[書籍化、コミカライズ]稀代の悪女、三度目の人生で【無才無能】を楽しむ

『まあまあ、良かったわ。
気がついたら監視されているなんて、気持ちの良いものではないもの』

 影を外したという正式な通達を受けたあいつはのほほんとそう言っていたらしい。

 本来影とは監視ではなく護衛だ。
名ばかりでも王子の婚約者である以上狙われる危険だってあるだろう。

 あの時は本当に愚かな奴だとしか思っていなかった。

 だがロブール公爵家からしても滅多に表に出てこない無才無能の公女よりも、むしろ才女と噂され社交界でも度々見かける可愛らしい養女の方が価値があるだろうというのが公然の見解だった。
そうなると何かしら王家に敵対する者にとってもあいつを狙うこれといった利用価値が限りなく低くなる。

 加えて私は王位継承権は持っているものの、王妃の子ではない。
王妃の子である異母兄が立太子により有利とも言える状況だから、兄の婚約者と比べれば私の婚約者の危険度は低い。
現状では兄には婚約者がいないから比べようもないが。

 異母兄を立太子に推したい連中からすれば、私の婚約者がこれほどまでにデキの悪い名ばかり公女なら、そちらの方が良いだろう。

 魔力は血に宿ると言われている。

 上位貴族の令嬢中、群を抜いて魔力量も少なく魔法も大して使えない無才無能なら、政敵に取りこませる血筋としても良い。

 私を推す勢力も、無才無能な名ばかり公女の方が血統だけ取り込め、生家も口出しをしなさそうで操り人形にしやすいと判断している。

 仮にあいつが私に嫁いでも、ロブール公爵家は代々中立を貫いてきた魔法馬鹿だし、魔力も並み以下のあいつの為に便宜を図るとは思えない。
少なくともどちらの勢力もそこだけは同じ見解だ。

 無才無能過ぎて一周周って安全とか、むしろ特殊な才能だ。

 まあそんなわけで、定期報告以外でのあいつの最新の報告はもう随分と前で終わっていた。

 昼頃には手元に届けられた報告書を片手に、生徒会室へ向かう。
今日は就職面談者が多くて午後からは補講だから抜けても問題はない。

 ヘインズは鍛錬をした後で合流するからゆっくりと目を通せる。

 結論から言えば、1人で読んでいて良かった。
初めて目を通した過去の報告書は、愕然とする内容しか書かれていなかったのだ。

 まずあいつは無才無能だが、無教養では無さそうだと書いてある。
だが誰にもまともに教わった様子がないのに、どういう事かは謎と書かれていた。

 以前からあいつに詰め寄った時の受け答え、そして優美なカーテシーに食事関係のマナー。
少なくとも私と初めて会った時には身につけていたんじゃないだろうか。
そのどれもを教わった形跡が無いらしい。

 そして私達が初めて顔を合わせた日の夕方。

 夫人は当然のように慣れた手つきで馬用の短鞭を手にし、外からはわからない場所ばかりを何度も鞭打ち、最後に倒れたはずみで頭を壁に打ちつけて動かなくなった傷だらけのあいつに向けて魔法の風刃を放っていた。
8歳の子供に放った風刃は戦闘で使用するレベルの威力だった。

 ちょうど部屋に入ってきた兄のミハイルが咄嗟にいくらかは防いだが、あいつは細かい切創と脇腹に致命傷を負った。

 もしミハイルが私と同じ12歳にして、もっと後から習うはずの治癒魔法から先に習っていなければ、治療が遅れて危険な状態だった。

「夫人は……何故……」

 呆然と呟く。

 報告を受けた時の母上の慌て方と夫人への非難。

 当然だった。

 あいつは小さい頃から鞭打たれ、恐らく魔法で過度に傷つけられ続けていたのだから。

 母親だからどうせ手加減している、あいつの言動が酷いせいで怒りから思わず傷つけただけだ。

 今日までそう信じて疑っていなかった自分を恥じた。

 兄のミハイルが本来なら攻撃系統の魔法から習う常識を無視し、父である公爵に直談判して先に治癒魔法から習い始めた事は公爵の部下が話していたのを聞いた事がある。
実母から妹を守る為だったんじゃないだろうか。

 ミハイルはずっとあいつを嫌っていると思っていた。
妹にかける言葉はいつも手厳しいものだったから。

 だがAクラスで4年間共に学園生活を送っていたからいくらかはわかる。

 ミハイルは公子らしい責任感の強い男で、日々自己研鑚に励んでいる。
成績はいつも1位。
私は万年2位だ。
悔しい気持ちもあれど、納得もしている。

 彼の卒業後のスカウトがあちこちから来ていたのも頷けるくらい、日々努力を欠かしていない事くらいは、4年もクラスメイトとして実戦訓練を共にしていれば疑うべくもない。
『ラビアンジェ、何故淑女科にいなかった』

 ちょうどあいつの学年である2年生の、初めて専攻科の授業が行われた日の昼休みだ。

 ミハイルは授業が終わると急いで教室からいなくなったからどうしたのかと思っていたが、2年の淑女科を見てきたらしい。
食堂に向かう途中の中庭で、あいつは兄のミハイルに捕まっていた。

『あらあら?
私の専攻は魔法具科でしてよ、お兄様』
『何故断った?
公女として学ぶ機会を自ら棒に振るとは。
お前がすべき事は魔法具作りではないだろう』

 妹に向けるにはかなり剣呑な眼光だが、他ならぬあいつは全く気にしていない。

 というか、まさかあいつは魔法具科に入ったのか?!

