***
金曜日。実習最後の日だった。
生徒たちの前で挨拶をする。
「教師の卵として、私を暖かく迎えてくれ、そして授業も聞いてくれたこと、本当にありがとう。私は、学校が好きな生徒ではなかったのだけれど、すべての生徒に優しい学校にしたい。そんなふうに思って教員になりたいと思いました。そして、臨んだ教育実習でしたが、教育者というのは思っていた以上に大変なのだと痛感し、またそれ以上に生徒との関りは難しくて。でも、たくさん話をしてくれたり、質問をしてくれたり、本当に嬉しかったです。皆さんが楽しく学校生活を送れるように、陰ながら応援しています。本当にお世話になりました。ありがとうございました」
クラスの代表の生徒から花束をもらい、日野さんたちからは手紙ももらった。
もちろん、教育実習はいい経験になったし、教師になりたいという決意を強めたけれど、やはり私の中に引っかかっているのは、平田くんのことだった。
お世話になった先生方にもお礼を言い、いつもより遅く学校を出ることになった。
平田くん、もし来ていたのに帰ってしまっていたらどうしよう。
私は走るようにして、橋梁下へ行った。
自分の呼吸がうるさい。
私は肩で息をしながら土手を下りて、河川敷へと歩いた。
平田くんと初めて会った橋梁下に、彼の姿はやはりなかった。
今日もいろいろな水鳥が川でゆったりと泳いでいた。
私は脱力するように、河川敷に座る。
持ってきた花束と鞄をおいて、ハンドタオルを取り出し、額の汗をぬぐった。
もう平田くんとは会うこともないのだろう。
その事実を受け入れるのに時間が必要だった。
私はしばらくぼんやりと水鳥たちを見ていた。
「瀬戸先生」
男子の声に、私は慌てて振り返る。
「なんで、花束持ってるの? それに、いつまでここにいるつもり?」
平田くんがいた。
彼はちょっと気まずそうに視線を下にやって、私の隣に腰掛ける。
「これはね、教育実習が終わったから、生徒たちがくれたの」
「大学生っていうのは本当だったんだ」
「うん。F教育大学の四年生」
「え? ここから遠くない?」
「今は実家に来てたの。でも、今日で終わったから、大学のほうへ戻るんだ」
「……そうなんだ」
平田くんは少し寂し気に言った。
「私ね、桜庭先生に言われて平田くんと話していたんじゃないの。私が話したかったから、だから」
「信じることにするよ」
「私もね、高校生のとき、二か月だけど不登校になったの。学校、そんなに好きじゃなかったよ」
「お姉さんが?」
「そうだよ」
「だからね、もっと学校が居心地いいところにしたくて。先生になりたいの」
「でも、教師って、やることも多くて、ブラックだっていうよ?」
「それは、まあ、そうみたいだよね。でもね。子供たちの未来を手伝う、素敵な職業だと私は思いたいの」
「ふ~ん。意外と夢見がちな人なんだね、お姉さん」
「そうかもしれないね」
平田くんの小さな抗議だろう、嫌味を私は笑顔で受け止めた。
「なんでガッコー行けたの?」
「不登校のあと? 私、ピアノやっててね。ピアノ教室は不登校のときも通ったの。学校通ってるときって、学校が世界のすべてみたいじゃない? けれど、私には違ったんだ。そう思ったときに、学校はいつでもやめればいいやって思えた。そしたら、学校行ってやろうって思ったんだよね。私は経済的には恵まれてたし、せっかくだから大学まで行きたいと思った。高校をもしやめても、ほかの高卒の資格をとれる方法があるからいいやって、深く考えるのをやめたの」
「学校は世界のすべてじゃない……」
「そうだよ。だから、高校にこだわる必要はないと思う。平田くんになにか夢ができれば、それを叶える方法は一つではない。いくつもの手段があるの。世界もたくさん広がってる。それは平田くん次第で、広く広くできるんだよ」
「世界を広く?」
「そう思えたら、なんだわくわくしない?」
「お姉さん、そんな楽観的で大丈夫なの?」
「楽観的ではないんだけどな。でも、可能性は信じたいほうかも!」
平田くんは笑い出した。
「え? なに?」
「ううん。俺も可能性信じたいな。桜庭先生に会うのは、ちょっと怖い」
「そう。でも、ひとつ言うと、桜庭先生は平田くんに好意で言ったんだよ。それに、自分がお父さんの立場だから言ってしまった言葉だったの」
「うん……。悪い人じゃないのはわかってるんだ。でも、親父と血が繋がってるって事実を突きつけられた気がしたんだ」
