「あったかい気持ちになったから」
「え?」
それのどこに、殺害スイッチがあるというのか。
「幸せな気分になったから」
「それのどこが――」
「私には一番不要だから」
そう言うと、真白はまっすぐ晨を見つめた。
揺るぎない視線に、思わずたじろぐ。
「幸せなんて、いらない。感じたくない。感じちゃいけない」
晨を見て言っているようで、どこか独り言のようにも感じる。
「……そう」
真白が予想していた反応ではなかったのだろう。
目を丸くしたかと思ったら、真白は口を開いたが、何も言えずに閉じた。
しかし、晨には違和感のない返事だった。
真白がどうしてそう思うのかは知らない。
だけど、真白の言うことは理解できた。
それどころか、同じ気持ちを抱いていたことに、親近感を持ったと言ってもいい。
ただ、これだけは変わらない。
「だけど、俺は真白を殺さない」
真白の表情が歪んだのを見て、晨は立ち上がり、キッチンに向かった。
ケトルに水を入れて、スイッチを押す。
マグカップを二つ出して、真白が好きなココアと自分用に紅茶のティーパックを用意する。
そうしているうちに、ケトルからはコポコポと音が聞こえ、お湯が沸いた。
二つのマグカップにゆっくりとお湯を注ぐ。
すぐに甘い香りが漂ってきた。
晨は真白の座るリビングに飲み物を運び、ローテーブルに並べた。
真白はぼんやりと晨の一連の行動を見ていたようだ。
再び正面に座った晨に、不思議そうな表情を見せる。
これは、真白を落ち着かせるためでもあり、自分を落ち着かせるためでもある。
過去へと引き戻され、恐怖と絶望の中に放り込まれる気がして、ずっと心臓が痛かった。
自分よりも酷い状態の真白がいなかったら、晨の方がパニックを起こしていたかもしれない。
「飲める?」
「……うん。ありがとう」
真白は腑に落ちない様子を見せながらも、大人しくマグカップを両手で持ち、ふうふうと息を吹きかけて、一口飲んだ。
それを見てから、晨も紅茶に口に含む。
アールグレイの風味が口の中に広がり、冷えた心臓に温もりを与えてくれた。
何かを言いかけてはやめる真白を、晨はあえて気付かないように振舞った。
二人が飲み終わると、晨は何も言わずにマグカップを運び、洗う。
晨には、これ以上何かを言うつもりはない。
確かなのは、真白が晨と似た考えを持っていることと、それでも真白を殺すつもりはないということ。
ただ、真白に言えるのは後者だけだ。
この日、二人が今回の出来事や互いの言葉について、触れることはなかった。
いつか話すことになるという、確信があったとしても。
「蜃気楼のように、空に幻が浮かび上がる。その幻の下に、本当にそれは存在するのか。それともその幻は、俺の創り出した幻影の上に成り立っているのか……脳なのか、心なのか……」
晨の呟きに、真白がぷっと吹き出す。
「今度は何の話?」
ソファーに座り、窓の外をぼんやり眺めていた晨は、上から覗き込んできた真白に焦点を合わせて、ふむと考え込んだ。
「蜃気楼は温度差や気候の影響を受けて、現実にあるものが別のところに浮かんだように現れること。それは知ってる?」
「まあ、なんとなく」
真白は軽く頷きながら、晨の隣に腰を下ろす。
晨が、前触れもなく変なことを言い出すのはよくあることだ。
真白はそれ自体には慣れたが、言っていることを一度で理解するのは難しい。
「でも、蜃気楼は幻なんだ。つまり錯覚。そこには存在しないものが存在しているように見える。でも、見えているものが、本当に存在しているかなんて、わからない。
だったら、その幻は自分が創り出しているのかもしれない。でも、それがどっちかわからないということは、自覚のないまま創り出しているということでしょう?