『ふふふ。
左様ですわね。
ですが魔法具科も楽しそうでしてよ?』

 いつものような淑女の微笑みではなく、どこか嬉しそうな、能天気な言葉にはさすがのミハイルもいくらか毒気を抜かれたようだった。

 私と共に向かっていた内の1人、彼らの義妹であるシエナがハッとした顔で一言言った。

『お義姉様、まさか成績がよろしくなくて淑女科にすら入れなかったのかしら』
『うわ、本当かよ。
あり得ねえ』

 共にいたヘインズがシエナの言葉に顔を歪ませ侮蔑の表情で向こうのあいつを見やる。

 私もヘインズ同様、特に確認もせずにその言葉が正しいと思い込み、呆れ返った。

 そもそも高位貴族の女生徒が希望するのは淑女科か魔法科だ。
それに騎士科を加え、その3つに高位貴族は集中的に希望し、魔法具科は下級貴族ですらも人気が無く、平民が大半を占める。

 いくらあいつでも自ら望んで魔法具科を選ぶとは、さすがに考えられなかった。

 いつもの淑女の微笑みではないところを見ると、断ったというよりも断られたに違いない。
取り繕いきれなかったみたいだな。

『それに私がロブール家から享受した権利分の義務は既に果たしておりましてよ?』
『どこがだ』
『ふふふ。
気づいてらっしゃらないなら、それでもよろしくてよ』
『また、お前は……』

 いつもの淑女らしい微笑みに戻した顔を兄に向け、はぐらかした。
と、この時は何一つ疑わずにそう思っていた。

 四大公爵家の公女が享受した権利は計り知れないはずだ。
無才無能であらゆる義務から逃げるあいつが、義務など果たせているはずがない、と。

 ミハイルは苛立ったように睨みつけてその場を後にし、あいつもどこかへ行ってしまった。

 そんなミハイルは四大公爵家が1つであるロブール家嫡男として、次期当主として常に義務を意識して生きているように思う。

 そして手厳しいのは同じだけの義務を妹にも求めていただけじゃないだろうか。
確かに教師が言ったように、思い返せばあいつに詰め寄るミハイルは軽んじたり蔑んだりはしていない。

 シエナもロブール家に引き取られた初日に教養の必要性や公女の責任について滾々と聞かされ、翌日にはミハイルによって講師が手配されていたらしい。

 シエナの話では、どうやら昔から教育に関する手配は夫人ではなくミハイルが行っているようだ。

 シエナが勉強をサボればどこまでも追いかけ、隠れていれば必ず探し当て、滾々淡々と説教をされたと聞いた。
市井暮らしで学ぶという事に不慣れなシエナも早々に逃げるのは諦めたと、この後食堂で昼食を取りながら当時を思い出して顔色を青くしながら話していたのを遠い昔のように思い出す。

 そういえば報告書にはあいつが兄からも逃げている様子も書かれてあった。

 あのミハイルから逃げ続けるとか、あいつは猛者か。
王子妃教育からも今のところ逃げているし、ある意味逃げの才能はある。
無才ではなかったようだ。

『もしや誰かから全く真逆の事でもお聞きになりまして?
良い機会ですから1つはっきりさせるならば、私は1度も婚約を望んだ事もありませんし、今も継続など望んでおりませんわ。
公女としての立場があるから王家と公爵家の決まり事に拒否もしていない。
それだけでしてよ』

 報告書を読み、あいつと初めて会話らしい会話をして、あの日の中庭のあいつの言葉の意図に思い当たる。

 何年か前までの報告書を読む限り、あいつはロブール公爵邸の自室ではなく、離れと呼ばれる粗末な小屋に召使いもなく1人で住んでいた。
【邸には月に1度の家族の集まりの際に入るのみ。
それ以外の平素は離れでくらし、自ら料理や身支度をしている。
食材は懇意にする料理長や使用人から時折差し入れを貰う以外、野山で自ら山菜や茸を摘み、獣を狩っている。
通りがかりの冒険者に捌き方や罠の張り方を教わった模様。
自給自足生活を楽しんでいる】

 何だ、この報告書。
どこの遊牧民族の生活だ。

 何なら食べられる山菜か時々影にも聞いている。
影も当初は無視していたが、流石に毒草を口にした時は出て行って止める。
そうやって食べられる山菜や茸の見識を広めたらしい。

 ……あいつ、逞しくないか?!
広める見識間違ってるだろう?!