「そうだったんだよね。言葉は難しい。話す人の背景や世界と、受け取る方の背景や世界は違うものね。同じ言葉でも違う意味に聞こえることがある」
「うん。でも、俺、せっかく高校転入試験受けたんだもんな。高校出て、頑張って美術が学べる大学、行きたいよ」
「そっか。うん。大丈夫。そう思えるなら、行けるよ。きっと。でも、いきなり無理して高校に行かなくてもいいよ? 少しずつ。行けるかなってときに、1時間でも、2時間でも行けばいいんだよ。学校だけがすべてじゃない。それを忘れないで」
「ありがとう、お姉さん、いや、瀬戸さん」
名前を呼んでくれた平田くんに、私は嬉しくなった。
私は少しは平田くんの力になれたんだろうか。
でも私にできるのはここまでだ。
「会えてよかったわ、平田くん。お母さん、手術でよくなるといいね」
私は笑顔で最後の挨拶を切り出した。
今日、ここに来てよかった。
平田くんに会えてよかった。
「ありがとう。俺も会えてよかったです。瀬戸さん」
平田くんに手を差し出され、私はその手を強く握った。
「平田くんの未来は、平田くんが作るものだから。だから、どうか諦めないでね。もし一つの道が途絶えても、ほかの道は探せばあるんだから」
「うん。俺、美術、もっと本気で勉強する。やるだけやってみる」
「うん! 私も、きっと教師になる」
「瀬戸さんなら、いい先生になれるよ。俺もいつか、同僚になれたら楽しそうだな」
「おおっ! じゃあ目指してみる?」
「決定じゃないけど、目標の一つにしてみるよ。あの。あのさ」
「うん?」
「また会えるかな?」
「そうね。実家に帰ってきたときに会えたら会えるかもね」
「そっか」
チャプンと川から音がした。
カイツブリが頭を川に突っ込んだのだ。
「カイツブリ、だね?」
「うん」
平田くんとの時間は、人生においてはほんのひとときかもしれない。
けれど、私にとっても平田くんにとってもいい時間だったと信じたい。
「じゃあ、また会う日まで元気で。瀬戸さん」
「平田くんもね」
オレンジ色の空気の中、私と平田くんは笑顔で手を振り合った。
大人になった平田くんと再開する日を夢見て。
了
金曜日。実習最後の日だった。
生徒たちの前で挨拶をする。
「教師の卵として、私を暖かく迎えてくれ、そして授業も聞いてくれたこと、本当にありがとう。私は、学校が好きな生徒ではなかったのだけれど、すべての生徒に優しい学校にしたい。そんなふうに思って教員になりたいと思いました。そして、臨んだ教育実習でしたが、教育者というのは思っていた以上に大変なのだと痛感し、またそれ以上に生徒との関りは難しくて。でも、たくさん話をしてくれたり、質問をしてくれたり、本当に嬉しかったです。皆さんが楽しく学校生活を送れるように、陰ながら応援しています。本当にお世話になりました。ありがとうございました」
クラスの代表の生徒から花束をもらい、日野さんたちからは手紙ももらった。
もちろん、教育実習はいい経験になったし、教師になりたいという決意を強めたけれど、やはり私の中に引っかかっているのは、平田くんのことだった。
お世話になった先生方にもお礼を言い、いつもより遅く学校を出ることになった。
平田くん、もし来ていたのに帰ってしまっていたらどうしよう。
私は走るようにして、橋梁下へ行った。
自分の呼吸がうるさい。
私は肩で息をしながら土手を下りて、河川敷へと歩いた。
平田くんと初めて会った橋梁下に、彼の姿はやはりなかった。
今日もいろいろな水鳥が川でゆったりと泳いでいた。
私は脱力するように、河川敷に座る。
持ってきた花束と鞄をおいて、ハンドタオルを取り出し、額の汗をぬぐった。
もう平田くんとは会うこともないのだろう。
その事実を受け入れるのに時間が必要だった。
私はしばらくぼんやりと水鳥たちを見ていた。
「瀬戸先生」
男子の声に、私は慌てて振り返る。
「なんで、花束持ってるの? それに、いつまでここにいるつもり?」
平田くんがいた。
彼はちょっと気まずそうに視線を下にやって、私の隣に腰掛ける。
「これはね、教育実習が終わったから、生徒たちがくれたの」
「大学生っていうのは本当だったんだ」
「うん。F教育大学の四年生」
「え? ここから遠くない?」
「今は実家に来てたの。でも、今日で終わったから、大学のほうへ戻るんだ」
「……そうなんだ」
