紗雪(さゆき)、おかえり」



残業を終えクタクタで帰宅した、平日の22時。
リビングのドアを開けると、そこには満面の笑みの彼がいた。

海外にいるはずの、彼が。



「って、なんで!?どうして(しん)がここにいるの!?」

「どうしてって、飛行機に乗って帰ってきたからとしか」

「そうじゃなくて……」



清々しい笑顔で言う彼に、私は動揺を抑えるように深く息を吐いた。



高安(たかやす)紗雪、29歳。
私は都内にあるエステサロンで店長兼エステティシャンとして働いている。

エステティシャンとしての業務はもちろん、数字管理や人材育成、スタッフ管理と毎日やることは山積みだ。

けれど頑張りが売上にもつながっており、苦労も多いがやりがいを感じられている。
慌ただしくも充実した毎日を送っている。



今日も一日働き詰めで、足は浮腫むし腰は痛いしでクタクタだ。
そんな疲れを癒そうと、コンビニで缶酎ハイを二本とおつまみを買って帰宅したわけだけれど……。

玄関のドアを開けるとリビングのドアの隙間からは明かりが漏れていて、恐る恐る部屋をのぞくとそこにはスーツ姿の慎がいたのだった。



「もう……急に来るのやめてって前から言ってるでしょ。
私が出張とかで帰ってこない日だったらどうしてたの?」

「それはそれで、この部屋で紗雪の香りを堪能しようかなと」

「そっか、帰ってくれる?」

「うそうそ!冗談!」



私の冷ややかな対応に、笑いながら答える彼……最上(もがみ)慎は、普段は海外で暮らしている遠距離恋愛中の私の彼氏だ。



「改めて、おかえり紗雪」



目いっぱい愛情を表すように、両手を広げて私を待つ。
そんな慎に、私は胸に飛び込む……ことはなく。余計に増す疲労感にため息をつき、洗面所へと向かった。

 



慎とは大学の同級生で、付き合い始めてからもうすぐ10年になる。



中性的な整った顔立ちに高身長、色素の薄い茶色い髪と瞳と、印象的な見た目をした彼。

性格は朗らかだけど物怖じせず堂々としたタイプ。
その中に優しさや配慮を持ち合わせているところに惹かれて付き合うようになった。



そんな慎は就職先の外資系企業でもとんとん拍子に出世した。

元々コミュニケーション能力が高く、英語や中国語など幅広い言語も話せる慎にとって様々な国の相手と働く今の仕事は天職のようだった。



会うたびにそれぞれの仕事の話で盛り上がり、お互い今の仕事に熱意ややり甲斐を感じていた。

そんな日々を過ごして3年が経ち、仕事にもすっかり慣れ、そろそろ同棲や結婚も意識し始めた25歳の春。

慎に突然、海外赴任の話がきた。



『海外赴任!?いつから!?』

『来月。前任の急な退職でもうバタバタだよ』

『来月ってそんないきなり……』

『大丈夫。仕事辞めてついてきて、なんて言わないから。
遠距離にはなっちゃうけど、今は連絡手段もいくらでもあるし定期的に帰ってくるよ』



慎はそう笑って、私がどうしたいかも聞かずにひとりで決めて行ってしまった。

……聞かれても、なんて答えればいいかなんてわからなかったけど。



当時私は今の会社に入社して3年目で、店長として初めて店を任せられたばかりだった。

そんな状況で『彼氏の海外赴任についていきます』なんて言って仕事を辞められるわけもないし、私自身も念願叶って就いた仕事を辞めたくなかった。

そして、その状況は今でも変わらない。
むしろ年数が経てば経つほど責任や仕事が増えて、今この状態で全てを投げ捨て慎の元へ行くなんてできない。



部屋着に着替えてリビングに戻ると、慎はわたしが置きっぱなしにしていたコンビニの袋の中身を冷蔵庫に移してくれているところだった。



「あ、そういえばごはんとかなにもないけど……出前でもとる?」

「そうだと思ってちゃんと用意してある。紗雪お気に入りのデパ地下のデリ」



待ってましたと言わんばかりに、紙袋からデパ地下で買ってきたおかずを取り出して見せる慎に、それまでの疲労感も一瞬で吹き飛んだ。



「これは……銀座の名店が出してるお店の、ローストビーフでは……!?」

「そう。紗雪が一番好きなメニューだけど高いから記念日にしか買わないローストビーフ」

「最高!」



思わず大きな声を出してよろこんだ私に、慎が「しっ!」と自身の唇に人差し指をあてて黙らせる。

その仕草から今が夜遅くだと思い出した私は、ハッと自分の口を両手で覆った。

そんなやりとりにお互い吹き出し笑い合い、私たちは夕食の支度を始めた。


 