 服も幼少期は使用人達から譲って貰い、大きくなると使用人伝手に広げた街の知り合いから食材等と物々交換で手に入れ、何なら店番したりして必要な物を譲って貰っている。

 あいつ……もう何も言えない。

 ミハイルの考えているように、確かにあいつはロブール家公女としての従来の義務は果たしていない。

 だがあいつが享受した権利はあまりに少なすぎた。
そもそもが基本生活は自給自足。
あいつの言うように人間性など全く信用もしていない、期待も特にしていない私との名ばかりの婚約を拒否せず、不満も口にせずに継続させているだけで享受に対しての義務は果たしていた。

 そもそもあいつは公女として何の権利を享受していたのかも今は疑問だ。

 離れの使用料や学園に通い始めたら学費関連、月に1度の邸での食事代、くらいか?

 報告書を読む限り、その食事も2回に1度は腐っていたり必要な下処理がなされていなかったようだが……。

 大体離れもかなりのボロ小屋だぞ……。

 まさか共に過ごすミハイルは気づいていないのか?!

 定期報告でもその離れに足を踏み入れた事は無さそうだし、月に1度の食事でヤバイ食材は目立ちにくいソースをからめた料理に使う事が多いようだが。

 公爵にだけは影が邸に入る許可を得ているが、影が報告するのはあくまで王家にだけ。
それも何年か前からは定期的に影が様子を見る程度だ。

 公爵は気づいて……いなくても不思議ではなかったな、そういえば。

 ロブール公爵が邸に戻るのは月に1度。
先代当主の命令で開かれる家族とのその食事の為に戻るだけだった。
それも夜に食事をし、朝の早い時間に登城してそれからまた1ヶ月ほど魔法塔と呼ばれる王宮勤めの魔法師用の塔で過ごす。

 何かと多忙な上に、私も年に1度話すかどうかだが家族というものに根本的に興味を持っていないのは私でもすぐにわかった。
邸の事はずっと夫人と執事長任せにしている。

 ミハイルも最終学年への進級が正式に決定した今年に入ってからは、ロブール公爵家がいくつか所有する領地経営に加え、邸内のいくらかを任せ始めたようだが……当主達が気づかない理由を報告書から垣間見る。

 まず執事長も含めた大半の使用人達の手綱を夫人がしっかり握っている。

 そして……シエナ。

 どういうわけか夫人は実子より養子のシエナを可愛がっているらしく、邸で自由に振る舞っているのはシエナの方だった。

 シエナもあの手この手でミハイルの注意を反らしたり、嘘をついて実の兄妹の仲を引き離している。

 だが1番の原因は他ならぬあいつだ!

 あいつは公女のくせに全く困ってない。
何なら順応しきっている。
それにあいつは義妹どころか実兄や実母に何の興味も示さず、関わろうともしていない。

 例外は義妹のシエナだ。
シエナが一方的にただ馬鹿にし、罵る為だけに離れへと足を運んでいた。
その報告書には驚愕し、次に脱力した。

 月に1度の食事会は大抵、夫人とシエナが騒ぎ、あいつは公爵に続くように途中退室するからおかしな食材が出ても事なきを得ていた。

 しかも気に入った食材、主に表面だけ焦がしたほぼ生肉は高確率でしれっと離れに持ち帰り、自室で再調理していた。

 何なら時に影にもお裾分けする始末。
影も何年目かになると絵入りで、手作りスパイスが絶品とか、もうそれ報告書じゃなくて感想だろう。
手作りスパイスとか気になる言葉をチョイスするな。

 とにかくだ。

 あいつ無才無能のくせに生活能力とサバイバル能力のポテンシャルが高すぎる!!

 しかも何でそんなボロ小屋に普通に住み続けられる?!

 影もその小屋のあまりの現状に嘘だと思われるのを危惧したらしい。
スケッチして挟んでいた。

 この影、絵のポテンシャルが高いな?!
「シュア、呼んだか」

 この学園の慣習に従って生徒会長となったロベニア国第2王子であり、クラスメイトであり、実妹を嫌悪する名ばかりの婚約者であるジョシュア=ロベニアに生徒会室へ来るよう言伝てを聞き、ノックして入る。

 私も生徒会役員の為、特にノックの返事を待つ必要はない。

 今日は2年生と4年生が明日から1泊2日の魔獣討伐実技訓練に備え、短縮授業だ。

 シュアと呼ぶよう強要した第2王子は何かしらの予定があったらしく、最終の授業が終わってすぐに将来の側近候補兼、在学中の護衛役の1人であるヘインズ=アッシュを伴い生徒会室へと消えていた。

 2年生と4年生の生徒会役員が明後日まではいない為に、1年生と3年生の生徒会役員は授業が終わり次第合流し、最終確認をする事になっている。

 義妹のシエナもあと数時間でここに来るだろう。

 義妹の事を考えると最近気が滅入る。
学園の入学が差し迫る以前はそんな事は無かった。

 しかしそれは学園生活と父から次期ロブール家当主として少しずつ引き継いでいく仕事に忙殺されていたせいで、この邸の母以外の異常に気づいていなかったからだ。

 いや、違うな。
忙しさを理由に実妹であるラビアンジェについて苛立ちごと蓋をして、見なければならなかった全てを見ようしなかったのだと今は感じている。

 義妹と実妹が共に学園生活を送るようになり、まともに見ようともしなかった義妹の裏の顔に気づき、目を向け始めた。

 そして常に私の、いや、俺の実妹を忌み嫌い、今ではよりによって義妹と連れ立って貶めるようになったこの執務机に座る同級生王子。

 ここ数日、少し様子がおかしいこのいけ好かない俺様王子は何やら深刻そうな顔をしている。
名ばかりとはいえ仮にも婚約者である実妹に直接的な暴力を振るった事がロブール家に露呈するのを恐れているのか?

