本当に、女々しいな、と自分でも思う。
 
 梅雨が明けたばかりの夏休み最初の日曜日、ぼくはお気に入りの文庫本を持って外へでかけた。

 冷房の効いている家から一歩踏み出すと、始まったばかりの夏が容赦なくぼくを直撃し、眩しさに一瞬目がくらんだ。

 ボディバッグに文庫本と熱中症対策のペットボトルを詰め込んで覚悟を決めて、目的の場所へとペダルを漕ぎはじめる。

 正午過ぎの、1番暑い時間帯のせいか、すれ違うひとはまばらだ。

 今年の夏も暑いらしい。

 冬生まれのぼくは暑さに弱く、夏があまり好きではない。

 来年の今頃は、受験生だ。

 成績表を見て、突きつけられた現実に、青い顔をして右往左往しているんだろう。

 真面目に勉学に励んでおけばよかったと、来年のぼくは、今のぼくを心底恨んでいるかもしれない。

 来年のぼくの恨みがましい顔を思い浮かべて軽くぞっとしながら、時間にして5分ほどの目的地へと到着する。

 セミの鳴き声に支配されている、整備されたささやかな水量の川沿い。

 水位はくるぶしあたりで、冷たくも(ぬる)くもなく、他に何もないことから、ここで水遊びするひとはいない。

 穴場スポットではあるけれど、穴場すぎて誰の目にも止まらない忘れ去られた場所ともいえる。

 自転車を止めて、舗装されたアスファルトの上に直に座ると、持参した文庫本を開く。

 別に、本なんて、エアコンの効いた部屋で読んだっていいのだけれど、ここは『彼女』と過ごした思い出の場所で思い入れがあるし、家の照明よりも、日光の下の方が読みやすいという好みの問題でもある。

 何度も何度も読み返した本は、端がぼろぼろで、それでも、ぼくは飽きもせずに文字列に目を落とす。

 正確には、ぼくは文章を追っているのではない。

 文章を読むことで、これを読んでいたときの『彼女』とのやりとり、思い出を反芻するために、同じ場所で、同じ本を読んでいるのだ。

 ああ、本当にぼくは女々しいな、いつまで彼女に執着するつもりなんだ。

 自分にうんざりしかけた、そのときだった。

「まだその本読んでるんだ?
 もしかして、あたしが忘れられないとか?」

 不意に、頭の中に、彼女の声が響き渡る。

 聞こえるはずのない声。

 だって、彼女は、もう……。

 まずい、感傷に浸りすぎたあまり、幻聴が聴こえるなんて、女々しいを通り越して痛々しいだけじゃないか。

 暑さで頭がぼうっとしてるんだ、やっぱり夏は危険だ、帰ろう、と振り向いたぼくは硬直した。

 真後ろに、『彼女』が立っていた。

 最後に見たときと変わらない姿で、いらずらを企んでいるような、不敵な笑みも、そのままに。

 ああ、とうとう幻覚か。

 ぼくがよろけると、「大丈夫?」と彼女が腕を取って支えてくれる。

 大丈夫?

 どこも大丈夫じゃない。

 だって、掴まれた腕には、はっきりと体温があり、触れられた感触がある。

 これが暑さと痛々しさによる幻覚なのか?