そうだとしたら、それは潜在意識の表れということになる」
「待って待って。晨、難しいって。どこから来た発想で、どこに向かおうとしてるの?」
晨は、真剣な表情で真白をまっすぐ見つめている。
こういう時の晨は決してふざけているわけではないし、おかしくなったわけでもない。
それどころか、いつものふわふわした雰囲気からは想像できないような、キリッとした空気をはらむ。
真白がそんな晨をどう見ているかはわからない。
でも、こうして正面から向き合ってくれる。
それは晨にとって、とても懐かしい感覚だった。
晨の独り言に真面目に耳を傾けてくれたのは、これまでにたった一人しかいなかった。
そういう存在は、もう現れないと思っていたから、真白が耳を傾けてくれた時は不思議な感じがした。
「真白は変わってる」
晨の言葉に、真白は吹き出した。
「晨に言われたくないよ」
「心外だな」
「それで? 蜃気楼と幻はイラストに関係してるの?」
晨は腕を組むと、長い人差し指で唇に触れて、窓の外へ視線を移した。
「空を、描きたい」
「うん」
「でも、青空でも夕暮れでもない。月も星も出ていないし、太陽もない。そんな空はどんな色をして、何が浮かんでるのかな」
隣の真白も腕を組んだのが視界の端で見えた。考えようとしてくれる。こんなにも抽象的なことなのに。
「その空を見ている人は、存在するの?」
「ああ、なるほど」
晨はそう呟くと、ふらりと立ち上がり、仕事部屋へ向かった。
その姿を見て、真白が微笑んだことに気付かず、晨の意識はすでにイラストに向かっている。
いつの間にか、そんな光景がよく見られるようになっていた。
寝室問題も解決し、真白のいる日常にも慣れてきた。
晨にとって、他人のいる時間はもっと苦痛になると思っていたが、我慢できないほどではなかった。
問題があるとすれば。
「晨って、かわいいよね」
「……は?」
「かわいい!」
「俺はかわいくない。なぜなら、男だから」
目の前できんぴらごぼうを口に運びながら、満面の笑みを浮かべている真白を、晨はキッと睨みつけた。
真白は見つけたのだ。晨が嫌いな言葉を。
「泣き黒子がいいよね。薄い唇はほんのりピンクで、ブラウンベージュの髪が少し癖毛なのもいい。極めつけは、くっきり二重の大きな目だよね。ねえ、自分をモデルにしないの? 絶対にかわいい女の子のイラストが描けるのに」
真白は目を閉じると、幸せそうに微笑み、ほうっと息を吐いた。
晨は呆れたように大きな溜息を吐いて、静かに箸を置く。
「あのさ、もういい加減にしてよ。何回言ったら、わかるの? 俺はかわいくないし、女の子じゃないし、モデルにもしない。何が楽しくて、自分をモデルにしなくちゃいけないんだよ……」
「晨ちゃん」
「ちゃんって呼ぶな!」
晨の叫びにも、真白は楽しそうに笑うだけで、決して反省した様子は見せない。
ここ最近、似たような会話を毎日している。
正直、返事をするのも億劫だ。
真白がそれ以上、何も言おうとしないことに胸を撫で下ろし、晨は再び箸を手にした。
一日に一度のやりとり。
その変な規則性に気付いていた晨は、内心で不思議に思っていた。
確かに、真白は晨を揶揄って楽しそうにしている。
しかし、どこかしっくりとこない。
揶揄うことに目的も何もないと思うけれど、真白は単純なようで、難しいところがある。
言い換えると、『こじらせている』気がする。
そんな真白が、単純に晨を怒らせることだけを楽しむだろうか。
「真白」
「ん?」
食事を終えた真白が箸を置いたのを見て、晨はまっすぐ真白を見据える。
「何がしたいの?」
「晨が食べ終わったら、片付けがしたい」
「そういうことじゃない」
晨は腕を組んで、真白の目を見つめた。
そうすると、真白の色白の頬がほんのりとピンクに色づく。
