渡れば山凪国の信用に関わるであろう。礼儀を教えてやろうか?」
「な、ぐ……」
 先程、紅遠が会場へ入ってくる前に冬雅や双次と交わした言葉を聞かれていた。貿易で西洋文化が日夜取り入れられ情勢不安定な中、他国の国主へ身分も弁えぬ無礼を働いた。
 力持つ隣国へこの事実が知れ渡った時の損失と――国主を喪中で国が纏まらない混迷の未来を考え、壬夜銀は歯噛みして怒りを飲み込んだ。
「さて、銀柳殿が私に託した願いだが……。それは、ここに記されている通りだ。――そこに居並ぶ嫁御巫の中から一人、私に娶れとのことだ」
「お、俺の物を……。俺の嫁御巫を奪う、だと?」
「まだ貴殿の嫁ではない。銀柳殿の嫁御巫だ」
 稀少な嫁御巫を渡すなど、壬夜銀は承服できなかった。
「親父殿と、紅遠……殿の間には、ただならぬ絆があったとは聞いている。だが、ここまでとは……。俺と極めて血が近い嫁御巫を引き渡し、借しを作るという親父殿の策か? 確かに紅浜国は、軽工業と貿易だけは中々だが……」
 百歳を越える壬夜銀だが、嫁御巫の中には血縁があまりにも近すぎて、子を成すには危険な相手もいる。
 嫁御巫としての能力を十全に発揮してもらうには、額にある神眼という妖気の出入り口への接吻などの接触は、最低でも避けられない。
 妖人の血が濃い子を成すのは大切だが、壬夜銀としても扱いに困る嫁御巫がいたのは事実だ。貸しにしてやるのもありか、と。独占欲が強く利己的な壬夜銀は渋々考えるが――やはり、面白くない。自分の意思ではないのに、自分の手に入るはずだった者が奪われるのは許せなかった。
「さて……」
 あからさまに気の進まぬ様子で、紅遠は嫁御巫の方へ視線を向け一歩近付いてきた。
 嫁御巫たちは居住まいを正し、手ぐしで髪を整え「私ね」、「あの美麗な妖人様なら……」と、頬を染めている。絶世の美男子を前にしているのだから、やむを得ないのかもしれないがと美雪は思う。
(葬儀の場だというのに、故人の嫁がこの有様では……。晩年の嫁で絆が浅いとは言え、銀柳様が浮かばれないのではないでしょうか)
 美雪は周囲の嫁御巫の反応に、小さく肩を落とす。
 紅遠は数十の嫁御巫を前にゆっくり歩き始め、嘆息しながら関心の薄い瞳で見渡すと――。
「――お前、は……」
 美雪の前へとやって来て目が合った瞬間――紅遠は目を見開いた。
 自分の前で動きを止めた紅遠を、美雪も見つめ返す。
(天をも焦がす焔が如き真紅の瞳と相反する、冷淡な表情と白雪のような美しきお肌……。この美麗で尊き御方が……母を狂わせたのですね。何処か納得してしまいます)
 マジマジと紅遠の顔を見つめ、美雪は冷静に思考を巡らせる。
 同じように紅遠も、暫し逡巡してから――決意の籠もった鋭い瞳を向けた。

「私が最も愛した男と、最も難き女の子よ。――私の嫁に来い」

 極めて真剣で重い声が――静まり返っている葬儀会場に、よく響いた。
 だが数秒ほどすると、言葉の意味を理解した山凪国の者たちは――一様に驚愕の言葉を交わし始める。
 漏れ聞こえる声の中には「あのような売女の娘、力なき嫁御巫を欲するなどとは! やはり傾国の奇人か」と、紅遠の正気を疑う声まである。
 その言葉には、美雪も同意だった。
「……大変なご無礼と承知の上で、お窺いさせてくださいませ」
「何だ?」
「私の服装の意味は、ご理解いただけておりますでしょうか?」
「……白の喪服、か。貞女は両夫に見えず。夫が他界しても、他家には嫁がないという意思表示だな。急速に欧化している現代社会において、西洋の黒い喪服文化に染まらず古い因習を持ち出すとは驚きだ。……お前は、さぞかし銀柳殿に想いを募らせていたのだろう。いや、あるいは感謝か」