平田くんは少し寂し気に言った。
「私ね、桜庭先生に言われて平田くんと話していたんじゃないの。私が話したかったから、だから」
「信じることにするよ」
「私もね、高校生のとき、二か月だけど不登校になったの。学校、そんなに好きじゃなかったよ」
「お姉さんが?」
「そうだよ」
「だからね、もっと学校が居心地いいところにしたくて。先生になりたいの」
「でも、教師って、やることも多くて、ブラックだっていうよ?」
「それは、まあ、そうみたいだよね。でもね。子供たちの未来を手伝う、素敵な職業だと私は思いたいの」
「ふ~ん。意外と夢見がちな人なんだね、お姉さん」
「そうかもしれないね」
平田くんの小さな抗議だろう、嫌味を私は笑顔で受け止めた。
「なんでガッコー行けたの?」
「不登校のあと? 私、ピアノやっててね。ピアノ教室は不登校のときも通ったの。学校通ってるときって、学校が世界のすべてみたいじゃない? けれど、私には違ったんだ。そう思ったときに、学校はいつでもやめればいいやって思えた。そしたら、学校行ってやろうって思ったんだよね。私は経済的には恵まれてたし、せっかくだから大学まで行きたいと思った。高校をもしやめても、ほかの高卒の資格をとれる方法があるからいいやって、深く考えるのをやめたの」
「学校は世界のすべてじゃない……」
「そうだよ。だから、高校にこだわる必要はないと思う。平田くんになにか夢ができれば、それを叶える方法は一つではない。いくつもの手段があるの。世界もたくさん広がってる。それは平田くん次第で、広く広くできるんだよ」
「世界を広く?」
「そう思えたら、なんだわくわくしない?」
「お姉さん、そんな楽観的で大丈夫なの?」
「楽観的ではないんだけどな。でも、可能性は信じたいほうかも!」
平田くんは笑い出した。
「え? なに?」
「ううん。俺も可能性信じたいな。桜庭先生に会うのは、ちょっと怖い」
「そう。でも、ひとつ言うと、桜庭先生は平田くんに好意で言ったんだよ。それに、自分がお父さんの立場だから言ってしまった言葉だったの」
「うん……。悪い人じゃないのはわかってるんだ。でも、親父と血が繋がってるって事実を突きつけられた気がしたんだ」
「そうだったんだよね。言葉は難しい。話す人の背景や世界と、受け取る方の背景や世界は違うものね。同じ言葉でも違う意味に聞こえることがある」
「うん。でも、俺、せっかく高校転入試験受けたんだもんな。高校出て、頑張って美術が学べる大学、行きたいよ」
「そっか。うん。大丈夫。そう思えるなら、行けるよ。きっと。でも、いきなり無理して高校に行かなくてもいいよ? 少しずつ。行けるかなってときに、1時間でも、2時間でも行けばいいんだよ。学校だけがすべてじゃない。それを忘れないで」
「ありがとう、お姉さん、いや、瀬戸さん」
名前を呼んでくれた平田くんに、私は嬉しくなった。
私は少しは平田くんの力になれたんだろうか。
でも私にできるのはここまでだ。
「会えてよかったわ、平田くん。お母さん、手術でよくなるといいね」
私は笑顔で最後の挨拶を切り出した。
今日、ここに来てよかった。
平田くんに会えてよかった。
「ありがとう。俺も会えてよかったです。瀬戸さん」
平田くんに手を差し出され、私はその手を強く握った。
「平田くんの未来は、平田くんが作るものだから。だから、どうか諦めないでね。もし一つの道が途絶えても、ほかの道は探せばあるんだから」
「うん。俺、美術、もっと本気で勉強する。やるだけやってみる」
「うん! 私も、きっと教師になる」
「瀬戸さんなら、いい先生になれるよ。俺もいつか、同僚になれたら楽しそうだな」
「おおっ! じゃあ目指してみる?」
「決定じゃないけど、目標の一つにしてみるよ。あの。あのさ」
「うん?」
「また会えるかな?」
「そうね。実家に帰ってきたときに会えたら会えるかもね」
「そっか」
チャプンと川から音がした。
カイツブリが頭を川に突っ込んだのだ。
「カイツブリ、だね?」
「うん」
平田くんとの時間は、人生においてはほんのひとときかもしれない。
けれど、私にとっても平田くんにとってもいい時間だったと信じたい。
「じゃあ、また会う日まで元気で。瀬戸さん」
「平田くんもね」
オレンジ色の空気の中、私と平田くんは笑顔で手を振り合った。
大人になった平田くんと再開する日を夢見て。
了