 ぼくが呆然と立ち尽くしていると、彼女がくすくすと笑った。

「まるで幽霊でも見たようなリアクションだね」

 違う、幻覚なんかじゃない。

 本物だ、本物の彼女がここにいる。

 そう確信したとたん、心臓が有り得ないほど激しく脈打ち、ぼくは彼女の腕を反射的に握ってしまう。

 少しでも力を込めたら折れてしまいそうな、彼女の腕を。

恵玲奈(えれな)ちゃん……。
 本当に、恵玲奈ちゃん?」

「そうだよ、忘れちゃった?」

 ぼくは水浴びをした犬よろしくぶんぶんと、激しく頭を振った。

 水滴の代わりに彼女にかけるべき言葉が頭の中から飛んでいきそうになった。

「忘れてなんか、いない。
 忘れるわけがないよ、恵玲奈ちゃんのこと……」

 彼女──天王寺恵玲奈(てんのうじえれな)は、ぼくが知っているとおりに、いたずらが成功した子供みたいな笑みを浮かべた。

「覚えててくれたんだ、嬉しい。
 夏樹(なつき)くんの中ではあたし、幽霊みたいになってるのかって、心配しちゃったよ」

「それは……もう恵玲奈ちゃんとは会えないって思ってたから、びっくりしちゃって」

「びっくり?何で?」

「もう、帰ってこないかと思ってたから」

「実家があるんだもん、帰って来るよ。
 でも、そうだよね、びっくりさせてごめん。
 夏樹くんが変わってなくて、まだその本、持っててくれて、嬉しい」

 ぼくは、恥ずかしさに顔を真っ赤にしながら文庫本を背中に回す。

「なになに、相変わらず夏樹くんは照れ屋さんだなあ、ほいっ」

 恵玲奈ちゃんはぼくの背中に回り込むと、本を取り上げる。

 あっと声をあげて、取り返そうと恵玲奈ちゃんに手を伸ばす。

 ひらりとかわされて、ぼくの手が空を切る。

「あたしがプレゼントした詩集だね、懐かしいな。
 夏樹くん、文学少年っぽいから、あたしの好み押し付けちゃったけど、ぼろぼろになるまで読んでくれてるなんて感動しちゃうなあ」

 ぱらぱらと、恵玲奈ちゃんがページをめくる。

「ねえ、座らない?
 せっかくだし、話そうよ」

 長い茶髪が翻ると、フルーツのような爽やかな香りがぼくの鼻先に届く。 

 恵玲奈ちゃんの匂いだ、と思わずぼくは泣きそうになってしまう。

 小学校のとき、いじめられて泣いていたぼくの代わりに、いじめっ子を成敗してくれたときの、中学生のとき親と喧嘩して家出して、行き場がないぼくを、こっそり自分の部屋へ入れてくれたときの、高校受験のとき家庭教師になってくれたときの、思い出せる全ての瞬間に彼女から香ってきた匂いだ。  
 
 シャンプーだろうか、香水だろうか。

 とにかく、夏の暑さと、目の前に現れた恵玲奈ちゃんの香りにくらくらしてしまう。

「本当に大丈夫?
 顔真っ赤だよ?
 ほら、座って、はい」

 恵玲奈ちゃんは、地面に置きっぱなしのボディバッグを勝手にあさると、ペットボトルを取り出し、ぼくに差し出しながら座るよう自分が腰掛けた隣の地面をぽんぽんと叩く。

 ぼくはおずおずと彼女の隣に腰を落ち着けると、中途半端に生ぬるくなったペットボトルに口をつける。

 うーんと、太陽と緑の飽和した空気を吸って、伸びをした恵玲奈ちゃんは、ひなたぼっこする猫みたいだ。

 その横顔を盗み見ながら、ぼくは意を決して口を開いた。

「恵玲奈ちゃん、本当に帰ってきたの?
 その、実家に、あの家に」

 ぼくの言わんとすることが伝わったのか、彼女は苦笑いを浮かべた。

「『駆け落ち』して捨てた、あの家にってことね」

 その話題を直接的に聞けなかったぼくに、彼女はなんてことのないようにあっけらかんと口にする。

 恵玲奈ちゃんの実家は相当な資産家で、一人っ子の恵玲奈ちゃんは、いわばご令嬢だ。

 庶民を絵に描いたような家庭に生まれたぼくが馴れ馴れしく話すことすら許されない、住む世界が違う存在なのだ。

 ぼくの家は近所にあって、1歳年上の彼女とは、赤ちゃんのころから公園で一緒に遊ぶ仲で、親同士も親しくなったことから、身分の違いを感じることはなく、幼なじみとしてぼくたちは育った。