 実際には、美雪は銀柳に嫁いでいたわけではない。未亡人でもない。
 それでも下級使用人に服装を選ぶよう迫られ、感謝を示したく自ら白の喪服を手に取った。
 他家に嫁がないというよりは、嫁ぐ機会など、ないだろうと思っていた節はある。
 それに加え恩人である銀柳が他界したことへの、深い悲しみを示す意味合いも強かった。銀柳の死と同時に、自分も死んだも同然だという決意を胸に、この白い喪服へと身を包んだのだ。
 美雪の中で、自分は既に――役割を終え、苦しみから冥府へ旅立ってるも同然だった。
 そんな白い喪服の意味を理解しながら何故、紅遠は自分を娶るというのか。疑問に思わずにはいられない。
「……服装の意味を御理解なさっていながら、白の喪服で参列する私を何故、貴方様の嫁御巫に迎えなどと仰るのでしょうか。無能で罪深き私より、貴方様のような妖人に相応しき女性がいらっしゃるのではございませんか?」
「…………」
「……これは、復讐でしょうか?」
 俯きながら問う美雪に、紅遠の眼差しが一層鋭くなる。
 周囲の嫁御巫――特に和歌子と玲樺の、くすくす笑う声が響いて来た。
 しかし、そんな声は――妖気を漂わせる鬼人の睥睨で止まる。
 紅遠は、視線を美雪に戻し――。
「――そなたの母が私にしたことは、お前には関係ない。これは……おそらく、銀柳殿の遺志だ。不可解だった、私へ嫁御巫を一人迎えよとの言葉。そして――銀柳殿と難き女の実子である、そなたが嫁御巫に名を連ねていたこと……。これが偶然のはずがない」
 そう語った。
 紅遠の手には、大切そうに銀柳の花押が描かれた遺言状が握られている。
「そなたは不服だろうが、私は生涯の師であり最愛の友の願いを果たす。……そなた、名はなんと申す?」
「……朝原、美雪でございます」
「そうか。美雪、この話に否はない。銀柳殿に恩義を感じて白の喪服へ身を包んでいるならば、その遺志に殉じろ」
「……承知、致しました」
 元から明確な上の存在――天上の存在とも呼ぶべき、妖人に逆らうことなど許されない。
 美雪は、静々と頭を下げた。
 白い喪服の袖を揺らしながら、深々と下げられる美雪の頭を暫し眺めた紅遠は、小さく頷くと――。
「――近いうちに、迎えを寄越す」
 それだけ告げて、葬儀会場を去って行った。
 圧倒的な存在感を放つ傾国の鬼人が去ると、雰囲気に飲み込まれたようになっていた山凪国の者たちは、徐々に我を取り戻していった。
「がっはっは! 俺の嫁御巫を奪うと聞いた時は、どうなるかと思ったが! 寄りにも寄って、何の役にも立たない嫁御巫を娶るとはな! 余程、国を早く滅亡させたいようだ!」
 代々続く魂刀の混合が行われておらず、妖力は紅遠に遠くおよばない壬夜銀だが――今、この会場に居並ぶ中では、誰よりも強い力を持つ。
「いや、玩具にでもするか、慰みものとして甚振るのか。流石は、かつて強大であった紅浜国を瞬く間に小国へと堕とした傾国の鬼人殿だ。全く、大した審美眼を持っているようだな!」
 そんな存在が――残った紅遠の妖力や言霊を吹き払うように強気な発言をしたのだから、会場の空気は一気に美雪や紅遠を嘲笑する方向へと流れた。
「よかったですわね、美雪さん。遠からず滅亡するとはいえ、嫁入りの経験ができますわよ」
「ふふっ。本当、あなたに相応しい国を滅ぼす愚王だけどね。精々、旦那様との僅かな一時を大切にしなさい」
 先程の紅遠に見入っていた姿は、どこへやら。
「国が滅びる前の憂さ晴らしですか。良いご趣味の殿方と巡り会えましたわね」
「相応しきご結婚、おめでとう。美雪さん」
 和歌子と玲樺は、わざとらしく美雪の足をぐりぐりと踏み躙り――去って行く。
(銀柳様……。本当に、これが貴方様の御意志なのでしょうか?)
