「紘一?」
「お前の絵、す……」
紘一は最後まで声にすることなく、動かなくなった。
「……こういち?」
二人の周りは真っ赤に染まり、それは今尚、広がり続けている。
濃い赤が、網膜に焼き付く。
左腕から流れ出ている血液が、地面に広がる赤いキャンパスに加わる。
紘一の顔は青白くなっており、そこに付着した大量の血液がやけに目立っていた。
「死んでいいのは、僕だよ。紘一じゃない。友達が紘一しかいない僕より、みんなに好かれている紘一が生きるべきなんだ。おかしいでしょ? そうだよね、紘一?」
いつの間にか、どしゃぶりになっていた雨が、晨の声をかき消した。
「死なないで、紘一!」
それから、晨は自分がどうやって警察や救急車を呼んだのかを覚えていない。
ずっと夢の中にいるようで、雲の上に立っているみたいにふわふわしていた。
記憶も朧気で、晨の中に鮮明に残っているのは『深緋』の広がる世界だけだった。
先日、梅雨入りを宣言された。
その宣言通り、外の世界は分厚い雲に覆われており、昼間とは思えないほど、薄暗い。
窓を閉めていても、雨の音がザーザーと聞こえてくる。
晨はタブレットを片手にリビングのソファーに座って、ぼんやりとしていた。
雨は、晨にあの日を思い出させ、精神的に不安定にさせる。
それは、数年が経った今でも変わっていない。
「コーヒー、飲む?」
不意に聞こえた声に、晨は我に返り、視線を上げた。
そこには優しい表情を浮かべた真白が晨の様子を窺うように立っている。
「飲む」
「待ってて」
どこかホッとしたような表情を浮かべた真白は、すぐにキッチンに向かった。
晨はその後ろ姿を目で追い、小さく息を吐いた。
集中力が落ちている。
雨のせいなのか、単なる不調なのかはわからない。
手元のタブレットには白紙の画面が映し出されており、憂鬱そうな自分の顔が反射している。
「濃い目がいい?」
「うん。でも、真白も飲むなら、好きな濃さでいいよ」
「カフェオレが飲みたいから、私も濃い目でいいの」
「そっか。じゃあ、任せる」
晨は進みそうにないタブレットとペンをローテーブルに置き、ソファーに寝転んだ。
シーリングライトが眩しくて、目を細める。
右腕で顔を隠し、溜息を吐く。
自分がどんな顔をしているか、鏡を見なくてもわかる。
陰気で、虚ろ。
もしかしたら、生気を感じないほどかもしれない。
真白の抱えているものが気になる。
聞いてはいけない。
聞けば、傷口に塩を塗ることになる気がする。
だけど、知りたいという気持ちが無視できなくなってきて、それは仕事にも影響し始めていた。
キッチンに目を向けると、ちょうど穏やかな顔をした真白がゆっくりと湯を注いでいるところだった。
円を描くようにお湯を注ぎ、丁寧に淹れている。
晨が真白に教えた淹れ方だ。
いつの間にか、真白は晨よりも美味しいコーヒーを淹れるようになった。
そんな些細なことが二人でいる時間の長さを表しているようで、そわそわしてくる。
それから、晨はほんのりクリーム色をした天井を眺めて、自分でもよくわかっていない感情に浸った。
「晨」
真白に呼ばれ、ゆっくりと起き上がる。
部屋がコーヒーの香しい匂いでいっぱいになっていた。
テーブルに置かれたコーヒーカップから湯気が立ち上っている。
「ありがとう」
「どういたしまして」
晨の言葉に、真白は笑顔で応え、晨の足元に座った。
真白はラグの上がお気に入りで、あまりソファーに座ることがない。
真白曰く、毛足の長いラグが気持ちいそうだ。
晨がコーヒーを口に含む様子を、なぜか真白はジッと見ている。
不思議に思いながらも、二口目を飲んで、カップをテーブルに戻した。
「何?」
「晨って、コーヒー嫌い?」
「好きだよ。じゃなきゃ、こんなにも飲まないよ。どうして?」
「コーヒーを飲むたびに、眉間にしわを寄せてるから」
「そう?」
「うん。こんなふうに」
そう言って、真白は眉間にしわを寄せ、険しい表情を作った。
「そんな顔してないよ」
「してるよ! 本当は、甘いほうが好きなんじゃないの?」
晨はその言葉に、胸が締め付けられた。
本当は、わかっているから。
晨は甘党だ。
ブラックコーヒーを好んでいたのは、晨ではない。