 王子と妹それぞれの担任と学年主任の4名から事の顛末は聞いた。
王子の両親である陛下と側妃殿下にも報告はしたが、父であるロブール公爵と他ならぬ実妹のラビアンジェによって静観するよう求められていると。

 ……ふざけるな!

 聞いた瞬間は思わず何を言っているのか理解できなかった。
普段からの妹への侮辱も許し難いのに、実害を与えておいて何だ、それは?!

 だが保護者と被害者の妹が黙っているのなら、腸が煮えくり返っても静観するしかない。

 そもそもがこの婚約の継続自体が気に入らない。

 妹は確かに学ぶ事をしない。
何故か礼儀やマナーは知っているが、学んだわけではない。
普段はそれをおくびにも出さないからこの王子が婚約者を気に入らないのは理解できる。

 それでも王子の妹への度が過ぎた悪態は兄として目に余る。

 昔から母にどれだけ傷つけられようが、それでも妹は断固として学ばない。
そして母はそもそも学ばせようとした事もない。
学ばせずにできない事を平気でなじる、そんな性格だ。

 講師を手配したのも俺だ。
父に頼んで母から妹の教育に関わる権限を与えてもらった。

 父は昔から俺達家族に関しては興味がない。
簡単に権限が移譲されたのには正直驚いたが、どうでも良いのだと思う。

 しかし俺の手配した教師が来れば、妹はしれっと逃げる。
そして1度隠れたら教師が帰るまでどれだけ捜索しても見つからない。

 幼い頃はそれが母の身勝手な傷つけても良い理由を作って更に煽り、目の前のこの王子との婚約が決まった日には顔合わせの途中で城から逃げ、恥をかいたと母の手加減のない魔法でとうとう死にかけた。

 いざという時に備え、父に頼みこんで治癒魔法から習っておいて良かったと心底思った。

 これまでの事を全て報告し、母は2度と魔法が使えないようにいつの間にか体に封じの魔法が刻まれ、妹への直接的な攻撃はしなくなった。
ただ、より一層逆恨みから実の娘への憎しみを募らせるばかりだ。

 刻んだのは恐らく父だろう。
あの日の翌日に起きた私が目にしたのは、一月(ひとつき)かけて体に浸透して魔法を使えなくしていく術式が組まれたドス黒い魔法陣に全身を覆われた母の姿だった。

 無駄に社交界へ出たがる母には屈辱的だったろう。

 一月の間は邸の自室に引きこもる母に対して、まるで禁忌を犯した罪人のようだと子供ながらに感じて、正直いい気味だった。
『ラビアンジェ、母上はしばらく姿を現さない。
今のうちにお前も公女らしく変わるんだ』
『まあまあ?』

 母が引きこもっている間に、この逃げる以外にやる気のない妹をどうにかしたかった。
王子の婚約者になっているなら監視と護衛の為に影がつくのは知っている。

 守られている間に自分でも身を守れるようになって欲しいと願っていた。

 しかしそれでも妹は変わらない。
初志貫徹とばかりに逃げ続ける。
何なら城へも足を運ばない。
どうやらあの日婚約者となったばかりの王子を放ったらかして帰ったのは、王子にも問題があったらしい。

 だがそれを言い訳にして良いはずもない。
このままいけば、最悪は婚約解消になるだろうと思った。

 それではまた妹の身が危なくなる。
いつも必死に探した。
なのに1度隠れれば、どれだけ探しても妹は気配の片鱗も掴ませない。
時々タイミングを見計らって隠れる前に捕まえても、講師の言葉は右から左に受け流してしまう。

 頼んだ講師からの申し訳無さそうな断りの言葉も、続けば慣れてしまった。

 仕方ない。
講師がここに訪れても妹は逃げるだけで学ばないのだから。

 逃げとスルーのポテンシャルは異様に高く、俺という危険への察知能力は群を抜いている。
どう考えても無能ではない。
逃げの特化型だ。
何の猛者だ。

 そんな事を何年も続けているうちに、気づけば影もいなくなった。
父には事前に邸内への影の出入りは伝えられていたんだと思う。
父は月に1度しか出向かない邸でも、俺が気づいたのに父が気づかないはずがない。
父が見過ごしていたのなら、わざとだ。

 影がいなくなっても、あの王子が願っても、当初危惧していたような婚約の解消はなされず、父も何も言わない。

 正直気味が悪い。

 ちなみに市井育ちの義妹、シエナも当初は教育から逃げた。
こっちはこっちで逃げるのは仕方ないと理解はしていた。
平民がある程度育ってから、公女としての教育を受けるのだから。

