「じゃあ、家の中を説明して、簡単なルールを決めよう」
「うん! ルールその一、真白のことは真白と呼ぶこと」
「いきなり無意味なルールが出てきた」
「え、大事だよ? 一緒に暮らすのに『麻生さん』って呼ばれるのは疲れる」
「……わかった」
「その二、真白を殺して!」
晨の身体から力が抜ける。
幸い、座っていたお蔭で崩れ落ちることはなかったが、立っていたら危なかったかもしれない。
「絶対に殺さないから」
「絶対、殺されるようにがんばる!」
「……がんばるところ、違うよね?」
晨の言葉に、真白は楽しそうに笑う。
屈託のない笑顔には悩みの欠片も見つけられない。
晨が口を開きかけた瞬間、真白が勢いよく立ち上がって、スタスタと迷いなく歩き、仕事部屋兼寝室のドアを開けた。
確かに部屋は一つしかないから、迷いようはないけれど、他人の家に初めて来て取る行動としては、突拍子もない。
「ここが、二人の愛の巣!」
「違うでしょう⁉」
晨は慌てて駆け寄り、ドアを閉めた。
とんでもないことばかり言う真白には、確実に手を焼く。
振り回される毎日を想像して、静かな日常が壊れる音がした。
「晨! 起きて!」
真白の元気な声とともに、朝陽を遮っていたグレイの遮光カーテンが開かれた。
窓から射し込むのは、陽気な春を思わせる暖かな陽射し。
真っ暗だったリビングに小花が舞うように、真白は楽しそうに晨が包まっている布団をリズミカルに叩く。
「起・き・て! あーきー!」
ぽんぽんぽん。タタタンタン。
真白は晨が起きるまで、ずっとこれを繰り返す。それも毎朝だ。
今は真白が寝室のベッドを使い、晨がリビングのソファーで寝ている。
しかし、寝室は仕事場でもあるため、夜の間ずっと絵を描いていることも多い現状は、真白の睡眠には適していない。
この問題を解決すべく、二人は今日、布団を買いに行くことにした。
「晨ってば!」
「もう、わかったって!」
晨は布団を跳ね上げ、顔を出した。
晨のしかめっ面を見て、真白は満足そうに笑う。
「こっちは遅くまで仕事していたんだから、もう少し寝かせてくれても――」
「お買い物、早く行きたいんだもん!」
「別に慌てなくても、店は逃げな、あっ、ちょっと……危ないなぁ」
真白は晨の言葉を無視して、その両手を掴むと、強く引っ張った。
そのせいで、体重の軽い晨は簡単にバランスを崩し、ソファーから転がり落ちてしまった。
「逃げるんだよ、本当に欲しいものは! ほらほら、顔を洗う!」
晨は、鼻歌まじりの真白がキッチンへ向かったのを目で追いながら、欠伸《あくび》をかみ殺した。
「布団を買うくらいで、何がそんなに嬉しいんだか……」
確かに晨にとっても、今の環境の悪さと効率の悪さは居心地が悪い。
絵を描いている晨の背後には、ベッドで寝ている真白がいる。
起こしてはかわいそうだ。
静かにしないと。
明るくて起きないだろうか。
ちょっとした心配が過るたびに、イラストを描く手が止まる。
没頭していたはずなのに、その世界から現実へと引き戻されてしまう。
そんな雑念が、これまで淡々とした日常を繰り返していた晨の生活を侵食し始めている。
その上、晨はソファーで寝ているのだから、疲れも取れない。
だったら、いっそ布団を買って、生活環境を整えた方がいい。
顔を洗い、身支度を終えた晨が洗面所を出ると、ふわりといい匂いが鼻先をくすぐった。
「ご飯、できてるよ」
「あ、うん」
真白はここに住むようになってから、頼んだわけでもないのに、当たり前のように家事全般をこなしている。
晨の不規則な生活を正すように、食事は一日三回。
晨に合わせて、多少時間が変わることはあっても、回数が減らされることはない。
