ひとりぼっちになった象が仲間を呼んでいるような、どこか悲しげな音色だった。
「信じられない……」
チヒロは、コブ以上に青ざめた顔を左右にふった。
「伊原くんがわたしのロッカーを開けようとしてた? どうして?
あ、わたしのだけじゃないのかも。みんなのも……?
もしかしてわたしの手帳を盗ったのは、伊原くん? やだ。あれを彼に読まれてたなんて……」
苦悶としか言いようのない表情で身を縮めるチヒロに、
「いや、大丈夫だよ。ベテランの鍵師じゃないんだから、3ケタの番号をシロウトが合わせられるわけないって」
僕は確信をこめて安心材料を渡した。
「でも現に手帳がなくなったし……。わたしの思い違いじゃないの。ほんとにロッカーに入れておいたの。
それが忽然と消えたのはやっぱり……。そうよ、あの日は体育の授業があって、グラウンドに出てたの。そのすきに……?」
ふいに──まさか──と、ある懸念が僕の心に浮かんだ。
「チヒロ、さ。ちょっと確認したいんだけど……。鍵を解錠する番号っていくつにしてたの」
「5、1、8、だけど」
「え。その番号って……あれ……だよね」
記憶に新しい数字に、僕の懸念がじわじわ広がった。
「はい。誕生日、わたしの。5月18日だから、518」
僕の顔色をふしぎそうに見つめて、チヒロは小首をかしげた。
声に出さず、僕は(あちゃー)と嘆いて肩を落とした。
「いや、それぜったい使っちゃいけない番号だよね。誕生日とか電話番号とか。他人に知られやすいから」
「でもっ! すごく仲がいい、かぎられた友だちしか知らないし! わたしの誕生日を伊原くんが知るはずないわ」
「チヒロのクラスメートのカガちゃんと……さとリンだっけ? 彼女たちはSNSをしてるんじゃないの? インスタとかX(エックス)とか」
チヒロは大きなミスにやっと気づいたというふうに、あっと目を大きくした。
「してる、ふたりとも……。今年のわたしの誕生日にふたりでペンケースをプレゼントしてくれたの……。
そのとき3人で、たしかカガちゃんのスマホで写真を撮った……。
インスタにアップしていい?ってきかれて、なにも考えずに『いいよ』って答えて、わたし……」
それだ。伊原はその投稿でチヒロの誕生日を知ったのだ。
そして彼女の誕生日の数字を使い、ダメもとでロッカーの解錠を試みた。
コブに目撃されたのが初犯なのか再犯なのかはわからない。けど、やつが黒なのはまちがいない。
伊原はチヒロの手帳を盗み、それを覘いて、チヒロが同級生の“ある男”に片想いしていることを知った。
そしてチヒロが恋する相手に敵意を覚えた。つまりは僕。
なぜなら伊原は、チヒロが好きだったから。
やつは僕を見て、こんな男のどこがいいんだ、と悔しがっただろう。
じぶんのほうがすべてにおいて勝っているのに。
自尊心が高そうなあいつのことだから、納得いかなかっただろう。
僕を見る目に憎しみがこもっていたのは、そのせいだ。
だけどリスクを冒してまで手に入れた手帳を、なぜ校舎裏の植込みに隠したのか。
ロッカーから手帳が無くなったことを騒がれ、持ち物検査に発展するのを懼れたのか。
ひと気のない早朝、ロッカーの鍵をいじっていたところをコブに目撃されてしまったから。
まっさきにじぶんがあやしまれると考えたのか。
「わたしが、じぶんの首をしめてたんだわ……」
放心状態で宙の一点を見つめていたチヒロが、消え入るような声で言った。
「うかつだった、ほんとうに……。ロッカーの鍵番号に誕生日の数字を使わなければ、手帳を盗まれることもなかったのに……」
悔しさをにじませてひどく落ちこんでいる彼女に、
「チヒロのせいじゃないって。悪いのは伊原だよ」
と僕は言った。
「いや、疑わしいのはたしかだけど、そもそもいまの段階では憶測の域を出てないし。
ねえ、大事な手帳を盗まれたのは、チヒロにとって悲劇だったかもしれない。
でも……チヒロと正門で出会った日、僕の部屋でチヒロに伝えたことを覚えてる?