 しかし探せば簡単に見つかるし、滾々淡々と説教を何度かすると大人しく学ぶようになった。
これが普通の反応だ……多分。

 それでも一時期は義妹に不公平感情が出てくる。
何故義理の娘である自分ばかりが責任に縛られ、実の娘が無責任なのか、と。

 しかしシエナは学ぶうちにその重要性に気づいたのだろう。

 いつしか何故義姉は学ぶ機会を手放すのか、恵まれた境遇だと思えずに逃げる義姉はむしろ可哀想だと話すようになった。

 俺はシエナを向上心のある立派な淑女に成長したと感じるようになった。

 対して実妹のラビアンジェは何故こんなにも不出来なのかと苛立ち、責めるようになった。

 そしてシエナが時折涙を隠すような素振りを見せるようになった事に気づいた。

『お義姉様は悪くないの、お兄様。
あ、別にお義姉様に何かされたわけじゃないのよ。
ただちょっと……私が仲良くしたくてつき纏ったのが悪かったの。
それ、だけ……』

 そう言って堪えていた涙が流れ始めた。

 ラビアンジェが何かしたのかと咄嗟に思い、これまでに実妹へ感じていた憤りが爆発した。

 俺だって次期当主としての義務を背負い、自分の時間など殆ど取れない状況で不出来な実の妹を気にかけ続けたのに、何故わかってくれないんだ!

 そうして勢いのままにその日、月に1度の食事会に足を運んでいたラビアンジェへと詰め寄った。

『ラビアンジェ、お前はシエナに何をした?!』
『あらあら?
私が何かしたとシエナが言ったのかしら?』
『シエナはお前を庇って何も悪く言わなかったんだぞ!
お前の義妹はお前と違って向上心をもって教養も教育も学び、身につけた。
嫡子のお前と違い養女のシエナの方が我慢強く、前を向き努力し続けていた!
そのシエナが泣いていたんだぞ?!
明らかにお前を庇っていたのに、姉として恥ずかしくないのか?!』
『まあまあ?
特に恥ずかしい事はなくてよ?』
『ラビアンジェ!』

 この日以降、俺は実妹のラビアンジェの気持ちを意図的に考えないようにしてきた。
そしてこの日、これまでの妹の厚顔無恥な態度に罰を与えたくなった。
『ラビアンジェ、お前はロブール家公女としての自覚が乏しいばかりか、義妹のシエナに対して身勝手に振る舞い傷つけている』
『そうよ!
お前は優しさの欠片もなくて出来が悪すぎるわ!』
『あらあら?』

 食堂に入ってすぐ、少し後ろから父の気配を感じて、俺と父の間を歩いていた実の妹を振り向きざまにわざと糾弾した。

 妹は立ち止まっていつも通りにのほほんと小首を傾げるだけだ。
そんな様子が更に俺の怒りを煽った。

『お兄様、お母様、私は良いのです!』

 先に席に着いていたシエナが思わず立ち上がって私の隣へ駆け寄る。

『シエナ、姉を庇うお前の優しさはラビアンジェを駄目にする。
ラビアンジェ、私が良いと言うまで離れで過ごし、如何に自分が恵まれた境遇で過ごしてきたかを自覚しろ』
『そうね、ミハイル、それがいいわ!
ラビアンジェ、お前は私とミハイルの許しなく邸で過ごせるなんて思わない事ね!』
『まあ、ログハウス生活ね』
『『ラビアンジェ!』』

 同じく席に着いていた母も近寄って掩護射撃に回れば、父がラビアンジェに追いついた。

 俺の与える罰に何故か嬉しそうな素振りを見せた妹が、反省の色を全く見せていない事にまた腹が立って大きな声を出すと、母と被った。

 父はただ黙って後ろから娘を見下ろしてため息を1つ吐くと、いつもの席へ向かう。

 シエナはそんな父へと一瞬縋るような眼差しを向けた。
優しい子だ。
俺達を止めて姉を救いたかったんだろうと、この時は思った。

 だが父は、そもそも私達家族に興味がない。
止めてもらえないとわかったシエナは一瞬悲しそうな顔を見せた。

『ああ、何て事!
義姉様、私のせいでごめんなさい。
後でいくらでもお怒りを受け止めますわ!』
『何を言っているの、シエナ!
ラビアンジェ!
自業自得の癖に義妹に悪さなんて、恥を知りなさい!』
『さっさと離れに行け』

 そうして父のいる前で、かつて祖母が息抜きに使っていた離れと呼んでいる小屋で俺と母が許すと言うまで反省しろと勢いで言い放った。
母が便乗したのは謎だ。
母にはそんな資格はないだろう。

 そしてこの時は、いや、今年に入るまでシエナは姉思いの優しい子だと信じていた。
そしてこの時以来、そんな風に実の妹であるラビアンジェをいつも手厳しく叱りつけるようになった。