慎が海外に行って5年。

普段私たちは空いた時間にメッセージを送ったり、たまに電話をしたりとこまめにやりとりをしている。

そんな中で慎はときどき、こうしていきなり帰国することがある。



いきなり来て食事をして、一泊したら次の日には戻って行く。

毎年年末年始にまとめて休みをとって帰国しているんだから、そんなせわしないスケジュールで来なくてもいいのに。



慎と話すうちに食事を終え、買ってきていた缶酎ハイも空になった。

本当はまだふたりで飲みたいところだけれど私は明日も仕事だ。
時間に追われるようにお風呂に入って寝る準備をすると、時刻はもう0時を過ぎてしまった。



「私、明日も朝から仕事だからもう寝るよ。慎は明日は?」

「明日の昼の便で帰る。向こう戻ったらすぐ仕事だからさ」



そっか、明日の昼にはもう……。

胸の奥に小さく込み上げる気持ちを見ないふりをして、ベッドに入ると、慎も続いて同じベッドに入った。

いつも窓際が慎の定位置だ。
それをわかっていながら、私は自然と彼に背中を向けてしまう。



「もっとちゃんと事前に予定立ててから来ればいいのに。
そしたら私だって休みくらい合わせられるのに」

「そうなんだけどねぇ、衝動には抗えない性と言いますか」



よくわからないことを言いながら、慎は私の背後で、ここ半年ほど伸ばしっぱなしの私の髪に指を絡めて遊ぶ。



「前に会ってから3ヶ月ぶりだね。紗雪、寂しかった?」

「全然。毎日忙しくて慎のこと考える暇もないよ」

「それはそれは……いいのか悪いのか」



おかしそうに笑っている声から、慎が肩を揺らし笑っているのがわかる。



「けど、仕事は楽しい?」

「うん、まぁ」

「そっか、ならよかった」



優しく穏やかな声から、まつ毛を伏せ笑っているのであろうこともわかる。

慎の声ひとつで表情や仕草が想像できてしまうくらい、慎のことはよく見てきたつもりだ。

ところが、「けど」と付け足すような声が少し落ち込んでいて耳に留まる。



「たまにちょっと考えちゃうんだよね。
そのうち紗雪の中で、俺が消えちゃうんじゃないかって」



ぽつりと呟くその言葉に、驚きから思わず慎のほうへ体ごと向けた。

そこにあるのは、左腕で頬杖をつき、少し困った表情で私を見る慎の顔。



「な、にそれ……慎でもそういうこと、考えるの?」

「たまにね。紗雪は浮気とかする人じゃないからそういう点での不安はないよ。
……けど、いつか俺が必要ないってことに気付いて捨てられるんじゃないかって思うときがある」



窓から入り込む月明かりが、背後から慎の輪郭を縁取るように照らしている。
その光が彼を儚く見せて、この胸を不安で揺らした。



「不安になって気になって、気付いたら飛行機のチケット買って空港に走ってる。なんて、女々しいよね」



はは、といつものように笑ってみせる。
けれど、その声がどこか心細そうに響いて私のほうが泣きたくなった。


 



それが、いつも急に帰ってくる理由?

いつも明らかに仕事の後の格好で、着替えひとつも持たないで。何時間もの空を越えて、私に会いにきてくれる。

慎だって疲れているのに、忙しいのに。
お金も時間もかけて、私の心に留まりたいと願ってくれている。



「慎……」



ふたりベッドに横になったまま、私は慎に手を伸ばす。

そして中指の先で、キメの細かい肌をした彼の額をピンッと思い切り弾いた。



「いった!!」

「慎のばーか」

「バカ!?今のムードの中でそれ言う!?」



しっかりと当たった感触から、痛かったのだろう。
額を押さえて言う慎に、私はその目をまっすぐ見つめた。



「慎のことが頭から消えてくれないから、考えないようにしてるんでしょ」



私の心から慎が消える?
いつか必要ないって捨てる?

いっそ、そうなれたらラクなのにね。



『寂しかった』なんて言わないよ。
だって、言葉にしたらもっと寂しくなる。

慎のことなんて、考えないよ。
だって、考えたらもっと会いたくなる。

本当は、海外になんて行かないでほしい。
もっと一緒にいたい。

些細な出来事も、きれいな景色も、美味しいものも、全部分かち合える距離でいたい。



だけど、慎も私もお互いに仕事が大切で、寂しさに耐えるこの時間が未来につながると信じているから。
だから、ワガママなんて言わないで精いっぱい強がっていたいんだよ。



言葉にできない、だけど胸を埋め尽くすほどの気持ちが抑えきれず涙となってあふれてしまう。



「紗雪……」



慎はそんな私の頬に手を添え、指先でそっと涙を拭う。

濡れた頬を撫でてくれる、そんな人がいるのは幸せだ。
だけど、この幸せを感じるほどにつらくなる。

だって、明日にはまた離れてしまう。

どうしようもない寂しさが胸を襲い、立ち上がれなくなってしまいそうになるから。



「だから、会いになんてこなくていい……」



精いっぱい声をしぼり出すと、いっそう涙がこぼれた。
すると慎は私を抱きしめて、濡れた頬にそっとキスをする。



『ごめん』も『寂しくないよ』も、ふたりの間にはもういらない。

全てを投げ捨ててそばにいられなくてごめん、
だけど寂しくないよ、

そう何度も何度も言葉にし合ってきたから、十分伝わりあっている。



きっと明日の夜、私はまた泣いてしまう。

ひとりのベッドで慎の体温を思い出して、寂しさに心が折れそうになりながら。



だけど、この日々にいつか終わりがくると信じているから。

『行かないで』
『そばにいて』

その言葉たちを飲み込むんだ。




涙で、彼の服の胸元が慣れていく。

彼といるこの夜が明けませんように、と。

今はただそれだけを、願っている。




end.

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