植込みのなかに隠されていたチヒロの手帳を僕が見つけたから、吉川千尋っていう女の子の存在を知ることができたって。
僕たちを結びつけたのは、チヒロの手帳なんだ。
俺はチヒロと出会えて心からよかったって思ってる。
こうやってチヒロとずっといっしょにいられて、めっちゃ幸せなんだ。
僕からすると感謝したいくらいだよ。 チヒロの手帳をツツジの植込みに隠したやつに」
思い詰めて、険しさをのぞかせていたチヒロのまなざしが、ゆっくりと、しなるようにやわらかくなっていく。
じっと僕の目を見つめ、そして吹っ切ったように、にこりとした表情を見せてくれた。
「うん。そうね。もう終わったことだし、悔やんでもしかたないし。ヨシくんの言うとおり、いいほうに考えなきゃだめよね」
「そうだよ。明日から夏休みだよ。めいっぱい楽しもう。さーあ、稼ぎまくって遊ぶぞー」
両手を突きあげて解放感いっぱいの声をあげた僕の横で、チヒロは目を細めながらくすくすと笑った。
引っ越し作業のアシスタントは時給がいいだけあって、むちゃくちゃきつい仕事だった。
覚悟はしていたが、やはり力仕事。
まったく身体を鍛えていない身にはめっちゃきつく、勤務初日からギブアップしそうになった。
まず、暑い。夏だからあたりまえだが、引っ越し当日の客先はたいていエアコンが止まっていて、窓を全開していてもなかは蒸し風呂状態だ。
屋外に出れば出たで、灼熱にさらされる。それにどっしり重いものを運ぶから、とにかく腰にくる。
とうぜんながら荷物に傷をつけるのはご法度で、細心の注意が必要だ。その点でも神経疲れする。
筋肉の痛みが取れないまま重いものをかかえ、激痛に顔をゆがめれば先輩から、
「腕の骨が折れたって、荷物だけは落とすんじゃねぇぞ」
と冗談めかして脅された。
チームを組む先輩のなかには口が悪い人もいたけど、根はやさしくて、ジュースをおごってくれたり、お客さんから頂戴した心付けを平等に分けてくれたりした。
日焼けが濃くなっていくにつれて、僕の体力も向上していく。
死にそうな疲労感に襲われる日はなくなり、父さんは、
「おお、精悍な顔つきになってきたな」
母さんは、
「なんか、たくましくなってきたんじゃない」
と揃って顔をほくほくさせた。
僕が働いている姿を見てみたいとチヒロが同行した日は、いつにも増して張り切った。
その結果、家に帰ったとたん電池切れを起こし、気絶したように眠りこけるはめになった。
夏休みのメインイベントは、なんといっても宮古島旅行だ。
でも、それだけじゃ飽きたらない。バイトが休みの日はチヒロと都内の水族館や植物園へ出かけて行った。
まわりに人がいるときはチヒロに話しかけられないので、(ひとりごとを言ってるヤバイやつと警戒される)、スマホのメモ機能で文字入力し、チヒロに読んでもらった。
ふたりで同じものを見て、笑う。
感動する。びっくりする。
ああだ、こうだと、感想を交わしあう。
チヒロといると最高に楽しい。
僕のなかへ、できたての幸福をそそぎ足してくれる。
心が満たされるって、こういうことなんだって実感する。
チヒロがこの世でやりたかったことを、いっしょに叶えていく。
チヒロの気持ちを、じぶんごと同然に考える。
それがチヒロのためであり、僕の使命だと思っていた。
でもいまは僕自身のために、チヒロは無くてはならない人になっている。
チヒロがいるから僕はなんでもがんばれる。しぜんとパワーがわいてくる。
モチベーションがあがらなくてだらけていた僕の心の扉を開け、背中を押す風を吹きこませてくれた。
革命的な大進歩を起こし、きちんと将来を思い描けるようにしてくれたのだ。
そこそこいい会社へ就職できるよう、このまま勉強をがんばって、まずは大学へ進もう。
社会人になったら、チヒロとふたりだけの生活を楽しめる家を持とう。
チヒロの庭をつくるために、一軒家がいい。
チヒロの好きな花を植えて、母さんが作りあげたような花畑をこしらえるのだ。
色とりどりの花が年中あふれかえっている、そういう庭を──。
叶えられるかどうかわからない夢ではなくて、それは僕にとって、ぜったい実現すべき目標になっていた。
* * *
「14日の水曜日、お盆だからお墓参りとカズユキおじさんの家におじゃまするけど、善巳はどうする?