 実の妹がその日を境に、俺にも淑女の微笑みしか向けなくなったのに気づいたのは比較的すぐだ。

 その笑みを見る度に、あの日から間違った選択をし続けたのだと身につまされるような気持ちになった。

 シエナの言動に疑問を持つようになってからも、それでも歩み寄るには自分の中の様々な感情が邪魔をしている。

「今日は何の用件だ?」

 呼びつけておきながらなかなか話そうとしない王子に痺れをきらせる。

 そういえばいつも後ろに控えている側近候補で学園内では護衛をしているヘインズの姿が見えない。

 王子は何かを少し迷ってから、ためらいがちに口を開いた。

「私があいつ、いや、ラビアンジェを傷つけたのはもう聞いているだろうか」
「ああ。
だが父も妹もその件は静観するとしているから、安心しろ」
「いや、それについては私が個人資産からラビアンジェに直接慰謝料を手渡す事で本人と話はついている」
「……そうか」

 どうせこの俺様王子ははした金で黙らせたんだろう。

 沸き上がる苛立ちを何とか押し込める。
そもそも妹と直接話がついたのなら一々呼びつけるな。

「呼んだのは、確認しておきたい事と伝えたい事があったからだ」

 口止めか?
ため息が出そうだ。

「それで?」
「まず、慰謝料についてなのだが……」
「シュア」
「何だ?」
「それは当事者同士で勝手にやってくれ。
私は静観するよう言われている」
「ミハイル、お前も私がラビアンジェを傷つけた事を自分とは無関係だからどうでも良いと判断したのか?」

 それはお前だろう!

 王子の言葉にカチンときてそう叫びそうになる。
だが何とか抑えた。

「何が言いたい。
この件に関しては単に部外者だと言っているだけだ。
ここは王立の学園で、他ならぬ父とラビアンジェが放っておくよう教師を挟んで伝えてきたんだ。
シュアも在学中は好きにすれば良いさ。
そもそもシュアは妹を忌み嫌って無才無能だと好きに貶めても良いと思っているから、簡単にロブール公爵家公女に実害を与えたのではないのか?」
「待ってくれ、それは……」
「違うか?
私の記憶では養女のシエナや他の四公の子息達と何かにつけて私の実妹に暴言を吐き続けているだろう」

 王子は、ぐっ、と言葉に詰まった。
「すまない。
その通りだ。
今回の暴力だけでなく、これまでの事も含めてロブール公爵家からも学園からも何かしらの沙汰があるなら大人しく受けるつもりだ」
「私は父からもラビアンジェからも部外者扱いだ。
どうするかの権限は持ち合わせていない。
だがシュアも含めてそんな者達を好ましく感じていないことくらいは、そろそろ察しても良いと思っているが?」
「やはりそうか……」

 いい加減苛立ちが抑えきれなくなってきて、本心が口をつく。

 王子の眉根がぐっと寄る。

 俺に側近になれ、優秀なのに努力を厭わないお前には然るべき相応しい立場に在るべきだとか言いながら、自分は上辺以外何も見ていないかったんだろう。

「お前の妹に怪我を負わせた事は申し訳ないと思っている。
これまでの事も含め、改めて考えさせられた。
その上で以前につけていた影からの報告書を初めて読んだ。
ああ、影が邸に出入りするのは公爵に予め了承を得ている」
「それは知っている。
それで?」
「婚約者としてこの国の第2王子に相応しいとは思わない。
この考えは変わらない」
「それに関しては私も同意する」

 暴言や暴力を許す事はできないが、どちらにしても今の妹に王子の婚約者などまともに務まるはずがない。

 きっぱりと告げたと思えば、その後に続けるだろう言葉を躊躇う。

 何なんだ?
さっさと言え。

「だが、彼女の生活環境があまりにも……その……だな……」
「はっきり言え」

 遠慮からなのかは知らないが、躊躇うにしても沈黙が長い。

 はっきりと促すと、意を決したように口を開いた。

「ミハイル、お前は妹の生活環境があまりにも貴族のそれからかけ離れ過ぎている事に気づいていたか?」
「は?」

 この王子は早口で突然何を言ってる?
貴族の生活環境からかけ離れ過ぎている?
妹の逃げ癖が、ではなく、生活環境って言ったか?

 王子は俺の顔をじっと観察して、ほっと息を吐いた。

「やはり気づいていなかっただけか」

 どこか安堵したような様子に、こちらが戸惑う。

「どういう意味だ?」
「今回の件で私は、いや、私とラビアンジェの互いが、というべきか。
初めて互いがまともに話したのだと思う。
今までは……あいつも私と話す価値を見出していなかったらしい。
私が暴力を振るった時に止めてくれた教師達から指導を受けたのも、あいつの婚約者としての知らなかった側面を教えられたのもあったと思う。
話をして改めて俺の思うラビアンジェ=ロブールの人物像とかけ離れているように感じて、昔あいつにつけていた影の当時の報告書を読んだ」

 確かに、いつもは淑女の微笑みを浮かべて時々的外れな返答をしては聞き流している。
この王子達から詰め寄られ、蔑むような事を言われても妹は決して相手にしてこなかった。