僅かに速くなった瞬きのたびに、長い睫毛が揺れて、猫のような丸い目を目立たせる。
真白が晨のことを知り始めたように、晨もまた真白のことを知り始めている。
真白は、案外恥ずかしがり屋だ。
「晨のこと、くすぐってみたい」
「ダメ」
「晨が爆笑してるところを見てみたいな」
真白は頬杖をついて、上目遣いで晨に微笑む。
その姿に、晨の心臓がトクンと反応した。
意図しない心臓の動きに、晨は膝の上で握り拳に力を込めた。
心臓を押さえたくなったを堪えたのだ。
そんなことをしたら、真白に誤解されてしまう。
いや、この心臓の反応は、晨にとっても誤解でしかない。
何の意味もない。
ただ、慣れない異性の姿に驚いただけだ。
「絶対に嫌だから。くすぐったら、怒るよ」
「じゃあ、それもありか……」
真白の呟きに、晨は訝し気に見つめ返す。
「あり?」
「何でもなーい!」
真白は晨の反応を待たずに、すっと立ち上がり、食器を重ね始めた。
「ちょっと、真白」
「はいはい、ちょっとごめんなさいねぇ」
なんとなく食堂のおばちゃんを彷彿とさせる態度で、真白は颯爽とキッチンへ去って行く。
その後ろ姿を見ながら、晨は髪をくるりといじった。
何らかの魂胆があるはずなのに、見当がつかない。
それが、とてももどかしい。
「晨、晨」
流しから聞こえ始めた水音に重なって、真白が晨を呼ぶ。
顔を見る前から、真白がにやけているのがわかった。
「なに?」
予想通りの表情をした真白を観察するように、ジッと見つめる。
「晨のイラスト、好きだよ」
「えっ、あ、うん……」
唐突な告白に、髪を遊ばせていた指が止まり、目を瞬かせる。
「いつか、大切な人ができたら、その人を描いてね」
晨はその言葉に、返事ができなかった。
真白は気付いている。
晨のイラストには、決して人物が描かれないことを。
風景、それも幻想的な、どこか非現実的な世界ばかりであることを。
晨は無言で立ち上がると、窓の方へ吸い寄せられるようにゆっくりと移動した。
そこから見える景色はごくありふれた世界だ。
様々な色の屋根が並び、あちらこちらから灯りが漏れている。
空には一等星が輝き、居待月が夜を闇から救い出している。
「いつか……」
人を描ける日が来るのだろうか。
大切な人など、できるのだろうか。
それは、今の晨には想像もできないことだった。
五月晴れの心地良い朝。
晨はベッドで横になったまま、大きく伸びをした。
カーテンに隙間があったようで、そこから朝陽が差し込んでいる。
昨夜はイラストが思うように進まず、晨にしては珍しく早寝だった。
そのお蔭か、朝の目覚めは悪くなく、身体も軽い。
一日の始まりとしては上々だな、と思った晨はふと、違和感を抱いた。
布団がふっくらと盛り上がっている。
それはいい。
問題は晨の身体ではないもので膨らんでいることだった。
晨が恐る恐る掛け布団をめくると、小さく丸まった真白が眠っていた。
「え?」
晨の腕の中に納まるような位置で、晨のパジャマを掴んだまま、気持ち良さそうに寝息を立てている。
晨は何が起こっているのか理解ができず、遅れて、顔に熱が集まっていくのがわかった。
それどころか、身体全体が燃えそうになっていく。
「ま」
名前を呼ぼうとして、すぐにやめた。
真白の身動ぎでベッドが細かく揺れる。
次の瞬間、彼女が密着するように、身体を寄せてきた。
長くて細い腕が晨の身体に回され、きゅっと抱き着く。
真白の熱が、晨の右半身を焦がすように伝わってくる。
「――っ」
晨は叫びそうになるのを、唇を噛んで堪え、真白に触れないように両手をゆっくりと挙げた。
心臓が痛い。バクバクと暴れている。
この音が、この振動が、真白に伝わって起こしてしまいそうだ。
そうなったら、どんな顔をすればいい?