気がかりがなくなると、思い出したように空腹感が押し寄せてきました。そういえばまだ晩御飯を食べていません。
 種々雑多の魅力的な香りに誘われるがまま、私は露店通りを意気揚々と練り歩きました。お祭りに来るのは学生以来ですが、なけなしの残高の使い道を検討しながら食べ物を選んでいた時代は、今は昔。今日は食べたいものを好きなだけ食べましょう。そのために働いているのだから。
 私はたこ焼き屋さんに立ち寄り、店主さんに注文をお願いしました。軒先から調理風景を眺めて待っていると、新しく男性客がやって来ました。視界の端をよぎったその横顔に、少々驚きました。ひょっとこのお面ですっぽりと顔を隠していたからです。すらりとした長身の全体像にその頭部は何ともアンバランスで、失礼ながら私は目端で彼の動向を伺っていました。
「すみません。ここってクレジットか電子マネーで決済できますか? 現金の手持ちがなくて」
 彼がそう尋ねると、店主さんは眉間に皺を寄せました。
「できませんよ」顎をしゃくってお面を示し、「そんなもの買ってるからでしょう」
「ああ、これは境内で遊んでいた少年たちから譲ってもらったものです」
「人に話しかける時くらい外したらどうですかね」
「申し訳ないです。こればかりはどうしても外せない事情がありまして」
「とにかく、うちは現金のみです。他の店もそうだと思いますけどね」
「やっぱりそうですよね」男性はがっくりと肩を落とし、店を去ろうとします。
 その背中に私はつい同情を誘われました。あんなひょうきんな装いでありながらあれほどの哀愁を漂わせる人間を、生まれてこの方お目にかかったことがありません。店主から商品を受け取って代金を支払う間も、遠ざかる彼のことが気になってしまいます。
 短い逡巡ののち、彼を追いかけることにしました。ここは真城さんに倣って、困っている人のために一肌脱ぎましょう。せっかくのお祭りは皆で楽しまなくては。
「そこのひょっとこさん、待ってください」
 私の呼びかけに男性は足を止めて振り返ります。
「よろしければこれをどうぞ」私はたこ焼きの袋を差し出しました。
 彼は硬直したまま立ち尽くしています。しばらく二人の間に沈黙が流れました。
 そのうち私は、自分の行為に甚だしい不信感を抱き始めました。見知らぬ通行人から見知らぬたこ焼きを寄越されて、はたして誰が素直に受け取るでしょうか。少なくとも私が彼の立場ならば、このようなエキセントリックな提供を求めてはいないでしょう。彼の表情が見えないことが、この内省に拍車をかけます。
 やがて、ひょっとこの内側で彼が息を呑む気配がありました。
「……もしかして、『食堂の先輩』ですか?」
 避難や罵倒を受けることも覚悟していた私は、予想もしなかったその言葉に戸惑いを隠せませんでした。
「食堂の先輩? 何のことでしょうか?」
「やっぱりそうだ。間違いない」彼が何に納得しているのか、皆目見当もつきません。
 すると、悪気なく人を小馬鹿にしたような瞳がこちらを見据え、とある高校の名を告げました。母校です、と私が呆気にとられて反応すると、まるでかつての恩師と数年ぶりに邂逅したような口振りで彼がひと言。
「ああ。本当に帰って来てよかった」
 それから周囲を伺いつつ、私にだけ見えるように慎重にお面をずらしました。
 今度は私が息を呑む番でした。
 ひょっとこの下から現れたのは、なんとなんと、安田原さんだったのです。