 周りのひとを惹き付ける朗らかな笑顔の恵玲奈ちゃんを、ぼくはずっと好きだった。

 でも、それを伝えたことはない。

 伝えても、恵玲奈ちゃんを困らせるだけだからだ。

 恵玲奈ちゃんには、『婚約者』がいるのだ。

 幼いころは、『婚約者』がいることの意味をいまいち判っていなかったが、自分の中に芽生えた気持ちを伝えても、成就することはできないのだと、頭の隅では理解していた。

 この想いは封印するべきだと。

 早く、彼女のことは忘れて、新しく好きなひとを作るべきだと。

 でも、何度も言うが、ぼくは女々しい。

 彼女に初めて恋をしたあの日から、ぼくは、片時も、彼女の笑顔を忘れたことがない。

「懐かしいね、ここ。
 学校帰りによくここで馬鹿話したよね。
 あたしと夏樹くんが初めて会ったのもここだよね。
 まだふたりとも、赤ちゃんで、この川で水遊びしてたってお母さんよく言ってたっけ。
 あの公園、まだある?」

 恵玲奈ちゃんの言葉に、ぼくは苦笑いを浮かべる。

「恵玲奈ちゃんがこの街を出ていってから、まだ1年しか経ってないよ、そんなにすぐ街並みは変わらないよ」

「そっか、そうだよね」

 恵玲奈ちゃんは、少し恥ずかしそうな顔をする。

「でも、あたしには、すごく長く感じちゃって。
 この1年、色々あったからさ」

 それはそうだろうと思う。

 この街を去ってから、何があったのかを聞くのが怖くて、ぼくは他の話題を探そうと頭をフル回転させる。

「あたし、もうすぐ死ぬんだ」

 出し抜けに、彼女がそう告げた。

「は……?」

 ぼくは彼女の言葉の真意を理解しきれず、アホみたいにぽかんと口を開けたまま固まった。

 恵玲奈ちゃんは、やはり楽しそうに笑っている。

 からかわれているのかと思って、疑問を口にしようとしたら、彼女に先を越された。

「本当だよ。
 ほら、見て」

 そういうと、恵玲奈ちゃんは、足首まで隠すようなロングスカートの裾を少しだけまくってみせる。

 それを見て、ぼくは絶句してしまった。

 恵玲奈ちゃんの左足が、透けていた。

 透明になって、向こうの景色が透けて見えている。

「愛情欠乏症っていう病気なんだって。
 あたしを本気で愛してくれるひとが現れないと、このまま透明化が進んでこの世から消えちゃうらしいよ」

 セミがうるさい。

 暑さで目がまわる。

 頭の中が真っ白だ。

──愛情欠乏症?

──この世から消える?

「……死んじゃうって、こと?」

 頭の中がぐるぐる回って、ぼくの思考はようやく、彼女が発した最初の言葉に辿り着いた。

「そうだよ。
 でもね、ひとつだけ、死を回避する方法があるの」

「え、何?」

 半信半疑のまま、ぼくは恵玲奈ちゃんに噛みつくような勢いで身を乗り出した。

 少し時間を置いて、薄く微笑んだまま彼女は言った。

「あたしを、本気で愛してくれるひととのキス」 

 再び、ぼくはあ然とする。

 だって、恵玲奈ちゃんを愛してくれるひとは、もういるじゃないか。

 1年前、恵玲奈ちゃんと駆け落ちして、街を一緒に去った男のひとが。

 ぼくが恵玲奈ちゃんの苦しみを何ともしてあげられず不甲斐ない思いをしていたとき、颯爽と現れ、彼女を救ったヒーローのような恋人が。

 なのに、なぜ、というぼくの気持ちを察したように、どこか哀愁漂う笑みで、恵玲奈ちゃんは言った。

「駄目、だったの、駆け落ちした彼では」

「駄目……?」

 恵玲奈ちゃんは皮肉気味に唇の端を持ち上げてみせる。

「愛情欠乏症だって診断されて、身体が透けてきて、怖くなって、すぐに彼にキスしたの。
 ……でも、駄目だった。
 彼とのキスで透明化は止まらなかった。
 わかる?
 つまり、彼はあたしに愛情を持っていなかったってこと」