湯河原のおじいちゃんおばあちゃんもいらっしゃるって」
うだるような暑さがつづく8月のはじめ、朝の食卓で母さんにきかれた。
精がつくようにと、朝からショウガ焼きバーガーだ。
いい感じで焦げ目がついたライスバーガーでサンドされ、醤油ベースの甘じょっぱい手づくりタレは、うなるほどバカうまい。
母さんは料理の腕で食べていける人だと、マジで思う。
「14日? バイト入ってるからだめだ。あ、おじさんがこづかいくれるって言ったら、遠慮しないでもらっといて」
世田谷に住む父さんの兄は名の知れた商社に勤めていて、すごく羽振りがいい。
僕が顔を出さなくても、父さんにこづかいを預けてくれるありがたい人だ。
湯河原の温泉付きマンションで悠々自適の生活を送っている祖父母も、いまだに僕に甘い。
「もうっ、ちゃっかりしてるんだから。高3にもなって親戚からおこづかいもらうなんて、いいかげん恥ずかしいったらないわ。バイトだってしてるのに。
鴨生田のおばあちゃんが『いいからいいから。持っていきなさい』ってしつこいからしかたなく頂くけど、ほんとは嫌なんだからね、お母さんは」
母さんは額にシワを寄せて、くちびるをとがらせた。僕が親戚に甘えるのを好ましく思っていないのだ。
「いいじゃん。くれるっていうものをもらって、なにが悪いのさ」
父さんのご先祖は雑司ケ谷の霊園に眠っている。
僕もちいさなころからお参りしてきたし、先代の役目を引き継いだカズユキおじさんの家のでっかい仏壇に何度も手を合わせてきた。
毎年お盆やお彼岸の行事を深く考えずに受け入れてきたけど、ふっといまさらな疑問が頭に浮かんだ。
湯気の立つコーヒーをゆっくりすすっている母さんに、きいてみる。
「あのさ、お盆に先祖の霊が帰ってくるって言うけど、それってどんな意味があるの? なんでお盆のときしか帰ってこられないわけ?」
「ええ、なにとつぜん。意味? えーと。お盆の由来については諸説あるし、わたしもくわしくは知らないんだけど……」
母さんは当惑顔をしつつも、
「むかーし、おばあちゃんから聞いた話ね。一説によると……」
と話しはじめた。
「旧暦の7月1日は“地獄の釜のふたがあく日”とか“閻魔の口あけ”と言われていて、地獄の出入り口が開けられていた日だったんですって。
で、あの世にいた人たちがこの世の自宅に帰ってきて、7月30日までにあの世にもどることになっていたそうなの。
つまり7月いっぱいは地獄の入口が開けっぱなしだったってことよね。
あの世の人たちがこの世にもどってこられる日がいまのように短くなったのはどうしてなのか……、それはわたしもわからないんだけど。
お盆の時期が地方や各家庭によって、7月だったり8月だったりしてるでしょ。
それについても疑問に思ったことはあったけど、深く追究しないままきちゃったわ。
なぁに? 善巳、宗教に関心がでてきたの?」
「べつにそうじゃないけど、なんとなくきいてみただけ」
地獄の出入り口が開けられるという一説も、チヒロからすると壮大なファンタジーのひとつになるのだろうか。
僕のなかの“お盆”の概念が、ゆらいでいく。
「母さんはどうなの。父さんと母さんって無宗教だよね。だけどお盆やお彼岸には墓参りしてるじゃない。
仏教徒じゃないのに。まあ、あたりまえのように俺もそれにならってきたけど」
「そうなのよね」
と母さんは、眉をへなっと下げてうなずいた。
「わたしの家系で仏教を信心してたのはおばあちゃんの代までで、両親は無宗教なの。
それなのにお盆やお彼岸にちゃんとお墓参りしてたのは、ご先祖のために仏教の供養を守っていかなきゃっていう、義務感と使命感からだったのよね。
それと仏教の世界観を子どものころからしぜんと教えられてきたから、かってに身についちゃったというか、頭に染みこんじゃったというか……。
