広場の最前には特設ステージが用意され、その周囲にはられた規制線に沿って警備員の方々が厳戒態勢をとっています。私はなんとか人の隙間を縫って、ステージが見える場所まで移動していきます。
 その間に、壇上の舞台袖からぞろぞろと男性たちが姿を現し始めました。おそらく彼らが踊り手なのでしょうが、一人目が登壇した直後より会場にはどよめきが広がりました。ある者は驚いて目を丸くし、ある者は小さく悲鳴を上げ、ある者は面白そうに手を叩いて笑っています。その要因が、踊り手たちの出で立ちにあることは疑うべくもありません。
 彼らは皆、下帯一丁だったのです。数にして五十人ほどの成人男性が観衆への含羞をものともせず、堂々とした足取りで己の肉体をさらけ出しています。偉観とはまさにこのことでしょう。敬意にも似た思いが私の胸中を満たしました。
 しかし圧倒されてばかりいるわけにもいきません。私はじっと目を凝らし、その一人ひとりをためつすがめつ観察しました。
 そしてその姿を認めた瞬間、どきんと胸が高鳴りました。
 福々しく豊満な輪郭を揺らしながら大儀そうに歩くあの男性こそ、まごうことなき「食堂の彼」ではありませんか。まるでスマホの画像を拡大したように、姿かたちは記憶の彼そのままに縦と横に一段と成長されています。ご立派です。約六年ぶりの再会に、私はひっそりと久闊を叙する熱視線を彼に送りました。ただそうしているうちに、ささやかな違和感がせり上がってきました。
 ご周知のとおり、高校時代に私と彼との間に交流は皆無です。それなのに再会という言い方をすると、どうにも彼の意志を蔑ろにしている気がして申し訳ない気持ちになったのです。私は頭の中で乏しい知識の小山をコソ泥さながらに漁り、再見という言葉を発掘しました。それがあまりにもうまく現状に当てはまったので私は達成感に身震いし、その後で少し寂しくなりました。途端に彼との間に、距離以上の隔たりを感じてしまったからです。
 これはただの再見ではありません。愚かなる再見です。
 臆病の代償はあまんじて受け入れましょう。いくら過去を見直しても何も変わりません。見つめるだけでは無力なのです。大切なのは歴史の過ちを学びの糧とし、得られた教訓をこれからの未来に活かしていく、それに尽きるのではないでしょうか。きっと尽きるのです。
 そんなふうにやや自己保身めいた見解を思い浮かべ、慎ましく我が身の傷心を慰めていた、その時です。
 天がわれんばかりの大歓声が大地を揺らしました。観衆のボルテージが刹那的に上昇し、あまりの興奮ぶりに失神しそうになっている人さえ見受けられる始末です。男衆が整然と隊列をなしたステージ、そこへ遅れて現れた一人の人物にすべての注目が集約されています。彼こそ、安田原さんその人でした。
 画面越しに何度か拝見したことのあるお姿が、すぐ目と鼻の先にありました。真夏の熱帯夜、その中でも局所的な気温の高まりが生じている領域の真ん中で、安田原さんは黒のロングコートですっぽりと全身を覆われています。彼はステージ中央で立ち止まると、こちらを向きました。ただし、青年の精悍な眼差しは観衆ではなく、その向こう側──神社の本殿を真っすぐ見つめているように私には感じられました。その居住まいにはある種の神々しさが宿っています。
 それから観衆に目を移した安田原さんは、マイクを口元に近づけました。
「皆さん、こんばんは。シンガーソングライターの安田原です」暑さに顔を紅潮させながら、汗で額にはりついた前髪を左右に流して言います。「今日はこの場に立てたことを本当に嬉しく思います」
 彼の微々たる一挙一動にも、熱狂的な黄色い声援が飛び交っています。無数のスマホのレンズが彼を向き、シャッターや録画の音が間断なくあたりに響きます。
「少しの間だけ、ご傾聴いただけますか」
 特段大きな声量だったわけではありません。ただ、その声には確かな力がありました。彼の投じた一石で、あれほど騒々しかった会場が水を打ったように静まり返ったのです。
「これより『男衆祈雨踊り』を始めます。僕たちが生まれ育ったこの愛すべき故郷の空に、心からの祈りと感謝を込めて」
 そう言うと安田原さんは、おもむろに天を仰ぎました。しばしの沈黙が流れます。
 そして、それは唐突に始まったのです。
 何かあからさまな合図があったわけではありません。何の前触れもなく、ステージに立つ安田原さんを除いた全員が一斉にそれを始めました。まず右足の裏で床を叩き、間髪入れずに左足でも同じことをすると、区切りをつけるように胸の前で柏手一つ。そんな一連の動作を寸分の誤差なく繰り返し始めたのです。統率感のとれた、という月並みな称賛では足りません。彼らはまるでたった一つの意志によって動かされているかのような、完全無欠の律動を実演していました。
 ドン、ドン、パン。ドン、ドン、パン。
 ドン、ドン、パン。ドン、ドン、パン。
 やがて頃合いを見計らっていたように、唯一静止したままだった安田原さんが動き出します。彼は纏っているコートのボタンを外すと、思いきり宙に投げ捨てました。次の瞬間、少しなりを潜めていた会場が爆発的に沸き立ったのは、当然のなりゆきでしょう。他のメンバーに漏れず、安田原さんもまた、下帯一丁だったのです。
 神妙な面持ちでマイクを手にし、大きく息を吸いこむ安田原さん。その口から発せられたのは、英語の歌詞でした。最初のフレーズを聞いただけで私は、先ほどから漠然と想像していた曲で間違いなかったのだと確信しました。
「なんで『We Will Rock You』?」
 近くで誰かが言いました。そうです。目下ステージで演じられているのは、ロンドン出身のロックバント「Queen」の代表的な楽曲なのです。
 正直なところ、何一つわからないことだらけでした。なぜあのような格好でなければならないのか、なぜこの選曲なのか。私の持ちうる知見ではにわかに理解しがたい問題です。しかしそんな疑問を吹き飛ばすくらいに、彼らの踊りは燦然と輝く太陽のような活力に満ち溢れていました。その光は地上に渇水をもたらす災厄の源ではありません。人々に勇気と元気を与える希望の光です。いつの間にか皆が一体となって柏手を打っている光景が、それを如実に裏付けています。
 かくいう私も恍惚とステージに目が釘付けになり、ただひたすら没入していました。
 彼らの織りなす祈りの儀式に。
 そう遠くない未来に、雨が降るかもしれない。
 気づけばそんな予感が、心の片隅に芽生えていたのです。