 銀柳の柩の上で、ふよふよと浮かぶ魂刀に向かい、胸中で美雪は尋ねる。
 本日の主役であり厳粛に弔われる筈だった銀柳は――これで満足なのだろうか、と。
 再度、両手を合わせて冥福を祈った後、人がまばらになった葬儀会場へ視線を巡らせた。
 ふと、棒立ちになって美雪を睨む冬雅と双次の姿が映る。
(お爺様と、叔父様の顔……。恥をかかされ、朝原の家名にまた泥を塗ったも同然。叔母様も、話を聞けばお怒りになるでしょう。私は、生きて紅浜国の血を踏めるでしょうか……)
 冬雅と双次の向ける目を見て、美雪は諦めたように俯いた――。

 紅浜国から、嫁御巫を迎える使者が来ると伝えられた日。
 朝原家の屋敷の一隅にある蔵の中では、目を覆いたくなるような光景が広がっていた。
「あの売女のせいで、私の人生まで台無しだわ!」
「申し訳、ございません……」
「ここまで生かしてやったのが間違いでしたわ! あの愚王と名高い傾国の鬼人に嫁入り!? 壬夜銀様の不興を買って朝原家を潰したいのですか、この疫病神!」
「申し訳、ございません……。叔母様」
 パァンと、美雪の頬が叩かれた。
「誰が貴女の叔母ですか! 貴女は他人以下……使用人にも劣る害悪! 菌やカビの類いですわ!」
「申し訳、ございません……」
「あらあら、お母様。お手が腫れておりますよ? 今、治癒の妖術をかけますね」
「……ええ、頼むわ玲樺。このゴミ親子のせいで、私は痛んでばかりよ。身も心もね」
 にやにやと笑いながら見ていた玲樺は、美雪の叔母――文子の手を包む。
 嫁御巫としての守護の力により、ぽっと銀色の灯りが灯ったかと思うと――すぐに手は傷も腫れも無い状態へ落ち着く。
「貴女も、玲樺を少しは見習ったらどうなの? 出来損ないの嫁御巫擬き」
「あらあら、お母様。――ゴミを踏まれては、最先端の靴が汚れてしまいわすわ。物の汚れは、流石の私の妖術でも取れませんよ?」
「靴の一つや二つ、また買えばいいですわ。このゴミを甚振れるのも、今日が最後なのですから。まぁ、場所が変わるだけです。どうせ国を傾ける奇人の玩具になるのでしょうけどね」
 輸入された流行している靴のヒールで、文子は縛られ蹲る美雪の頭を踏みにじる。
 その目には、果てない憎悪が滲んでいた。
(息苦しい。……生き苦しい。何故、私は生き続けているのでしょう。何を目的に、生き続けようとしているのでしょうか)
 紅遠から嫁になれと宣言された日から、美雪はずっと蔵で折檻を受け続けていた。
 粗末な薄着を一枚着せられただけなのは、肌が傷付く様子を見て憂さを晴らしたいという朝原家の面々による蛮行だ。
 使用人たちが痛ましそうに目を伏せるのも構わず、折檻をする側の者たちは水や拷問器具の運搬を命じていた。
 最低限の水を飲ませる――という名の、意識が遠のいた美雪へ桶の水をかけるという作業と、暴言や暴力に晒される繰り返しの時間だ。
 美雪の心は、既に折れる所がないぐらいに粉々であった。
 幼い頃から幾度となく折檻はされているが、これだけ昼夜問わず連日責め立てられるのは初めてだ。心身は衰弱しきっており、舌を噛んでしまおうかとすら美雪は思う。
(いえ、無駄ですね……。死を選ぼうとしたところで、たちまち玲樺さんに治されてしまいます。無駄に苦痛が増えるだけ)
 死ぬ自由すら与えられない、暗い絶望と蝋燭に火だけが照らす蔵の扉が開かれ――。
「――文子。もうすぐ迎えが来る時間だ。それを洗い、新しい服へ着替えさせねば」
「双次さん……。口惜しいですが、分かりましたわ。でも、これだけで終わるのもね……」
「お母様、私に良い考えがありますわ」
 悪辣な笑みを浮かべた玲樺は、ひそひそと文子へ耳打ちする。
 そうして文子は、話を聞いていくうちに――口を三日月のように歪めた。