 もちろん俺に対しても。

 それに周りの目から見た時、あまりに行き過ぎた言動が見られる時は切り上げるように諌めたりして、上手く何かしらの誘導をしている。
その時の妹は才女と褒めそやされる義妹などより、よほど公女らしい風格を垣間見せる。

「その報告書を私が見る事は可能か?」
「もちろん他言無用は約束してもらう必要があるが、見るのは構わない。
ただ……これまでに散々な言動をしてきた私が言う資格はないが……恐らくシエナへの見方が……」
「変わりそうか」

 やはり()()なのか。

「気づいていたのか……」

 ため息を吐いた俺に意外そうに王子が呟いた。

「シエナが入学するに当たって共に過ごす時間が増えたからな。
おかしいと感じる事が増えてきたが、1番のきっかけはシュア達に混じってラビアンジェに詰め寄っているのを何度も目にする事になったからだ。
客観的に見るようになったし、周りの生徒の反応も参考になった」
「うっ、すまない」
「いや、それまでは正直シュア達の事を批難できない。
忙しさを言い訳にして妹を、ラビアンジェをわざと見ようとしなかった。
シエナが言う事を鵜呑みにしていたし、ラビアンジェを責めた事もある」
「そうか。
それで……あの小屋に……」
「小屋?」

 待て、小屋って何だ?

 訝しげな顔を向ければ、逆に王子が戸惑った顔を返してきた。
「報告書では離れで反省しろとお前に言われてからずっと使用人もつけずに小屋で1人暮らしをしていると……」
「は?!
()()()暮らしている?!
1人暮らしって何だ?!」

 予想外の報告にこの部屋に来て1番の大声を出してしまった。

 そもそもがお祖母様が息抜きに使う為に使っていたあの離れと呼ぶ小屋は俺がそこで過ごせと言った時点でかなり古い。

 せいぜい1週間程度で邸の方へ戻っていると思いこんでいた。

 謹慎を命じて以降、邸で顔を合わせないのも俺が父の領主や当主としての引き継ぎを始めて忙しくしているせいだと、そもそも俺との時間が合わないし、何より広い邸だ。
妹も俺や母と無闇に顔を合わせないよう避けて生活していれば、そんなものだと思っていた。

 使用人達に時々様子は尋ねていたが、誰もが変わりなく過ごしていると言っていたし、学園や月に1度の夕食会では特に変わりも無さそうだった。

「やはり知らなかったのか。
私も流石に驚いた。
もう、色々と……」

 何となくその色々に引っかかりを覚える。
何とも言えないような顔をしているが、何だか嫌な予感しかしない。

「色々、とは?
その報告書、今から見る事はできるか?」

 王子はしばし考えてから机の中から報告書らしき紙の束を差し出した。

「お前は側近、いや、側近候補ではないし、申し訳ないが他言無用の上でここで読むに留めておいて欲しい」
「無論だ」

 そう言いながらも、数日前と比べて憑き物が落ちた様子に少々驚きながら書類を受け取る。

 側近と側近候補の違いを認識した?

 何があったのか気にはなりつつも、今は報告書を優先しようとすぐそこのソファに腰かけて目を通す。

 ……愕然とした。

【邸には月に1度の家族の集まりの際に入るのみ。
それ以外の平素は離れでくらし、自ら料理や身支度をしている。
食材は懇意にする料理長や使用人から時折差し入れを貰う以外、野山で自ら山菜や茸を摘み、獣を狩っている。
通りがかりの冒険者に捌き方や罠の張り方を教わった模様。
自給自足生活を楽しんでいる】

 何だ、この報告書。

 2度見した。

 これ、うちの妹の報告書だよな?!
どこぞの遊牧民族の生活じゃなかったよな?!

 何故影に食べられる野草とか聞いている?!
影も教えるな!
喜んでくれました、とか感想つけるな!

 ……うちの妹が逞し過ぎる。

 服を使用人達から譲って貰うって何だ?!
使用人伝手に広げた街の知り合いって、平民だろう?!
物々交換やら店番して譲って貰うって、妹が着ている服か?!

 だがデザインは最新の物が多く、シエナの服と比べても遜色は無かった。

 この学園には他国の学園のような制服はない。
ただし絹等1級扱いの上等素材以外を使った生地で、色は黒、濃紺、濃灰色、白のみで構成されたものと決まっている。

 例外は入学・卒業式、予め学園が認めた式典の場でのみドレスコードが別に指定される。

 だから公女も下級貴族や富裕層の平民も服の生地は大体が似たような等級になる。

 細かく言えば男子はブレザー、詰襟服、襟付きシャツに長ズボン以外は認めない。

 女子は上の服は襟付きの物、ワンピースやスカートは裾が大きく広がらず、長さはくるぶしから膝丈まで。

 男女共に学生に相応しく、華美にならず、ドレスのように鎖骨や二の腕等を露出しないものが条件で、靴に大きな規定はないが、ヒールが高くなく、動きやすいものとしている。

 違いはデザインくらいだ。

 女子と一部の男子に人気なのは、確か月影とかいうデザイナーがデザインする服だ。

 確か昨年度の4年生と1年生の合同研究と1年生の学園祭の売り物のシュシュに関わっていた。
誰かからの知り合いの伝手らしいが、誰の伝手だったかはわからないように秘匿されていた。