それから、必ず朝陽を部屋に入れる。
晨が遅くまで絵を描いていた翌日も、必ず朝、カーテンを開ける。
それを、晨は煩わしいと思う反面、どこか、気持ちにゆとりができてきたことを感じ、複雑な気分になる。
寝不足で、気だるいはずの朝が、少しだけ気持ちよく感じるのだ。
ダイニングに行くと、こじんまりとしたテーブルに、朝食が並べられていた。
今日は和食のようだ。
「ほらほら、早く座って! 私、おなか空いた」
「……うん」
いつの間にか、晨と真白の座る席が決まっている。
晨は真白の正面に座ると、目の前に並んだ食事に視線を落とした。
バラバラの食器に盛り付けられた料理は、特別なものではない。
どちらかというと、素朴で、まるでおばあちゃんちの朝食のようだ。
「いただきます!」
真白の元気な声に、晨はハッと顔を上げた。
手を合わせていた真白が首を傾げる。
「どうかした?」
「いや、別に」
晨の違和感は日に日に増している。
真白は明るく、元気いっぱいで、年上のはずの晨を│揶揄《からか》うことを楽しんでいるし、張り切って家事をこなしている。
何かを悩んでいる様子も、暗い表情も見せない。
それなのに、『殺してほしい』という言葉が出てきたのはどうしてだろうか。
もしかしたら、単なる気まぐれ。
もっと言うなら、ただ人を揶揄って遊んでいただけなのかもしれない。
そう言われる方が納得できる。
でも、真白の環境は普通ではなさそうだ。
このちぐはぐした印象が晨を混乱させる。
朝食を終えた二人はマンションを出て、最寄り駅を目指して歩いた。
十分ほど歩いたところに百貨店があり、もう少し進んだところには、手頃な値段の家具や生活雑貨を置いている店がある。
二人は迷うことなく、後者を選んだ。
「うわぁ! すごいすごい!」
真白のはしゃいだ様子に、晨は苦笑する。
「特別なものなんて、無いでしょ? これが高級店ならわかるけど……」
晨の言葉に、真白は力強く首を振った。
「ううん、特別だよ! 私、こういうところ、初めてなの。だから、すっごく嬉しい!」
晨は思わず言いそうになった言葉を飲み込んだ。
人の生きてきた道は、人の数だけある。
真白の人生は、まだ十八年だ。
それほど長くない真白の人生はどんなものだったのか。
今の晨には想像すらできない。
だったら、晨にとって当たり前のことも、真白にとって当たり前ではない可能性は充分に考えられる。
「じゃあ、今日は布団一式と食器。あと、他の店に行って、真白の服も買おう」
「真白って言った!」
「え?」
「だから、今、私のことを真白って言った! 嬉しい。もしかして、忘れたのかと思ってた」
晨は自分の顔が熱くなったのがわかった。
「だ、だって、そう呼べって言ったでしょ」
「晨!」
「なに?」
「なに、じゃなくて、私の名前を返さなきゃ!」
「返さない」
「なによ、いいじゃない。減るものでもないのに」
「何かが減る気がするから、言わない。ほら、時間がなくなるから、行くよ」
晨は口を尖らす真白のパーカーの袖を引っ張り、寝具コーナーへ向かった。
後ろからぶつぶつと文句が聞こえる。
晨は自分の口元が緩んでいることに気付いていなかった。
二人の買い物は、非常にサクサクと済んだ。
女の子の買い物は時間がかかると聞いたことがあった晨にとっては拍子抜けするほどだった。
真白はファッションにこだわりも好みもないような様子で、安いものを適当にかごに入れていった。
晨ですら、好みがあって、悩むこともあるのに、真白にはそんな様子がまったくない。
考えなくてもいいのかと聞いても、『着られたらいい』とだけ返ってきたのには驚いた。
晨が真白の潔さに圧倒されているうちに、あっという間に買い物が終わっていた。