 視認できない風が、突然重量を持った凶器となって頭を殴ってきた──痺れるような衝撃の中、ぼくは残酷な現実に思い至った。

「そもそも、彼があたしを愛してくれていたのなら、愛情欠乏症になんてならなかったはずだもんね」

 それはそうだ。

 それくらい、今のぼくでもわかる。

 でも、それを恵玲奈ちゃんの口から言わせてしまったことが何よりもつらい。

「じ、じゃあ、こっちに戻ってきたのは……」

「そう。
 生きるため」

 恵玲奈ちゃんは、目を細めるようにして、ぷかぷかと浮かぶ白い入道雲を見上げる。

「でも、駄目だった。
 両親とも、恥をかかせた婚約者とも、事情を説明してキスしてもらったけど、この通り、透明化は止まらない」

 恵玲奈ちゃんは、声を上げて笑う。

「あたし、どれだけ他人に愛されてないんだよって話。
 婚約者なら理解もできるんだけどね、さすがに両親とも駄目だとなると、メンタルやられるよね。
 ひとりくらいあたしを愛してくれてもいいじゃないねえ」 

 笑っているのに、泣いているように見える彼女の表情に、胸が締め付けられる。

 心が痛いなんて表現を本なんかで見かけるけれど、今、このとき、ぼくは初めてその言葉の通りの痛みを味わった。

 同時に、彼女が感じたであろう救いようのない孤独感に思いをはせて、ぼくも泣き出したい気分になった。

 彼女を傷つけた誰も彼もを許せない。

 恵玲奈ちゃんは、彼女の両親が経営する会社の取り引き先の企業の御曹司との婚姻が、生まれたときから決まっていた。

 今どき、会社同士の関係を盤石にするための結婚なんて時代錯誤も甚だしいと思うけれど、ただの幼なじみにすぎないぼくに、何を言う権限もなく、どこか人生を諦めたように、寂しげに笑う彼女のそばにいる以外、なにもしてあげられなかった。

 婚約者との結婚が現実的になってきた高校3年生のとき、高校を中退して恵玲奈ちゃんは姿を消した。

 ぼくはその存在を知らなかったけれど、恵玲奈ちゃんには年上の恋人がいて、婚約を破棄するために、彼女を連れて駆け落ちしたのだという。

 それを聞いたときは、恵玲奈ちゃんに恋人がいたことがショックだったし、彼女に何も知らされなかったことに落胆した。

 ぼくは、恵玲奈ちゃんに頼りにされていなかったのだと、突きつけられた現実に打ちのめされた。

 それでも、彼女を(まも)る誰かがいることに、正直安堵もしていた。

 彼女が幸せなら、それでいい。

 彼女が消えた世界で、自分を納得させるのに必死だった。

 彼女のことは忘れよう、そう決めたはずなのに……。

「彼ね、うちの資産が狙いだったみたいなの。
 あたしが親と和解するもよし、親が死んでしまえば財産はあたしに入るわけだから、それもよしってことだったみたい。
 親が死ぬまで何年待つつもりなのかわからないけど、お金に対する執着はすごいよね」

 けらけらと、悲しいことのはずなのに、それを押し殺して、彼女は笑う。

 それは、ぼくがよく知る笑顔のようでもあったし、物理的に距離を置いていたあいだに変わってしまったようでもあった。

 決して小さくない悲しみを内包しているようにも見えた気がして胸の内が、きりきりと削られていくような痛みが耐えられないほど侵食していく。

「彼と別れて、一度捨てた親もとに頭下げて戻ってきたのに、誰からも愛されていないことを実感しただけって、絶望的だよねえ。
 もうあたし、そう長くは生きられないみたい」