 月影自身が表に出るのを良しとせず、専属契約する名うての商会に囲われているから、それも仕方ないのだろう。

 その商会から月影がデザインするドレスやタキシードを購入した学生だけに、学園向けの服を売ってくれるらしい。

 他にも月影が専属契約している商会が最新の庶民向け服を売り始めてから、そのデザインの一部を専属のお針子に真似させる貴族もいるとか。

 ある意味庶民からの流行の発信となる。
「学園での妹の服は庶民向けではなかったはずだが、シュアの目から見て他の令嬢より劣っているか?」
「いや、そういえばそうだな。
女子達は月影というデザイナーの服を好んでいるが、それと比べても遜色ない。
月影と専属契約する商会は何年も前に裁判沙汰で有名になったリュンヌォンブル商会だ。
その上、今ではシュシュでも有名になったからな。
伝手が無いとドレスも手に入らないと夜会でも良く耳にする」
「裁判沙汰?」

 そういえば、昨年度の4年Dクラスが研究発表していた時にそんな話をちらほらしていたな。

「覚えていないか?
確か当時羽振りの良かった新興貴族の令嬢が、月影がデザインした庶民服を買い占めようとしたのだ。
その理由がどうしようもなくくだらなくてな。
紹介すらしてもらえない月影のデザインする庶民服が、貴族社会での流行の発信になるのが気に入らなかった。
それだけだ」
「くだらん理由だな。
急に金と権力を持った勘違い貴族が考えそうな理由だ」
「商会は庶民服を貴族には売らないとして抵抗したんだが、今度は平民を雇って買い占めようとしたらしい。
怒った商会がその貴族には二度と販売はしないと名前を公開して抗議した。
業務妨害として証拠も揃えて告訴して、平民であっても購入できる枚数を一時的に制限したんだ」
「なるほどな。
だが新興貴族とはいえ、貴族と平民の裁判だろう?
貴族が圧倒的に有利だから、商会が負けたんじゃないのか?
あそこの商会長は平民だったはずだ」
「それがな、戦わずして勝った」
「どういう事だ?」

 王子、何故お前がニヤリと笑う?

「この貴族の行為に平民も、裕福でない下位貴族も、月影のデザインをこよなく愛する高位貴族からも、その貴族への抗議が集まった。
それに平民は王侯貴族には少なからず不満を持つものだ」

 その言葉に、何年も前の貴族新聞の見出しをふと思い出した。

「関係ない貴族達にも直接的な危害を及ぼそうとする平民が出てきて、確か王都の貴族の馬車に石をぶつける事件が相次いだんだったか」
「そうだ。
1度大きく全体が同調して動けば、人口が多い平民は脅威になる。
石をぶつけるだけで終わっていたのは、件の商会がはっきり相手の名前を公表して裁判に訴えたからだろうな。
それでも他の貴族達は危機感を募らせて大衆に追従し始めた。
結果その貴族の取引先が減り、身の危険も感じたみたいでな。
示談として商会へ多額の示談金を支払って、今は王都からいなくなっている」
「だから戦わずして勝ったのか。
それで月影も更に有名になったんだな」
「ああ。
実名も素性も性別すらもわからないから、余計に噂が噂を呼んで拍車をかけている。
それに腕も確かなようだ」

 最後の言葉には納得する。

 確かに時折見かけるその商会が販売する服やドレスは、従来のリボンやレースを多用したり、裾にボリュームのあるものとは違っていた。
個々の体型に合わせつつも、先進的なデザインだ。

「それに見た目だけじゃなく動きを邪魔せず、何かと機能的だとして男女共に愛好家も年々増えているらしい。
ただ月影の庶民服はともかく、ドレスは昔からの馴染みの紹介がないと購入できないようでな。
紹介されても月影が気に入らなければ断られるらしく、下手な者を紹介すれば紹介者共々断るらしい」
「ああ、それは聞いた事がある。
月影のドレスを着る貴婦人達は年齢問わず人柄や教養が申し分ない人物ばかりなのだろう?
そのドレスを着る事が貴婦人達の一種のステータスだとシエナが言っていた」

 昨年度の妹のクラスのバカ高い幸運のシュシュも、月影が関わり限定販売としたから付加価値が付いて大金貨1枚なんていう破格の金額で売れたんだろう。
当時は原価いくらだよと心の中でつっこんだものだ。

 しかも妹のクラスは幸運のシュシュの売上だけはほぼ全額を教会への寄付に回ている。

 上手くやったと思った。
誰の入れ知恵だったのかが気になるな。

 これまでのDクラスなら売上げの全てを卒業研究に充てようとするはずだし、共同研究の卒業した当時の4年Dクラスはそうするように助言していたと聞いた。
それくらいDクラスへの研究費の補助金は少ない。
もちろん学園祭の補助金もだが。