「それは素晴らしい、流石は私の娘ですわ。――誰か、来なさい!」
「は、はい! 若奥様!」
 祖母は既に他界している為、朝原家に若奥様も何もない。だが文子は、そう呼ばれないと使用人を折檻する。
 慌てた女中が着物の裾を乱しながら駆け寄り、青ざめた表情で蔵の中の美雪へ視線を向ける。
 文子から伝えられる命令に涙目で頷くと、服が汚れるのも構わずに美雪の拘束を解いた。
「ふん、二度と顔を見たくないわ。まぁ、国ごと滅びるか、怪異か鬼人の贄に消えてくれるでしょうけどね」
「さようなら。ああ、安心してください。このまま紅浜国へ渡したら、我が家の名が不当に貶められてしまう可能性もありますからね。ちゃんと、傷は治してさしあげますよ」
 玲樺が美雪へ向かい手を向けると、銀色の光とともに――目に見える傷は、たちまち癒えた。
 目に見えない心の傷は、全く癒えてない。苦痛から解放された美雪は、自力で立ち上がろうとして――上手く力が入らず倒れてしまう。
 文子と玲樺が満足そうに美雪のあがく様子を眺め蔵から立ち去ると、女中は小さく「ごめんなさい」と呟き、美雪に肩を貸した。
「……良いのです。私は、誰のお役にも立てませんから。こちらこそ、嫌な仕事をさせてしまい申し訳ございません」
 謝罪をする美雪の横で、女中の瞳から一筋の雫が落ちた。
 そのまま美雪は女中に介抱されながら入浴を終え、替えの着物を手渡される。
「これは……。白い喪服、ですか」
「ごめんなさい、若奥様のご命令なの」
 顔を伏せる女中に、美雪は察した。
(玲樺さんが叔母様に耳打ちしていたのは、この嫌がらせを思いついたからなのですね)
 嫁入り衣装が白の喪服など、聞いたこともない。
 それでも美雪は、淡々と白の喪服へと袖を通していく。
(……私に自由な意思を持つ権利も、選択肢もありません。考えようによっては、紅遠様の仰っていた通りですね。銀柳様の遺志に殉ずる覚悟を示すのには、最適な服装かもしれません)
 葬儀の場で紅遠が言ってくれた言葉が、何となく嬉しかったのだ。
 白い喪服には、死と再生という意味合いもある。
 紅遠の『銀柳殿への恩義を感じて白の喪服に身を包んでいるならば、その遺志に殉じろ』という言葉は、美雪にとって自由な意思をも認められた気分になった。
 銀柳へ対して深い恩義を抱えているのも事実だ。
(好きにしていいと言うのは、選択肢を与えられたり強要されるより悩みますが……)
 刷り込みや洗脳にも近いほど虐げられ続けてきた美雪にとっては、紅遠の言葉に戸惑いも多い。
 しかし、あの一件から白の喪服は――美雪にとって初めて誰かから認められたものとして、お気に入りですらある。
何にせよ、今は白の喪服へ身を包む以外に選択肢が与えられていない。
 非礼に当たる不快な思いをさせたら、謝罪して折檻を受ければ良い。最悪、処断されても構わない。
 そんな心持ちで美雪は、小さな握り飯と少量の水を与えられ朝原家の門の前へと移動した――。

 朝原家の屋敷前に、立派な馬車が停まった。
 西洋の装いに身を包んだ御者が馬車の扉を開けると、中からは軍装に身を包んだ大柄な初老の男性が降りてくる。如何にも軍人と言った、厳かな風格を醸し出していた。
 怪訝な表情を浮かべる男性に美雪が軽く頭を下げると、男が
「失礼、こちらは朝原家の屋敷で相違ありませんかな?」
 そう美雪に尋ねた。
「ええ、間違いありません」
「……その、白の喪服。もしや貴女が、紅遠様の嫁御巫となる美雪殿でしょうか?」
「はい。何ごとも至らぬ無能者ではありますが、どうぞよろしくお願い致します」
「何と……。嫁入りに際し、見送りや使用人の一人もいないとは」
 深々と頭を下げる美雪に、驚愕したような声が聞こえてきた。