 彼女の独白めいた話を聞きながら、ぼくは決意を込めたこぶしを握る。

「どのくらいまで保つのかな、あたし。
 どうせすぐ死ぬなら、やりたいことやって悔いなく死にたいな」

 地面に両手をついて、身体を仰け反らせ、平和な青空を見上げた彼女が、やはり屈託なく笑う。

「ねえ、恵玲奈ちゃん」

 彼女が、目線だけを寄こしながら、うん?とぼくに向かって微笑む。

「ぼくと、キスしない?」

 よほど思いがけない提案だったのか、彼女は大きな瞳を見開く。

 もうぼくは迷わなかった。

 このままでは、恵玲奈ちゃんは本当に死んでしまう。

 恥ずかしがっている場合ではない、彼女の命がかかっているのだ。

 そして、彼女を救えるのが、ぼくしかいないと確信もしていた。

 これは、うぬぼれではない。

 ぼくは真面目な顔をして、ひたと彼女と目を合わす。

「ぼくなら、恵玲奈ちゃんを助けられるかもしれないんだ」

 一度深呼吸するあいだを空けると、一息にぼくは言った。

「恵玲奈ちゃんを、愛しているから」

 
 ぼくの視線を受けて、恵玲奈ちゃんは戸惑いの表情を見せる。

「夏樹くん……」

 彼女が何か言おうとするのを制して、ぼくは彼女の唇に口づけた。

 ふわりと恵玲奈ちゃんの匂いが香って、柔らかな恵玲奈ちゃんの感触がぼくを満たす。

 初めてのキスだった。

 上手くできたのかはわからない。

 そっと身体を離すと、恵玲奈ちゃんの透明化していた左足に目を落とす。

 恥ずかしくて、正面から顔を合わせる勇気はぼくにはなかった。

 恵玲奈ちゃんが息を呑むのがわかった。

 ぼくも同じように、息を殺して、彼女のむき出しの左足をみつめていた。

 透けていた左足が、ゆっくりと、形を帯び始め、元通りの姿に戻ってゆく。

 ものの数秒で左足は、何事もなかったかのように、当たり前の顔をして再生を果たしていた。

「……すごい、本当に戻った」

 感慨深くぼくが呟くと、身体にふいに衝撃が走った。

 恵玲奈ちゃんに勢いよく抱きつかれたのだと理解するまで時間がかかり、また理解が及ぶと、恥ずかしさがこみ上げてきて情けなくも固まってしまった。

「え、恵玲奈ちゃん……?」

 されるがままになっていると、耳元で彼女がささやいた。

「ありがとう、夏樹くん。
 本当に、ありがとう、あたしを、愛してくれて……」

 恵玲奈ちゃんの声は、震えていて、泣いていることがわかった。

 長年隠していた想いを、正確に伝えることができて、ようやくぼくは、身体の力を抜くことができた。

「うん、ぼくは恵玲奈ちゃんを、誰よりも愛してる。
 他の誰かが愛してくれなくたって、ぼくは永遠に恵玲奈ちゃんを愛するし、味方になる、裏切ったりしない。
 だから……」

 ぼくが言い募ろうとすると、恵玲奈ちゃんは、やんわりとそれを制した。

「最初に謝らせて。
 ここに来たのは、夏樹くんがいるかもしれないって思ったからなの。
 夏樹くんがあたしを想ってくれてること、わかってた。
 親にも恋人にも愛されてなかったことは確かにショックだったけど、もしかしたら夏樹くんならって、期待してた部分もあるの。
 ううん、もっと正直に言うと、こっちに帰ってきたのは、夏樹くんなら、あたしを救ってくれるんじゃないかって、あたしをまだ好きでいてくれるんじゃないかって、うぬぼれた考えがあったのも事実なの。
 何も言わずにいなくなったくせに、調子がいいのはわかってる。
 夏樹くんの気持ち、利用してごめんなさい」

 呆然とするぼくに、彼女が深々と頭を下げる。

 そのつむじを見て、たまらなくなったぼくは、今度は自分から彼女を抱きしめた。

「ぼくは、恵玲奈ちゃんのためなら、命だって捧げるよ」

 腕の中で、彼女が微かに笑う気配がした。

「大げさだよ、夏樹くん」

 彼女のぬくもりに身を委ねながら、ぼくは心の中で、誓っていた。

──命だって捧げるよ。

 その真意は、恵玲奈ちゃんは知らなくていい。

 ぼくが勝手に決めたことだ。

 彼女の幸せを護れるのがこの世でぼくだけなら、喜んでこの身を差し出そう。

 ぼくに限界が訪れるまで。

「どのくらいの頻度でキスすれば、透明化は防げるの?」

 ぼくから解放された恵玲奈ちゃんは、しばし考え込む様子をみせてから、かぶりを振った。

「お医者さんは、あまり症例がないから、判断は難しいって言ってた。
 1年に一度なのか、半年に一度なのか、1週間に一度なのかは、様子をみてみないとわからないって」

「そっか……。
 でも、もう、恵玲奈ちゃんは遠くに行かないんだよね?」

 ぼくの問いに、彼女は複雑な表情を隠さない。

「実家に戻ることにはなってる。
 けど……」

 言いよどむ恵玲奈ちゃんの言葉を、辛抱強く待つ。

「でも、ずっと夏樹くんを拘束するわけにもいかないでしょう?
 今は、あたしを好きだって思ってくれてるかもしれない。
 でも、夏樹くんにだって、高校生活があって、大学へ行けば他に好きなひとができるかもしれない。
 そのとき、あたしは夏樹くんを縛りつける存在になりたくないよ」