すっかり大人になったいまは仏教を信じているわけじゃないけど、亡くなった人の魂を忘れずに供養するって大事なことだとは思うわよ」
「亡くなった人って、どこへ行くんだと思う? 母さんはそういうこと考えたことある?」
「あるわ」
意外にも母さんは即答した。
カップの持ち手を人差し指でさすりながら、遠い目をして僕に言う。
「ちょうどいまの善巳の年に。はじめて人の死を身近に、深く考えたの。クラスメートの男の子がバイク事故で亡くなったのよ」
えっ……。
うそみたいな話に声を失った。
「ふしぎな感覚だったわ。ショックだったのよ。涙も流れた。でもなかなか信じられなかった。ほんと?って。
だって昨日まで教室で元気に笑ってたんだもの。明るい男の子でね、ちょっといいなって思ってたの、お母さん。その彼がとつぜんいなくなっちゃって……。
寂しさがじんわり胸に広がっていったわ。 死ぬってこういうことなんだって、身に沁みて感じたの。
こんなふうにあっという間にわたしたちの前から、この世からいなくなっちゃうんだって……。
そのときは、彼は天国へのぼっていったんだって思ったの。
天国がどんなところかよくわからないけど、花が咲きみだれる楽園のような場所をかってにイメージして。
そう信じたかったのよね。でないと不運な事故で命を奪われた彼がかわいそう過ぎるから」
「いまは? いまも天国はあるって信じてる?」
「うーん。どうだろう。半信半疑ってところかな。あって欲しいと願ってはいるけどね」
母さんはカップを持ちあげ、にこりと笑った。すっぴんの口もとへカップのふちをくっつける。
「幽霊って見たことある?」
「んんっ?!」
僕の問いに、母さんは口に含んでいたコーヒーを噴きだしそうになった。あわてて飲みこみ、
「なに、藪から棒に。でもないか。お盆や天国の話をしてたものね。
ないわよ、まったく。幽霊も人魂も目撃したことナシ。お母さん、霊感ないもの。
えー!? そうきいてくるってことは、もしかして……善巳は見たの? 幽霊」
「見てないよ」
もちろん否定した。
「ただじっさいはどうなんだろって思って。心霊体験の再現ドラマとか、夏になるとやってるじゃん。
ほとんどが人に祟る悪霊みたいな扱いで、おどろおどろしい演出の」
「そうそう。あれを観たあと、善巳ひとりでトイレやお風呂に入れなくなってたもんね、しばらく。
眠るときもお父さんやわたしがそばにいないとだめで」
古い話をむし返して、笑いをこらえる母さんに、
「ガキのころのことだろ。母さんだってそうだったんじゃないの。ちいさいときは。怖がらない子どもなんかいないよ」
むくれて言い返した。
「たしかにね。ごめんごめん。子どものときは幽霊がほんとに怖かったものね。いるって信じてたから。
幽霊を目撃したらもう生きていけないって、本気で思ったくらい怖れてた。それがふしぎよねぇ。大人になると怖くなくなっていくんだから」
「え、なんで」
「んー。やっぱり半信半疑になっていったからかなぁ。
幽霊ってほんとは存在しないんじゃない?って疑う思いと、もしさまよっている霊がいたとしても、わたしは恨まれるようなまねはしてないから大丈夫って、楽観的な思い。それが半々。それに……」
母さんは、「うふっ」と含みのある笑い声を漏らした。
「幽霊になって目の前に現れてもいい人がいるし」
「えー。誰よ?」
「そりゃあお父さんよ。マイハズバンド。それと善巳。実家の両親もね。
善巳が亡くなるなんて考えたくもないけど、万一先立たれたら……そのときは、どうしてもまた会いたいわ。
だからいいのよ、遠慮なく出てきて。お母さんはぜったい怖がらないからね」
「なにそれ。縁起でもない」
僕があきれ返った息をつくと、
「あー、ちょっと! もう7時半よ!」
母さんは“がっ”と椅子から立ちあがって、つけっぱなしのテレビを指差した。