「これでいいんだ」
晨は自分に言い聞かせるように呟くと、またカップを手に取り、コーヒーを口に運ぶ。
とても苦くて、苦しくなる。
コーヒーなんて……大嫌いだ。
納得できないと表情で訴える真白には気付かない振りをして、晨は放置していたタブレットとペンを手に取った。
ペンが液晶を滑る。
スケッチブックに描いていた時は、鉛筆を走らせる音が好きだった。
デジタルで描く時は、ペンが液晶に当たった時に鳴るだけで、心地良さは感じない。
「今は何を描いてるの?」
「何を描こうか、考えてる」
「……そっか」
それから訪れる静寂。
真白はおしゃべりな印象があったが、意外と無言の時間を苦に思わないようだった。
一緒に過ごす時間が教えてくれた、意外な一面だ。
こつんこつんと、ペンで液晶を突く。
それで何かが浮かぶわけではないが、考え事をしている時の晨の癖だ。
真白も慣れたのか、そんな晨には話しかけずに、窓の外を眺めて、カフェオレを飲んでいる。
真白は名前のように、色白で、無垢な見た目をしている。
横顔を見ていて、そんなことを思ったからだろうか。
「……雪」
「え?」
自分でも意図しなかった言葉に驚いて、真白と同じようなきょとんとした表情を浮かべた。
「どうして、晨までびっくりしてるの?」
真白の笑い声に、晨は恥ずかしくなり、首の後ろを掻く。
「いや、なんとなく真白を見ていたら、雪が思い浮かんで……」
晨に特別な意図もなかったし、深い考えがあったわけでもない。
言うなれば、単なる世間話に近かった。
それなのに、真白にとっては違ったようだ。
大きな目を更に大きくしたかと思ったら、あっという間に涙が溜まり、瞬きに弾かれて零れた。
「え、あの、ごめん……」
理由はわからないまま、反射のように謝る。
しかし、真白は顔を覆って、首を振るだけだ。
また、泣かせてしまった。
真白と過ごすようになって、晨は何度、真白を泣かせてしまっただろうか。
なんてことない行動で、言葉で、真白の涙腺に触れてしまう。
それが、悲しみの涙なのか、怒りの涙なのかもわからない。
「真白」
「呼ばないで!」
真白の大きな声に、晨の肩が跳ねる。
叫んだ時に現れた真白の顔は、涙に濡れ、目には怒りが滲んでいた。
「ごめん」
「……ごめんなさい」
晨の謝罪に、真白の言葉が重なる。
「真白は謝らなくていいよ。だって、真白にとっては嫌な言葉だったんだよね?」
「そうだけど、晨は何も知らないじゃない。それなのに、いきなり怒られたら、嫌な気持ちになるでしょ」
真白が申し訳なさそうな表情を浮かべると、まるで晨の反応から逃げるように俯いた。
晨は真白の頭にぽんと手を載せる。
すると、今度は真白の肩が跳ねた。
「真白はいい子だね」
「どこが⁉ 私なんて――」
「いい子じゃない。生きていちゃダメな人間、なんだね?」
晨が真白の言いそうなことを口にすると、真白は悔しそうに唇を噛み、そっぽ向く。
「わかってるじゃない」
「俺は真白の名前、可愛いと思うし、似合ってると思うよ。それに真白は優しいし、俺のことを気遣ってくれる。料理は上手だし、掃除も丁寧。乱雑になりがちな俺のデスク周りを慎重に整頓してくれる。デスクは、俺が困るといけないから、あんまりたくさんは動かさない。明るくて、おしゃべりだけど、本当はもの静かで、落ち着いてる。あと、面倒見もいい。気配り上手だけど、それを相手に悟らせない。こんなにいいところがあるのに、いい子じゃないなんて、俺は言えないよ」
途中から号泣し始めた真白を、晨は抱き寄せ、背中を撫でた。
小さな身体が晨の腕の中で震えている。
「……殺してよ」
「嫌だ」
「じゃあ、私のこと、捨ててよ」
「それも、嫌」
「……晨のバカ」
「知ってる」
晨は宥めるように、しゃくり上げる真白を強く抱き締め直した。
外から聞こえる雨音が、晨の傷を疼かせる。
だけど、今はそれ以上に真白の傷のほうが気がかりで、どうだってよかった。
「俺、人を殺したことがある」
「……え?」
「だから、真白のことも殺せるかもしれない。そう言ったら、真白はどうする?」
腕の中で顔を上げた真白を至近距離から見つめ、晨は真剣な表情を浮かべた。
真白は動揺し、視線を彷徨わせる。