 また怒られるのではと、思わず美雪の肩がビクリと震える。
「お顔を上げて下さい。初めまして、某は紅浜国で国務大臣をしている岩鬼真登と申します」
「朝原美雪と申します。岩鬼様、お目にかかれて光栄です」
 美雪は良家の生まれではあるが、淑女教育を受けていない。十二歳の頃から嫁御巫見習いとしての修行はさせてもらっているが、礼節などは使用人の見よう見まねだ。
 そんな美雪の作法を見て、岩鬼は顎を撫でて困惑の表情を浮かべる。
(立派な装い、ピシッと伸びた背筋……。そういえば葬儀会場でも、紅浜国の岩鬼様は立派な御仁だと噂話が聞こえていたような。国務大臣という役職は聞いたことがありませんが……。国務の一切を取り仕切る、御国の要でしょうか? そのように重要な役目を持たれた方が、私なんかを迎えにご足労くださるなんて……)
 恐縮してしまい、美雪は何を話していいか分からない。
 そんな美雪の様子を察したのか、岩鬼は表情を和らげ
「朝原家への挨拶だけして参ります。……美雪殿は、馬車の中の方がよいですかな?」
「……いえ。挨拶は不要と、当主である祖父から承っておりますので」
「御代が変わるとはいえ、仮にも我が国と山凪国は同盟関係なのですがな……。それでは、せめて文だけでも失礼致します」
 岩鬼は御者に申しつけると、サラサラとペンで紙に挨拶文を書いていく。
 国務大臣という役職なだけあり、普段から書類仕事には慣れていると分かる早さで書き記すと、木で出来た門の扉へ書状を挟んだ。
「それでは、参りましょう。道中、怪異が出るかもしれません。お気を付けて」
「はい。怪異の一つも退けられぬ未熟な嫁御巫で、申し訳ございません」
 頭を下げてばかりの美雪に、岩鬼は頭を掻きむしる。どうしたものかと言わんばかりの様子だ。
 そのまま誰に挨拶を述べるでもなく、二人を乗せた馬車は紅浜国へ向け走り始めた。
 遠ざかる朝原家の屋敷を見ても、特に感傷はない。美雪がこれまでの人生を振り返っても、何一つ良い思い出なんか浮かんでこなかった。
 浮かぶのは、使用人より下に扱われながら家事へ奔走した日々と、近付くだけで震える蔵の記憶ばかりだ。
 徒歩とは比較にならない速度で過ぎゆく街並みに目を向けながら、ふと美雪は気づいた。
(思えば、他国どころか……王都以外に出るのも、初めての体験ですね)
 籠の中の鳥や深窓の令嬢など、可愛がられる存在とは違う。
 まるで産まれながらに囚人のようだと、美雪は感じた――。
 
 土を整備した道を馬車で進むこと、約五時間。
 既に日は傾き、もうすぐ太陽が山の間に沈んでいく。
 逢魔が時――怪異たちが活発になると言われる時刻である。
「美雪殿。ここで乗り換えです」
「え?」
 馬車についた窓から外を眺めるが、まだ街並みは広がっていない。
 山凪国の山林ばかりの地ほどではないが、小さな村らしき集落が遠くに見えるぐらいだ。
 美雪は逆らう権利などないと、岩鬼に続いて馬車から降りる。
 すると
「こ、これは……。凄い建物、ですね」
 馬車が二台通れるぐらいの道に、突如として大木より高い巨大な建造物が建っている。
 見慣れた木造の建築物ではない。
 山凪国で重要施設や、城の周りの街道に使われているアスファルトのような壁だ。
 馬車についた小さな窓からは死角になっていたのだと美雪は気がつく。
 呆気に取られた美雪に、岩鬼はカラカラと笑いながら先導して歩く。
「これは怪異などから国境を護る要塞であり、関所でもあり、継承者や兵士の駐屯地へも通じる門ですな」
「つまり、この建物から先が……」
「はい。ここまでは山凪国ですが、あの門から先は紅浜国の領土になりますな」
 山凪国の国土が想像以上に広いことを、美雪は知らなかった。