「やっばい。遅刻するっ」
噴射するロケットのごとく、僕もあわてて立ちあがった。
「どうしたのかな。なんだかすごく眠いの……」
お盆が迫るにつれて、チヒロは頻繁に眠気をもよおすようになった。寝起きも悪くなっている。
「あれじゃないかな。ほら夏バテみたいなもの。気温や日光の熱をじかに感じなくても、見るからに暑そうってイメージで身体が疲れるんじゃないの」
僕はなんてことないそぶりで言ったけど、内心は違った。
根拠などまるでないが、これまでの平穏な日々がくつがえされるような、不吉な予感にまといつかれていた。
仏教のすべてを信じているわけじゃない。それでもチヒロの眠気は、“お盆”とつながっている悪い兆しのような気がしてならなかった。
全国的にお盆の入りとなる13日がやってきた。
その日のバイトシフトは休みだったので、じぶんの部屋でチヒロとまったり過ごした。
日中、チヒロは眠らないようにがんばっていたけど、ノートPCでミステリーものの映画を観ていたら、こっくりこっくりしはじめた。
物音を立ててもぴくりとも反応しないので、もしかしたらチヒロはこのまま永遠に目を覚まさないんじゃないか……、と悪い想像にからめとられ、心臓が何度もキューッと縮んだ。
14、15、16日はバイトへ行くのが心配だった。
とくにお盆の送り日──この世にもどっていた先祖や死者の霊があの世に帰っていく──とされる16日は、チヒロから片ときも目を離したくなかった。だから、
「明日のバイト、いっしょに来てもらってもいい? とくに意味はないんだけど……なんかさ、そばにいて欲しいんだよね」
僕がかかえている不安は隠して、チヒロにお願いした。
「はい、いいですよ」
“お盆”をまったく意識していないようすのチヒロは、こころよくオーケーしてくれた。
この日の依頼主はお盆休みの期間を利用して引っ越しを完了させたいと考えている、30代の独身男性だった。
昔はお盆の期間の引っ越しはタブーとされていたようだけど、いまはそういった風習を気にしない人もいる。
チヒロは依頼主のマンションの入口わきに立って、僕が何往復も荷物を運ぶようすを飽きもせず眺めていた。
ときどき手をふってきたので、スマイルで応えた。
転居先へ向かうときは、チヒロに2トントラックの荷台に入ってもらった。
30分ほどで目的地に到着し、トラックのリヤドアを開けてみると、奥に積んだ段ボールをベッドにして、チヒロは眠りこんでいた。
僕はひやっとして、
「チヒロ。チヒロ、起きて!」
先輩の目を盗み、どきどきしながら呼びかけた。
すると僕の声に気づいて、チヒロは飛び起きた。
「ごめんなさいっ! また眠っちゃった。もう、やだぁ。じぶんが……」
しょげこむチヒロに、僕は大きく頭をふった。
眠りこけるのはまったくかまわない。目覚めてくれれば、それでいいんだ。
あと12時間。早く時間が過ぎてくれ。今日が終われば、ひと安心できる。
そして……。
僕を脅かしていた不吉な予感は的中をまぬがれ、17日の00時00分01秒を迎えた。
よかった。チヒロはあの世へ連れて行かれなかった。
もう大丈夫だ……。
ファンタジーの世界観を信じて、僕はすっかり油断していた。
* * *
羽田空港を出発して3時間。
上空からエメラルドグリーンに輝く海が見えた瞬間、ボルテージが爆上がりした。
僕の席は機内後方の右通路側だったけど、前のめりに首を伸ばせば、どうにか外の景色を眺めることができた。
ジェット機内を探検していたチヒロももどってきて、
「わあっ。すっごくきれい! ヨシくん、見える? すごいよ。ほら、島のまわりのサンゴ礁があんなにくっきり」
瞳をきらきらさせて、声をはずませた。
目指す島は、直角三角形のようなかたちをしている。
空港は島のやや西側にあり、上から眺めると鳥が羽を広げているようなデザインに見える。屋根は沖縄伝統の赤い瓦ぶきだ。