「ならないよ、縛りつける存在になんて。
 一体ぼくが何年間片想いしてきたと思ってるの?
 やっと本心を伝えられたんだよ、離れるわけないじゃない」

 即答したぼくに、恵玲奈ちゃんが目を丸くする。

「恵玲奈ちゃんこそ、どう思ってるの?
 キスする相手がぼくで、嫌だったりしない?」

 そう切り込むと、恵玲奈ちゃんは、どこか落ち着かないように目線を彷徨わせている。

 やはり片想いだったか、とぼくが諦めそうになったとき、恵玲奈ちゃんがか細い声で言葉を並べた。

「あたしも、夏樹くんが本当は好きだなんて、言う資格ないんじゃないかって思ったの。
 だって、一度あたしは夏樹くんの想いを踏みにじってるでしょ。
 結婚から逃れるために、あたしを愛しているわけでもなかった男のひとと駆け落ちして、夏樹くんを傷つけた。
 そんなあたしが、実はずっと昔から、夏樹くんのことが好きでしたなんて言って、許されるのかな?」

 ぼくは、信じられないものを聞いたように、彼女の発した言葉を、復唱する。

「昔から、好きだった……?」

 恵玲奈ちゃんは、ばつが悪そうに花が萎れるように顔を伏せてしまう。

「……あたしには、生まれたときから婚約者がいた。
 でもあたしは、一緒に育った幼なじみの夏樹くんをいつからか好きになってた。
 叶わない恋だって、わかっていながら夏樹くんのそばにいるのがつらくて、でも結婚からは逃げたくて、夏樹くんを巻き込むことは避けたくて、だから他のひとと駆け落ちした。
 でも、結局夏樹くんを巻き込む結果になっちゃったね」

 心の中で、快哉を叫ぶ。

 恵玲奈ちゃんが、ぼくを好きでいてくれたなんて、想像もしていなかった告白に、歓喜の渦がぼくの身体を駆け巡る。

「ねえ、恵玲奈ちゃん、よく聞いて。
 ぼくも恵玲奈ちゃんも、お互い離れたくないのなら、それでいいんじゃないのかな?
 ぼくは死ぬまで恵玲奈ちゃんを好きな自信があるし、他に好きなひとを作る暇もないほど心は恵玲奈ちゃんで一杯で、引くかもしれないけど、ぼくがキスするのは、生涯でただひとり、恵玲奈ちゃんだけだよ」

 はっと顔を上げると、恵玲奈ちゃんは、はにかむように笑った。

「確かに、ちょっと引くかも。
 夏樹くんの愛情、重いね。
 でも、なんだろう、愛されるって、こういうことなんだね、すごく嬉しいよ。
 他に好きなひとができたり、あたしに飽きたらすぐに言って。
 無理してまであたしと一緒にいなくていいから。
 でも、それまでは、夏樹くんを独占していいかな?」