 これだけ王都から離れ人里離れているような地にまで支配が広がっていたことは、城と屋敷周辺しか出歩いたことのない美雪にとっては新鮮で、少し信じ難くもある。
(山凪国だけで、馬車で何時間もかかるなんて……。神州全体なら、どれだけ広いのでしょうか。これだけ広い地を、銀柳様や嫁御巫様たちは管理なされてたのですね)
 改めて、その力になれなかった自分が情けない。
 一般的な嫁御巫がどれだけの範囲を守護できるのかは分からないが、少なくとも自分の力なんて――人を一人護り、癒やすのも可能なのか怪しいレベルだと沈鬱な気分になる。
「駐屯地より先は、自動車での移動です」
「自動車とは……。確か近年、尊い方々の間で移動手段として普及してきた高級品ですか?」
「尊いかはともかく、安くはないですな。手入れも難しく整備された道路でしか使えないのが難点ですが、速度は速いです。自動車に乗り換えれば、もう紅遠様の元へは目と鼻の先といってもよろしいかと」
 どきりと、美雪の胸が鼓動した。
 ほんの少し会っただけなのに、紅遠という名前が出ただけで胸がおかしくなる。
 それだけ紅遠という妖人や彼の放った言葉は、美雪の心に深く刻まれていた。
 岩鬼に続き、紅浜国へ向かい歩いていると
「ん? あれは……」
 門の前で、粗末な服を着た何人かの村人が門衛に向かい大声で何かを訴えかけていた。
 一人の人物が抱える、血に塗れた子供を見て――岩鬼が走り始めた。
 美雪も続いて、白い喪服の裾を乱しながら全力で駆ける。
「何ごとだ!?」
「岩鬼様! いえ、この者たちが――」
「――娘を助けてください! 怪異に襲われて、血が止まらないんです! 金なら、いくらでも売れるものを売って工面致しますから」
「これは、酷い傷だ……。何とかしてやりたいが……。お前たち、山凪国の住民だな?」
 必死に訴えかける人を見て、岩鬼は尋ねた。
 この門より先が、やっと紅浜国。つまり、門の前にいるということは、他国の民ということになる。
 本来なら、自国の治療院や嫁御巫に助けを請うような状況だが、彼らはそうしなかった。
 辛そうに顔を歪めながら
「そ、そうです……。しかし私たちは、ここから目と鼻の先にある、紅浜国の旧領の住民です!」
 振り絞るように、血だらけの子を愛しそうに抱きしめながら叫んだ。
(旧領……。どういう、ことでしょうか? 山凪国と紅浜国は、数百年にわたり同盟国だったはずです。戦争での領土紛争があったなんて、聞いたこともありませんが……)
 美雪が戸惑っていると、岩鬼は深く頷いた。
「おい、ありったけの治療物資を持ってくるのだ!」
「は、はい! しかし、連日の怪異との戦闘で備蓄が……。それに、この傷ではもう……」
「それでもだ! せめて、やれる限り手を施してやれ! 何とかできるような状況であれば……。口惜しい」
 岩鬼も門衛も、理解していた。
 この傷は致命傷であり、西洋の最先端医術を用いても命が助かるかは怪しい。
 まして、医療物資が万年的に枯渇気味の紅浜国では――とても救えない、と。
 そんな彼らの表情と、絶望的に泣き崩れる親たち。そして苦しみ虫の息となっている子供の姿を見た美雪は、指先を震えさせながら――一歩を踏み出した。
「美雪殿、何を? 血だらけの子を抱いては、折角の白いお召し物が!?」
「――私の妖術で、癒やしの妖力を注がせてはくださいませんか?」
「なっ!? まさか貴女は、嫁御巫様なのですか!? お願いします、どうか娘を!」
 必死に懇願する親の声に、美雪は勇気を奮い立たせる。
(何のために、私は嫁御巫修行を七年間も続けてきたのですか。岩鬼様の望みに役立ないと、捨てられてしまう。怪異にやられ苦しむ子を一人ぐらい、護れる嫁御巫として役に立ちたい!)