降り立った3階建の空港内も南国ムードたっぷりで、あちこちにハイビスカスの花やヤシの木、熱帯植物が飾られている。
建物の中央が吹き抜けのロビーには、貝がらや赤瓦でつくられた2メートルはありそうなシーサーがでんと鎮座している。
はじめての場所。それもチヒロとの旅行だ。
なにを見ても新鮮で、わくわくが止まらない。
予約したホテルのチェックインは14時なので、まだ2時間半もあった。ちゃちゃっと昼食を取ることにして、空港内のレストランに入った。
ひろびろした店内のテーブル席は、半分くらいがお客さんで埋まっている。
隣席に人がいないテーブルを選んで、着席した。
沖縄といったらやっぱりソーキそばだろう。迷わずそれを注文し、出来あがりを待つあいだ、隣に座るチヒロにひそひそと話しかけた。
「機内のどこを探検してたの」
「貨物室。ケージに入った、ワンちゃんがいたの。明かりのない、暗い場所だったわ。
ワンちゃん……何犬かわからないけど、ずっとクーンクーンって鳴いてたの。
大丈夫だよ。怖くないよーって声をかけたけど、やっぱりぜんぜん聞こえてないみたいで。
気になってそばから離れられなくなってたの」
チヒロのやさしさが溢れているエピソードに、僕の心はまたもやつかまれた。
「操縦室には行かなかったの?」
「興味はあったけど、やめておいたの」
「え、なんで」
「だって……もしも……もしもよ。機長さんたちにわたしが見えたり、妙な気配を感じたりしたら……。
そう考えると変な動揺をあたえちゃいけないと思って。パニックになって操縦できなくなったら困るでしょ」
チヒロが大まじめに話すのがおかしくて、僕は「ぷっ」と噴きだしてしまった。
笑われた意味がわからないチヒロは、きょとんと僕を見ている。
考えてみれば僕が宮古島までチヒロを連れてこなくても、彼女はどこへでも行ける身だ。
宇宙船に乗りこめば、宇宙ステーションだって行けてしまうだろう。
「チヒロはほかに行きたい場所はないの? ひとりでなら世界中のどこでも、好きなところへ行けるでしょ。
アメリカとかイタリアとかフランスとか? もしかして俺に遠慮してる?」
「ううん」
チヒロは、すぐに否定した。
「そりゃあ一生のあいだに訪ねてみたかった国や、眺めてみたかった景色はあるけど。でも、ひとりで行ってもつまらないもの。
道をききたくても、会話できないし、誰とも。それってすっごく寂しい。
感動的な風景に出合ったら、その気持ちをやっぱり人とわかちあいたい。
すごいね、きれいだねって、伝えあいたいもの」
心のなかで、僕は深くうなずいた。
たしかにそうだ。
チヒロと共感しあう喜びや幸せを知ったいまは、ひとりで何かをするのがひどくつまらなく感じてしまう。
「お待たせしましたぁ」
湯気を立てたソーキそばが運ばれてきた。
「おいしそう」
チヒロは興味深そうに目を細め、丼をのぞきこんだ。
はじめて食べるソーキそばだ。そば麺と思っていたけど見た目はうどんで、豚の角煮っぽいものが乗っている。
れんげでツユをすくって飲むと、かつおだしのやさしい味が口のなかに“ふわぁーっ”と広がった。
「おいしい?」
チヒロにきかれて、「うん、うまい」と即答する。
チヒロはテーブルに頬杖をついて、僕が食べるようすをにこにこと眺めている。
その表情がどうしてか、母さんとかさなった。
僕がちいさいころパクパクとごはんやおやつを食べているところを、母さんはこんなふうにおだやかな目をして見守っていたのだ。
「わたしね……」
くちびるに微笑を漂わせて、チヒロがこそっと言った。
「ヨシくんが幸せそうにごはんを食べてる姿、だぁい好き」
爆弾発言級の告白に、僕は「んぐっ」とむせかけた。
“だぁい好き”。
好き──ってチヒロから直接言われるのって、はじめてじゃないか?