 恵玲奈ちゃんが、火照った頬を赤らめて、ぼくを上目遣いで見上げる。

 その恥じらいを含んだ顔が愛しくて、ぼくはまた彼女を抱き寄せてしまう。

 彼女がぼくに身を委ねていることがわかり、ますます嬉しくなる。

「もう、離さないから。
 ずっと一緒だよ」

 ぼくがささやくと、彼女は腕の中で小さくうなずいた。

 彼女が唐突に現れた、夏休みの何でもない日は、長年願い続けた想いが成就した特別な1日となった。

 それからぼくたちは、昔話から、離れていた1年間の積もる話を飽きもせずに、話し続けた。

 気がつくと、空は黄昏で、時間を忘れていたぼくたちは、夢中で話していた自分たちに呆れ、また笑い合った。

 自転車を押しながら、夕暮れの川沿いをふたりで歩く。

 あれだけ、うるさかったセミの鳴き声は草むらに潜む虫の声に変わっていた。

 まだ夏は始まったばかりの気がするけれど、夏至を過ぎると、夏の終わりを意識してしまって、郷愁を感じてしまうのは、ぼくだけだろうか。

 そんな話をすると、おじいちゃんみたい、と恵玲奈ちゃんに笑われてしまった。

 今日、ここに来るときには、まさか帰り道は恋人と一緒だなんて、神様ですら、思いつかないような奇跡だと、ぼくは未だに現実が信じられない。

 今の幸せが、ただの都合のよい夢ではありませんように、と願うばかりだ。

 相変わらず豪奢な邸宅へと彼女を送り、ぼくは帰宅した。

 玄関を開けると漂ってくる夕飯の匂いに、お腹がぐう、と空腹を訴える。

 キッチンへ顔を出すと、母さんが汗を拭いながら鍋をかき混ぜていた。

「おかえり、遅かったのね」

 うん、とうなずくと、ダイニングテーブルに腰掛け、しばらく忙しなく働く母さんの様子を何の気なしに眺める。

 背中に目でもついているのか、母さんがぼくを見もせずに訊いてきた。

「何かいいことでもあったの?
 機嫌良さそうじゃない」

「わかる?
 恵玲奈ちゃんに会ったんだ」

「恵玲奈ちゃん?
 恵玲奈ちゃんて、天王寺さんとこの?」

 そこでようやく母さんがぼくを振り返る。

「そうだよ、恵玲奈なんて名前、他にいないだろ」

 母さんが物憂げにぼくを見つめる。

「で、どうしたの?」

 母さんは、ぼくが恵玲奈ちゃんに片想いしていることを知っている。

 子供のことなど、お見通しなのだ。

 恵玲奈ちゃんがいなくなったと知ったときの、ぼくの落ち込みようを見れば、言わなくたってわかるだろうけど。

「恋人になった。
 恵玲奈ちゃん、愛情欠乏症って病気で……」

「愛情欠乏症?」

 母さんの眉が、きりきりと吊り上がる。

 ぼくとは違って、母さんは愛情欠乏症を知っているようだ。

「愛情欠乏症って、あんた、キスしないと死んじゃうっていう病気よね?」

「うん、そう。
 詳しいね、さすが」

「あんたの体質がわかったとき、あんたの命を脅かすかもしれないあらゆることを調べたのよ、知ってて当然だわ。
 愛情欠乏症は、あんたにとって、1番関わったら危険な病気、死ぬわよ、あんた」

 母さんの言葉に、ぼくは肩を竦める。

 母さんの心配はわかる。

 当然のことだ。

 でも、恵玲奈ちゃんと出会ってしまった。

 もう、ぼくはあとには戻れない。

 進んでいるのか、後退しているのかは、わからないけれど、こうなったら何もかもかなぐり捨てて、突っ走るしかない。

「まさか、あんた、もうキスしてないわよね?」

 母さんは、まさしく鬼の形相だ。

 けれど、ぼくは親不孝にも、破滅に向かって走り始めてしまっている。

「したよ、身体が透明になって、消えかけてたんだ。
 仕方ないだろ」

「仕方なくなんかないわよ!
 あんたが恵玲奈ちゃんのこと好きなのは知ってるけど、恵玲奈ちゃんのために死ぬつもり?
 すぐに恵玲奈ちゃんに全部話して、キスはもうできないってはっきり言ってきなさい!」

 母さんが、怒りに任せてエプロンを脱ごうとしたので、天王寺家に殴り込みに行くつもりだと察したぼくは、慌てて立ち上がり、母さんの前に立ちふさがる。

「もう決めたことなんだ。
 ぼくは恵玲奈ちゃんのために命をかける。
 彼女を救えるのは、ぼくだけだから」

 ぱん、と乾いた破裂音がぼくの頬を打つ。

 ぼくの頬を叩いた母さんが、涙目になっている。

「馬鹿じゃないの!?
 愛情欠乏症は、定期的にキスしないといけないのよ?
 恵玲奈ちゃんが寿命を全うするまでに、あんたの命が尽きちゃうわ。
 あんたは、キスすると死んじゃう体質なんだから!」