 岩鬼も、美雪に任せて見ようと思ったのか止めない。
 白い喪服が汚れることも厭わず、美雪は親と一緒に子を抱きしめる。
(お願い致します。……どうか、届いてください。銀柳様、未熟な私に、どうかご加護を……)
 美雪の全身に、ぽっと銀色の光が灯る。
 それは風に吹かれる小さな蝋燭のように弱々しく、灯っては消えてを繰り返すような光だ。
「届いてください、どうか! どうかこの子を救う、癒やしの妖術を……」
 涙を滲ませながら、未熟で乏しい嫁御巫の力を振り絞り――。
「――血が、止まったか?」
 岩鬼が子供の傷を見て、呟くように言った。
 致命傷で、どくどくと血が流れていたのが止血された。
 玲樺や、それ以上と噂される和歌子のような術は使えない。
 嫁御巫としての力量の乏しさは、美雪だけでなく岩鬼でも理解した。
 それでも――。
「――美雪殿の厚意を無駄にするな! すぐにこの子を軍医へ診せるのだ!」
「は、はい!」
 門衛は慌てて、親子を連れて行く。
(救えた……のでしょうか? 私は、お役に立てたのでしょうか?)
 霞む視界の中、美雪はこちらへ向かい頭を下げながら駆ける親子を眺めた。
「美雪殿、お陰様で――……。美雪殿!?」
 岩鬼の声が遠ざかる中、美雪の目には――黄昏色と闇が混ざり合う空が見えた。
 身体の感覚が遠のいていく。
 連日、昼夜問わずの折檻から間を置かず長旅。そして――限界を超えた妖力の駆使。
(ああ……。私は、倒れてしまったのですね。本当に、嫁御巫と名乗るのも烏滸がましい力量……。いえ、一人の子を救えただけでも、よしとしないとですね)
「しっかりしてくだされ! 何ということだ……。折角、紅遠様が娶られた御方だというのに! 誰か、早く車の用意を!」
 岩鬼の切羽詰まった声が、要塞のような駐屯地へ響く。
 たちまち門が開き、車のエンジン音とタイヤが地を駆ける気配が近付いてくる。
 美雪は何とか意識を手放さないようにしながら、抱き起こしてくれる岩鬼の目を見つめた。
「……これが、未熟な私の限界でした。役立たずの力なき嫁御巫で、申し訳ございません」
「紅遠様の民……元民を、尊き子の命を護られたのです。もっと誇られよ! 何という顔色か……」
 紅遠の名を耳にした美雪は、燃え盛るような瞳と冷たく端麗な鬼人の顔を思い出し――。
「――紅遠様……。貴方様の手で斬られ、この命を散らせる役目すら叶わず……。申し訳がございません」
 美雪は、自身の死を覚悟した。
(ああ……。役目も自分の存在意義もなくなる。無の世界、自由へ投げ出される死が……怖いです。きっと私は、誰かに何か指示してもらい求められないと、冥府でも迷い続けてしまう……)
 全身の感覚が遠のき限界を超えた妖術を駆使したせいで、心臓の拍動が弱まっている気すらする。
 知らない虚無の世界で誰のために何をすれば良いか分からないのが、美雪には堪らなく怖く感じる。常に役目を与え続けられ休む暇も自由も与えられなかった美雪は、歪んでいた。
「美雪殿、しっかりしてくだされ! 紅遠様は、美雪殿を――」
「――よくやった。そこをどけ、岩鬼」
「な……。何故、ここに!?」
 もはや周囲の色は見えず、輪郭が僅かにぼやけて認識できる程度。
 それでも、美雪には分かった。
 後ろ髪が少し長い黒髪に、整った顔の輪郭と――紅く垂れた耳飾り。
 何より、人の心を滾らせるような――圧倒的な妖力。
「紅遠、さ……」
 絞り出すような声を最後に、美雪は意識を失った――。