晨は真白の濡れた目元に触れ、そっと撫でた。
「唯一の親友を、俺が殺したんだ。コーヒーはその人が好んでいたものだ。だから、俺はコーヒーが苦手でも飲む。その人は俺の水彩画を気に入ってくれていた。でも、もう見てくれる人がいないから、俺はデジタルでしか描かない。こんな俺が生きている資格なんてない……俺も、本当は殺してくれる人を探していたのかもしれない。だから、真白が俺を殺してよ。殺してくれたら、俺も真白を殺すから」
真白の表情が歪み、晨の首に両腕を回して、抱き着く。
そんな真白を晨はしっかり受け止めた。
「殺してなんて、言わないで……」
「うん」
「生きてる資格がないなんて、言わないで……」
「うん」
「ごめんなさい」
「いいよ」
晨は涙を堪え、無理やり笑顔を作った。
真白に言ったことは本心だ。
嘘は一つも言っていない。
だけど、真白にそれが伝わらなくてもいいと思っている。
真白に晨のことを知ってほしいのではなく、真白が生きることを望んでいるのだと知ってほしかった。
真白に『殺して』『生きる資格がない』と言わせたくない。
言われることがどれほど辛いか、真白に気付いてもらいたかった。
真白にこの思いが伝わったから、『ごめんなさい』と言ったのだろう。
いや、そうであってくれと願う。
真白はしばらく晨に抱き着いたまま、声を殺して泣いた。
思い切り泣けばいいのに、と思ったが、今は静寂が必要だと思い、晨はひたすら真白が泣き止むのを待った。
「晨」
落ち着いた様子の真白が掠れた声で、晨を呼んだ。
それは、弱々しいながらも、どこか決意を含んだような強さも垣間見える。
「何?」
「真白は、雪の日に生まれたから、真白なんだって」
「そっか。きっと綺麗な景色だったから、ご両親は名前にしたくなったんだろうね」
二人はソファーを背もたれにして、並んで座った。
真白が自分の話をしようとしている。
それだけで、晨は胸がいっぱいになった。
一生懸命、自分のことを話す真白を見たら、泣いてしまいそうだった。
偶然かもしれないけれど、真白が横並びになってくれてホッとした。
「どうなのかな。私にはその時の両親の気持ちなんて、わからない。もう聞くことができないから」
「……もしかして」
「二人とも死んじゃったから。私を捨てて、二人だけで……」
両親がいないことも、家がないことも聞いていたはずなのに、改めて言葉にされると、やはりそうだったのかと実感する。
「捨ててって、どういうこと?」
「私はいらなかったんだよ。だから、一緒に死なせてくれなかった。連れて行ってくれなかった」
晨は頭を抱えそうになり、必死に堪えた。
真白の言いたいことはわかるようで、わからない。
そもそも両親の死は同時なのか、たまたま続いたのかがわからない。
病死なのか、事故なのか、も。
連れて行ってくれなかった、とはどういう状況なのか、汲み取ってあげようにも難しい。
「真白――」
「どうして? そんなに、私のことがいらなかった? 邪魔だった? 私が生まれたせいで、二人は……私の存在が罪なんだ。生まれてこなければよかった」
「真白?」
「私なんて、産まなければよかったじゃない!」
晨は慌てて真白の顔を覗き込んだ。
焦点の定まらない目は虚ろで、顔色はいつも以上に白い。
震える唇からは想像もできないような、強い怒りが全身から溢れ出している。
「真白? 真白ってば……俺のことわかる?」
「もう、嫌!」
真白はそう叫ぶと、気を失ってしまった。
幸い、晨の方へ倒れ込んできたお蔭で、身体や頭を床にぶつけずに済んだ。
しかし、そんなことでは喜ぶことができない。
それどころか、自分の身体がボロボロになるまで殴りたくなった。
晨は、真白にパニックを起こさせたのだ。
晨は真白をそっと寝かせ、自分の足に頭を載せてやった。
小柄で細身の晨に、ベッドまで運ぶ力も、ソファーに寝かせてあげる力もない。
もともと好きではない自分の非力さが、より一層嫌いになった。
涙に濡れた真白は今、力尽きたように横になっている。
青白くなった顔色に、泣いたせいで赤くなった目元が際立っているのを見ていると、無理やり聞き出そうとした自分を責めずにはいられない。