布団は配達を頼んだが、荷物は思っていたよりも多くなった。
それぞれ両手にショッピングバッグを抱えて歩き、マンションに着いたのは昼を少し回ったくらいだった。
「お昼、何が食べたい?」
晨は考えようとして、すぐに諦めた。
食に興味がなく、空腹が満たされればいいと思っているため、食べたい物を聞かれるのが昔から苦手だ。
「何でもいいよ」
「それが、一番困る!」
この会話が、なんだか照れくさく感じた。
晨は買ってきたものをリビングの端に置き、頭を掻いた。
「……真白が食べたい物がいい」
我ながらずるいと思いながら、晨は真白を見ずに呟いた。
だから、真白がどんな表情をしたかはわからない。
「もう! バカ!」
「なんで――」
振り返った晨が目にしたのは、真白が真っ赤な顔をして、パーカーをぎゅっと握り締めている姿だった。
思わず、晨の頬も熱くなる。
「バカはどっち⁉」
晨が叫ぶと、真白は唸り声を上げながら、キッチンへ走っていく。
何をするのかと思って目で追っていると、包丁を出す真白の様子が確認できた。
怒りながらも、料理を始めようとする真白を見て、晨はホッと息を吐く。
晨は動揺した自分を意識しないように、買ったものを黙々と整理し始めた。
だから、気付かなかった。
「晨」
「え?」
真後ろから聞こえた声に、晨は反射的に立ち上がり、振り向く。
目の前に立っていた真白。
まっすぐ晨の目を見ているが、その瞳はゆらゆらと揺れている。
「刃は、横に」
「なに言って――」
真白は晨の言葉を遮り、乱暴な手つきで晨の手を掴んで、何かを握らせた。
冷たく硬い感触。真白が唇を噛み締めたのを見て、晨はゆっくりと視線を落とした。
刃渡り十七センチのステンレス製の包丁に陽射しが反射し、晨の目を眩ませる。
真白の手に力が入り、ゆっくりと晨の手の角度を変える。
刃がちょうど水平になったところで、真白が口を開いた。
「刺して」
晨の手の上から握られた手に、更に力が加わる。
ゆっくり、真白の胸部へ導かれる刃先。
その先にあるのは、心臓だ。
「ちょっと、なにを――」
「殺して」
感情のない平坦な真白の声に、晨の背筋が凍る。
そこで、ようやく晨は我に返った。
勢いよく手を引き、真白の手を振り解く。
その瞬間、刃先が真白の手の甲を掠め、赤い線が滲んだ。
「な、なにを……何を考えてるんだ!」
晨は震える声で叫んだ。
無表情で佇む真白を睨み、包丁を投げ捨てる。
離れたところで、カシャンと金属音が鳴った。
「ねえ、晨。人はね、簡単に死ぬんだよ」
「知ってるよ!」
怒りで目を吊り上げる晨と空虚な目の真白は、しばらくの間、無言で見つめ合った。
――沈黙を破ったのは、晨だった。
「消毒しよう」
晨は真白の手をそっと握り、ソファーに促す。抵抗されることも覚悟していたが、真白は大人しく従い、ぽすんと軽い音をさせて、力なく横たわった。
もともと色白の顔は生気を奪われたように青白くなっている。
晨は頬にかかった真白の髪を、優しく耳にかけ、頭を撫でた。
髪は少し傷んでいて、よく見ると、切り方も不揃いだ。
こちらを見ようとしない真白から目を離すと、また包丁を拾いに行きそうで怖い。
その証拠に、手から始まった晨の震えは、今では全身に広がっている。
晨は真白の前に胡坐をかき、真白の顔を覗き込んだ。
「真白」
つい先ほどは喜んだ呼び方にも、真白からの反応はない。
「真白、聞いて。俺は消毒液を取ってくる。少し離れるけど、ここを動かないって約束できる?」
晨の言葉に反応するように、ようやく真白の視線が晨に向いた。
「……うん」
「いい子だね」
真白は泣きそうな表情を浮かべたかと思ったら、身体を翻し、晨に背を見せた。