 感情的に叫ぶ母さんの瞳からは、今や大粒の涙が零れ落ちている。

 ああ、母さんを泣かせてしまった。

 さすがにぼくも、罪悪感に苛まれる。

 そう、ぼくはキスすると、死んでしまう体質なのだ。

 キスをするたび、ぼくの寿命は削り取られていく。

 致死量は100回前後。

 目安より、多いかもしれないし、ずっと少ないかもしれない。

 詳しいことは、医者にもわからないという。

 とにかく、キスはぼくにとって自殺行為に他ならないのだ。

 自分以外の誰かに、寿命を削って愛を注ぐ。

 それが、ぼくに与えられた他に類をみない特殊なチカラだ。

 キスがないと生きられない恵玲奈ちゃんと、キスをすると死んでしまうぼく。

 確かに、皮肉がよくきいた最悪の取り合わせといっていいだろう。

 しかし、ぼくは恵玲奈ちゃんと、出会うべくして出会ったと思っている。

 生きていくうえで、1番大切なものをみつけてしまった。

 彼女がこの先、笑って過ごせるのなら、ぼくはこの身を差し出すことなどいとわない。

 それが、育ててくれた両親を裏切ることになったとしても。

 ぼくの瞳をみつめていた母さんは、深い溜め息をつくと、傍らの椅子に腰を下ろした。

 頭痛をこらえるように、こめかみを押さえている。

「……ごめん……。
 でも、ぼくは、恵玲奈ちゃんを失いたくないんだ」

「親の立場からしたら、あたしも、あんたを失いたくないこと、わかるわね?
 あんたはたったひとりの息子で、大切に育ててきたつもり。
 息子のやりたいことをやらせよう、確かにそう思ってきたけど、命を粗末にしようとしている息子を止めようとするのは、親として普通のことでしょう?」

 ぼくの胸の罪悪感がまた、ちくりと刺激される。

 うつむいてしまったぼくの耳に、母さんの重い溜め息が届く。

 呆れたような、諦めたような、疲れたような、そんな溜め息だった。

「でも、あんたはお父さんに似て、言い出したら聞かないんでしょう?
 性格まで似ることないのにね。
 恵玲奈ちゃんを救うなとは言わない。
 でも、あたしはあんたの母親だから、わがままだと思って聞いて。
 キスの回数はできるだけ減らして、なるべく長くあんたには生きてほしい」

 ぼくは、何も言わずに深くうなずいた。

 母さんは、何事もなかったように立ち上がると、再び鍋をかき回し始めた。

 ぐす、と母さんが鼻をすする音がして、胸が締めつけられながらも、ぼくの決意は揺らがなかった。

 声をかけることもできず、キッチンをあとにする。

 廊下で立ち止まると、ぼくの目からも、涙が零れていた。

 手の甲で乱暴に涙を拭い、唇を噛む。

 母さんを泣かせた親不孝者のぼくには、泣く資格などないのだ。


 自分の部屋へ入るなり、ベッドに身を投げ出して、色んなことがありすぎた今日のことを思い返す。

 恵玲奈ちゃんと再会して、病気を告白されて、気持ちを伝えることができて、想いを受け入れてもらえて、生まれて初めてのキスをして、母さんを傷つけた。

 ふと、自分の唇に触れる。

 未だ残る恵玲奈ちゃんの感触。

 涙が乾いた頬で、ぼくはそこに笑みを刻む。

 決意は固まった。

 自分で決めた道だ、後悔は、きっと、ない。

 明日も恵玲奈ちゃんに会おう。

 明日といわず、あさってといわず、ぼくが恵玲奈ちゃんに捨てられない限り、彼女のそばにいよう。

 ボディバッグから文庫本を取り出し、ぼろぼろのページをぱらぱらとめくる。

 恵玲奈ちゃんへの気持ちを繋ぎ止めてくれた大切な本だ。

 恵玲奈ちゃんと恋人になるという奇跡を体験したあとに読み返すと、著者の想いが綴られた詩集はまた違った見え方をする。

 夢にまでみた恋人と、恵玲奈ちゃんと人生を歩もう。

 ぼくの愛は、人生は、今この瞬間から、恵玲奈ちゃんのためだけにあるのだから。