そうだ。それとなく伝えられたことはあったけど、チヒロの口からこんなにはっきり言われたことは、ない。
めっちゃ、うれしい。
だけど照れる……。
身体がすこぶる熱くなり、頭もぽうっとなって、ソーキそばの味がわからなくなった。
残りの麺と肉を胃に流しこみ、どうにか食事を終える。
こそばゆさが抜けないまま、ロビーから外へ出た。
とたんに空気が変わった。
もわっとむし暑い。けど不快じゃない。
青々した空がまぶしくて、額に手をかざす。目の前はもうタクシー乗り場だ。
ここはバスの本数がすくないので、観光客のほとんどはレンタカーを利用するらしい。
僕は原付の運転免許しか持っていないので、タクシーを使うと決めていた。
ホテルのチェックインまでには、まだ時間がある。チヒロと意見が一致し、島内屈指の景勝地とうたわれている灯台へ行ってみることにした。
タクシーに乗りこむや、
「お兄さん、ひとり? 観光? それともアルバイト? どこから来たの?」
見た目は僕の父さんよりだいぶ年配の浅黒い顔のドライバーさんが、やわらかみを感じるイントネーションでいろいろきいてきた。
「観光です。東京から」
「東京! 都会だねぇ。東京のどこ? うちの娘ふたりもね、東京に働きに出ててねぇ」
愛想ばつぐんでガイド上手なドライバーさんと話していたら、40分があっという間に過ぎ、目的地が近づいてきた。
島のもっとも東端にある、岬の上に建つ灯台だ。
タクシーは細長く伸びた崖の上の一本道を、すいすい進んでいく。
岬の全長は2.5キロ。右は太平洋、左は東シナ海。
ドライバーさんがそう教えてくれたけど、両サイドに岩や低い木やめずらしい植物が茂っているので、海はところどころでしか目に入らない。
やがてひろびろした駐車場に入ってタクシーは止まった。5、6台の普通車がすでに駐車している。
「この先は車で行けないからね。灯台まで歩いて10分かからないから。行ってらっしゃい」
料金メーターを止めて待っててくれるというドライバーさんに送りだされて、僕たちは車止めの先の舗装された道へ進んだ。
ゆるやかにうねる遊歩道のずっと先に、青空を背景にした白亜の灯台がぽつんと突きでていた。
建物はほかになにもなく、自然だけののどかな風景が広がっている。
道の両わきの崖は地面がすこし盛りあがり、植物が生い茂っている。だから、まだ海を見渡すことはできない。
それでもターコイズブルーの空と、真っ白な灯台と、白銀のような綿雲のコラボレーションが現実離れした色彩美を生み、この景色だけで心が震えた。
海風が吹いていた。
僕のてっぺんの髪が、右側へなびいているのがわかる。
だけど横を歩くチヒロは、この世の風の影響をまったく受けずに、無抵抗の空間を歩いている。
「チヒロ。手をつないでいこうよ」
なんとなくそうしたくて、僕は左手を伸ばした。
チヒロははにかんだ笑みを浮かべながら、右手を伸ばしてきた。
おたがい軽くグーにした手をかさねあい、なだらかな坂道を同じ歩調であがっていく。
陽射しは肌がぴりぴりするほど強烈だったけど、早く海を一望したくて、進む足にしぜんと力が入った。
島のもっとも東の端に建つ灯台が近くなってくると、岬をおおいつくすように広がっていた南国特有の植物は減り、舗装道が広くなった。
岬の崖沿いは木調の柵がめぐらされている。
その柵に僕たちとそう歳が変わらなそうなカップルが海を向いて座り、おたがいの手を腰にまわしあって、東シナ海を見晴らしていた。
いいムードをじゃましないよう、僕たちはすこし先の柵へ向かった。
荒々しい波音が、急に大きくなった。
崖上のへりに設置された柵に寄って行くと──。
視界が一気に開け、目のなかいっぱいに、はるか果てで輝く水平線が飛びこんだ。
コバルトブルーの光を放つ海が、ただひたすら広がっている。
なんにもない。海、海、海、海、だ。
そして、尽きることなくつづく青空。
壮大な眺めに圧倒され、頭がくらっとする。言葉がひとつも出てこない。
こんなのは、はじめての感覚だった。
心は感動であふれ返っているのに、頭はからっぽになっていく。
チヒロもずっと無言だった。
柵に身を乗りだすようにして、真下を見おろした。
岩場がゆるやかに20m程くだり、磯に波が激しく打ち寄せている。
白い波しぶきが豪快にあがっては散り、あがっては散りをくり返す。
おだやかな沖の海とは対極の、迫力ある景観だ。
岬の突端はもうすこし先。堂々とそそり立つ灯台が目の前に迫っている。
7階建てのビルに相当しそうな高さの灯台の周囲は、牧草地のような鮮やかな緑が茂っていた。
「灯台にのぼってみようか。もっとすごい眺めが見られるらしいよ」
「うん。のぼりたい!」
晴れやかな笑顔で賛成してくれたチヒロと、灯台の前まで行った。
すると、中からばっちり化粧をした女子3人が出てきた。
つばの広い帽子をかぶり、サングラスをかけてどことなく気取っている。
セレブ女子大生か、都心のOLといった感じで、正直苦手なタイプだ。
なぜか、含みのある目つきで僕をじろじろ見ている。
参観料を払って入れかわりに入ろうとしたとき、うしろからわざと聞かせるように、
「え、ボクちゃんひとり?」
「もしかして“ぼっち旅”じゃなーい?」
「それって楽しい?」
「センチメンタルジャーニーだったりして」
「彼女にふられて?」
そうあげつらい、「キャハハハ!」と大笑いする声が響いた。
すれ違っただけだ。
なのになぜ揶揄するようなことを言われなくなくちゃならないのか。
いい気分を台無しにされ、苦い思いがこみあげた。くちびるをギュッと引き結ぶ。
すると。
僕の不機嫌面をのぞきこむようにチヒロは顔を近づけてきて、ニイッと大きく笑みを広げた。
「“ぼっち旅”じゃないもんねー」
ちょこんと首をかしげたひょうきんなしぐさで、まちがいを正してくれる。
灯台のなかは狭い螺旋階段が、ずっと上へ伸びている。茶色いステップに足をかけたチヒロは、
「無礼で嫌な人たちっ」
憎々しげにつぶやくと、ずんずん上へのぼっていった。
僕ははじかれたようになって、あわててチヒロを追いかけた。
てきめんの効果だ。チヒロが僕以上に腹を立ててくれたから、胸のもやもやが“さぁーっ”と晴れていく。
そのとおりだ。無礼で嫌な人間のことなんか、とっとと忘れてしまえ。
気分を切り替え、上へ上へとひたすら螺旋階段をあがった。
全97段。
肩で息をつぎながらのぼり切り、扉を開けてやっと展望台に出た。
そのとたん、湿り気をふくんだ強い風にビュウッと顔面をはたかれ、一瞬つむってしまった目を開けた。すると──。
想像を超える、すごい景色に出迎えられた。
崖の標高と灯台の高さを合わせて約40メートル。その高所からほぼ360度、海が見渡せる大パノラマだ。
どこまでも無限につづく、澄んだ海の雄大な絶景。
それを僕とチヒロで、独占している。